小栗上野介・小栗上野之介露艦を去らしむ

      近松秋江

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 小栗上野介

   

 「これこれ、皆の者共、必ず卒爾な騒ぎをすまいぞ。何事も勘忍が大事ぢゃ。」
 番所の役人は、かういつて、島民を静めた。
 「それぢゃと申して、おとなしくして居れば、どこまでも、俺等を馬鹿にしてゐくさりまするぞ。これで以つて、あの碧眼玉の、唐もろこし髯を突殺してやらうと思って。」
 魚を突く鈷を握り締めて、口惜しさうに憤慨してゐるのは、四十ばかりの魚夫であつた。
 「お役人様は、勘忍々々と仰るけれど、その勘忍が、もう、なりませぬ。私の山の松の木は、もう。おほかた伐り倒してしまひました。」
 これは、斧を持つた五十ばかりの農夫である。
 「その松の木なら、今も、あちらで、私の山の松や杉を伐つて居ります。」
 後から若い男が訴えた。
 百姓の女房は、血の気の失せた慴えた服えた顔でいつた。
 「わたしの処の牛を掠つてゆきました。何といふ憎い赤髯でござりませう。」
 「いや、その牛なら、私の処の牛も分捕つていきました。」
 「わしの処の牛も取られました。もう、この上の勘忍はなりをせぬ。」
 一同声を揃へて、
 「叩き斬つてしまへ!」
 と騒ぐ、
 「あゝこれこれ。皆の者のいふことは、一一尤千万ぢや。その無念は、よう察して居る。先づ静かにして、お上のいふことを、よう聴いてもらはねばならぬ。」
 役人は、島民を労はるやうな口調でいふ。
 「そち等の無念は無理とは思はぬ。だがの、江戸の公儀より、御当家に向けて、きつい御達示である。異国との紛議は、いかなる筋合の事であつても、公儀よりの御沙汰のあるまでは、必ずともに、島民に勝手の振舞ひをさせぬやうに、きっと取締れよとのお旨ぢや。お前達が一時の憤りにまかせて、異国人に危害を加へ、それが元となつて、皇国と異国との間に大事を惹き起すやうなことがあつてはならぬ。今は、たゞ一図に勘忍の上にも勘忍せよとの御趣意である。」
 「それぢゃと申して、あのやうな狼藉、もう、じつと見ては居られませぬ。」
  一同は、異口同音に叫んで、得物を取り直し、又、起つていかうとする。
 役人は、両手を翳して、それを抑へるやうに、
 「お上にても、決して悪うは取計はぬ。異人との掛合ひは、役人が引受けた。引取つてくれ、引取つてくれ。」
 「お役人様は気が長い。俺らは、もう、堪らへて居られませぬツ。」
 島民から、そんなにいはれても、役人達は立腹もしない。
 「その気を長うして居ることが大事ぢや。御当家に於ても、今、いろいろと御評議をいたされて居るところぢゃ。万一といふ際になれば、皆なの者の合力を頼まねばならぬ。更めていふまでもないが、皆な存じて居らう。六百年前の事もある。場合によつては、たとひ対馬全島を焦土と化すとも、国威を失墜してはならん。吾々の遠き先祖もさうであつた。それまでは、如何なる事があらうとも軽々しき振舞ひをしてはならぬ。」
 かういつで聴かせると、島民どもは、互に、ぶつぶついひながらも、やうやく静かになつて、銘々引取つていつた。

   

 文久元年の三月の半ば.対馬国、今の竹敷の港から、程近い芋崎といふ漁村では.四五日前から、ロシヤの軍艦が入つて来たので上を下への大騒ぎとなつた。
 軍艦は、もう、二ヶ月以上も前から、玄海の孤島である、この対馬の沖合に現はれて、頻りに島の冲合を遊弋してゐたが、たうどう二月の三日、西海岸の尾崎浦に入つて錨を下ろした。
 今から六百年ばかりの昔、蒙古襲来の時、この島の住民が、筆にも口にも尽されぬ凌辱を受け、惨害を蒙つたといふことは、今日に至るまで口碑伝説に残つて、無念骨髄に徹する語り草となつてゐる。それゆゑ外洋から襲来する海賊船といへば、そのことを聞いたゞけでも、泣く児も静まるくらゐのものである。幼児ばかりではない、大人も慄え上るのである。
 東国の方の海岸へも、十年ほど前からアメリカの黒船が押寄せて来たといふことが、鳥民にも伝はつて来てゐた。段々世の中が物騒になつて来た。今にこの鳥へも、そんなものが襲来しはせぬかと、島民は、いづれも、六百年以前のことを想像して、戦々恟々としてゐたところへ、果して、ロシヤの軍艦が押寄せて来た。
 国主宗家の役人が出張して、碇泊の理由を訊ねると、船の損所を修復するために、一時こゝに碇泊してゐるといふ返辞であつた。が、見たところ、軍艦は、格別破損してゐる様子もない。さうする内に、軍艦から兵員を上陸さして、そこに小屋を建てたり、海岸の測量をはじめた。
 島の役人は、この鳥島は、国主が徳川幕府から統治を委任せられてゐる土地である。此処へ無断に上陸して、剰へ小屋を建てたり、測量をしたりしては迷惑である。急いで立退いてもらひたいと督促したが、ロシヤ人は、言を左右に託して応ずる気色もない。或はいふ。国主宗家へ五十門の大砲を贈呈するつもりである。又いふ。近日大砲六十門を載せた他のロシヤの軍艦が、こちらに来ることになつてゐる。

