『幕末史概説』井野辺茂雄 著

 第六章 政局の否塞

 第三節 長州征伐

 四七一-四七四頁
 幕府の長州再征の事由

 抑も幕府が長州再征の議を決したのは、二つの事由に基いて居る。去年尾張總督の出陣するや、長藩は直に三家老以下の首謀者を斬り、未だ兵を交へずして降伏したので、漸く敵を侮るの色あり。尾張總督は既に然り、今若し將軍自ら征旗を大坂城に進めたならば、其懾伏し面縛せんことは疑ない。孰ぞ兵を大坂以西に進めら必要があらう。かくて防長二州を収めて公領と爲し。大に幕威を諸大名の間に振ふべしとは、老中阿都正外等の期待せる所であつた。(徳川慶喜書翰、徳川慶喜談話。)これ其重なる原因であるが、更に他の一面に於ては、老中松前崇廣、若年寄酒井忠毗、勘定奉行小栗忠順等の主張もまた自から加はつて居る。蓋し是時に営り佛國公使ロッシュは、密に幕府に説くに、諸大名を屈服せしめて、幕府勢力の下に全國を統一すべきを以てし、且佛國政府は之が爲に兵器・軍艦及び軍費を貸與せんことを云ふ。崇廣等大に喜び、佛國の援助を得て、幕府掉尾の活動を試みやうとするのである。英國側の推測に據れば、佛國はH本を保護國としたい野心があつたと稱して居る。其眞偽はともかく、ナポレオン三世の東方政策に基き、力を幕府に添へる考へのあつたことは、爭ふ可からざる事實であらう。(續再夢紀事、海舟日誌、開國起原、宇和島藩周旋方見聞錄、パークス傳。)即ち幕府の内部には、將軍親征の聲を大にして長藩を感服せんとするものと、佛國の援助を藉りて之を討滅せんとずるものがあり、其手段は互に相異れりといへども、期する所は即ち同一である。是に於て兩者の期待和合して、長州再征の計畫が成立した。然れども佛國の援助を藉るの議は、有司の間に異論ありて容易に進捗せず、實現の機會を得なかつたので、爾来幕府は専ら前議に則り、虚勢を張りて長藩を壓迫せんことを希ひ、長州の末家幷吉川經幹に上坂を命じたる際の如き、阿部正外は毎日打毬に耽り、閑日月あるを示しながら、心密かに長藩が、將軍親征の聲に驚いて謝罪するのを待つて居たと云ふ。(徳川慶喜談話。)かゝる有樣であるから、今や再び追討の部署を定め、彦根・高田の二藩には、幕府の三兵と共に藝州口に出陣せしめたけれども、衷心なほ長州の悔悟を望み、戰を開くべき最後の決心はなかつた。

 廣島に於ける長藩使節の糾問

 されば十一月十六日大目付永井尚志の一行廣島に着し、前後二回に渉りて宍戸備後助・木梨彦右衛門、及び諸隊の代表者を國泰寺に招き、毛利敬親が居を山口に移せる事、山口城を修理せる事、汽船を外人に賣却せる事、大小砲を外人より購入せる事などを鞠問するや、宍戸強辯して 敢て屈せざりしにもかゝはらず、之を追窮することを避け、敬親父子が今なほ去年尾張總督に謝罪せる時と同じく、謹慎恭順の意を失はざるものと認め、其旨を記したる自判書の呈出を促したので、宍戸・木梨の兩人は、敬親父子去年以來、恐懼謹で御沙汰を待ち奉ること、當節に及びても同樣なりとの事を聞届けられたのは有難い次第である。然る上は 何分の御沙汰を待ち奉ると云へる連署の自判書を呈出した。幕府の態度は之を見ても想像に餘りあるべく、殊に鞠問の際木梨が、假令事理辯に及びたりとも、幕府の嫌疑は容易に解けざるべく、寛典の事などは思ひも寄らず、自分等も敢て之を期待して居ない。たゞ退いて御處置を待つあるのみとて、暗に其覚悟を示すや、永井は大に驚き、束西道路相隔り、情實の通じかねる處から、自然嫌疑の筋もあり、それが爲にかく當表まで出張せる程なれば、事情氷解の上は、決して刻薄の處分はしないと稱したるが如き、如何に釁端を開くを好まざりしかの一班を推測することが出來よう。かくて永井等は十二月十六日廣島を發して大坂に歸つた。(吉川經幹周遊記、防長回天史、廣島藩事蹟要錄。)

