『續維新前後の政爭と小栗上野』

      法學博士 蜷 川 新

  繪附録解説

 1-4頁
 

 一昨年九月、余が「維新前後の政爭と小栗上野の死」を公にするや、共鳴者の意外に多かりしと同時に、又小栗を賞め過ぎ、勝や西鄕を貶し過ぐると忠告せられたる先輩もあり、又正論には相違なきも今日に至りて鳥羽伏見の事件の欺瞞的内情を素破抜くのは如何のものかと思ふなぞと注意せられた先輩もあつた。凡そ物には兩面がある、余の著書が其人によりて賛否の判斷の岐るのは必然の數である。余としては、日本國の歴史を正ふするのが目的であり、故更に小栗を賞揚し、徳川方を強いて辯護するのが本旨ではない。余は前著に於ては、餘りに遠慮して史實を取扱ひしことを悔いたのであつた、遠慮は無益なるを覺へた、一層嚴俊に史實に對し其研究を發表するを以て余の責任也と感じた、本書を後編として上梓するに至りしは、其の爲めである。
 從來の維釘前後の歴史は、政爭に勝ちし側の人々に於てのみ書き又は書かしめたる片面史である。今人は此れに依つて、當年の事を解せしめられ、之れに播き込まれて居るのである。其故に、一方は悖理にして他方は眞理也と信ぜしめられ、一方は國賊にして他方は忠臣也と信ぜしめられ、一方は國の文化を阻碍せるものであり、他方は文明の新時代を創建せるもの也と信ぜしめられ、一方には人物雲の如く生じ、他方には腰抜け侍のみ居りしかの如くに感ぜしめられ、斯くして六十年を經過し来つたのである。
 併し乍ら、此等は、實際とは沒交渉の空宣傳である。余は當年の事實を、純正に國民に傳へ度しとの微衷を抱くに過ぎない、是を以て、前編に述べたる所を以てしては未だ足らざるものあるを認め、補足として、茲に後編を成したのである。
 余先年、故田中大將と共に、地方に講演を試みたりし折、京都に於ては、當年長州人の定宿せし某旗亭に假泊し、當時の歌壯士の刻みたる刀跟を檢しつゝ、鳥羽伏見事件の眞相を田中大將より聞き、又山口市に於ては、同地出身の諸賢より、長州人活動の眞情を説かれ、長州の藩士は、三百年來、其の足を江戸城に向けて寢ね、必ず其の舊怨を報ずべしとの堅忍心を有したりし事なぞを聞かされ、長防藩士一般の決意の固かりしに、敬服したのであつたが、之れと同時に舊怨を報ゆるの心より出發したる維新前後の政爭に付ては、其所に常に必ずしも公明なく、眞理なく、後年史家によりて其の曲直の正判せらる可き時期の來るものなるを感ぜしめたのであつた。
 余は、鹿兒島にも講演の爲めに三囘も行つた、而して西鄕、大久保等當年の壯士と維新前後の關係とを仔細に考察した。薩人には長人の如く舊怨を報ずるの執着心はなかつたけれども、機に乘じて起てるの權變はあり、一貫せる大義を以て、維新前後の混亂に處せしものにあらざるを惟はしめ、之れも亦、後世、史家の正判を受けざる可らざるものなるを看取せしめた。
 日本人として、今日に之れを大觀したならば、當年日本國民の文化の爲めに有益なる政治を行ひ身命を提せる人士を以て、眞に國の爲めに功を立てたる人と云ふべきであり、此の意味に於て、當年の事實を研究し、此の意味に於て、當年の敢治家其他の士人の價値を判ずべきである、余の志す所は此所に在る。
 舊説に固着して、僞を眞と信ずるは不明である。權略を信義と見誤るは迷謬である感情に囚はれて事の眞僞を判定し得ざるものあらば、そは眞理を輕侮するの態度である。
 歴史は眞實を傳ふるものたるを要す。權勢者の意を迎へて歴史を編むものあらば、そは曲學者である。余は與みせず。

  昭和六年一月
                   蜷 川 新

 目 次

  日本國民史上より觀る維新
  () 維新の意義を明にするを要す
  () 時代の産める維新
  () 開國の合理と攘夷の權略
  () 維新後の宗教破壊の失政
  () 維新後の日本の混亂
  慶應の維新
  「慶應」は何時「明治」と改められし乎
  事實と事理無親の幕末史論
  慶喜西京を去り大阪に至る折の上奏文
  薩長土肥四藩主の藩籍奉還の建白書と其の内容檢討
    建 白 書
  公卿の攘夷論と其の世界事情の不知
    左内全集抄

  攘夷論者は天下を欺ける乎否乎
    攘夷論の解剖」と題する望月氏の論文の一節

  維新後の崇夷外交への激變
 一〇 雲井龍雄の諸藩に飛せる檄文
 一一 倒幕論者の眞の目的は果して何なりし哉
 一二 ペルリ來航時代の古き文献
     嘉永明治史鑑 巻之一
 一三 ペルリ渡來に關し徳富氏の幕府嘲罵と其不明
 一四 薩藩々論の統一は維新既に成れる後の事實
     久光公への建白書
 一五 幕政下の社會組織と史家の盲斷
 一六 徳富氏の勝海舟礼賛を讀みての所感
 一七 近藤勇の甲州出陣と勝海舟の共謀
 一八 會津武士の思出の記と勝海舟の卑怯
 一九 江戸開城と勝西郷の所謂功績と眞相
 二十 山岡自身の述べたる西郷と山岡の談判
    明治戊辰 山岡先生與西郷氏應接筆記
 二一 二本松侯夫人の避難實記
     御道迺記
 二二 岩瀬肥後守の人物と事業
 二三 幕府倒滅の理由に關する徳富氏の評論
 二四 横濱開港の恩人水野筑後守と其記錄
 二五 江戸城降服と川路左衛門尉の武士道的自害
 二六 井伊大老の勇斷と其の合法性
 二七 水野筑後守の國政改革意見
     水野筑後守の致仕

 二八 水野筑後守と佐賀鍋島侯との應接
     水野筑後守長崎奉行赴任旅行

 二九 水野筑後守の拓殖政策
 三〇 小栗上野介と米國
 三一 小栗上野介の祟りを怖れたる村民
 三二 小栗上野の財産と掠奪
 三三 最期の江戸城會議と小栗上野介の武士的態度
 三四 露艦の對馬占領と小栗上野介の心事

  (目次)完

 一 日本國民史上より觀る維新

  1-3頁
  () 維新の意義を明にするを要す
(目次)

 維新とは「王政維新」と云ふ意義なのである乎、「政治上の革新」と云ふことであるの乎、今に判然しない。時の關係としても慶應時代のことなのか、明治元年のことなのか、或は明治の初年の事としても何年迄のことなのか、史家の言全く不明也。此根本を明かにして論を立てるにあらざれば千言萬語も更に價値のないものとなる。藩閥人への阿附雷同などは最早今の時代には禁物であり、日本史を國民的に判斷して科學的の價値あるものとするのが現代人の責任である。
 維新とは王政維新の事を云ふのであるならば、夫れは慶應三年十月十五日の事でなければならない、當時の御沙汰書に曰く、
 「祖宗以來、御委任厚く、御依頼被爲在候へ共、方今宇内之形勢を考察し、建白の旨趣尤に被思召候間、被聞食候、尚天下と共に同心藎力を致し、皇國を維持し、可奉安宸襟御沙汰之事」
と。此の一事が「王政維新」となり、武家政府は亡び去つたのである。夫れであるから、「明治維新」と云ふ俗語は史家の説明とはならないのであり、科學者としては改むべきである。若しも維新とは政治上に種々の革新が行はれしこと也と解するならば、幕末にも過去になかりし外交官が出來たり、財政軍政等が一新せられたりしたが故に、之も亦維新と呼ばるべきことゝなる。明治に入りて遽に歐米との外交始まりしには非ず、洋式海陸軍が開始せられたのでもなく、何れも幕府時代よりの引繼に過ぎないのである。加之、明治の初年にも依然として封建制度が存續し、その以前と内政の方式は變つては居たい。
 若しも維新とは新勢力に反抗せる日本人の一味徒黨が敗北したことを指して云ふのであるならば、北海道の榎本の軍が降参した時に維新初めて成れりと云はざるべからざることになる。理由なき説である。維新とは「王政維れ新也」云ふのが基本義である。
 維新とは、「革新」とか「中興」とかと云ふのとは異なり、萬世一系の天皇が、新に日本國を統治せらるゝに至りし光輝ある事態を云ふのでなくてはならない、即ち唯一にして無二である。

  3-6頁
  () 時代の産める維新 (目次)

 時代は立憲制を作り普選を實現せしめる。王政維新は同じく時代の趨勢であつた。日本國民は嘉永、安政時代より初めて尊王を理解したやうな不臣の人民ではない。開國と稱する一大事實を原因として、日本は將軍政治では治まらなくなつたのであつて、幕府方にて自ら封建制度では外國との關係が良好に進み行かざるを體験して、小栗上野介の如きは、率先して郡縣の必要を唱へたのである。將軍政治を癈止して郡縣制となすには、王政復古以外に適當な方法はないこと明白である。故に徳川慶喜にしても其の大政奉還の上奏文に於て之を明記して曰く、
 「當今外國の交際日に盛なるにより、愈よ朝權一途に出で不申候ては綱紀難立候間、從來の舊習を改め、政權を朝廷に奏歸、廣く天下の公議を盡し、聖斷を仰ぎ同心協力共に皇國を保護仕候へば、必ず海外萬國と可並侯」
とある。これで事情は誠に明白である。
 然るに、政爭者流は利己的宜傳を爲すを常習となす者であり、其處に權略政治家の手腕も加はりて、六十年來日本人民に思ひ込ましめた盲目的先入は、幕府は國賊であり、朝權を盗んだものであり、彼等は時代を解せずして、唯だひたすらに幕府政治を維持せんとしたもの、小栗上野介の如きは時代に反抗して押し流された頑冥人であるかの如くに信ぜしめられたのである。若しも徳川幕府が左樣に悪逆りものであるならば、徳川一統は總て世の中より葬り去らるべきものであり、三百年來之に從へる全國の大名旗本等は悉く誅滅せらるべきものである。併し乍ら前掲の如くに、幕府は、「祖宗以來御委任厚かりし政府」であつた、此の御沙汰書を謹讀して以て、幕府其者を判斷するを國民の義務とする。
 日本の近代の政治は、當時の反幕黨なくとも、必然に歐洲文明國の制度に近づき、立憲國となり、更に普選となるのは可能のことであつた。鎖國變じて開國となりし日本は獨り七百年の舊習を墨守することを時代が許さなかつたのである。藩閥政府の生じたりしが爲めに日本人の文明が進んだのではなく、又人民の生活が改善せられたのではない。反つて藩閥政府の如きもの生じたりしが爲めに、「公論の決」は行はれず、人才は用ひられなかつた。清奸の諭野に行はれ、之が爲めに長州、佐賀、鹿兒島等の大内亂生じ、忠良の民は殺され國帑は空乏した。之れ舊幕時代に、共同の目的即ち攘夷と討幕との目的を以て合致したる政爭者流が、相反目相嫉硯して、流血の惨を國民の前に曝すに至りし歸結である。藩閥政府の生ぜしが爲めに江戸より東北一帶は反逆者の餘類の如くに取り扱はれて、人心衰萎し、民生窮乏したのである。明治十八年頃は日本人の思想は甚だしく悪化した。又日本の窮乏はその極に達した。一時は銀貨さへも市人の手に渡らなかつた有樣である、國民は擧つて「藩閥亡す可し」として全國に吠えたのである。歴史は正觀せざる可らず、勝利者に阿ねるは宜く俗人に委して然るべきである。維新には日月の光明あり、唯だ其以後に於て、内亂生じ、藩閥起りたりしは、暗雲の低迷せるが如き不快感を國民に與へざるを得なかつた。

  6-8頁
  () 開國の合理と攘夷の權略 (目次)

 反幕黨は攘夷黨であつた。彼等は外國との條約を以て城下の盟だと騒いだ。夷人神州を穢すなぞと叫んだ。公卿の中にも攘夷黨禽が多かつた。姉小路卿の如きは一度幕府の軍艦に招かれて大砲の轟音を耳にして慄黙として變説した。彼は攘夷の不可能を口外して終に兇徒に暗殺せられたりし事なぞは滑稽のやうな悲劇であつた。長人攘夷を口にしながら英人から銃砲を買入ることに苦心した。薩人は英人と結んで武器を得た。彼等の眞意は那邊に在つたか、今日からは好く窺はれる。彼等は權略に長じ至誠心を缺く。若しも攘夷を信ずるならば、之を實行する強き責任観念あるを要する。
 明治元年に入りて藩閥政府の人々中、昨日まで叫びし攘夷を實行したものはなく、反てパークスに阿ねつた。明治二年にパークスを襲ひし壯士を、當時の政府は、パークスの進言に從うて梟首したのであつた。即ち攘夷論者とは世を欺けるものたりと云ふことを當時の要人は日本人に公示したのである。當年の政治家に公明の心缺け責任心乏し。外交を政爭に利用して世の中を騒がせたのは權略である。償金を取られ、白人より蠻人視せられたのは、策略を弄せる無責任行爲の結果である。今の國民は政治の公明を重んじ、責任を埋解する正しき政治を眞の政治と見る。當時の井伊や岩瀬や水野や小栗なぞの維新前の外交家の方が確に正しく、國を双肩に擔へる武士らしい尊さがあつた。然るに學者等此等の諸人物を國民に傳へず、所謂天下取りに成功したる藩閥政府の名士の功績賞揚りみに盡し、遂に六十年にして、世人はこれらの人物を忘れて仕舞つたのである。先頃一小説家ありて小栗上野介を其中に描いたが、小栗を以て米人の妾の世話人とした。其の人、余に辯明して曰く、「之れ小説也」と。特に此偉人を傷け、斯くして文士自らを欺き、筆を弄して國民を欺り、不道徳の極である。何の爲めの小説ぞ。

  8-10頁
  () 維新後の宗教破壊の失政 (目次)

 日本に佛教傅來してより日本國民は之れが爲めに導かれ、之れが爲めに社會は改善せられ、政治の善導せられしことは、眞に深大なものがあつた。「日本人化した佛教」は、之れ日本人の一千餘年を經て成就したる一大宗教であつた。聖天子は之を信じて人民を惠み、英雄武士は之を奉じて民を治め、民をしてその治を樂しましめた。
 然るに雑新後、天下を取りし側の人に輕卒者流多くして、此の佛教を目して、外国の教えとなし、「癈仏毀釋」と稱する乱暴極まる政治を行ふた、彼等は總ての寺院に禍し、佛教を衰微せしめ、人心をして徒らに不信ならしめた。悪政洽なりしと云ふべきである。
 如斯の大過は、王政復古の正解を忘れて、曲解を爲せしより生じたのである。王政に復古する事は尊いことなのであるが、國を擧げて古への未開時代に復することは過ちである。頑冥者流は、二千五百年の日本をして、二千五百年の古に復らしめんとしたのである。日本國民の一千年に亘りて爲せる努力を悉く打壊し、原始的太古式的に復らしめんとしたのである。政府要人はこれを可とし、之を輕卒に實行したのである。其の愚や眞に及ぶ可からずである。
 先年後藤新平伯は予に談つて曰く「後年伊藤公は癈佛毀釋を以つて一大失敗であつたと告白せられた」と。維新後の政治は、此の點に於ては、改革にあらずして改悪であつた。當時西鄕隆盛の如きは禪學を修得し、勝悔舟なぞも野狐禪をやつたが、薩、長、土、肥人中の重なる人について、一々これを點檢して算へ來れば、宗教の信仰者は、不幸にして一人だも居らなかつたと評して可也。伊藤は信者たる資格はなく、岩倉や大久保や木戸やの諸氏も、亦宗教上の信念なぞ懐き得る人柄ではなかつた如く、大村、井上等も俗臭の甚だしき者がある。板垣なぞも斯る問題なぞは分りさうにも見えない人物であつた。
 彼等は田舎武士又は浪人上りである。天下取りに夢中な人々であつた。世界の事なぞは全く或は殆んど分らず、たゞ功名に憧れ、物質を逐ふた、全人民をして幸福ならしめ、文化ならしめんなぞの、深遠なる理想なぞは、到底望まれさうにも見えないのであつた。
 今日より之を靜觀すれば、靈界の人としては、彼等は禮讃さるべき程の人物にあらざりしを直言せざるを得ない。要するに、癈佛毀釋は改革にあらずして、日本文化の破壊政策であつた。

  10-11頁
  () 維新後の日本の混亂 (目次)

 王政の復古は國家の爲に慶賀する、復古後に於る政略的陰謀は顰蹙せねばならぬ。若しも大政奉還を機として誠實に一切の大改革が行はれたならば、眞に理想的大事業であつたであらう。たゞ當時陰謀家の策動により、交戰となりたる以上は、小粟上野介の主張通りに、箱根以東に於て東征軍の退却路を斷ち兩軍互に奮戰し、是非を武力に依りて決するのが、武士らしい行動であつたであらう。而して東征軍は此事の行はれしならば、大村兵部の判斷の如く、必敗したであらう。而して遂に藩閥政府は生れなかつたであらう。西鄕や勝は名もなき人として終つたであらう。而して此の桔果として日本の改革は即時に行はれ、其後隆々たる日本帝國は、東洋に勃興せるは勿論であつた。蓋し全人民の三百年の久しき亘りて蓄積せる精紳と力量とは、必ず茲に到達すべき運命に在つたからである、佛國に於ける奈翁の如く、ドイツに於ける比公の如く、大偉人あつて始めて生じた獨佛と、六十年前の日本とは、事情が異つて居る。大政治家もなく、大軍人もなく「二千五百年の古へに復せ」とか「唐人を撃つべし」とか「三百年前の舊怨を報ゆべし」とか云つた風の事に力を注いだ壯夫大等は、澤山に居つたけれども、日本の封建を癈して之を郡縣となし、列國と交通し、貿易を擴め、領土を擴め、一切の文化を吸収して、東洋の一大帝國を興すべしと云ふが如き、大抱負と大經綸を其の當時に於て抱藏して居つた人は、反幕派には一人だもあらざりしが如し矣。彼等の詩文や彼等の意見が之れを證明して居る。余は、之を正しき批評なりとする。
 維新後の内亂は國民の爲めに禍であつた。政治家に至誠の缺けたる結果なりしを、至純なる國民をして慨歎せしめる。政爭は禍多し避けるを要する。

  慶應の維新

  12-12頁
  () (目次)

 我が王政の光輝ある復古は、明治時代に至りて生じたるにあらずして、實に其の以前の慶應三年十月十五日、即ち慶喜の大政奉還を朝廷か嘉納し給ひし時を以て、完全に生じたのである。
 維新とは變亂にあらず、革命にあらず、又政治の改革でもない。王政の復古が即ち維新である。其故に、碓新は人民の景仰する大業であり、光輝永遠にに發たるべき偉業である。
 若しも、維新とぱ革命であり、内亂であり、同胞人民月士の殘虐なる殺傷であるならば、維新は何んの光輝もあるべき筈なし。
 維新を以て、王政の復古也と正解すべきものであるならば、維新は、慶應に生じたる一大事實であり、明治時代の史賓ではない。史論として斯く云はざるを得ないのである。然らば「明治維新」と云ふ俗人の稱呼は、事實を正しく云ひ現せるものにあらずと諭ずるを、史家として正也と認めざるを得まい。何故に史家は此の俗稱を踏襲して恬然たるや。

