『幕末外交秘史考』尾佐竹猛 著

 45-60頁
 二、小栗上野介の遺物

 参照:『国際法より觀たる幕末外交物語』 小栗上野介の遺物

 61-80頁
 三、幕末に於ける海外使節の話

 貴重なる幕末史料

 徳川幕府は外國と修交條約を締結する爲に、幕末に數囘に亙つて海外に使節を派遣した、この事は近世史上極めて重要なる事實であるが、その事蹟が割合に明らかでない。然しその事に就て一々之を詳細に述べると非常に長くなるから、此處では極く大要だけを述べて見たいと思ふ。
第一囘に幕府から海外に使節を派遣したのは萬延元年正月のことで、その目的とする所は日米修交條約批准の交換の爲である。この時の正使は新見豊前守正興、副使は村垣淡跡守範正、監察は小栗豊後守忠順(通稱を又一と云ふ)と云ふ顛觸れである。この使節一行の事蹟に關する史料としては、寫本その他で今日約三十種程のものが傅つて居る。その中でも村垣淡路守の航海日記は最も詳しいので、明治三十一年に束陽堂から出版された。更にそれを訂正増補したものが、大正七年に日米協會から出版された。その他に出版された著書が數種あるが、何れも後年の作である。使節派遣當時の眞相を描出したものは甚だ乏しい。然し米國側に於ては、當時の事柄を記した幾多の新聞が傳つて居り、一行の寫眞も傳つて居る。當時の出版物の中で餘り世に知れてないのは征使水路記(萬延元年十月發行)で、これは遣米使關する最初の出版初である。それに次で文久元年には航米雜詩が出て居る。更に意外に感ずるのは、文久二年甲斐の市川で、環海航路新圖といふ當時の航路圖に渡米日記の概略か附記してあるものが發行されたことである。然るに大正八年第一囘国際勞働會議が開かれた時、鐘田榮吉氏が政府代表としてワシントンに派遣された際に、随行の一人としで同行した慶應義塾圖書館長田中一貞氏は、ワシントン滞在中に萬延元年の使節一行が泊つたといふニュー・ウイラード・ホテルを發見したので、再三訪れて其處に保存された當時の繪畫を見て、それを動機として凡ゆる史料を集められた。それを出版したのが、「萬延元年遣米使圖録」といふ本である。茲にに於てかこの使節一行の事柄が始めて明瞭になつたのである、第一囘國際勞働會議の使節は果して如何なる効果を齎したかは吾々にはよく解らないが、田中氏のこの發見は我幕末史上に大なる光輝を添へるものであると思ふ。

 井伊大老の卓見

偖てこれから第一囘遣米使の話に移るが、日米通商條約をワシントンで批准交換するといふことは、當時としては極め重大な事件である、幕府當局の考では、この機會に於て當時の有力者を派遣し、海外の事情を詳にする心算であつた。當時の米國公使ハリスもその意味に於て、遣米使派遣のことを大いに奬める所があつた。そして色々な事情の爲めに結局前述の樣な顔觸れが行くことに確定したのである。 この使節の目的は――當時の公文書に據れば本條約締結の爲であると云うて居る。然し是は幕府が政略的に用いた言葉なのだ。何となれば幕府の日米修好條約締結は與論の攻撃頗る騒しかつた。それに對して幕府は世間へ對しては、事情止むを得ずして米國と開港條約を締結したまでヾある。然し是は假りの條約締結であるから、何れ米國へ行つてから本條約の締結に取りかゝるのである、と云つて本條約を締結するまでは尚ほ條約に改廢の餘地あるものゝ如く装うて世人を瞞着せんとしたのである。故に幕府営當局者の中でも外交事情に通せざる者はさう信じで居たのであるが、何ぞ知らん、日本に於て締結した條約が本條約そのものであつて、遣米使の目的は米國に於て單にその批准交換をなすに過ぎなかつたのである。この事實は往年福地源一郎氏が喝破した所であるが割合に世間には知られてない。近頃の歴史の書物にも、この時の使節は單に本條約締結の爲めであるかの如くに載つて居るものが多い樣である。是ではあ幕府當局者よりも外交知識が乏しいと云はねばならぬ。 斯くの如き使命を持つた遣米使一行は正使副使の外に總員八十四名、米國より特に派遣せられた軍艦ポーハタンに乘込んで出發Lたのである。又別に軍艦奉行木村攝津守(芥舟)船將勝鱗太郎(海舟)の一行は、軍艦咸臨丸に乘込んでポーハタンに随行することになつた。
咸臨丸は幕府の軍艦であつて。而も日本人の手のみに依つて太平洋を横斷した最初の船である。使節の随行員中には福澤諭吉先生も居つたのである。何しろ日本から始めての使節派遣であるから、一行は非常の決心を以て出發した。村垣淡路守の日記によれば、
『昔遣唐使といへど僅か海路を隔てたる隣國なり。米利堅(亜米利加)は皇國と昼夜反對にして一萬里の外なり。斯く例もなき大任を蒙り、五大洲に名の聞えんことは實に男子に生れ得て甲斐あり。顧れば愚なる身にて天地開闢以來始めて異域の使命を蒙り、君命を恥しむれば神洲の恥辱ならんと思へば胸苦しきこと限りなし』 と書いてある。以てその覺悟の程を見るべきである。又使節の出發に際して、將軍より大統領への書翰は漢文にすべきか、或は英語、和文にすべきかの議論が起つたが、井伊大老一斷で和文と決定したのである、是は極めて卓見であつて、最近のワシントン會議に於ける加藤全権の日本語の演説と共に外交史上の異彩である。
大統領に對する書翰の全文は長いが、その書出しは
『うやうやしく亜墨利加合衆國の大統領のみもとにまをす』
と云ふのであつて、又他の一説には、
『むつびののりをさだめて、ものうりかふべきちぎりのしるしふみ』
と云ふ文句がある。是は和親通商條約のことである。最後に、
『すべてしたしみをあつくし、またそのくにたいらけく、やすけからむことをおもふにこそ』
と結んである。是等が書翰の原文で、別に英文の翻譯が添へである。
又使節に對する全權委任狀ともいふべきものは普通の文體で、『本條約をワシントンに持ち行かん爲め、汝儀を彼地に送り、其條約書を取換へんことを汝に命す』といふ書出しで、之には和蘭文の翻譯が添へてあつた。この時日本人は始めて亜米利加なるものを見たのであるから、彼等の感想は實に珍無類である。一行の珍談は數限りなくあるが、何れも實に世界的の珍談である。是から極く面白さうなものを選んで話さうと思ふ。

