『「日本精神の眞髄」 切腹・男・肚』著作者 陸軍少將 人見順士

 17-36頁
 村垣淡路守亜米利加に使す

 時は徳川幕末、村垣淡路守、小栗豐前守の一行は、鎖國の日本から外國に行つた使節でありまして、安政七年正月二十七日横濱出帆、同年の萬延元年九月二十八日に品川に歸りついてゐます。これは井伊直弼が伊豆の下田で結んだ、假條約の本條約を取交しの爲に、ワシントンまで派遣されたので、一行は八十一名の大勢でありまして、勿論陣羽織を着て、チョン髷を結び、大小刀を腰にたばさみ、御槍を立てて、堂々と乘りこんだのです。さぞ物々しい行列であつたらうと思はれますが米國人も大いに驚いたことと思ひます。
 安政七年と云ふと、今から丁度八十年以前の事で、當時日本は鎖國で、物質文明は極度に低く、これと反對に亜米利加合衆國は、各方面共非常に發達してゐる。そこへ日本人の一團が飛びこむのですから、先方では、台彎か南洋の土人が東京見物に來て驚くと同様なつもりであつたに違ひはない。しかしながら、どつこいさうはいかぬ、船は米國軍艦ポートハタンに便乘して、途中はげしい暴風のためと炭水補給のために、ハワイに寄港しました。
 初めはハワイに寄る豫定はなかつたが、止むなく連日の難航のため綿の如く體が疲れてゐるので、米水兵はみな先を爭ふて上陸した。暫くして日本使節の上陸しあらぬに氣が付き、米國士官は船に歸り日本の使節にも上陸をすすめたが、日本人は上陸しないと云ふ。
 『何故上陸されないのか……』
 『吾々の任務はアメリカ合衆國へ御使に行くのだ。道草は食つてゐられぬ。未だ條約を結ばない國の國土を踏むことは、その國を侮辱することになり、道でないから上陸しない』
 と云ふ實に條理のある言分である。これで艦長も一本參つた形であるが、深く感心して、仲々偉いことを云ふものだ、よほど修練のつんだ人々であらう、われわれは苦しくて一刻も早く上陸したいのに、
 『みなさんは苦しくないのですか……』
 『いや、拙者どもも非常に苦しいが、如何なる苦しみも義理には代へられぬ…』と云つたので、艦長始め士官達はひどく感激してゐた樣子です。
 『然らば國王様が御馳走して待つてゐるから一しよに上陸しませう』
 と艦長は重ねて云つた。
 『土地さへふめぬ身が、なんで王様にまみえることが出來ようか』
 と頑として上陸をしないと云ふので、艦長は最後に、
 『實は眞實のところ、使節が上陸せぬと我々が苦しくて困るから、ぜび上陸して下さい』
 と頼みこんだ。ところが、それなら何故最初から正直にその旨を申さぬかと云ふ。いよいよ以て偉いことが判つたが、しかしながらハワイは日本とは條約はないがアメリカとの間には條約が出來で居り、米國公使も來てゐる位に、親密な間柄であるから上陸して呉れと、條理を正してすすめたので、始めで然らば上陸してやると云つて、陣笠陣羽織に槍を押し立てて行列を作つて上陸した。
 やがて王樣が、非常に歡待の意味で、親しく面會しようと云ふと、
 『條約を結ばない國王の顔を見ることは出來ぬ、殊に他國に使する身に於てをや尚更會ふことは出來ぬ』
 と云つて之を拒絶した。實に思ひきつた處置と思ひます。
 しかし如何になんでも、王樣の希望を無下に斷ると云ふことは、感情上よろしくないと云ふことになつて、最後に面會を承諾し、國王、王妃にも謁見して居ります。そのあと米國公使が某ホテルに夜會を開いて、國王、王妃も出席になるから出席して呉れと云ふて招待したが、これも斷然ことはつてしまつた。何故かと云ふと、わが日本にては夜蔭には遊びに出行せざる國風なれば、忝きことなれどと云つて辭退しました。