   

 見上げるやうな、六尺豊かな図体をした、顔中朱髯に埋まれたロシヤの兵員どもは、此方から遠巻きに取りまいて、たゞ、がやがや騒いでゐる島民どもに、時々白い歯をにつと見せて笑 ひながら、頭から彼等の存在を無視した態度で、どんどん、小屋を建てる工作を急いでゐた。
 見馴れぬ鉞だの、よく切れさうな鋸などを持ち出して、磯山の松林から、松を伐り倒して、それを.えいえい曳ひて来る奴等もある。そこらから大きな石を抱へて来る奴等もゐる。中には、そんな工作をしながら、甘薯のやうな物を丸つ齧りにしてゐる行儀の悪いのもゐる。
 何を食べてゐるのかと思つて、よく見てゐると、彼奴は、遠く離れて、此方に堵列してゐる島民の傍に、つかつかと大股に歩いて来た。そこに立つてゐた女や子供は、きやあツといつて、逃げ散つた。
 毛むくぢゃらのロシヤ兵は、それを見て、さも愉快さうに、「はツはツはツ!」と、どす声を出して笑つた。その様子が、傍若無人の割りに、案外、人の好さゝうなところも見えた。
 そして、遁げ出しもせず、そこに突立つてゐる日本人の側に近寄つて来て、何か訳の分らぬことをいひながら、ポケットから、ちゃうど小礫のやうな.焦茶色のパンを取り出してこれをやらうといふやうな手真似で、差出した。
 役人からの厳達で、ロシヤ人の方から、どんなことを仕向けて来ても、此方から、決して手出しをしてはならぬ。又、向うの金貨や物品をくれようとしても、故なくそれを受取つてはならぬといふお布令が出てゐるので、島の者は、誰れ一人手を出して、そのパンを受取らうとする者はなかつた。
 彼は、何度も、それを差伸べて.与らう与らうをしたり、次にはポケツトから金貨を取出して、それを掌の上に載せちやらちやらいはせたりした。そして、笑顔で白い歯を露はして、何かいつてゐる。両手を大きく拡げて石を抱へる形をして、それを運ぶ手附をして見せるのは.小屋を建てゝゐる処に石を運んでくれゝば、金を与るぞといふのであらう。
 島民の一人が掌を横に振つて、「いやだいやだ」をして見せた。
 暫く、そんなことをしてゐたが、島民が.誰も肯ぜぬので口シヤ人は、又、のそりのそりと小屋の方に引返した。
 彼等は、時とすると、そんな、人の好さゝうな半面も見せたが、島民は.役人の監督が厳重で.自分達がどんな勝手なことをしても、容易に抵抗抗しないといふことを見縊ってしまひ、彼等の傍若無人の振舞は、日に日に増長するばかりであつた。
 芋崎から、国主宗家の居城である東洋岸の厳原へ通ふ山道がある。その道へ、さしかゝつた山林を通つてゐた島の娘がその山林で木を伐つてゐた異人に追ひ掛けられて、も少しのことで浚つてゆかれさうであつた。向うは徒戯のつもりで、さうしたのかも知れなかったが、眼の色の碧い、赤い背面の大男が、森の中から、不意に立ち現はれたのを見たゞけでも此方は、忽ち気が顛動してしまつた。きゃあツと魂切る声とゝもに、背後も見ず、逸散に、人家のある処まで、命からがら駆けて戻つた。そして、やうやう我が家に帰り着くと同時に気絶してしまつた。それきり患ひ附いて、今だに枕を上げえない。生命も覚東ない。
 それに似たことで、島の婦人が脅かされたり、戯弄れたりすることは、稀しくなかつた。

   

