『明治維新 上卷』近代日本歴史講座[第一册]法學博士 尾佐竹 猛著

 第一篇 總 論

 三-二六頁
 第一章 維新史の取扱ふべき年代

 明治維新史を研究するに當り、劈頭に横はる前提問題は、そもそも明治維新とは大體、何年頃から何年頃までを指すのであるか、維新史の取扱ふべき範囲如何といふ、即ち、その始期と終期とが、研究の對象として必要なのである。
 數多くの維新史研究書が、この點を漠然と考へて居るかの如き觀あるは遺憾である。
 昭和六年三月十一日付發布せられたる文部省訓令第七號、師範學校教授要目、國史の部には「大政奉還」「明治維新」「明治初年の外交」と並記してある。文部省の根本思想は明確を缺くがこの「大政奉還」に因つて封建制度は結末を告げたるものとし、次いで、明治新政府の成立を、「明治維新」といふのらしい。而して「明治初年」といふのは、明治時代の初期、若くはその出發點といふ意味であり、これも時に依り明治維新の一部と解するが如くでもある。
 東大史學會が當代の學界を總動員して編纂したる「明治維新史研究」は當然この時代的區分に觸れるべきであるが、一二學者を除くの外は殆んどこの重大なる問題を閑却といつては語弊はあるが、何等論及せられてないのに失望を感ずるのである。然るにまた一方本庄榮次郎氏編纂の「明治維新經濟史研究」は史學會の右の書と相對する經濟史觀の大著であるが、その取扱はれて居る題材の範囲では、明治十四五年にまで及んでおり「明治初期」といふ語を用ふらるゝ論文多く「明治初期經濟史研究」に「幕末經濟史研究」の一部を加へたものと見ても宜しいのである。勿論此書は始めから一の目標の下に編纂せられたといふよりも、寧ろ既出の諸論文を一括するに便利な標語を選ばれたといふ傾きはあるのであるが、由來、經濟史家の解する明治維新といふ年代的區分は、正統維新史家のそれよりも廣いのを常とするのである。
 最近、野村兼太郎氏が、
 明治維新を經濟思想史の立場から見るに、大體天保の改革の失敗後即ち弘化以後、明治十年頃までの三十數年間を指すと見てよからうと思ふ。(「社会経済史學」第九卷第一號)
と述べられたのは、經濟史家の間に於ても、新たに一説を樹てられたものである。
 正統維新史家藤井甚太郎氏は、その著「明治維新史講話」に於て、維新史の時期に付て、幾多の考案を述べられた。
曰く
 幕末外交の歴史より見れば、幕末六年(皇紀二五一三)の米艦渡來を以てするも合理的であらう。
 社會變革の歴史より見れば、天保八年(皇紀二四九七)大鹽平八郎の亂を以て初筆とするも合理であらう。
 洋學發達の歴史より見たならば明和八年(皇紀二四三一)小塚原の腑分を以て初めとするも合理であらう。
又その終期は
 慶應三年(皇紀二五二七)十月、一五代將軍徳川慶喜の大政奉還を以て終とするも一理あるし同年十二月王政復古大號令の渙發を以てするも亦一理である。
 下つては明治四年七月(皇紀二五三一)の廢藩置縣を以てするも一理。
 又其の影響の消えて新たなる時期に移つた明治十四年(皇紀二五四一)の十月國會開設の大詔渙發せられた時を以てするも一理がある。
とて、いろいろな説が想像されてあつたが、氏自身の説としては
 自分は種々の點より考察して嘉永六年米國水師提督ペリー渡來より明治四年廢藩置縣に至る十八年間を以て本期の時代と定め、前後數年間を前期の時代、後期の時代と心組して講述せんと欲するのである。
といふので、これは氏の奉職せらるゝ維新史料編纂局の方針と大體に於て一致するやうである。即ち維新史料編纂局は
 弘化三年二月孝明天皇ノ踐祚ヨリ明治四年七月廃藩置縣ニ至ル
との方針に基づき編纂せらるゝのである(同局編纂の「概觀維新史」にも此旨明言されてある)。これは孝明天皇の踐祚は、ペリ渡來七年以前であるが、ペリ渡來以前の外艦渡來等の外交問題の生じたことをも包容するに於て、年代の區分の明確ならざるところから、御踐祚の年としたのであらうと思はれる。それにしても中核はベリー渡來といふことが動かぬところである。
 大川周明氏は「日本二千六百年史」に於て
 明治維新は安政六年(嘉永の誤ならん)ペリー提督の來航より慶應三年徳川慶喜の大政奉還に至る十五年間を改造前期とし、それより明治二十三年國會開設に至る十年間を改造後期とし、實に前後四十年に亙る苦心經營の結果として成れるもの
といへるのは、藤井説の理論的發展と類型を同じくするのである。私も甞て、明治維新を憲政史的に觀る時は、幕末外艦渡來より、憲法發布、國會開設迄を指すべきでもるとの説を述べた(拙著「日本憲政史大綱」幷に「日本憲政史論集」第一章明治維新の憲政史觀参照)のは、立論の根據を異にするとはいへ、結論に於ては、同一に胡した譯である。