 長藩君臣出藝の幕命

 廣島の鞠問は斯の如く不得要領に終つたけれども、而も毛利敬親父子が、今なほ謝罪恭順の意を失はずと云へる宍戸備後助等の自判書を以て暫く伏罪と見なし、遂に追討の議を束擱して、最後の判決を下さんとす。蓋し強て鞠問の實を擧げんとせば兵を加へなければならぬ。これ實に幕府の欲する所でなかつた。幕府目下の情勢は、到底干戈を動かすことは出來ない。故に何處までも寛大の處置を取る必要があるとは、當時幕閣の中心たりし老中板倉勝靜・小笠原長行等の意見であつた。(阿部正外・松前崇廣・酒井忠毗等は、是より先既に職を去つた。)外には再征に對する有力なる諸藩の反對があり、内には非常なる財政の困難があり、假令兵を動かしたりとも容易に勝算ななく、且之が爲に亂階を開かんことを恐れ、出來得べくば速に其局を結びたいと云ふのである。(續再夢紀事。)是に於て慶應二年正月二十二日一橋慶喜は板倉と共に參内し、毛利敬親父子は一旦悔悟伏罪したけれども、其後疑はしき事もあり、永井尚志をして鞠問せしめたるに、彌恭順謹慎を守れる趣なれば、朝敵の罪名を除く事にした。されど家中統御の道を失ひたる罪軽きにあらざるも、祖先以來の忠勤を思ひ、格別寛大の主意を以て、其封十萬石を削り、敬親には隠居蟄居、廣封には永塾居を命じ、家督は然るべき者を擇びて申付け、三家老の家名は永世斷絶せしむべき旨を奏上して勅許を得た。即ち廣封の子興丸(元昭。)をして家督を受けしむることゝなし、其命令を傳達せんが爲に、同年二月小笠原長行廣島に赴き、二十二日毛利元純・毛利元周・毛利廣篤の三末家・吉川經幹、及び家老宍戸備前・毛前筑前を召したけれども病を稱して來らず、三月二十六日重ねて敬親・廣封・興丸の三人にも出藝の旨を達し、四月二日更に、來る十一日までに廣島に來るべく、若し病あらば名代でも差支ないとの意を傳ふると共に、七日大坂に於ては之を討手の諸藩に示し、期日に至り名代の者をも差出さない時には速に追討すべきを以て、其心得にて指揮を侍つべしとの旨を布達した(吉川經幹周遊記、廣島藩事蹟要錄、開國起原、續徳川實紀、防長回天史。)

