『開国大勢史』大隈重信 著

 第卅七章 露艦の對馬占領

 一〇四四-一〇五五頁
 極東に於ける英露の角逐

 安藤對馬守の在職中、突然に起りたる一大事件は、露國軍艦の對馬占領なり。而かも其の實は突然に非ずして、極東に於ける英露角逐の自然の結果たりしなり。事は英吉利人が露西亜の南侵を制止する爲、對馬を占領せんとしたるより始まれり。當時、英國に於て、露國が對馬を占領せざる前に、宜しく英國自ら之を處置すべきことを主張したる者多きは、種種の材料に據り之を證明するを得べし。

 アルコックの日本保護の必要に關する意見

 英公使アルコックは、露西亜が日本の内訌に乘じて對馬を占領せんことを恐れ、屡〻幕府に向ひ、新潟に代へて對馬の一港を開かんことを勧告したるは、有名の事賓なり。而かも幕府は、其の内意を疑ひて之に應ぜざりしが、アルコックは、後に之を自己の懐舊錄中に記して曰、我が國を以て之を觀るに、凡そ虚弱畏縮を示す政畧の進行は、必ず直に我が全帝國の威信と保全とを害せずんばあらず。苟も我が大帝國の連鎖に要する所は、一個の鏈環たりとも決して破損せしむべからず。縱令東洋の極端に位する日本の如き國と雖、之を危からしむるは、即ち直に我が全帝國を侵す所以なり。露國は、滿洲沿岸に於て漸く膨脹しつゝあり。、貿易の擴張は、必ずしも恐るべき事に非ずして、寧ろ喜ぶべき事に屬し、汽船の波を蹴て走るは平和の徴なりと雖、一國が獨り軍艦を増加し、要塞を建設し、以て武力の優越を計るは、他の比較的輕弱なる武力に由り保護せらるゝ貿易者に取りて、危険の極と謂ふべぐ、而して露國は、一方は支那滿洲の沿岸に於て、他の一方は、日本及亜米利加の間に於て、現に之を行ひつゝあるなり。此等の地方には、頗る好望なる収益事業の伏在するあり。若朝鮮及日本、又は其の一都分にても、露國の侵略する所と爲らんか、露國は是に由りて、石炭及貴金屬・鐵・鉛・硫黄等を得べく、安全なる碇泊所及避難所を得べく、木材及勞力者を得べく、強健なる水手を得るに至るべし。若、假りに露國にして、濠洲の沿岸より亜米利加の沿岸に至る我が英國の貿易を阻害せんと欲せば、此等の地方を利用して、如何なる手段にても施し得らるべし。事、此に至らば、是れ實に非常の大問題なり。何となれば、日本海は、世界を一週すべき我が大帝國の最後の一鏈環なるが故に、苟も海洋の此の部分にして他國の督制に歸せんか、之が爲に、我が世界經營は直に一大支障を被ることを免かれざるべければなり。吾人にして苟も日本に條約上の權利を保留する限りは、此の國を侵畧又は併呑せんとする企畫が、吾人の反對に遇はずして已むこと難し。然れども露國は、現に支那の地を併せ、又西方に於て得ること能はざりし不凍港を、更に東方に於て得んとしつゝあれば、若、一度他の歐洲諸強國にして、其の手を極東に絶つが如きことあらんか、日本が遠からずして露國の一部分と成り了るべきは、亦更に疑を容るべからざる所なりと。

 エドワルド、ド、フォンブランクの意見

 又、エドワルド、ド、フォンブランクなる人あり。一八六〇年(萬延元年)の春、英國の北清戰役に要する軍馬を求めんとて、江戸に來る途次、長崎を過ぎて、親しく露人經營の盛なるを目撃し、後、其の所見を記して曰、露人の長崎に於ける、其の自國に在ると全く異なる所なし。彼等は獨り同地に四、五艘の砲艦を置くのみならず、港の對岸には、海軍の一小根據地をさへ設けたり。又遙に江戸の北方(蝦夷をいふならん)を望めば、彼等は一層確實なる根據地を有して、頻りに南進の策を運らしつゝあり。若、吾人にして苟も彼等の監視を怠るあらんか、大なる蚺蟒は、異日終に此の美しき國土を呑滅せざるを保すべからず。日本が彼れの侵畧を被る恐れありといふよりも、寧ろ日本國内に於ける諸侯の嫉妬排擠は、竟に露國に與ふるに、保護國の名の下に、此等の群島に勢力を張る好機會を以てするに足るものありと謂ふべし。思ふに此の如きは、東洋に於ける吾人の利益より觀るも、將た日本自身の福祉開發より觀るも、甚だ好ましからざる事實に非ずやと。又論者は、日本人が有爲有望の民族なるを説き、英米の熱心家が、一大革命を以て、日本の將軍及諸侯を廢し、一擧に立憲政體若くは共和政體を布かしめんとするの輕躁を戒め、若、果して此の如くんば、是れ徒に花園を化して荒野と爲し、秩序ある勤勉の人民を以て、殘忍血を好むの一揆と爲し、世界最美國の一を露國の貯炭所及船渠と爲すに止まるべしと論斷せり。