  13-14頁
  () (目次)

 維新の大號令は、慶應三年十一月七日を以て發せられた。併し乍ら、此の號令ありしが爲めに、維新は生じたのではない。完全に王政復古せられたりし結果即ち、天皇の大命を以て大號令が發せられたのである。  明治時代に至りても、依然として、日本には、封建制度引續き行はれ、封建國たるに於ては、舊時と少しも變れる所はなかつた。維新とは、封建制度の癈止にあらざりし事は、史實の我等人民に明かに教ゆる所である。
 時代の要求に應じて、日本を郡縣制度となすべしとの主張は、徳川幕府の當路者小栗上野介の主張であつた。併し乍ら明治政府のとしては初めより郡縣の制を行ふの考慮は、何人の頭裏にも毫もなかつた。播磨三田の藩土九鬼氏は、最も早く封土奉還わ公然建白した。併し乍ら、此事は世上に傅つて居ない。小藩なるが故であらう。播州姫路の藩主酒井氏が維新後、直ちに封建癈止を献白したりし史實は、萩野博士によりて傳へられて居る。併し乍ら、一般人は之れを知らず、小學校の歴史本初め、癈藩の主張は、薩長土肥の大事業の如くに傳へつゝある。事實として癈藩は明治の後に至りて、初めて成りし事であり、其迄は、依然封建制度の日本であり、將軍の政治は癈止せられしも、依然として百萬石の加賀、七十萬石の薩摩なぞは、主君として地方の權力を把握しつゝあつた。維新と郡縣制度とは、別の事態たる事明白である。

  14-15頁
  () (目次)

 日本の開國の國是は、徳川幕府の當路の爲せる所であり、幕府の要人は、身命を賭し、國家民族の幸福の爲めに、之れを斷行したのであつた。明治元年に至り、從來の攘夷論者は、恬然として急遽變説し、幕府の行へる開國の政策を踏襲した。開國政策は、國民生活上時代を新にしたる一大變革であつた。併し乍ら、此事は、徳川幕府時代に成りし事業であり、此の一大改革が、「維新」と呼ばる可きものにあらざるは明かである。
 然らば、世に所謂明治時代の改革とは、開國の國是斷行の事でもなく、郡縣制度實施の事でもない事も明である。

  15-16頁
  () (目次)

 明治時代に至り、幕府の亡びたる事實斷じてなし。幕府は慶應三年十月十五日を以て、既に亡び去つたのである。
 幕府とは、一徳川氏の事務所を云ふにあらず、我日本國の正當の政府其者也。天皇の御委任に由つて成立し來り、二百餘年間、全日本人民の是認し來りたる政府であつた。
 此の政府の首脳者は慎重國家の爲めに考慮し、大政の奉還を爲した、即ち徳川慶喜が自ら幕府を亡ぼしたのである。薩人や長人や土肥人や、又は公卿等が、外部より亡ぼしたるものではなかつた。
 明治元年三月に至り、徳川慶喜の降服したりし事は、幕府の滅亡とは無関係である。慕府亡びて後ちの一出來事に過ぎない。徳川氏の降服は、一勢力の失墜であり、政治上の一大事實にせよ、幕府の滅亡と云ふ一大事實に比すれば小事件である。
 八百萬石の徳川氏が、其の祿を減ぜられたからとて、其れが「維新」にあらざる事は云ふ迄もなし。維新とは、層一層重き事柄である。
 慶應末期の時代に於て、權謀術數行はれ其挑發せるに因つて生じたる内亂はあつた。併し乍ら、内亂は全人民の爲めに忌むべき事件である。尊むべき維新とは、比較にもならぬ不吉事である。江戸城引渡は勿論降伏にして維新にあらず。
 然らば「明冷維新」と俗人の呼ぶのは、何を内容とするのであらうか。慶應維新と云ふならば其の意味は、詢に明白であるのを見る。「維新とは何んぞ」を、俗説より離れて科學的に明かにする事は、今日の史家として必要の事である。然らざれば、維新史に權威失はるべし。史家の嚴正なる論議を要求する。

  16-18頁
  () (目次)

 鎖國を國是となせる幕府の行へる開國は、日本國民の爲めに行へる一大變革であつた。此開國に反對したりし人々は、日本國民の利福を顧みざる人々と云へる。「攘夷」とは、排外の主張にして、國家を危殆に置かんとする自亡思想であつた。明治元年以來攘夷論の棄てゝ顧みられざりしことが、攘夷論者の口是腹非なりしを證據立てる。幕府の外交政策正しと彼等は裏書せる也、幕府の爲せる所は正しかつた。併し乍ら時代の必要上、幕府の政洽を以て、國政を統理するは不可也とした。維新は即ち生じた。之れ時代の要求であつた。慶喜が之れを觀破し、之れを斷行したりしは、正しい行爲であつて、維新第一の功臣は、慶喜也と云ふを理論上正しとする。
 維新の功臣と、維新以後の政變に乗じて、夫々政權を掌握せる人々とは、明かに區別して見るを至當とする。
 攘夷論者は、今日の國民より静觀せば何等賞讃の價値なし。攘夷論者を過賞するは、今日の人として見れば、理論として允されず、 幕府亡びて後ちに、計策陰謀を廻し、全然正を持したる一徳川方に挑戰し、亡びたる後ちの徳川氏を撃ち、之れを「討幕」と云ふは、理論の允さざる所である。
 從来の歴史によれば、反幕の人々等は、明治の初年其の武力を以て幕府を亡し、茲に維新囘天の大業を成したるが如くに説かれるつゝある。之れ歴史にあらずして、一箇の稗史である。最早今日は、勝者本位の宣傅は改められて然る可き時代である。然らざれば史學に權威なし。

  18-18頁
  () (目次)

 維新とは、王政復古の事を云ふのである。繼續せる亂闘や、諸事紛糾を云ふのではない。
 政治の改革を指して云ふのでもない。夫れであるから、「昭和維新」などゝ云ふ事があらう筈がなく、維新の濫用は、愼むのが日本人として道徳である。憲法既に定まり、萬世一系の天皇日本を統治し給ふ。維新は、慶應三年十月十五日にありて其以後永遠になし。

 18-19頁
  「慶應」は何時「明治」と改められし乎 (目次)

 慶應は古く、明治は新しと、今の日本人は概念しつゝある、恰も二者は繼續せざるものかの如く考へ、明治とは特に畫期的の新しき歳月也と考へられつゝある、併し乍ら、明治は元年正月より始つたものではなく、慶應三年の王政維新に續き、慶應四年九月八日に至り明治と改元せられたのである、即ち既に、江戸は東京と改稱せられたる後である、此月會津も亦降服したのであつた。
 此の明治元年の九月以後に於て、王政の維新ありし事賓なし。即ち「明治維新」と云ふは、事實と合せざるは明白である。年代的に云ふならば、「慶應の維新」であり、政治の改革を本體を基として云ふならば、「明治時代の改革」と云ふべきである。

 19-25頁
  事實と事理無親の幕末史論

 ((目次)

 徳川幕府は、大政奉還を爲して、自ら消滅した、之れ事實である。然るに世上には、此事實を無視して、徳川幕府は、若干の雄藩によりて倒されたなぞと、誠しやかに記載して、我國民に示して居る人が非常に多い、十中十皆な斯る説明を爲す。歴史とは、斯くも事實と異れる事を、全國民に傅へるものであらう乎、其れならば、歴史などは信ずるに足らないと云ふことになるであらう。
 薩州の藩論は、慶應三年十一月に入りて、初めて統一せられたとの事は、過る御大典の折、贈位の光榮を得られたる谷村家の先代の古文書發表に依り新に證明せられた。即ち該藩論の反徳川的統一は、大政奉還後の事であり、既に幕府の消え失せたる後に於て「反徳川」の旗幟明白となつたのである。然るに世上には薩摩藩の武力を以て、幕府を倒したと説明する人が、仲々に多い。
 鳥羽伏見の戰は、慶應四年一月、初めには山内容堂の云へる如くに、私闘として生じ、而して一徳川慶喜が大阪より引き上げ江戸に於て降参したのは、同年三月の事である。確かに 之れ事實ある。併し乍ら、其等の事實は、幕府既に亡び去り、光輝ある王政復古して後ちの事件である。即ち維新成れる後の事なのである。歴史とは事實を正しく記するものであるならば、斯く云ふのが正當であり、慶應四年九月(即ち明治元年)に至り、王政維新が行はれし如くに説くは、事實に合しないのである。年代から云へば、慶應時の王政維新であり、明治の維新ではない。然らば、「明治維新」と云ふ俗人の稱呼は、理論としては適當でない。歴史は年代を無視しては、價値失はるべきことは云ふ迄もなかるべし。少年倶樂部新年號附錄「國史唱歌大繪卷」と云ふものが出たが、中村孝也博士初め大家の校閲を特記してある。之れに依ると、「王政復古」と「明治維新」とを別に掲げてある。今日の少年は、之れを如何ように理解する事であらう。此書に依れば、明治維新と云ふのは癈藩置縣や學制や徴兵令の發布の成りし事を云ふのであろが、其れでは、明治四年五年と云つた遥かに後の事を無期的に云ふのであり、明治元年の事態を云ふのでもない事になる。斯くては、時代も全然判明せす、事の内容も判然たり得ない、唯だ漫然と數年の久しきに亘りての諸政の變革を指して、王政維新と云ふに過ぎない事になる。其れには「革新」と云ふ方が適富なるべく、王政維新と呼ぶのは、用字として適富でない。政治の新になり行くのは、いつの代にも常にあらざる可らざることであるが故に、此の「新しくなる事」を王政維新と云ふたらば、維新は永久性のことであり、特に明治維新と制限するのは、之れも亦當を得ないことになる。歴史家は、日本歴史を諭ずるのに、的確判明なる言明を爲すべし、然らざれは史に對する國民の觀念は緩慢になり、終には不信に陥るのを憂ふる。

 ((目次)

 小學校の歴史讀本なぞにも、幕府の既に消へ失せし後に於て、尚ほ幕府の存在ある如くに書いてあるものが澤山ある。幕府の既に亡びたる後には、老中若年寄奉行目附と云つたような、幕府固有の國政上の役目は、法律上存在しない筈である。其れにも拘はらず、「老中誰々」なぞと歴史の本に記してあるなぞは、法理を無硯した俗見である。慶喜が大政を奉還した以上は、幕府存せず、舊幕府の當局もなく、役人に付て、慶喜には其の任免權もない筈である。慶應四年に至り、勝安房を以て、「陸軍総裁」に任じたなぞと云つた所で、其れは國法上には無効の役名である。慶喜が、江戸城會議の折、小栗の直言に怖れて、「即座に小栗上野介の官を免じた」なぞと書く人があるけれども、任免の權は既になく、官其者が既に有数のものではないのである。此點は、歴史として、明白に國民に傳ふ可きものである。慶喜が大政を奉還して、自ら七百年存續の幕府を亡ぼして後には、舊大名中、禮節を重んじたる人々は、徳川氏と同列たるを武士の徳義に背くとなして、自ら倍臣の列に入らん事を願い出たものもあつた程であつた。幕府ありて大名旗本あり、其下に倍臣ある也、之れ國家制度であつた。幕府亡ぶれば、大名と云ふ制度も亡ぶ可きなり、大名と同格なる旗本も消滅すべきである。變じて大名は「諸侯」となつた、大義名分として斯くあるべく、理論上斯くなくてはならない。

 ((目次)

 戰爭には、敗敵を追撃して、之れを全滅せしむるを必要とする。政爭にも之れが行はれる、夫故に明治の初年には、何事でも、舊幕府の事を「非也悪也」と宣傳して、之れが全滅を策したりしは、權略家の仕事として當然であつた。其の故に、徳川幕府方には、凡骨のみ居り、反對側には、不出世の大英雄雲の如く輩出せし如くに、誇大に宜傅せられたのであつた。臀馬に乘つて偏隅から飛び出し來りし當年の凡骨でも、一かどの人才の如くに賞揚せられたものであつた。俗世界の俗人の爲す事は、斯くあるべものである。併し乍ら、今日となりては、正しい史實得る事が、國民の爲めに大切なのである。之れ科學の爲めに望ましく、之れ正義の爲めに望ましいのである。其の間に一點の私怨或は私利なぞを混へてはならない、幕末史を論ずる人に向つて、此の公明の心ある事を要求する。余は史家でないこと申す迄もないが、唯余の希ふ所は、史實の正しからん事である。由來俗見的弄筆者世に横行し、良心を曲げてさへも、當時の權威者勝利者に阿附し、率直に當年の事實を述ぶる事を敢でしなかつた卑劣な憾がある。虐げられたる人には亦勇氣なく、敢然として所信を公表するの正義心を缺いて居つた失がある。之れを匡す事が、今日に於て特に正義者の義務也とする。
 幕末に三人の名政治家ありしことを知る人は知るべし、岩瀬、水野、小栗の三政治家であるが、各々當年無比の名政治家であつた。何れが第一位と定めるのは甚だしく無理である、少しく時代も違い、仕事も異なるからである。唯だ外交、軍事、財政、經濟に亘りて、質と量と多く仕事を爲せるものは、小栗也と云へる。某評論家あり、「岩瀬を首となす」と云はれたに對して余の不同意なるは、其の爲である。但し岩瀬と小栗とは、時代が違ふが故に、岩瀬時代には、岩瀬が第一人者也と云ふならば至當である此三氏は、世の所謂不出世の英雄岩倉とか大久保とかよりも、政治が遥かに先きに好く分つて居た傑物でもあり、政治家としては、此等の連中なぞよりズツト上手に相違ないと思はるゝが、此三人以外にも舊幕府方には、世界を早く知れる、賢明の人物は居つた、決して凡骨ばかりではなかつた。

 25-27頁
  慶喜西京を去り大阪に至る折の上奏文 (目次)

 慶喜は、至誠を以て、獨斷大政を奉還せしに拘はらず、其の上奏の誠意行はれず、「協心同力」の願は妨げられ、薩長其他の數藩主と、討幕を唱へたりし一味徒黨のみを以て、恣に政治を左右し、不公正にも、慶喜のみの封祿を奪ふの決議となりしより、「彼は不平にして、西京を去り、大阪に滯留するに至りし」と傅へられて居る、通俗的の書物には斯く記してある。
 此の折に、慶喜の上奏せし文は如何樣のものであつた乎。

 「防長御取置の儀に付、向々へ御尋の上、叡慮の通被仰出、異議申立候も無之筋に候得共、萬一異存の輩も有之、騒動に候儀も候はゞ、御幼君にも披爲在候折柄、自然右樣の儀有之候候はゞ、御警動は勿論、皇位も如何可被爲成哉と、深く被悩叡慮候御次第にて、鎭撫説得の力を盡し候樣、御沙汰之趣奉畏、其後宮閥戒装を以て御固之上、非常之御變革被仰出候に付ては、別て鎭撫方深痛心仕り、兼々諸役人初め、今日迄は精々相諭し置侯得共、何分多人數之鎭撫方、深心配仕候、乍不肖誠意を以て、尊王の道、心を盡し罷在侯も、徒に下輩の粗忽等より、水泡に屬候樣相成候ては、此上深奉恐入候儀に付、右人心折合候迄、暫時大阪表へ罷越申候、右は全く末々のもの鎭撫いたし、禁閥の下、御安心の御場合に仕度迄の儀に御座候間、微衷の程、御諒察被成下度候、尤伺濟の上出立可仕能儀には候得共、彼是手間取候内、萬々一輕輩の過誤より、國家の御大事を率出侯ては、却て奉恐入候に付。直樣出發仕候儀に御座候、依で此段申上置候以上
   十二月十二日

 以上は、余の家に保存しつゝある古文書に依れるものであるが、之れに由つて觀れば、慶喜は不平を懐いて、酉京を去つたのではなくして、騒亂を恐れて、周章てゝ大阪に去つたのであることが判明する。朝廷に對して反逆する意思なぞは、毫頭も無りし事は、明々白々である。反逆の意思も行爲も全くなかりし人たりし也。

 27-31頁
  薩長土肥四藩主の藩籍奉還の建白書と其の内容檢討 (目次)

 明治二年正月廿日附を以て、毛利鳥津鍋島山内の四藩主は、藩籍奉還の独自を爲した。其の文は左に掲ぐるが如くである、其の内容を注視すべし。
 若しも、慶應三年十一月の小御所會議の際に、此の価りの公正なる行動を、此等四藩主が、慶喜及松平容保及其他と共に、爲したならば、鳥羽伏見の内亂も生ぜず、慶喜の見苦しき降參もなく、東北二十餘藩の悲惨なる爭亂も起らず、數千數萬の民を殺すこともなく數千萬圓の國帑を費すこともなく、日本人の貧乏することもなく、都會及地方人の辱を受けることもなかつたこと、照々として明かである、山内氏一人は別とし.他の人々の爲せる所は、今日の日本國民より、是を嚴正に批判すれば、斷じて穩健公正のものではなかつたと云へる。
 若しも、又此通りに行はれたならば、明治十年迄の諸地方の内亂も生じ得なかつたこと確實であらう、蓋し公正ある所に變亂は生ずる筈がないからである。西鄕の亂は、「君側の奸を清む」との一大不平より生じたりしこと、史實の證明する所である。

       建 白 書 (目次)

