『倒叙日本史第三册 明治大政維新編』文學博士 吉田東伍著

 143-144頁
 川路と小栗の死

幕末の遺老川路聖謨(左衛門尉)は、病を以て屏居せしが、江戸城明渡の日、痛憤して自刃以て死す。小栗忠順(上野介)は、慶喜東歸の後、諫諍する所ありしも聽かれず、やがて職を免せらるゝや、其子又一と與に領邑上州権田村に退去す。四月、東山道總督岩倉具定兵を率ゐて來る、時に人あり「忠順が幕府の金銀兵器を窃み來り、砦を構へて將に事を擧げんとす」と岩倉に告ぐ。忠順其誣妄を陳辨せしめんが爲に、其子を江戸に遣したるに、道にして拘せらる。幾ならず、監軍原保太郎・大音龍太郎、近傍三藩の兵を發して忠順を捕ふ
小栗の事を探り、意必滅に在るを以て、其事情一の問ふ所あらず、父子を掩殺す。
 江湖新聞曰、小栗上州は、平生果斷の人にて、公事の爲に私を忘れ、國家多事の際に臨みても、百折撓まず、只狷介の性なれば、世上の説、毀誉往々相半せり。然りと雖、今其凶報は、皇國に取りて一個の人物を失へりといふべし。且、其罪を論ぜず、其過を明めず、直ちに之を殺戮せるは、いかなる事實歟、今得て知らざれども、是れ人才を惜み忠臣を憐れむの政道にあらず。特に、朝廷億兆の民庶愛撫の趣旨とも覺えず、則之を天下の公議に質問せんのみ。

 144-145頁
 痩我慢の説

福澤氏痩我慢説曰、凡人に強弱なき能はず、國に盛衰なきを得ず、其衰弱者自家の地歩を維持するに足らす、磨滅の數既に明なりと雖、猶屈することを爲さず、俗に云ふ痩我慢是なり。昔我封建の時代、百萬石の大藩に隣して、一萬石の大名の抗禮譲る所なかりしも、畢竟痩我慢の然らしむる所にして、政權武門に歸し、帝室はあれども無きが如くなりしこと何百年、この時に當りて、其痩我慢こそ、帝室の重き命脈を成したれ。又古來士風の美を云へば、三河式士の右に出る者はある可らず、家康小身より起りて四方を經營したるは、痩我慢の賜なり、瘠我慢の一主義は、固より人の私情に山ることにして、冷淡なる數理より論するときは、殆兒戯に等しと云はるれども、世界古今の實際に於て、所謂國家なるものを目的に定めて、之を維持保存せんとする者は、此主義に由らざるはなし、然るに此に予の目撃の事跡あり、徳川家の末路に、其家臣が早く大事の去るを悟り、敵に向ひ大抵抗を試みず、只管に和を講して屈を爲し、三百年來の權勢を自家にて解きたるは、日本の經濟に於て一時の利益を成したるや明なりと雖、是れにより、數百千年養ひ得たる我日本武士の気風を傷ふたるの不利は、決して少々ならず。豈、彼得を以て、此損を償ふに足らんや。抑、戊辰の役、其實は二三の強藩が、徳川家に敵對したる者に外ならず。此時に當りて、媾和論者たる勝安房氏、或は言を大にして「兄弟墻に鬩ぐの禍は、外交の得策にあらず」など、百方周旋せるのみならず、時として身を危うすることあるも、之を憚らず、遂に斷然江戸開城を爲したるは疑ふべし。

 145-147頁
 東西の軍何ぞ官賊あらんや

徳川家已に政權を返上し、世は王政維新となりたることなれば、帝室を高處に仰ぎ奉りて、江戸も、薩長も、諸藩一樣に、其恩徳に畏まりながら、下界に居る者とす。此下界の諸藩・諸家に相爭ふ者あるときは、敵・身方の區別なきを得ずと雖、何ぞ必しも官賊の褒貶を要せんや。又、外國より日本の事に干渉したる跡を探るに、戊辰の春、京祁の薩長人は、各國公使を大阪に召集し、政府革命の事を告げて、各國の承認を求めたるに、孰れも同意を表したる中に、佛國公使の答は「徳川政府に對しては、陸軍の編制、海軍の造立等に關し債權あり、新政府にて之を引受けらるゝことなれば、毛頭差支なし」と云ひ、佛國が殊に幕府を庇護するの意なかりしを見る可し。往年、小栗上野が、佛人を延いて種々計畫したるは事實なれども、此小栗は、精神氣魂、純然たる當年の三河武士なり。鞠躬盡瘁、終に身を以て之に殉したるものなり「外國の力を假りて、政府を保存せんと謀りたり」との評の如きは信すべからす、今假りに一歩を譲り、幕末に際して外國干渉の憂めりしとせんか、其機會は官軍東下の場合に在らすして、寧長州征伐の前時に在りしならん。又更に一歩を進めて考ふれば、外國干渉の機會は、西南戰爭を最となす。當時、薩兵の勢猛なりしは、長州の此に非ず、攻城野戰、凡八箇月、纔に平定の功を奏したれば.此戰爭中、諸縣の有樣、所在の不平士族は、日夜其剱を撫て、在京顯官中にも、竊に西南と氣脈を通し、其形勢の危急なるは、幕末の時に比して更に危急なるもの有りし。而も外國人の擧動は平氣にして、干渉の様子なかりしに非ずや。外國干渉といふ如きは容易に信し難し。