 最近、維新史料編纂局の「維新史」五卷の完成を報じたる「新愛知」新聞が
 ▶維新史全五卷に網羅するところは、孝明天皇践祚の弘化三年二月から、廢藩置縣の斷行された明治四年七月に至る二十五年七ケ月の多彩の足跡であるが、廢藩置縣で結末したことは聊か物足らなさを感ずる、慾をいふと明治二十三年十一月帝國議會開院式までほしかつた。
 ▶議會政治への繋りがないといふことは、いかにも維新史の完結といふ氣分になれない。
 ▶殊に明治大帝の議會行幸御順路御變更の大御心のごとき議會政治不振の現代、特に拝承すべきである。
との意見を述べたのは、理論的でないとはいへ、常識的要求を代表しての言である。恐らくは斯る意見は漸次有力となることであらう。
 そもそも公的に定められた時代的限界の始めともいふべきは「復古記」の編纂年代である。即ち「復古記」編纂の命は
 丁卯十月大政奉還ニ起リ戊辰十一月東京臨幸、鎭將府ヲ廢シ大政歸一ニ終ル
といふのであつたが、それでも同記は外記として、東海、東山、北陸の戰記を附載して居る。これが、復古記自體がその區分に滿足せなくて、これを廣げたい意圖のあることが明瞭で、これが後年幾多の異説を生ずると同じ惱みであつた。これは「概觀維新史」が前述の如く年代的限界を定めながらも、猶ほ
 常に廢藩置縣を以て筆を擱かうとしたが、終に封建武士の餘勢が一掃せられた西南の役に及んだ。然れども版籍奉還後の記事は展望標記の略述である。しかして地方官會議が開かれ府縣會が起され、次いで國會開設の運動となり、明治十四年の大詔渙發によつて帝國議會の開設期が確定し、其の前年即ち明治二十二年帝國憲法發布等にも説き及ぼしたいのであるが、それは別に詳を盡し、題して明治史と稱すべく、宜しく、これを維新史の埒外に置くべきである。
ちあるのも同様の惱みである。これとは直接關係はないが、昭和三年に文明協會より出版せられた「明治戊辰」は、筆を明示元年(慶應四年)に集中しての叙述は右「復古記」と系統を同じくするものと見てよからう。
 こゝで、この時代的區分をなすに付て、先づ、王政復古といふ語と明治維新といふ語とを考察して見る必要がある。これは屡々言ひ陳されたる如く、復古と維新、即ち新と古とが、單に現狀打破に於てのみ一致したために、復古即ち維新と解せられたが、間もなくこの新と古とが分離して明治初期の幾多の政變の背景を爲すのであるが、抑々の初めは王政復古、一點張りであつた。そこでこの時代には、慶應三年十二月九日の王政復古の大號令、または同年十月十四日の大政奉還を以て、今日解する明治維新の意味に解して怪しまなかつたのである。しかも實際其局に當つた人人は、これだけでは滿足せず、明治二年の版籍奉還から明治四年の廃藩置縣に至つて、「維新の大業初めて全し」と喜んだのであつた。即ち實際政治家は廃藩置縣を以て明治維新と解したのであつた。
 然るにこれには滿足せざる他の實際政治家は、明治維新の理想は、一君萬民の政治である。然るに何事ぞ、封建の殘存物たる藩閥が、その中間に介在するのはこれ維新の理想に反するとして、自由民権の叫びを擧げたのである。ここに於てか、藤井氏の掲げた明治十四年説も成立つのである。服部之總氏の「明治維新史」が明治十二年を終りとし民選議院設立建白から府縣會設置、琉球廢藩までを取扱ひ、森谷秀亮氏が
 維新史の展開を憲政史的に見る時は、尾佐竹が述べたやうに獨裁政治から公議政治への推移と考へることが出來る。(「歴史地理」第六十五卷第一號「明治維新の解釋に就いてて」)
との一説を述べられてあるのは、この系統に屬すると見てよからう。また黒板博士が、攘夷開港時代、明治時代、大正時代、昭和時代を總稱して、憲政時代(「國史の研究」)としたのは、この派の發展であり。「明治維新經濟史研究」が明治十四五年迄を目標として居るのはその立論の立脚點は異るとはいへ、正にその年代的限界に於ては、同様様と見て宜しいのである。
 一面、王政復古一點張りの時代にあつて、めいじ新政府は「百事御一新」といふ語を用ひて居る。(今日中老以上の人が、御一新といふ語を用ひて居るのは、御維新の訛りでなくて、正しく御一新のことである)百事御一新即ち根本的大改造といふことは將來の方針
として、宣傳せられ、これから百事御一新であるぞといふのであり、過去を顧みる語ではなかつたのである。此「御一新」が維新の語となり、それでも初めは王政復古の語と妥協して、王政維新といつたのが、終に明治維新の熟語となり、王政復古の語の王座に替つたのであつた。
