『擾乱の日本 蜷川新評論集』蜷川 新著

   目 次

 ま え が き

 外交と政治問題

 八千万は獄舎の生活
 「世紀のサンフランシスコ会議錄」を読みて
 どちらが侵略者か(三十八度線前後)
 半獨立から脱出するの道
 三 社会主義国における人民の福祉

 天皇論・憲法論

 天皇は人間か、否かの問題
 憲法に抵觸する講和条約案
 保守黨への疑問八ケ条

 虚僞の維新史

 維新史に沢山のウソがある
 一 無血革命「維新」
 二 吉田外交と違う幕府外交
 三 頻発する「破壊活動」
 四 「尊王」「攘夷」の真相
 五 暗殺された孝明天皇
 六 幕末の名奉行・小栗上野介の事業
 七 西郷は強盗団の首領
 八 無能な慶喜
 九 勝てば官軍
 尊王主義による暴力の破壊活動
 尊王主義とその禍
 日本にも革命はあつた
 價値なき日附(紀元節は古来からの行事に非ず)

 (1)-(4)頁
 ま え が き
(目次)

 大東亜戦争の悲惨なる大敗のために、日本人としては、古今未曾有の戦禍を、一人の例外もなく、蒙つている。その失態にこりたところから、国を挙げて、「平和日本」の出現を、今の日本人は、みな、念願している。
 それならば、日本の現実は、どうなのであろうか。
 いたるところに、日本人のあいだには、権力に対する反目がある。大小の衝突がある。暴力の使用さえ行われている。擾乱こそあつて、平和は見られない。いま現に、神聖なるべき裁判所においてさえも、幾多の警官が平和の人民に対して、暴力をふるい、「あたかも、地獄の裁判所の如し」と嘆かれている。文明も平和も、そこには、まつたく見られない。まさに擾乱の日本である。
 日本国の空域には、全国いたるところに、外国のおそるべき飛行機が、飛び廻つている。そして爆音を不愉快にに立てながら、全日本人の平和的な精神をときどき脅威している。八千万人の生殺は、まつたく外国人の掌中に握られている。米人のもつている日本にたいする権利は、恐るべき権利である。なんの平和が、そこに在るであろうか。
 政府や、NHK放送局や、御用論者などは、「外国の飛行機によつて、日本は、外敵からの襲撃をまぬがれている」のだ、と宣伝これ努めている。だが、日本の北方にも、西方にも、南方にも、日本への襲撃を準備している国は、結局はいないのではないか。
 労働者は、労働権を保障されている。そしてその権利の実行を念じ、メーデーを楽しみ、その地位の向上を、全市に穏やかに示威したのであつた。それであるのに、その平和的な行動は、多数の警官の暴力に制圧されて、両者の大衝突となり、世界にも稀れにみる不吉の乱射となつたるそこに日本の平和は、まつたく破れ去つた。
 検察官は、それを騒擾罪と認め、検挙された労働者は、実に多数を数えるにいたつた。悲しむべき一大事件ではないか。擾乱の日本は、今のこの日本の現実である。平和日本は、ただ単に、空名に過ぎない。
 日本の全土には外国の大軍が駐屯している。その大軍には、世界の何処にも見られない強度の治外法権が、与えられている。外国の保護下に立つ憫むべき国になつているのである。
 外国の一水兵でさえも、日本を軽侮し、日本人の人権を侵害して憚らない。いまの日本は、国を挙げて、外国人の権力の下に在るに均しい。それは、平和日本ではない。それは、乱脉の日本というべきである。
 内閣は、憲法を無視し、与党は、これに追随し、違憲の条約を調印した。そうして、それを多数の力をもつて、成立せしめた。憲法とは「国の組織」である。国の組織を破壊することは破壊活動の最も大袈裟なものである。それは暴力政治と解釈するよりほかに、適当の表現がない。今日までの日本の内閣と、国会とは、平和日本を忌み嫌つて、「騒擾の日本」を生ぜしめているのである。
 世界の論客は、「極東は戦場である」と、称している。これは、けつして不当の言ではない。日本の本土を、軍事基地となし、そこから、陸、空、海の外国の兵力は、つねに北鮮の戦場に出入しているのである。日本に在るこの外国軍の基地は、北鮮軍から見たならば、当然に、攻撃を加えることのできる地域であるのだ。このような事態がある。日本には、平和は存在しない。現実に戦争区域内に、われわれ八千万人は置かれているのである。危険きわまることである。
 日本の右のような現実は、ポツダム宣言によつて生じたものではない。旧軍人が作つたものでもない。降伏という事実のために、できてしまつたものでもない。それは、実に、吉田内閣と、それを支持した党人とが、好んで製造した事態なのである。
 私の志すところは。日本の独立と、平和と八千万人の幸福と、名誉とに在るのである。私は、公明正大をもつて、みずから信じている。他念はない。
 この著書は、右の論文を収録したものが、主体となつている。それに若干の、新稿による論文を加えたものである。平和日本を建設し、時局救済に志す同志の一読を希う。

 一九五二年十月十五日
               大磯にて
                       蜷 川 新

 占領から講和の総選挙まで
 外交と政治問題

 (16)-(18)頁
 八千万は獄舎の生活
(目次)

 平和条約と安保条約批准の前に

 (一)

 「独立はしたけれど、八千万は獄舎の生活」(「日本週報」一八八号)の見出しは、いまの日本の青年に、どんなふうに読みとられたであろうか。平和会議が、サンフランシスコで開かれるとの報道が日本に伝わるや、提灯行列を威勢よくやつて、大いに祝うべしと唱えた人間が、日本にはいた。
 全権の一人に加えてもらって、その履歴を飾りたいと、申しでた政治家さえ、日本にはいたのだ。平和条約の調印式に臨んで一大功名をたてたように考えている人間は、「八千万は獄舎の生活」だと大きな立て看板を見せつけられて、どんな顔つきをしたことであろうか。

 (二)

 サンフランシスコにわざわざ出張して、極めて無雑作に調印した四十余の国が、早速に、無雑作に批准したならば、日本人はそれに押されて、「批准を急げ」と叫びたて、いやおうなしに批准するようなことになるのであろうか。アメリカからの電報では、「日本まず批准せよ」と、ゆっくり日本の批准を待つている。小ずるいアメリカである。しかし、「獄舎の生活」を喜び迎える日本人は、はたして幾人いるであろうか。

 (三)

 条約を批准するには、各国いずれも、その国の憲法に従つて、これを行うのである。リツジウエイ総司令官も、過日このことを注意して、日本全人民に伝えている。しからば、日本の憲法に照らしてみて、平和条約と安保条約とは、果してどんなものであろうか。それについて、意見を公表している人も少しはいる。それらの意見は、何故か安保条約の方にのみとらわれている。また論旨が甚だ薄弱である。それもその人の自由ではあるが、しかしながら、お互いに日本人は、調印された二つの条約が、いずれも、日本の憲法に抵触していることを知ることが、急務である。つぎに、著者は、その点を指摘してみよう。

 (四)

 平和条約の第五条のCが、まず一番目につく憲法違反の条項である。同条文では、「連合国は、日本のために交戦権を認めており、日本国はそれに合意している」。すなわち日本は、この条文をもつて「交戦権を認めた」のである。それは、憲法九条の末文「国の交戦権はこれを認めない」の明文と、まつたく容れないのである。どんな人間にも、この抵触は、ただちに理解される。その条文に書いてある「自衛の固有の権利」という文字は、「交戦権を含むものであること」は、国際法上、なんらの疑問はあり得ないのである。
 平和条約第五条の(3)について見るのに、「あらゆる援助を与える」と明規してある。そのあらゆる文字の中には、武力援助は当然に含まれている。武力援助には、「軍備」と、「交戦権」とが含まれている。それゆえに、この条規は、憲法九条全部と抵触しているのである。

 (五)

 さらにまた、安保条約を検討して見る。それには、「日本が自国防衛のため、漸増的に、自ら責任を負うことを期待する」との前文を置いたことは、アメリカの「一方的の宣言」ではなくして、「日米間の合意」の表示である。政府は、その文面を説明して、「日本が、再軍備を義務づけられたものではない」と、世人に向つて、弁解している。この発表意見は、条約上至当のものと認めることは不可能である。アメリカ一方の宣言でないからである。日本は、アメリカの期待に、合意しているのである。条約は、二国の約束を、文面に現わした合意文だからである。アメリカは、日本に向つて、漸次に軍隊を増設し、日本自身で、日本を防衛し得るに至ることを、公然、日本に向つて要求した。すなわち期待したのである。日本は、それに応諾して、この条約を結んだのである。
 この解釈に対し、「あれは、米国の勝手な期待である。あれは、日本として、本気にするにおよばない。日本には、再軍備の義務はない」などというならば、それは米人に対する背信行為である。

 (六)

 条約案は、それを否決することも、国際法上、可能である。不法ではない。またもしも可決しようとするならば、まず憲法の改正をおこなうことが、絶対、必要である。
 二つの条約案をどう取扱うべきかは、目下の大問題である。全日本人は「主権は民と共に在ること」を自覚している。その人民は、この重大問題を、政府や、与党の保守議員や、若干の条約賛成者に、まかしてはいられないのである。このような違憲の条約案に調印して来た日本の全権は、この問題に対して、どうその身を処理するのだろうか。
 独立国の名は、日本が降伏した所で、失つたわけではない。それは、占領は征服ではないからだ。しかし我ら日本人は、いま獄舎の中に押し込まれているのだ。実に悲哀の極みだ。ただし、八千万人は、ただ泣いてその日を過していてはならない。それは自殺であるからである。
〔日本週報〕昭和二十六年十一月

 (19)-(20)頁
 「世紀のサンフランシスコ会議錄」を読みて
(目次)