 やがて國王樣の舞踏會があることになつた。王も王妃も出席される、王樣の主催で.王樣の別荘で開かれるのだから行きませうとすすめられました。一體外國人は舞踏會と云つたら狂氣の樣に熱心だから日本人も行けと云ふ譯ですが、此方は夜だから行かねと云ふ。
 『如何に夜でも早く行つて早く歸れば宜しいではないか』等と艦長だちは自分が行きたいから盛んににすゝめるのであつた。すると最後に何と言ふかと云ふと、
 『吾々は貴國と重大なる條約の取交しと云ふ任務を擔つて居るのである。この重大なる合衆國に對する使命を果さないうちに遊興の爲に出歩くことは出來ぬ』
 と云って斷然ことはつたのでした。
 流石の米人もこれには一言もなく、成程と云つて服して居る。淡路守の日記の中にも  『彼も尤もなりと承服しけり』
 と記して居ます。
 一言一行ことごとくこの有樣で、萬事に就いで彼等を壓して居る。それだから終には何事も當方の言ふことを重んずる樣になりました。
 尚國王に拝謁したあとで一旦退席して、改めで王妃に拝謁した。その日記に、此時はさすがに王國丈あつて男と女と別にして拝謁するのは大に宜しいと賞めて居ります。又其王樣の有樣は、黒羅紗の筒袖に金の襷めきたるものを肩にかけ(参謀肩章のことでせう)『暫しありて最前の席に出づるに手續き前の如し、王の立ちし所に妃立ちたり、王妃の名は「エンマ」年の頃二十四、五容貌色は黒しと雖も、品格自らあり、兩肩を露はし薄絹を纏ひ乳邊りを隠し、腰の方より末は美しき錦の袴樣のものを纏ひ、首には珠子の飾りを吊け、生ける阿彌陀佛かと疑ふばかりなり』
と云つて居ります。
 其後船に歸り來て、話をして笑つて居ります。即ち、
 『王は金の襷をかけて飾あり、妃は阿彌陀樣の如し』さればまたそれを評するにざれ歌を作り、
 『御亭主は襷がけなり奥さんは大肌脱きて珍客に會ふ』
 この調子で仲々餘裕綽々としたところがありました。
 ハワイの方が我國より先に米國と交通して文明の利器も取入れて居たが、そんなものは使節連中は全く眼中におかなかつた。
 「サンフランシスコ」に立寄り、同市長海軍關係の午餐會に招待されて立食の饗應に與かつた。そして歸つて來て感想に曰く、
 『人々打寄り今日のこなど語り合ひて打笑ふ、凡そ懇親を現はしたる禮と見れば眞實も見えけれど、又譏りて見れば江戸市中などに鳶人足などと云へる者どもの酒宴せるは斯くあるべしと思はる』
 肉を摘み、酒を呑み、立ち歩いで喋々飲食する状は、鳶人足と言はれても致方ないことである。がまた、
 『異郷のことなればさもあるべけれども斯程までこと變りたる饗應は夢路を辿る心地せり』と云ふあたりは實に面白いではありませんか。
 南下して「パナマ」に行き、生まれて始めての汽車で「パナマ」の地峡を越えて、向ふから迎ひに來て居つた「ローノツク」と云ふ軍艦に乘つて北上し、チェサピークを遡つて到頭ワシントン」に着きました。
 ローノツクに乘つてワシントンにつく迄の航海中は、演習を行ひ大砲を發射して見せたものらしい。これに對して、
 『總じて彼れの軍法は虚にして實なしローノツク、ポートハタン、ナイヤガラ皆彼の誇りし大艦なれど精兵は僅かに十二、三人である』
 三百人から乘組員があるのに其中で本當に恐るべきものは十二三人と觀破して居る。更に、