 一にも維新、二にも維新で、過去を破壊し、將來の建設に向つて突進したのであつたが、版籍奉還から廢藩置縣と大變革があり、一方歐米文化の目まぐるしいまでの移入には、當時の人心は、正に過去幾百年にまさる大刺激を受け、この大變動と徳川時代と比較するに眞に雲泥月鼈の差のあるに驚き、
この差異の因つて來りし時期を顧みて、こゝに明治維新の語が新しき意味を生じたのであつた。
 これには明治元年といふ語がまた、新たなる眩惑を來たしたのであつた。
 その初め慶應四年を明治元年と改元したときは、從來の改元よりは多少の重要性を有して居つたのであるが、それでも當時の人心は後に考ふる程、重大なる魅力を有しては居らなかつたのであつた。然るにこの囘顧期に於てこの改元を以て、時期の區劃とし、凡てが明治元年に改革せられ、その以前と全然別種な文化が創造せられた如く感じたのであつた。そして、幕末史と明治史の限界を此上に置いたのであつた。即ち明治維新とは、幕末史と明治史との接合線をいふのであり、一の想像「線」であり、非化學的の語を用ふれば所謂「幅」のない線であつたが、稍具體的となつてはその「幅」はといへば明治元年といふのでこれも、想像の「幅」であつた。この「幅」を如實に説明せんとして、特種の區分を設けたのが、前掲「復古記」であつた。しかし世俗一般では依然、右の想像線を以て滿足し、近年にまで及んだのであつた。これ一は、幕末史と明治史とが聯絡なく、別々に研究せられて居つたから、この想像線が永く生命を有して居つたのである。一歩進めていへば我國の歴史の書き方は大政奉還を以て終りとし、明治史の纏つたものが起らなかつたから、いつも、この兩者の限界が明瞭を缺き、明治史は幕末史に足を入れず、幕末史はまた明治史に遠慮して居り、その遠慮は遂に明治元年といふ改元にまで遠慮し、その以後に筆を容れず、明治維新を雲烟の彼方に望んで居つたに過ぎなかつたのである。
 しかし斯かる變態は學界として永く許さるべきにあらず、近時明治史の研究の盛んとなるにつれ、幕末史を以て、明治史の前提として研究し、また幕末史は少くとも廢藩置縣頃まで研究することゝなり、此兩者の交錯遅帶を[一字不明]づくるに「維新前後」といふ語が用ひらるゝに至つたのである。而して此語の前驅を爲すものに「幕末維新」といふ語がある。しかし、これは幕末史を主として明治史に踏込んだのであり、「維新前後」といふのは、寧ろ、明治史を主として幕末史に入り込んだ形である。
 これが所謂「明治維新の幅」なのである。想像線たりし明治維新が、こゝに現實の「幅」を持つに至つたのである。此の幅を何時頃から何時頃までと測定すべきかゞ冒頭に提出した本問題である。
 然るに、經濟史観の維新研究が盛んとなるに從ひ、明治維新は産業革命なりや否やが論爭され、次いで半封建論爭となり、その結論の如何に依り、所謂明治維新の「幅」が、随分擴張されるのである。
 こゝにもまた非化學的な語を用ふることを許さるゝならば、私は明治維新を以て産業革命なりや否やの論争は、「明治維新の厚さ」の議論と見るのである。これは「深さ」といふ方が寧ろ適切であるが、私は「幅」といふ語を用ひたから、こゝには「厚さ」といふのである。勿論「厚さ」の解釋如何は「幅」にも影響するのであるが、私は主として「厚さ」として研究すべきものと思ふのである。故に、前掲の藤井氏の擧げられたる幾多の説は、維新史の厚さの相違であり、また、羽仁五郎氏が「明治維新史研究」に於て(「明治維新史解釋の變遷」)、
 (一)明治維新は建武中興―大化改新―神武創業への理想の完成による王政復古であるとする解釋
 (二)明治維新は諸雄藩、殊に薩長による幕府の代替であるとする解釋
 (三)明治維新は西郷、大久保、伊藤、大村、山縣等諸藩内に於ける優秀なる下級士族の、夫々の諸藩への、從つて幕府への反抗運動の成就であるとする解釋
 (四)明治維新は、幕末黑船の襲來に對して起された國民的勃興の運動に基くものであるとする解釋
 (五)明治維新は徳川封建幕府の財政上の破綻に基く自然的瓦解に基くものであるとする解釋
 (六)明治維新は、封建社會より資本主義社會への必然的な轉囘點であるとする解釋
を列擧せられた現在の維新史觀とあるのも、即ち、維新史の「深さ」「厚さ」の研究の各型であり、高橋龜吉氏が同書に於て(「經濟史上に於ける明治維新」)
 封建經濟の改善としての資本主義經濟を採らんとしたのが明治維新である。と述べられたのも、いずれは「厚さ」の問題である。