「臣某噸首々々謹デ案ズルニ、朝廷一日モ失フ可ラザル者、大體ナリ、一日モ假ス可ラザル者ハ大權ナリ。
天祖肇テ國ヲ開キ、基ヲ建玉ヒシヨリ、皇統一系萬世無窮普天率土、其者ニ非ザルハナナク、其臣ニアラザルハナシ、是大體トス且與へ且奪ヒ、爵祿以テ下ヲ維持シ、尺土モ私ニ有スル事能ハズ、一民モ私ニ攘ムコト能ハズ、是大權トス、在昔、朝廷海内ヲ䋆䋆スル一ニコレニヨリ聖躬コレヲ親ス、故ニ實並立テ天下無辜ナリ、中葉以降、綱維一タビ權ヲ弄シ柄ヲ爭フモノ、踵ヲ朝廷ニ接シ、其民ヲ私シ、其土ヲ竊モノ、天下ニ半シ、遂ニ搏噬攘奪ノ勢成ル、而シテ、朝廷ヲ守ル所ノ體ナク、乘ル所ノ權ナクシテ、コリヲ制御スル事能ハズ、姦雄迭ニ乘ル、弱ノ肉ハ強ノ食トナリ、其大ナル者ハ十數州ヲ併セ、其小ナル者猶士ヲ養フ㕝數千、終ニ所謂幕府ナル者ノ如キ起リ、土地人民檀リニ其私スル所ニ頒チ、以テ其執權ヲ扶植ス、是ニ於テ乎、朝廷徒ニ虚器ヲ擁シ、其視息ヲ窺テ喜戚ヲナスニ至ル、横流ノ極、滔天囘ラザルモノ、茲ニ六百餘年然レドモ其間往々、天子名爵ヲ假テ 其土地人民ヲ私スル跡ヲ蔽フ、是君臣ノ大義上下ノ名分萬古不抜ノモノ、固ヨリアルニ由ルナリ、方今大政新ニ復シ、萬機ゴンヲ親ラス.實ニ千歳ノ一機、其名アリテ其實ナカル可ラズ、其實ヲ擧ルニハ、大義ヲ明ニシ、名分ヲ正スヨリ先ナルハナシ、嚮ニ徳川氏ノ起ル、古家舊族天下ニ半バス、ヨリテ家ヲ興スモノ亦多シ、而シテ其土地人民、コレヲ朝廷ニ受ルト否トヲ問ハズ、因襲ノ久シキ、以テ今日ニ至ル、世或ハ謂ラク、是祖先鋒鏑ノ經如スル所ト、呼何ソ兵ヲ擁シテ嫉視シ、官庫ニ入リ、其貨ヒ、是死ヲ犯シ、獲ル所ノモノト云フニランヤ、庫ニ入ルモノハ、人其賊タルヲ知ル、土地人民ヲ攘奪スルニ至リテハ、天下是ヲ怪マズ甚カナ、名義ノ紊壞スル事、今ヤ丕新、治ヲ求ル宜シク大體ノ在ル所、大權ノ繋ル所、些モ假スベカラズ、抑臣等居ル所ハ、即天子ノ土、臣等牧スル所ハ、即チ天子ノ民ナリ、安ソ私有スベケンヤ、今謹デ其版籍ヲ収メ、ゴレヲ上ル、頴クハ、朝廷其宜ニ處シ、其與フベキハ、是ヲ與ヘ、其奪フベキハ、コレヲ奪ヒ、凡列藩ノ封土、更ニ宜シク詔命ヲ下シ、コレヲ定ムベシ、而シテ制ニ至ルマデ、悉ク 朝廷ヨリ出デ、天下ノ事大小トナク、皆一ニ歸セシムベシ、然後名實相得、始テ海外各國卜並立スベシ是 朝廷今日ノ急務、而シテ又臣子ノ責ナリ、故ニ臣等不肖謭劣ヲ顧ミズ、敢テ鄙衷ヲ献ズ、天日ノ明、幸ニ照監ヲ垂レ賜ヘ、臣某誠惶頓首再拜味死以表。
 明治ニ年巳正月廿日

                    毛利宰相中將
                    鳥津  少將
                    鍋鳥  少將
                    山内  少將
 以上の四藩主の捧呈せる文面に依るときは、四藩主は藩籍は一慶奉還すれども、更めて賜はるべきは陽はり度と云ふにある、封建癈止の考慮は、秋毫もなかりし事を明にして居る。此等の藩主及其の藩の人々としては、幕府なき後に於ける郡縣制度の事なぞは、全く思も及ばぬ事であつたことを明白に談る。天皇親政の大義を、彼等は即時實現の至誠がなかつたと見へる。然らば、封建を癈止して郡縣となすべしとの主張は、即ち時代を達觀したる此の革新的理想は、唯だ獨り徳川方の當路者、小栗上野介のみ初めて唱へたる所なる事がが判明する。今日の國民は、公正無私、以て當年の史實に對して、澄明の判斷を下すを要する。

 31-33頁
  公卿の攘夷論と其の世界事情の不知 (目次)

 公卿の中には、極端に外人を嫌悪し、彼等を以て「神州を穢す夷人也」と輕侮しかものもあつた。西京以外には殆んど出でし事なき公卿と稱する所謂堂上人が、歐米人の如何ななるものなるかを知らざりしも無理もなき事であつた。從つて彼等の唱へたる攘夷論は、唯だ狭き感情論であり、根據なき自尊心であり、其れが國家國民の上に如何なる影響あるかなぞは、毫も考へ及ばなかつたものであらう。他の言を以てせば、其れが純眞だとしても無鐵砲なる輕卒の言と云ふべきである。反幕の政治家が、此等の感情的輕卒者を用用したのも權略政治家としては、當然の方式であつたであらう。
 當時物の判つた人と云はれたる東坊城氏に付ても左の如き事實がある。世の一部人に知ちれたる事實であるが故に、御氣の毒ではあるけれども、茲に借用して、當時の事情の照明とする。

  左内全集抄 (目次)

 安政五年四月頃水野築後守慶永公への密書の内
前略、東坊城は折悪敷き時に大阪商人に、金五百圓の返金有之候に付賄賂の説起り候よし、尤此人外國の事など、能辨られ候と申事を、林、津田など申候處、始の時に候哉、岩瀬へ尋に「切支丹と申す國は、當時いづれへ屬候哉」など、被申侯よし、されば西洋の事を存候など申には無之、只關東に御任せ置可然との思込迄と被存候所、退殊に相成殘念なる事に御座候…………後略

 33-38頁
  攘夷論者は天下を欺ける乎否乎 (目次)

 左に掲ぐるは、昭和二年五月の「國本」に於て、望月茂氏の公にせられたる論文である。
 此の文によれば、攘夷論の首領たる水戸藩主や三條實美や、澤の如きは、口頭と肚裏と異れる事を云ひつゝあつた人である如くに見へる 攘夷論の爲めに、全國民の蒙りたる禍害は甚大である。徒等は人民に禍することを敢てしたのであらうか、之れ國民の味方にあらず、國民としては、此等史上の人に對して、其の功罪を追求せざる能はず。
 幕府とは、「御委任厚かりし政府」(慶應三年十月十五日の御沙汰書に依る)である。此の正當の政府を什すが爲めに、政爭上に外交問題を利用し、補弼の至誠を盡さずして、攘夷をを説き、天皇の御心を悩し、國の生存を危ふし、人民を苦しめ、國民に禍したる事が、日本人の行爲として、果して賞揚せられ得るものであらう乎、今の日本人は正判を下すを要する。
 大名や公卿やが、經驗も少く修養も乏く、世事を理解せす、世界を知らざりしは當然である。若しも彼等が初めから不可能と信じつゝありしも、彼等が其の我執を押し通さんとし、又は政爭に勝たんとしたものであるならば、彼等長袖は、眞に國民の爲めに有害無益の人であつたと云はざるを得ない。
 余は、彼等は、初めは心に信じて後には不可能を悟るに至りしものたるを信ぜざるを得ない。彼等は定見を有せざりし也。世界の事情を彼等は知らざりし也。

  「攘夷論の解剖」と題する望月氏の論文の一節 (目次)

 ここで注意せねばならぬのは、攘夷諭者が、果して攘夷の可能を信じて居たか何うかの問題である。松平春嶽の『逸事史補』によると、攘夷家巾中の攘夷家と目せられる水戸烈公にしても、攘夷不可能を認めて居た 即ち眞正なる攘夷家には非ずと稱して居る。
 「水戸烈公齊昭公は、頗る世上に攘夷の名あつて.幕府にても、水戸でも.どこでも、皆攘夷家と稱せり、余偶然、公に問ふ、方今外國頻りに渡來せりとても、攘夷は出來ぬことゝ存候.外國交際開ければ、今の世は六ヶ敷と存候旨申候、烈公實は私も左樣に存居候故、鐵砲を鑄造し、舟など朝日丸を造り、往々は外國へ我舟を遣はし、交易するやう可相成候、春嶽殿抔は御若年故、其景況をも御承知可相成候、又就夫御藎力をも被成候がよろしく候、私抔は老年に相成候間、攘夷は私の株故、終身相止め不申、其儘死迄も攘夷家にて相濟候心得なりと話されたり、是にて烈公の矢張攘夷家にあらざることしるべし。」
 攘夷の強硬なる主張者である三條公の如きも、必ずしも、攘夷論者でないことは、太宰府國幽閉中、五卿に奉仕したる尾崎三良男の談話でも想像し得られる。
 『一日、條公に申上げた、唯是迄は、一圖に攘夷々々というて居りましたが、所詮今日のやうなことでは行けますまい、到底彼を知り、己を知り、然る後交るなり、無禮をすれば打拂ふなりしなければならぬ。唯頭まで外國だから打拂ふといふことは宜しくない、叉出來もしない、どうせ、此後交らなくちや本統のことは出來まいと思ひます、交らぬで彼の事を何も知らないで、交際をすれば、始終彼にしてやられる。此處では外国の事情を知ることが必要であると思ひますが、如何でムりませうかと申上げた。隨分其頃は、攘夷の盛んな時でありますから、さういふことを云ふことは、隨分忌むのであります、水戸の藩士などは、その頃そんなととを云ふたならば.直ぐ頭までも破つて了ふ、羅紗の莨入を持つて居れば、直ぐに引裂いて了ふといふ頃でありました。處が、條公も、イヤ私もさう思つて居る。今これを公然といふことは出來ぬから、貴樣何か考があるならば、貴樣の考でやつて見れ、それならば今幸ひ間隙でありますから、長崎へ行つて來ませう。長崎へ行つたところが、何程も事情は分りますまいが、先づ長崎へゆき、多少西洋人と交際をして見たならば、他日廟議の爲になることは、随分あらうと思ひますから、暫く卯暇を願ひたい、そんなら行つて來いといふことで、私は長崎へ行きました、昔の人は、皆攘夷々々と思つてゐた處が、三條公に於ては、其頃は最早開國でなくてはいけないといふことは、十分に覺しておられた』(吏話速記碌第七十七輯)
 然らば、澤卿は如何に。澤卿は、最も頑固なる攘夷論者の如く傅へられて居るが、長崎亡命中、夙く外遊の計畫を立てゝ居る。卿の眞の意圖が那邊にあつたかは、此の一事によつて推測られる。
 即ち丙寅の秋、卿が作るところの『醉唫』の長詩中末句に曰うて居る。  成敗在天吾何恚。大鵬一翥九萬里。余時有洋行之志。而不能遂。有恩詔還京再拜天日。爾來齷齪。未能報天恩萬分之一。
 卿も亦、條公と感を同じうしてゐたに相違ない。
 要之、行はれざるを知つて、幕府に攘夷を迫つたのは、攘夷を倒幕の手段に用いたるものにして、攘夷即倒幕を意味して居ると解して差支へない。
 勅使大原重徳の東下を迎へた際、『大原重徳卿日々とはなけれども折々登城、頻りに攘夷の勅語を被演、是には殆困却苦痛申迄も無之』と、松平春嶽も窘窮の状態をを述べて居る。
 勿論、草葬の軽輩に至つては、純正なる攘夷論をふりかざして、驀地に攘夷を斷行せんと意圖したるものありと雖、それさへ、多少の討幕的政略が含まれて於ると見ねばなるまい。』

註:澤宣嘉

 38-41頁
  維新後の崇夷外交への激變 (目次)

 慶應四年迄は、「攘夷」を以て其の政治上の旗幟となしたりし反幕鳶黨の一味は、明治に入りては、其の旗幟を忽に引き込め、「崇夷」と早變りした、君子豹變の意乎、將た世を欺けるか。
 薩、長、土、肥、越、藝の六藩主は、朝廷に建白し、外國使臣を朝廷に出入せしむるの要を唱へた。政治家に一貫の主義なぞある筈なしと云つた風であつた。政治家は果して、左樣な輕卒なもので可然であらう乎。今日の國民は之を如何に觀るや。
 政府は明治二年二月十七日を以て、『先般外國御交際之儀、叡慮之旨被仰出候に付ては、萬國普遍之次第を以て、各國公使等御取扱被爲仕候、中略、各國公使急に参朝被仰付候に付、此段可相達被仰出候事。』と全國に布告した。
 日本と外國との交際は、舊幕府の爲せる通りに、引續き行はれる事となつたのである。二月二十八日京都に於て、英佛蘭三國の公使は、天皇に拝謁する事になつた。江戸城中に外人を入れたりしが爲めに、攘夷黨の憤激せし事は、いつ早く全く忘れられた。
 佛國公使と英国領事とは、定刻参内した。英のパークス即ち薩長人の爲めに大いに盡したりし此の英人は、途中三條畷に於て、二名の刺客に襲はれた。尾州藩以下若干の藩士は此の一行を護衛したが、此の折、中井弘は、先驅騎兵隊の司令であつた所、彼は刺客に對して馬より飛び下りて奮闘し、微傷を負はされた。此時、土佐の後藤象次郎は、其刀を抜いて刺客の一人に斬りつけ、之れを殺害した。他の刺客の一人は、多衆に切り附けられ、重傷を負ひ其場に捕へられた。即死せるものは、十津川の浪人、井田直堅であり、捕へられたるは、大阪上蓮寺の舊僧侶三枝蓊であつた。此時中井は、故更に死せる直堅の首を斬り落し、高く捧げて、パークスに之を示し、パークスの御機嫌をとつた。パークスは「多謝々々」と云つたと傅へられて居る。昨日迄の攘夷黨の人々に政治家としての主義良心ありやと、パークスは其の心中に定めて疑つたことであらう。責任政治は、英人の主義良心也。
 パークスは少しも傷かず、然れども、此事ありしが爲めに、憤然参内せずして、旅館知恩院に引き返した。徳大寺、松平、東久世、伊達、鍋島の當時の大官は、勅使として、打ち揃ふて急ぎパークスを訪ひ、謹んでパークスを慰問した。
 此折パークスは、此の慰問を以て満足せずとして、流石に英國流の外交家である所から對策巧妙、日本國としての陳謝は、「公文書を以てす可きこと」、「刺客は切腹にては不充分也とし、斬罪に處すべく」且つ「日本政府として國内に其の罪條を布告せらるべき事」を以てした。之れ攘夷一蹴の外交政策である。
 時の政府は之れに服從した、政府は翌日三枝蓊の士籍を剝ぎ、斬罪に處し、加之之れを梟首し、之れに宣告文を附した、之れ甚しき極刑と云ふべきである、謀殺未遂且政治犯人たる人に對して、斯る殘虐を爲せるは、眞に制裁として過重背理であつた。政府は此の宣告文の寫を添へて、公文書を以て、パークスに陳謝した。如何に辯護せんとするも能はず之れ甚しき屈辱外交也と云ふべきである。舊幕府の時代に果して斯る屈辱外交があつたであらう乎、今日の日本人としては、對照研究必要である。奮幕府時代に於ては、清水徳次なるもの、英和二國人を斬りしが爲めに、捕へられ横濱にて梟首に處せられたる事件唯だ一ありしりみである。外人を少しも傷けもせざる政治犯たる日本人を梟首したるは、明治二年の此の事件以外には、無いであらう。
 當時三條、岩倉、酉郷、大久保、木戸、其他毛利藩や水戸藩の人々は、如何に考へつゝあつたであらう乎。
 彼等は、其の目的とせる政權を得て、忽如、其の態度を豹變したこと斯の如し。

 41-45頁
 一〇 雲井龍雄の諸藩に飛せる檄文 (目次)

 大正十五年十二月の「國本」に、「血性の大文章」として、石川諒一氏の作に係る、雲井龍雄の檄文が掲げられてある、當時の西軍は之れを見て憤怒したであらうと同時に、當時の東北人も亦定めし憤激したことであらう。今日の日本人としては、自由に其の當否曲直を批判して然るべきである。其の檄文と石川氏の感慨とを借りて、之れを今の日本人に傳へる。左の如し。

 『初め薩長の幕府と相軋るや、外國と和親開港するを以て、其罪となし、己れ專らら尊王攘夷の説を主張し、遂に之を假つて天眷を僥倖す。天幕の間に、之が爲に紛紜内訌、列藩動揺、兵亂相踵ぐ。然るに己れ朝政を專斷するを得るに及んで、飜然局を變じ、百方外國に諂諛し、遂に英佛の公使をして、紫宸に参朝せしむるに至る。先日は公使の江戸に入るを譏つて幕府の大罪とし、今日は公使の禁閥に上るを悦んで盛典とす。何ぞ其れ前後相反するや。因是是、其十有餘年、尊王攘夷を主張せし衷情は、唯幕府を傾け、邪謀を濟さんと欲するに在ること、昭々可知。薩賊多年譎詐萬端、上は天幕を暴蔑し、下は列侯を欺罔し、内は百姓の怨嗟を致し、外は萬國の笑侮を取る。其罪、何ぞ問はざるを得んや。
 皇朝陵夷極まると雖も、其制度典章、斐然として是れ備はる。古今の沿革有りと雖も、其損益する處可知也。然るを、薩賊尊權以來、叨に大活眼大活法と號して、列聖の徽猷嘉謀を任意廢絶し、朝變夕革、遂に皇國の制度文章をして、蕩然地を掃ふに至らしむ。其罪、何ぞ問はざるを得んや。
 薩賊、擅に攝家華族を擯斥し、皇子公卿を奴僕視し、猥に諸州群不逞の徒、己れに阿附する者を抜て、是をして青を紆ひ、紫を施かしむ。綱紀錯亂、下凌ぎ上替る、今日より甚しきは無し。其罪、何ぞ問はざるを得んや。
 伏水の事、元暗昧、私闘と公戰と孰直孰曲とを不可辨、苟も王者の師を興さんと欲せば、須く天下と共に其公論を定め、罪案已に決して、然る後徐ろに之を討ずべし。然るを倉卒の際、俄に錦旗を動かして、遂に幕府を朝敵に陥れ、列藩を劫迫して征東の兵を調發す。是れ王命を矯めて私怨を報ずる所以の姦謀也。其罪、何ぞ問はざるを得んや。
 薩賊の兵、東下以來、所過の地、侵掠せざることなく、所見の財、剽竊せざることなく、或は人の鶏牛を攘み、或は人の婦女に淫し、發掘殺戮、殘酷極る其醜穢、狗鼠も其餘を不食、猶且靦然として官軍の名號を假り、太政官の規則と稱す。是今上陛下をして桀紂の名を負はしむる者也。其罪、何ぞ問はざるを得んや。
 井伊・藤堂・榊原・本多等は、徳川氏の勲臣なり。臣をして其君を伐たしむ。尾張越前は、徳川の親族なり。族をして其宗を伐たしむ。因州は前内府の兄なり。兄をして其弟を伐たしむ。備前は前内府の弟なり。弟をして其兄を伐たしむ。小笠原佐渡守は壹守の父なり、父をして其子を伐たしむ。猶且強て名義を飾つて曰く、普天之下莫非王土、率土之濱莫非王臣。嗚呼薩賊、五倫を滅し、三綱を歝り、今上陛下の初政をして保平の板蕩に超えしむ。其罪、何ぞ問はざるを得んや。
 右の諸件に因て觀之ば薩賊の所爲、幼帝を劫制して其邪を濟し、以て天下を欺くは莽・操・卓・懿に勝り、貪殘無厭、所至殘暴を極むるは、黄巾赤眉に過ぎ、天倫を破壊し、舊章を滅絶するは、秦政宋偃を超ゆ。我列藩、之を座視するに不忍、再三再四、京師に上奏して、萬民愁苦、列藩證冤せらるゝの狀を血陳すと雖も、雲霧擁蔽、遂に天閥に達するに由なし。若し、唾手以て之を誅鋤せずんば、天下何に由てか再び青天白日を見ることを得んや。
 是於、敢て成敗利鈍を不問、奮つて此義擧を唱ふ。凡四方の諸藩、貫日の忠、囘天の誠を同うする者あらば、庶幾は、我列藩の不逮を助け、皇國の爲に共に誓つて此賊を屠り、以て既に滅するの五倫を興し、既に歝るゝの三綱を振ひ、上は汚朝を一洗し、下は頽俗を一新し、内は百姓の塗炭を救ひ、外は萬国の笑侮を絶ち、以て列聖在天の靈を慰め奉るべし。若尚賊の籠絡中に在て名分大義を不能辨、或は首鼠の兩端を抱き、或は助姦黨邪の徒あるに於ては、軍有定律、不敢赦、凡天下の諸藩、庶幾は勇斷する所を知るべし。』

