福地源一郎の懺悔談

 (三六-四十頁)
 【一一】福地源一郎の懺悔談(一)

 更に福地源一郎の所記によれば、

(諸臣意見申陳)

 前將軍(徳川慶喜)は、十二日(慶應四年正月)の夜、御東歸ありて、御濱御殿より御上陸にて、御歸城あらせ玉へり。翌十三日より文武の諸士、高下を問ず、出仕して、詰掛け詰掛け和戰の議論囂々たり。但し御前評議は固より余が如き身分の者が推參し得べきに非ず。尤も諸閣老は交る交る大廣間に出で、諸士の意見を聞るべしとの事なれば、余が知れる輩は、此時なりと先を爭ひて罷出で、各々所存を申し演べたれども、余は既に大阪にて手懲りしたれば、其無益なるを察して、役所にのみ居て、所存申演には、一度も罷出ざりしなり。
 此れは福地が外交局の一員として、大阪出張の際、種々獻策したるも、一向に採用せられざりし爲め、幕府上長官に見切りを附けてゐたからであらう。

(水野のあきらめ)

 水野痴雲(筑後守)は、當時隠居の身分なれども、毎日登城して戰論を主張したりけるが、十七日の黄昏に至り、外國方の役所に來りて、余を呼び出し、先づ天下は泰平と定つたれば、是より俱に退出して、今夜は祝杯を擧んと思ふは如何にと申たり。此の方正嚴格の人が、稀らしき事を申さるゝもの哉とは思ひたれども、其意に任せ、相伴ひて退出し、歸路神田佐久間町の中村屋と云へる割烹店に入りて晩餐を命じ、其座にて水野は今日の御前評議に於て、愈々悔悟、謝罪あらせ玉ふべし仰出されたれば、余は復出仕の要務なし。臺慮已にかく定らせ玉へる上は、徒に余は近日采邑多摩川に身を退くべし。但し御邉は戰なり、和なり、随意に致されよと語り、打萎れて涙を流し別を告られたり(原註。痴雲は此の後程もなく、多摩川邉に隠遁し、病に罹りて憤死したりき)。

(強硬小栗罷免)

 水野は幕吏の錚々たるもの。彼と小栗上野介とは、其の性格相ひ反し、其出處も亦た同じくなかつたが、其の熱烈なる主戰論者であつたことは同一であつた。而して小栗は正月十五日前將軍慶喜からお直の罷免を蒙つたと云ふことだ、お直の罷免とは。直接に將軍が口つ゜から其職を罷免するもにて、此の如きは江戸幕府の創始より、殆んど絶無稀有の事と云ふ。如何に小栗が主戰論もて慶喜に肉薄し、慶喜の怒に觸れたかゞ思ひやらるゝ。「續徳川實記」に據れば、正月十五日付けにて、

  一 御役御免
      謹仕並寄合      陸軍奉行竝御勘定奉行兼帶
                 小栗上野助
    右被仰付旨、於芙蓉間老中列座、雅樂頭申渡之。
    但御前え被召出可被仰付處、御用多に付、本文之通。

との辭令が掲げてある。而して水野忠徳(痴雲)が彌よ匙を投げて退居を決したのは、その翌々日である。

 (主戰論者の鼻息)

 當時江戸に於て、如何に主戰論者の鼻息の荒かつた乎は、到底想像の及ぶ所では無かつた。彼等は本來將軍慶喜の大政返上なるものに、頗る不服であつた。彼等は如何にに世の中が變遷しても、政權は當然幕府に保留せらる可きものと信じてゐた。されば大政を返上しても、朝廷より改めて御委任あせらる可きものと信じてゐた。
 然るにそれが相違するばかりでなく、おまけに官位も、封土も返上せよと、朝廷より催告せられ、やがては上洛の道を遮りて、遂ひに鐵砲を打ち掛くるに至つては、朝廷の幕府に對する態度が、餘りにも不人情である。餘りにも忘恩である。餘りにも慘酷である。の二百餘年の太平は、誰の賜物ぞ。朝廷をして、垂拱せしめ、何等の煩累なからしめたのは誰の力ぞ、今更ら皇政復古などと稱して、徳川幕府を壊れたる土偶同樣に取扱ひ、徳川氏を潰さんとするは。朝廷の思召にあらずして、畢竟薩長其他の野心家の奸謀であるとは、主戰論者の概ね認めたるところであつた。