 ホッヂソンの意見

 又安政條約に據り、英國領事f官として紳奈川・長崎・箱館に駐箚せしめられたるホッヂソンは、文久元年に「長崎・箱館の二年間」なる一書を著して、英國が速に對馬を占領せざるべからざるを論じ、吾人の急務は、對馬を以て極東のペリムと爲すに在り。此の島は、左右に軍艦の通路を有し、良港あり、木材に富み、又清水あり。其の住民は必ず吾人を歡迎すべし、是れ實に滿洲人民と支那の絹産地とを連結する小橋梁なりと述べたり。  文久元年に於ける露西亜人對馬占領の顛末は、文久紀事に収めたる「對州表露西渡來一件」に關する觸書・達書等に據り、其の實況を窺ふを得べく、又「對島外交史料」、「小栗上野介」、等の書にも、之に關する記事あり。九州史談會會報も、亦有益の参考書なり。而して外國人側には、當時英國公使として此の事件に関係したるアルコックの著書「大君の都府」あり。今此等の書に據り、此の事件の梗概を錄するときは左の如し。
 一八六〇年の初に當り、露國は、北京に於けるイグナチェフ公使の鳥蘇里割譲談判に聲援せしむる目的を以て、海軍大佐リッハチョフに一艦隊を授けて、之を支那海に派し、當時日本沿岸に在りし露國の艦船をして、盡く其の司令の下に立たしめたり。

 露國艦長リッハチョフ對馬占領を建議す

 リッハチョフ赴任するに及び、端なくも、英國が對馬を占領せんとする計畫あるを耳にし、其の露國に取りて一大事なるを思ひ、直に時の海軍大將コンスタンチン、ニコライエウィツチ大公に報じ、此の際、英国が清國と干戈を交へ、殆ど他を顧るの遑なきに乘じ、速に艦隊を以て對馬を占領し了るべきを説き、大公の訓令を待てり。然るに當時、露國東部西伯利の郵便制度不完全なりし爲、リッハチョフは、此の年十二月(露暦)に至り、始めて大公の返書を得たり。其の内容に曰、余は七月二十二日(露暦)を以て、ゴルチャコフ同席にて、汝の書を皇帝に申請したるに、帝は直に、對馬の實際上に於て頗る重要なる所以を了解せられたり。ゴルチャコフも之を認めざるに非ずと雖、例に依りて彼れは、之が爲に政治問題を喚起し、殊に日本人と衝突するの結果を來さんことを恐れ、一切此の事件に關係することなく、即ち之を外交問題と爲さずして、純乎たる海軍省の事件たらしめんことを余に求めたりと。

 露國の行動二途に分かる

 此の時より露國の對馬に關する行動は二途に分れ、一方に於てゴルチャコフは、當時箱館駐在の露國領事として、外交事務官を兼ねたるゴスケウィツチに訓令して事の眞相を探らしめたるより、領事は、文久元年二月を以て、白國軍艦に搭じて遠く長崎に至り、英國が竊に對州沿岸を測量したる事實を確め、歸途、江戸に到り、親しく幕府に警告するに、英國の禍心測るべからざるを以てし、同地の防備決して忽諸に付すべからざるを説きたり。

 ポサードニツク艦長ビリレフ

 然るに他の一方に於て、彼の大公の返翰を得たるリッハチョフは、一八六〇年の末を以て、其の屬艦ポサードニックの艦長ビリレフに命ずるに、直に封馬に至り、封馬守に向て、其の土地の一部を海軍根據地として租借する談判を爲すべきを以てしたり。因てビリレフは.翌年二月三日を以て、對州淺海尾崎浦に入り、水路を測量し、三月二日、更に内海に入り、四日、去て芋崎浦、古里に泊し、船舶修繕の名の下に、上陸して伐木し、食料品を求め、極秘の建築物を造營し、尚ほ此の浦に於ける要害の地點を割譲せんことを要求し、剰へ對馬守に面謁を求めたり。次で他の露船一艘、糧食を載せて到來せり。當時、島民が穏便の處置を取れるに乘じ、露人か如何に横暴を逞うせるかは、左に掲ぐる對島守家來の哀願書に由りて。其の一斑を知るべし。(略)