 マタ秋山謙藏氏が「明治維新史觀の變遷」(「歴史教育」)に於て、明治時代の維新觀は保守的、神秘的、倫理的、宗教的、國粹主義的であり、大正時代には文化的となり、昭和時代には
 曾つて一つの信仰の對象にさへも見られた明治維新は、こゝではもはや近代日本の出立點として、また封建社會より資本主義社會への轉換點として理解せられ と説かれたのも、要するに維新史の「深さ」「厚さ」の變遷觀である。
 こゝにまた關榮吉氏が「明治維新史の方法論」に於て
 「明治維新」と「資本主義的政治革命」とを分離してしまふことである。元來明治維新史と資本主義的政治革命史とは別物である。其の歴史構成の動機、立場、方法が全然別個のものである。二つの歴史の間には何等本質的連關はないのである。たゞ事實としては年代的に(時代的にあらず)兩者は交叉するかも知れぬ。しかしそれは單に偶然的關係に過ぎない。かく別個のカテゴリーに屬するものを強ひて結びつけようとしたところに、ヂレンマの原因がある。
とあるのは面白い觀方である。しかし、これも私の俗的論法に依れば、維新史の「幅」と「厚さ」を混合すべからずていふのと同じである。つまり、いろいろな説はあるが、明治維新は封建の終末といふことに於て一致するのである。王政復古のスローガンの下に起されたる大運動も、結局は封建破壊運動
であつて、建設的意味は乏しかつたのである。明治維新の語が王政復古の語に取つて替つたのは、何等かの建設的新味はあるやうであるが、これは言葉の眩惑であつてその内容は舊物打破が文明開化のモットーの下に行はれたに過ぎなかつたのである。從つて建設的意味を後に求めて、前述の明治十四年説又は憲法發布説さへも生ずるのである。
又産業革命説を探るのも、明治維新が即ち産業革命であるといふ説と、明治維新は單に産業革命のために道を開いたに過ぎぬ、眞の産業革命は後年であるとの説との論爭でも、兩者は封建經濟の崩壊といふ點に於ては一致して居り、ただその建設的意味に於て、意見を異にして居るのであるから、これもまた明治維新は、封建の終末であるといふカテゴリーに入れても差支へないのである。
 即ち繰り返していへば、明治維新は破壊的方面と建設的方面の兩面を有するが、その建設的方面に於ては諸説區々であるが、その破壊的方面に於ては諸學説が略〻一致して居るといへるのである。而して、その破壊的意味こそ明治維新の中核である。故に破壊的方面より觀て封建の終末即ち明治維新であると解し、これが同時に建設的なる明治史の出發點と觀るべきである。
 斯る立脚点から觀ると從來の尊王攘夷から轉じた王政復古といふ語は封建の破壊的意味を多分に含有し、明治維新といふ語は寧ろ建設的意義を包含するが如く解せらるゝが、破壊は即ち建設の第一歩であり、既に或るものが建設せられて居る今日から見て、その第一歩たる明治維新の語を用ひて、同時に破壊的の一面を物語らしむることも差支へはないのである。王政復古の語の盛んに用ひられた時代は封建破壊に急なるときであり、封建破壊の廃藩置縣後には、明治維新の語が盛んに用ひられて居る。王政復古の語の盛んな時代には、明治維新の語は將来の建設を目標とした副次的意味であつたが、今日その目標たる或物が建設せられたときから遡つて顧みれば、破壊時代の王政復古の語は影が薄いのである。
 しかし斯くはいふものゝ封建の終末といふことの時期が、また問題である。封建の終末に達するには一朝一夕ではない、永き年月を經過して居り、またその終末が愈清算される時期も幾多の歳月を要するのである。大なる封建たる徳川幕府は倒れても猶小なる封建國家群たる二百六十餘の大名は儼存して居り、これを破壊するため版籍奉還で上手に行かず、漸く明治四年の廃藩置縣に至つて破壊せられたのである。が同時に徳川幕府を倒すために努力した大名、士族級も躓いて自ら破滅するの羽目となつた要因は、經濟史觀の最も得意なる鋭意鋭き論鋒ではあるが、此期を以て封建の終末と見るのが普通のやうである。
 尤も近時は廃藩置縣の意味を擴張して、西南戰役を以てその時期とするものもある。西南戰爭は鹿兒島藩の廢藩と見るのである。庶民兵なる徴兵が封建正規兵たる薩摩武士を破り、そしてこの戰爭を一轉機として、武力に依る政權爭奪は絶望とされ、言論政治が擡頭し來る重要なる憲政史の劃時期である。更に法制的には明治十二年の琉球廃藩を以て、廃藩置縣と見るも合理的である。しかし、封建性は制度的に絶滅したとはいへ、その思想、その勢力その社会情勢は直ちに消滅するものではない。そこで、封建性の影響が、實際的に觀亡んだ時期、而して新文化のこれに替つた時期としてはそれぞれ専門的に説は異るのであるが、これを綜合しての大なる線は、明治十八年頃であることを私は屡々主張して居るのである。そこでこれを實證するため座右の新聞から明治十八年の部分を見ると、第一に目につくのは、士族階級の零落である。没落である。試みに、その二三の記事を摘錄せんに、