 第七章 對外關係の概觀

 第四節 露艦の對馬繋留

 五一八-五二一頁
 幕吏の對州派遣

 幕府は對州藩の上申に接して大いに驚き、外國奉行小栗忠順、目付溝口八十五郎に對州見廻を命じたので、二人は五月七日同地に着し、十日始めてビリレフと交渉を開いた。是時にもビリレフは藩主への謁見を迫り、小栗等の説諭に服せざるが故に、已むを得ず來る二十五日までに謁見せしむるを約し證書をも交附した。尋で十四日再び會見して其暴行を詰つたけれども抗論強辯して屈せず、小栗等殆んど策の施すべきものなく、早く歸府の決心を定めたのである。(對州藩記錄、小栗豐後守對州御用留、續徳川実紀、外務省記、昭廟略記。)此事に關して、或は交渉の徒勞なるを察し、寧ろ自から露國に使して直接の談判を開く考があつたからであると云ひ、(鈴木大雜集。)或は形勢次第に切迫し、開戰の到底避く可からざるを思ひ、かくてなほ久しく滯留せば、對州と露國との問題は、轉じて幕府と露國との問題となり、其結果如何なる大事を引き起すかも知れないので、寧ろ對州一國を犠牲に供して、幕府は暫く傍觀の地位に立ち、葛藤を一局部に留め、徐ろに後圖を爲す考であつたとも云ひ、(溝口八十五郎談話。)未だ其事情を詳かにすることが出來ないけれども、要するに事の容易ならざるを察し、幕府と謀議を重ねる爲であつたのであらう。かくて小栗等は露人に對して藩主謁見の許可を與へたが、其事は固く秘して洩らさず、却て對州藩に告ぐるに謁見の要求に應ずべきを以てし、且何事も容認して隙を開く可からざるを戒めたる後、五月二十日歸途に就いた。同藩は其去るに及びて、初めて謁見の承諾を與へたるを知つたのである。而も最早どうする事も出來ない、二十六日遂に謁見せしむると共に、六月十三日に至り公然轉封の願書を幕府に呈出した。(對州藩記錄、開國起原。)

 露艦退去に關する露國領事との交渉

 幕府は小栗を對州に派遣せる後、事態の極めて重大なるものあるを憂へ、在府の箱館奉行津田正路に命じ、旨を在任の箱館奉行村垣範正・勝田充に傳へ、露艦退去の事を露國領事ゴシケウ井ッチに交渉せしめたが、(小栗豐後守對州御用留。)六月二十日小栗忠順等の歸府するに及び、益々露人の態度の不穏なるに驚き、二十八日重ねて小栗・溝口の二人にも箱館派遣を命じた。  思ふに村垣等と會見して其交渉を、より多く有利ならしめんとするが爲であらう。然れども二人は成功を危みしものゝ如く遂に其行を果さず、幾もなく職を免じたるを見れば、意見幕閣と齟齬するものがあつたに相違ない。(續徳川實紀、柳營補任。)

 幕府と英國との交渉

 かゝる折しも七月六日提督ホープの率ゐたる英國艦隊横濱に入港し、香港總督ロビンソンもまた同時に渡來したので、老中安藤信正は此機會を利用して英國の力を藉らんことを思ひ、九月十日の兩日オールコック及びホープを役宅に招きて密かに依頼する所あり、オールコック亦露國の行動に注意し、其艦隊は屡々對州に赴きてビリレフの動静を監視せる際であるのでね喜びて之に應じ、日本政府と關係なく、英國政府の意思を以てビリレフの退去を促すべきを答ふ。

 英國艦隊の對州出動

 かくてホープは艦隊を提げて十二日横濱を發し、まづ長崎に赴きて奉行岡部長常と謀議を重ねたる後、二十二日對州に至り、同藩に就きて露國艦隊渡來以後の事情を尋ね、翌日ビリレフと會見した。退去の交渉蓋し是時に成りしものゝ如く、ホープは二十四日を以て同地を去つたのである。(オールコック日本三年間記、對州藩記錄、開國起原。)

 露艦の對州退去

 是より先六月十日村垣範正もまた箱館に於て露國領事ゴシケウ井ッチと交渉を開いた。ゴシケウ井ッチこれに對して、其事は自分の關知せざる所であるけれども、聞くが如くば誠に不都合である。幸ひ便船があるから、ポシェット灣に滯留せる提督リハチヨフへ申遣し、何分の挨拶に及ぶであらうと答へたが、七月十二日に至りてリハチヨフの返事が到達した。即ちビリレフには退去を命ずべく、己れも遠からず其地に赴くべしとのことであるので、ゴシケウ井ッチは箱館碇泊のオブリチニック號を對州に派遣し、其旨をビリレフに傳へた。
 是に於てビリレフは同地を去りて八月十七日箱館に廻航したが、オブリチニック號は之に代り殘留して居る。幾もなくリハチヨフも亦箱館に來り引揚の命を下すに及び、オブリチニック號は同月二十五日を以て對州を去つた。蓋し情勢露國の爲に非なるものあるを見て占領の意を放棄したのである。(開國起原、對州藩記錄、小栗豐後守等對州御用留。)