 船将ビリレフは、此の鳥の役人が、何処までも穏便主義で、どんなことをしても、容易に反抗し得ないのみならず、島民の騒ぎ立つのを、極力鎮圧してゐることを見て、すっかり此方を見くびつてしまひ、乗組の配下とゝもにその狼藉は、日に日に増長した。無断に芋崎一帯の海岸に上陸して、そこに永久の根拠地を築かうとする様子が見えて来た。
 ロシヤは、伝統的にこの手を用ゐて、無人のサイペリア全土を占領した。今、日本に向つてそれを強行せんとしてゐるのである。後年、満州や朝鮮に対しても亦た同じ手段を施した。ザアの王朝は滅亡して、共産政府となつた今日でも、ロシヤの此の帝国主義は何時の時が来ても変らない。
 飽くまでも島民を見くびつたロシヤ人は、いよいよ海賊の本性を顕はして来た。沿岸を渡つてゐた小舟を襲つて、船中にあつた鎧一領、槍九本、鉄砲九挺、その他刀剣を奪ひ取つたりした。それは、後に、役人が厳重に談判して、取返へしたが、彼等の暴慢無礼は、倍々募るばかりである。
 彼等の計画は、よく分つてゐる。国主を恫喝したり、賺かしたり無理にも対馬の一角に占拠して、此処に東洋経略の策源地を築かうとするのである。
 対馬の国は、地図を披いて見れば、すぐ分るとほり、狭い水道によつて、南北に分れてゐる。此の水道を通れば島の周囲を迂廻せずして、西海岸と東海岸とを直通することが出来る。それだけ、此の海峡は、この島国を守備する上に於て肝要なところである。
 すると、初め西海岸の芋崎にゐたロシヤの海兵は、無断にこの海峡を通過して、東海岸に出でようとした。そこを大船越の瀬戸といつてゐる。彼等は、この大船越の瀬戸から、対馬の国主宗家の城下である厳原に強行して、国主に面会を強要し、厭応なしに、島の一角を租借しようといふ下心でゐるのである。
 この、ロシャ人の慣用手段――といふのは、前にもいつたとほり、後年になって、段々解つたことであるが――によって、あやふく対馬は、その時から三十余年後の旅順港の運命に陥らんとしたのであつた。
 流石に、意苦地なしと思はれるまで、勘忍袋の緒を締めてゐた宗家の役人も、もう黙つてはゐられなかった。
 宗家の番船が、漕ぎ寄せてゆくと、水をぶつ掛けて近寄らせない。それにも屈せず進み寄つて抵抗しようとした小者の安五郎といふ者を、鉄砲を以て撃ち殺してしまつた。郷士の二人を搦め捕り、軍艦に連れて帰つた。その上番所の武器を掠奪したり、又、附近の民家から無数の牛を掠奪していつた。
 そして、たうどう大船越の海峡を東海岸の方へ乗り越して来て、そこからは、わづかに三四里の里程に過ぎない厳原の城下に押寄せて、国主に面会を強要しようとする気勢を示した。
 六百年前、日本全国の武士が、鎌倉武士の気風に化せられた時代には、玄海の孤島たる対馬国にも宗助国が居つた。彼は蒙古の兵と奮戦して死んだ。今の宗家でも、祖先を辱かしめない覚悟と決意は持つてゐたが、徳川幕府の指令を待たずに独断専行することを差控へた。
 一方ロシャ人は、此の間大船越で拉し去つた二人の郷士に対して、いひやうもない侮辱を与へた。そのために一人は、向うの軍艦の中で自殺を企てたが、両刀を取り上げられたので、舌を噛み切って死んだ。
 残つた一人の郷士は、日本人の見てゐる前で、裸にして打擲して見せた。
 宗家では、これまでは、国の大事を思ふて、忍耐の上にも忍耐を重ねて来たが、もう此の上の忍耐は出来なかつた。江戸に向つて、早打ちを仕立てゝ指令を仰ぐとゝもに、島民一統に対して、次のやうな布令を出した。
 「今般碇泊之洋夷、追々軽侮の振舞不堪憤怒候得共当家より兵端を開き候儀は大切無限に付、是迄相忍居候。しかる処此節於大船越国の者及殺害候一件最早渠より事を破り候事故是非不打取候ては難叶場合に付則戦闘に決心つかまつり候。一応 公辺え不申置候ては、皇国一般に相係り恐入候次第に付早追を以其段相伺候。然処宗氏之存亡爰に決候事故仮令兵食不足候とも洲中一致抛身命家名不汚候様精忠頼入候事」
と諭達した。
 宗家の人々は、このとほり悲壮な決心をした。ロシヤ側は、いろくな手を以て、我が方を挑発し事端を開かうとしてゐるのである。そして一且火蓋を切りさへすれば、どんな因縁を付けても、あはよくば対馬を占領せんとしてゐるのである。
 果して、彼の要求は、段々露骨に本性を顕はして来た。国主に面会して、芋崎一帯の海岳を永久に租借し、そこに砲台を築きたい。その報酬として。朝鮮を征服して、宗家に贈呈するなどゝいひ出した。前にもいつたとほり後年支那を恫喝したり、懐柔したりして、旅順港に要塞を築いたと同じ伝統的なロシヤの遣り口である。

   