 一、不景気は何國も同じことなるが、江州地方にては殊に舊藩士族の向に多くありて、就中祿高の餘計にありし輩は却て糊口に窮するより、廉耻も何も構ばこそ、娘は素より女房も寡婦も或は權妻月圍と化てをりしが、打續く一般の不景気にて權も圍解放せしかば、是迄月々幾許かの給金取て朝浴もののお嬢も後室も直と困り、此頃では娼妓にもあらず下婢にもあらず娘妻では尚更なしと云、一種無類の生白き化物イナ賣物が陸續と大津へ來り云云。(四、一九、日出新聞)
一、近年士族の困難を極めたるは何方も同一なるが、頃日福井縣よりの通信を見るに、目下同縣士族の困難は殊に甚だしく、現に舊版の頃には随分重職を帶び、威權のありし者にてさへ、乞食となりて哀を人の門前に乞ひ、其妻たる者等は言ふ可からざるの醜業をなして僅に露命を繋ぐあり、時勢の變遷とはいひながら實に見るに忍びざる惨狀なりといへり。(一九年一、三一、朝野新聞)
とあり、また明治十八年三月、内務省御用係村田豐の内務卿山縣有朋に提出したる報告書に依れば
石川縣の士族に至つては、其の窮状最も甚しきものありしが如く。報告書は當時金澤區内に於て窮民救助の爲めに行はれる炊出しに先を爭つて粥の施與を受ける窮民中に多數の士族あり、中には舊藩時代百石以上の所謂大身の者も混ぜる事を記し、更に同縣管内に在る合計六十四の金融會社又は私立銀行が、不景氣の爲め全部破産又は閉店し之が爲め公債證書の賣却金や貯金を擧げて之に預金し、其の利息にて生活をして居た多數の士族は悉く極度の困窮に陥りし事實を述べ且つ「是に由て之を考ふるも、管内士族の窮迫は實に甚しきものにして、其の極現に市街村落に徘徊して食を乞ひ又は炊出しの施與を受くるの惨狀なるにも係はらず、唯失望の餘り發狂し、又は二三の自殺者あるに止り、他に不穏の形跡なし。かの強盗の數の減ずるありて増すことなきを見るも、亦以て士族の氣力全く衰耗せるを窺知するに足るべし。然れども本縣士族の困窮は決して現在の度に止るものにあらず、將來益甚しきを加ふるや必然なり」云々と記してある。(「士族授産の研究」七三、七四)
とあり、眞に氣の毒の至りである。その始め士族の常職を解かれ、次いで祿に離れたのは、沒落の第一歩であつたが、直ちに、其日から、生活に困るといふ程ではなかつた。「士族の商法」といふ語を以て嘲笑せられながらも、商業を營むだけの資金もあつたのである。その或者は農商に歸したものもあれば、俸給階級に轉じたものもあり、政府も士族の授産に努力したのである。その成功と失敗とは數年後の結果に俟つたのであるが、それも十年近くの年月を經ると、一部の成功したものは成功したが、大部分は歿落したのである。その極度が、明治十八年頃となつたのである。初め秩祿公債から金祿公債となり、明治十一年にこれが行渡つたのであるが、その當時の狀況としては
「士族の大多數は祿制廢止の結果交付せられた金祿公債證書を擁して、漸く何等かの産業に着手し若くは着手せんことを計畫しつゝありしものであつて、彼等の生活窮乏は此の時より數年の後彼等の就産事業が漸次不振に陥るに至つて漸く深刻となりしものである。」(「經濟史研究」第十五卷第二號吉川秀造氏「祿制廢止直後に於ける兵庫縣士族の就産狀況」の一節)
とあつたのであるが、明治十八年頃に至つて、一般財界の不況と共に一溜りもなくドン底に陥つたのである。
これに反し、文明開化のモットーの下に、新文化新事物の移入は目醒しいものがあつた。
近頃は色々の流行物あり、競爭の流行あれば景物の流行あり、中に喜ぶべき流行は、洋書と洋服の流行なり、府下の新聞廣告を見るに續々と洋學獨稽古など題する書籍の發兌あるかと思へば、洋學の字書も日毎に出版になり不景気々々々といふ中に、是が皆賣れるのかと聞けば相應に捌ける由、して見れば漸く洋學の必要は今日に至りて世人の腦中に染みたりと見へたり。此風潮に簸動されしにや近此洋服を衣る人の頓にふえたるは最も著しく洋服裁縫師の多忙なるは勿論、古着類の不捌けにも拘はらず洋服の古着は田舎廻し頓に増加せり、されば日影町などの店前へ吊したる洋服も賣捌け方特に宜しく、從來此の洋服は別に此れのみ拵へ居る人あつて、羅紗の小切れを買集め綴り合せて「ズボン」或は「コート」を製し、之を諸店に卸して店頭に吊して賣捌く例なりしが、其中身には糊付けの處もあり、繼ぎ端縫ひし處もあれど、一時の急を濟ふ爲めに之を買ふ物も多しと見ゑ、職人は常に手廻らぬ程なりと、此等の流行にても漸く世の風潮文明の俗に傾かむとする勢あるを知られ、我れも人も喜ぶべきなり。(一二、三、朝野新聞)
