『人物の神髄』伊藤銀月 著

 三三-三四頁
 大音龍太郎

 大昔龍太郎は、一代の無法者である。明治の初めに上野岩鼻縣令となつたが、長脇差の本塲の土地とて、博徒の横行が甚しいので、片ッ端から引捕へて、容赦なく首を斬つた。それが日に八十餘級になつたので、大音の首切政治と云つて、博徒はもとより、縣下の者、畏縮して鼠の如くであつた。其時一人の農夫があつて、畑の手入をしないので、雑草がぎつしり茂つて居た。大昔之れを見て、「これは怠け者だ。」と云つて、又た其首を切つたので、其爲に免職となつた。

 六七-六八頁
 安積艮齋の上京

 安積艮齋は、奥州安積郡郡山驛の人であつた。十六歳の時、隣村の里正、今泉と云ふ家の養子となつたが、風采が頗る揚らない上に、讀書が好きで、野良仕事が手につかないので、細君の氣に適はない。面白くもない日を送つて居ると、郡山驛に大火があつた。舅の里正殿は、艮齋に命じて屋根葺用の藁を郡山へ賣りに遣つた。
 艮齋は、二疋の馬に澤山の藁を積んで、郡山へ行つて、半日位の中に賈る事は賣つて了つたが、僅かの賣高である。艮齋は、之れを見て嘆息した。「われ二馬と共に、半日を費して、僅かに數緍を得るに過ぎず。何ぞそれ賤なるや。しかず、男子の志を成して、富貴を取らんには、」と云つて、馬を驛はずれの林に繋いで、孤劍飄然として江戸に登つた。それぞ幕府の侍講安積艮齋が首途の第一日であつた。

引用・参照・底本

『人物の神髄』(机上図書館 ; 第18編) / 伊藤銀月 著 (日高有倫堂, 1909)
(国立国会図書館デジタルコレクション)