『岩波講座 日本歴史.第7 幕末の外交』 国史研究会 編

 第四章 幕府の對外施設

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 一 遣米使節

 幕府は横濱開港後、内外の難局に頗る苦脳したが、尚遣米優節、小笠原島の再開拓等、進んで對外的施設に著手してゐる事は注意すべきであらう。曩に日米修交通商條約草案議定の際に、我全權は條約本書批准交換の爲に特使を華盛頓に派遣すべき事を提案し、ハリスを驚嘆せしめたのであつたが、幕府は此約を履んで幾度か使節の銓衡を重ねた結果、外國奉行兼神奈川奉行新見正興を正使に、同村垣範正淡路守を副使と爲し、目付小栗忠順豐後守後上野介以下士分從者八十一人を派遣した。(中に佐賀、萩、高知、熊本、仙臺、盛岡、杵築、吉田、舘林、金澤十藩の藩士十四人が從者として加つた。)一行は萬延元年正月廿二日(一八三〇、二、一三)米艦ポーハタン(Powhaton)に乘じて解纜し、布哇に寄港して國王に謁見し、尋で三月九日(三、三〇)祝砲殷々たる桑港に、檣頭日章旗を飜しつゝ入港し、各所の歡待受け、更にパナマに航し、地峡を横斷してアスピンウォル(Aspinwall)港から米艦ローノーク(Roanoke)に迎へられ、閏三月廿十五日華盛頓に著してウィラード・ホテルに入り、同廿八日(五、一八)衣冠束帶に儀衛を正して大統領ブハナン(John Buchanan)に謁見使命を了り、尋でバルチモア、フィラデルヒア紐育の公式歡迎を受け、五月(六、三〇)米艦ナイヤガラ(Niagara)に乘じ、喜望峰・香港等を經由して九月廿七日(一一、九)神奈川に歸還したのである。又特記すべきは此使節一行と同時に雜具粮食等を輸送し、必要の場合使節人員の補缺に備へ、且安政初年以來長崎に於て蘭人より傳習した技量を示さんが爲に、別に咸臨丸(蘭國より購入したる蒸汽内車百馬力長さ二十七間巾四間)を仕立て伴はしめた事である。即軍艦奉行木村喜攝津守・軍艦操練教授方頭取勝義邦麟太郎等以下火夫全部邦人が之に乘組み(輔導役として、米國士官三名同水夫八名同乘した)、正月十九日浦賀を出帆して大難航を續け、三十七日を要して太平洋横斷に成功し、二月廿五日(三、一七)使節一行に先んじて桑港に到着し、船體を修理し、歸途布哇に寄港しして五月六日(六、二四)神奈川に歸著した。米國政府は之に對しても非常に厚意を寄せ、使節一行の送迎滞在費及咸臨丸修覆費を負擔し、歡迎費五萬弗を國庫から、費府は同一萬弗、紐育は同二萬弗を我使節の爲に支出したのであつた。