とあり、一般の情勢としては
 「中學各地ニ起リ以テ大學ニ入ルノ階梯ヲ爲シ、之ニ加ルニ各地方ノ人々ガ其地方ノ風氣ヲ作興シ、將來ヲ得セシメンニハ教育ニ由ラサルヘカラサルヲ明知シテ、其舊藩地ノ爲メニ其故郷故山ノ爲メニ學校ヲ興隆シテ、以テ子弟ヲシテ教育ヲ受ケシメンコトヲ望ミ、鹿兒島、山口、佐賀、米澤等ヲ初メトシ、凡ソ至ル處ニ學校ヲ起ルコト靡然其風ヲ成セリ。云々
 宗教ノ事ハ該年ヲ以テ其ノ面目ヲ一新シタリト謂フベシ。是ヨリ先ニ教導職ヲ廢スル所ニシテ既ニ一般ノ輿論トナリ、理勢然ラザル可カラザルヲ以テ政府ハ該年八月ヲ以テ斷然神佛教導職ヲ廢シテ更ニ各宗ヲシテ自ラ其寺法ヲ定メ、自ラ其ノ宗規ヲ立テ自ラ其ノ管長ヲ選擧セシメ、要スルニ宗教ノ自爲ニ任セ、政府ハ更ニ之ニ交渉セザルコトヽ定メラリタリ。是輿論ノ稱讃スル所ニシテ、特ニ吾曹ハ主トシテ此事ヲ論ゼシ者ナレバ最モ是ヲ喜ビタリ云々。(一、七、東京日日新聞) とある。
 風俗方面に於ては「ジャンギリ頭をたゝいて見れば文明開化の音がする」との俗謡にもて囃された斷髮が、略〻、全國的に普及したのは大體明治十八九年頃である、(史料は餘り多き故省略)明治政府が革新の第一着手として奬勵し、地方官もまた全力を擧げて努力した斷髮も、その當初に於てはなかなか容易なことではなかつたのである。しかも一方、時代の尖端を行く鹿鳴館のダンス(舞踏)は明治十七年以來毎週日曜日に行はれヤンソンなるものを舞踏教師とし、幹事長鍋島侯以下貴女紳士七十餘名の舞踏練習會であつたが、續きて東京舞踏會となり、日夕狂舞宴樂したのであつた。
 貴婦人舞踏は追々盛んに行はるゝを以て、自今學習院及び女子師範學校に於ても、學科中に舞踏の一科を加へんとて、目下各貴顯中にて専ら協議中なりと、又某貴顯には府下に一の舞踏練習所を建設せんと計畫し居る由。(ニ、一三、東京横濱毎日新聞)
 昨年十月以來毎月曜日に内山下町鹿鳴館に於て但し來りし舞踏會は、方今追々景氣に向ふを以て、一昨廿九日を以て第一年期日閉會式を行ひたり云々(七、一、時事新報)
 水交社にては此度構内へ舞踏臺を新築し、同社會員をして舞踏を演習せしめらるといふ。(一九年八、一〇、東京日日新聞)
かゝる時勢であり、婦人の束髪會が設けられた。
 婦人束髪會は、明治十八年七月創立せられ、此年九月には、當時婦女の唯一の高等教育なる東京師範學校の教員生徒の採用することゝなり全國的の流行となつた。
 我邦にて男子の頭髪を改革する比は、西洋の文明も未だ今日の如く感染すること深からざりしが故に反對者も自ら多く、都鄙を擧げて散髪の便利に就かしむる迄には、七八年の星霜を要したるも、今度渡邊鼎、石川暎作等の諸氏が主唱されたる婦人の結髪改良は、既に男子の頭髪に於て改革を見たる上なれば、頗る好機會を得たるが如くなれり、我が邦の婦人は従來の慣習に依り男子より餘程保守主義に傾き居れば、男子の如く改良に進み難かるべきを以て、發起者は茲に見る所ありて漸次に歩を進むる由に聞き居たるが、俗に云ふ思ふより生むが易しの譬に漏れず、發起者の一人なる石川氏の居宅番町附近にては、束髪會を賛成し西洋風に改むる者多く又弊社員堀口昇の妻女も夙に之を賛成し去月二十日より英吉利結に改めしかば、同人の知己には束髪に改良したる婦人多しと云ふ。中にも感心なるは、今川小路十六番地に住む女髪結吉澤タキにて早くも日本婦人の結髪は衛生に害あり、且つ不經濟にて便利悪しく、到底長く存在すべからざるを悟り、日夜西洋結髪の方法を學び、昨今大に上達し、上卷にても、英吉利結にても差閊なく結び得るより、諸方の開化婦人より依頼を受け日々忙しく、餘程の利益もあるとの事、何事にまれ社會の風潮に乘じ、便利の道に就かざるは、害ありて益なき事と申すべし。(九、三、朝野新聞)
京橋區近傍の女髪結連は、山の手邊に後れを取ては遺憾なりと、此ほど廿名ばかり申合せ髪結稽古の方法を議題として、一場の會議開きしよし。(九、四、東京日日新聞)