 草鞋を携へて米國へ

先づ奇妙に感ずることは、一行の乘組員中に髪結が二人居ることである。それから食糧品は無論米であるが、その他には醤油、味喰、香のもの、小豆、胡麻、唐辛子、蕎麥粉、葛粉、鰹節梅干等で、食物調理の爲め別に炭薪を積み、尚燈油一石、蝋燭千本、筅箒、附木、提燈、草鞋の類に至るまで悉く用意したのである。鎧、兜、槍、刀は無論のことである。
かやうに周到な仕度で、一行は品川灣を出帆したのである。途中の航海は非常に物珍らしく大きな暴風雨にも遭はず。無事にハワイに到着した。ハワイに着いて、使節一行は國王に謁見したが、この時の話は一行最最初の事件であるからよく世間に傳つて居る。謁見の際、國王が金の襷の樣なものを肩に掛けて居るのが珍らしかつたらしい。それにまた皇后が肩から胸の方まで膚を川して居るのが、頗る奇妙に感じたらしい。その時に讀んだ村垣淡路守の歌が大變面白い。

 御亭主はたすきかけなり、奥さんはに大膚ぬぎで珍客に會ふ

ハワイ國王の謁見が濟んで、一行を乘せた船は軈サンフランシスコヘ着いた。一行は上陸後直ちにホテルに泊つたが、ホテルといふ言葉が抑々初耳で第一に珍らしかつた。ホテルを説明して、ホテルとは旅籠屋の事なり、と、福澤先生はこの時が始めての洋行であるから、何にもかも驚いて御座つた。先づ上陸すると狭い箱の中へ押し入れられてしまつたので、何んな事になるのかと気を揉んで居たが、軈て馬がその箱を引張つて走り始めたので、成程これは馬の引く車だと漸く合點がいつた。 ホテルでは床の上一面に絨毯が敷きつめてある。その絨毯は日本で云へば、餘程の贅澤者が漸く一寸四方位を買つて紙入にするとか、或は煙草人にする位の程度の貴重品であるのに、そんな珍らしい品物を八畳も十畳も床の上に敷きつめて、而もその上を靴でドカドカ惜氣もなく歩くとは偖々途方もない事だと驚いた。然し亜米利加人は往來を歩いた靴でサツサとその上へ上るので、此方も麻裏草履の儘で絨毯を踏んだ。一同席へ着くと酒が出る。徳利の口を開けると恐ろしい音がしたので、一同大いに驚いたと云ふことであるが、今考へるとそれはシャンペンである。コップの中を覗くと何か浮んで居る。其の時は三四月の可なり暖い頃であつたから、氷があるなどゝは夢にも思はなかつた。何んだらうと不思議に思つて口に入れると氷であつた。吹出して笑ふものもあれば、又ガリガリ嚙む者もある。煙草を吸はうと思つても煙草盆がないので、大いに憤慨したと云ふ話もある。
亜米利加人が日本人を見たのはこの時が始めてなので、彼等も亦非常に驚いた。日本人の服装や風俗に就いて書いたものが種々あるが、その中でも亜米利加人が不思議に思つたのは、日本人が懐へ物を入れて置くことで、その意味か更に判らない。 どうも日本人の使節は胃袋の上が脹れて居るとしか考へられなかつた。日本人の袴を見て、『日本人のズボンは甚だ廣く且つ短くして地面より五六吋位の所まで下り、絹絲にて作られ、時としては美麗なる刺繍がしてある。そして是等のズボンは平たき紐にて保たれ、紐は腰の後方で結ばるゝものである」と説明して居る。日本人の足袋を説明して、『彼等の足の上には自き布の覆あり。半は短き靴下、半はゲートルとも云ふべきもので足に密着して居り、紐を以て桔ばれて居る』と。又『日本人の履物は藁で作りてあつて、足を乘せる小さき平らな畳と二本の紐とより成り、一本は足の上を走り、一本は親指と次の指との間を走り、以て畳の動かざる樣にするのである』と。又袂を説明して、『日本人はスラリと垂れたる袖の一部分をポケツト代用に使用するのである』と云つて居る。然し感心な事には、諸侯及び諸官吏は和蘭人より買求めた時計を所持して居た樣である。
亜米利加人は日本人の服装その他の點から考へて、恰も今日我々が臺灣の生蕃人でも見る樣な感を持つたらしいが、意外にも使節一行は教養があり、理智的であるので、その點は流石に彼等も感心して居た。使節一行は陸路を通つたのであるが、始めて汽車へ乘つた時には非常に驚いたらしい。日記に依れば、
『凄まじき車の音して走り出でたり直に人家を離れて次第に早くなれば車の轟く音、雷の鳴り響く如く、左右を見れば三四尺の間は草木も縞の樣に見えて、見止まらず。七八間先方を見ればさのみ眼の廻る程のこともなく、馬の走りを乘るが如し。更に話も聞えず殺風景なること限りなし。一時間ばかり走りて家あり。休む所と見えて車を止む』と記してある。
随員森田岡太郎氏の詩に
 奇獸珍禽簇異花、有椰株處兩三家、眼前風景難看取、雷激奔過霹靂車
とあるは、始めて汽車へ乘つた時の所感である。これに由つて、彼等の汽車に驚いた狀況が眼のあたり見ゆる樣である。村垣淡路守の日記によれば次の如くである。 『雲に仙人もかくいかづちの車は知らじおかごへのみち』
斯く一行が驚嘆を交はして居る中に汽車はパナマへ着いた。其處から更にワシントンに行くのである。使節の一行が亜米利加で感じた一事は軍備のないことである。一行の中には、かやうに軍備のない國は恐るゝに足らずと云ふ考を持つた者もあつたが、又一方に半可通の人は亜米利加は共和國であるから、互に親しんで敵を持たないと云ふ考を持つた。最も不思議に感じたのは公の席上へ常に婦人が出て來ることである。又遙々外國の使節が渡來したのに、亜米利加の大統領始め凡ての役人の服装に飾りがなくて町人と少しも變つて居らないが、その意味が何うしても判らなかつた。斯くの如く凡ての點に上下の區別が存在しないといふことから亜米利加は野蕃人の國である、と日本人の眼には映じたのである。
ワシントンに到着した一行は、そのホテルの壯麗なることに一番驚いたのであるが、室へ入ると皆は並べてある椅子を四隅の方に片附けてしまつて床の上に座つたり、安座をかいたりした。中には椅子の上で安座をかいて見たがどうも具合が悪くて、下へ降りて床の上へ座り直したと云ふ云ふは無しもあつた。ホテルの室の中へ長い槍や、傘を持ち込んで居るが、刀の置場所には困つて、マントルピースの上に置いたり、又態々机を借りて刀をその上に置いた。
ワシントンへ着いて、第一に訪問したのは國務卿であつた。その時にも矢張國務卿の室へ婦人が出て來たので、一同はこれを大いに怪しんだ。又外國の使節が始めて來たのに對して茶も出さないのは、禮を知らざる夷の國であると憤慨して居る。

