『日本精神作興歴史讀本 維新回天記』

 第四 會土薩長

 一九九-二〇二頁
 對馬占領さる

 英の小笠原島占領の噂

 前述のごとく、從來普通の解釋にしたがつて、東禪寺襲撃が、オールコツクが伊勢路や東海道を、四つ足の皮でつくつた靴をはいた足で、歩きまはつたのに憤慨した、神州憂国の志士の仕業だと、一應は説明しておきましたが、實は、そればかりではなしに、もう少し筋の通つた理由も、ないわけではありませんでした。
 それは、小笠原島問題であります。すでに前に述べたとほり、イギリスとアメリカが各々小笠原島を占領せんとして、論爭のはて、物別れとなり、ハリスの注意によつて、幕府はあわてゝ水野忠徳を派遣しましたが、その騒ぎがまた馬鹿げて仰々しかつたので、一般の人々にも知れ、
『イギリスが、小笠原島を占領してゐるさうだ。以ての外、怪しからん!』 といふ悲憤慷慨にも、なつたのであります。

 露艦對馬に來る

 さて、文久元年三月三日、ロシヤ軍艦ボリニシカ號は、艦長ビリシフを乘せて、突如、對馬の尾崎浦に入つてきました。浦役人が仰天して、何しにきたと咎めますと、艦を修繕する樣子などは一つもなく、水平が上陸して、樹を伐り、家を建て、井戸を掘り、測量をし、すつかり腰を据ゐてしまひました。
 領主宗義和は、彼等を退去させようとして、嚇したり賺したり、百方手をつくしましたが、なんとしても動きません。

 露兵の暴行

その上、遠慮してゐるのをよいことにして、掠奪したり、婦女子に悪戯したり、傍若無人な振舞をしますので、島民は大いに憤慨し、この上は、腕づくでも追つ拂はうと、すでに一揆に及ばうといふ氣勢を示しました。宗氏も、江戸に急使をたてて、幕府に開戰の許可を求めました。ところが、武力を用ひることを許さず、役人を對馬にやつて、穏に退去するやうに、交渉を重ねましたが、別に魂膽があつて腰をすゑた露人のことですから、いつかな動かうとしないばかりか、その亂暴はますます募つて、對馬の一部は、全くロシヤに占領された形になつてしまひました。

 對馬占領さる

 百計つきた幕府が、困りきつてゐますと、
 『よし、俺が追つ拂つてやる。』
 と、頼みもしないのに、飛びだしてきたのが東禪寺に襲撃されて間もない、イギリスのオールコツクです。なんだか、狐につまゝれたやうな話であります。

 英艦、對馬の露艦を追拂ふ

 オールコツクは、眞赤になつて、ロシヤ公使に抗議をする一方、軍艦を對馬にまはして、露艦を威嚇したものです。そこで露艦もしかたなく、八日の二十五日、對馬を撤退いたしました。馬鹿にうますぎる話ですが、勿論、底には底ががあります。
 この頃、ロシヤは、猛烈な勢いで、東方及び南方に發展し、すでに極東の海に軍艦をうかべて、朝鮮・支那も一と呑といふ、勢いを示してきました。ところが、印度支那を勢力範圍とするフランス、印度を、穀物倉として所有するイギリスは、さうはさせて置けません。そこで、ロシヤの南下をおさへるために、日本の對馬をとつて、そこに英佛艦隊根據地をおけば、地勢上、一ばん有効だといふ事が、よりより相談されてをつたのです。

 狐と狸と貉

 さうなると、安政元年から二年にかけて、黑海沿岸でクリミヤ戰爭をおこし、英佛聯合軍に敗れて、バルカン半島への南下を斷念したと同じやうに、ロシヤは極東においても、對馬でぴたりと、英佛軍に出鼻をおさへられ、朝鮮・支那への進出を斷念せねばならなくなります。如何にも殘念といふもので、ロシヤは、英佛をだしぬいて、逸早く對馬を占領してしまはうと、かゝつたものでありました。さればこそ、イギリスが、頼まれもせぬのに、横から飛びだしてきたといふわけであります。

引用・参照・底本

『日本精神作興歴史読本. 第1 (維新回天記)』
昭和八年十二月十五日發行 實業之日本社
(国立国会図書館デジタルコレクション)