 讀む者をして猶劍を抜いて舞はしめんとするものがあるではないか。龍雄が『京に逗つて小越某の郷に歸るを送る』詩中に『馬を下つて檄を草し馬に上つて戰ふ。此事平生我が戀ふ所。男兒志を立つる豈尋常ならんや。唯だ須らく龍驤して虎變すべし。云々』の句があるが、その『馬を下つて檄を草し、馬に上つて戰ふ』といふもの、眞に君自らの謂ひであつた。また時山に與へた書にも薩摩の權謀を論じて、やゝもすれば長州がその傀儡に終るの恐れがあるから、早く之と斷つべきを述べたが、権謀術数に於て、長州は固より薩摩に比して劣るべきものではなく、薩長の聯合は當時東北志士の思ふところよりも、遥かに固く結ばれてあつた。それに時山はこれに先だつ數日前旭山の戰ひ敗れて既に討死してゐたので、龍雄の此の計畫は終に施すに由無く、眦を決して顧望すれば、雲低く迷ひ、風悲しく吹いて西軍の勢ひ日に益々加はり、奥羽の天地は將に文山が所謂『山河破碎して水は絮を漂はし、身世浮沈して風は萍を打つ』の光景を演出し來らんとするのであつた。(大正十五年十月二十四日朝脱稿。筆を投じて窓外を望めば、天高うして風急なり。落木蕭々として下る)

 46-52頁
 一一 倒幕論者の眞の目的は果して何なりし哉 (目次)

   (目次)

 討幕運動者は、累して何が目的であつたのであらうか。
 幕府既に自ら亡び去れる後には、幕府と云ふものなきは當然である、法規の上にも、幕府は廢止せられ、「總裁」「議定」「參與」が之れに代つたのである。形式實質共に慶應三年十月十五日を以て幕府全く亡び去つたのである。
 幕府既に無き後に、一箇の徳川氏を討つことは、「討幕」にあらざるは明白である、何人にも斯る錯覺あるべき筈なし。
 討幕運勘者は、實在せる幕府を討つべきである、幕府なき後の一箇の徳川を攻めるは、其の目的以外の事である。倒幕にあらず。事理明白也。

   (目次)

 幕府を討つの目的は、若しも神武の古へに復し、萬世一系の天皇の親政を再現する事にあるならば、討幕運動者は、幕府の仆れたると同時に、直ちに、封建制度廢止を進んで實現せしめなければならない。封建制度とは、國家の權力の分裂であり、地方に各々獨立の君主ありて、夫々の國家統治の權力を有し、國家の權力を、皇位其者に統一せしめない制度を云ふのである。其故に、封建制度を存續するに於ては、古への如くに、天皇親政の實現とはならない事、明白の理である。
 然るに明冶二年に至り、薩長土肥の四藩主のなせる「藩籍奉還の建自書」によれば、毫も封建制度廢止を主張するところなきこと前述の如くである。彼等は、形式を新にし、更めて權力の分配を、朝廷より得んと欲したるに過ぎないのである。此四藩主の下に、討幕運動者は無數に居つた、然らば當時彼等の目的とする所は、甚しく不徹底也と云ふべきである。彼等は、天皇親政の大義を立つるを心願となさず、或は理解しなかつたのである。我等國民は斯く評論せられざるを得ない。
 彼等の上奏せる所によれば痛く彼等は彼等の祖先を罵り、又七百年間封建制度の下に滿足せる全日本人を罵りて憚らないのである。七百年間、國民は不正罪悪を續行し來れりと論ずるのである。而して自己は依然として封建の地方君主として、權力を有しつゝ存在せんとするのである。今の日本人より見れ、何等其の主張に道徳上法律上景仰すべき點を見出し得ないのである。理論上斯く旨評せざるを得ない。

   (目次)

 討幕論者は、幕府が外國と條約を結び外交を開始したりしを痛く憤慨し、之を以て「神國を汚すも」と罵り、斯る卑屈の幕府は討たざる可らずと主張したのであつた。所謂志士の主張皆な之れ也。併し乍ら、此の攘夷は、維前後は、奇怪にも直ちに棄てられて、幕府時代に見られざりし外人崇拝と豹變したのであり、彼等一味の討幕を理由とせる主張は、彼等自ら裏ら切つたのであつた。彼等の主張行動は一貫せず、責任感念乏しと一云ふべし。

   (目次)

 要するに、攘夷も討幕も、彼等の所謂志士により、何の爲めに、久しきに亘り口矢釜しく唱へられ、天下を騒し、國民を禍したのだかゞ今日となりては、明白なるを得ないと云はざるを得ない。國民は、一切に感情論を排斥し、自黨我を一掃し、空疎なる議論を一蹴し、冷静に、七十年前の日本の事情を討究し、是非を匡すを要する。

   (目次)

 慶應四年七月、輪王寺宮が、日本の内外に宜し給へる令旨には、「教化して萬國を理むるは明君の徳也、亂を撥して四海を鎭むるは武臣の節也、方今君側之奸臣等、廟堂に謀議し朝典を濫造し、殺伐を以て海内を擾亂するの所業、朝命に託すと雖、其實は、新天子之至誠に出でず云々」とあり、又諭告書には曰く、「嗟呼薩賊之懐ける兇悪は、漸く殘暴を恣にし、以て客冬に至り、幼主を欺罔し、廷臣を威脅し.先帝の遺訓に悸り云々」とある、此等は世上に知られたる史實である、何等の理由なくして、當時此等の令旨諭告が、天下萬民に發せられたるものにあらざるは云ふ迄もない。
 又徳川慶喜が、慶應四年正月朝廷に上げたる奏聞状には、
 「臣慶喜謹で去月九日以來の御事體を奉恐察候得共、一に朝廷の御眞意に無之、全く松平修理大夫奸臣共陰謀より出候は、天下の共に知る所、特に江戸長崎野州相州處々に亂妨劫盗に及び侯も、同家家來の唱導により、東西相應し、皇國を亂候所業、別紙の通にて、天人共に憎む所に御座候間」云々とある。慶喜は事實を偽り奏する筈がない。
 又雲井龍雄の東北諸藩に飛したる檄文によれば、「因是觀是、其十有餘年、尊王攘夷を主張せし衷情は、唯幕府を傾け、邪謀を濟さんと欲するにあること、昭々可知、薩賊多年 譎詐萬端、上は天幕を暴蔑し、下は列侯を欺罔し、内は百姓り怨嗟を致し、外は萬國の笑侮を取る、其罪何んぞ問はざるを得んや」云々とある。
 以上の史實は、日本國民としては、何分にも之を抹消するを得ない、此事たる日本に於ける一偶の些事にあらず、片僻の聲にあらず、國の内外に響いたる大なる不平の叫びであつた。
 凡そ[喧嘩は兩成敗也]と日本人は古來固く信ぜしめられつゝある。
 然らば、討幕の説は、俗人の説く所の如くに、一方にのみ至誠あるにあらず、一方にのみ眞理存在するにあるにあらす、畢竟するに、彼等討幕論者は政治家であり、政爭渦中の宜傳として、凡て自黨にのみ正理あるが如くに傳へられしものと推斷せざるを得ないであらう。人民より見れば、政爭は總て禍也。國民は永遠に公明正大の政治を要求せざる能はす。
 當時長藩人の念とせる所は、主として三百年前の深怨であつた、三百年來藩士は、其の足を江戸に向けて寝ねし事實(維新風雲祿(田中光顯著)にも現に書いてある)、によりて此事明白である。
 薩藩としては、斯る深怨なかりしも、頭目者西鄕の云ひし如くに、「天下取り」の爲めに舊幕府を仆さんとしたのである。
 岩倉の如きは、初は公武合體を諭し、後には討幕に變じ、時代推移の日和見であり、當初は奸物と云はれし程であり、一定に識見なく、唯だ權略家中の雄者と結びて、終りに天下取りに成功せし陰謀家也といふべきである。岩倉が代表人物である。
 土州藩に至りでは、大政奉還の申言者であり、勿論討幕ではない。幕府亡びて後に於ける其の活動は、云ふ迄もなく、討幕ではない。鍋鳥藩に至りては、幕府既に亡びて後ちに活動せしものと云ふべく、因州藩も、廣島藩も、同じようなものである。其他の諸藩に至りては皆な幕府亡びし後に於て他藩に流動せる連中に過ぎないのであり、討幕者と云ふ可きものではあるまい。

 52-53頁
 一二 ペルリ來航時代の古き文献 (目次)

 余の幼時の漢學の恩師、清田嘿先生は、維新前後の史實に付て、種々の教訓を余に與へられたる先覺者である。此文は明治二十六年に著はされたるものであり、余は當時に之れを先生より得、今日迄所蔵しつゝあつたが、參考の爲めに、茲に其の一部を再碌する。  同書の言例に曰く、「奏剳建言は、謹で下も上に告ぐる辭也、忠肝義膽、熱血の瀝く所、自ら山林江湖の言語と殊る也、然りと雖も、大奸は詐言を献し、亂を釀す、巨狷は虚言を呈し、利を釣る、宋呂誨云。大姦は忠に似たり、大詐は信に似たり、當世を欺も後世を欺く能はず、讀者知るべし」と、先生の意のある所は、右の言説に依りて察知し得る。
 巨大なる米船の初めて浦賀に渡來せるに對して、幕府當路のみならす、總ての日本人の驚駭したるは、寧ろ當然のみ。然るに、此の驚駭を嘲る文士今の世に在るに至つては、そは非常識か、故意の罵倒者也と云ふべきである。
 國の未曾有の一大事として、幕府が諸侯に其の方策を問ひし事は、御委任を得つゝある國の幕府としては、拙策であつた。併し乍ら、自我を棄てゝ寧ろ正直に國を憂へしものと見るのを同情的見解とすべし。云ふ迄もなく幕府よりも國は大切である。兎に角此の一事は幕府自滅の吊鐘の第一聲たるは明である。同時に國民外交の一先例と見ることも出來る。

註:本文54-76頁に記載される『勅教奏建 嘉永明治史鑑巻之一』は、「引用・参照・底本」欄の『嘉永明治史鑑:詔勅奏建』のPDFを参照。 (目次)

 77-81頁
 一三 ペルリ渡來に關し徳富氏の幕府嘲罵と其の不明 (目次)

 

 東京日々紙上に載せられたる「彼理來航及其當時」と題する徳富氏の史論は、余としては敬誦する事を得なかつた。論旨散漫其意徹底せず、阿部正弘を賞めるのだか罵るのだか理由が分らず、又當時の日本國民を以て曖昧不得要領となし、冷に嘲つた説であつた。吉例たる目出度日も陰雲閉し不快の感があつた。即ち一文を草して、其の事實に反する點と矛盾悖理とを指摘して、世の人に告げる。

 

 「鎖國は理において不可なるのみでなく、勢において不可だ、假令理に於て不可なる所以を理解せざるまでも、勢ひにおいて不可なる次第は、何れも皆承知の上であつた」と徳富氏は書かれて居る。
 若しも徳富氏の言の如くに、理に於て不可ならば、當時京都以西に横行したりし攘夷主張者等は、理を知らざる悖理非文明の人間であつたと云ふ結諭になる。それならば、何故に攘夷論者を指して、「天下の志士」なぞと賞めるのであるか、徳富氏としては、鎖國攘夷なぞを口にした一派は、如何に從來の俗人が辯護した所で、「總て道理の分らぬ人間」として率直に筆誅排斥せらるゝ責任がある。然らぎれば、同氏は矛盾諭客となり、御都合主義の論者であるとの譏りを免れ得まい。同氏の爲めに惜しむ、「勢において不可なる次第は、何れも皆承知の上であつた」と徳富氏は斷言せられる、「何れも皆な」とは、果して當時の史實に合した言であらうか、當時全國に蠢動したる公卿や世の所謂志士中の頑強なる攘夷綸者に對しては、徳富氏は眞骨頂の人にあらざりしと斷言せらるゝなるや。又勢ひにおいて不可なるを承知しつゝ、口の尖にて攘夷論を唱へたる人々は、當時の國民生活に災したる不逞の徒黨であり、口と腹との異つた民を欺ける策士として、大いに責むべきであるが、何故に、徳富氏は此の所謂「腹是口非」の斯る―派を大に責めないのであるか、國民史を論ずる化學的良心あるならば、國民の利害に關する事を本位とし公言直論するのが至當ではない乎、又勢において不可なるを知りつゝも、口に攘夷を唱道し、畏れ多くも攘夷の詔勅問題さへも惹起するに至りし事は、不可能且つ危殆なる事件の渦中に尊き皇室を引き入れんとしたる不臣甚しき行道であるけれども、何故に、徳富氏は、此非を筆誅しないのであるか。
 徳富氏は又曰く、「その所思をぼかし、しかして互にその腹を探り合ひ、表裏反覆、只だ當座逃れもて、嘉永の末から、慶應の末まで、十餘年にわたりて、苟且依遠、口是腹非若くは口非腹是、の政策を襲用したるは、何たる醜態であろう」と、  此の文章に至ては、形容詞過剩であり、出放題にも程こそあれと苦笑せずには居られなくなる。
 「開國の斷行」と云ふ一事は、幕府方の爲せる勇斷であり、此斷行は、徳富氏の右の形容詞づくめの怪文書を即刻に無價値とし寸斷し得る。幕末十有餘年の間に、國民の幸福の爲めに、幾多の賢者能吏の出でゝ、斷又斷の政策を實行せし事は、それこそ日本人として知らぬ人とては、恐らくない筈である。知らざるは非常識のみ。
 徳富氏は又曰く「吾人は阿部に苦情をいふよりも、或は阿部その人に向かつて、むしろ感謝するのが至當であるかも知れない」と。次で又曰く「その罪魁は、斷じて阿部正弘其人にありといはねばならぬ」と、一人の人に向かつて、賞めたり罵つたり、輕率の言甚しく、論評として價値がなく、矛盾弄筆を表白して居るのは、罪魁其者也と云いたくなる。
 又曰く「當初から公々然として、萬國の通義に則り、開國する旨を天下に公布せば、朝廷と雖も、諸候と雖も、これに對して、假令若干の異存はあっても、――大なる妨害を加ふるに遑なかつたであらう。然かも之れがために、阿部は或は犠牲となつたかも知れない」と。
 大なる妨害を加へる遑がないと云ひつゝ、同時に犠牲になつたかも知れないとは、何の事を云ふのか、全く分らぬ話である。スラッスラツと事件が形附いて行くならば、阿部が犠牲となる理由はないではないか、一閣老が犠牲になると云ふのは、事頗る重大である。
 徳富氏は、何を云はんとするのであるか。若しも「一部公卿や大名の中に、如何に反對者があつたとしても、國家の大官として、一身を犠牲として、國家國民を救ふが爲めに、初めより開國を公々然として斷行したならば、阿部は賢明であつた」云ふならば、理論としては好く分る。徳富氏のは、彼あでもなし、是ふでもなし唯冷評の連發であり、史論としての價値乏きを遺憾千萬となすと同時に、無理な文句を併べて、當時苦心惨憺せる當局の苦衷を罵るの偏頗を責めざるを得ない。

 81-84頁
 一四 薩藩々論の統一は維新既に成れる後の事實 (目次)

 昭和三年十月十五日鹿兒島新聞に、「維新前薩藩々論の沸騰と谷村昌我」と題し、左の記事が掲げられた(谷村家から昭和三年の御大典に際して谷村氏の祖に贈位ありしに關し、此事實を同家の慶事として世人に公表せられたのであつたが、余も其の公表文を拝受した一人である、)
 「幕末、世論騒然たりし際、薩藩においても亦、藩論岐れて議論沸騰し、その歸する所を知らざりしが、果然慶應三年十一月朔日、忠義公手書の有名なる論達書出でゝ茲に藩論定まり、一藩を擧げて王政復古に盡力することゝなりしは、素より勢ひの然らしむ所なりしとはいへ、其の間に現れざる指導的力の動きしことは、想像するに難からざる所である。最近島津家臨時編輯所の有馬編纂員が、此の間の消息を窺ふに足るべき、最も價値ある文書を、久光公御手許書類中より見出せし由にて、玉利博士に其の寫しと共に左の書を寄せられたといふことである。」

   久光公への建白書(慶應三年) (目次)
  御病床もかへりみず再三罷出申上候も恐多奉存候間、書取を以て奉申上候  猶亦退而愚考反覆候處、一先西鄕大久保銘々御前へ被召出、各存慮十分篤與御聞之上、御深考御賢慮あそばされ候上、御重役一統被召出、御趣意之旨、仰出に相成候御手續に被遊御座度候、右兩三士之處見は三ケ國の御浮沈に關係致し、其關係
皇國之御興廢に相およぼし可申候間、能々得心配被爲在度奉存候、毎々大事件もかへりみず其罪唯恐縮の外無之候得共、今日の上實不得止事、重而奉建白候 謹言
                       谷 村 小 吉
  十一月朔日
 「右の書は、慶應三年十月、西鄕、大久保兩雄が、「討幕の密勅」を齎らして京都より歸藩し、一藩を抛ちて王政復古を斷行する爲め、速に大兵を率ゐ東上あらむ事を建言せし際、重臣中之自重流が之に反對したる爲、藩議容易に決定せず、ために久光、忠義兩公大に之を憂慮せられ、當時兩公の信任を得し、谷村氏は屡久光公に謁して建言する所ありしが更に右書を提出し、西鄕、大久保の意見を徴し、斷然決定發令せられむ事を以てしたるものにて、此の意見は直に採納せられ、即日忠義公手書を持つて、一藩を擧げて王政復古の事に盡力すとの趣意を、重臣に論達せられたるものなり。されば右書は、谷村氏が當時直接屡藩公に言上して、王政復古のために一藩大擧之藩論を決定せしむるに、大なる力ありたる。一端を知る有力なる史料に候云々」(以上新聞記事)
 右掲げたる鹿兒島新聞の記載する所に依れば、薩藩の藩論は、慶應三年十一月迄は一致して居らなかつた事が、愈々明白にせられたのであり、十一月朔日、即ち大政奉還完成し、幕府既に亡び、王政復古したる後に於て谷村小吉か、島津久光及忠義に建議し、薩藩として反徳川の政策に合流す可き説論し、久光及忠義は、初めて之れに意を決し、茲に初めて彼等の「所謂討幕」と定まつたのである。谷村小吉は、今囘其の藩論統一の功によりて、正五位を贈られたる人物である。同家の光榮に付ては勿論大いに祝福する。
 右の史實は果して何を語るのであらうか。國民は熟慮を要する。
 慶應三年十一月と云へは、大政奉還の以後の事である。即ち維新以後の事である。之れ明白也。維新成りし後に、王政復古に盡力すと云ふは、理解す可からざる事である。即ち此の史實の示す所によれば、維新は薩藩の成せし所にあらざることが明白にされる。維新後の時局に際して、薩藩藩論統一して活動した事之れ亦明白の事實である。此事は拙著「維新前後の政爭と小栗上野の死」に譲る。