 大統領入札

その翌日は大統領との謁見であつたが、使節一行は烏帽子に狩衣と云ふ出立で、槍を立てゝ堂々とホワイト・ハウスへ乘込んだのである。その時の村垣淡路守の日記に、
『己は狩衣を着せしまゝ、海外には見も慣れぬ服なれば、彼はいとあやしみて見る樣なれど、斯かる夷の國に行きて皇國の光を輝かせし心持し、愚たる身の程も忘れて誇り顔に行くもをかし』彼等は堂々と日本の服装を世界に輝かさんはかりの意氣込みであつたが、然し亜米利加人には一向頭に被つた烏帽子の意味が解らなかつたと云ふことである。その當時の新聞のポンチ繪には、烏帽子として一片の煉瓦を頭の上に結び附けたものを書いて居る。
苟も大統領の邸宅であるから堂々たる城で、堀でも廻らしてあるかと思ひの外、普通の居宅と少しも異ならず、出入口は一枚の鐵の扉である。中は綺麗であるが、我國のお寺の樣で更に風雅の趣はない。大統領が出て来ると云つても、シツシツと云ふ警蹕の聲もなく、重々しい所は少しもない。大統領は町人と同じく黒羅紗の筒袖股引で何の飾りもなく、大刀も帶びてない。文官の服装は何れもこれと同樣であるが、只武官だけはイポレツトを着けて大刀を帶びで居る。是亦頗る奇妙に感じたのである。
亜米利加の大統餌は任期四年で、四年目毎に國艮の入札によつて新に定めるといふ規定であるが、使節一行が彼地に滯在した當時は恰も大統領の改選期であつた。その年の十一月に選擧が行はれると云ふので、次の大統領は誰であると云ふ噂があつたが、偖一行の誰もその意味が解らなかつた。候補者とは何の意味か解らなかつた。入札で大統領を定めるものが、入札前に何うして判るかと云ふ不思議があつた。亜米利加の大統領入札は確かに馴合入札の形式を採るのであるから、入札も頗る怪しいものだと考へたのは無理もない次第である。
大統領との謁見が終つて歸る時も、行く時と同じ行列である。一行の道筋の兩側には前列に日本の家來が長槍を立てゝ蹲つて、後列には亜米利加の軍隊が捧銃をして居ると云ふ東西折衷稀に見る奇觀である。一同が宿へ歸つて來てからの感想が又面白い。
大統領に對しては國王の禮を以て我國書を遣はしたのであるが、彼は上下の區別もなく、禮儀も絶えてなきことであるから、狩衣を着たのも無益のことゝ思はれる。と云ふので村垣淡路守の歌が始まる。
  夷らも仰きてぞ見よ東なる我日のもとの國り光りを
  愚なる身をも忘れて今日のかく誇り顔なる日のもとの民
是によつても當時の日本の外交官には、非常な意氣込のあつたことがよく解るのである。
その翌日は國務卿から夜會に招待を受けた。日本では夜間人を訪問するのは失禮だからと云つて、その夜會の招待を斷つてしまつた。是には國務卿も隨分驚いたらしい。けれども通譯官が色々骨折つた甲斐あつて先方は禮儀のない國であるから、特別を以て我使節は夜會の席に臨むことにしたのである。一行が夜間外出したのはこの時か最初である。馬車に乘つて行つたのであるが、窓から眺めると、往來の兩側には瓦斯ランプの燈籠があつて、何處を見渡しても提燈を持つて歩いて居る人は一人もない。それから愈々夜會となつて、始めてダンスと云ふものを