 露國政府に對する幕府の抗議

 幕府未だ其報に接しないので、二十三日老中久世廣周・安藤信正は露國外務大臣に宛てた、露艦の退去を促すの公文書を裁し、ゴシケウ井ッチをして本國政府に送達せしむると共に、萬一の延着を慮り、別に副本をも作成し、英國公使に頼み、其郵船に託して之を露國に贈り、なほ又在留の各國大使にも通告したのであるが、是に先ちて露艦既に退去せるが故に、幕府の苦心は幸にして徒勞に屬した。(開國起原、文久紀事。)露船の對馬にあること前後七か月の久しきに渉り、永久駐屯の策を講じたけれども、又敢て露国政府の畫一なる計畫に基けるのではなく、出先の艦隊の裁量に任せたるが爲に、自ら調和を缼くものありしのみならず、幕府の強硬なる抗議に接して形勢の不可なる知り、遂に其志を中止せるのであつた。

 第五節 兩都兩港開市開港の延期

 五二二-五二四頁
 兩都兩港の開市開港の期日

 安政の五國條約に從へば、神奈川・長崎・箱館の三港の外、新潟港は安政六年十二月九日、江戸市は文久元年十二月二日、兵庫港と大坂市とは同二年十一月十二日から開くはずで、なほ新潟にして若し不適當ならば、其代りに西海岸に於て一港を開くことが規定せられて居た。(條約彙纂。)新潟港に關してかゝる除外例の設けられたのは、同港が河口淺く、且風波が烈しく、大船の碇泊に不適当の點があつたからである。故に幕府は早く安政五年九月に箱館奉行兼外國奉行堀利熙、目付駒井朝温に命じ、北國筋の諸港を調査せしめたのであるが、其後英國軍艦もまた新潟に赴きて實地を踏査し、其安全なる貿易港でないことを同國公使に報告したので、公使は代港の選定を幕府に望み、幕府にても能登の七尾か、出羽の酒田などならば宜からうとの評議があり、それが爲に萬延元年再び西海岸を巡視せしめたけれども容易に決定しない。

 開市開港を便とせざる事情

   かくて新潟は代港の選定中と云へる理由の下に、自ら開港延期の姿であつたが、各國公使は絶えず其選定を幕府に促して居る。加之江戸・大坂・兵庫の開市開港の期日が漸く近くに運び、幕府は其外交政策に對する士民の反感から、延いて國内騒擾の情勢を誘導せるに鑑み、此際若し兩都兩港を開くやうのことがあれば、益々人心を悪化せしめる恐のあるを憂へ。出來得べくば之を適當なる時期まで延ばしたいと考へたのである。

 開市開港延期に關する各國公使との交渉

 是に於て老中安藤信正は當時日本に尤も親善なる關係を有し、諸有司の倚頼また篤かりし米國公使ハリスに相談した。。ハリスは日本の國情の已むを得ざるものあるを諒とし、本國政府へは允許を得るやうに稟請し、他國公使にも其同意を得ベく斡旋せんことを承諾したので、萬延元年六月二十一日始めて英國公使オールコックを其役宅に引見して之を謀り、尋で佛公使ベレクールとも會見したけれども、孰れも同意しない。(外國方留記、淺野梅堂筆記、鈴木大日記、鈴木大雜集、傍觀漫錄、續徳川実紀、幕末外交談、懐往事談。)然れども幕府は之によりて人心を緩和せんことを希へるが爲に、固く其議を執りて動かず、爾來屡々赤心を披いて國情の已むべからざる所以を訴ふるに及び、英佛公使の意やゝ動かされるやうになつた。日本政府は宜しく使節を任命し。締盟各國を訪問せしむるが宜い。英佛二國は日本政府の爲に行李の費用を擔當し、懇に待遇するであらう。果たして然らば他の諸國も亦同樣の取扱をするに相違ない。かくて其使節は直接各國の政府と、開市開港延期の相談をしたならば、或は承知るかも知れぬとの旨を幕府に説いた。蓋し米國にのみ使節を派遣せりといへるは、日米條約の批准交換は米國に於て行ふことになり、外國奉行新見正興・村垣範正・目付小栗忠順が、是より先萬延元年正月其途に上れるのを指せるのである。

