『勝海舟』石井 孝 著

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 小栗忠順、軍艦奉行に転出
 「タカ派」路線定着

 海舟が罷免つれてから一ヵ月余りのちの十二月十八日、小栗忠順が勘定奉行から軍艦奉行に転出した。それはまことに、象徴的な事件である。海舟が「ハト派」の代表的人物であるに対して、小栗は「タカ派」のそれだからである。小栗によつて代表されるような一派は、新しい国際情勢のもとで、フランスの援助を頼りに、幕府の勢力を強化しようと企てた。小栗および目付栗本鯤が、製鉄所建設についてフランス公使ロッシュとの交渉に当った結果、十一月十日、幕閣は正式に、製鉄所技師の召聘を周旋するよう、ロッシュに依頼した。この日はあたかも、海舟が軍艦奉行を罷免された日である。
 小栗が軍艦奉行に転出したのは、製鉄所の建設事業に専念するためである。海舟が建設を企てた神戸海軍操練所が、「一大共有の海局」をめざしたのに対して、新たに建設されようとする製鉄所は、明らかに幕府の権力を強化するための「海局」である。横須賀製鉄所建設計画を発端として、「タカ派」(親仏派)路線は、幕府内の主流として定着する。そのかぎり、海舟は反主流派として雌伏の不遇をかこたなければならなかった。

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 小栗ら、最秘密の議を伝える

 幕府にとっては、閑居一年半の海舟を起用しなければならない異常な事態が発生したのである。それは、薩摩藩の出兵拒否問題である。
 なお老中からの命令があってのち、小栗忠順その他二名が海舟を別室に引き入れて、「政府、仏郎西に託して、金幤若干、軍艦幾隻を求む。到着次第、一時に長を追討すべく、薩もまた其時宜に応じ是を討ん。然して後、邦内にまた口を容るる大諸侯なし。更に其勢に乗じ、悉く諸侯を削小して郡県の制に改めんとす」と、決定をみた「再秘密の議」を伝え、これに同意を求め、「若然らんには猶上阪して説く所あるべき也」といった。これに対して海舟は「論争徒に時日を消すの益なきを察し、口を開かず、唯是きくのみ」であったという(『開国起源』)。
 小栗らが海舟に打明けた「最秘密の議」は、フランスの援助に依存する「徳川絶対主義」の建設という、幕府主流の政治路線で、長州再征はまさにその路線上に置かれる。ここでフランスに「金幤若干、軍艦幾隻を求む」といわれているのは、対日特殊経済関係の設定を使命とする経済使節クウレの渡来をさすものと思う(『明治維新の国際的環境』)。したがってかの政治路線は、海舟のそれとするどく対立している。それにもかかわらず、海舟はこの場合、小栗らと論争する愚を避け、「唯是きくのみ」にとどめ、自己の主張を大坂で、直接老中に向って開陳しようとした。

 大坂到着、板倉老中と会見
 小栗説批判

 海舟が軍艦奉行に復職した日から、江戸では打ちこわしが発生し、六月四日までつづいた。この混乱のなかを、六月十日、海舟は江戸を出発して、二十一日、大阪に到着、翌二十二日、登城して、老中板倉勝静と会見した。『海舟日記』には、たんに「関東決議甚だ不可と云ふ」とあるが、『開国起源』によると、彼の展開した議論はつぎのようなものであった。郡県の議は、対外交渉の発生にさいして当然のことであるが、徳川氏が「諸侯を削小し自から政権を持して天下に号令せんとするは大に不可」である。国のために郡県の大事業を成就させようとするならば、「先自から倒れ自ら削小して顧ず、賢を選み能を挙げ、誠心誠意、天下に愧なき位置に立ち、然る後成すべき也。」海舟はこのように、「公共の政」の理念で、小栗から聞いた「最秘密の議」に激しい批判を加え、「席を叩き論破数刻」に及んだという。板倉は、海舟の激論を聞いて当惑したが、しばらくして「郡県の議は目今の急務にあらず」と話題を転換させた。そして彼は、海舟を大坂に招いた本来の目的である、薩摩藩の出兵拒否問題に論及し、このため薩摩・会津両藩の間に衝突の発生する危険があるので、両藩の間に立って調停をはかるよう依頼した。

 薩会両藩の人々と接触

 海舟は二十五日京都に入った。これから七月のはじめにかけて、彼は頻繁に両藩の人々と接触している。まず薩摩藩については、例の出兵拒否の届書をいちおう、預かっておくということになった。いっぽう会津藩に対しては、あまり頑固なことをいわず、時勢とともに変通することの必要性を説いた。しかし、これがほんとうに会津藩を納得させることができたかどうかは、大いに疑わしい。とにかく、薩会両藩の激突だけは回避することができたのである。
 この後まもなく、松平容保は慶永に、「勝は薩の人数を出さるる(さるカ)は尤もの事なりと申す由、伊賀守(板倉―著者)も勝には困り居る由なり」と述べている(『続再夢紀事』五)。これが、海舟の議論に接したとき、幕府首脳の受けた正直な印象であったろう。彼は、小栗から伝えられた「最秘密の議」に従って行動することなく、完全に自己の政治路線で行動したのであった。

 幕閣の目算はずれる

海舟の薩摩藩にもつ影響力を利用して、出兵拒否問題を幕府側に立って解決させようとした目算は、完全にはずれたのである。

 再度板倉と会見

 七月八日、海舟はふたたび板倉と会見した。彼は「当今第一等の御処置は、狎邪の小人三、四輩を除」くことであり、「第二は速に長防の地え討入り、処置するに寛大を以てせられむこと」であるとした。さらに彼は「今国財旦夕に逼り、大邪、既に金を仏郎西に借るの策あり。極めて斯の如くなるは、彼が術中に陥り、国家の瓦解、日を卜して察すべし」と憂慮し、また「能を挙げ賢に任ずるは殊に急務なり」と説いた(『海舟日記』)。すでに当時、経済使節クウレと小栗との間では、借款の交渉が進められていた。海舟は、借款政策をもって「国家の瓦解」をもたらすものとして、激しく反対した。また彼が強調した「能を挙げ賢に任ずる」ということは、さきに中根が慶永の命をおびて慶喜や板倉に説いたところによると、一翁・海舟の登用である。これは暗に、自己推薦をしたのであろう。海舟は、六月二十二日の板倉への建言と合わせて、幕府の政策に対する全面的批判を展開したのである。

引用・参照

『勝海舟』石井孝 著 平成元年五月一日新装版第二册発行 吉川弘文館