見たが、ちつとも面白くないと云つて、使節の老人連中は大いに憤慨した。福澤先生もこの時始めてダンスを見たのである。獨樂鼠がくるくる廻る樣で滑稽で堪らなく、笑が咽喉までこみ上げて來たが、失禮だと思つて笑を嚙殺して居たその辛さは、一通りではないとと日記に書いてある。それに男と女が嘗め合ふことが禮儀であると云ふが、是は甚だ不潔であると云つて、大いに老人連は憤慨した。然し隨行員の中には若い者も居たので、美人か綺麗な服装をしで踊るのはまるで天女を見るが如しと、頻りに嬉しがつた者もあつた。その後屡々夜會に招かれてダンスを見せられて居る間に、一行中の立石斧次郎は年も若くて頗る好男子なので、亜米利加の貴婦人に大持てで、到頭一行と別れて亜米利加に居殘つたと云ふ艶物語もある。

 百物館見物

その後一行は再び大統領の邸宅を訪問したがその時には室の棚の上に白色の石を以て作つた首像があつた。想ふに代々の大統領の首である樣だが、是は恰も我國の刑罰上の獄門を見る樣だとその野蠻さに驚いた。此處でも亦茶も煙草出ないと憤慨の體である。
それからコングレス館(議事堂)へ行つたが澤山の人が机に並んで居て、その中の一人が一段と高所へ昇り、大聲を張上げて手眞似をするのを見て、狂人に類する行爲と評した。
是は何事かと聞いたら、自分の意見を政府に建白して居るのである。二階の桟敷には男女が群集して、耳を聳てゝ聽て居つた。この時の村垣淡路守の日記には、『國政のやんごとなき評議なるに例の股引、腹掛。筒袖にて大音に罵る樣、副大統領の高き所に居る體など我日本橋の魚市揚の様によく似たり』と記してある。何しろ日本では一人一役威儀堂々、貴殿拙者、左樣然らばで秘密の中に國政を議するものと思つて居たのに、この有樣は何事であると云つて呆れ果てた樣は眼に見える樣である。
次は百物館(博物館)見物である。澤山の珍らしい陳列品を見て驚いたが、ミイラを見て、『鳥獸魚蟲と等しく人の死骸を並べ置くは言語に絶す。夷狄の名は免れぬなるべし』と此處でも亦憤慨してゐる。
使節一行は亜米利加からメダルを贈られた。使節には金メダル、隨員には銀メダル、家來には銅のメダルであつたが、彼等は是を説明してメダイムと呼んで居た。メダルは大統領の像を鋳したる金錢樣のもの徑二寸五分、厚さ二分目方百匁に足らずと書いてある。
使節一行がワシントンの市中を歩くと、服装が極めて奇妙なので、見物人は大變な騒ぎであつた。日本人が髷を結ふ譯が何うしても解らないのである。或る時一婦人が髷を見て不思議さうな顔をして、馬車に乘つて居る日本の使節は一體女か、男か、と同乘して居たアメリカの接待係に尋ねことがあるが、その人は次の如く答へた。
『余の知る所、信する所では、この日本人等は吾人が通常男子と呼ぶ階級に屬する者である。吾等は接待のため數日間彼等と一諸に居るのであるが、彼等が如何に巧なる變装を行うても、余はこれを男子なりと看破することが容易である。』
亜米利加人は恐らく當時の日本の使節を見て、假装行列でも見る樣な感じがしたのであらう。男が髷を結うて居るなどとは想像もつかないからである。
第一囘遣米使滯在中の珍談は數限りなくあるが、この邊で止めるごとゝする。彼等一行がニューヨークから乘船して愈々歸路につくことになつた。寄ると觸はると一同は食物の話ばかりで村垣の日記に
 故郷に歸りての樂しみは、味噌汁と香の物にてこゝちよく食せんことを
とある。『我々は斯かる辛苦もあるのに都下に飲食して物好み云ふは愼しむべきことになんありける』と歎息を漏らして居る。愈々品川灣へ着いた時の村垣は『出帆以來始めて畳の上に平坐して再生の心持なり』と言つた。

