『近世日本国民史.〔第61〕』徳富猪一郎 著

 一八三-一九八頁
 第八章 幕末期の人物

 【四二】徳川幕府政權の失墜

 御一代間の多事

 孝明天皇御宇の嘉永六年六月三日(大陰暦)彼理提督が、軍艦四隻を率ゐて浦賀灣に闖入し、同六日本牧の海上に碇泊し、近海を測量し、近くは江戸滿都の上下を驚殺し、遠くは日本全國に、一大衝動を與へて以來、孝明天皇の崩御、慶應二年十二月(大陰暦)二十五日に至る迄、約十三個年半に過ぎない、然も此の十三個年半は、日本の歴史の上から見れば、急湍激流と見る可く、其の時運の推移の迅速なるは、到底その以前の一百年に比しても、或は二百年に比しても、及ばざる無き程であつたことは、今更ら繰返す迄もなき事だ。所謂る歴史の足取りは、決して時間をもて測定す可きものにあらず、百年にして十里を行く場合もあれば、十年にして百里は愚ろか、千里、萬里を走る場合もある。若し徐ろに慶應二年の終期に立ちて、嘉永六年の中期を囘看したらんには、如何に今昔の感に打たれたらうよ。

 一切機構更改

 變化の最大なるものは、此の十餘年に於て、徳川家康によりて創成せられたる江戸幕府と、其の日本全國に及ぶ一切の機構とは、殆んど全く廢止せられ、打破せられ、更革せられ,改作せられた。江戸幕府の中央集權は名實兩ながら失墜せられた。統制系統の中樞である江戸幕府は、今や朝廷の從屬機關、補助機關となりて、一切の政權は擧げて朝廷に歸したと云はざる迄も、方さに歸せんとしつつあつた。

 漸次に幕府政權失墜

 從來幕府は手を拱して、三百の諸侯を指揮、命令し、いざとなれば移封、削封、改易没取さへも意の如くであつたが、今や一の諸侯さへも、勝手に之を進退せしむるの力を失墜した。所謂る徳川將軍の政權返上は、慶應三年十月に於て奏上せられたるも、事實は其の以前に返上せざるまでも、既に失墜し去り、其の返上と否とに關せず、徳川幕府には、殆んど政權なるものゝ存在は認められなかつた。而して此れは何人が何時失墜し、若しくは失墜せしめた乎と問ふ迄もなく、此の十餘年に、漸次に筍皮を剝ぐが如く、逐次に剝ぎ去られたのだ。然もそれは他より剝ぎ去られたのでなく、寧ろ徳川自身に、知らず覺えず時勢の推移と與に、斯かる情勢に立ち到らしめたのだ。

 自然の結果幕權削小

 孝明天皇は、意識的に幕府を倒さんとの思召が無かつたばかりでなく、幕府の權力を削減せんとするの思召さへもあらせられ無かつた。但だ皇權の擁護と、國體の擁護に御専念在らせられたる爲め、事苟もそれに關係ある場合には、寸毫も假藉し玉はなかつた爲めに、自然皇權の恢復と與に、將軍の權力の削減となり來りたるは必然であつた。けれどもそれは原因でなく、皇權恢復の爲めの幕權削小であつた。
 政權漸次に返上

 若し彼理來航の當時、幕府が十二分の準備あり、一切の始末は、幕府の獨力もて之を任ずるを得たたらんには、未だ必ずしも朝廷の御干渉を被るが如き心配は無かつたであらう。然も幕府は朝廷を尊崇するが爲めと云ふよりも、寧ろ其の責任擁護の方便として、事毎に朝廷を持ち出した。而して其の結果は、曽て一切の政權の御委任を被りたりと自から稱したる幕府は、朝廷よりの御沙汰を俟たず、御催告を俟たず、自から漸次に其の政權を返上するすることとなつた。

 自然の成行

 されば慶應三年十月に至りて、當時の將軍徳川慶喜が、仰山に政權返上を申し出でたるも、其實は政權の風袋だけは、その當時まで保存してゐたが、其の内容は全く無一物であつた。兎も角も其の風袋だけは、その當時まで保存してゐたが、その内容は嘉永六年の下半期から、慶應二年の末までの十三年六個月間に、消亡し去つた。けれどもそれは自覺的に囘収遊ばされたのでもなく、自覺的に返上したのでもなく、時勢の推移と與に、殆んど自然の成行にて、此の如き結果となつた。然も幕府の失墜したる總てが、悉く皆な朝廷に歸したとするは、是亦大早計を免れない。それは朝權以外に全國の大名等が銘々に之を拾収したことも忘却してはならない。