 『其餘は皆、ソルダートマドロス皆日傭稼ぎも同じ、手銃(小銃)大砲の業に熟せしは稀なり。我が國の義理の義の一字を以て一度之を撃てば微塵にするは易きことなりと思ひけり……』
 と云つてゐる。誠に偉大なる觀察と思ひます。
 此使節がワシントンに乘込んだ時は、非常な見物人があつて岸壁に黑山を築いた。すると米國接待委貝は、如何なる國の使節が來ても斯んな歡迎のあつたことは未だなかつた、之れは一行の徳の然らしむる所なりと御世辭の心算で言つて居るが、併し此方はちやんと知つて居る。
 『之は日本を褒めた積りで言つたかも知らぬが、他の國は西洋と風俗も同じであるけれども、吾々は甚しく之と違つて居る、其違つているものが八十一人も乗り込んだのだから珍らしがつて見物する迄である。其何よりの證據に一人も敬禮するものがない、さすれば見物人と外思はれぬ』と氣付いて居る。つまり彼等がどんなに云つたとて決して煽てなどに乘つて居らぬ、其觀察の深刻なことと批評の辛辣なことは驚くべきものであります。
 ワシントンの宿に着くと、八十一名は旅装を解いて或るものは髪を整へ、髯を削り始めると、硝子窓の外にある見物人はジヤパニーズも矢張り刀で髯を削るとて珍らしさうに大評判です。
 最後にワシントンに到着して、愈々明日は條約の取交しの儀式といふ日になつた。それをどう云ふ樣にやるかと訊ねでも一向判然しない。儀禮を重んぜぬ國柄ですから無理もない。併し此方では重大な任務であります。それで取敢へず接待員と打合をして、
 『日本では斯ういふ重大な儀式は習禮と云つて、前日に其日其場に臨んですると同じことをする。そうして萬々過ちなきを期するのである。事を重んずる精神からすれば斯く爲すのが至當ではないか』
 と言つて聽かせると先方の委員が、
 『成る程尤もである。それでは今からホワイト・ハウスの都合を訊いて來やう』
 と云ふので問合せで見た處が、今日は日中は差支があつて都合がつかぬ、夜では如何かと云ふ、
 『夜は外出しない國風であるからそんな事情なら此方から御斷りする、最早習禮には及ばぬ』
 ときめつけて居る。若し仕損じでもあれば責任は其方にありと言ふ譯です。
 こうなつて來ると此方の言ふなり放題に向ふが動いて居る模樣が見える。こちらの言ふ事には皆道理があるのですから、一々向ふが服してしまふ。初め野蠻人の心算で引つぱつで來たが、心あるものは向ふで參つてしまつて居る。戰はずして勝つて居る模樣が實に明々白々としておるではありませぬか。
 愈正式會見目が來まして、大統領に對面した時の樣は殊に愉快であります。萬延元年閏三月二十八日、これが鎖國以來日本の使節が初めて國書を外國の元首に捧じた時であります。
 『己れは狩衣(通常禮装)を着せしまゝ海外にては見も慣れね服なれば彼はいと怪みて見ろ樣なれどかかる胡國に行きて御國の光を輝かせし心地なし、愚かなる身の程も忘れて誇顔に行くもおかし……』
 と云ふて居ります。其意は自分等は詰らぬものなるも自分の肩には皇御國が戴つて居るのだ。其國威を輝かして居るのである、愚かなる身の程も忘れて誇顔に行くも可笑しいと、斯う言つて居る、實に其精神は尊いものである。
 また『大統領は七十有餘の老翁で名はブカナンと云ふ、白髪温和にして、威嚴もあり、されど商人と同じく黒羅紗の筒袖股引、何の飾もなく太刀もなし、高官の人々も文官は皆同じ、斯かる席に婦人多數裝ひ出づるも奇なり、能くよく考ふるに歐羅巴のことは知らねどサントウイス島(ハワイのこと)は王國なる故大に體裁有りて婦人は別に面謁せり、合衆國は宇内一二の大國なれど、大統領は總督にて四年目毎に國中の入札にて定めける由なれば…………』