 參照史料

村垣淡路守自筆 航海日記 三冊
 これは副使村垣淡路守範正の自筆にて詳細に記述しあり明治三十一年、「遣ベ米使日記」と題し東陽堂より出版し、大正七年日米協會はこれに幾多の史料を加へ「萬延元年第一遣米使節日記」と第して出版した。
亜行記、歸航日記、亜行御用留、以上三冊
 亜行記、及び歸航日記は村垣淡路守の日記にて、亜行御用留は外國奉行所の記錄である。
玉蟲誼の航米日錄 七巻
 新見正使の隨員、仙臺藩の玉蟲左太夫誼茂の記述せるものにて最も詳細なる叙述である、文明源流叢書に収められてある。
西國へ使節の供行歸國後咄聞書 一冊
 これは右玉蟲の話を聞きて書留めたる寫本なり。筆者不明。
航米雜詩 一冊
 勘定方組頭森田岡太郎清行の詩日記である、同人歿後、遺言に由り文久元年に出版せられたるものなり、雜誌『舊幕府』誌上に掲載せられたることあり。
松平大膳大夫樣御家士北條源藏米利堅使節ニ陪從航海中之詩文 一冊
 外國奉行組頭成瀬善四部の隨員、長藩人北條源藏煥の詩文日記である、出版せられたことありと聞く。
亜墨利加渡海日記 一冊
 筆者不明。「維新史料」に掲載せられたることあり。
征使水路記 一冊
 航路圖を主として説明を加へたるもの。筆者不明、萬延元年十月出版なり、此の種の内で最も早き出版物なり。
福島義言、花旗航海日記 一冊
 小栗豊後守の随員福島惠三郎義言の手稿である、雜誌『江戸』に登載せられたり。
貿易要錄 一冊
 使節一行が波我貨幣の公定相場を交渉せし記碌にて貴重の史料なり『江戸』に『亜使節貨幣要碌』と題し登載せられたり。
大平美譽嶮海記 一冊
 筆者不明、咸臨丸の航海日記にて海事専門家の記述にて航路、風雨、器械等の記事は詳密を極めて居る、雜誌『海の大日本』に連載せられたり。
亜行日紀 二巻
 操練所勤番吉岡勇平の日記である、『吉岡良太夫傅』に収められて出版された。
其他福澤諭吉勝海舟木村芥舟等の分は略す。

 163-176頁
 七、外交上より觀たる江戸城明渡

 幕末維新の政變は一面に於ては東洋に於ける英佛の角逐戰である。即ち幕府の背後に佛國あり、薩長の裏面に英國あり、此兩者の虚々實々の外交戰が國内の政變に影響すること、恰も今日の支那を見る如くであつた。
 この事の詳細は拙著『國際法より觀たる幕末外交物語』並に拙稿『徳川幕府と仏蘭西との密約に就て』(同上)に述べて置いたから、特志の方々は一讀せられたい。
 この政局の變轉が最高潮に達したのが江戸城明渡であつた。江戸城明渡は勝、西郷の兩雄が登場人物で華なる維新史の一場面であるがこれにも裏面に於ては外交の暗闘があつたらうとは疾くより語られた處である。