 ソ連代表グロムイコと、チェコ代表セカニノヴァの、アメリカに対する攻撃は、理論の上からいえば、傾聽すべきものがある。
 アメリカは、これを聞いて、恐縮なきを得なかつたであろう。中共を、条約の当事国としなかつたことは、弁明のことばはあり得ない。
 日本から、一切の軍備を剝ぎ「永久に戦争をしない」との憲法を作らせながら、日本に、軍備を、制限なしに承認し「交戦権を認めたこと」は、他国から攻撃をうけるための工作であると評されても逃げ道はない。
 ソ連を誘つて、日本に宣戦せしめたことを、アメリカ人は、「アメリカ外交の失敗でない」とは云いきれないであろう。
 アメリカ人からも、第三国人からも、サンフランシスコ会議は、非難を蒙ることはまぬがれない。
  ☆
 日本人として、グロムイコおよびセカニノヴァの演説を読むときに、彼らは、日露戦争の歴史を知らないと思える。
 また彼らは、その以前の東洋の歴史を知らないことを、私はあわれに思う。 シベリアの東部に侵入したのは、どこの国人であつたのか。満州蒙古を侵略して、日本を脅やかしたのは、どこの国民であつたのか。それは、ロシアの軍隊ではなかつたのか。
 これを知りつつ、日本を「侵略国」であるというならば、彼らは横著極まる人間である。
 ポーツマス条約の歴史を、彼らは知らないのか、知って世界を欺くのか。
  ☆
 ルーズベルトとチャーチルとが、カイロに会合し、日本を「盗賊国だ」と宣伝したのと、彼らの長広告(ママ)とは同一対である。
 「正義だ」「平和だ」と唱えながら、歴史を無視して、日本人を罵るのでは、それこそ正義や理論がが、それを通さない。
 ただしその場で、彼らを巧みに取扱つたり、責問したりするだけの能力と、学力の備えた日本人がいなかつたらしいのは、日本人の名誉ではなかつた。
  ☆
 真珠湾のあるハワイ島は、いつアメリカ人が侵略したのであつたか。昔からアメリカの領土でなかつたことは、出席した人間は、みな知つていたところであろう。
 ミッドウェーでも、グァムでも同じである。イギリス連邦は、侵略なしに出来たものであろうか。侵略には、時効ががあるのか。日本人にのみ、侵略者の罪名を附するならば、それは背徳である。
 またそれは不法な誹譏罪を構成する。これは、日本人に対する区別観であつて、平等は虚偽だということになる。矛盾だらけだ。
〔日本週報〕昭和二十六年十二月

 (23)-(24)頁
 どちらが侵略者か―三十八度線前後
(目次)

 日本から朝鮮に出兵し、「北鮮軍を、満州国境まで、駆逐すべし」と公言した一米人がいた。それは「三十八度線を越えて、侵入すべし」ということである。その人が、同時に、自衛による北鮮軍が、三十八度線を越えて、南鮮に突入したことを、「侵略」と罵り、「侵略者討伐」といつていた事は、甚だ理論無視である。「北進することは、初めから、何ら侵略ではないと呼称し、ただ南進のみが、侵略だ」というならば、そこに何の道理があるのであろうか。理論を重んずる人間には、ただ恣ままな言辞とのみ解されるのである。国際連合安全保障理事会の理事者は、理論を重んずる文明人でなくてはならない。それでなければ、世界の平和はたもたれない。英国はそれに公然、賛辞を電送した。
 国連軍は、一九五〇年九月十五日に、大兵を仁川に上陸せしめて、北鮮軍の背後を襲うの戦法を取り、それに成功した。
 北鮮軍は、敗れて北方に走り、国連軍は、大挙して北進した。米英仏などの大兵は、三十八度線を、十月七日に遠慮なく越えた。北鮮軍の抵抗なくして、この国境線を突破したのである。それは彼ら即ち国連軍側の、いわゆる侵略ではないのか。彼らは、そのとき三十八度線に停止して、休戦を、北鮮政府に、申し出るのが、正しい方法ではなかつたのか。国連軍総司令官マッカアーサーは、この外交的な穏やかな方法を履行しなかつた。果してそれが彼のいう正義か。
 それは、果して平和尊重の行動であつたろうか。
 国連軍は、勝に乗じ、一九五〇年十一月二十一日、朝鮮国境に向かつて、急速に進撃した。それのみではない。中華人民共和国の東北部、すなわち満州の飛行場を爆撃した。それは、明らかに不法の攻撃であつた。隣邦の中共としては、その国土と人民とを防衛するために、また鴨緑江の水豊ダムの利益を擁護するために、当然に、自衛権の発動は免れ得なかつた。
 そのために、中華人民共和国の大軍は、国境に集中されていた。世界は、充分に、この事実を知つていた。しかるに、国連軍側は、これに対して、何ら外交上の処置を行わなかつた。このことは、平和をモットーとする国連の大なる過失であつた。慎重を欠き、横暴の態度であつた。
 国連側に、大きな失態があつた。中共軍の大兵は、十一月一日、国境を越えて、自衛権により、北鮮に入つた。国連軍は狼狽した。そうして「中共の侵略」と呼称し、世界に宣伝した。しかしながら、それは、理由のない言葉であつた。中共の大軍は、国連軍を攻撃した。東方及び西方において、国連軍は、戦いに敗れた。後退また後退した。形勢は、一変した。国連軍総司令官マッカアーサーのいつた「クリスマスまでに、朝鮮の動乱は平定する」の豪語は、一朝にして消え失せた。
 中共軍、ますます南下し来つた。平壌は北鮮軍の占領に戻つた。三十八度線をも、突破した。中共軍は、、報復手段として、京城を占領した。国連軍は、兵力足らず、一時は、全然、勝算はないほどであつた。国連軍側は周章した。
 北鮮軍は、他国製の武器を使用している。南鮮軍も、同じく他国の武器を使用している。それは、各々自由である。
 北鮮軍には、多数の中共の義勇兵がいた。南鮮軍には、数十万の白黒などの外人がいる。一方のみを悪くいうのは、理論をなさない。公平を失しては、正論とはならない。

(引用者 註)
『秘史 朝鮮戦争』ストーン著 1966年12月1日再版発行 青木書店
 87頁
 国連の朝鮮問題との関係では、そもそもの最初から、アメリカ側が既成事実をつきつける戦略と、これを国連側がすぐ黙々と承認する態度とが特徴であつた。

 90-91頁
 『ニューヨーク・タイムズ』の外交記者ジェームズ・レストンは書いた。「外交的手腕と、他人の見解や感覚への大きな配慮こそ、彼の新任務にとって必須のの政治的資格である。しかみ、まさにこれらの資格こそ、マッカーサー元帥にはこれまで欠けていたと非難されてきたものである」。
(引用者 註終)

 半獨立から脱出するの道 (目次)

 (42)-(44)頁
 三 社会主義国における人民の福祉
(目次)

 米国人は、自国の富を守るがために、社会主義国、共産主義国を、極力罵倒して、その主張を、他の国の人民に、押し売りしている。それは、正当の防衛方法といえるであろうか。またそれは、人民の福祉に対して、誠実の方策であろうか。米人のためには、資本主義は「不可離のもの」とされている。もしただ単に、それだけの宣伝であるならば、それは、他国のために、無害であつて、列国人も共に、それに対しては、何らの異存もない。しかし、各国は独立である。各国人は、各々人権を有している。日本人は、日本の憲法をもつて、その人権が。保証されている。日本人は、米人の資本主義の押売に、服従義務をもつていない。日本人は、この理を確守すべきである。
 米人はいう、「ソビエット式の諸国は、奴隷の国である」また「そこには全く自由はない」と。それは、嘘である。ソ連式の諸国の憲法が、その嘘であることを立派に証明している。またソビエット式の諸国の人民は、三十余年以来、深く広く、文化に浴し、その生活は向上し、その生産は昇り、過去のロシアに比して、非常な発展を示している。それは、ソビエットロシアからくる種々の書册や絵画や映画が、すでに日本人に充分に、明瞭に示している。それを信じない日本人は、頑迷なる懐疑者である。近来チャイナからくる書册、絵画についても、彼らの進歩発展の実情は、すでに明白である。米人らも明日にも、中共は、蒋一派のゲリラによつて、潰滅するなどと、宣伝するけれども、それは、甚だしい詐偽である。(「赤い中国の横顔」に、その事が論じてある)今日の米人の宣伝は、ただ米国のためである。人類全般のために、米人は人類の福祉を祈つているのではない。米人の資本主義堅持の政策は、他の人類のためには、決して幸福となるものではない。
 たとえば、「朝鮮の事件」に関しても、米人が、自己の軍力により、その軍を軽々しく朝鮮に出したがために、朝鮮は、大動乱の国となり、三年にして、平和は成らず、三千万の人民は、非常な苦況に陥つたのである。それは、朝鮮人の最大多数の認むる所である。また台湾に関しても、米国は、中共の権利であるチャイナ統一を妨害し、中共人を憤らしめ、無益に、蒋一派亡命者の一団をして、台湾を占領せしめているのである。米国の干渉あるがために、極東には、平和が、乱れているのである。それは事実であるから、言を曲げることは。できないのである。
 ロシア、チャイナ、北鮮、安南には、ソビエット式の政治が人民から好まれている。そうしてその地方の人民、その数合計、八億は、その新しい文明と、その人間としての幸福とを、楽しんで生きているのである。それを妨げる国があるならば、それは人民の敵である。共産主義、社会主義は、今では空論ではない。初めからこの思想は人類の幸福進歩のために、仏英独の学者によつて、真面目に唱えられている主義である。この学説を排斥する政治は、今日として文明ではない。それは寧ろ、社会の破壊であり、野蛮である。また東欧の人民は、ソビエット式の政治をもつて、好く治められ、文化は進み、産業は展け、かつて土耳古の領土であつた時代のバルカンに比すれば、全く別の天地となつている。それを知らない日本人がいるならば、その人は無知である。事実を知らずに、彼らを嫌う人は、正しい人間性をもたない人である。あるいは他国の宣伝におどる軽薄の人である。
 日本にも、今日では、ロシア人の新しい文化と健全な生活とを、紹介する真面目な書物が、グングン出版されている。たとえば、山田清三郎氏著、「社会主義から共産主義へ」の如きは、「ソビエット市民生活の現実」を、説いた著書である。一読して、 誠に驚嘆すべきロシア民族の進化しつつあることが好く分る。今日において、ソビエットをただ単に野蛮人視して、憎悪し、米人の宣伝にのせられて、偉大なる世界の眞事実を、無視している日本人は、新時代の文明からの、落ご者というより他にない。資本主義に養われている日本の新聞やラジオは、故意に、日本人を迷わしめている。彼らは、利益のみを追つており、日本のために、大きな禍いをなしている。
 政府や保守政党には旧人の人や頑迷者のみあつて、真の自由人、真の進歩人は、さらに、いないように見える。日本の政界の大きな失態である。