 84-87頁
 一五 幕政下の社會組織と史家の盲斷 (目次)

 

 維新史料編纂官藤井甚太邱氏の「國本」寄せられたる「幕末勤王餘談」は、専門家の高論として敬意を以て余は之れを讀んだ。而して感想あり、即ち之れを左に述べて、教を乞ひ日本國民の正判に訴へる。
 右「國本」は昭和三年十二月號であつて、其の第一〇九頁に在る。氏の説諭によれば、 「徳川時代は形式だけの太平が装はれて居て、世相の皮の一枚をはぐれば、下には社會組織の不自然が横溢した居た。其れであるから、僅か二三十年の社會騒擾で亂れたのは當然だ」と云ふのである。
 之れに依ると、幕府の倒滅は、社會組織の不自然から生じたのだと云ふ判斷であり、如何にも、社會主義者の流行の口吻に似た説明であるのが、余には此れが先づ異樣に聞える。  幕府は、徳川慶喜が自ら亡したのである。「大政奉還」とは「幕府の廢止」である。此の事理明白疑なし、此の奉還は、開國の外交により必然に生じたのであり、外交に關して、最初に幕府先づ自ら其の政權を棄て、其れより全政權を失はざる可らざるに立ち至つたのである。理論的に論すとせば、之れ以外に説明の方法なし。西洋史と日本史との混同視は、甚だ非科學的である。
 徳川幕府時代には、「社會組織が不自然であつた」とは、如何なる意味であらうか。
 氏の所謂社會とは人間の集りであり、社會の組織は人間が作るものである。神が作るにあらず、時代に應じて、人は適當に社會を組成する。元龜天正の大亂の後をうけて、時代に適應せる社會を作つたものが、徳川幕府の政治であつた。其れが時代に適應して居たからこそ、日本の全人民は悦服し、全國の諸候は臣従し、三百年の太平は保ち得たのではないか、余は藤井氏の説かるゝ「社會組織の不自然」に付て、科學的の説明を得たく思ふ。薩人と長人とのみにて政府を組織すれば、其れが果して「自然の社會組織」と云ふものであるなるか。不自然の社會とは何を意味するのである乎。敢て問ふ。

 

 幕府は「開國」と云ふ國家的一大事變より必然亡びざる可らざるものであつた。
 幕府の亡びしは、藤井氏の「國本」に於て「慶喜の云へりし」とか説かるゝ、「京都に派遣する使者の能否」では斷じてなく、時代の要求であつた。藤井氏の國本に説かるゝが如く眞木保臣が如何に個人として人物であらうとも、無謀の計を爲して禁裏を犯すなぞの不謹慎な行動があつては、忠君を臣民道徳となす我が日本國に於ては、成功する理由があり得ない。我日本には、正義を守る武士道がある。
 余は重ねて云ふ、藤井氏の云はるゝ「社會組織不自然の説」何分にも解す可らずと、幕末の歴史を、西洋の革命史と同じに見るなぞは、餘りに無理と云ふものであらう。余は寧ろ、幕府の時代、社會組織が時代適應性ありしと論ずるを正しと見る。
 若しも不當なる社會組織の下に、我が日本人三千萬人が、三百年の久しきに亘り、或は七百年の久しきに亘り、泰平無事を樂しみつゝ生存して居たものであるならば、其の三百年間の日本人數億萬人は、「卑怯又は暗愚、又は背徳の民也」と云はざるを得なくたる。理論としては此以外に云ふべきの途なし、藤井氏は、斯く迄も日本人を輕侮せらるゝの意なりや、若し然りとせば、國民は斯る嘲罵に忍ぶことを得ないのであらう。

 87-100頁
 一六 徳富氏の勝海舟礼賛を讀みての所感 (目次)

 一

 余の先輩にて、勝海舟の人物を卑しみ且つ憎む人は澤山ある。之れと同時に、余の知人にて、勝海舟を偉人也と賞メル人も少しはある。何れも事實である。
 余は、「維新前後の政爭と小栗上野介の死」と題する著書にて、勝と小栗とを對照し、論評し、勝は一代の人物には相違ないけれども「老獪の才人也」と結局批判した。余としては、勝は「幕末の偉人」なぞとは、如何に考へ直して見た所で、云ひ得ないのである。事實が許さない。
 余の敬慕する史家花見氏は、余の右の評を見て「痛快也」と日々新聞に記されたが、外交家としての一大先輩たる某男も、余の評を非常に快はれ、「頗る同感」とせられた。一々説を伺へば、余に同感の眞の識者は、非常に多いこと疑なしと余は信じて居る。唯だ遠慮して居らるゝに過ぎないのを認める。
 此時に當りて、徳富蘇峰氏は、四月十八日の東京日日新聞にて、「海舟全集を讀む」と云ふ題の下に、左の如く憶面もなく公言して居られる。
 「誰が何と申すも、海舟先生は、幕末の偉人である。このごろは、世間に往々反海舟熱を煽り、特に小栗上野介などを持ち出して、かれこれ對照する人もある。されど勝は勝であり、小栗は小栗である。小栗が偉いにせよ、偉からざるにせよ、勝その人の價値に何も關係はない。牛肉がうまきがゆゑに、鯛はうまからずといふが如き論法は、世の中に有り得可き樣がない。」
 徳富氏が、歴史家たるの自負を以て、縦令専門家にあらざるにせよ、如何に過去の人物を見ようとも、其れは同氏の御勝手たる事無論である。唯だ余の氣に喰はないのは、其の挑戰的であり、其の云ひ分が餘りに高幔ちきで、自分一人が物知りのような樣子をする點にある。他人の書く事に對して、氣に喰はないと云ふのも、不遜のようであるけれども、余に無關係な事件ではなく、如何にも余を馬鹿ににした風を以て筆を弄して居らるゝ點は、誰が見ても、好く分る所であり、余も多くの人々から、「徳富氏の評を見たか」「大部あてコスツテ居るネー」と注意せられた程であつた。そうして見れば、一言を同君の評に對して述べる事は、余の義務でなくしてなるまい。

 二

 (一)一體「誰が何と申すも、海舟先生は、幕末の偉人である」とは、甚だしい驕慢な言ひ分ではないか。「人各々見解は異るべきも、自分としては、偉人と見る」と云ふのが、研究家の論評としては確かに正しい云い分ある。世の中には色々の方面から、色々と研究する人も段々とあるものだ。徳富氏獨り判斷にて、萬事は定まるなぞとは、餘りに世の人を馬鹿物扱いしたる驕慢さである。同氏は、何を根據として、左様な高慢な口をきかるゝのであるか。
 (二)幕末の偉人とは、一體何事であるのか、彼の權謀術数甚しき、反對派の功名を授けてやる事が偉人也と云ふか、幾多の同僚を犠牲にし幾十萬の武士を世上より葬り去られるようにした事が、偉人也と云ふのか、大久保の云つ如く、「奸雄の資」と云ふ事が偉人か、西鄕が一見頭を下げたからとて、其れが何故に偉人か、餘り放漫な批評であつて、事理の分らない説である。「海舟全集」を作つて、後世に遺せし事は、好い仕事であるに相違ない。縦し其れが自己宜傅であつても、後世に参考になる事業である。併し其れを作つたからとて、「幕末の偉人」と云ふのは賞め過ぎた話である。此の仕事は、後の仕事であつて、幕末の事業ではない。關係なし。
 (三)「このごろは世間に往々反海舟熱を煽り」とは、何事であるか、「煽り」とは、故意に海舟を陥れる事を云ふのであらうが、何人が左様な悪事を爲すのか、徳富氏は、斯く迄に矯激の文字を使用せらるゝ以上は、世に斯る悪徒あるを知らるゝならむ。然らば明かに其の姓名を言明せらるゝ責任かある。若しも余の事を指して云はるゝならば、左様明言せられたい。「反海舟熱を煽る」と云ふような卑怯な小人行爲を爲すものは、余としても共に、攻撃す可き義務があると思ふ。
 (四)「特に小栗上野介などを持ち出して」とは、何事ぞ、小栗を小なる人物扱いし「勝とは比較にもならぬものを」と云つた風の心事が明らかに文章の上に見へる。其れならば、其の樣に事理を究めて、化學的に明かに論述するが好い。「持ち出す」なぞとは随分小憎らしい詞であり、小栗と勝とを対比して論ずる余から見れば、「恐ろしい生意氣な文士」と云ふ氣分の沸然として生じ來るは當然である。
 (五)最後に、「牛肉と鯛肉との比較」は、奇想至極であるのを感ずる。牛肉の惡どい味は勝其人の味也と云はるゝなりや、それならば或は當つて居るでもあらう。勝を以て江戸ッ子の大好物たる鯛に比したならば、其比較は物にならないであらう。牛肉と鯛とを、全く別の時に味ふたならば、各々美味と云ふ人もあらう。然し乍ら若しも牛肉と鯛とを同時に食ふたならば、「一方は食に堪へず」と云ふ風味人も必ずあらう。徳富氏の比較は、甚だ變なものであるを感ずる。

 三

 敢て問ふ、偉人とは何んぞや、唯だ單に凡人以上の頭の優れた人と云ふ事でもあるまじく世渡り上手と云ふ事でもあるまい。放言高談したと云ふことでもあるまい。降参して城を明け渡したと云ふ武家にあるまじき事でもあるまい、「誰れが何んと申も、偉人である」なぞ
といふ點が、勝其人の那邊に見受けられたの乎。
 凡そ史上の人物に對しては、人々各々見解あらん、史家としては、「自分としては斯く見る」云ふ位の所が、公正を好む評者として、せい一ぱいの態度であらう。各種の批評は出て好いのである。六十年來、一方のみの宜傳行はれ「歴史信ず可らず」の感甚しい今日である。總て過去の人物に關して、勝手に製造せる定論なぞを、他人に決めつける時ではない。

 四

 徳富氏は曰く、「如何に割引しても、いはゆる旗下八萬騎中先生の右に出づる者はなかつたと思ふ」と、此の評は、餘りに旗下八萬騎を愚弄した言である。敵に内通したり、降参したりする事は、武家として少しも賞めた話でない事は、當時武士の臓腑を有せるものゝ好く心得て居た所である。大久保の言の如くに、「勝を以て奸雄の資材」とでも云ふならば人或は相當の見と見るであらうけれども、勝を「八萬騎中の第一人者」と云ふに至つては、無鐵砲なる衆人侮辱の論評と云ふべきである。三宅雪嶺氏の説は、一段究理的にして妥當であつた。(拙著に引用してある)山川健次郎男の序文は、流石に妥當なものであつた。徳富氏の批判は、八萬騎の靈をして、地下に怒らしめ、其子孫をして、其の驕慢無禮を憤らしめずには止まぬであらう。事實と大衆の人格とを無視したる餘りの暴言である。徳富氏は曰く『福澤翁の痩我慢之説』は、一種ためにする所ありしの論として見れば、差支なきが、幕末の史論として見れば、決して平凡の論ではない。若し幕府側が痩我慢をやり通さん乎その結果は、佛國は幕府を助け、英國は薩長を助け、日本の内亂は、延いて外國の干渉となることは,分明である」と、之れ三四十年以前の俗人の舊説なのである。
 此言は、福澤先生を愚弄した言である。「一種のためにする所ありしの論」とは、何事であるか、徳富氏は「一種」と云ふ文字の意味を明白にする責任がある。徳富氏の筆は文としては誠に美しく見へる。併し乍ら、論斷とか論評としては、乍失禮曖昧であり、形容詞の中に、大切の點が埋れて見へざる風がある。科學的に價値少きを憾む。
 幕府は、決して痩我慢を通すを要しなかつた。幕府亡びて後の一徳川氏としても正々堂々とし、「薩藩奸黨」及其の一群を(慶喜の上奏分を借りて云ふ)箱根以東に引き寄せ大村益次郎が驚愕した如くに、一擧鏖殺し盡せば、事は直ちに平ぐのであつた。此事は「維新前後の政爭と小栗上野の死」に詳しく、又「劇作小栗上野の死」にも、最も大切なる幕とて掲げてあり、小笠原長生子の賞められた點である。徳富氏は斯る史實を知らざるものゝ如くである。深く事實を攻究して、昔し勝其人が自己宣傳をなしたりし其の儘の嘘説に固着して居るの迂遠を改められるを望む。驕れる藩閥に阿附する時代は、既に過ぎ去つたのである。
 尚ほ又、「佛は幕府を助け、英は薩長を助け、延て外國の干渉となるから、幕府は先づ仆れるが好い」とは何事であるか。何故に幕府だけを壓迫し、薩長の行動は自由ならしめて可也と云ふのか。其處に一點の純理と云ふものがない。若しも「干渉の來るを不可とするが故に」、「薩長の反亂行動を禁絶せよ」と論ずるならば、其れは寧ろ評論家として理義ある言である。徳富氏は、幕府とは「國家の正當なる政府」であり、「御委任厚き政府」でありし事を、知らぬ風にも見える。徳富氏の議論は、明に薩長を本位としての推論である。當年の秩序を打開する一味一黨を支持しての不公正なる論である。權力阿附の方法としては、巧妙に相違なきも、正しき評論家の意見としては、其の偏頗讀むに堪ない憾みがある。
 徳富氏は曰く「世上先生を以て、都下百万生靈の恩人といふ。しかも先生は、決して東京市ばかりの恩人ではない。徳川氏一門ばかりの恩人ではない。實に日本帝國の恩人である」と、此の過賞は眞に唾棄す可きである。
 勝海雌雄の御蔭を以て、江戸市民は救われたりし事績は斷じてない。パークスの干渉に當惑して、權略の雄者たる西鄕が初めの目的通りに、江戸府民の上に恐るべき武力を使用しなかつた史實はあり、之れ史家の公表せる研究によりて明らかである。此事は本書の他の場所に詳述してある。徳富氏は此を讀んだ後に、改めて説を吐かるゝが可也。勝海舟の降参主張の勝利の爲めに、其友僚たる八萬騎と其の數萬の輩下と、數拾萬の關係者とは、世棄人となつたのである。海舟は國民の恩人ではない、江戸人の恩人でもない。小栗上野介の戰略が行はれたならば、恐く江戸には一發の砲彈だも落つる事なしに、敵は全滅したであらう。江戸の恩人は勝では斷じてなく、恩人は別の人也。一徳川氏としても、勝海舟なかりせば、史上に永遠の光彩を放つたに相違ない。徳川方の降服は武家の道義として賞め得可き事態に非ず。縦令徳川勢が敗れた所で、其れは武士的な花々しき最後として、後世に遺される。瓦となつて全きは武家として好ましくはない、花と匂ひ花と散るを武士の本文とする。「徳川一門」は、何れにしても亡びなかつた、幕府たりし家としての徳川は幕府の滅亡にて既に亡んだのであつた。一家を保つ事が人間唯一の能事ではなく、武夫の道ではない。地方の諸侯として殘る事が、武家の本義と云はる可き理由があり得ない。徳川の名を冠する華族は、今日十數戸ある、此等は、慶喜の降服と否とに關はらず、存續し得たものである。勝は斷じて「徳川一門」の恩人ではない。勝を目して、日本帝國の恩人也と云ふに至つては、何人も呆然として徳富氏の放言を眺めざるを得まい。勝海舟の爲めに帝國は救れし事實一もなし、彼ありしが爲めに、烈士傑人死し、衆民泣き、武夫としてあるまじき降参者の功名と云ふもの生じ、武士道的日本國民史は汚されたのであつた。恩人とは過賞である。
 史論も年を經て追々と進歩すべきものである。時代の暴れる三四十年前の史論を其儘にして、今日の時代の人に示すとも、唯單に價値なき骨董の陳列に過ぎない觀あるのみ。
 「文藝春秋」五月特輯號中、流泉小史の筆に成る「剣豪秘話」を一讀したならば、勝と云ふ人物が、如何に姦邪であり、小栗に對して如何に冷酷なるかの本性を示したりしかが分る。權略の雄西鄕や桐野の如き恐る可き征服慾の進撃者に對して、勝が小栗を賣りし所は、到底、武士の風上に据へらる可き武士でない。徳川慶喜でさへも、勝には呆れて居つた事は、余が故慶久公より、巴里にて、一夜聴ける話である。徳富氏は、書く事のみに時を過さずして、新しい史實を大いに讀む事に努めらるゝを望む。其の誤謬は匡さるゝ事が出來るであらう。氏の爲めに敢て忠言す。
 「八萬騎中、勝の右に出づるものなし」との此の萬人誹謗の大膽の言は、餘りに萬人を冷罵嘲笑したる驕慢さである。事實を基礎とせざる盲目的なる弄筆である。史論たる價値全くなしと余は抗言する。

 五

 徳富氏は「小栗は小粟」「勝は勝」だと嘯き、比較す可き人物にあらざるが如くに論ぜらる若しも時代でも違ふ人であるならば、其れも御尤の説であらう。併し乍ら、同時代の人であり、和戰孰乎に付て、水と火との如き正反對の意見を持して、論爭した人であり、勝のは卑怯にも、敵への降服を可とせる説であり、小栗のは、權略黨鏖殺と云ふ雄々しき説なのであつた。此二者を比較して其の可否を見ないのは、非常識の説と云ふべきである。
 幕末の國政は、「小栗一人にて背負つて立つた」と福地源一郎は、「幕末政治家」中に明言
して居る。勝海舟は幕末に於ては、唯軍艦の艦長たりしに過ぎなかつた。幕末の小栗と勝とを比較すれば、幕末の當局者としては、其の輕重全く比較にはならない程であつた。徳富氏の云はるゝ「誰れが何んと云つても、勝は幕末の偉人である」なぞは、事實とは全然離れたる空嘯だと云へる。
 江戸城の引渡は、幕末の事件ではない。幕府既に亡び去つた後の事件である。此事實を知らぬようであつては、史家たる價値は全くなし。徳富氏は此位の事は知つて居らるべきである。幕府亡びて後に幕府のあるべき理なし。
 幕府亡びて後の江戸城の引渡に付て、勝は一大偉人の如くに云ふ人もある。徳富氏も此の俗説を全信して居らるゝが如くに見へる。併し、其れは事實に合して居らね事は、既に新しい史家の證言する所である。之れを知らずして、舊説を其儘固執し、何等の研究も發表せざるが如きは、固陋と云ふ可きである、史家として斯ては價値もなし。
 勝を目して、幕末の偉人也と諭斷するならば、其の證據を擧げ來るべし。明治時代になつて後の勝海舟は、明治時代の人として論ずるを至當とする。
 勝海舟は凡物ではない、敵側たる薩人から見れば、詢に都合の好い才人であつた。智略も西鄕以上であつたらう、姦雄の資たる事は、同じ形式人物に屬する大久保や岩倉には好く理解し得たであらう。併し乍ら、幕府亡びて後の徳川方の正直な人から見れば、忌むべき人物であつた、敵の爲めになる不都合な老獪人であつた。若し夫れ天より神が眺めたならば、一點も賞むべき人物ではなかつたらう。而して日本國民として静觀すれば、「あゝ云ふ人物は味方としては持ちたくない」と云ふのが正しいであらう。

