『近世英傑叢書 勝海舟と山岡鐵舟』高橋淡水 著

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 (三九) 小栗上野

 話は固とに返る。鳥羽伏見の變あつて以來、朝廷は慶喜恭順の意なく只管朝廷を欺くものとなし、有栖川宮熾仁親王を征討總督となし、西郷隆盛を總参謀として海陸二途に別れ江戸に向かつて進軍した。
 翻つて、江戸の形勢を見ると、將軍慶喜は武運拙く、いと忍びやかに城に入り軍議を凝らすと、小栗上野介は云ふに及ばず、榎本武揚、津田眞道、西周、大鳥圭介等、年少氣鋭の徒は荐りに主戰論を唱へ、當時幕府の陸軍に雇はれてゐた佛國教師も亦大に之を助け、或は輪王寺の宮を奉じて、南北兩朝の故事に倣ふべしとさえ論ずるものもあつた。就中當時幕府の大立物たりし小栗上野介の意見は
 『此度有栖川宮が大總督とならせられて、關東御征伐といふことに決したものゝ、其の兵數は僅かに三萬人を越えまいとおもふ、されば、函根峠の關門を開いて官軍を江戸に入れた上で關門を閉ざし、また東山道の方面は木曾路を塞いで、悉く官軍を江戸に入れて置いて戰さえすれば、三萬の兵を鏖にすることは容易な事ぢや、殊に幕府軍艦の一半を以て浦賀を扼し他の一半を以て大阪灣を衝きさへすれば、關東の諸大名は大抵徳川家の味方になるとおもふ。此度の事をば關ケ原の戰として見ると、關西にも譜代大名もあれば親藩もあり。また外樣大名の中にも幕府に志を寄せて居るものも絶無でない、かくして徳川家恢復の見込も立つ譯である。』
 と云ふ事であつた。かくて、其日の評議は一決して、いよいよ小栗の献策を實行すると云ふ事となつて、一同下城して仕舞つた。

 151-156頁
 (四〇) 局面一轉

 此日軍議に列した海舟は、小栗と意見を異にしてゐた。
 『時勢の推移は人力で容易に救はれぬ。若し今日濫りに戰を開くと、内は國民を苦しむること南北兩朝の時の如く、外は外國の干渉を招き、徳川幕府の存亡のみに止まらず、日本帝國に關する問題である。』
と覺悟し、窃に慶喜に謁え、
 『いよいよ戰に決しますれば私にも勝算が御座りまする。されど、西南諸藩が破れて援を英國に求むる事になりますと、内國の爭は外國の干渉となり、神國の危きを來たすかも計られませぬ。されば、今日は恭順して罪を待つの外は御座りますまい。從來薩長諸藩の爲す所は故らに我を怒らして兵を擧げしめ、天下の人心を離して之を仆さんとする遣方で、所謂逆に取りて順に守り、先づ勝て後に戰ふの策を取つて居りまする。殊に薩長人は今日大勝の勢いに乘じて、天子を奉じて天下に號令し、其勢の猛烈なることは尋常の策では敵し兼ねまする。されば、我は誠意を以て之を迎へ、城を明け渡たし、一に天下の公道に從ひて存亡を天に任ずるの外はありませぬ。これ實に忍ぶべからざるを忍むで、徳川氏を保ち、上は朝廷に對し下は萬民に向ひて其職を辱めざる所以と存じまする。』
 と眞心を籠めて諫言した。流石慶喜も打ち肯いて、一意恭順を旨とする事となつた。
 されば、翌日小栗上野介が登城すると、昨日の軍議は忽ち破壊されて、小栗以下、開戰を主張する面々は其れぞれに役儀を免ぜられ、海舟を軍事總歳に任じ、幕府兵馬の權は今や全く海舟の指揮に一任された。
 かくて、慶喜は愈々恭順の意を表はし、越後侯を介して謝罪書を朝廷に奉れるに關はらず、佛國の陸軍教師は海舟を訪ふて、荐りに開戰を勸むると共に自からも其隊に加はらむことを説いた。
 『縱令西國の一二藩が幕府に叛くとて、東北諸藩は皆幕府に味方する。のみならず、日頃私共の訓練した數千の精兵も亦大に戰ふの實力を備へて居りまする。閣下が之等の精兵を統率して東國を固守し、海路より幕府の軍艦を以て大阪を衝く事と致さるれば、敵は腹背ともに應戰に苦むで必らず和睦を申し出でまする。閣下は何故に自ら屈して旗下の怨を買ひ幕府を顧みられないのです?。』
海舟の憂ふる所は皇國の興廢である。徳川氏の存亡如きは、至誠の結果として其能く存在し得べき事を自覺してゐた。されば、
 『今日の場合人々の怨が一身に集まつて、縱令非命の最後を遂げても一向に厭ひ申さぬ。たゞ皇國を思ふ心から開戰といふ事は何うしても從ふことは出來ませぬ。』
と斷つたから佛國陸軍教師も、スゴスゴと其儘に歸つて了つた。
 かく慶喜は恭順の意を決したが、開戰を主とする者は海舟を憎むで彼を除いて開戰の實を擧げんと意氣捲く者が多かつた。
 そこで慶喜は恭順の實を現はすが爲に江戸城を出でゝ上野大慈院に引籠り臣下を諭して
 『自分は朝廷に少しの怨みを以て居らぬ。伏見の戰で朝敵といふ汚名を取つたが、其後は只管恭順を旨として、何事も朝廷の御指圖を待たうと思ふお前達の立腹は無理とは思はぬが、國内の戰が何日までも絶えないと、戰爭に苦み、果ては外國の干渉を引き起こすかも計られぬ。それでは全く不忠の上塗りをすると同樣になる。呉々も過激の振舞をいたすな』
 と説き聞かせた。
 諸臣は何れも涙に咽びて打濕めり城中を出でゝ愈々上野に引籠ることとなつた。當時幕臣慶喜の心事を思ひ、涙ながらに
  國の爲め、世の爲めにとて、しばし世を
       忍ぶが岡に、すみぞめの袖
 と詠じた。能く慶喜が當時の心事を道破したものである。

引用・参照・底本

『近世英傑叢書 勝海舟と山岡鐵舟』高橋淡水 著 昭和七年一月拾日發行 元文社
(国立国会図書館デジタルコレクション)