 対馬の宗家から、早打ちを以て、この急報が江戸に達すると、幕閣は、これは重大事、棄てゝは置けぬとあつて、早速、役人を出張さすることになつた。そして、その人選に当つたのが。小栗上野介忠順であつた。
 小栗は、その時三十四蔵、当時幕中有数の新進の秀才であつた。小栗は、去年(万延元年)幕府最初の訪米便節新見美作守、村垣淡路守の一行に加はり御目附といふ役名でアメリカに渡航して以来、頓にその名を知られた。
 小栗を、遣米使中に選んだのは、時の大老井伊掃部頭の眼識であつたが、その渡米中に、例の三月三日桜田門外の事変があつて、井伊大老は不慮の横死を遂げた。そんな有様で、万延は元年で改暦し、次の文久になると、鎖港攘夷議論は、鼎の沸騰したる如く国中に横行した。初めてアメリカに渡り、彼土の新事物を観察して帰つた連中も、国内のその形勢に接して、何人も皆な口を緘して、迂闊に海外の文化を語る者はなかつた中に、彼一人は、そんなことに参酌はなかつた。
 福地桜痴は、かういつてゐる。「使節が帰朝の時に当り、鎖攘の議論漸く朝野に熾なりければ、皆口を緘したるに、小栗一人は、憚る所なく、米国文明の事物を説き、政治、武備、商業、製造等に於ては、外国を模範として、我国の改善を謀らざるべからずと論じて、幕閣を聳動せしめたり。其後は、卸勘定奉行、外国奉行となりて、財政と外交に与かりたるが、時の幕閣に容れられずして黜けられ、幾もなくして又再勤しては、孜々其職掌を執り幕府の経倫を以て己れが任とし、其精励は実に常人の企及する所に非らざりけり。其人となり精悍敏捷にして多智多弁、加ふるに、俗吏を罵嘲して、閣老参政に及べるがゆゑに、満廷の人に忌まれ、常に誹毀の衝に立てり。小栗が修身、十分の地位に登るを得ざりしは、蓋し此故なり。」と記し、更に「小栗は敢て不可能(インポシブル)の詞を吐きたることなく、病の癒ゆべからざるを知りて、薬せざるは、孝子の所為に非ず。国亡び、身斃るゝ迄は、公事に鞅掌するこそ真の武士なれといひて屈せず撓まず、身を艱難の間に置き、幕府の維持を以て進みて、己れが負担となせり。」
 といつてゐる福地桜痴は、小栗の属僚として、親しくその人に接近してゐた人である。
 かういふ人物であつたから、対馬にロシヤの軍艦が押寄せて来て、不穏の行動があるといふ急報に接した時には、幕閣の長老共は、殆ど為すべき術を知らなかつたであらう。そこで小栗 は自から進んで、時の閣老首座であつた安藤信正の前に出で、拙者を派遣されたいと申出で、安藤閣老は、何分頼むといふやうなことであつたと思はれる。
 小栗は、下僚溝口八十五郎とゝもにその年四月六日平戸を発足し、旅程に一ヶ月を要して、五月七日に対馬に到着した。今日の外交官の年齢にすれば、わづかに大使館の事務官に過ぎない、小栗は、いかなる懇度で、暴慢無礼の艦長に接見したであらう。それは、これから徐々に説くことゝする。

   

 到着後三日を置いて、五月十日、いよいよ小栗と溝口八十五郎とは、ロ艦ホサシニカの艦長ビリレフとの折衝を開いた。
 ビリレフは先づいつた。
 「今年一月以来、当対馬に碇泊して、種々世話になつてゐることであるから、直接国主へ面会して、滞留中のお礼を申述べたいと思ふのだが、領主への面会は、何時になつたら叶ふであらうか。」
 小栗は答へていつた。
 「自分共が出張した以上は、万事自分共でその交渉に当るから領主は関係のないことである。一体貴殿等は、いかなる用事があつて、この対馬へ軍艦を碇泊してゐるのだ?」
 「その事なら、既に度々、此の島の役人にもいつたとほり、船の修復の為に暫時滞泊したものである。それについて、ぜひ共領主へ面会して、お礼を述べたい。貴殿の方からも宜しく取計らはれたい。」
 小栗は笞へていつた。
 「船の修復のお礼を述べるだけのことなら、幕府の公命によって、当地に出張した我等にまで申し聞けられゝば、それでよいのだ。」
 ビリレフは、小栗等のいふことが解ってゐて、故意に解らぬ風を装ふのか、それとも、本当に了解出来ないのか、今度次のやうにいつた。
 「いや、それでは筋道が違ふ。自分達は、当国の領主へ面会して、お礼を申述べたいのである。さうしないならば、自分の職責上、本国政府に対して申訳が立たぬ。」
 「貴公等は、本国政府から、いかやうなる指定を受けてゐるか知らぬが、当国は領主が支配してゐるとはいへ、事国交に関する交渉は、一切江戸に在る徳川幕府を対手として談ぜられたい。自分は即ち幕府を代表して、その為に出張したものである。」
 「それは、よく解つた。しかし、当国領主に面会を求めたところ、承諾あつたが、その約束の期日は即に過ぎて百日になる今日尚ほ面会するに至らない。この約束を、どうしてくれるか。」 そんな約束があつてみれば、それを今更無下に謝絶することもならず、又面会したところで、差支へないことであるから、 小栗は、
 「かねて、領主へ面会の約束があるといふなら、然るべく取計らうであらう。だが、事国交上の事に関しては、領主は一切責任者でないから、その事は十分承知して居つてもらひたい。」
 かう念を押しておいて、小栗は、領主へ面会の事は取計らうことにした。
 それよりも彼我折衝の重点は、無断上陸と殺人掠奪にある。四五日置いて、談判は本筋に入った。
 「大船越村は、当国の要害の地である。日本人とても、他領の者は通さぬことになつてゐる。況んや貴殿は外国人である。今日よりして、此の海峡を通行せぬことにしてもらひたい。且つ、開港場でもない土地に勝手に上陸して、しかも、附近を測量するとは、条約違反ではないか。」
 本当なら、有無をいはさず、直ちに引捕へるか、紫電一閃ロ人は身首所を異にするところであるが、当時の彼我の関係は、小栗をして、心の中で泣かしめたことであつたらう。彼は凛然とした中にも、言葉を和げていつた。
 すると、向うのいふことがいゝ。
 「それは、たゞ附近の陸地を測量するが為に通つたのだ。条的に違反するといふけれど、それは通商上の条約であつて、軍艦は、例外である。」
 どこまで日本を見縊ってゐるか、底が知れない。小栗は昂然としていつた。
 「通商上に違反である以上、否、軍艦ならば一層不穏な行動ではないか。」
 さすがに図々しい艦長も、この小栗の道理ある詰問には弁解の辞に窮した。
 「貴殿のいふところは正しい。だが、目分は、アドミラルー・リハチヨフの命により、測量をしたのである。だからその事は、同提督に向つて談判せられたい。」
 小栗と溝口とは、ビリレフが、あまりに日本人を知つてゐないことを、互に顔を見合はして、呆れた。彼は、その程度の論法で、手もなく日本人が降参するものと思つてゐるらしい。まるで対手にもならない奴と二人は思つた。
 「たとひアドミラルの命令にしても、他国の領土に無断に上陸して、剰さへ測量するとは怪しからぬことではないか。そのリハチヨフは、今何れに居る?」
 「上海にゐる筈だが、確かなことは分らぬ。」
 小栗は、もう、その事は咎めなかつた。何といつても無駄だと思つた。
 「それでは、初に船の侈繕といつたのは、口術で、実は、測量のために碇泊したのか?」
 「否、さうでない。船、修復中に、アドミラルの命令があつたから、測量したまでだ。イギリスとフランスとも、この対馬を希望してゐるが、ロシヤの軍艦が此処に来て警戒してゐるから、両国共に勝手な行動に出でないのだ。」
 何処まで人を馬鹿にしてゐる言草だらうと思つたが、小栗は、凝乎と耐えてゐるより他為方がなかつた。此の時から、約三十年ほど後に起つた日清戦争の戦勝の結果として日本が、支耶から割譲さすることになつた遼東半島でさへ、露、独、仏の三国に洞喝されて、無念にも還附を余儀なくされたほどである。