 【四三】人材の黄金時代 (一)

 幕府人材多し

 徳川幕府は、嘉永の末期から、慶應の中期まで十餘年間を、苟且、偸安、無氣、無力、無能、無爲で暮らしたものでは無かつた。徳川幕府には、二百吾十年を越えたる傳統的政策もあれば、機構もあつた。それが時勢の推移、環境の激變によりて、概ね不用となつたとは云へ、其の經験もあれば、其の惰力もあり、其の習慣もあれば、其の累積の力もある可き筈だ。否な孝明天皇御宇の幕府には、歴代の江戸幕府に於ける何れの時代に比較しても、決して人材は缼乏してゐなかつた。

 阿部正弘の治的手腕

 例せば彼理提督來丂當初の阿部正弘の如きは、大見識、大力量には缼くる所あり、之を一代の經世家とは云ふ能はざるも、其の政治家としての手腕に到りては殆んど無類とも、無比とも云ふ可き程にて、眞に賢宰相の資格があつた。凡そ幕府存在の全期間を通じて、彼が如き臨機應變の才ありて、其の調停力、協和力の圓滿に發達し、充實したるものは、未だ是れ無き程であつた。發強剛果は彼の長所ではなかつたが、寛裕温厚は彼の本質であつた。

 開國家堀田正睦

 堀田正睦は、首相の器ではなかつたが、外相としては、決して不適當ではなかつた 。而して彼は當時の大名中にて、恐らく極めて少數なる開國家であつた。その開國家たることは、兵力薄弱にして、外國と戰うて勝算無き爲、已むを得ざる開國家でなくして、心からの開國家であつた。

 井伊直弼

 井伊直弼に至りては、褒貶兩ながら其度を外れてゐる。彼は決して心からの開國家でもなければ、心からの朝權蹂躙者でも無かつた。其實を云へば、彼は功名心と、自我心と、幕府への奉仕心と、而して多分ではなかつたが、彼れ流儀の勤王心との各要素によつて調合せられたる人物であった。然も彼は決して、一個の藁人形では無かつた。少なくとも彼には彼自身の主張があり、又たその主張を徹底せしむるだけの氣魄もあつた。

 安藤信睦

 而してかれの衣鉢を相續したりと稱せらけたる安藤信睦は、好個の外相たるを忝しめなかつた。その大名としての資格も、彼の祿高は井伊のそれに比して、殆んど十分の一程度なれば、その爲めに井伊ほどの威望は無かつたが、其の外交上の知識と手腕とは、正さに井伊の企て及ぶ所では無かつた。安藤以後の老中には、恐らくは小笠原長行を數ふ可きであらう。然も彼は其の實行力に於ては、到底安藤の比ではなかつた。彼は要するに翩々たる一の才子であつたろう。善く策を好んだが、之を行ふに至りては、果敢の氣魄と、其の徹底力とを少いた。然も幕府の末期に於ては、彼程の老中さへも居らなかつた。

 老中以下の人物

 老中以下の幕吏の中には、實に人物彬々輩出したと云はねばならぬ。此れは時局の刺戟によりて然らしめたる爲でもあらうが、恐らくは家康開府以來、幕府の末期ほど、能吏の多かつた時代はあるまい。但だそれにも拘らず、幕府が遂ひに振はなかつたのは、幕府が遂ひに瓦解したのは、何故であらう。それは必らずしも彼等の罪のみではない、天下の大勢が、徳川幕府に對して、頗る有利で無かつた爲めであらう。即ち大勢不可なるが爲めであらう。此處に朝廷の公卿及び諸藩の士と比較して、幕府側には、大なる引目がある。彼等は順風快調に舟を操るもの、幕府側は逆風退潮に舟を操るもの、斯の如く異なりたる條件の下に、其の力を角せんことは、而して其の勝敗の結果を見て、直ちに彼等の優劣を判ぜんことは、決して平允の審判ではあるまい。