 101-102頁
 一七 近藤勇の甲州出陣と勝海舟の共謀 (目次)

 山岡鐵舟が駿府にて西鄕に對面せる折、西鄕は、「既に甲州にては官軍と徳川方と戰爭を開きたりしが故に、慶喜の恭順も信用し難い」と云つたことは、別に記す所の如くである。此折に山岡は西鄕に對して、「彼れは脱走兵のなす所也」と答へたとの事であるが、之れに就き近藤勇の甲州進軍に關して、永貪新八傳の中に掲げてある所によると、左の如く記してある。
 「江戸淺草の新町に團左衛門改め矢島内記と云ふ特殊部落の大頭目が居つた、………同人は乾兒百人を選んで佛國式の調練を受けしめた。杉本順は之を新撰組に付屬せしめようと近藤に計つた。
 近藤は甲州城を自分の力で手に入れ、こゝに慶喜を移さうと計畫を立てゝゐたので、一兵でも欲しい時であつたから早速これを承諾した。そして、この計畫は慶喜の内諾を受けてあるので、近藤は一日之れを副長土方以下に打明け、一座は之れに賛成した。
 そこで表面は、甲州鎭撫といふ事になり、軍用金五千兩、大砲二門、小銃五百挺を下附せられた。しかも陸軍總裁勝海舟が容易に勇のこの願意を容れたのは、近藤を慶喜の前に近づけない所存からなのであつた。云々」
 右は永倉新八傅第一四七、八頁にある。
 之れに依れば、近藤の爲めに、勝は軍用金と兵器とを供給して居るである。
 若しも事實であるとせば、勝は官軍に對する反抗の共謀ともなり、又江戸城降伏の爲めの準備を爲せりとも見られる。そうして、山岡の右の言明は、策略であつたか、又は何も知らずになしたのか何れかとなる、事情判明せず。
 何れにしても、山岡の一言にて、西鄕が直ちに敬服して平和論者に遽變したなぞのあり得ざるを窺ひ知る可きである。

 102-118頁
 一八 會津武士の思出の記と勝海舟の卑怯 (目次)

 左記、河原勝治氏の「思出の記」は、會津武士の當年の事情を知る爲めに尊き参考資料である。余は同氏を知ること久しく、氏の人物に敬服しつゝあること多年である。六年前同氏に北陸の旅中にて偶然出會せし折、同氏は、此の「思出の記」を余に示され、余は直ちに汽車中にて一讀し、同時に感激し落涙禁じ得ざるものがあつたが、由來此の書を保存しつゝ今日に及んだ。維新史料の一として、此の事實を廣く世上に傳へ、會津の忠誠なる武士の霊を慰め、同時に、勝海舟及び大久保の事に付て、世に傳へて、此等の人物の如何なるものありしかを明にせんとする次第である。
 會津人は勝海舟をを以て一般に姦物と認めつゝある。拾目の視るところ嚴なるものがある勝が敵たる薩長土肥人とは親しく接觸しつゝ、味方たる會津人や舊幕府方の人々との面會を拒絶せしことなぞは、彼の人物が如何なるものなるかを明白に談るものである。彼は味方に憎惡せられ、敵に調方がられた人である。彼は、敵を愛し、味方を疎んじた人なのである。

 慶應四年會津藩河原家殉難ノ顚末ニ付キ遺子河原勝治ノ思出ノ記

 元治元年武田耕雲齊決死ノ兵ヲ率ヰ、道ヲ北陸道ニ取リ、越前ニ來ル、當時京都ノ守護職タル會津藩ハ、防禦ノ爲メ出兵シ、琵琶湖ノ西側ヲ經テ、越前疋田ニ至ル、干時沿道ノ民皆逃走シ、加フルニ天大ニ寒ク、雪フリ、道路泥濘ニシテ、糧食ノ運搬意ノ如クナラズ、難澁セシト云フ、河原善左衛門兵糧奉行タリ、斯ノ實驗ヨリ、大ニ意ヲ糧食ノ改良ニ注ギ、歐洲ニ於テ、英佛軍懸軍數千里「クリミヤ」ヲ攻ムルトキ「パン」ナル者ヲ用ヒシト聞キ、横濱ニ居ル佛蘭西人ヨリ現品ヲ取リ寄セ、小池帶刀氏ト共ニ傚ヒ作リケルガ、糖分モ鹽分モ無ク、只燒キ麩ノ堅キ樣ナ者ニシテ、今ノ陸軍用重燒麺麭ト異ナラズ(糖鹽ヲ加フレバ長持セヌト云フ)帶刀傳ノ善左衛餅ト稱セシガ、頗ル長キ名稱ナルヨリ、簡短ナル佛蘭西語ノ「パン」ガ幕府及ビ諸藩ニ傳ハリ、遂ニ日本國ノ用語ト成レリ。
慶應三丁卯年十月、徳川慶喜軍職ヲ朝廷ニ返上シ、世益々騒然タリ、河原善左衛門召サレテ江戸ニ至ル、前將軍始メ、會桑兩藩主等大阪ニ退去シ、京阪ノ間ニ事起ラントス、幕府幷ニ譜代ノ重役等江戸城に會シ、何レモ兵力ヲ以テ幕威ヲ挽囘スル事ニ決シ會津藩ハ一藩擧テ上京スル覺悟ニテ、海路四日市ニ上陸セン爲メ、横濱ニテ外國船ヲ雇ヒ、日ヲ期シ増援兵ヲ出發セシムル所迄諸事運ビシニ、横濱沖遥カニ一汽船ノ品川ヲ指テ航走スルアリ、開陽丸ナラントノ事ニテ、早馬打タセ品川ニ至レバ、前將軍始メ會、桑兩藩士盡ク在船シ、伏見ノ敗報始メテ傳ハリ、斯クテ應援兵進發ノ謀議全ク止マリシト(平尾豐之助談)。
慶應四年、伏見、鳥羽敗戰後、前將軍江戸ニ歸ラレ、後チ永岡敬次郎、河原善左衛門二人ニテ、勝安房、大久保一翁ニ面談セシガ爲メ、數々訪問セシモ、勝安房ハ會津藩人ニ面會スル事ヲ避ケタリ、或ル日強ヒテ面會セントセシニ、勝氏ハ斬殺サルトノ恐レヲ懐キシモノカ逃亡セリト云フ、大久保氏ハ數々面會サレシガ、氏ノ説ニ依レバ、幕府大ニ衰ヒ、外人ノ壓迫ヲ受ケ、征長ニ失敗シ、諸藩ノ議論一定セズ、日々衝突ニ衝突ヲ重ネ、大事ニ至ラントスル恐レアルヲ以テ、暫シ大政ヲ朝廷ニ返上シタルモ、幕府ハ受ケ身ノ姿ト成リテ、益々窮境ニ陥リ、強テ爭ハントスレバ、愈々攻撃ヲ受ケ、大政ノ返上シタル理由ニ反スルコトナレバ、薩長諸藩ノ爲スガ儘傍觀シ居ルハ名義上徳川ノ朝廷ニ對スル上策ナレドモ、亦坐シテ薩長ノ阱ニ填マルモ殘念ナル所ヨリ、主戰論者モ多ク、大鳥、榎本等ハ、貴藩ト共ニ西軍ニ抗セントスルガ如シ、若シ貴藩ニテ戰ハント欲セバ今江戸城ニ在ル兵器彈藥ヲ盡ク貴藩ニ與フ可ク、左モ無ケレバ、皆ナ西軍ノ手ニ落ツ可シト、永岡氏ハ大久保氏ヨリ先ヅ、小銃二千挺ヲ貰ヒテ會津ニ歸リ他ハ後ヨリ陸續ト送レリ、斯ノ如キ勝安房ノ態度ト大久保氏ノ論ヨリ、善左衛門ハ會津藩ガ幕府ニ賣ラレ、朝幕ノ犠牲ニ成ラントスルヲ看破シ、急ギ道ヲ今市街道ニ取リテ會津ニ歸レリ。(永岡敬次郎氏ノ談)
途中藤原驛ニテ、已ニ出陣アル家老山川大藏氏ト論辯シ、撤兵ノ上諸藩ノ同情ヲ以テ伏見ノ擧ニ就キ、朝廷ヘ謝罪ス可キ事ヲ勸メシモ、少壯ノ會津武士皆主戰論ニ傾キ、其夜宿所ニ亂入シテ、善左衛門ヲ斬ラントスルノ議アリシト云フ、然ルニ何時ノ間ニカ高原峠ヲ越エ若松ニ奔レリ。(土子織之進ノ談)
水嶋純氏(山川軍ノ参謀ノ如キ人)ノ談ニ依レバ、善左衛門モ主戰論者ナレドモ、其論ズル所衆ト異ナリテ、只無暗ニ奮激シ、西軍ニ抗スルハ、恰モ犬ノ吠ヒ合ノ如ク、遂ニハ會藩ノ不利益ニ陥ル可シ、宜ク先ヅ撤兵ノ上、伏見ノ擧ヲ謝罪シ、諸藩ヨリハ、朝幕ノ爲メ大ニ力ヲ盡セドモ、却テ兵ヲ向ケラルヽハ過誤ナリト同情ヲ得テ、我ガ方ニ心ヲ傾クル者多ケレバ、其レダケ強味ヲ加フ可シ、然ルヲ諸藩ノ同情ヲモ省ミズ、自カラ戰ハントスレバ、幕府ノ數ヘラレタル罪條ヲ、悉ク負ヒテ、孤立ノ有樣ト成リ、天下何人モ加勢スル者無カルベシト云フニ有リ、(大竹作右衛門氏ノ談ニ依レバ、外嶋機兵衛ナル人善佐衛門ト同論ナリシト)當時廣澤富次郎氏ハ、江戸ニ殘リ、諸藩ノ力ヲ借リ、大ニ謝罪ノ事ニ盡力サレ居ル内、遂ニ西軍ニ捕ハレ、獄ニ投ゼラレシト云フ。(南虎次郎氏ノ談)
善左衛門若松ニ歸リ、幕情ヲ述ベ、國老梶原平馬氏ニ随行シ、上杉謙信ノ帶シ本庄長光ノ刀ヲ、進物トシテ携ヘ、米澤ニ到リ、降服謝罪ノ議ニ盡力アランコトヲ請フ、(米澤人士大ニ悦ブト云フ)夫レヨリ仙臺ニ到リ、更ニ依頼セシ處、仙、米兩藩主檄ヲ飛バシテ、奥羽十七藩ノ國老ヲ白石ニ招キ會議セシニ、何レモ同論ニテ、朝廷ニ對シ會津謝罪ノ機ヲ嘆願スルコト、爲レリ、斯ク穏ニ、奥羽諸藩會津ニ同情シ、戰爭ヲ避ケントセシニ、薩長ノ参謀大川格之助、世良修藏等ハ、伏見ノ擧ニ何等關係無キ奥羽諸藩ヲ降服者ノ如ク輕侮シ、會津幕府ノ主戰論者ハ、仙臺藩士ヲ煽動シテ、遂ニ世良修藏ヲ殺シ、奥羽諸藩同盟シテ、西軍ニ抗スル事ト爲レリ、其時余ハ幼少ナレドモ、毎夜夕食ノ折、祖母ト父ト傍ニアリテ、種々ノ談ヲ聞ケルガ、世良ヲ殺シタル以上ハ、戰ハ免ガルマジ、セメテ百萬石ノ國力ダモ有リ、今少シ富國ナレバ、亦戰ヒ樣モ有ルナランガ、二十八萬石ノ貧小國ニテハ、彈丸硝藥乏ク成ル計リニテ、只亡ブルヲ待ツノミナリト、時ニ普魯西人「スネル」ナル者會津ニ居リ、大ニ歐羅巴ノ戰時談ヲ聞カセシ爲メ、大ニ得ル所アリ、當時善左衛門ハ、國産奉行タレバ、務メテ戰時用ニ供スル金銀、銅、鐵、山鹽ノ採掘ヲ奬勵シ、「スネル」等ト、數々御藏入、山三郷、石ケ森邊ヲ巡廻セリ、又家ニ在リシ漁網ノ鉛、銅壺、錫ノ徳利、銅ノ藥罐、茶釜ノ如キハ、彈丸製造ノ爲メ盡ク上納セリトゾ。
慶應四年八月二十一日、石莚口守ヲ失ヒ、二十二日西軍猪苗代ニ入ルノ報アリ、此ヨリ先キ、國産奉行役所ニ於テハ、西軍ニ對スル準備トシテ、大野英馬等ト部下ノ役人ヲ集メ、凡ソ三十人位ノ小隊ヲ編成シ、若松城下ノ東端人参役所ニ詰メ居リ、西軍ノ東方ヨリ來ル者ヲ防ガントノ議アリシニ、果シテ西軍猪苗代ヨリ若松ニ迫ルコトヽ成レリ。
同二十二日、河原善左衛門(四十二歳)晝食後、自宅ヨリ出陣随行スル者、弟岩次郎(三十八歳)倅勝太郎(十五歳)次男勝治(十一歳)甥河原熊四郎(十四歳後チ工學博士ト爲レル南清)若徒山口佐太郎(十五歳)等ナリ、善左衛門ハ、江戸ニテ購求シタル秘藏ノ「スペンサア」式馬上銃ヲ持チ、弟岩次郎ハ長槍ヲ携ヘ、勝太郎、熊四郎ハ「ヤアゲル」銃ヲ擔ヘ、勝治ハ赤キ筒袖ノ上着ニ白黑堅縞ノ袴ヲ穿チ、宇田國次ト銘アル二尺二寸ノ刀ヲ帶ビ、竹槍ヲ持チ、若徒佐太郎ハ、五月幟ヲ中部ヨリ切リ接キ、河原家ノ定紋丸ニ、松川菱ノ所ヲ存シタル小旗ヲ携ヘタリ、最初ニ大町通リ會所ヲ指シ行キ、生駒掘邸ノ間ヨリ、北原邸ノ間ヲ、威風凛々トシテ歩行セシニ、路傍多クノ人々皆ナ余ノ如キ子供アルヲ見テ顔ヲ背ケテ泣キ居ル者モアリタリ。
會所ヨリ大町通ヲ經テ、五ノ丁東六日町御門ヲ出テ、新馬場附近ノ人参役所ニ到リ善左衛門ノ平素詰メ居ル座敷ニ、勝太郎、熊四郎、勝治ト連座ス、一瞬一瞬時刻ハ推シ移リ、其間ニ種々ノ評議アリシ樣覺エ居レドモ、子供ナレバ何ノ事ナリシカ今ニ悟ルコト能ハズ、多分軍議ニ關シテノ事ナラン、日將ニ暮レントスル頃、大ニ空腹ヲ感ジ退屈ナルヨリ、敷々欠伸ヲ爲シ、居眠ヲ始メシニ、折柄宅ヨリ仲間参リ、祖母ノ申附ケニ依リ、今晩ハ母ノ里ナル原惣五郎氏祖父ノ命日ニ當レバ、是非歸レトノ事、余ハ斷ジテ歸ラヌト申立、今ニ敵來ラバ一戰ニ及バント、仲々從ハザリケレバ、善左衛門曰ク、敵今日ハ來ラザレバ、今夜ハ家ニ歸リ、明日再ビ來ル可シト、勝治ハ子供心ニ父ノ言ヲ信ジ明日ヲ約シテ其夜家ニ歸レリ、コレコソ父子生別死別ノ最モ悲シム可キ時ナリト後ニゾ思ヒ合ハセタリ、歸路河原家ニ立チ寄リ、直ニ融通寺町通ノ原宅ニ歸着ス、其夜余ノ寝ニ就キシ後チ、母親ハ原(生家)ヲ訪ネ、薙刀一本ヲ借リ行カル、其際原ノ家族ニ向ツテ、河原一家ハ擧テ國難ニ殉ス可シ、貴方ニテハ、在郷ニ落チ延ビ、勝治ト惣五郎妻ノ妊娠中ナル子ヲ助ケ、後々ノ謀ヲ爲ス可シト、呉レグレモ勸メケレドモ、原祖母ハ原家ニ於テモ國難ニ殉ス可シ、何ンゾ臆病ナル振舞アランヤトテ肯ゼザリキ、是レヨリ先キ原祖父源右衛門ハ、正月五日鳥羽伏見街道ニ戰テ重傷ヲ負ヒ、大阪城ニ送ラレ、翌朝城中ニ於テ死セリ、其臨終ノ時倅惣五郎ニ、「兜々勝治々々」ト云ヒテ落命セシガ、後ニテ推察スレバ、兼々河原ノ次男ヲ原家ニ養子致シ置ク可シ、原ニハ未ダ嗣子無ク、若シ父子擧テ戰歿スレバ、原家ハ斷絶スベシ、故ニ勝治ヲ貰ヒ置ケトノ事ナリシナラン、戊辰ノ年三月ヨリ、勝治ハ原家ノ養子ト爲リ、原、河原雙方ニ寝宿セリ、後チ間モナク惣五郎妻(生家伊東左膳ノ妹)妊娠ス。
八月二十二日、猪苗代ニ敵兵來ルヲ以テ、之ヲ防ガン爲メ、在城下鳥合ノ兵出發白虎隊及ビ農兵モ之ニ加ハル、藩主松平肥後守殿ト桑名藩松平越中守トハ、應援ノ爲メ瀧澤村ニ次ス、同二十三日眛爽我軍大ニ敗レ退却ス、會桑兩藩主報ヲ聞キ、城中指シテ退カレケルガ、西軍追撃甚急ナリ、君公ノ乘馬驚キ進マズ、御供番役野村源次郎等短刀ヲ抜キ、馬ノ臀部ヲ斬リナガラ走ラシメ、甲賀御門ヨリ間髪ヲ得テ入城サレシト云フ、桑名公ハ、米澤ニ應援ヲ頼マンガ爲メ、城下ノ東口瀧澤町ヨリ、上道ヲ(若松ヨリ北方二通ズル道三アリ、上道、中道、下道ト云フ)經テ、米澤ニ走ラレ、西軍ノ逐撃スル者ヲ、桑名隊長立見尚文蠶養神社ノ土手ニ機リ防禦スルト同時ニ、河原善左衛門人参役所ヨリ道ヲ中村ニ取リ、西軍ヲ八幡社前ニ迎ヒ撃ツ、衆寡敵セズ、善左衛門父子此處ニ死ス、人参方役人木村信藏ノ談ニ依レバ、二十三日朝敵瀧澤坂ヲ下ルト聞キ、道ヲ中村ニ取リ、八幡社前ニ出ヅ、瀧澤街道ニ達スル二丁計リ手前ニ板橋ヲ掛ケタル流レアリ、一番ニ渡リシハ、芥川大助、二番ハ糸川庫次、三番ハ金子次助、四番ハ余ナリト、其時善左衛門下知シテ曰ク、我隊ハ之レニテ背水ノ陣ヲ敷カン、此レヨリ退ク可カラズト、間道ヨリ瀧澤本道ニ出デントスル所ニ小高キ畑アリ、皆ナ其縁ニ跪キ、西軍ノ兵ガ墓方面ヨリ來ルヲ待チ居リシニ、十間程前方ニ、「ダラ七」ト稱セシ農夫ノ新築セシ一軒居屋アリ、之レニ據ラント、芥川大助、糸川庫次進ミ出ヅ、善左衛門聲ヲ揚ゲ、未ダ銃ヲ發スル勿レト傳フル間モナク、西軍一軒屋ニ近カヅキケレバ、兩人家ノ側ヨリ連射ス敵兵大ニ狼狽シ、四方ニ散亂シテ、路ノ兩側ニアル米田ニ 匿レ、盛ニ發射ス、我軍亦盛ニ之ニ應ジ、小競合ノ姿ト成レリ、蠶食神社ノ方ニ向ヒシ敵兵ト八幡社附近ニ在リシ敵兵ハ、銃聲ヲ聞キ、我ガ左翼ヨリ攻メ來ル、我軍彼輩ノ十字火ヲ浴ビ、飛彈雨ノ如ク、善左衛門父子、弟岩次郎、大野英馬、芥川大助、糸川庫次等皆ナ倒ル、幸ニシテ免ガレシ者ハ、城ヲ指テ背進ス、時ニ勝太郎ハ重傷セシモ、未ダ死セズ、松田俊藏ナル人、勝太郎ヲ助ケテ、其肩ニ掛ケ、城ニ連レ行カントセシモ、退ク事ヲ欲セザレバ、中村迄連レ來リ、此處ニテ其首ヲ介錯セリ。
八月二十三日朝、原宅ニテハ、敵來ルト聞キ、表長家ニ居ラレタル江戸定詰メ太田原惣次郎家族、幷ニ刀劍ノ欛卷職ナル鹿目金吾氏家族ト、白鉢卷ニ襷掛ケ、薙刀ヲ携ヘ、越中目指シテ出テ行キケルガ、米代一ノ丁ヲ上リシニ、前方ヨリ多ク逃レ來ル者アリ、中ニ佐久幸右衛門氏(原ノ向邸ノ人)此急ヲ聞キ、城ニ馳セ行ク途中飛丸氏ノ右手ヲ貫キ、鮮血淋漓戰闘力ヲ失ヒタルナリ、氏曰敵ノ姿見エズシテ彈丸飛ビ來ル、如何トモ爲シ難シ、薙刀ノ如キ者ヲ以テ敵ニ向フハ無駄ナリ、宜シク飛丸ノ避ク可シト、是ニ於テ氏ノ云フ所ニ從ヒ、河原町御門ヲ出デ、鹿目氏ノ里ナル材木町鹿目常次宅ニ至ル、夫レヨリ鹿目老翁ノ勸メニ依リ、入寺河原ノ堤ヲ南上シ、馬越ノ渡ヲ過ギテ小谷村ニ逃レ隠ル。
河原宅ニ於テ善左衛門妻白無垢ニ襷掛ケ小袴ヲ穿チ、白鉢巻ニテ薙刀ヲ提ゲ、袖印ニ河原善左衛門妻ト書シタル者ヲ縫附ケ、家ヲ出ヅ、同伴者ハ河原祖母ノ甥高木友之進(高木友之進ナル人ハ善左衛門ノ從弟ニシテ壯強無比ノ人ナリ、生マ首ノ模樣附タル大鍔ニ四尺ノ大刀ヲ帶ビ無暗ニ人ヲ斬ル、曽テ榎本和泉ノ從者タリシガ、榎本氏ノ動ガザルヲ心配シ江戸ニテ發狂死ス)ノ姉妹二人老母菊子(六十五歳)娘國子(八歳)仲間伊右衛門ナリ、先ヅ城中ニ入ラント、本一ノ丁ヲ上リシニ、飛丸頻リニ來リテ如何トモ爲ス能ハザレバ、引返シテ原邸ニ至ルニ、家人皆出發シタル後チナレバ、河原町御門ヲ出デ、湯川端春日軍吾(伯母家)氏ノ宅ニ寄ル、コヽモ皆出テ行タル後ナレバ,止ムヲ得ズ、遂ニ石塚觀世音堂ニ達ス、其時ハ四民皆逃亡シテ、一人ノ姿モ見エザリシト、觀世音堂ノ階段ニ腰掛ケ休憩セシニ、河原祖母曰ク、今ヤ城ニ入ル事モ叶ハズ死ス可キ時來レルナリ、平素信仰シ居ル觀世音菩薩ノ御前ニテ死スルハ本望ニ非ズヤト懐劍ヲ引キ抜キ自カラ咽喉ヲ貫ク、皆ナ其不意ナルニ驚キ、劍ヲ抜キ取リシニ、未ダ死ニ切レズ、早ク介錯セヨトノ事ニテ、善左衛門妻其首ヲ斬リ、娘國子ニモ死ス可キ事ヲ語リケレバ、娘諾シテ兩手ヲ合ス(河原家ニ繪草紙アリ、直實、敦盛ヲ打ツ時敦盛兩手ヲ合セ居ル圖ナリ娘國子、此繪ニ感化サレ斬ラルヽ時ハ兩手ヲ合ス者ト心得シナラン)母手ヅカラ、其首ヲモ斬リ落シ、二ツノ首ヲ仲間伊右衛門ニ渡シ、大窪山ノ墓地ニ葬ムル可ク暇ヲ與ヘ逃ガレシム、是ニ於テ、善左衛門妻高木兩婦人ト觀世音橋ヲ渡リ、花畑ヲ經テ、南町口御門ヨリ城ニ入ラントセシニ、大町通ノ北方ヨリ敵兵頻リニ發射スルノミナラズ、城ノ西手丸ヨリモ發射シケレバ、三人トモ杉本邸ノ門ニ匿レ、暫シ飛丸ヲ避ケタリ、間モ無ク五軒丁ノ方ヨリ來ル者アリ、槍ヲ携ヘ居リ、當方ヲ招ク者ノ如シ折シモ西手丸ノ發射モ止ミタレバ、味方ナリト信ジ、五軒丁ノ方ヘ三人ニテ馳セ行ク其味方ナル人曰ク、東照宮ノ方ヘモ敵已ニ迫レバ、讃岐御門ヨリ入城スルヨリ外ナシトテ、伴ハレテ漸ク城中ニ入ルヲ得タリ、城内ニ於テ、家老梶原平馬氏ニ面會シ、石塚觀世音堂ニ於テノ始末ヲ語リ、少シモ早ク敵兵ニ向ヒ進撃センコトヲ請ヒシニ許サレズ、君公ニ拝謁シ、天晴ナリトノ御譽ヲ蒙リ照姫様ノ御側女中ヲ拝命セリ。
照姫君ハ、聰明英邁、軍國多事ノ時ニ隊シ、婦烈ノ爲ス可キヲ衆ニ示シ、躬カラ傷病兵ノ慰問、被服ノ洗濯、兵糧ノ炊爨彈丸藥包等ノ仕事ニ、日夜從事シ、以テ大ニ婦女子ヲ奬勵サレ愈々切迫ニ及ベバ、出陣ノ御用意迄整ヒ、其節ハ御供致ス事ト、善左衛門妻モ働キ居タリ、斯クテ疾兵ヲ看護シ居ル中ニ、從弟佐藤新次郎重傷ヲ負ヒ來リ、居ルコト二三日ニシテ死セリ、間モ無ク、實弟原惣五郎重傷ヲ蒙ムリ、入院ス、日夜其看護中九月二十日頃ヨリ、隣室ニ於テ負傷者ノ聲ヲ發シテ泣ク者アリ、或ハ割腹セシト云フ者アリ、砲聲モ稍々静マリタルナド、如何ニモ不思議ノコト、疑ヒ居リシニ二十二日愈々御降服開城ト決シタリ、八月二十三日西軍城下ニ亂入シテヨリ、コヽニ一ケ月也、此ノ日老女槇乃氏(伊東左膳ノ家ヨリ登ラシタル人原惣五郎妻ノ伯母ナリ)照姫様ノ仰セヲモッテ來リ、善左衛門妻ニ言ハルヽヤウ、今ヤ開城ト成リテハ致方ナシ、幸ヒ次男勝治生存シ居レバ其レヲ見立テ、再ビ御家ニ御用立ツ樣心懸ケ、呉レ呉レモ死ニ早マル勿レト、亦宰相様ヨリモ、奥女中菊江松井ナル人々ヲ差シ向ケラレ、同樣ノ御訓戒アリ、御二方ノ難有思召ト、實弟惣五郎ノ重傷ナルトヲ以テ、本意ナラズモ九月二十三日城ヲ出デ、實弟ト共ニ小山村病院ニ行クコトヽナリヌ。
八月二十三日ヨリ、九月十三日頃迄ノ間城ノ内外ニ居ル我ガ兵ハ、糧道ヲ開カンガ爲メ、數々西軍ト戰ヒ、間ヲ得テ米穀ヲ城内ニ運搬ス、小谷村ノ肝入和田八ナル者、米俵ト餅等ヲ運ビ城ニ入リ、種々ナル知人ニ面會シ、其節原惣五郎家族始メ數家ノ方々我ガ家ニ潜伏シアル事ヲ申述ブ、城ヨリモ今年ノ年貢ハ免除スルニ依リ、婦人子供ノ面倒ヲ見ル樣トノ御沙汰アリト、九月十七日一ノ堰ノ戰後南方面ノ糧道絶タレ、敗績ノ負傷兵陸續ト小谷村ニ至ル、然ルニ小谷村ハ大川ノ西側ニ位シ、三方ニ道無ク、只一方ナル向ヒ側ノ川路街道ヨリ砲撃サルレバ、嚢中ノ鼠ノ如ク全滅サルヽ恐アルヲ以テ、病院ヲ比較的安全ナル田嶋驛ノ東方二里ノ松川村ニ移サルヽ事ト成リ、九月二十二日ヨリ病兵ヲ運送ス、負傷者ニハ、木本新吾、佐藤惣藏、中原大助、杉浦藤之進、廣田某、八嶋某、横田直徳等ノ諸氏アリシコトヲ覺エ居レリ、小谷村ニ避難中ノ原家族及ビ勝治等モ、加鹽村、小出村、八子嶋村ニ泊リ、四日路ニテ漸ク松川村ニ達ス、夕食ニ副食物無キヲ以テ、猿ヲ料理シテ食ス、其美味ナリシコト今ニ忘ラレズ、夜半小山村ノ辰太郎ナル者、急便トシテ晝夜兼行松川ニ來ル、原惣五郎重傷ニテ、小山村病院ニ在リ早ク來リ看護サル可シト、即時に惣五郎妻(ツヤ子)勝治、太田原氏家族ト同行スルコトヽ成リ、産婦ハ歩行スルコト不能ヲ以テ、怪シゲナル障泥籠ニ乘セ、他ハ徒歩ニテ随フ、惣五郎派母ハ實弟ナル佐藤惣藏ノ命旦夕ニ迫ルヲ以テ、後ヨリ馳セルコヽ爲シ止マレリ、二日路ニシテ鞍川橋ニ至ラバ、焼失シテ進行シ難ク、其谷ニ下リ、急流ヲ渉リ辛ウジテ前岸ニ達スルコトヲ得、明日小山村ニ着シ、久振ニテ母并ニ原惣五郎氏ニ遇フ、隣室ニ在リシ負傷者ハ、佐川正、田中清三郎、土子織之進、高橋仁甫片桐次郎氏等ナリ、居ルコト三、四日ニシテ、原惣五郎疵癒エズ、二番血發シテ十月三日遂ニ死セリ、其翌朝惣五郎母松川ヨリ馳セ來ルモ、生存中ニ面會スルノ時機ヲ失セリ。(後略)