 松平春獄の自記とも見るべき『戊辰日記』明治元年四月の條に
 西郷吉之助曾て英國公使に會せるに、公使徳川公の處置を問ふ故、西郷答に大逆無道罪死に當るを以てす、公使云、萬國之公法によれば一國之政柄を執りたる者は罪するに死を以てせず、況や徳川公是迄天下之政權を執りたる而已ならず、神祖以來數百年太平を致すの舊業あり、徳川公をして死に抵らしむるは公平にあらず、新政に此擧あらば英佛合同、徳川氏を援けて新政府を伐つべしといへり、西郷大に驚愕して爾後宥死之念を起せりとぞ。とある、到底信ずべからざる説ではあるが、火の無い所には烟は揚らず、こんな噂の出る丈けのことはあつた。
 『海舟日誌』三月廿一日の條に
 英吉利人來訪、我が心裡を話す、彼善と稱す、亦聞く西郷吉之助上京して決議を朝廷に伺ふと云。
とあり、また廿七日の條に
 此日英公使パークス氏並海軍總督キツプル氏を訪ふ、此程之趣意を内話す。英人大に感ず。とある。話の内容は判らないが、海舟は江戸城明渡の談判の際に英人と會つて居ることは事實である。
更に官軍側の史料に依ると『臺山公事蹟』には
 十三日川崎に次す、偶先鋒軍の参謀木梨精一郎轎を飛ばして到り清左衛門(渡邊)に面し總督の命を傅へて日く、官軍戰時病院を横濱に置くの必要あり、英國領事パークスに頼つて洋醫を求めんが爲め、予と足下とを以て其の使節たらしむと十四日朝、清左衛門精一郎と共に横濱に到り通譯を介してパークスを領事館に訪ひ、來意を告げて洋醫を周旋せんことを囑し下の如き問答を試む。
パークス曰く慶喜恭順、罪を謝すと而も之を顧みず進撃を決して病院を準備するは何の故ぞや。
精一郎曰く慶喜の果して恭順なりや否やは未だ知らず予等は唯朝命に依りて之を討ずるのみこれ病院の準備なき能はざる所以なり。パークス曰く貴下は慶喜の恭順を認めずとなすも予は其の恭順を確認す之に對して攻撃を加ふるが如きは、正義人道の容す能はざる所なり暴に非ずして何ぞ。
精一郎曰く是れ足下の意見のみ然れども總督既に戰を期して準備を爲す若し戰に至らずして已まんか幸之に過ぐる無からん。
パークス此の語を聞くや怫然色をなして曰く、
足下等朝廷と云ひ大總督と云ふも、予は其の何者たるやを知らず且つ予始めて足下等と面し未だ足下等の官職の何たるを辯ぜず、仄かに聞く日本には幕府の外に朝廷なるものありと、先に王政の親裁を兵庫に通ずる所ありと雖も、此の地未だ其の通牒に接せず因て我が軍艦を兵庫に派し、事實を問ふも未だ回報なく随て予は日本政府の果して何れに存するやを知らず。若し朝廷にして眞に政權を有すとせば何故に外國領事に告知し、且つ居留地の安寧を保護せざるや頃來軍兵頻りに東下し、事變の生ずる何の時たるを知らず人心恟々居留の民、堵に安んずる能はず爲めに我等は在舶軍艦の水兵を上陸せしめ、以て僅に自ら衛るのみ、大總督府既に戰を期し戰備に急なりとせば、須らく先づ附近居留地に通告し警衛の任に當るべきなり。而も事此に出でず卒然として病院設置の議を齎らす。予は斷じて之に應ずる能はず。
言終つてパークス席を蹴り闥を排して去る。二人唖然之を人久しふて曰く、パークスの諭正に理有り戰ふべきの理なし此の如くんば明日の江戸城攻撃も大に顧慮する所無かるべからずと急に領事館を辭し精一郎は西して大總督府に向ひ清左衛門は東して午後四時品川に着し、直に参謀西郷吉之助を其の本營に訪ふて告るにパークスとの交渉顛末を以てす、吉之助また頗る悟るところ有るものゝ如きも今日の攻撃を延期すべき口實なきに苦しみ、沈思刻を移す偶舊幕府の軍艦奉行勝安房約を履み來りて吉之助と會す、吉之助乃ち薩藩の軍監村田新八、中村半次郎、及び渡邊清左衛門の三人を從へ、之に接す、安房は裃を着け四人は戎服を纏ひ應對慇懃を極む、安房大に慶喜の恭順を説き旦江戸百萬の民生をして戰亂の惨禍より遁れしめんが爲め、其の進撃を止めんことを請ひ城地軍艦以下を官軍に交付すべきを陳べて、言々肺腑より出で至誠面に溢る吉之助默考稍久ふし告ぐるに大總督の命を待つべきを以てし新八を顧み低聲「明日の事を」と耳語するや新八其意を領し、半次郎をして明日の攻撃中止を諸方の官軍に傳へしむ、安房心大に安んじ尚閑談時餘にして辭し去る斯くて攻撃中止の命發せらるるや東山道の兵を統べて市ヶ谷の尾州藩邸に在りし参謀板垣退助大に驚き馳せて、吉之助の陣營に來り極力戰闘中止の非なるを論ず。
曰く明日進撃の事既に決したるに突撚之を中止するは何故ぞや、我が隊甲州の賊平げ昨日を以て江戸に入り軍備全く成りて唯戰期の至るを待つのみ、然るに安房來りて慶喜の恭順を唱ふるを聞き忽ち其の言を信ずるは經擧もまた甚し、彼の部下の兵をして各所の官軍に抗せしむるを目しつゝ尚恭順と言ふを得べきか」と吉之助懇に其所信を力説し且つパークスの言を告げて戰期を緩くするの已むべからざるを論じ退助をして首肯する所あらしむこの事に付ては猶ほ男爵渡邊清(渡邊清左衛門)の談話に
 西郷の處に行まして横濱の模樣を斯々といひたれば、西郷も成る程惡るかつたとパークスの談話を聞て愕然としておりましたが暫らくしていはくそれは却て幸であつた、此事は自分からいふてやらうが、成程善しといふ内、西郷の顔付はさまで憂ひて居らぬやうである、話が後へ戻りまするが清が窃かに右のことを西郷に言ふた時に、西郷いふ自分も困却して居る彼の勝安房が急に自分に逢ひたいといひ込で居る、之れは必らず明日の戰爭を止めて呉れといふじやろう、彼れ實に困つて居る樣子である、そこで君の話を聞かせると全く我手許に害がある。故に此パークスの話は秘して置いて明日の打入りは止めなければならぬ、止めた方が宜しからうと言ふ内に最早勝が來て云々(史談會速記錄第六十八輯)とあつて西郷の心裡を説明して居る。