 147-148
 外國干渉の恐れありや否や

按、痩我慢の説は、江戸人士の怯懦を指斥して痛切を極む、而も當時の形勢、外國人の干渉も、決して必無を保せず。殊に東西の人心、各援引を希ふは、勢の免れざる所にして、抗争久しきに及び、分裂の形愈成りなば、測るべからざる者あらん。且、當時の横濱洋字新聞「外國公使はみな中立不偏の説を唱へながら、今日は御門を日本の君主と認め、明日は又前大君を政府と名け、以て日本の國勢を殺ぎ、衡平を保たんを欲せり。これ萬國公法の趣意なりと雖、余等が所見にては、之を西洋に施すべし、東洋に施すべからず。今、東洋半睡の民、漸く開花の域に進まんとせるところなれば、之を憐み之を諭し、造物主、我歐洲の人を顧愛せる恩に報ゆべき也。しかるに、其内亂を鼓舞し、生民の兵刃に苦しむを傍觀せば、天理人道、二つながら全からざるべし。况、日本内亂打續かば、交易の利も随ひて衰へ、條約の効なきに及ぶべき也。曰く、然らば、外國政府にて何れを助け、何れを退くべき歟。曰く、日本民人の追慕せる、威權ある人にて、吾曹の爲には好友たらん人を助くべき也、是迄の外國交際を回想せば、自其人あるべし。試みに見よ、前大君其黨の諸侯會津の如き、他日日本を回復せば、必謂はん「外國政府は信するに足らず、朋友の難を救はず、條約の大眼目ともいふべき信義の實行なし」と。東洋に於て、歐州の英名を失ふと失はざるとは、今日の一擧にありと(露西亜を云ふ歟)。この事にして實ならば、歐洲の諸強國は、止む事を得ず、御門政府を助け、東洋の衡平を保つの策を爲し、再び黑海(クリミヤ)の戰を東洋に開き、數十萬の生血を以て、日本に洒ぐべきにいたらん」などいへる批評が、邦字新聞に譯載せられ、之に因りて、却りて東西兩軍の謀士をして調停の必要を感せしめたるを想ふべし。則、英佛に干渉の實形無きにもせよ、日本の東西軍が、其虚勢を利用して、各自の政策を運行せしめたるを知るべし。兵法に曰く、虚々實々、虚中に實あり、實中に虚ありと。

 『倒叙日本史第四册 近世紀』文學博士 吉田東伍著

 400-401頁
 京師に假寓する徳川幕府

 時に岩倉對岳は、薩人小松・大久保等と、私に幕府覆滅の時機方に至れりと爲し、唱説奔走を爲すこと愈急なり、而も、幕人は亦、小栗・原の如き、權勢回復を力むる者ありて、對抗屈せず、春岳・勝等は中間に居るも、其志を伸ぶるを得ずして、前後散歸す。
 九月八日、在京の大久保より在國の西郷へ送れる書に曰く「將軍職退、誠不可失機會と存候間、共和の大策を施し、征夷府の權を破り、皇威興張の綱相立候様、盡力奉 冀候。成否に拘らず、可竭は此の時と愚考仕候、何分宜敷御周旋の程、伏て御頼申上候」云々。時に、江戸の謀臣小栗上野介上京し、幕府の維持と内外の形勢を説けるより、幕閣も稍決斷する所あり、勝安房守・福井老公等、前後して罷め歸る。當時、勝が大久保に寄せし書あり。

 401-402頁
 小栗原の幕政保持は春岳海舟と相合わず

 扨、小拙事も當時別段見込みも無之に付、海軍局の儀申立候處、少々捗取、江戸に歸府いたし、此行不如意にて、遺憾不少候。小松殿・西郷氏・岩下氏に御出會も候はゞ、宜敷御傳被下度候。小拙再登も如何哉・閑居研究亦不任心、世の中は不定のものに御座候、御一笑可被下候。唯々難遁は黄泉の客歟、悉皆造物者の意匠に應候而已、不備。十月二日
勝氏云、長州征討の際、慶喜公が凡て緩やかに看過して、必至とならざりしには、深き意味あり、佛國公使ロセスに托し、七百萬弗の軍艦兵器を借り入るゝ積りにて、其來るを待たれたるなり。然るに、密計悉齟齬し、終に爲すべからざる地位に陥れるを奈何。其計策とは、長州を討滅し、次に薩州を撃破し、然して後に封建を廢して郡縣の制を布かんと云ふ者とす、首謀者は原市之進心(仲寧)なり。予(勝)寅の秋大阪に至り、板倉老中に面す、氏も又此郡縣一統を談せり。予曰く、郡縣制を布くは、天下の爲か、徳川家の爲か、封建を癈すれば、徳川家も潰滅せんのみ、天下の諸侯を削平して、獨・徳川家のみ利を受くべからずと。是に於て、幕吏予を疾悪するの風あり、嚴島使節も悦ばれず、終に、無首尾に江戸に歸る。[史談會錄]〇春嶽(福井老公)より大簡(島津老公)への書あり、幕府の内に亦硬軟の別あるを説き、或は之を救ふべきを以て、來春の上京を要望する者なり。
 會桑は専征長主張、橋公へ推轂候處、橋公御反正の御説に因て、桑は革面心從侯へども、會の臣僚は頑然孤立、殆困究の勢に有之候。何分、此時ならずしては.挽回の期有之間敷侯へば、呉々御差急ぎ御發程の程、所翹望に御座候、以上。
 九月                   大藏大輔
 大隈守 樣

引用・参照・底本

『倒叙日本史第三册 明治大政維新編』文學博士 吉田東伍著
大正ニ年五月二十五日發行 早稲田大學出版部

『倒叙日本史第四册 江戸幕府衰亡編』文學博士 吉田東伍著
大正ニ年五月二十五日發行 早稲田大學出版部

(国立国会図書館デジタルコレクション)