 第五章 露艦の對馬滯泊

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 一 對馬に對する列國の觀察

 露國と對馬 文久元年二月(一八六一、三)に始まつた露艦ポサッドニックの對馬芋崎浦滞泊事件に關する芙・露其他の文武官憲の所説を瞥見するに、是歳六月(八、二)、の英國公使オールコックの報告には
 近時露國は、戰爭の結果に因らずして巧に清國から獲得した海岸線(一八五九年の愛琿條約に依つて獲たる沿海州を云ふ)に依つて支那北米兩大陸間に大なる公道を作り得た、從来商業航路の大道から遠かつてゐた露國は、之に由つて開運・軍事・商業上に大發展を遂ぐべき野望を抱くに至り、支那・日本兩國を制し得る地位を得て、ペーチリ灣から米大陸西海岸に至る大商業航路に覇権を握らんとするに至つた、此欲望の一階梯として露國は朝鮮海峡の航路上に手を染めた、彼が對馬に垂涎する意義は二樣である、其一は日本海から支那黄海に至る自由航路の保障と爲し、又有事の際には歐洲と支那日本との貿易を妨碍破壊する行動の根據地と爲し得る事、其二は歐米列國が露國の支那沿岸に獲たる新領土に接近して、立脚地を作らんとするを妨ぐ爲に効果がある事である、近時露都發行の軍事雜誌に、政府の意嚮を傳へたものと信ずべき一記者の説に、日本を形成する島嶼の一を占有する事は、露國の國策上緊要事であるとて、蝦夷島呑噬の野望を言明しでゐる、是を以て觀ても彼が對馬に手を延ばしたのは、其慾望に對する前菜として毫も不思議はない。
と稱し、又是歳沿海州露領を視察した英國東洋艦隊司令官ホープSir John Hopeは「沿海州産出の石炭が露國に有利なる商品たるべき」を指摘し「而も露國の艦船が、冬季四ケ月間に亙つて三―四呎の堅氷に閉鎖されてゐるのであるから、對馬島に艦隊集合地を求めんとするに至つたのは彼として尤の事である」と評してゐる。
 英國と對馬 英人側から對馬に於ける露國の行動を觀れば如上であらう。併、英國側に就て見るならば、箱館英領事ホヂソンHodgsonは其日本滯在記中に「吾人の急務は對馬島を占有して極東のペリム島と爲すに在り、該島は左右に艦隊通路を有し良港良材に富み、實に滿洲人民と絹布生産地たる支那とを連絡する小橋梁である」と記してゐる。又英國公使は此事件の對策を本國政府に建議して、
 予は露國が著手する數年前に、他の西歐強國が該島に先鞭を著けずして放置したるを奇異に感ずるものである。
とて對馬の要衝たる事、土地の富饒、氣候の温和等を列擧し、
 若し露艦が該島から退去を拒む場合は、英國自身之を占領すべきである。其手段としては、日本政府に條約履行の保證と大坂兵庫の開市開港とを強要し、之を容れざる時は從來の條約違反に對する倍賞として割譲せせしむべきである、對馬が海軍根據地としてモルタ同樣の價値ありや否やは、之を専門家の觀察に譲らんも、露國が此海面に爪牙を磨くは、列強特に英國には痛切なる利害の存する所である、日本國には露國の野望を防止する實力は無い、英國は此國が分割せられんとするを袖手傍觀する事は出來ぬ、若し英國が對馬を占領せば、列國の憤激する所となるであらうが、只一個我國と協力する國があらう、それは佛國である、佛國が夙に朝鮮の金鑛に著目してゐることは、クリム戰爭當時既にボーリング總督の報告してゐる筈である。佛國は英國と戮力して對馬を我に譲り、己は朝鮮に於ける日本人領土(當時外人は當山附近を日本人所有と解してゐた)を獲て立脚地を設ける擧に出るであらう。
と述べて英國自ら此島を占有すべきを主張してゐる。英國公使の對馬に對する秘策上述の如くんば露英孰れが非望を抱くものぞと叫びたくなるのである。
 對馬の國際地位 抑、對馬全島の測量は、萬延元年(一八六〇)英艦アクテオンActaeon艦長ワードWard等の著手したのが最初であつて、列國の神經を刺激した。即翌文久元年二月露國領事ゴスカヴィッチは長崎に來て英艦測量の事を聞き、奉行に英佛の野心を警告したが、更に領土的野心がないと見らるゝ米公使ハリスは「對馬を占領した露艦長は、該島を英佛人の手に歸せしめぬ爲であると揚言してゐるが、こは一年前から英佛人間に、日本は遂に西歐の爲に分割せらるゝであらうと云ふ言説が行はれたのを、自家行動の辯明材料と爲したのである」と報告し、又蘭人フィリップ・フォン・シーボルトPhilip von Sieboldは、萬円元年八月(一八六〇、九、一五)長崎奉行に「北京に於て英國使節ヱルヂンと佛國使節グローとの間に、支那海を警備し、其近海を制扼する爲に、對馬を海軍根據地と爲すべしとの協議が行はれた」と警告してゐる。更に蘭總良治デ・ウヰットの密告に依れば「英京倫敦に於て露佛英三國間に、極東に於て互に領土を擴張せざる事を誓約せんとしたるに、露國は之を拒否した」と稱せられ、又米後任公使ブリュヰンは「佛國も極東に領土を渇望してゐる事は確實である。故に若し日本と西歐諸國との間に葛藤が起れば、對馬は先づ占領せらるべき運命に在るだらうから、予は日本の爲に計るに、該島を自由港と爲して永く保有するが得策であらう」と云ふてゐる。以上觀じ來れば當時の對馬の國際的位置は實に岌々乎たるものであつた。