東山道軍監、谷守部(干城)の『東征私記』にも
 時に海道の軍より薩の村田新八、大村藩隊長來り云、金川驛兵隊通行の儀に付き夷人より難題申出つと、是迄徳川氏とは和親を結びし國の事故、罪ありて討するなれば先づ各國へ斯くと布告を有るべきに更に何等の沙汰もなし、且つ交易場の邊、兵隊通行戰爭等に及ぶ事あらば前以て各國に布告すべきに何の沙汰もなし、不審甚しと云て各國申し合せ兵を金川に出して警固せる由、付ては先鋒總督府に於ても御心配薩州等も當惑の樣子、右相談兩人參りたり、同夜板橋宿御本營の方よりも長の木原又右衛門、因の中井範五郎並に上田楠次等來る皆右の一件に當惑せり、是れ全く外夷の力を借て官軍を遅滯せしめ靜に黠計を施さんとの徳川の策略なり此にて徒に日を空くすれば賊徒四方に蜂起し官軍の來路を斷たば實に俎上の肉のみ木原等大患之、追て大總督府より夷人へ御談判に相成存候に安らかに濟めり
とありて、これには江戸城攻撃に付ての事とは無きも前出のパークスの抗議を指すことは明らかである。このパークスの抗議が單に西郷ばかりで無く薩長内土等の官軍の幹部に大なる危惧の念を與へたことが知れる。
この話が更に再轉して前掲の『戊辰日記』の噂となつたものらしい。そこでパークスは何が故に此の抗議を爲したのかに付ては説明が無い。これに付き『臺山公事蹟』にも
 陛下は去る二月二十八日各國公使に拝謁を賜ひ、同三十日に佛國公使レヲンロシュベニコス和蘭公使テーテクヲフアンフルスブロツク等参内、三月三日は英國公使ハルリーパークス参内し天顔を拝して親政を賀したることあり、大政官日誌にもパークスの奉答中天皇陛下御尋問之件且御懇親の勅意、今欣然として本國政府に可奉通達也、夫外國交際の儀は貴國御政體の立つに隨つて益堅固なるべき事にして此節貴國に於て全國一致の御政體を彼鳥立、萬國の公法を基根と被鳥遊し故追々外國交際盛なるべき儀必然と奉存也云々と記載しあるを見る。パークス既に全國一致の御政體となるを認め居るに拘はらす、何故に精一郎清左衛門等に對し「朝廷なるものを知らず」と放言したるかは疑なき能はず、想ふにパークスは居留地保護の事無きを責め、これを口實として江戸城攻撃を中止せしめんとしたる儀には非ざるか。
と疑つて居る。しかしこれを明快に説破したのは故吉田東伍氏であるから重複を厭はず左に之を掲ぐ曰く。
 官軍方からあの當時を見ますと、西郷は箱根の峠を踰ゆるのを己に危險に思つたが、箱根の峠も案外無難に通れた、そこで三月十三日に愈江戸へ進軍するといふ時分に、明日はどうしても一戰爭しなければならぬ。何と言つても江戸の城だから、大分の怪我人が出やうから横濱へ病院を設けやうといふ考で、横濱で其時分幅を利かして居る英國公使パークスは以前から、薩摩並びに長州に關係があるから、之をうまく説き込めば、江戸の戰爭が出來ると思つて、参謀長州藩木梨精一郎、大村藩渡邊清をばパークスの處へやって戰爭の事に付て援助してくれと申込んだ處が、是が一言に拒絶された。英吉利をば我が味方の叔父さんと思つて居つて居る官軍、それは丁度幕府の人が佛蘭西人を味方と思つて居つたと同じ寸法だ、所が横濱には佛関西の軍艦も英吉利の軍艦も並んで居て列國環視である。其時分殊に横須賀は全く佛蘭西人の経營で、その金を借りて、幕府が造船所を建築したものだから、佛蘭西人が其處を押へて横須賀は佛蘭西の軍港の如きものであつた。縱しんば、パークスが薩長人の尻押、援助をしたいと思ても、長州や鹿兒島ならイザ知らす、横濱で西郷の尻押は出來ぬ。こゝ等は西郷あたりも深き考へなく、今横濱病院の事を頼みますと、パークスは曰くこちらは局外中立だ、病院どころの話で無い、近來の樣子、官軍が横濱近傍に來るので、我々大變迷惑して居る、軍艦から兵隊を上陸せしめて警戒用心をして居る此上にも戰爭の病院抔を設けられて堪るもので無い。全體薩長の考が惡いと意見する、恰度親父が自分の子息に意見をする樣に、既に徳川慶喜が恭順して居ると聞く、さういふ者を窘めてどうする、もし進んで戰爭するならばこつちも考がありますと言つて多少の抗議を申込んだ、西郷も此を聞いて「さうであつたか」と流石は平然として居つたが其時西郷の心機も忽然變つて仕舞つた。全く戰爭は出來ない。即ち勝の言ふ通りに江戸の城をば無條件で明渡す事に同意したのである。勝安房から軍艦を引渡されて運用を知らぬ爲に、西郷が弱つた事も分る。然らば勝にあの時防禦戰されては西卿が必ず困る。この所で双方の弱點がうまく丁度打合はなかつたら、あの談判はあの如くに行かなかつたらう。それが双方穩便に濟んだのは少くとも此パークスといふ者の蔭ながらの勢力が加つたからである。(維新史八講)
即ち佛國の牽制が、パークスをして勝手の行動を執らせなかつたのとの説は確かに正鵠を得て居る。しかしパークスの言に局外中立云々とあるのを看過したのは今一息の攻究が足らぬ遺憾がある。それは此年一月二十五日に各國は局外中立を布告して居るのである。