   

 小栗は、まるで、赤児が、大人に手を捻ぢられるやうな口惜しさを感じた。小栗が、幕閣中、まだ何人も、そこまで考へてゐなかつた時分、敢然として、横須賀に軍港を設置する決心をしたのは、此の時の無念が有力なる動機であつた。その、小栗の創意になつた横須賀の軍港が、七十年後の今日、世界の海上権力を三分して、その一を支配し、太平洋鎮護の策源地となつでゐるのである。
 されば、さて置き、五月十八日に、艦長ビリレフと第三回めの折衝はホサシマニカの艦中に於て開かれた。
 ビリレフがいふに、
 「去る十日、初めての会見の砌、領主への面会は当月二十五日に取行ふやう計ふといふ約束であつたが、あと一週間である。その日は、午後二時、たとひ天候が思くとも、必ず推参するから、そのつもりでゐてもらひたい。決して乱暴等はいたさぬ。」
 その時、何故に、領主宗氏とロシャ人との面会を、我が方が好まなかつたかといふに、面会を強要するロシヤ側の主意は、大抵見当がついてゐた。実際ロシヤの艦長がいふとほりに、イギリスでもフランスでも決して油断はならなかつた。殊にイギリスは幕府の要人に手を廻はして、対馬の一角を租借し、此処に海軍根拠地を築きたい下心を持つてゐた。艦長ビリレフは、考へた。江戸では、即に英吉利に先手を打たれてゐる。ロシヤ側からも願ひ出でたところ、幕府の意向では、先づ対馬の領主に会ひ、領主から、当家としては、将軍の御差図さへあれば、異存はないといふ書状をもらつて来れば、いか様とも取計らうであらうといふ返事を受取つてゐる。それゆゑロシヤ側は、現地の方ではイギリスに先手を打つて、その年の一月から対馬に碇泊して、頑強に領主への面会を要請しでゐるのである。
 小栗が平生罵倒してゐたといふ幕閣の上司等の中には、或は一寸遁がれに、そんな口約をした者もあつたか知れぬが、支那や、印度や、シャム、安両の覆轍を知つてゐる小栗は、迂闊に金甌無欠の日本の領土を、たとひその、一角たりとも外人に租借を許してはならぬことを確信してゐた。それゆゑ、今、領主に面会さして、国際関係の表裏に通じない、お大名気質の宗家の当主に、いかなる無理難題を持ち掛けて、否応なしに、侮を千古に遺すやうな迂闊な約束でもされては一大事であると考へた。
 それで、小栗は、今、ビリレフが領主への面会について念を岬したのに答へて、
 「面会の事は、何とか取計らうであらうと答へて置いたが、領主の方の都合もあることであるから、さう、貴殿のいふとほりに相成らぬ。かねていつてゐるとほり、国交際は相互の和親を旨とするから、当方の都合をも考へずして、勝手に推参されては困る。」
 「しかし、それは、約束に違うてゐるであらう。去る十日貴殿に会談した時、二週間後には。領主への面会を承諾せられたではないか。」
 かういって、詰め寄つた。
 小栗も、その事は知つてゐる。
 「それは、手前の一存で面会のことを取計らふと約束した。だが、領主が外国の役人と面会するについては、一応江戸幕府の差図を仰がねばならぬ。将軍に無断で面会することは、藩主としても迷惑である。」
 「いけませぬ。貴殿は、先きに、目分は、江戸政府から派遣された役人であるから、今後何事にても用向のことは、自分に申聞かれたいといつたではないか。然らば、領主への面会も、江戸の指令を待つまでもなく貴殿の取計らひで十分でもらう。」
 さすがの小栗も一寸返事に窮した。が、やゝあつて、
 「勿論、自分は幕府を代表する役人である。しかし、重要な事は皆な取府の命令を待たねばならぬ。」
 「いけません。すでに貴殿が二十五日と受合つた以上は、その約束どほり、ぜひとも領主に面会する。」
 小栗は、じっとビリレフの顔を見てゐたが、やがて決然とした色を表はして、
 「よろしい。拙者が約束したからは、拙者の責任である。君が、ぜひとも領主に面会するといふなら、その前に先づ、ここで拙者を鉄砲で刀ち殺してくれツ。」
 堅い缺意を見せて、かういふと、さすがのロシヤ人も、その場は、それ以上強要はしなかつた。
 此の当時の事は、後の吾々は、文書について知るほかはないのである。が、後年に至り、ロシヤが支那を恫喝したり懐柔したりして満洲に占拠し、旅順に要塞を築き、更に、日露戦争直前には、朝鮮にまで猿臂を伸ばして来た、あの遣り口から、溯つて想像することが出来る。文久の日本は、危機一髪のところで、支那や印度となることを免かれた。