 竹内保徳等の歐州に派遣

 幕府は英國公使の忠告を納れ、文久元年三月二十四日勘定奉行兼外國奉行竹内保徳、外國奉行兼神奈川奉行松平康直、目付京極高朗に全權を委ね、公使の資格を以て歐州に派遣した。(續徳川實紀、外務省記、鈴木大日記、幕末外交談、懐往事談。)

 第八章 幕府の衰亡

 第一節 朝廷に於ける中心勢力の移動

 五六三-五六四頁
 幕府と佛國との關係

 佛國公使ロッシュの言によれば、薩州は討幕の兵を擧ぐる爲に、英國から或有力なる援助を得ベき約束が成立して居たといふ。(平山敬忠日記所載ロッシュ呈書。)之に反して幕府に同情せる者は佛國であつた。蓋しナポレオン三世の東方政策に基き、幕府を助けて其羽翼を張らんと欲したるものゝ如く、元治元年池田長發等が鎖港談判として佛國に使せる時、同國政府は、日本政府にして國内の叛徒を戡定し、外國との和親を永續するの意志あらば助力を吝まずと云ひ、所謂巴里廢約の第二條には、時宜によりて威力を用ゐ、佛國海軍と共に處置することあるべしと記してある。また慶應元年九月英米佛蘭四國公使が兵庫開港と條約勅許とを迫りし時、佛國公使ロッシュは書を幕府に寄せて、長州追討の功を奏し、内亂を鎮定することの急務なるを論じ、(開國起原。)其江戸に歸つてからは、之が爲に軍費や兵力を提供すべき意を洩らし、(匏庵十種。)慶應二年七月には外債を英佛二國に募り、軍費を充實するが宜いと勸めて居る。(平山敬忠日記。)慶喜は外國の助力を仰ぐを不可とし、常に耳を傾けなかつたけれども幕府の有司中には、佛國の援助の下に薩長二藩を討滅し、これに乘じて全國統一の策を按ずる者も尠なくはない。勘定奉行小栗忠順の如きは其尤も有力なる一人であつた。(續再夢紀事、開國起原。)

 英國と佛國の反目

   從うて英國と佛國との反目もまた顯著なる事實として知られて居る。王政復古の手段若し其機宜を誤り、内には社會の混亂を招き、外には英佛二國の干渉を招くが如きことあらば、國家の前途眞に寒心に堪へざるものがあつたであろう。慶喜の憂ふる所實に茲に存す。これ政權奉還の志ありて、而も他日に期するの已むを得ざる所以であつた。

 徳川慶喜の将軍宣下

 慶喜既に政權の返上を他日に期す、政治はなほ幕府の手で行はれなければならぬ。政治を行ふには朝廷の委任が必要であり、委任の實を保つには將軍職の拜任が必要である。然れども幕府の威力既に衰へ、最早自己の意志のみによりて進退を決することが出來ない。況や薩藩の如き之を妨げんとして頻りに朝廷に入説せるに於てをや。是に於て目付原市之進等は朝廷諸藩の間に遊説する所あり、朝廷にては賀陽宮・二條關白、諸藩にては尾州・紀州・會津・桑名・土州・肥後久留米・松山(伊豫)・津山等皆慶喜の就任に同意を表せるが爲に漸く其機會を得、(國事文書寫、久邇宮文書、朝彦親王日記、大久保利通日記、續再夢紀事。)十二月五日將軍の宣下を蒙つたのである。(公卿補任、一橋家日記。)

引用・参照

『幕末史概説』井野辺茂雄 著 (紀元社, 1927)
(国立国会図書館デジタルコレクション)