 天皇の考え方と正解新憲法
 天皇論・憲法論


 (96)-(97)頁
 天皇は人間か、否かの問題
(目次)

 (一)
 今日の天皇は、今日の憲法により、「その地位」が定められてある。旧憲法や、御用学者の日本歴史や、国学者や、神主や、旧軍人、官僚などの法理や解説などは、まつたく無関係となつている。いまの若い人には、すでに、それが充分に理解されていることと私は信ずる。老人や壮年者は、よく学生たちの心事を理解すべきである。

 (二)
 「天皇は国の象徴であり、日本国民統合の象徴であつた。この地位は、主権の存する日本国民の誠意に基づく」と憲法第一条には、明記してある。この条文はだれでも知つている。日本国民が、自ら決めたのである。

 (三)
 法理上、「象徴」すなわち「シンボル」というのは、「権利の主体」ではない。ただ単に「印し」で、「物」で、重要性のないものである。法理上からいえば「天皇は権力の主体ではない」という意義の文字に過ぎない。文学的に解釈してはならない。
 すなわち、旧時代の天皇の地位が、全く変化し、「統合者でないこと」、「民の父でないこと」を明らかにした文句に過ぎない。学生にはそれが好く分つている筈である。

 (四)
 天皇は人間であることは、天皇自身が公表されたことである。憲法上、人間は、法律の前に平等である。天皇は、人間として、他の人間と平等であることは、だれでもよく知つている。それらの、ある学生たちが、天皇にたいして質問しようとしたところで、それは、憲法上、何ら差支えない筈である。何故に、世人は、それを非難するのか。
 それは旧憲法下の考え方の人のみが、口にし得る錯覚である。佐倉の昔の義人の考え方よりも、一層、不可解の思想の持主というべきであろう。何のために、今日の憲法があるのだ。世人は、その学生たちに対して詫びるべきである。

 (五)
 今日の憲法を無視した「天皇神聖時代」の錯覚を持ち出す人は、今の日本の秩序を破る人である。特に、公務員であつて、この錯覚を持ち、それを、口にする人は、憲法第九十九条を謹読して、その不法を世の人に詫び、民主日本のために、その心がけを一新すべきである。ともかく、そんな違憲の言論は、憲法上、無効である。(第九十八条)


 (112)-(113)頁
 [提言]
 憲法に抵觸する講和条約案
(目次)
  国会はどう取扱うか、此の大問題を

  〇
 対日講和条約は調印された。しかし、その条約の中に、日本憲法第九条を無視した条規(第五条C)がある。日本憲法第九条には、「国の交戦権は認めない」と規定してある。然るに、講和条約第五条のCには、「外国に対して、交戦権を行使し得ること」が規定してある。二者は、全然相容れない規定である。その抵触は明白である。
  〇
 吉田内閣は「憲法を誠実に執行すべき憲法上の義務」を負うている。(憲法第七十三条)吉田首相が、憲法九条を無視して、講和条約に調印したことは、憲法違反である。憲法を「誠実に実行しない」のである。憲法上、その責任を免れ得ない。
  〇
 全権委員は、行政官である。この行政官吏は、自ら好んで、憲法九条を無視して、国に交戦権を認め、講和条約を調印した。それは、憲法に反する不法の行政を行つたものである。その憲法上の責任を、免れることは出来ない。(憲法第九十九条)
  〇
 憲法に反する行政は、憲法上、無効である。(憲法九十八条第一項)それゆえに、講和条約の調印は、無効である。調印は行政行為である。
  〇
 国会は、憲法上、無効の講和条約を、承認する権利をもつていない。義務は勿論ない。
  〇
 国会には、吉田内閣支持の党人が多数いる。それら多数の議員は、多数を頼んで、無効の条約調印行為を、有効と認めることは出来ない。憲法の法理がこれをゆるさない。
  〇
 連合国は、日本国をして、その憲法を無視させる権利を有しない。(ポ宣言、国際法、講和条約前文)
  〇
   日本の人民としては、憲法を改正し、且憲法の「前文」を改正した後でなければ、講和条約を認めることはできない。(憲法「前文」)
  〇
 この重大問題を解決するには、内閣を一新し、衆議を一新し、一切を革新して後に、批准の議を行うよりほかに、方法はないであろう。

 〔労働法律旬報〕昭和二十六年九月

 (114)-(115)頁
 保守黨への疑問八ケ条
(目次)

 (一) 保守政党人は「再軍備が必要だ」と揚言する。「軍備は憲法が禁止している」のを承知しながら、軍備の必要を公言する党人は、「憲法反古紙論者」であつて、「暴力革命者」に酷似する。それで党人は済むものであるか。明答を要求する。
 (二) 「平和条約と安保条約とに基づき、再軍備はやむを得ない」と党人は、公言している。その言は、憲法違反の行政をあえて行つている。「内閣の違憲」を是認し、不法の共犯者となることであるが、それで「責任政治が日本に存在する」と言い得るか。またそれは「ポ宣言違反ではない」と言い得るか。明答を国民はその党人に要求する。
 (三) 「再軍備は、共産勢力の直接、間接の侵略に対する防衛として行うのだ」と党人は公言する。そんな断言が、どうして出来るのか、その証拠を、八千万人に示す責任がある。噂さや想像では、無責任の党人となる。明答すべきである。
 (四) 勝手に敵を想像して、「それに対する軍備を作る」として、果して幾千の兵力、如何なる武器、どんな防衛方略があるのか。それを明示しないで、再軍備を主張するのは児戯に類する。その点を党人は、国民に明示すべきである。
 (五) 資本主義のために「犠牲精神を発揮せよ」と、党人は唱える。主義主張は、憲法上自由であるときに、そんな主張が、憲法保持の責任ある日本人に向かつて唱え得ることであるか。党人は明答すべきである。
 (六) 党人は「軍統帥権は議会(国会の間違いだろう)にある」と唱える。戦略、戦術、作戦などについて、戦局ごとに国会でいちいち決議するのか、議長二人に委任するのか、その方法を明示せよ。デタラメでは通らない。
 (七) 「ファッショへの途を開くな」と党人は唱える。ファッショとは、イタリア語の「結合」の意であり、ムッソリーニの一声に全党人の動くことを意味していたが、日本で流行する「ワンマン」とは、別個のものであろうか。党人に自由がなく、ただ内閣の御用団体ならば、それがすでに、日本式フアッショと、識者の目には映るのだが、党人のいうフアッショとは、どんなことなのか。明答の責任がある。
 (八) 外交は、国本位の機略である。今の世界の如何なる国の外交家も、倫理や宗教の説教者ではない。知れきつたことである。それなのに、「資本主義国の外交家は聖人」であつて、「社会主義国の外交家は一切詐偽者だ」というようなことを、党人は平気で口にしているが、それはウソか、本気か、無知か。党人は、正直に人民に向つて答えることが大切である。その明答を要求する。
〔日本週報〕昭和二十七年五月

 生き証人が語る尊王の禍い
 虚僞の維新史

 (158)-(188)頁
 維新史に澤山のウソがある

 一 無血革命「維新」 (目次)

 「維新」を、徳川幕府の権力が、天皇に移つた事態である、とするならば、それは、慶応三年十月、将軍慶喜が、自己のもつていた権力を、独断で放棄した際に成立した、「一つの無血革命」と云わるべきものである。明治政府は、自己の権力に箔をつけるため、革命という語を嫌い、復古という語を、しきりに唱えた。御用学者もまた、この重大な事実を、「大政奉還」という非法理的な曖昧な語をもつて、誤魔化してきた。七百年来、武家政府が握つていた主権が、それまで無為無力に存続してきた天皇の手に移つたのである。革命に相違はない。
 日本国の主権は、日本の歴史が、明白に証明しているように、天智天皇以後、約二百年の間、天皇の手に握られたことがあつたが、それからは、藤原氏、平氏、源氏等々と、革命に革命を重ねて、徳川氏の手に移つていたのである。従つて、初めから、権力のなかつた天皇に、国の権力を、還えしようもないのである。「奉還」という文字が、いかに、真実を誤魔化したものであるか、それだけでも明白となるであろう。それならば、慶喜は、一体、何のために、その権力を放棄したのであろうか。
 慶喜が、その際、朝廷に呈出した上奏文は、左のようなものである。
 「当今外国の交際日に盛なるにより、愈朝権一途に出不申候ては、綱紀難立候間、従来の旧習を改め、政権を朝廷に奉帰、広く天下の公議を尽し、聖断を仰ぎ、同心協力、共に皇国を保護仕候得ば、必ず海外万国と可並立候云々」
 一見して、理義は明白である。すなわち、「我国の統治を行う権力を、天皇に帰一せしめ、公論政治を行い、皇国を保護するならば、海外諸国と並立することができる」というのである。慶喜は、西周から、立憲政体の講義をも、うけているのである。慶喜のこの精神は、その後、土佐藩人や越前藩人に引きつがれ、「広く会議を起し、万機公論に決すべし」という「五ヵ条の誓文」のうちに、一応、実を結んだのであつた。
 しかしながら、慶喜が、この政権放棄をなした後に、薩長や公卿の策士らが、いかに、彼ら進歩派の精神を踏みにじつたかは、続いて起つた不法残虐な戊辰戦争や、更に五ヵ条の誓文を反故紙化した明治天皇、及び藩閥政府の歴史がそれを明白に示している。そのことは、彼らの言動をみれば、当時すでに、判明するはずのことであつた。慶喜は、敵を知らず、自己の軽率な行動の結果、日本国を、策士らの跳梁に任せたのである。その精神は認めなければならないが、政治家としては、何分にも不明であつたと断定せざるをえない。
 要するに、「維新」とは、このようなものであつた。しかし、その維新前後において日本史上、未曽有と云つていいほどの、陰険な詐略と暴力とが行われたのである。