 一〇五三頁
 英艦對馬近海偵察

 露人放肆の狀、此の如きに當り、英国軍艦は、對馬近海に出沒して、露國軍艦の行動を偵察しつゝありき。左に宗對馬守の異樣船問情届書を掲げて、同島沿海の情況を窺ふに便せんとす。(略)

 一〇五五頁
 對馬守島内に發したる布告

 對馬島内に於ては、物情恟然として、人民其の堵に安んぜず。敵愾の氣勃として、人人死を決せざるは無し。當時、對馬守が一藩に布告せし所を視るに、左の文字あり。(略)

 一〇五五-一〇五八頁
 小栗豐後守の行動

 幕府は四月を以て、外國奉行小栗豐後守・目付溝口八十五郎を對州に急行せしめ、長崎奉行も、又奉行支配組頭、永持亨次郎を遣して、談判せしめたり。  永持は、五月上旬、先づ芋崎に至りて、直に退去すべき事をビリレフ艦長に談じ、尋て小栗の一行も、同七日對州に上陸し屡〻彼れに交渉したけれども、彼れは、退去の事は、上海なる司令官リッハチョフの命あるに非ざれば、事情の如何に拘らず、斷じて應じ難しとて之を拒み、間接に幕吏と交渉するは、徒に事の成行を紛亂せしむる虞あるを察して、頻に直接對馬守に面談せんことを求めたり。然れども宗家に於ては、此の談判の衝に當るを欲せず、之を拒絶せんことを小栗に求めければ、小栗は其の處置に苦しみ、更に日を期して願意を聽許すべき旨をビリレフに書送し、己れは急に江戸に歸り去りたり。小栗は永野筑後守岩瀬肥後守と共に、幕末の三傑と稱せられ、曽て一たび米國に赴き、略、外交の事宜に通ず。然るに、何故に此の事件の結局を見ずして、急ぎ東歸したりしか。是れ實に後人の怪訝に堪へざる所なり。田邊太一氏は、對馬守が「對州の地は御用地に被仰出私へは相當の地所被成下候樣、御沙汰被仰出被成下候はゞ、士民一同安堵仕」云云の内頑を幕府に呈出せし事、及び小栗の後を襲ぎ派遣せられたる、外国奉行、野野山丹後守・目付、小笠原攝津守等が對馬を巨細巡見すべき命を受けたりし事より揣摩して、「小栗は大局に著眼するの士なれば、對州の地たる、英國公使の意見の如く之を開港場とするも、亦其の防備を嚴にするも、到底小弱の藩侯に委すべきものに非ざることを實地に悟り、上地の已むを得ざるを具申して、政府の底意を固め、然る後、露艦と應對するに非ざれば、唯一日を苟もするものたるを知りて、一旦江戸に歸りしものなるべく、而して對州藩も亦其の機を知りて、自ら進で此の内頑を提出せしものなるべし、然るに幕議、彼れの意見を容れざりし爲、彼れは再遣を辭退し、又其の職を免ぜらるゝ、に至りしものなるべし」と説かれたるは、最も事實に近き言なるべし。
 是より先、小栗の西下と同時に、閣老安藤對馬守は、此の事に就き、命を箱館奉行、村垣淡路守に下して、露國領事ゴスケウィツチと談判する所あらしめしに、領事は、六月十日の會談に於て、右は自己の毫も與り知らざる所なるを述べ、且、露國艦長の所爲不都合なるを認め、數日中に箱館を解纜すべき自國軍艦アメリカ號に託してポシエット灣地方に滯在せる海軍提督に其趣を通じ、其の手を經て該艦を退去せしむる樣取計ふべきを約せり。七月七日、幕府に達したる對話の報告書左の如し。(略)

 一〇六三-一〇六四頁

 當時、幕府の最も苦心したるは、アルコックの言にも見ゆる如く、開港延期と、露艦對馬占領との二件なりしかば、安藤閣老は豫て英國公使が對州の開港を希望する如き狀あるを察知し、京都の故障最も甚しき兵庫に代ふるに、(新潟は不便の地なりとして、外人も承知の上、未だ開港せざるなり。)對州の開港を以てすべき氣勢を示し以て公使の露艦退去談判に助力せんことを求めたり。其の談判筆記中、著著之を證するものあり、左の如し。(略)