   

 談判は、それから後も容易に進捗しなかつた。ロシヤ側は、どうしても領主に面会したいといふ。そして、後には、その面会の目的を露骨に口にした。
 芋崎から昼ヶ浦までの土地をロシヤにもらひ受けたい。そしたら、ロシヤは此処を警備して日本のためにイギリス、フランスの毒手を排撃する。
 その間に月が立つて、七月となつた。七月二十二日の午前八時頃、ロシヤの軍艦が碇泊してゐる芋崎の海岸ヘイイギリスの軍艦が入つて来た。その夕方になつて、又一隻入つて来た。
 それは、幕府とイギリス側との外文的交渉によって、イギリスが五ヶ国条約を楯として、開港地以外の土地に無断上陸して、勝手な振舞ひをすることを、牽制したものであつた。
 イギリスの軍艦が入つて来てから、さすがのロシヤの軍艦も、翌月二十五日に、たうとう碇を上げて、北の方へ去つてしまった。
 固より、その外文的裏面には小乗の策謀があつたのだ。

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 小栗上野介露艦を去らしむ

   

 今度、幕末の傑物小栗上野介の記念碑がその遺骸を葬つてある上州権田村東善寺畔に設立せられることになつたといふ。小栗上野介が幕末の最も進歩したる政治家でありながら.渾身の硬骨、錦旗を傘に被る薩・長・土等の所謂官軍に反抗する気配を見せたといふので、疑心暗鬼の念から、彼をそのまゝに生かして置くことは、恰も虎を野に放つに似た恐怖心に駆られ、此の国家有用の偉材を、可惜権田河原の朝の露と消えしめたことは、後の心ある者をして、追惜の感に堪へざらしむる語り草となつてゐる。
 上野介が、有為の材幹を抱きながら、僅かに四十一歳にして果敗なき最期を遂ぐるに至つたまでの生雇については、多くの語るべき物をもつてゐるが、こゝには、主として彼の国家的の大功績とその達見とについて、その一端を語つてみたい。
 そもそも明治年代に書かれたる我が維新史の殆ど全部は、王政復古の偉業を謳歌するといふ以外に、薩長の藩閥政治家に対して頌徳表を奉ることを念としてゐるのである。勝でば官軍、負ければ賊とは蓋し当時の情勢を、語つて遺憾なきものであつたらう。
 十五代将軍徳川慶喜は既に(去年慶応三年十二月)将軍職を辞して大政を奉還し、殊に翌四年の一月、伏見・鳥羽の事変があつて以来、急いで関東に帰り専ら恭順の臣節を守つてゐる。斯の如き大勢の中にあつて、ひとり小栗等が、官軍を代表すると公称せる薩長の軍に向つて敢て最後の反噬を企てんとするは、甚だしく天の時と人の和を失つてゐるものである。その成敗の数は事前に在つて明白である。小栗といへども、その見透しが利かなかつたのではない。それにも関らず、一片耿々の赤心止むに止まれず、慨然として薩長を主盟とする京都方の聯合軍を、函嶺の天険に拠つて迎撃せんことを主張したのは、勿論、彼自身としては、十分勝算があつたことかも知れぬが、それよりも、むしろ、妄りに錦旗をさし翳して、名を公儀に借り、その実雄藩の私心を満足せしめんとする薩長等の奸計を憤つたからであつたのだ。
 何故といふに、小栗の明識達眼なる、此の時代に処して夙に内外の大勢に通ぜざる者では決してなかつたのだ。彼は、薩長雄藩の士よりも、もっとよく当時に在つて世界の大勢を知つてゐた。万延元年、フランスの軍艦に便乗して、幕使の一行に加はり、地球の半分を巡視して来た時に、豁然黙として彼の世界に対する眼は開けたのである。その時、海外から兵学・軍事・政治・経済・民事・行政・暦数・地理、その他の一般科学に関する書籍を多数購ひ帰つたことは、恰も福沢諭吉が同じ万延元年に咸臨丸に乗つて、始めてアメリカに航海した場合と同じであつた。