 幕府の努力

 其の形勢を馴致したるに就ては、幕府自身の自ら致したる責任の若干をも計上す可しとは云へ、斯る不利なる形勢に在りて、尚ほ相當の措置を爲し、兎も角も其の難局を、十餘年間に亘りて、持ち怺へたのは、如何にも彼等の努力と云はねばならぬ。幕府の失體や、幕府の失策や、幕府の凡有る罪過は、之を迫咎するも差支えあるまい。然も幕府の奉仕や、幕府の努力や、幕府の苦心も、決して之を無視することは出來ない。若し人物からすれば、幕府の瓦解以前は黄金時代であつた。

 【四四】人材の黄金時代 (二)

 諸奉行中の人物

 所謂る大名中の老中、ろうじゅう、若年寄の仲間にも、上記の如く人材少なくなかつた(参照四三)。それよりも諸ろの奉行、大目付等の間には、奇材、異能の士は頗る多かつたと云ふもえ溢辭では無かつた。其中でも岩瀬忠震、川路聖謨、水野忠徳、小栗忠順の如きは、尤も錚々たるものであつた。

 前に岩瀬後に小栗

 彼等は未だ必らずしも悉く皆な首相の器では無かつたにせよ、一省の長官としては、餘りあるの材であつた。就中若し幕末の俊逸を求めたらんには、前に岩瀬あり、後に小栗ありと云ふ可きであらう。即ち嘉永、安政の交、外交の危機に際して、其の難局に直面し、之を措置したるは、岩瀬の力であり、文久、元治、慶應の交、幕府の財政困難に際して、其の遣り繰りをなし、兎も角も大なる破綻なく、其の始末を附けたるは、一に小栗其人の力に頼るものであつた。

 岩瀬小栗の眞價

 勝軍の時には、何人も皆勇者であり、敗軍の時には、何人も皆な怯者である。從つて勝軍側の者は、自然に其の割合が善く、敗軍側の者は、自然に其の割合が悪いしくある。されば前者には割引が必要である如く、後者には割増が必要である。具體的に云へば、薩長土肥、其他維新史に於て、朝廷側の者は、何れも多少の割引きを要し、幕府、會、桑、其他幕府側の者は、多少の割増が必要だ。されど岩瀬、小栗の徒は、其の割増を做さゞるも、彼等は自から光つてゐる。彼等は單に幕府の人材と云ふばかりでなく、當時に於ける日本の人材であつた。

 【四五】人材の黄金時代 (三)

 小栗の功

 徳川幕府の衰亡初期に際し、外交の難局に膺りて、兎も角も之を切り抜けたる一人が、岩瀬忠震とすれば、其の衰亡末期に於て、専ら財政の局面を擔當し、甘くも遣繰りをして、其の始末を附けたのは、小栗忠順であつた。而して小栗は更らに幕府の財政ばかりでなく、其の陸海の軍制に關し、特に横須賀製鐵所の建設に就て、貢獻する所、尤も多かつた。

 福地の小栗評

 小栗其人に就ては、是非の論少なくない。けれども彼が一代の奇才であつたことは、何人も之を否定は出來なかつた。福地源一郎著「幕末政治家」に曰く、
 小栗が名を世に知られたるは、萬延元年幕府の使節となのて、新見、村垣と倶に初めて米國に赴きたる時に始まれり。使節が歸朝の時に當り、鎖攘の議論漸く朝野に熾なりければ、皆口を緘して默したるに、小栗一人は,憚る所なく、米國文明の事物を説き、政治、武備、商業、製造等に於ては、外國を模範として、我國の改善を謀らざる可からずと論じて、幕閣を聳動せしめたり。
 果然彼は俗吏では無かつた。
 其後は御勘定奉行、外國奉行となりて、財政に、外交に與りたるが、時の幕閣に容れられずして黜けられ、幾も無くして又再勤しては、孜々其の職掌を執り、幕府の經綸を以て、己れが任とし、其精勵は實に常人の企及ぶ所に非ざりけり。
 彼は實に有爲の人物であつた。

 精悍俊敏

 其人となりは精悍、敏捷にして多智、多辯、加ふるに俗吏を罵嘲して閣老、参政に及べるが故に、滿廷の人に忌まれ、常に誹毀の衝にに立ちたり、小栗が終身十分の地位に登るを得ざりしは、蓋し此故なり。
 彼は實に江戸ッ兒であつた。本來江戸ッ兒は口が悪いのだ。

