『近世自殺者列傳 全』再生外骨編纂

 近世自殺者列傳

 編纂者 再生外骨

 造物主の配劑として總ての動物には生殖本能と共に生存慾を賦與し、色氣と食氣で子孫の繼續計らしめる事になつて居る、それが人間には生存慾の外、特に權勢慾名譽慾等かせ加つてドタバタと走り廻り、一日でも永く生きたいとあせツて居るのである、然るに世間には自分で自分を殺す變態者が多い、其生存慾を放れ、色氣と食氣を棄てる造物主の特別配劑と見るべき性能の自殺者、「とても生きては居れぬ」とする場合、面目がなくてといふ社交上、食ふに困るといふ政計上、敵に殺されるといふ爭闘上、病苦に堪えへないといふ比較上などの自殺、又「いツそ死んで意志を達したい」とする場合、節義の諫死、戀愛の情死、哀悼の殉死などいふ犠牲的の自殺、尚又「忌々しいから死んで見せる」といふアテツケの自殺、「死んで名譽を存したい」といふ衒氣の自殺「總てが思ふやうにならぬ」といふ厭世の自殺、「早く極樂へ行きたい」といふ迷信の自殺、此外ワケもない發狂者の自殺、古來何十萬といふ此多い自殺者中、特に明治初年以來の有名な人、評判になつた人を撰抜して例の興味本位に編述したのが此書である、造本主の配劑、其宜しきを得て居るか否かは判らない

 二-三頁
 川路聖謨 勘定奉行 明治元年(慶應四年)三月十五日自殺 享年七十二

 徳川幕府の世臣、初めは彌吉と稱し、後に三左と改め、左衛門尉に任ぜられて、勘定所の小役人より寺社奉行に轉じ、彼の有名な仙石騒動の裁決にも關係して、奉行脇坂安董と共に虚無僧友鵞こと神谷轉を助けて奸臣仙石左京を誅した人である。それより佐渡奉行、小普請奉行を經て勘定奉行に昇進し、魯國使節、米國使節等に接して臨機の所置に功もあつたが、『續愛國偉蹟』に記す所といふを見るに「聖謨前後外事ニ鞅掌シテ掣肘堅塁、終ニ其志ヲ得ルコト能ハズ、後チ西城ノ留守役ニ遷サレ、尋テ戊午黨人ノ獄ニ坐シテ職ヲ遞ハレ、自家ニ屏居シ、世事ヲ憤リ自殺ス」とある
 此戊午の黨人とは、安政五年に徳川十四代將軍を選定の際、一橋派と紀州派の爭があつて、聖謨は一橋派であつたが、紀州派が勝を制して家茂が將軍に成り、其時騒いだ黨人の一として捕はれ免職になつた、其後自宅に蟄居中、維新の革命が起つて太政返還と成つたのを世事悉く非なりと憤慨して、自殺を遂げたのである、要するに佐幕根性の失せない政治的發狂者であつた
 此年十一月十四日、作州津山藩士植原六郎左衛門といふ者「兵法火術に妙あり、維新の隆盛に尊王論を主張すれども、藩の容るゝ所とならざるを慨嘆し自ら腹を割く」といふ事もあつた

 『海舟全集. 第九卷』

 355-356頁
 三六 川路左衛門自盡 明治元年戊辰

川路左衛門は微賤より出身し良吏且才幹の名最高し戊辰の際病に臥して足立つこと不能街説紛々終に戰闘の勢遁るへからすとおもひ其子孫等の煩を顧み遺言して病床に自盡す其の心裡可憐也
  其自盡は納城の日なりといふ

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引用・参照・底本

『近世自殺者列伝』宮武外骨 編1931
『續愛國偉績 下』小笠原勝修 著(五十三): (愛国偉績. 続 巻之下)
『海舟全集. 第九卷』
(国立国会図書館デジタルコレクション)