東京にては、女子師範學校の生徒を始め、貴顯の奥方、新聞記者の妻君が追々束髪となり洋服を着する人もある程にて、何れ追々此擧を賛成するもの日に月に増加するならんが、何分束髪の儘にて帽子を被らねば、何やら自ら變な心地し、又見慣れぬ者の他目より見るときは、尚更可笑しなものなりとの取沙汰もあればとて、東京なる束髪會幹事渡邊氏は、適當の帽子を工夫中なりと云ふ。尤も此の束髪の事の如きは、迚も天保以前の人々には行はれずとは、豫て覺悟の事なるに、茲に思ひの外なる一話は、東京京橋區槇町に菓子商を營む某は、已に六十歳を越えたる老人なるに、束髪の事を聞いて大に之に賛成し、妻や娘を説得し、櫛笄等を悉く賣拂はせ直に束髪させたるよし。(九、一二、日出新聞)
婦人の束髪は追々流行にて、去十五日迄に束髪營業所は日本橋に五カ所、京橋に七カ所、淺草に五カ所、下谷に四カ所、芝區に一カ所何れも開店營業を始めしに、開化家の妻女より下婢に至るまで陸續押し懸け來りて群衆一方ならず、又或る物好きの先生が、十五日の午後二時より三時に至る一時間に、日本橋を通行せし婦人頭髪の模樣を視察せしに束髪五十二人、日本流の束髪三十七人、舊樣の髷四百零四人なりしと、されば是迄の女髪結は束髪所新設の外なしとて、昨今寄合をなし居る町内も少からずといふ。(九、一八、朝野新聞)
 既にダンスあり、束髪あり、バザーもまた行はれ、十一月二十日には皇后皇太后兩陛下には、鹿鳴館に開かれたる婦人慈善會に行啓あらせらるゝの盛擧もあつた。
 此年九月には華族女學校が設けられ、明治女學校の設立あり、婦人會は百華春に競ふの時勢となつた。
 從來河原乞食とて賤められし俳優の地位も向上し、翌十九年には末松謙澄の發起にて演劇改良會起り、發起人には、井上馨、森有禮、渋澤榮一、穂積陳重、和田垣謙三、菊池大麓、福地源一郎等の名流を網羅して居る。
 かなのくわい大會は明治十八年一月、羅馬字會は二月、日本經濟會は六月に設けらるゝといふ風にて、新學、新事物の會は續々と興つた。

法學士會
 東京大學法學部卒業の法學士諸氏は、今回協議して法學士會といふを設けられたり、是は親睦を専とし、兼て本位に固有の令名榮譽を益々發揚せんことを勉められんが爲なりと、云々(一、四、東京日々新聞)

大學制帽
 東京大學にて是まで一定の制帽なかりしが學生の體面を保持し互に品行を磨礪するには外形上に於ても一種特別の表象あるを要するものに付、今度學生有志者申合せ歐州諸大學にて用ゆる大學帽の形を折衷し一定の帽子を制して之を用ゐ、學生の制帽に代へたき旨を東京大學綜理へ出願し許可を得たれば、近々之を用ゆる筈なり、依て教官及び職員中にても同樣の帽子を用ゆべしと云はるゝ人も多しと聞く。(三、一〇、郵便報知新聞)

ボートレースも行はれた。
 工部大學の生徒は、明七日午前八時より隅田川上流に於て、端舟競爭會を催され、會長は竹田大學副長、審査長は伊月攝津艦長、同委員は海軍大尉二名と士官四名にて、發船の前後には海軍陸軍の樂隊樂を奏し、且中流に於て學術的の實験をなし觀覧人に示さるゝ由。(一一、六、改進新聞)
而して帝國大學令の施行は明治十九年であつた。
 文藝界の維新と稱せられた坪内逍遥の『小説眞髄』の出版せられたのは明治十八年であり、「佳人之奇遇」が洛陽の紙價を貴からしめたのも此年である。
 政界にては、千有餘年來の太政官制を廢して内閣制度を設け、長州輕輩出身の伊藤博文が、内閣總理大臣となつたのは此年であることは多言を要せない。
 財界では、一千餘萬圓の資本を擁したる日本郵船會社の設立の年であり、銀行集會所の新築も此の年である。會計検査院も獨立したのである。

外交方面では、
 ブラツセル(白耳義國)都に開かるゝ萬國公法大會議に於て副會頭なるサル・テー・ツワイス(S.T.Twis)氏は、萬國公法を東洋諸國に適用すべきやの問題を提出し、特に日本の爲めに照會し之を適用せしむることを努むる由。再三年以前サル・トラバル氏も大會に於て同樣の照會を爲せしことありと北清日報に見へたり。されば我國の歐米各國に均しく萬國公法の庇蔭 を蒙るの日は將に遠きにあらざるべしと思はる。(一〇、二八、朝野新聞)
今日から考ふれば嘘のやうな話であるが、兎に角、日本も國際的に認められかゝつたのは明治十八年である。

豫算交付の方式に付ても
 明治十八年迄ハ豫算ハ太政官之ヲ裁定シ太政大臣ノ名ヲ以テ之ヲ官省使府懸ニ達シタルノミ敢テ人民ニ公布スルコトナシ明治十九年以後初メテ勅令ヲ以テ天下ニ公布シ國民ヲシテ公然國家ノ歳計ヲ知ルヲ得セシム。
とあつて、内容的に大なる變化があつたのである。

特許制度も明治十八年に確立した。
 我國特許制度ノ確立ハメ明治十八年七月一日ヲ以テ施行セラレタル専売特許條例ニ基因ス(特許記念碑文)。

また、建築の方面にては