 財政の苦心

 小栗が財政外交の要地に立ちし頃は、幕府は已に衰亡に瀕して、大勢方に傾ける際なれば、十百の小栗ありと雖も、復奈何とも爲す可からざる時勢なりけり。然れども小栗は敢て不可能の詞を吐たる事なく、病の癒ゆ可からざるを知りて藥せざるは孝子の所爲に非ず、國亡び身斃るゝ迄は、公事に鞅掌するこそ眞の武士なれと云ひて、屈せず撓まず、身を艱難の間に置き、幕府の維持を以て進みて、己れが負擔となせり。少くとも幕末數年間の命脈を繋ぎ得たるは、小栗が與りて力ある所なり。(余は小栗に隷屬したるを以て、其の辛苦に心力を費せること、余が目撃せる所なり)
 此處に余とあるは、福地其人のことだ。如何に彼れ小栗が其の屬僚の目に映じたるかは、之を見ても判知る。

 冗費節約

 將軍家(將軍家茂)兩度の上洛、これに續きて、東には筑波の騒亂あり、西には長州征伐あり、其餘文武の政務に付き、幕府が臨時財政の支出を要したるは、莫大なりけるに、小栗は或は財源を諸税に求め、或は嚴に冗費を省きて、之に宛て、未だ曽て財政困難の故を以て、必要なる施行を躊躇せしむる事なかりけり、然れども冗費を省き、冗員を汰するの故を以て、小栗は俗士輩の怨府となりけり。
 左もある可き次第だ。

 紙幣發行せず

 幕末に際して、財源愈々窮し、復これを覓むるに餘地なかりしかば、小は僚屬の議を容れて、幕閣の決議に随ひ、紙幣を製造せしめたりけるが、時機これを許さずと抗議して、發行を承諾せざりけり、されば幕府が滅亡に至るまで、不換紙幣を發行せず、其禍を後に殘さゞりしは、寔に小栗の力なり。
 以上は小栗が幕末の財政に就ての功績を讃したるもの。

 兵制改革

 幕府士人の銃隊は墮弱にして、實用に堪へざるを看破し、小栗は旗本等に課するに、其の領地の高に應じて、賦兵を以てし、併せて其の費用を出さしめ、是を以て數大隊の歩兵を組織し、夙に徴兵制度の基礎を建てたり。小栗は又佛國より教師を聘して、右の賦兵を訓練せしめ、併せて陸軍學校を設けて、將校を養成せしめたり、是れ所謂幕府の傳習兵にして、幕府の末路、稍々健闘の譽を博したるは、即ち此の兵隊なりけり。
 固より小栗は徳川幕府の爲めに如上の努力を爲した。然もそれが日本國爲めに、幾許の利益を進捗せしめたるかは、事實が之を證明してゐる。

 二一一-二四九頁
 第十章 横須賀造船所創設

 【四九】佛國公使と栗本瀬兵衛

 ロッシュの功績

 佛國公使レオン・ロッシュは、當時の幕府に取りては、二つなき外交顧問となつた。外交ばかりでなく、凡有る方面に便宜と方便とを提供した。即ち幕府が佛式兵制採用に就ても、横須賀造船所の創設に就ても、皆然りとする。此れよりして横須賀造船所の創設に就て物語らんに、直接此事に當りたる栗本鋤雲(瀬兵衛、安藝守)は、左の如く記してゐる。

 栗本佛使親交換因

 幕末の最末に當り、横須賀造船所と、陸軍傳習と、佛國語學所との開設の起源は、盡く予(栗本)が一身に關し、又三項共に相聯りて脈絡接續したければ、一を擧げてニを閣くを得ず、因て之を記さんに‥…元治元年十一月初旬頃歟、予監察を以て、横濱在任中に、参政酒井飛驒守、突然予を徴し、新部屋に招き(原註 新部屋は城中閣老参政の部屋の外にありて、議事の小室なり)、予が佛國人に親しきは何故にやと問はれしかば、前年無職にて蝦夷地に在住せし日、奉行津田近江守が指揮に因り、佛人メルメデ・カッシュンに邦語を相傳へたるに因り、懇意に成りたるが、此度監察に命ぜられ、横濱表立合として詰居る處、豈料らんや、右カシュン儀も、彼國公使付書記官にて、同港に居り候故、應接の度々面會致し、公事終りて舊話に及び、其の緣故を以て自然彼公使ロセツにも親敷相成りたりと答へたるに、
 人事は實に意外のもの。栗本が 函館にて、佛僧カションに日本語を教へたる緣故が、やがては幕府と佛國との親交を促進せしむる絶好の機會を作つた。
 飛驒守重て、夫れは一段の事にて、至極官邊都合にも相成候‥…就ては以來足下に限り、特例の譯を以て、外國人應接の節、下司及び監者、譯者、地方官を携帶するに及ばずと、唯今大老(酒井雅樂守)閣老(水野和泉守、阿部豐後守)議定ありたれば、右の通り心得、前後聊か顧慮なく任當せらるべしと云はれたり。

