『改訂 肥後藩國事史料 二巻』

 四二三頁
〔夷事輯錄、風説書等〕

正月廿二日外國奉行新見正興村垣範正目付小栗忠順等條約批准交換の爲米艦ポーハタンに同乘し横濱を發して米國に赴く(以下省略)

 四二四頁
〔安津免久佐〕

(萬延元年遣米使節に随行せし木村鉄太より同十一月聞書の一節)(全文は十一月某日の條に出つ)  萬延元年庚申正月十八日横濱港ニヲイテ米國ヨリ迎ニ來レル蒸氣船名ハホヽハタン我何丸ト云カ如し長さ五十間大炮八挺ホートウヰッスル二挺替備エアリニ日本使節新見豐前守村垣淡路守御目附小栗豐後守等上下七十一人米三百人乘組同廿二日同港出帆シ直チニ四十度ヲ乘リ同廿八日洋中ニヲイテ難風ニ逢ヒ船垣等壊損ニ及フ然シテ石炭盡ントス

 四二五頁
〔懐往事談〕福地源一郎

米國條約を議定せるに當り本條約(批准)は實施後一年の中に米國華盛頓府に於て交換すべしと定めたるは深意の在りし事にして當時岩瀬(肥後守)水野(筑後守)は此批准交換を期として自から公使となり幕府の中にて有爲の人材を卒て米國に赴き親しく外國の狀況を視察し大に我國開明の歩を進むるの機會を得んと望み米國公使ハルリスも亦大に其意を賛成したるに付き斯は議定したる事にして堀田閣老も亦實に同意せられたりと云へり(森山氏の説に據れば堀田閣老は頗る此議を是なりとし或は己れ自から水戸の老公を説き一橋刑部卿殿をも勸め相興に米國一覧として赴くべしと云はれたる事ありしと岩瀬が物語せしと云へり)然るに岩瀬永井(玄蕃頭)は已に退けられしかば水野は其志を保續し此公使の任に當らんと望み幕府も之を肯したり依て余は水野に随從して米國に赴くの内約を得て頗る悦び其日の來るを俟たりしに水野は前章の變(横濱にて露國海軍士官の暗殺)よりして外國奉行を解きたれば余が望も其時に絶たりけれ扨この批准の使命は誰に任せられしかと見れば外國奉行新見豐前守村垣淡路守御目付小栗豐後守後上野介にてありき新見は奥の衆とて將軍家の左右に侍したる御小姓の出身その人物は温厚の長者なれとも決して良吏の才に非す村垣は純乎たる俗吏にて聊か經驗を積たる人物なれば素より其器に非ず獨り小栗は活發にして機敏の才に富たりしかば三人中にて穐に此人ありしのみ後年に至り小栗が幕末の難局に當りて善く之に堪たるも米國に赴きて其見聞を廣めたりしもの冥々裏に其効果たりしもの歟勝麟太郎氏伯爵勝安房も此時幕府の軍艦咸臨に船將となり御軍艦奉行木村攝津守を乘せ公使護送として桑港まで赴き福澤諭吉氏も亦此行に從へり勝伯福澤氏の夙に外事に活眼を開きたるも蓋し此行の慶なりと云ふへき歟此使節一行は萬延元年の春初に横濱を發し其秋に歸國なし彼地に於て非常の待遇を被り見聞を廣くしたれとも公使その器に非さりしが上に其歸朝せし時には時勢また頓に一變したるを以て彼等は皆口を鉗して米國にて見聞せし事を説かず其地位を保つに岌々たりければ到底岩瀬水野諸人の苦心もこの爲に水泡に屬したりき(本文の括弧は原書の儘也)

註:『懐往事談』「幕府の遣米使節」三十六-三十八頁参照

引用・参照・底本

『肥後藩国事史料. 巻2』細川家編纂所 編 (侯爵細川家編纂所, 1932)
(国立国会図書館デジタルコレクション)