『海舟日記』

 第一 文久二壬戌年

 (一一)-(一三)頁
 〇十一月同五日。登營。軍制改正之評議あり。吾思ふ處あるを以て、敢て一言をも不發。

 四七一-四七四頁
 〇同六日。登營。前同之斷之評議あり。
 昨日、大越講武奉行に轉役。此人幕府中之英傑、幸に先日御用御取次に拔撰せられしが、今日武官に轉ず。或は云、當時東武にて、開國説を主張する者、大越其魁次に小栗豐後、岡部駿河之三子なり。不可然との議、京師にて風評あり、故に轉ずと云。
嗚呼區々として開瑣を論ずるは、天下の形勢を知らざる無識の言、當時危急の秋なり。朝廷衆説に雷同せず、有識を以て要路に置かずば、何れの日か、大政一新を得ベけん哉。其道理の至當をとらず、空敷浮説衆議を以て賢才を廢せば、群議止むの期あらんや。吾云、大凡開瑣は、和戰を以て論ぜしと同義にして、無用の談而己。武備充實の基は、人心一致にあり、人心一致ならば、何ぞ彼を恐れん。今若、雄を宇内に爭ふ、威權あらざれば、開鎖とも相立がたし、萬策ありといへども、人材あらざれば、孰か能く英擧を繼ぐ者あらんや。傍議を恐れ、着眼なきものなきもの、豈天下の形勢を洞觀すること能はん哉。唯一事起ることに、永歎して、空敷切齒する而己。本日兵制の議あり、終に一言も發せず、窃に思ふ、當時の形勢、一善ありといへ共、傍議其不辯を論ず。又閣老轉ぜば其善なるも、また止む。如斯は、衰世の風習、恰も大濤の捲が如く、群議百出といへども、斷然英決あらざれば、事全備の期なし。此斷ある時は、何事か成らざらん。若此斷なき時は、大事皆畫餅に等敷、良議も唯席上の雜談、永評議而己。故に、議なきも又佳なるべし。大抵議者、上者の意を迎へざる者なし、これ實地大事を成すべき人ならず、豈ともに論ずるに足らんや。吾人感服せざる處なり。

 第七 慶應三丁卯四戊辰年

 (三二七)-(三二九)頁
 〇二月朔日。
 此頃伏見敗散之歩卒、陸續として紀州より船着す、氣先甚尖、此地此輩を容るべき屯所なし。
 是は御上京長きを以て、彼地に滯在する者、此地の屯所新に募りし兵卒之屯所と成り、且昨暮巳來、上國不穏之聞へあるを以て、行先を熟考せず、兵を募りて上京せしめしかば、兵員多きに失し、生活幷居所とも、其養ふべき道を缼く、然るを思はず、町市には、市兵を募り近郊には農兵を募る、其實なくして其雜費莫大なり、官吏時之危きを思ひて、頻りに多人數を求む、小臣百方して、是を辨ずれとも、聞く者無し、陸軍附屬にあらずして文官また兵を募る、自ら瓦解之勢あり。
 且東歸之兵卒、食住、便ならず、俸金充分ならざるを憤り、黨を結ひて脱走す、凡仙人に近し、錯亂紛擾甚敷して、是を御する道無し、日夜歎息奔走する而己。
 此時之閣老は、松平周防守、小笠原壹岐守、井上河内守、上座たり、閣老兼帶海軍總裁稲葉兵部太輔、陸軍總裁松平縫殿頭、参政淺野美作守、平山圖書頭、立花出雲守、京極周防守、堀右京亮、松平左衛門尉、時之權威あるは、司農にて小栗上野介、小野友五郎、此黨數人、皆是等に雷同、其因て來る所、其謂れ無きに非ず、拂郎西公使幷教法師カションと云者、能く官吏之情態に塾せり、爰を以て、栗本安藝の徒、尊信して其説に酔ふ、甚敷は近く一兩年要路に當る者皆拂郎西に信せざれば、朝に立能はず、陰に黨あり、結て以て相固む、其説に云、長州薩州は、後幕府に害あり、必らず是を滅せすんば害あらむ、我拂郎西に頼らば、軍艦武器及ひ金幣といへども、送り來たして支えなからずと、此故を以て小吏其説を實とし、其毒に酔ふ、亦醒むる者なし、英吉利人是を知て、竊に其黨を悪む、終に西國侯伯に遊説する者ある歟、亦内にしては聚歛盛にして、市民日に離心す、用途空虚に乘じて、しきりに用金之命あり、或は旗下に令して、其祿の半を献せしむ、是を用ゆる、武備に非ず、常用日々に供して不足、其形勢を以て考えれば、敵軍來らずといへども、都下の瓦解、久しかるべからず、今不測の變に當て、人心恟々、官吏唯衆多を頼みて、計策なく、過激時之勢を察せずして、漫に干戈を動かさむとす、其説を成す者は、水野癡雲、小栗上野、糟屋築後、大小監察、陸軍の士官等、大言して算なく、空議因循、亦如何せむ哉。
 此頃御謝罪狀京師へ被差遣越前家を以て上達、猶 後宮よりも。女中衆上京之事あり。
 相續已來、乍不及、勤王之道心を盡し罷在候得共、菲才薄徳、事々不行届、加之近日之事端、奉驚
 宸襟候次第に立到り、深奉恐入候に付、謹愼罷在、伏て奉仰 朝裁候、此段御  奏聞被成下候樣奉願、以上

引用・参照

『海舟日誌』勝安芳 著[他] (開国社, 1907)
(国立国会図書館デジタルコレクション)
註:『海舟日記』