 二 吉田外交とは違う幕府外交 (目次)

 嘉永六年(一八五三年)アメリカ使節ペリーが、開国の要求をもつて、日本に来た。その時の中央政府の要人、老中阿部伊勢守は、積年の憲法を無視して、そのことを、朝廷に奏聞した。そうして勅許を請うた。公卿の策士らは、直ちに阿部のこの大失政に乗じた。彼らは、水戸藩をはじめ、主として長藩の不平分子と連絡して「攘夷」を唱えることにより、自巳の天下取りの野望を満たそうとした。従つて、幕末における秩序混乱の最初の責任者は、実に不決断の人、阿部伊勢守であるといえる。
 そのご、大老井伊掃部頭の大英断により、日本は、開国主義の国となり、安政条約が締結された。この安政条約にたいしても、頭迷な攘夷論者は、日本が、外国に降伏し、「城下の誓いを為したもの」の如くに宜伝した。彼らは、「通商条約」と「降伏」とを、同じ事のように思つたのである。更にまた、幕府が条約を調印したことを、「天皇の希望に反し、不忠である」と称し、不忠を口実として、幕府を攻撃する尊王論者も出た。それらの人々は、就中その条約の中にある「治外法権」が、国辱であると、宣伝した。彼らは、国際法を全く知らず、治外法権は、国際法上の規則であつて、外交使節や軍隊に、それが付随するという法理を、全然知らなかつたのである。更に又、東洋においては、その当時においては、習慣の異る西洋諸国との条約には、必ず治外法権の伴うものであつたことを、全く知らなかつたのである。このことは、日本では、私が、はじめて論じたことであるが、後年、牧野伸顕氏も、それを真似て、「治外法権は、土耳古に始り、以後欧米諸国非基督教国との間に、国交が結ばれる際には、それが、必要条件として、条約文に挿入されるのが、慣例となつた」、と書いて居られる。(「日本の過去を想ひ将来を憂ふ」「文春」昭和二十四年五月号)
 のみならず、安政条約に認められた治外法権は、日本国の一定の、然かも数箇の場所に限つて、小地域の居留地を認めたにすぎない。それを.現今の「行政協定」で認めた、恰も、日本国の領土と領水と空中において、米国の法律を伴う「一大米軍人の集団」が、無期限に存在するがごとき治外法権と、比べるならば、その大小強弱において、非常な差異があることが.理解されるのである。安政条約締結の全権となつた岩瀬肥後守や井上信濃守は、その綿密な論究や、論理的な議論によつて、全権ハリスを初め、米人を閉口せしめ、「このような全権を得たことは、日本の幸福である」、と讃嘆せしめている。今日の吉田外交とは、けたが違うのである。
 このようにして出来た安政条約ではあるけれども、所謂「尊王攘夷」論者は、野心に燃え上り、ますますそれを攻撃し、公卿と結託して、日本国の秩序を乱した。中央政府の責任者である井伊大老が、それの弾圧に乗出すことは、当然であつた。井伊の行動は、当時の国法即ち憲法からみて、全く合法的な行為であつた。しかし、いかに封建時代とはいえ、その弾圧が過度であつたために、感傷的な人心を刺戟し、ついに櫻田門外において、暗殺されることになつたのである。

 三 頻發する「破壊活動」 (目次)

 「尊王攘夷」論者は、今日の吉田首相のいう「破壊活動」を、引きつづき行つた。彼らは、多くの平和な外人を、殺傷した。井伊大老亡き後、中央政府を背負つていた名外交家、老中安藤対馬守を、坂下門で襲撃した。安藤は、背に深手を負つたけれども、駕籠を下りて歩いて帰り、屋敷に帰つた後、はじめて、家来たちもそのことを知つたほど、剛気大胆な人物であつた。後年、大隈重信なども、彼のことを、「英雄」であると、激賞している。襲撃した暴徒は、七人である。六人はその場で殺されたが、一人は薩摩屋敷に逃げこんだ。その男は、そこで待つていた伊藤博文と木戸孝允に会い、そうして腹を切つた。
 伊藤や木戸は、いつも蔭にかくれて、そういう破壊をやつていたのだ。
 伊藤は、その少し前に、国学者塙保己一の一人息子であ塙次郎を、山尾庸三との二人で、暗殺している。安藤対馬守が、塙に命じて、天皇廃止の問題を調べさせたという風説が、その理由である。老中を暗殺するのは、命がけの仕事である。なんの防備もない一学者を暗殺するのは、むずかしい仕事ではない。伊藤は、売名の手段として、後者を選んだのである。伊藤の卑劣陰険な性格が、この一事にによつても明白となるではないか。
 孝明天皇は、二度までも、勅使を幕府に差遣わされて、早く攘夷をやるようにと督促された。次いで「生麦事件」が起り、英艦が鹿児島を砲撃し、長州藩は、下ノ関で外国の艦船を、無謀にも砲撃した。後に、英米仏蘭の連合艦隊が、下関を攻撃し、諸砲台を占領し、長州軍は大敗した。もしもこの時、孝明天皇が、攘夷党を煽動しつづけたならば、当然に、外国との戦争は勃発し、英仏米蘭は、必然に同盟し、その同盟の有力な海軍及び陸軍をもつて、日本の旧式の軍隊を撃破したことであろう。そして、日本は、全くの敗北となり、北海道、樺太、対馬は、露国に占領され、琉球、小笠原、伊豆の大島は、米英軍に占領せられ、瀬戸内海は、外国海軍の占領水域となり、日本の経済は混乱し、日本人の生活は脅かされ、昭和二十年の日本降伏以上の屈辱を、八十年前に蒙り、天皇家は、外国軍によつて、亡ぼされたことは、必然の運命であつたであろう。

 四「尊王」「攘夷」の真相 (目次)

 ところが、その孝明天皇は、暫らくにして、その意見を変えてしまつたのである。元治元年、徳川家茂が、京都に上り、天皇に謁した際に、天皇の勅語を賜つた。その中には、「無謀の攘夷は、実に朕の好む所に非ず云々」と書いてあつた。更に、左の如き親翰を授けられた。
 「豈図らんや、藤原(三条)実美ら、鄙野匹夫の暴論を信用し、宇内の形勢を察せず、国家の危殆を思わず、朕が命を矯め、軽率に攘夷の命を布告し、妄りに倒幕の師を起さんとす。長門宰相の暴臣の如き、その主を愚弄し、故なきに、夷舶砲撃し、幕使を暗殺し、私かに実美らを、本国に誘引せり。かくのごとき暴挙の輩、必ず罰せずんばあるべからず云々」
 三条実美らは、長州藩と結託して、攘夷を唱えていたのであるが、天皇の態度が、この通り豹変したので、所謂七卿落ちをなし、長州に逃げ出した。彼らは、完全に立場を失つてしまつたのである。同年七月、長州藩は、世子を将師とし、兵五万と号する大軍を率いて、京都に侵撃した。三条らも、途中の海上にいた。彼らは.一挙に京都を占領し、自己の立場を回復し、その勢いに乗じて、江戸を攻め、自己の天下取りの野望を、満足しようとしたのである。しかし、この野望も、会津兵と薩兵との同盟による奮戦に会い、宮廷に砲弾を浴びせ、当年十五才であつた皇太子(後の明治天皇)を気絶させ、市中を焼いたのみで壊滅した。所謂「蛤門の変」である。長州人の唱える「尊王」が、全くの虚言であることが、この一事だけでみても、明白となるではないか。
 幕府は、日本国の中央政府である責任として、このような叛乱を起した元凶にたいし、征服を行つた。二回にわたる「長州征伐」がそれだ。第一回の長川征伐には、西郷隆盛も従軍した。その間、長州藩の人々は、上下を挙げて、レジスタンスをした。私もそれには敬意を払う。しかし、そのレジスタンスの目的は、何であつたろうか。
 「尊王」は、すでに一片の虚言にすぎない。「攘夷」も、列国の連合軍に大敗した後は、空名となつてしまつている。むろん「封建の廃止」などを唱えたものは、当時一人もいなかつたのである。その目的は、すなわち「関ヶ原の御難を忘れるな」というだけのことであり、幕府を仆し、「天下を取る」ということ以外の何物でもなかつたのである。

 五 暗殺された孝明天皇 (目次)