 118-121頁
 一九 江戸開城と勝西郷の所謂功績と眞相
(目次)

 六十一年前、江戸降服の平和に行はれしは、『全く西郷と云ひ勝と云ふ曠世の大人物ありしが爲めであつた』とは、六十年來、日本人民が教科書によりてさえ教へられ來つたる大事件である。併し乍ら、此説は、明治に於ては絶對的に眞と見られしものとしても、大正となりては、眞と見られざる事となり、『パークスの干渉によりて、西郷は江戸城一撃を思ひ止つたのである』と云ふ新史實が現れた。(吉田東伍博士の研究並に尾佐竹博士の確認(尾佐竹氏の幕末外交に依る)
 今人は、新古果して何れの説に依る可きであらうか、新説に依るときは、西郷及勝の面目は丸潰れとなる。去れど情の爲めに國史の曲ぐべきにあらざるは云ふ迄もない。舊説に固着するものは曰く、『慶應四年三月九日、山岡鐵舟は身命を賭して西郷と駿府に會見し、勝の書面を西郷に示し、英雄西郷は之れを一讀し、其の理の正しきに感じ、戰ひの心は茲に全く去つて、此時既に平和の解決に決心したのである。パークスの干渉によりて、後日に至り西郷は平和の意を定めたるにあらず』、『斯かる事を主張するは、強いて西郷及勝と稱する曠世の大人物を陥れるものであると』、斯かる斷定が、果して正直誠實心の日本人の口より輕卒に述べ得らるべきものであらうか。
 世間周知の如く、此時西郷は、五個の條件を山岡に示し、『之れに應ぜば平和になるべし』と云つたに過ぎないのである。西郷は斷じて絶對的平和を承諾したるにあらず、既ち西郷には『和戰兩樣の準備あり』しものと云ふべく、斯くあるのが、一軍の参謀たる西郷として、必然持す可きの態度であつたと云へる。其れであるから、俗人の言ふ如くに、既に三月九日を以て西郷は、『平和解決に決心した』なぞは、理論上云ひ得可からざること明白である。又若しも西郷の心は、九日を以て絶對に和に決して居りしならば、十三日に至り、『明日は愈よ戰爭開始に付澤山の負傷者も出づ可く、之が救助を頼む』なぞと、態々横濱に人を派して、英人パークスに申出づる理由があり得ないのである。即ち九日を以て西郷の心は既に和に決したりと云ふ説は、事實が之を許さないのである。
 余は拙著『維新前後の政爭と小栗上野の死』の後編に於て、右の新説を引用し、更に自由の批判を加へたのであつたが、、斯くする事が、史を論ずるに於て正しと確信するからである之れ勿論である。然るに世人の中には、此點を捉へて『強ひて小栗を大にし、強ひいて西郷及勝の二大人物を小にせるもの』ゝ如くに批評する人あるに接し、斯かる批評を爲さるゝ人の爲に、右の釋明を試むる次第である。強ひて人を陥るは不徳であり、強ひて人を賞めるは阿諛である。余は何れも大嫌ひである。公正の觀を以て自己を固く持しつゝある。
 若し夫れ、パークスの干渉なく、如何に謝罪し恭順すとも斯かる事には一向に頓着せず、例へば會津藩に對せしが如く、西郷の軍にして無作法に江戸砲撃を開始し、『一撃必要』の初志を貫徹したならば如何、勝や山岡なぞは面目丸潰れとなり、人間として立ち得ず、『小栗の主戰論のみ獨り道理あり』しものとして、永遠日本史に傳へられたでもあらうパークスの干渉は、勝一派の爲めには救ひの神であつたと云へる。
 昨日迄は、攘夷論者であつた反徳川の連中が、一英国人の干渉に依りて、江戸城砲撃を中止せざるを得ざるに至りし事は、無限の屈辱であり、口外す可らざる憤慨であらう。パークスの干渉を告白せんよりも、「勝海舟の意見に共鳴して其の攻撃心を變じたり」と揚言した方が、確かに美しく世人には聞こへる。權略者としては、必ず此の途を擇ぶであらう。
 併し乍ら、攘夷論者が英國人の援助を求めたりし事其自體が、既に許す可らざる背信であり、政治的に無耻也と評論せざるを得ない。史論は嚴正なるを要す。
 江戸城開城の事、從来の俗説あるに拘らず、何れの方面より窺ふも、更らに敬服すべき點あるを認め得ないのである。俗説宣傳信ず可らず、國民史を正ふせんが爲めに向後史論を一新するを要する。

 122-123頁
 二十 山岡自身の述べたる西郷と山岡の談判
(目次)

 山岡鐵舟は大膽な人であつた、此人が西郷に面會せむとして、静岡迄乘り込みし事は、確かに決死的痛快の仕事であつた。併し乍ら、山岡のなせる説の爲めに、西郷は遽かに平和の人と成り變つたのではなく、左樣に單純性の西郷でもなかつた。併し乍ら、西郷は一箇の慶喜を殺すのが本來の目的ではなく。唯だ一撃を其の敵となせる徳川方に加へて、自黨の威を示し、天下を彼等の爲めに有利に平定せんとの政治家的權略を有して居たものたるは疑はない。其故に五ケ條の條件を提出し、之れを「降服規約」としたのであつた、(但し七ケ條と書いたのもある茲に山岡自身の書により五ケ條とした)一軍の参謀長としては、當然爲すべきの處置であつた。然るに、世人は、餘りに西郷を崇拝し大聖の如くに思ひ込ましめられ、西郷は静岡に於て、既に平和の決心を爲したりと獨斷して居るものが随分ある。其れは一種の盲信的歴史觀であるを悟るを要する。
 天下に、薩長の權略を憤りつゝあるもの多き時に、又自ら對敵上の機略なるを知りつゝ討伐軍に將たる西郷が、慶喜を「遠く備前に預けろ」と嚴命し、山岡に至難事を強い、三度迄も、「之れ朝命也」と繰り返し、山岡に臨める其強硬なる態度の如きは、其所に權略の閃きありて、穏和性なるものは毫末だも見られないのである。而して終に、山岡の願を容れて、慶喜に付ては可然取計ふべしと答へ其の大度を示し、事の解決を巧に圖らんとせし所は、確かに錬達な政治家ぶりを發揮しつゝあると云ひ得る。其れにしても、西郷は此れにて進軍を止めたのではなく、江戸進撃の初志を棄てたのでは斷じてなかつた。天下を爭ふ者の當然進むべき途を進んだ。之れ前に余の明にせる所であるが、此の事實を明にする爲に、左に山岡自身の書ける史實を掲げる。

 123-132頁
 明治戊辰 山岡先生與西郷氏應接筆記
(目次)