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 二 露艦の滯泊と其退去

 北支那及び日本海巡察の爲、文久元年正月(一八六一、二)上海より長崎に来た露國海軍大佐リカチョフ(Likachoff)から、對馬島滯泊を命ぜられたポサッドニック(Possadnick)艦長ビリレフ(Birileff)は、二月三日(三、一九)同島淺海尾崎浦に來て附近を測量し、三月四日(四、一三)芋崎浦古里碇泊し、船體修理を名とし營舎を作り、永住の施設を構へた。此警報に接した幕府は、四月外國奉行小栗忠順・目付溝口八十五郎を特派して其退去を交渉させたが、露艦長は英佛の野望阻止の滯泊すると稱し、露提督の命でなければ退去せぬと言明した。小栗忠順は口舌を以て爭ふの非を察し、且他に何か企劃の存したのか談判を中止し、領民の安撫と露人を平穏に取扱ふべきを命じ、急に歸府の途に就いた。幕府は小栗派遣と同時に箱館奉行に露國領事に談判を命じた。依て六月十日(七、十九)村垣範正はゴスカヴィッチに應接したが、彼は露船をポシヱット灣にゐるリカチョノ提督に急派報告する事を約した。
 露艦の対馬碇泊を聞知した英國公使は提督ホープと議り、既に四月下旬(六、四)アクテオン艦を彼島に差遣しで露艦の動静を探らしめ、踵でレーベン、リングダブの諸艦をして露艦監視の態度を執らしめた。安藤閣老も七月初英國公使及同提督と會見の際、列國の對馬に對する野心防止の手段及既に開港期日の迫る兵庫の代港に同島を開港する内意を漏らしたので、英公使提督は態度を決し、提督ホープは我政府に關係なく、自發的行動として對馬に到り、露艦の條約違反行爲を責めて其退去を強要するに決し、七月廿三日(八、二八)ヱンカウンター、リングダブ二艦を率ゐて赴き、露艦將ビリレフに退去を迫り、又一書を提督リカチョフに寄せで其不法を詰つた。斯くて英國強力艦隊壓迫の結果か、將又箱館領事斡旋の効果か、軍艦ポサッドニックは八月廿五日(九、二五)建造物を對馬藩に托して芋崎浦を退去し、事件は落着したのである。
 併此事件は、同年十月十一に至り更に歐州外交界の問題と爲り、英外相ラッセルは駐露大使ナピヱール(Napier)に命じて「英政府は日本に於て商館の建設、若くは貿易保護以外に土地を占有するを否認する約定列強間に結ぶの用意ある」旨を露國政府に通告し、對馬滯泊に關する眞意を質問させ、茲に數囘英大使とゴルチャコフ公との間に皮肉な會話が交換され、更に駐露國公使ヘーヘルス(Gevers)男も此渦中に入り、英艦の對馬測量も論題の一に加へられ、露京に於ても英・露兩國要路間に所謂水掛論が繰返されたのである。此間米公使ハリスは、本件の發生を目して「外人に反感を有する日本の諸大名に、更に新しき刺戟興奮を起すであらう」と歎息してゐたのである。

引用・参照

『岩波講座 日本歴史.第7 幕末の外交』 国史研究会 編(岩波書店, 1935)
(国立国会図書館デジタルコレクション)
註:「萬延元年正月廿二日(一八三〇、二、一三)」→「萬延元年正月廿二日(一八六〇、二、一三)」。