 将軍家茂の内室は、天皇孝明の妹和宮である。すなわち義兄弟である。この二人は仲が良かつたことは事実である。この二人が、こうして固く協調している限り、「尊王攘夷」派は、策の施す余地がなくなつてしまつた。彼らの一切の計画は潰滅する。策士らは、本来誠実の人ではない。何れの時代においても、策士の心事は、常に陰険きわまるものである。それであるから、薩長及び公卿の策士が、当時の政治上の二人の頭首、即ち天皇と将軍とを、除こうと策謀したのは、必然の帰結である。
 二回目の長川征伐出陣のために、大阪城にいた家茂は、慶応二年七月、毒物の盛られた茶を飲み、にわかに苦悶し始め、死去した。この毒殺の事実は、極秘に附せられていたのであるが、私の父は、小姓組頭として、家茂に従つて従軍していたので、その真相をよく知つていたのである。遺骸は、江戸に送られた。和宮は、遺骸に礼拝することを希望されたけれども、毒殺の痕が顔面に気味悪く現われていたために、老中は、それの納めてある棺を、開くことを許さなかつたという。私の母が、この事実を、私に伝えたものである。
 更に、同じく慶応二年十二月、孝明天皇か暗殺された。この暗殺は、噂としては、当時からすでに多くの日本人に知られていたものであり、私なども、子供の頃から、いくたびも聞かされていたものである。最近に至つては、歴史家も、そのことについて、多くの史料を発表しているのである。(遠山茂樹著「明治維新」参照)
 元来は、実業家ではあるが、後に維新史料編纂委員をしていた植村澄三郎という人がいた。その人が、私に、「それは本当だよ」、「岩倉がやつたのだ」、「岩倉は二度試みている」、と云われたことがある。岩倉は、自分の妹を宮中に入れ、女官にしておいて、天皇を、風呂場で殺したという。更にその妹は、その直後に、薩藩の浪人によつて、殺されたということである。岩倉は、死ぬとき、「俺の家は女で崇るぞ」、と云つたという話があるが、このことを指すのであろう。
 更に植村氏は、若年、京都のある未亡人の家にいつたところ、菊の紋章のついた、道具を持つているので、その理由を問うたところ、「自分の亡夫は医者であり、孝明天皇が亡くなられる際、その傷ついた躰を診察したため、記念としてちようだいしたものだ」と語つたという事実を、私に語られたことがある。最近、瀧川政次郎氏が、その漢方医と目される「菅修次郎の当日の日記」を、発表しているが、(「皇室の悲劇」「新潮」二十六年十月号)この事実を、証明するもののように、私には思われる。
 こうして岩倉は「孝明天皇を暗殺し、わずか十六才の、すこぶる気の弱い明治天皇を立て、思うがままに操り、薩長の策士らと連絡をとり、「討幕の密勅」と称する「偽勅」を出したりして、勝手なことをやつたのである。岩倉の行動は、すべて、大久保利通と、結託してやつているのである。「討幕の密勅」は、形式から云つても用字法から云つても、明白に偽勅である。岩倉の乾分の玉松操という男が書いたものである。大久保の神道碑もその参考となる。
 後年、三条家の倉を整理した際、三重の桐の箱が発見され、開いてみたところ、明治天皇が、十六才の時の、下手な文字で書いてある宸翰が出てきた。それには、「徳川の功労を滅しないように始末をしろ」、ということを、三条に命じている。討幕とは、全く正反対である。維新資料編纂の総裁金子堅太郎が、事の意外におどろいて、それを、自ら小石川の徳川の家に持つてゆき、「これが早く見つかつたら、慶喜さんも定めしお喜びになつたことでしたろう」、と云つたそうである。この事は、徳川家の家扶の古沢秀彌氏が、私に語られた実話である。
 多年に亙つて、それほど、真相は隠されていたのである。慶応二年七月、将軍家茂が暗殺された後は、慶喜が十五代将軍となつた。慶喜は安政の大獄で、井伊大老に弾圧された斉昭の子であり、神がかり的な水戸学を教えこまれた小才子であつた。彼は、将軍となつた後、約一年間の間、前例を破つて、殆んど京都にいたのであり、京都にあつて、薩長公卿の思うがままに翻弄されていたのである。長州と薩州とは、それまで、敵対関係にあつたのだが、両藩の出先の身分の低い策士たち、即ち西郷や木戸孝允等が、天下取りの野望を満たすために、協調したのも、その頃のことである。それを、「二藩の連衡」と呼んでいるのは、大嘘である。薩藩は、依然として日和見であつた。薩藩が勤王にきまつたのは、よほど後のことである。慶応三年の末のことである。

 六 幕末の名奉行・小栗上野介の事業 (目次)

 幕末十年は、幕府にとつて、外交、財政、内政など諸般の運営は、非常に困難なものがあつた。攘夷論者の暴挙のために、外交を誤れば、国の存立さえ危険であつた。またそのために、外国に支払わなければならない償金の額だけでも、巨大のものであつた。しかしながら、野心家たちの醸成した政情の不安の中にあつて、幕府は、実に多くの業績を残し、国の中央政府としての責任を、見事に果していたのである。
 幕府は、万延元年(一八六〇年)より、約十年の間に、使節を海外に送ること、七回に及び、各々その任務を、大過なく果している。駐仏公使をも派遣している。このことは、当時の世情を考えるならば、実に驚嘆すべき事業ではないか。更に、講武所を設立し、仏国士官を招聘し、農商の子弟によつて仏式軍隊を作り、近代的陸軍の基礎をきずいた。大村益次郎の如きは、幕府の講武所において、はじめて、軍隊の知識を獲得したのである。又、兵庫に海軍伝習所を、横須賀造船所を設立し、外国から、軍艦や武器を購入し、近代的海軍の基礎を築いた。又、数回にわたつて、海外に留学生を送り、当時幕府には、英語を解するものが五百人いた、と記されている。薩藩などには、三人くらいしかいなかつたのである。蕃所取調所というものが設置され、国の事業として、外国の事情を調べ、それを取り入れていたのである。更に幕府は、小笠原島に、拓殖事業をなしていた。これらの事業は、何れも当時としては大事業であり、非常な出費を要するものであつた。
 この外に、皇妹降嫁、将軍の上洛、二回にわたる長州征伐、水戸騒動の鎮圧、老中、旗本の重なる人々の出費など、実に臨時費の支払いは、莫大の額にに上つた。それにたいし、幕府の財政は、幕吏自身も奇怪に思うほど、甚だ巧妙に調達されていたのである。その間、物価の騰貴は、すこしずつあつた。しかし、明治十年以後におけるような、破壊的なインフレは、少しも起らなかつたのである。
 この事にかんし、その能力を現わした人物が、幕府にはいたのである。すなわち勘定奉行小栗上野介である。
 小栗は、第一回の遣米使節の一人として、すでにアメリカを見てきている。横浜を出帆し、サンフランシスコに行き、更に南に下つて、パナマ海峡を経、東海岸に出で、ニユーヨークに行つている。そこで、三ケ月ほど種々の事情を調べ、大西洋を渡り、喜望峰を通り、ジャバ、香港を経て、日本に帰つてきた。これほどの見聞の広い人物は、当時、他にはいなかつたのである。彼は、日本に帰るや、自己の見聞し研究した所を、直ちに実行に移しはじめた。財政家としては、むろん当時右に出るものはなかつたのであるが、井伊大老、安藤老中の後において、財政のみではなく、真に、幕府の中心的人物となり、縦横に活躍したのである。幕府の進歩的な業績は、殆んど小栗がま主張し、彼が実行に移したのであり、既述した諸事業の外に、商社を設立し、小坂鉱山を開き、生糸の輸出に着目し、不換紙幣の発行をやめさせ、更に郵便、鉄道、ガスランプの設置までをも計画し、実行に移そうとしていたのであつた。小栗は、封建制度が既に時代に合わないことを察知し、「封建制を廃止して郡県にすべし」と、唱えた最初の人でもあつた。封建制度は、日本には、明治四年に至るまで続いていたのであつた。公平に見て、これはどの建設的且つ進歩的な人物は、当時の朝廷側には、一人もいなかつたのである。彼は剛直な江戸武士であつたため、小利巧な慶喜と会わず、更に、薩長公卿の策士らから深く憎悪され、戊辰戦争の際、その養子及び家来などとともに、郷里において、理由もなく惨殺されたのであつた。
 小栗の下には、栗本鋤雲や、福地源一郎や、福沢諭吉らがいた。当時の暮府には、小栗の外に、進歩的で且つ優秀な人材が多くいたのである。例えば、小笠原拓殖事業をなした水野筑後守、露国の文豪ゴンチャロフをして、その頭脳を讃嘆せしめた川路左衛門尉、世界的な外交家イグナチーフを相手にし、一歩も譲らなかつた松平石見守、ハルリスを讃嘆せしめた岩瀬肥後守等々が、それである。日本が、近代の西洋文明を取り入れる基礎は、それらの旗本たちによつて築かれたと云えよう。明治以後の天皇中心の歴史が、それらの名前を、抹殺してしまつたけれども、所謂「維新の元勲」と較べてみるならば、すべて、数段と文明的な、優秀な頭脳の持ち主であつたことが、明白となるのである。

 七 西郷は強盗団の首領 (目次)

