『我等の横須賀』

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 五 小栗上野介とヴエルニー

 小栗上野介は、新潟奉行小栗忠高の子、文政十年に生れた。幼い時の名を剛太郎といつたが、後に又一と改めた。先祖は徳川家康の家來で、姉川の戰以來いつも一番槍の手がらを立ててゐたので、家康から「又一番か。」と、ほめられたところから代々吉例として「又一」を名のつたといふことである。
 上野介ははじめ、小姓組であつたがだんだん用ひられて、安政六年には目付役となつた。この年上野介は日本からアメリカヘの使の仲間に加はつて、ワシントンに行つたが、米人は彼を見て、「此の人は人がらといひ學問といひ、かつて此の國に來たどこの使節にも劣らない立派な方だ。」といつてほめたといふことである。日本にかへつてから間もなく外國奉行に任ぜられた。
 文久二年、ロシヤの軍艦が、我が對馬におしよせて來た時、彼は露人と談判をする役に當り、とうとうこれを追はらふことが出來た。其の後勘定奉行から陸軍奉行、軍艦奉行、海軍奉行と幾度かかはつたがその度にうでまへをあらはして、手がらを立てたのであつた。後、上野介は第十五代慶喜將軍の時上州の權田村に陣屋を構へ砲台をきづいて、岩倉倶定の率ゐた官軍に備へたといふので捕へられ烏川のほとりで首をきられた。時に年四十二歳、慶應四年の春であつた。
 思へば短い彼の一生ではあつたがその偉業の数々に對しては何人も感謝せずにはゐられないのである。その中でも忘れてならないのは、我が横須賀に造船所を設けたことである。
 造船や船艦修理の技が進まなかつた當峙は、これかために要する費用は莫大なものであつた。
 上野介が思ふに「今までのやうに古艦を外國から買つたり、修繕を外國にたのんだりしてゐては、其の費用が多領のものになろ。思ひ切つて適當な場所をえらんで造船所を設けねばならぬ。」と
 そこで先年・佐賀藩の獻納した蒸氣船修理の機械を横濱に取寄せ、佛國士官蒸汽方ジンソライに命じ太田川沿岸の沼地をうめ立て、ここに横濱小製鐵所を建てることにした。
 一方、佛國蒸汽學士ヴエルニーを上海からよんで總腎とし、更に大製鐵所を建てろことにした。はじめは、船越叉は貉ケ谷に建てるつもりであつたが、そこは海が遠淺のため、終に横須賀にこれを建てた。時に明治元年十二月の末であつた。
 ヴエルニーは、横須賀の地が、景色も要害も本國造船所のあるツーロンに似てゐるところから、其の造り方をまね、満四ケ年の間、夜を日に繼いで力をつくし、總費二百四十万弗を費し、製銑所一.ドック大小二、造船所三、ほかに兵器庫までも備へた我が國最初の而も東洋一の造船所を建てたのであつた。これがそもそも横須賀海軍工廠の起りである。今諏訪公園の高い所からほゝ笑ましげに軍港を見下してゐる二つの胸像がある。紋服姿の武士は小栗上野介、あごひげ豊かな 外人はヴエルニーのそれである。



 横須賀 ヴェルニー公園 2019.03.18 引用者撮影(画像は編集してます)

 ヴェルニー公園

引用・参照

『我等の横須賀』昭和十二年二月十五日發行
編集兼發行者 横須賀市教育會

(国立国会図書館デジタルコレクション)