 一〇六六-一〇七〇頁
 露艦退去

 此の談判の結果により、英國は、日本政府に關係なく、アドミラル、ホープをして、條約違反の理由の下に、斷然露艦の退去を求めしむるに決し、露人の芋崎經營の著著歩を進めて、種種なる建設物・營造物の灣頭に駢立したる頃に至り、七月、英國のコルヴェツト艦「エンカウンター」號、及砲艦「リングダヴ」號は、ホ‐プ中將及書記官オリファントを載せて、俄に江戸灣を發した。
 オリファントは對馬に上陸して、先づ事の眞相を調査し、又露人の駐屯せる陣營に就て、其の詳細を探るに努め、ホープ中將、親ら露艦「ポサードニック」の碇泊せる處に赴きて、公然其の退去を要求し、ビリレフ之を拒絶するに及び、更に抗議の一書を露國太平洋艦隊司令官に致したり、然るに恰も此の時、聖比得堡に歸還すべき旨の命令、木國政府より、リッハチョフの許に達しければ、彼れは.ゴスケウィツチの周旋に因り軍艦を備へ屬吏をして急行して、命をビリレフに傳へしめ、一切の建築物を土地の日本官吏に委托して、軍艦を率ゐて對馬を去らしめ、己れは首都に向て出發したり。蓋、露國は、ゴルチャコフの意見に從ひて、終に對馬を斷念するの已むを得ざるに至りしなり。ビリレフの對馬退去は七月二十五日にして、小栗に繼て派せられたる幕吏、野野山丹後守・小笠原攝津守・立田錄助の一行の對馬に著せしは、既に此の事件の落著を告げたる後なれば、彼等は竟に露人と應接するに至らざりき。然れども彼等は、別に領内巡檢の使命を帶びたりしかば、暫く此の地に留まり、十月末を以て江戸に歸り、復命して曰く、假令對州に港を開くに至るも、固より貿易を目的とするものに非ざれば、全體を上地せしむるの必要なし。僅に港口の一小部を幕府に収めて、其の餘は依然宗家の支配に屬せしむるも、必ずしも其の不可を見ずと。斯くて小栗の苦心せし退去談到は、英人の強硬なる態度を取りし爲、案外速に其の局を結び、對州上地の議も、三使の意見に因りて、現状維持と決せられ、對藩は危くも、松前藩の如き運命を免るゝを得たり。

 露國外交の慣用手段

 此の露人の對州占領事件は、元来、其の政府部内の一致に由るに非ず、而して有力なるゴルチャコフ外相の如き、初より之に賛成せざりしことは、以上述ぶるが如くなれば、之に對する露人の行動、初より調和を缼き、我國に於ける露人唯一の代表者たる函館領事すら、全く關知せざりしといふの不始末を演じて、其の極、見苦しき退去に終るに至りしは、亦已むを得ざることゝ謂ふべし。當時露國は、公使を日本に派遣せず、函館の領事、其の代表者たりしに、彼れは、外相より何等の訓令をも得ざりければ、一一交渉の衝に立ち、辯難して其の意思を貫徹するの地位に在らざりしなり。是れ固より當然の事なりき。何となれば、ゴルチャコフは、初より之を外交問題と爲すを避けて、提督リッハチョフの爲すがままに任じたればなり。思ふに露國が日本開國の初期に於て、外交代理者を江戸に派出せず、唯一二の領事を開港場に置き、若、必要あるときは、函館の總領事に命じ江戸に下向して之を辨理せしむるのみ、殊に條約實施に就きて必要なる請求すらも亦我れに向て爲すことなく、列國公使が幕府に對して種種なる苦情の矢を放ちつつある間に、己れ濁り超然として、更に之に關せざるが如きを装ひしは、其の間、頗る政畧的意義の存すらあり。蓋、彼れは此の間に於て、優勢なる艦隊を日本の近海に遊弋せしめ、有爲果敢の司令官をして之を率ゐしめて、之に付與するに、北方の諸海灣、竝に其の他の地方に於て、必要の場合に適當の命令を發し、之を遂行するの權能を以てしたればなり。此の政畧は直に武力を以て他を壓迫せんとするものなれば、極めて直截的にして、其の抵抗力の微弱なる所に於ては、奏效の顕著なるものありしも、之と共に、意外の横棒の爲に不覺を取りしことも亦尠からず。されど斯かる際には、露國政府は、之をこ一二當常局士官の専斷に歸し、政府自らは無關係なりしを辯じて、以て其の責任を逃れんとすること、彼れが常套の手段なりき。對馬占據事件の如き、亦實に之に外ならざりしなり。

引用・参照

『開国大勢史』大隈重信 著 (早稲田大学出版部, 1913)
(国立国会図書館デジタルコレクション)