 慶応三年十月、京都にいた慶喜は、自分の配下たちと、一言の相談もせずに、独断で幕府の権力を放棄した。
 それと相前後して、岩倉の手で作成された偽勅、「討幕の密勅」なるものが、薩長二藩に出された。
 更に薩藩の西郷隆盛は、部下の益満休之助と伊牟田尚平を江戸に送り、江戸の薩邸において、五百人の浪入を募集せしめた。そして、それに武器を渡し、江戸市中に放ち、各所で、民家に強盗せしめたのである。この事実は、知らない人が多いけれども、当時の史書には、無数に記されている。私なども、幼心の頃から、しきりに聞かされたものであつた。彼らは、民家から、五十万両強盗したといわれる。後に、この強盗団の巣窟である薩邸は、小栗らの主張により、焼き払われた。強盗らは、京都に逃れ、西郷に会い、更にまた信州において、「赤報隊」というものを組織していたが、翌年の春、東山道総督軍により、「偽勤王」の名のもとに、主謀者は悉く斬首された。後に伊牟田も斬首された。証拠の湮滅をはかるためであつたのであろう。この強盗団の組織には、西郷をはじめ、岩倉、大久保、板垣退助なども加担していたのであるが、自己の野望達成のために、手段を選ばぬ彼らの心事は、およそかくの如く、陋劣なものであつたのである。
 自己が有していた権力を放棄した慶喜の善意は、十二月の小御所会議において、完膚なきまでに踏みにじられた。慶喜自身は、会議に列席を許されなかつた。岩倉や薩藩主は、不在の慶喜を甚だしく侮辱し、封土の大削減を要求した。公正な論を主張した山内容堂は、懐中に短刀を握りしめた岩倉の暴論によつて、ついに圧倒されたのである。この報が伝わるや、当然に、徳川方に不満は勃発した。擾乱を避けるために、慶喜は、大阪に去らざるをえなくなるに至つたのである。
 ところが、慶喜が大阪城にいるかぎりは、西国の大名が、京都に、兵を出すことができない。そこで、慶喜をどかせようというのが、いわゆる「鳥羽伏見の乱」の根本の動機である。
 そこで、朝廷側の策士らは、卑屈な尾張と越前の二親藩を通して、慶喜に、「単騎上京」を命じた。そして、上京してきたならば、宮中において、井上馨らが、慶喜を刺殺する準備をしていたのである。このことは、明治になつてから、井上自身が、植村澄三郎と大川平三郎との二人の実業家に、自慢話として聞かせた事実である。その頃大阪城に、江戸から、薩邸強盗団の報せがとどいた。そこで余津及び桑名の藩士は、「君側を清むるには、好時機である」と慶喜を説き、「薩藩奸党の者罪状之事」という斬奸状を持ち、慶喜を護衛して上京することになつた。それは単なる護衛であるから、進撃態勢ではないのである。そして、前衛が鳥羽まできたところ、薩長の軍隊が、関門を閉じて通さない。そこで押問答になつた。徳川方は、通れないので、芝生で芝生で酒を飲んだり、おどつたりしていたのであつた。夕刻になつて、そこへ、西郷が、突然、大砲を打ちこんだのである。慶応四年正月二日、これが戊辰戦争のの発端であつた。
 西郷は、そのとき、「勝てば、俺の方は天下が取れる。敗ければ、俺の方の天下はだめだ。とにかく、撃つてしまえ」という意味のことを広言している。西郷というのは、そうゆう男である。褒めるならば、その機智と勇断とを褒めるのであろう。しかし。むろん「勤王」でもなんでもない。「人民」や「人命」などは、眼中にないのである。現在であつたならば、真先に、破防法に引つかかる男であろう。
 天皇中心の歴史によると、この戦争で、徳川方が敗走したように書いてあるが、真赤な嘘である。徳川方は「はじめは、優勢であつた。山内容堂は、この戦争を目して、「あれは会桑と薩長の私闘である」と臣下に語つている。ここに、京都の紺屋で、かねて長州藩に出入りしている、岡という男がいた。この男が、自分で錦旗をこしらえ、井上馨のもとに持つてきた。そして、「この旗を出して、こつちが官軍だということにしなさい」と云うのである。井上は大いに喜び、早速それを軍門に掲げた。すると、このあいだ亡くなつた石渡莊太郎の父親の、石渡敏一の親頚で、神保修理という男が、「錦旗出でたり」と触れまわり、全軍が騒ぎになつた。そこで、「天皇とは、戦わない」というので、淀まで引いてしまつたのである。敗けたのでもなんでもない。しかし結果において、勝敗決してしまつたのである。このニセ錦旗の事実は、私が、長州人田中義一から、偶然、聞いたものである。その紺屋の息子は、後に陸軍大臣になつた岡市之助で、世間からは長州人と見られていた人である。一方、神保は、江戸に帰つた後、その責任をせめられ、切腹している。
 不決断な慶喜が、江戸に帰ることになり、海上に出るや、岩倉は、「慶喜叛す」という触れを、全国に出した。それで日和見の西国の大名どもは、朝廷側に附いでしまつたのである。岩倉の奸智の現われである。また大名の卑劣さの現われである。

 八 無能な慶喜 (目次)

 慶喜が、政権を放棄して以来の朝廷側のやり方は、当時の武士として、また、自尊心を持つ人間として、とても堪えられないほどの卑劣なものであり、不正なものであつた.小栗上野介は、綿密な作戦を立て、断乎として、西軍を掃滅することを主張した。
 和戦を決定するため、最後の江戸城会議は、慶応四年正月十三日から、七日間にわたり、連日払暁に至るまで統けられた。小栗の軍略は、後に大村益次郎が、江藤新平らに、「もし小栗の献策が用いられていたならば、我々は、殆んど生命がなかつたであろう」と語つたほどのものであつた。しかしながら、慶喜は、迷いに迷いつづけていた。最後の日、小栗は、ずかずかと慶喜の前に進み、その袖を固く捉えて、最後の断を迫つた。慶喜は、顔面蒼白となり、その袖をふりもぎつて、奥に逃けこんだ。議場騒然となり、会議はそれで終つたのであつた。この事実は、私が.その会議に、列座していた朝比奈甲斐守から、直接に聞いたものである。朝比奈は外国奉行をした人である。
 主戦論者は、或いは領地に帰り、或いは東北に去つた。慶喜は、上野の寛永寺に退き、恭順の書を官軍に呈出した。その以後になつて、慶喜に取入り、慶喜に用いられ、陸軍総裁という職にありついたのが、勝海舟である。彼は、幕府というものが存在していた時代には、要路についたことは一度もなかつた人である。後年、彼は、幕府の内情は一人で知つているような顔をしていたが、彼に幕府のことが分る道理がないのである。
 有栖川は、東征大総督となり、西郷は参謀となつて、江戸に向つてきた。西郷は、江戸焼打ということを考えた。それで彼は、先鋒軍の参謀、木梨精一郎を、横浜の英公使パークスの許にやつた。江戸を襲撃する際、負傷者が出るから、それの看護をしてくれというのである。するとパークスは、慶喜はすでに恭順しているのであるから、それを攻めるのは、不法だと云つて叱つた。その返事を、木梨が、西郷の所に持つてゆくと、西郷は、「そうか」と云つたきり、何も云わなかつたという。それであるから、なにも勝が止めたのではなく、そういう事情で、江戸焼打は駄目になつたのである。それを、勝は、後年、あたかも自分のおかげで、江戸が救われたかのように宣伝したのであつた。

 九 勝てば官軍 (目次)

 鳥羽伏見の乱が始まるとすぐ、朝廷の方では、(徳川の方も)、外国に向つて、局外中立を申し入れた。そこで英米仏蘭伊などの外国は、正月廿五日、局外中立を宣言した。それであるから、西郷がパークスに援助を頼んでも、パークスが拒否するのは、当然である。西郷は、参謀でありながら、中立は分らない人であつたのだ。中立宣言の出たことさえ、知らなかつたのであろう。
 その中立宣言があるために、徳川方と朝廷方とは、国際法上の「交戦団体」となつたのである。徳川方は、逆賊などというものではない。西郷か江戸に入つてきて、「汝の罪一等を減ず」などと云えたわけのものではないのである。二者は交戦団体であるから、対等に扱われなければならない。俘虜は殺してはならない。官軍は、勝つたのであるから、戦利品として、徳川の城を取ることは、不法ではない。それであるから、明治天皇は、江戸城を取つた。今の宮城である。従つて、今度は、主権者ではなくなつた天皇は、主権者となつた人民に、それを返さなければならない道理である。
 西郷は、江戸を、平和のうちに占領した。西郷や大村は、そのことに満足せず、寛永寺に、平和的に集合していた彰義隊に、突如砲撃を加え、大兵をもつて、これを残殺した。「彰義隊が、謀叛を起こした」というのである。策士などのやることは、いつの時代においても、全く同じような詐略ではないか。
〔文芸春秋〕昭和二十七年七月

 尊王主義による暴力の破壊活動 (目次)

 尊王攘夷は、薩長および公卿の掲げた旗印であつた。そうして、その尊王も攘夷も、一種の方便に過ぎなかつた。幕末の維新は、その名は美しかつたけれども、その実は、醜いものであつた。
 昭和の時代に至つて、「昭和維新」の文句が、政治の革新を叫ぶ頑迷青年によつて、使用せられ如めた。それは、幕末の維新を、片面的にのみ理解し、その内容を充分に知つていなかつた過誤によつて、掲揚された旗印があつた。
 昭和維新を叫んだ人の中には、幕末の維新時に行われた「尊王攘夷」の標語を、志士気取りの意気をもつて、公然として、となえた人々があつた。
 当時、「国体」を叫んだ官僚が、即ちそれであつた。排外主義に燃えた人々は、当然に、「国体護持主義」の一団に加わるものである。国体護持主義者は、即、尊王主義者であつた。
 この種の思想家は、五、一五事件や二、二六事件を実行した暴力的破壊活動者であつた。「大東亜共栄」をとなえて、それを一時たりとも実現した人は、必然にその一味であつて、国際的破壊活動者であつた。「大東亜共栄」とは、東亜から英米の勢力を駆逐して、日本が、その盟主となろうという謀略であつた。即ち彼等のいう攘夷であつた。幕末の維新は、暴力主義の破壊活動であつたが、それが、昭和にいたつて、ふたたびその墳墓から呼び起され、日本及び東洋を揺がし、人類に禍いしたものである。
 右の私の史論は、それが誤りでないことを、昭和十一年二月二十六日(二、二六)に撒かれた檄文によつて証明する。その檄文は、左の如きものであつた。
 「謹んで惟みるに、我が神州たる所以のものは、万世一神たる天皇陛下御統帥の下に、挙国一体、生々化育を遂げ、終に八紘一宇を完うするの国体に存す。この国休の尊厳秀絶は、天祖降臨、神武建国より、明治維新を経て、益々体制を整え、今やまさに、万邦に向かつて、開顕進展をおうべきの秋なり。然るに、頃来遂に、不逞兇悪の徒輩出して、私心我慾を恣ままにし、至尊絶体の尊厳を無視し、僣上これ働き、万民の生々化育を障碍して、塗炭の疾苦に呻吟せしめ、随つて、外侮外患、日をおうて激化す。
 いわゆる元老、重臣、軍閥、官僚、政党などは、この国体破壊の元兇なり。
 倫敦海軍条約並びに教育総監更迭ににおける統帥権干犯、至尊兵馬大権の僭窃を図りたる三月事件、或いは学匪、共匪、大逆教団などと利益相結んで、隠謀至らざるなき等は、最も著しき事例にして、その滔天の罪悪は、泣皿憤怒、真に譬え難き所なり。
 中岡、佐郷屋.血盟団、先軀捨身、五、一五事件の憤騰、相択中佐の閃発となる。まことに故なきに非ず。しかも幾度頸血を濺ぎ来つて、今なお些かも懺悔反省なく、しかも依然として、私権自慾に居つて、苟且偸安を事とせり。
 露、支、英、米との間、一触即発して、祖宗遺缶の神州を一擲破滅に陥らしむるは、火をみるよりも明らかなり。内外真に重大危急、今にしで国体破壊の不義不臣を誅戮して、稜威を遮り、御維新を阻止し来れる姸賊を艾除するにあらざれば、皇謨を一空せん。
 あたかも第一兵団出動の大命喚発せられ、年来御維新翼讃を誓い、殉国捨身の奉公を期し来たり帝都衛戍の吾ら同志は、まさに万里征途に上らんとして、しかも顧みて内の亡状に憂心転々禁ずる能わず。
 君側の姸臣軍賊を斬除して、彼の中枢を粉砕するは、吾らの任として能くなすべし。臣子たる股肱たるの絶体道を、今にして盡さずんば、破滅沈淪をひるがえずに由なし。
 茲にに同憂同志、機を一にして、けつ起し、姸賊を誅滅して大義を正し、国体の擁護開頭に肝脳を竭し、もつて神州赤子の微衷を献ぜんとす。
 皇祖皇宗の神霊、冀くば昭覧、冥助を垂れ給わんことを。
 昭和十一年二月廿六日
                   陸軍歩兵大尉 野 中 四 郎
                            外同志一同