   

 海外の新知識に接触して帰つた小栗は、我が日本の現状を省みて、これは、どうしても一大英断を以て政治組織はいふまでもなく、凡ての制度文物に改革を加へなけれぱならぬことを思つた。先づ軍事が、焦眉の急であつた。そこで第一着に手をつけたのが、相州横須賀に軍港を設備することであつた。横須賀の軍港といへば、通例何人も明治年代に在つて最も我が海軍の振張に功績のあつた薩州人のことを聯想しやすいが、その実、今日、世界の三大海軍国の一として、東半球の蒼茫たる大海洋を鎮護する大日本帝国の海軍の礎石は、誰あらう、小栗上野介が、主として担当したものであつた。沼津に海軍兵学校を開設したのも小栗であつたし、横須賀に軍港を設置したのも小栗の発案であり、また。事実上の処理者でもあつた。フランス人の技師を聘して、その施設に当らしめたのであつたが、それ等は皆な小粟のしたことであつた。  当時幕府の命脈は既に絶えんとする時であつたから、ある人が小栗に向つてかういつた。「足下、今、熱心に横須賀に軍港を設置せんとしてゐるが、幕閣の倒壊は到底救ふことは出来ない。無用の事ではないか。」
 小栗は昂然として、問ふ者に向つて答へた。「たとひ、明日幕府が倒るゝとも、土蔵附の家屋を売るは、快心事ではないか。」
 此の時既に小栗の眼中には、一徳川幕府の興廃よりも、もつと大きな関心事があつた。即ち日本国家の富強を如何にして増進せんかといふ問題であつたのである。
 しかも小栗は、先祖累代徳川家旧恩の士である。その徳川家の浮沈興廃については、君臣の情誼として素より痛心憂慮に堪へなかつたものがあつたらう。だが、つらく海外の先進文明諸国の政治状態を見て、これは、どうしても、最早、封建政治の時代でないといふことを看取してゐた。だから、文明政治を取り入れて廃藩置県を断行しなけれぱならぬと確信するに到つた。それは、小栗の残した断簡零墨によつても察することが出来る。廃著置県を断行した上は、その主権の統轄は天皇御観政といふところまで持つてゆかなければならぬ。これは必ず小栗の胸奥に描いたプランであつたらう。薩長の奴原の所為こそ無念至極であるが、普天の下率土の浜、たれか朝臣たらざるべき。これは小栗といへども深く思つてゐたことであつたに違ひない。
 更に、その小粟が幕末の外交多事多難の時期に際して、いかに此の日本国土の保全に焦心努力したか。それを見れば、彼の限界が、決して徳川氏の幕閣内に狭められてゐたものでなく、日本大に、否日本を中心として東洋大に、世界大に着眼せられてゐたものであつたことが、よく解るのである。

   

 吾々が徳川幕末時代、欧米の列強を対手にして、外交が甚だしく多難だつた当時の事を回顧して、折々寒心に堪へぎる感の胸を揺るがすことのあるのは、今から百年前後以前、日本がよくも、東洋の古文化の国々たる印度や、支那や、シャムや、アンナンや.ビルマの覆轍を踏まなかつたといふことである.私は当時の事を時々振り返つて、此の東海の孤島である太平洋上の蕞爾たる日本が、どうして、思ひ出すだに慄然とする危難極まりなかつた外交に処して、暴慢無礼、貪婪飽くことなき白人をして、開闢以来金甌無欠の日本の領土に一指をだに染めざらしめ得たかといふことを考へて、当時の幕末外交家等の苦心と手腕と、更にその豪邁なる胆力と、愛国の熱情とに思ひ到り、そゞろに感謝の念を抱かざるを得ぬのである。思ふに、英・仏は既に支那・印度・印度支那を掠略した手段を以て、その狡猾なる覬覦の眼を此の東海の孤島に向けて来た。その音を聞くだに恐怖の念を起さしめてゐたオロシヤは、北辺から猿臂を伸ばして多年蝦夷ケ島に窺ひ寄ってゐた。そして、文久元年(小栗上野介がフランスの軍艦に乗つて、地球の半分を視察して帰つたその翌年である)には、果してオロシヤの軍艦ホサシニカが船の修繕.食料薪水の積入れといふ口実の下に突然対馬の海岸に来て碇泊した。船将はビリレフといふ者であつた。彼は表面単に食料、燃料等の補充と船の修馥と号してゐるが.その内心は、この対馬一角に永久の根拠地を築かん底意であつたことは、後年日本の明治年代になつてロシャが遼東半島の旅順・大連を占拠し、更に、朝鮮の一地点にまで猿臂を伸ばさんとした、あの傍若無人の振舞と同じ下心であつた。明治年代になつての日本対欧洲列強との国際交渉は、何といつても、まだ楽であつた。徳川幕末の対外関係といふものは、実に累卵の危険よりもまだ危険であつたのだ。而して此の危険極まりなき累卵状態の渦中に立つて、首尾よく日本領土の保全を成しとげたのは、誰あらう小栗上野介が先輩に立つて交渉の責任に当つたからであつたのだ。