 局外中立の觸書

 日本御門(mikado)と大君(taikun)との間に戰爭の起りたる事を布告し、且合衆國人をして局外中立の規則を嚴重に守らしめんが爲め左の趣を觸れ示す。
軍船或は運送船を賣り或は貸し兵士武器彈藥兵糧其外すべて軍事にかゝはりたる品々を或は賣り或は貸し渡す事嚴禁たるべきものなり。若し此規則に相背くに於ては公法に依て之を論すれば即ち局外中立の法則を破る者にして敵視せらるゝに至るべきものなり。前文に言へるが如き規則を破る者は軍律に從ひ其人は捕虜せられ、其積荷は歿収せらる可き事勿論なり、たとへ局外荷主の品たりとも、連累の禍を免るゝ事能はざるべし。
日本國と合衆國との條約面の權に於て、たとへ我國人民たりと雖も右の規則相破りたる者は敢て之を保護する事能はざる者なり。
       日本在留合衆國ミニストル
                    フアン フワルケンブルグ
 日本兵庫神戸に在る合衆國居留館において
   西暦一千八百六十八年二月十八日 即日本正月廿五日

これは米國の分であるが各國ともこれと同文言である。
御門(朝廷)と大君(幕府)との戰爭に付き各國が中立を布告した以上は、如何に傍若無人のパークスでも、勝手な行動は出來ぬ。中立違反の口實を佛國に與へて、横須賀に集中した佛國艦隊を出動させては大變である。否々英國の大變でなくて日本國家の大變であつた。無事に終局したのは何よりの幸ひであつた。
勝が西郷へ寄せた書に
 皇國當今之形勢其時に異なり兄弟牆にせめけども、其侮を防ぐの時なるを知ればなり云々皇國之存亡、云々
とある一節は勝の至誠より出でたるは勿論、よしや官軍へ對する政策としての論であつたとしても、外國干渉の危險を痛切に感して居つた點は流石である。
勿論西郷とても外國干渉の危險を充分承知して居るが、右のパークスへ依頼した趣意は果して局外中立のあつたことを知らなかつたからであるか否やは多少の問題である。
これに付きては法學博士作太郎氏は
 此の局外中立の宣言が討幕軍の大立物たる西郷の余然知らざりし所と爲す如きは余の多大の疑を抱かざらを得ない所である。西郷か横濱居留地の病院の使用を談判せしめたる事は西郷の局外中立宣言を知らざりしことの決定的證據と稱するを得ない。又西郷が局外中立の宣言を知りながら病院に關する談判を爲せりとするも之を失策と稱することは不穏當である。傷者、病者、難船者等に關しては、今日の國際條約に於ても、博愛仁慈の精神より、海上に於て中立國の軍船の之を収容し得べきを認め(「ジェネヴア」條約の原則と海戰に應用する海牙條約第十三條参照、)陸上に於ても中立國は交戰國の軍に屬する傷者、病者の領土通過を許し得べきのみならず、交戰国の軍に屬する傷者、病者を自己の手に委ねしむるを得べきことが認められて居るのである。(陸戰の場合に於ける中立國及び中立人の權利義務に關する條約第十四條参照)西郷が局外中立の宣言の存在を知れりとするも、病者傷者に關してはイギリス人の博愛慈仁の精神に訴へて之を収容せしめ得べしと考へたるやも測られない。而して此の如き事は上述せる如く實に今日の國際條約の認むる所である。(国際法外交雜誌第二十六巻第二號)
と述べてある。お説は御尤で一言の異議を狭む餘地は無いのである。がこれは今日の進歩したる國際法學界の説として承認すべきであつて、明治元年の東洋日本には果して斯の如く國際法研究が進んで居つたと見るべきであらうか。西郷が此の進んだ考を持つて居つたらうか。否西郷のみならず當時我が國に駐在して居つた各國外交官でもこれ程の考を持つて居つたであらうか覺束無いものである。右に揚げた史料で觀ても全體として官軍の國際法の智識の程度も窺はれる、此後でも函館戰爭の際には幕軍は官軍の死傷者をも療治して居るにも拘はらず、官軍は却つて病院に亂入した(『國際法より觀たる幕末外交物語』三八七ページ)位であるから、此時の人道觀も餘り買被るべきものでは無いかと思はれる。私は西郷が局外中立宣言を知らなかつたと推定して居るが、しかしこれを知らなかつたとしても必らずしも西郷の大人格を傷くることはあるまい。その他この局外中立宣言を公布するに至迄の經路に付いても論議の餘地はあるが、本文に直接關係が無いから擱筆する。猶ほ拙著『明治維新』下巻、第十篇第四章参照。

「参考:横濱情實」

引用・参照・底本

『幕末外交秘史考』法學博士 尾佐竹 猛著
昭和十九年七月二十日初版發行(三〇〇〇部) 發行所 邦光堂書店
(国立国会図書館デジタルコレクション)