 当時の在郷軍人会の有志も、左のような檄文を配布している。
 「天皇機関説を撃滅し、あわせて一部の不忠不義の徒を撃て。
 吾人は、天皇機関説が、国体理論上より無價値なるものなる事を確信する。少くとも、天皇機関説は、独逸ボルンハックの理論より一歩も出でずして、白人思想万能の弊に陥り、自己批判及び歴史的考察のなきものの誤れる飜訳思想たることは、疑うなき所である。
 而してこれと同一なる誤謬の名を郷軍同志会となす一部在郷軍人団の中に発見するを悲しむ。
 彼等の思想をつきとむれば、これ白人思想と同一系統を辿るフランス型フアショ革命の理論を明らかに踏襲せるを視る。先ず彼等の思想の終極に到れば、光輝ある日本憲法否定を意味し、吾が団体に合致ぜざること、天皇機関説と同一たるべき異論である。
 (中略)
 天皇機関説は、美濃部一派のカント哲学理論に出発せるところに、今日の崩壊をまねけるものにして、吾人は明倫主義より、カントへの闘争を果敢に続くべきである。(中略)
 敢て純正なる日本主義者に、事の善悪の批判を願う。 郷軍有志一同

 これらの言論は、すべて根本において、目本の真の歴史を知らず、唯だ迷謬をもととして、天皇崇拝に固まつたものであることを、自ら証明している。
 さらに[国体明徴に関する建議」というものがあつた。左の如きものである。
 (前略)
 「我国に在りては、畏くも御神勅により、天皇は、万世一系の統治権者であらせられ、統治権の主体にあらせられた。臣民の意識によるものでたい。天皇主権の下に、子宝生じ、一定の地域を領し、大日本帝国を生じたるものなり。故に我が国家は、天皇、臣民.領土より成ると、事実的説明をなし、大いに我が国体の本義を明らかにし、もつて天皇機関説の根源を撲滅す。
 以上の理由により、国家成立の三要素説を削除し、かつ此の主旨を徹底せしむる為めに、各著者の意見に任すを避け、国定となすを可とす。」
 この説は、神代、神勅の承認説であつて、内外人をあざむく行為である。これに加えて、学説の自由を奪い、科学を軽侮し、ただ天皇におもねる卑くつの意見である。日本の文明を阻害する不良企図なのである。
 尊王主義は、日本民族のために、害あつて利のないものである。幕末に尊王攘夷を唱えて、社会を攪乱した人々に対しては、日本民族のためには、元勲などと讃すべき理由を、見出し得ないではないか。日本民族の文明は、尊王主義によつて、出来たものではなかつた。武家政治七百年の文明が、それを証明している。蘇我氏の文明も同じである。藤原時代の文明も同じである。その以外の時代について研究して見ても、同じようなことが云えるのである。

 尊王主義とその禍 (目次)

 明治以来の日本人は、尊王主義者により天皇家は、「日本民族の宗家」だと教えられて来た。その主なるものを、左に掲げてみる。

一、荻野由之著「王政復古の歴史」この著書は、明治時代には、名著として知られていた史書である。その総論の中に、「国民の信念」と題する一節があるが、左の文句がある。  「日本国民が、悠久知るべからざる太古時代から伝えている信念は、わが国民は同一種族であつて、その総本家たるところの皇室を君主といただき、別家分家が数多に別れて繁盛した」云々。
 荻野氏の説によれば、日本人は、一人の人間から、または二人の人間から、二千年にして八千万人の大民族となつたというのである。そうして、日本民族は、血族結婚によつて、人口が増加したと説くのである。無責任にも、あえてこのような非科学的な奇怪な説を、平気で日本人にむかつて述べたものである。それをそのままに、承認していた人間もまた、はなはだ無責任であつた。明治時代の教育とは、うそを人民に教えることであつたのである。

二、澁沢榮一著「徳川慶喜公政権奉還の意義」この著書は、日本文と、英文とで書かれている。実業家の澁沢氏が、売名のために、著わしたものであろう。その冒頭に、「皇室と国民との関係」という一節かあるが、その中に、左の文句がある。
 「日本国民の悠久知るべからざる太古時代より相伝えたる信念は、わが国民は同一種族にして、その総本家たる皇室をもつて、君主といただき、別家分家、数多に分かれて、各一部族をなし、その族長を奉ずるも、各族長は、共に皇室を中心として君臣の義を守るがゆえに、その関係はきわめて濃厚なり」云々。
 右は荻野由之の説を、そのままに、書きしるしたものである。澁沢榮一氏は、これを英文に訳して、出版している。この一書を受け取つた外国人は、さだめし失笑して、それを読んだことであろう。永遠の恥辱である。

三、広池千九郎著「皇室野史」この書は、明治廿六年に刊行されたものであるが、その中で、広池氏は、左の如く述べている。
 「じつに皇室は、日本人民の宗家にして、日本人民は、かたじけなくも、皇室の分家たる一大因縁あるによりて、」以下略
 広池の説によれば、日本人は、だれでもみな、万世一系ということになるのである。天皇のみが、万世一系ではないということになる。「万世一系の皇室をいただいている国」として、多年、大いに自慢していた人びとは、それをどう考えたのであろうか。
 天皇家は、父子が直系をもつて順序正しく、古来から相次いで、皇位に即いて、今日に及んだという事実はない。皇室から離れていた人を、養子にしているのが、幾多の事実である。それを「一系」というのも、一般人民の通念と慣習からいえば、通らない話であるけれども、従来は、それを、一系と呼んでいたのであつた。
 広池の説のごときものとすれば、日本人は、八千万人が、「みんな一系である」ということになる。したがつて、皇室は、一系に相違ないけれども、そのかわりに、「なんらの特長はないもの」となるのである。広池は、いわゆるその一味の唱えている「特殊の国体」を抹殺した人である。
 広池の著書には、「わが国史を読みて、ここにいたるもの、たれか皇室の栄えたる時、人民は楽しみ、皇室の衰えし時、人民苦しみたりとの通理を、発見せざるものあらんや。なおこれを詳言すれば、上古より平安朝の初めまでは、皇室のもつとも繁栄せし時代なれば、たとえ多少の差異あるも、まず人民は、がいして、その堵に安んじたりというも不可なきなり」と記戴し、天皇のために、讃辞をささげている。
 この説は、事実とと合つていない。それらの時代は、けつして、太平無事ではなかつた。度々反逆した東夷も、熊襲も、外国人ではなかつた。日本人である。大小の戦乱は、つぎつぎに、相次いで生じている。その間に、人民の死し傷つき、その他苦難に陥つたものが沢山あるのは、明らかに知りうることである。そうして、その間には、非倫の天皇や皇子や、暴虐無動の天皇も出ている。武烈天皇が、そのもつとも残虐の人とされている。
 広池は、「かたひさし」の一句を引用して、天皇武烈を弁護し、「それは、百済王の無道暴虐を書いた百済記が、あやまつて日本の歴史となつたのである」と書いている。この一事は、甚だしく奇怪である。古来の日本人は、他国の記事を、日本天皇の記事として、日本人に伝え、武烈天皇をもつて、残虐無動の人と断じていたものである。それであるから、この一事のみにても、日本人は、天皇を崇拝する考えなどは、昔から少しもなかつたということの証明となるのである。この広他の弁護は、かえつて、「天皇不信の立証」となることを、広池は悟らなかつたものであろう。
 広池は、武烈天皇は、君子であり、聖人であつたとの証明はなしてはいない。ふつうの人であつたとの詳述をもなしていない。ただ遠州の人、内山真竜の、書紀類聰解巻一、神系部に曰く、「二年より八年まで、無道奇偉の戯を記するは、百済王の無道暴虐を奏上せし百済記の、転じて本文ととなれるなり。この本文、上代より語り伝えて、武烈の謚(追号)を奉りしなり、云々」との文句を、絶対に信用して、述べているにすぎない。その遠州人は、はたして研究家であるかどうか分からない。その一人の書いたことを、絶対に信用して、上代から永く、日本人のすべてが、信じ切つていた史書を抹殺しようとする広池の心事と行為とは、学者として、甚だしく軽率であることは、いうまでもない。またそれは、久しいあいだの、その史実を信じていた全日本人を、侮辱する言ともなるのである。取るにたらない。
 広池氏は、元明、仁明、白河の三天皇が、奢侈を好まれたことを、その著書で認めている。そうして、「道長とは同一ならんや」と、弁護している。また陽成天皇が、狂人であつたことも認めている。また、後水尾天皇八十才の賀に、中院内大臣が、「おとろきていく千代か経ん 洞の中に憂きこと知らぬ命長さは」と歌つたのを、天皇が怒られ、「下万民の憂きことを知らぬことやある」と言われたのを賞めているけれども、天皇自身は、院内に、安楽にくらされたのである。公卿はそれを謡つたのである。天皇は、茶道にその日をすごすべき人でない。広池は、なんのために、恐縮しているのであるか、分らない。ただ単に感傷的の文字であるのを、私としては見受けるのみである。
 史家の言論は、厳正であるを要する。もしも、忠を基本として論ずるならば、孔子の教えた忠であるを要する。屈従や、奴隷式の忠は、虚偽であつて、「忠」ではない。