 これは實に名言だ。選擧だなど偉そうなことを言つて居りますが、正に入札に相違ない、そんなことで一國の元首が定まると云ふ國柄が何處に良いごとがありませうか。
 然るに現今この亜米利加の教育の影響を受けて國民的自尊心を失つて居る者が多い爲に、選擧等を無上の妙策の樣に考へて居るが、百人の中に正義者四十人と不正義者六十人居つたなら、不正義者が勝つではないか、正義に敵なしと云ふても選擧で負ければ實行不能に陥るであらう、村垣淡路守の示した此精神に目覺めなくてはならぬ、目覺めて見れば實際入札である。
 『……入札にて定めける由なれば國君に非ざれど御國書を遣はせられければ國王の禮を用ひけるが、上下の別もなく禮儀は絶へてなきことなれば、狩衣を着せしことも無益のことと思はれける』
 『されど此の度の御使は彼も殊更に喜び、海外へ誇りて今日の狩衣の樣等、新聞紙に寫し出せし由なり、始めて異域の御使、事故なく仰言、傅へけるは、げに男子に生れ得し甲斐ありて嬉しさ限りなし』
 えみしらも仰ぎてぞ見よ東なる
        我が日の本の國の光を
 愚かなる身をも忘れて今日ぞ斯く
        誇顔なる日本の臣
 重大なる任務を果して満腔の喜を洩して居るのが解る、それが濟んでから初めて舞踏會にも招かれて居ます。
 『某氏に招かれて一同御馳走になつた、御馳走をした人の娘さんが出て來て、音樂を奏して聽かせる、ピヤナと云へる樂器を携へて(ピヤノのこと)其音オルゴル(オルガン)に似たり、軈て唱ひ出づるに其聲更に立たず、いとも苦しげなる樣なり、其聲夜更けて犬の遠吠えの如し』
 これ名評です。
 然るに此の遠吠えする樣な苦しげな聲を一生懸命に眞似して、これが聲音樂でござると大きな顔をしてやつて居る者が現在我國に澤山ある。好なら苦しくとも我慢はするだらうが、泣くが如く笑ふが如く慄へるが如きものを態々やらんでも、日本には日本人らしいものが澤山あるのだ。のみならず此慄へ聲が判らなければ人間が古いと云ふので、肩身が狭い樣に思つて居る者があるに至つては、愈以て愚な話であります。八十餘年前に村垣淡路守が「犬の遠吠え」といと明快なる批評斷定を下して了つて居ります。
 或る時は舞踏會にも招かれて居ります。其批評に曰く、
 『男女數十組で組打をなし足をそば立て調子につれて廻ること獨樂鼠の如く(實に旨い)何の風情手品もなく幾組も廻り女の裾は風をはらみ愈擴がりて廻る樣いと可笑し之を「ダンス」と云ひて老婦も若きも皆此のことを好んでする由數百人の男女がかの食盤に行き酒肉を用ゐては此席に入り交り立ち代り踊ることとて終夜かく興ずる由なれど己は實に夢か現か判らね許りにてほんに呆れたる事共なり』
 『凡そ體なき國と雖も外國の使節を宰相の招待せしには無禮此上もなし刀に手をかけ咎めても限りなし、禮もなく儀もなく唯親の一字を現はすと見て許し置く』
 この寛裕大なる氣宇、即ち八紘一宇の精神が現れで居る。外交は御辯茶良や御世辭や媚態では追付くものでない。矢張り正義である。眞に心すべき事である。
 向ふでは此方を子供扱ひ、野蕃人扱ひにして得意になつて居つたのでありませうが、事實は此方が先方を子供扱ひにしたのであります。
 そこで砲臺を見せられた時に斯う言つて居る。