 (四十-四十三頁)
 【一二】福地源一郎の懺悔談(二)

(分別なき主戰論)

 福地源一郎は、更に語りて曰く、

 國家と云へる觀念も國體云へる分別も、余が胸中には無かりしなり、其頃は既に聊か洋書も讀みて、平生は萬國公法がどうで御座るの、外國交際が斯樣で御座るの、國家は云々、獨立は斯々なりと讀囓り、廳囓りにて、随分生利なる説を吐て、人を驚かし、以て自から喜びたりしも、今や己れ自ら身を其の境界に置に際しては、全く無學無識と成りて、後患が如何であらうが、將來が何と成らうが、更に貪著するに遑なく、徳川氏をして、此幕府を失はしむるが殘念なりと云ふの一點に心を奪れたり。
 此れは福地の後日譚にして、其の懺悔の告白であるが、然も當時に於て斯る心理情態の者は、決して福地一人に限りたるものでなく、福地も亦多くの仲間の一人に過ぎなかつたものであらう。

(外力依頼の策議)

 故に或は佛國に税關を抵當として、外債を起し、以て軍資に充て、援兵を乞ふべして云へば直に同意し、米國より廻船の軍艦を、海上にて欺き受取るべしと云へば、異議なく左袒し、横濱の居留地外國人に永代賣渡にして、軍用金を調達すべしと云へば、是以て名策なりと賛成したるが如き、今日より囘顧すれば、何にして余は斯まで愚蒙にてありし乎と、自から怪しまるゝ程なりき。

(福地衷心よりの告白)

 福地が本文を草したるは、明治二十六年頃であつた。當時彼は心身共に自由の身にして、何等の懼るところなく、爲めにするところなき地に立つてゐたから、固より如上の懺悔談は、彼が忠心よりの告白として受取る可きものだ。乃ち之を見ても當時の主戰論者が、如何なる倒行逆施をも、苟も戰爭の爲めならば。之を敢てするを辭しなかつた氣分が判知る。

(滔々皆然り)

 然れども是は敢て余一人のみに非ず、當時幕府の爲に、主戰論を唱へたる輩は皆同樣の考にて、到底日暮れて途遠く、倒行して逆施せざるを得ずと云へるが、當時の決心たりしこと、爭ふ可からざる事實なり。否々然らず、我は云々の分別にてありしなどと云ふ輩ありとも、余は敢て之を信ずる能はざるなり。

 如何にも此の通りであつたろう。但だ他人は沈黙し、福地は正直に懺悔したるだけの相違あるのみであらう。自己の立場を、當面に支持する爲めには、後難も、後害も、敢て顧慮せず、又た顧慮するに遑あらざるは、世間概ね是れなりと申すも差支なし。假りに官軍をして地を替へしむるも、亦た恐らくは此の如きものあらむ。

(慶喜を怨む)

 現に謝罪降伏説に心服せざるを以て、前將軍の御事をも惡ざまに怨み奉りて、扨も扨も悔悟、謝罪、恭順、謹慎とは何事ぞ、餘りに氣概なき御振舞かな。徳川家の社稷對して、實に不孝の汚名を取らせ玉ふ御方にては御座しますぞと評し參らせ、是に從事したる勝、大久保の人々をも、國賊の如くに罵り、彼奸物宜しく天誅を加ふべしと迄に揚言し、其謝罪状を稿する筆を執りたる人までも、同じく節義を失へる小人の如くに憎みたるは、皆主戰論者一體の説にして、余の如きも則ち妄言を吐きたるに相違なしと雖ども、是啻に感情に動かされて正義の道を踏外したるにあらず。

(武士教育の自然帰結)

 父祖以来正伝の武士教育が即ち事に投りて、此心を起こさしめたるものなれば、當時己れ自からは、我こそ正道を履むの士なりと、誰も彼も信じたりしに外ならざるなし。〔懐往事談〕

 當時江戸に於ける新知識の徒尚且つ然り、況んや壮士輩をやだ。

引用・参照・底本

『近世日本國民史明治天皇御宇史第七册〔官軍東下篇〕』蘇峰徳富猪一郎 著 昭和十七年九月十五日發行 明治書院

(国立国会図書館デジタルコレクション)