 翔鶴丸修理

 此の如く栗本は、其の佛國公使と親交あつた爲めに、幕閣から單獨應接の公許を得た。此れは幕吏としては無上の榮譽でもあり、信任でもある。而して彼は直ちに若年寄酒井飛驒守の希望に任せ、翔鶴丸損所修理の效を擧げた。その事は姑略するが、此れからして愈よ横須賀造船所創設の方へ進轉し來つた。

 小栗の栗本依頼

 同年(元治元年)十二月中旬、天晴れ風烈き日、予税關を退き、將に官邸に(反り目に在り)歸らんとする途中、遙か跡より塵沙を蹴立てゝ、二騎馳せ來るあり。予心ともせず將に曲街に入らんとするに當り、其騎忽ち大聲に予が名を呼て、瀬兵衛殿旨く遣られしな、感服々々と云ふに因り、顧みて其騎を見れば、即ち小栗上野介と其僕なり、予云ふ、何を旨く遣りたるや、上野云ふ、翔鶴の修復なり、予云ふ、卿は既に見られしや、上野云ふ、見た共、併も大見だ。今日英國バンク・フリヤンタルに掛合ひ事あり、固より支配向の者にても濟む事ながら、埒の明かざるを恐れ、午後より出港したるが、用事忽ち濟みたければ、兄に面し度事もあり、旁々歸り掛け翔鶴に到りしに、兄は既に去れり、因て船底迄入りて盡く檢したるが、「ケートル」(汽罐)も腐蝕の分、殘らず割き棄てゝ補ひあり、至極宜し、去るにてもパイプ(鐵管)は能く間に合たり。予云ふ、去れば是れには少し困じたり。セミラミス船所畜の品は過大にして用を爲さず、上海には相應の品ありと聞き、幸ひ便船ありしかば、直に注文せしに、早速に廻り來りしゆへ、斯く早く仕上る事を得たり。一體海外注文品は、貴局の許可を得ざれば能はずと雖も、ヤレ評議や、ヤレ廻しと云ひ、永引中には、時機を失する故、此度は受負ひ普請の仕上げ勘定と極め、武斷に取計ひて仕舞ひたり、上野云、妙妙。

 個人意見一致

 小栗上野介は、當時勘定奉行であつた。彼と栗本とは同氣相求め、同類相依るの比喩に漏れず、何れも佛國に頼りて、事を目論まんとする點に於て、其の意見が一致してゐた。而して今や小栗は栗本の力を假る可く、斯くは栗本を後から追掛け來つたのだ。

 海軍造船の初め

 抑も幕府が施設せし最初の陸海軍編制は、佛人の力に負ふこと甚大なりき。初め日本の米國と修好約を結ぶや、其の第十條に於て、はりるすハリルスは殊に日本が兵器船舶その他必要品及び教師を米國に仰ぐべきを約せしめしかば、文久元年七月九日、幕府は、公然書を以て軍艦二隻を米國に注文し、又南北戰爭の起るに及びて、最初の海軍留學生(榎本、澤、赤松、津田、内田恒次郎等)を蘭國に遣したり。是れ又文久二年の事なりき。かくて英蘭二國より献上せし軍艦並に我が購求せし汽船幾隻は江戸灣に碇泊することゝなりたれども、海軍に就ては、未だ嘗て何等の設備あらず。幕府の運輸船翔鶴丸の破損するや、目付栗本瀬兵衛の嘗て函館に在りて佛國領事の書記官メルメ・デ・カションと親交ありしを利用し、適〻横濱に在りし佛國軍艦に請ひ、士官、技師をして之を修繕せしめたる事あり。(これ元治元年十二月の事なり)是に於て栗本は、小栗上野介と謀り、佛人の助力に依り、慶應元年四月二十五日、外國奉行柴田日向守を佛國に派す。[開國大勢史]

引用・参照

『近世日本国民史.〔第61〕』徳富猪一郎 著 (民友社, 1939)
(国立国会図書館デジタルコレクション)