 明治十九年は、建築史に所謂明治後期の初年に當り、明治初年以來洋風建築を我國に移入した外人建築家の手を離れ全く一本立ちとなつた頃に相當する。從つて其後の建築の變遷を知るには、溯つて明治元年より同十八年迄の經過を通觀することを便とする云々(明治大正建築寫眞聚覧)
とあつて、新たなる面目を發揮したのである。而して、これ等の基礎的機構たる經濟界は
『明治財政史』は曰
 前年來打續きたる經濟界の不振は物價の下落と共に波勢彌強く明治十八年末に至るまで不景氣嘆聲は全國到る處に響き商業は沈衰し農工は萎靡し、ために經濟界は半年間荒寥の光景を呈したり。
然るに、その後の有樣はといへば『我國商業の現在及將來』に曰
 明治十九年頃より金融漸潤澤金利及物價低落商況恢復内地紡績絲の需要日に増加したるも錘數僅少にして其の供給不足勝なるより當時原料高價工費不廉なるに拘らず斯業の利益大に増進し加ふるに一般企業熱の流行を來し世人の意向主として鐵道と斯業に傾きたるを以て二十年より二十三年に至る四年間に紡績會社の創立せられたるもの少なからず云々とある。
以上漫然雜然と羅列した丈けでも、明治十八年は、凡ての方面に於て太い歴史の線を劃した一時期である。
私は、この年を以て、封建的の舊文化が、政治的にも社會的にも揚棄せられ、新文化がこれに替つて登場したものと觀て、即ち破壊的仕事が一應完了して建設的仕事が見事に立ちあがつたとし、これが明治維新本來の姿にして同時にその終期と解したいのである。
 從つて、それ以前の破壊も未だ十分ならず、建設も亦たこれに伴はざる雜然混然たる時期、即ち過去十八世紀の古今東西の文化が始めは徐々に後には急激に殺到し來つた時代の研究こそ、明治維新の最も必要にして、また最も興味多き場面である。
 以上は、私の一家言にして、未だ學界の定説とはならぬのであるが、多くの史家から常に、明治維新と比較せらる「大化の改新」に付ては充分「幅」を持たせて置きながら「明治維新」に付ては、殆んど「幅」を持たせないといふのは、どうも附に落ちぬ、大化の改新當時は、
その新政の始めをいひ、將來に向つての改造的意味であつたが、後世より回顧するに至つ約六十年の「幅」を持たせたのである。明治維新も漸次「幅」が廣がり行く情勢であるから、その参考として、こゝに一説を提出し置くのである。唯だ本書に於ては、編次の關係上余は普通の廃藩置縣説に從つて、筆をその邊に止めて置くのである。
 次に然らば始期といふことに付ては、始め内閣修史局は、維新史の淵源は南北朝時代に遡らざるべからずとて、着手し、徳富猪一郎氏は、明治史を書くために織田豐臣時代から、「近世日本國民史」が始待って居る。更らにまた白柳秀湖氏は維新史は戰國時代に始まるとの論鋒である。徳富氏とは稍立場を異にしながらも、その時代的區分としては殆んど相似て居るのである。
 更に飛躍的にいへば、王政復古の大號令は「神武創業の古に復る」とあるから、建國の精神に遡るべきであり、明治維新史は、過去二千吾百年の精華の渙發したものとする觀點と相承應するのであるが、斯く手はては日本史全體が維新史といふことになり、眞に喜ぶべきではあるが、歴史は鐶の一聯にして、過去に繋り、將來に懸るのであるのを、研究の便宜として、時代的客觀性に依り區劃するのであるから、この社會的認識に基づき、封建破壊の初期を以て、維新史の始期と見るのを妥當とするのである。
 しかし封建破壊の初期といふことに付ても、幾多の成因あり、幾多の潮流もあるのであるが、最も重大なる事柄としては、幕末外艦渡來、外交問題の紛糾を數ふることが出來る。これが普通に所謂幕末史の初期として取扱はれて居るが、同時に維新史の初期でもある。幕末史は、幕府の終滅を目的とし結論として叙述するに反し、維新史は、明治史の前提として出發點として記述するの差ありとはいへ、封建破壊の初期より筆を下すことは、其揆を一にして居るからである。故に、私も本書に於ては、此年代より、始めんとするのである。

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  常陸なる大津の濱にいぎりすの船をつなぐと君は聞かずや
  いかづちの聞かと聞けば青海原あだし船よりはなつ石火矢
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引用・参照・底本

『明治維新 上卷』近代日本歴史講座[第一册]法學博士 尾佐竹 猛著
昭和十八年二月十日再版發行
(国立国会図書館デジタルコレクション)