 『合衆國第一の砲臺と云ひて、周圍一里直徑六町あり、大砲は能く磨きてあり(向ふは大いに驚かしてやらうと思つて居るのだがちつとも恐れで居ない)按ずるに、己は砲臺のことは深く知らねば得失の論は言はぬ、されど目當もなき海面に向ひ河口をば遥か隔てたれば、實用には如何あらん。所々の砲臺を見しが多くは飾物にして實用薄し。實用は軍艦の方遥かに勝りてあるべし。(それは「ナイヤガラ」當時亜米利加のニューメキシコとペンシルバニアとかに當る其の當時亜米利加第一流の軍艦を見て居るからそれを云ふのです)實用には軍艦の方が遥かに運用自在の融通性を有し且經濟的である』
 と看破して居る。ワシントン滯在中海軍造船所も見て居りますが、向ふでは此所で文明の威力を示さうといふ考から周到な準備をして、鋳型に湯を注ぐ所、大砲の穴をくる模樣から大砲の彈を削る操作に至るまで見せて居る。さうすると何んと云ふかと思ふと斯う言つて居る。
 『大砲の巢中へ錐を入れ外を削り又大砲の彈丸が見るが中に百の數も出來たり、銅鈑を延ぶる等眞に奇なり、此の機械は我が國にも用ひなば國益いう許りなしと思はれける』
 便利な機械ぢや、小使錢が殘つたら買つて行つて役に立つだらう。機会か偉いのだ何んにもそんなに驚くことはない。買つて歸つたら爲になるだらう。それだけの事で少しも驚いでは居らぬ。
 或時宴會の席上で宴酣なる時、多くの少女十七八歳の金髪娘が接待をしました。此時に主人役が得意になり、メリケンガールとジャパニーズガールと比較して何れが宜しいかと奇問を發した。村垣淡路守は暫らく默々として居たが、一同の瞳は其答辯は如何と淡路守に注がれた。然るに淡路守の答は意外にも、
 『メリケン娘宜しい』
 とあつた。其理由はと聞くと、アメリカガールは色が白く肌が緻密だからと云つた。米人一同は總立ちとなり狂喜してメリケン娘萬才ばんざいと跳ね廻はる。淡路守此樣を見て苦笑しつゝ
 『ささいなる御世辭の言葉に迂頂天となり狂喜亂舞するとは、げに愚なる者共なり』と一笑に付してゐます。
 八十餘年後の今日、淡路守以上に、適切なる西洋文明を批評し得る人が幾人あるか甚だ疑はしい。歸りはフイラデルフイアを經てニユーヨークまで汽車で行きまして、ニユーヨークからナイヤガラと云ふ亜米利加第一の軍艦に乘つて「ケープタウン」に寄つて、大成功裡に萬延元年九月二十八日に日本の品川に歸つて來ました。正に世界を一周した譯です。聊も文明とは表面を云ふにあらず、眞に道徳普く行はるの儀であつて外觀の美を云ふのではない。眞の文明國は弱國を侵したり、威赫恫喝したり残忍酷薄己を利するが如きことは丈明國ではない、野蠻國である。大義名分を立てゝ世界に闊歩すべきである。日本は正義の國である。世界は之れに信頼し、追從して來るが良い。即ち八紘一宇の精神で正義正道を行ふに當り之れを遮るものあらば千萬人と雖も吾獨り往かんの意氣で邁進すべきである。

引用・参照・底本

『「日本精神の眞髄」 切腹・男・肚』著作者 人見順士
康徳八年九月一日第五版發行 發行者 山中泰三
(国立国会図書館デジタルコレクション)

(参考)
『国防の将来』河村幹雄 著 白水社 昭和十八年四月五日發行
202-220頁 五 「正しき米國批判―村垣淡路守の卓見」
『日米不戦論』河村幹雄 著 (海軍研究社, 1930)
135-153頁「正しき米國批判―村垣淡路守の卓見」
(国立国会図書館デジタルコレクション)