四、文部省編纂「臣民の道」 これは昭和十六年に朝日新聞社から出版された書物であつて、今の人も、まだその記憶から去つていないはずのものである。その中に左の文句がある。
 「国民は、天皇を、大御親と仰ぎ奉り、ひたすら、随順の誠を致すのである。云々」  はたして、八千万人は、天皇を、大御親として、したしんでいたであろうか。したしむ方法もなかつた。以上のような奇怪な文句にたいして、今日の日本人は、どう考えるであろうか。
 日本の学者、日本の政府は、明治以来、日本人民を欺き、信ずべからざることを、強いて信ぜしめていたのである。その罪は深い。
 日本民族が、雑種の民族であることは、私としては、古くから、外国人から話され、また朝鮮、シナ、印度シナ、マレー、タイなどを旅行して、しぜんに、私には分つていた。生活している人には、比較ということがなく、お国自慢の俗習にまきこまれ、単一の民族のように思いこんでいた人もあるであろう。しかしながら、林羅山の「神武天皇論」を一編を読んだ人であるならば、神武は、外国から来た人であることを、考えるに至るべきは必然である。
 最近には、幾多の研究書が出版されている。いずれも深い研究の後に、発表された説である。「天孫降臨」などの神秘説は、古人の小説と見るよりほかない。昔の人といえども、人間が雲に乗つて、空中から、無難に降りてくるなどとは、信じなかつたに相違ない。明治以前には、ただ単に、「一つの神話」として、取りあつかつていたのである。水戸公園にある「弘道館記」のごときは、水戸の烈公と称する一種の頑迷人が、「恭しく惟みるに、上古、神聖」などと、書かせたものであるが、本人にも、分つてはいなかつたものであろう。

 日本にも革命はあつた (目次)

 日本に限り、革命は生じたことがないと、説くことが、正しい説のように、尊王主義者は論じていた。この説は、天皇権力主義の永遠性を、祈願した人々のの計策であつて、事実にも理論にも合わない非科学的の議論であると、私は敢ていう。
 革命という文字は、古代の支那の学者によつて、唱えられたものであつて、日本人が発明した文字ではない。その支那において唱えられたのは、その昔、夏が亡び、殷が興り、殷が亡んで、周が興つ歴史をいうのである。即ち支那を統治していた国王の権力が、亡び去つた事態をいうのであつた。
 夏とか殷とかいうのは、その時代の権力者の名であつた。それらの権力者は、亡び去つても、その人民は、亡びたのではない。国土が失せたのではない。国の権力が消えたのではない。支那の民族は、依然として存在していたのである。
 欧州におけるレヴォリューションの文字は、これを日本字で、革命と訳している。その革命は、その時代の権力者を亡ぼし、新しい権力者が、代つて立つことをいうのである。人民は、亡んだのではない。国が消え失せたのではない。
 英国の革命もそれであつた。一時はクロームウェルが権力者となり、旧王は殺されたのであつた。仏国の大革命も同じである。ルイ十六世が殺され、共和の仏国が生じたのであつた。ロシアの革命も、独墺の革命も、伊太利の革命も、同じことである。
 革命が生じたところで、英、仏、独、墺、伊の民族歴史は、亡びることはない。民族歴史は、民族の歴史として、続いて行くのである。「革命があれば、史は亡びる」などという尊王家の説は、事実と合わないのであつて、妄説たるを免れない。凡て歴史とは、国王の履歴ではない。
 仏国の大革命は、悲惨なものであつた。しかしながら、この大革命があつたために、世界の人間は、その基本人権が認められることになつた。それ以来、人間は奴隷から脱して、人間らしいものとなつたのである。
 仏国人の中には、革命を呪う人もいる。現在の仏国には、「王党」という党派もある。併しながら、王政に戻ることを主張してはいない。そのような主張は、憲法上から、禁止されていたのである。現在の王党も、「共和主義王党」と称している。矛盾した党名を附して存在している。仏国人は、王政に逆戻りすることを、断乎排斥している。
 第二次大戦後に、新たに出来た憲法も、その第一条をもつて、「仏国は、不可分の、非宗教的の、民主的の且つ社会的の共和国である」と規定している。日本の尊王学者が、昭和八年に、その一著書の中に、「ポール・ブールジエの反革命精神」と題する一節を掲げて、仏国人も、革命の排斥者であるかのようなことを書いていたのは、日本人を迷わすための企図であつたかも分らないが、結局は、物笑いたるを免れ得ない。
 ロシアも、独逸も、墺国も、王政に戻ることは、想像し得べくもない。もはや、何れの国でも、世襲の君主は、必要がない時代となつているのである。
 日本の歴史は偽りが多い。それであるから、「歴史に依るべし」という人は幾多あるけれども、どんな歴史によつたならば好いのかが、本来、分らない。「神代」を信じたり、「神勅」を本気にしたりして、「日本は神国だ」とか、「日本は天皇が万世に亘つて統治すべき国である」とかと、極めて軽卒に、極めて幼稚に、極めて迷信的に、きめこんでいるなどは、もはや、人間に良心あるならば、出来ない相談であるのだ。
 神代は、仮想である。神勅は虚偽である。
 日本に歴史が始まつて以来、日本は、神武の行つた西方からの侵略によつて、中央の政植者と、人民は、征服されでいる。その以前から、日本に土着し、一国をなし、一定の地域を領し、一定の人民を有し、それを治める権力を有していた人から見たならば、神武の侵略は、革命であつた。旧権力者を亡ぼして、新権力者が立つたのであつた。先ず此の革命が、日本にはある。
 それより以後、日本の権力は、一貫して天皇家が握つていた事実はない。権力は、掌握者を変えている。天皇という名は読いていた。併しながら、権力は、名のある所にいつも附いているものではない。それは世界の人類歴史上の事実であつて、それを恣ままに否認することは、人間の生存の理が、許さないのである。
 日本には、古来、革命はあつた。欧米人の行つた革命と同じように、また支那人の行つた革命と同じように。
 漢学者、根本通明は、「天地の位は変らない。物悉く変化する中に於て、未だ曽て天が地となり、地が天となつたことはない。即ち外にしては、。天地が変らない。これを内にして、人生について考えれば、君臣父子の関係は、断じて変らない。未だ曽て子が父になつた例しはなく、子は飽くまでも子であり、この位は変らない。同様に、君は飽くまでも君でである。君臣の位置が倒逆することに絶対にあり得ない。即宇宙に於て、天地の位が変らず、人生に於ては、君臣父子の関係は、その位置が変らない。ここに於て、初めて忠孝の道が生ずる。。忠孝の道徳が絶対のものとして出て来るのは、ここからである。若し此の一点か崩れれば、道徳は悉く成立しない」云々(昭和八年七月十三日、平泉澄博士述維新の原理第十四頁参照)と説いている。
 右の説は、昭和八年頃の当時は、信用した人も沢山いたということである、この説は、世界の人類の歴史とは合わない奇説である。即ち歴史を省みない謬説であるのを免れない。根本一人に限つた説である。周易から云うならば、「天地の間、森羅万象は、悉く変化流転して止まない」と説くのであるが、その方が耳を傾ける価値がある。
 日本に限り、革命はなかつたと説く消極意見は、「八紘一宇を称し、世界の主人公となるべきもの」である。
 天皇の地位には、権力がなく、権威も強くなかつた。それ故に、天皇の地位は、覆えされる虞れもなかつた。
 革命は主権力を覆えす破壊活動である。

 價値なき日附
  紀元節は古来からの行事に非ず
(目次)

 紀元節は、明治五年十一月に初めて日本に生じた。古来そんなものは、日本人には認められなかつた。日本人民の伝統の行事ではない。
 二月十一日に神武天皇が即位したということも、作りごとであることが、考古学者によつて明らかにされている。仮りにその日に神式が即位したとしても、それは神武一家の祝日であつて、日本民族を統一した史実はない。かかるあいまいの日附は、何らの価値がない。
 どんな国にも、紀元の祝日があるという人がある。それは、ウソだ。米国に独立記念日はある。仏、独、伊、白、露などには、ソンナものはない。仏の「カトールズ・ジュイェ」は、紀元節ではない。
 日本は民主国ときまつた。天皇一家の祝日は、日本民族の祝日となしてはならない。天皇は人間である。「門地によつて人間を区別すること」は、憲法をもつて禁止してある。(第十四条)
 日本の歴史によれば、天皇は日本民族の統合者として、古来一貫して人民から崇敬されていた史実はない。不明な古代史は取るに足らないものとして、仏教渡来の日本歴史を読むならば、物部氏と蘇我氏の二大族は、強大な権力を有しており、天皇には権力のなかつたことが判明する。蘇我氏は物部族を亡ぼして、唯一の権力者となり、仏教を拡めた。聖徳太子は、唯々として蘇我氏の権力に服従していた。古来、漢学者は、聖徳太子を「卑怯な人間」として攻撃している。蘇我氏は天皇に亡ぼされ、権力は天皇に移つた。その以後約二百年は、天皇に主権があつたが、それ以後の日本は、藤原、平、源、北条、足利、豊臣、徳川の諸族 が、自己の力を以て支配することとなつた。神武の即位を祝つた史実は、その間にない。それより八百年の後に「王政復古」と称する事実は生じた。それは人民全休の声でなくして、政争者の天下取りの「合いことば」に過ぎなかつた。明治の初年には、反乱が相次で生じた。
 明治十三年(ママ)西郷らの反賊が亡ぼされてから、大久保が一人で権力を握つた。十一年五月、大久保は殺され十六年岩倉具視が死し、その後は伊藤博文の天下となつた。明治二十二年にグナイストの教えた憲法は成分となつた。
 翌二十三年「教育勅語」が出され、古来日本人民は一貫して、天皇を崇拝して来たかのように、全人民に教えこんだのである。由来五十年、日本人民は、天皇中心主義をもつて固められたのである。策士の作り出した政略の効果であつて、史実によつたものではない。
 日本人は民主を破壊してはならない。阿諛、便佞の不道徳などの一掃が緊急事である。学説の良心や思想の自由保障は、便佞輩の一掃のためである。(憲法弟十九条、第二十条参照)

引用・参照・底本

『擾乱の日本 蜷川新評論集』蜷川 新著 昭和廿七年十一月一日初版発行 千代田書院

註:読み易さを考慮し原文にない文章間隔を附した。