   

 この玄海洋の孤島である対馬は、七百年前蒙古襲来をはじめとして、幾度か無抵抗の島民をして無念の涙を紋らしめた匯史がある。此度のオロシヤの軍艦の横暴狼藷は、伝説に伝はつてゐる元寇の横暴狼藉の繰返しであつた。夫を縛して、その眼の前で妻子を辱かしめたる上、果てはそれを惨殺したといふことは、最近満洲の匪賊が朝鮮の人民に加へた惨害と侮辱を知る者の想像に難からぬところである。元寇がそれであつた。今、オロシヤ人が又、その二の舞ひをやらうとしてゐる。国の上下を挙げて慄然驚愕した。いづれも六百年前の元寇の惨禍を想像して、非常な恐怖に陥つたが、国主宗対馬守は、元寇の当時、鎌倉時代の日本武士として恥かしがらぬ壮烈なる最期を遂げ、日本領土の関門たる此の孤島の安全を保つた由緒香はしき家筋である。文久の宗家の主にも遠き祖先の血は流れてゐた。国主は全島に布令を発して一方島民を安撫すると同時に、非常の決心を公示し、たとひ一島を挙げて焦土と化するとも、断じて此の上オロシャ人の横暴を許さないといふ壮烈なる決意を告げ、全鳥民を鼓舞激励した。そして、早打ちを以て急を幕府に申達した。そこで幕府は、小栗豊後守忠順(上野介)を急派して、オロシヤ人と交渉談判に当らしめた。小栗は、その時、わづかに三十五歳であつた。彼は万延元年、世界の半ばを巡視して帰つたばかりの新知識であつた。
 彼は僚属溝口八十五郎とともに、文久元年の初夏対馬に到着し。早速ロ将ビリレフと折衝を始めた。談判は、恰も今日の北鉄譲渡問題の如く長びいた。彼ビリレフの言ひ分は、甚だしく日本人を頭から呑んで掛つてゐる態度であつた。小栗は、先づかういつた。
 「当国の要害である大船越村の瀬戸を、他国人である足下の配下が無断に通行しては困る。且つ開港場にあらざる地域を勝手に横行するは条約の文面に違反するではないか。」
 「いや、右は全く測量のために通行したのだ。条杓文面のことは、唯通商上の事である。軍 艦の事は例外である。」
 小粟は、ビリレフの人を喰つた面を、じつと見て、微笑しながら、
 「国交上の掟である以上は、軍艦とても守るのが当然である。」
 ビリレフも、これには、日本人も一寸、馬鹿にはならぬと思つた顔付をして、
 「卸尤もなお話だが、自分は、東洋艦隊の総督アドミラール・リハチョフの命に依つて、測量したのだから、その事なら、アドミラールに談じてもらひたい。だが、アドミラールは、多分上海に居ると思ふが、しかと所在は分らない。」
 かういふ人を馬鹿にしたことをいつた。
 「それでは、舶の修復、食料の補充といふのは口実で、測量が真の目的で此処に碇泊してゐるのか。」
 「いや、船の修復が本来の目的だが、突然アドミラールから命令を受けて測量したのだ。」 小栗は、対手の腹の中は、よく解つてゐるので、そんな子供欺しの事には敢て争はなかつた。
 「何れにしてもよいから、長く此の地に碇泊してもらひたくないのだ。」
 「さうか。しかし、今、イギリスもフランスも共に、此の地を得んと望んでゐる。吾等が 此処にゐるので、あの二国とも勝手な振舞をせぬのだる」
 それは、さういふ状態であつたかも知れぬが、小栗は心中、それは余計なお世話だと思つた。
 こゝに、その詳細を尽すことの出来ないのは甚だ遺憾であるが、小粟は、此の談判の際、露人に向つて、体当りの覚悟を以て、強硬に当つていつた。談判が難局に陥つて、彼等があまりに勝手な我意を主張した時、
 「然らば、先づ此の拙者を鉄砲で打殺してみろ。」
 といつて、尻を捲つた。結局、ビリレフは碇を上げて対馬を去つた。それには、イギリスの軍艦が、同じ対馬の近海に出没して或る示威運動をしたからでもあつたが小栗の一国を背負つて立つ忠肝義胆の折衝が、よく然らしめたのであつた。その小栗が、それより七年の後(明治元年四月六日)錦旗に対して反抗を企つる賊魁であると、故意に汚名を被せかけられ隠退の地上州権田村烏川の河原に縄付にされて引かれ、敢なく斬首せられたことは、返す返すも遺憾といふも愚である。
(新潮社「日本精神講座」第七巻
             昭和9年9月5日)

引用・参照

『近松秋江全集 第8巻』著者 近松秋江 1994年4月23日初版発行 八木書店
「小栗上野介」・「小栗上野之介露艦を去らしむ」