 戊辰ノ年、官軍我舊主徳川慶喜御征討ノ節、官軍ト徳川ノ間隔絶、舊主家ノ者如何トモ盡力ノ途ヲ失ヒ、論議紛紜、廟堂上一人トシテ、慶喜ノ恭順ヲ大總督宮ヘ相訴ル者ナク、日夜焦心苦慮スルノミナリ、其内譜代ノ家士數萬人論議シテ、一定到サズ、或ハ官軍ニ抗セントスル者アリ、又ハ脱走シテ事ヲ計ラントスル者アリ、其勢ヒ言語ニ盡ス能ハザルナリ、舊主徳川慶喜儀ハ、恭順謹慎、
朝廷ニ對シ、公正無二ノ赤心ニテ、譜代ノ家士等ニ示スニ、恭順謹慎ノ趣旨ヲ嚴守スベキヲ以ス、若不軌ノコト計ル者アラバ、予ニ刄スルガ如シト達シタリ、故ニ余舊主ニ述ルニ、今日切迫ノ時勢、恭順ノ趣旨ハ如何ナル考ニ出候哉ト問、舊主示スニ、予ハ朝廷ニ對シ、公正無二ノ赤心ヲ以テ謹慎スト雖モ、朝敵ノ命下リシ上ハ、トテモ予ガ生命ヲ全スル事ハナルマジ、斯迄衆人ニ惡マレシ事、返々モ嘆カハシキ事ト落涙セラレタリ、余舊主ニ述ルニ、何ヲ弱キツマラヌ事ヲ申サルゝヤ、謹慎トアルハ詐リニテモ有ンカ、何カ外ニタクマレシ事ニテモ有ベキカ、舊主曰、予ハ別心ナシ、如何ナル事ニテモ、朝命ニ背カザル無二赤心ナリト、余曰、眞ノ誠意ヲ以テ謹慎ノ事ナレバ、朝庭ヘ貫徹シ、御疑念氷解ハ勿論ナリ、銕太郎ニ於テ、其邊屹ト引受、必赤心徹底可致樣盡力致スベシ、銕太郎眼ノ黑キ内ハ、決シテ配慮有之間敷ト斷言ス、示後自ラ天地ニ誓ヒ、死ヲ決シ、只一人官軍ノ營中ニ至リ、大總督宮ヘ此衷情ヲ言上シ、國家ノ爲ニ無事ヲ計ラント欲ス、大總督府本營ニ到ル迄、若シ余ガ命ヲ絶者アラバ曲ハ彼ニアリ、予ハ國家百萬ノ生靈ニ代リ生ヲ捨ルハ、素ヨリ余ガ欲スル處ナリト、心中青天白日ノ如ク、一點ノ曇ナキ赤心ヲ、一二ノ重臣ニ計レドモ、其事決シテ成難シトテ肯セズ、當時軍事總裁勝安房ハ、余素ヨリ知己ナラズト雖モ、曾テ其膽略アルヲ聞ク、故ニ行テ是ヲ安房ニ計ル、安房余ガ粗暴ノ聞ヘアルヲ以テ、少シク不信ノ色アリ、安房余ニ問曰、足下如何ナル手立ヲ以テ官軍營中ヘ行ヤト、余曰、官軍營中ニ到レバ、斬スルカ縛スルカノ外ナカルヘシ、其時雙刀ヲ渡シ、縛スレバ縛ニツキ、斬ラシトセバ、我旨意ヲ一言大總督ヘ言上セシ、若其言ノ惡クバ、直ニ首ヲ斬ベシ、其言ノヨクハ、此所置ヲ余ニ任スベシト云ン而已、是非ヲ問ズ、只空ク人ヲ殺ノノ理ナシ、何ノ難キコトガ之アラント、安房其精神不動ノ色ヲ見テ、斷然同意シ、余ガ望ニ任ス、夫ヨリ余家ニ歸シトキ、薩人益滿休之助來リ同行セン事ヲ乞フ、依テ同行ヲ承諾ス、直ニ駿府ニ向テ急行ス、既ニ六郷河ヲ渡レバ、官軍先鋒左右皆銃隊、其中央ヲ通行スルニ止ムル人ナシ、隊長ノ宿營ト見ユル家ニ到リ、案内ヲ乞ズシテ立入、隊長ヲ尋ルニ、是ナルベシト思フ人アリ、(後聞篠原國幹ナリ)則大音ニテ、朝敵徳川慶喜家來山岡銕太郎大總督府ヘ通ルト斷リシニ、其人徳川慶喜徳川慶喜ト二聲小音ニテ云シノミ、其家ニ居合ス人、凡百人計ト思ヘドモ、何レモ聲モ出サズ唯余ガ方ヲ見タル計ナリ、依テ其家ヲ出直ニ横濱ノ方ニ急行キタリ、其時益滿モ後ニ添テ來レリ、横濱ヲ出神奈川驛ニ到レバ、長州ノ隊トナレリ、是ハ兵士旅營ニ入驛ノ前後ニ番兵ヲ出セリ、此所ニテハ益滿ヲ先トナシ、余ハ後ニ随ヒ、薩州藩ト名乘、急ギ行、更ニ支フル者ナシ、夫レヨリ追々薩藩ト名乘レバ、無印鑑ナレドモ、禮ヲ厚シ通行サセタリ、小田原驛ニ着タル頃、江戸ノ方ニ兵端ヲ開ケリトテ、物見ノ人數路上ニ絶ズ、東ニ向テ出張ス、戰爭ハ何處ニ始リシト尋シニ、甲州勝沼ノ邊ナリト云、灰ニ聞近藤勇甲州ヘ脱走セシガ果シテ是ナルベシト心ニ思フタリ、晝夜兼行駿府ニ到着シ、傳馬町某家ヲ旅營トセル大總督府下参謀西郷吉之助方ニ行テ面謁ヲ乞、同氏異議ナク對面ス余西郷氏ノ名ヲ聞事久シ、然ドモ曾テ一面識ナシ、西郷氏ニ問曰、先生此度朝敵征討ノ御旨意ハ、是非ヲ論ゼズ、進撃セラルヽカ、我徳川家ニモ多數ノ兵士アリ、是非ニカヽハラズ進軍トアルトキハ、主人徳川慶喜東叡山菩提樹ニ恭順謹慎イタシ居リ、家士共ニ厚ク説諭スト雖モ、終ニハ鎮撫行届カズ、或ハ
朝意ニ背キ、又ハ脱走不軌ヲ計ル者多カラン、左スレバ主人徳川慶喜ハ、公正無二ノ赤心君臣ノ大義ヲ重ンズルモ、
朝庭ヘ徹セズ、故に余其事ヲ歎ジ、大總督宮ヘ此事ヲ言上シ、慶喜ノ赤心ヲ達セン爲メ、是迄参リシナリ、西郷氏曰、最早甲州ニテ兵端ヲ開シ旨、注進アリ、先生ノ言フトコロトハ相違ナリト云、余曰、夫レハヨシト云テ後ヲ問ス、余曰先生ニ於テハ戰ヲ何途迄モ望マレ、人ヲ殺ヲ専一トセラルヽカ、夫レデハ王師トハ云難シ、天子ハ民ノ父母ナリ、理非ヲ明ニスルヲ以テ王師トスト、西郷氏曰、唯進撃ヲ好ニアラズ、恭順ノ實効サヘ立ハ、寛典ノ御処置アラン、余曰、其實効ト云ハ如何ナル事ゾ、勿論慶喜ニ於テハ、朝命ハ背カザルナリ、西郷氏曰、先日靜寛院宮天璋院殿ノ使者來リ慶喜殿恭順謹慎ノ事嘆願スト雖モ、只恐懼シテ更ニ條理分ラズ、空ク立戻リタリ、先生是迄出張、江戸ノ事情モ判然シ、大ニ都合ヨロシ、右ノ趣大總督宮ヘ言上可致、此所ニ扣ヘ居ルベシト、宮ヘ伺候ス、暫アリテ西郷歸營シ、宮ヨリ五箇條ノ御書御下ゲ有タリ、其文ニ曰、
 一 城ヲ明渡ス事
 一 城中ノ人數ヲ向島ヘ移ス事
 一 兵器ヲ渡ス事
 一 軍艦ヲ渡ス事
 一 徳川慶喜ヲ備前ヘ預ル事
西郷氏右ノ五ケ條實効相立上ハ、徳川家寛典ノ御所置モ可有之ト余謹デ承リタリ、然レドモ、右五ケ條ノ内ニ於テ、一ケ條ハ拙者ニ於テ、何分ニモ御請難到旨有之候、西郷氏曰、夫ハ何ノ箇條ナルカ、余曰、主人慶喜ヲ、獨リ備前ヘ預ル事、決テ相成ザル事ナリ、如何トナレレバ、此場ニ至リ、徳川恩顧ノ家士、決テ承伏不到ナリ、詰ル處、兵端ヲ開キ、空ク數萬ノ生命ヲ絶ツ、是王師ノナス所ニアラズ、サレバ、先生ハ只ノ人殺ナルベシ、故ニ拙者此條ニ於テハ、決テ不肯ナリ、西郷氏曰、
朝命ナリ、余曰、タトヒ
朝命タリト雖モ、拙者ニ於テ決テ承伏セザルナリト斷言ス、西郷氏又強テ、
朝命ナリト云、余曰、然レバ先生ト余ト其位置ヲ易テ、暫ク之ヲ論ゼン、先生ノ主人島津公、誤リテ朝敵ノ汚名ヲ受ケ、官軍征討ノ日ニ當リ、其君恭順謹慎ノ時ニ及ンデ、先生余ガ任ニ居リ、主家ノ爲メ盡力スルニ、主人慶喜ノ如キ御所置ノ
朝命アラバ、先生其命ヲ奉戴シ、速ニ其君ヲ差出シ、安閑トシテ傍觀スル事、君臣ノ情先生ノ義ニ於テ、如何ゾヤ、此儀ニ於テハ、銕太郎決テ忍ブ事能ハザル事ナリト激論セリ、西郷氏默然、暫アリテ云、先生ノ説尤然リ、然ハ則徳川慶喜殿ノ事ニ於テハ吉之助屹ト引受ケ取計フベシ、先生心痛スル事ナカレト誓約セリ、後ニ西郷氏余ニ云フ、先生官軍ノ陣營ヲ破リ、此ニ來ル、縛スルハ勿論ナレドモ、縛サズト、余答曰縛ニツクハ余ガ望ムトコロ早ク縛スベシト、西郷氏笑テ曰、先酒ヲ酌ント、數盃ヲ傾ケ、暇ヲ告レバ、西郷氏大總督府陣營通行ノ符ヲ與フ、之ヲ請テ去ル、歸路急行、余神奈川驛ヲ過ル頃、乘馬五六匹ヲ牽行アリ、何レノ馬ナルカト尋シニ、江川太郎左衛門ヨリ出ス處ノ官軍用馬ナリト、其馬二匹ヲ貸ベシト、直ニ益滿ト共ニ、其馬ニ跨リ馳テ品川驛ニ到ル、官軍先鋒既ニ在リ、番兵余ニ馬ヲトヾメヨト云フ、不聞テ行ク、急ニ三名走リ來リ、一人余ガ乘タル馬ノ平首ニ銃ヲ當テ、胸間ヘ向ケ放發セリ奇ナル哉、雷管發シテ彈丸發セズ、益滿驚テ馬ヨリ下リ、其兵ノ持タル銃ヲ打落シ、西郷氏ニ應接ノ云々ヲ示スニ聞ズ、伍長躰ノ人出デ來リ、其兵士ヲ諭ス、兵不伏ナガラ退ク(薩藩山本某ト云フ人ナリ)若銃彈發スレバ、其所ニ死スベシ、幸ニ天ノ余ガ生命ヲ保護スル所ナランカト、益滿ト共ニ馬上ニ談ジ、急ギ江戸城ニ歸リ、即大總督宮ヨリ御下ゲノ五ケ條西郷氏ト約セシ云々ヲ、詳ニ参政大久保一翁勝安房等ニ示ス、兩氏其他ノ重臣、官軍徳川ノ間、事情貫徹セシ事を喜ベリ、舊主徳川慶喜ノ欣喜言語ヲ以テ云ベカラズ、直ニ江戸市中ニ布告ヲナシタリ、其大意如此、「大總督府下参謀西郷吉之助殿ヘ應接相濟恭順謹慎實効相立候上ハ、寛典ノ御処置相成候ニ付、市中一同動揺不致、家業可致、」トノ高札ヲ江戸市中ニ立、是ニ於テ市中ノ人民少シク安堵ノ色アリ、是ヨリ後、西郷氏江戸ニ着シ、高輪薩邸ニ於テ、西郷氏ニ勝安房ト余ト相會シ、共ニ前日約セシ四ケ條、必實効ヲ可奉ト誓約ス、故ニ西郷氏承諾進軍ヲ止ム、此時徳川家ノ脱兵ナルカ、軍装ヲセシ者、同邸ナル後ノ海ニ、小舟七八艘ニ乘組、凡五十人計、同邸ニ向ヒ寄セ來ル、西郷氏ニ附属ノ兵士、事ノ出來ルヲ驚キ奔走ス、安房モ余モ之ヲ見テ、如何ナル者カト思ヒタリ、西郷氏顔色自若、余ニ向ヒ笑曰、「私ガ殺サレルト兵隊ガフルヒマス」ト云タリ、其言ノ確乎トシテ不動事、眞ニ感ズベキナリ、暫時アリテ、其兵ハ何レヘカ去ル、全ク脱兵ト見エタリ、如此勢ナレバ、西郷氏應接ニ來ル毎ニ、余往返ヲ護送ス、徳川家ノ兵士、議論百端、殺氣云可ラザルノ秋、若西郷氏ヲ途中ニ殺サント諮ル者アレバ、余前約ニ對シ、甚ダ之ヲ耻ツ、萬一不慮ノ變アル時ハ、西郷氏ト共ニ死セント心ニ盟テ護送セリ、此日大総督府下参謀ヨリ、急御用有之出頭スベシトノ御達アリ、余出頭セシニ、村田新八郎出來リ、「先日官軍ノ陣營ヲ足下猥ニ通行ス、其旨先鋒隊ヨリ通報ス、我ト中村半次郎ト、足下ヲ跡ヨリ追付、切殺サントセシカ、足下早クモ西郷方ヘ到リ、面會セシニ依テ、切損シタリ、餘リ殘念サニ呼出シ、是ヲ云フノミ、別ニ御用向ハナシ」ト云、余曰「ソレハサモ有ベシ、余ハ江戸兒ナリ、足ハ尤モ早シ、貴君ハ田舎者ニテノロマ男故、余ガ早キニハトテモ及ブマジ」ト云テ、共ニ大笑ヒシテ別レタリ、兩士モ其時軍監ニテ、陣營ヲ護リナガラ、卒然其職務ヲ失ヒタリシヲ遺憾ニ思シト見エタリ、如此ノ形勢ナレバ、余ガ輩鞠躬盡力シテ以テ、舊主徳川慶喜ガ君臣ノ大義ヲ重ンズル心ヲ體認シ、謹デ四ケ條ノ實効ヲ奏シ且百般ノ難件ヲ処置スル者、是即予ガ國家ニ報ル所以ノ微意ナリ。
  明治十五年三月          山岡鐵太郎

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 二一 二本松侯夫人の避難實記 (目次)

 六十年前、東北人が、官軍と呼べる西南軍と戰つたのは、「幕府を佐ける」と云ふような時代錯誤觀から生じて居たのでは、斷じてない。前年十月に、既に全く消滅したりし幕府を佐けるなぞは、理としてあり得可らざる事なのである。當年の東北諸藩人を目して、「佐幕派」なぞと云ふのは、其以前の事實と混同して云ふ誤認か、或は藩閥側の惡宣傳と見るのが至當である。
東北人は、無理槍に戰を強いられた、天下取りに狂奔したりし西南人の巧妙なる策略に翻弄せられたのであつた。東北人としては、全然自衛上已むを得ざる非常手段であつた、追々と、此等の史實は、明白になつてくる筈である。
 東北人は、誠に氣の毒であつた、東北諸藩に於て、多くの能者勇士を失つた事は、實に日本國の爲めに、莫大の損失であつた。政争爭の罪惡也。
 二本松藩の如きは、從來の世評に反して、好く戰つた。而して軍の中心力が、遠く外にありし間に、二本松には、敵軍迫り來るの危急に瀕した。老臣等は、評議して、藩侯の夫人及老夫人等をして、夜三更城外に逃避せしむる事にした。這は藩士として適切の方策であつた。夫人等を辱しむることなぞは、彼等敵軍としては、全く無關心な事實があつたからである。(此事實は諸種の記錄にある)、婦人として、斯る場合の苦闘悲憤は、如何に深甚なものであつたらう。
 當時藩侯夫人のものされたものとして、世に傳へらるゝ日記文がある、國民の歴史上の参考として、是非とも後世に傳へたきものであるが故に、茲に此の文を掲げる。
 其の文中に、敵軍の中に交れる大垣藩の事など囘想せられ、他藩領内に遁れ入りたることを、武家の夫人として耻ぢて居らるゝ所の如きは、夫人の胸中の苦悶を察し得らるゝのである。大と小とを問はず、徳川時代の大名と云へば、尊き身分であつた、此の大名の奥方が、萬岳深く、身を以て逃れ行かれたる當年の悲哀事は、此の記事に依りて、明かに知り得らるゝのである。又此記事を書かれたる武家奥方可憐の心事と修養とは、以て世上に傳ふ可き史實なるを想はしむる。

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 御道迺記 (目次)

 辰といふ年の卯の花月の末の頃より、世の中おだやかならず、白川てふ所まで、敵押寄せ、數度の戰爭ありけるよし、仙臺公始め後家來、數多出て戰ひしに、敵は中々強き事、何とせんすべもなく聞こへ、我君には、五月雨の末頃より、御身心つねならずおはしませしに、またも五郎の君も、水無月の初の四日頃より、一かたならぬ病の出侍りて、三度の食さへ好ましからずと聞へ、自分はじめ、一入に思ひ煩ひつゝ、いま五郎の君には、吾君病に臥し給ひぬれば、猶更にいさましう侍らねば、皆人々もむねいと苦しふ思ひけるに、同じ十日の頃より、五郎の君にも、いといと苦しふ見ひけるに、自は神と佛に誓ひつゝ、其甲斐もなく、中の六日の夜、安達野草場における露よりも、いと猶もろく、消え給ひし君の面かげを見るに、かなしさなつかしさ、涙に袖も濡れ染る折柄、村雨の降るさへも、いとゞなる、聞に淋しさ、いや増して、播州とかいふてうところの、親はらからも聞給ひなば、いか斗り嘆き給はんことの思ひやられて、涙の川と諸ともに、流るゝも、今ははや歸りもやらぬ君とのみ慕ふも、はかなませし世のことのみ、いとゞ思ひ侍るに、世の中いとゞおだやかならず、卯月末の七日朝まだき、敵の押寄せ來つらんも難斗と、人々の物語りに心ならす、丑亥の刻過る頃とも覺しき儘、休み玉はんと思ひ、閨にいたり、暫しまどろむひまもなく、奥田の自分に逢はねばならずと云ひしかば、おき出つゝ逢しに、敵の押寄せ給はんと思はるれば、立出給ひといゝしかば、むねさへ、いとゞ轟しに、今はゝや詮かたもなく思はるゝ、峯子菊兒久美兒には、いといと心地能く寢ねけるに、人々の騒ぎ立つ夢に目覺つゝ、何事やらと思ひけん、おき出驚きしさま、何といはんも、只むねのみふさがりて、峯子は菓子樣與へしに、子の刻過にもなり、常ならずとや思ひけん、いそぎかたはらの人の脊にのみつきそいて、いとあはれに見えける有さま、もはや供も揃ひけるよし、聞しかば、名殘おしき我住馴れし家路をも夜すがらに、別れ行く人のかなしさつらさ、爰よりして三年の跡、御二た親君の住給ひぬる、宮下てふ所の屋形にしばしば休らひ給ひて、御母君妹君には、この所へは寄りたまはぬと聞ひ、暫し休らひて、また駕に打乘り、水原といふ所に、いそぎつかんと思ひしに、峯子には、何とせん、道すがらも、兎角泣居るおさな兒の幼な心の一筋に、我住方の家路のみ戀しとやむへかりのひて、附添ふ人々のこゝろのうち思ひやられて、いといとくろふさ、晝なかにて、暫しは慰にも成り侍れど、秋の夜のしのゝめちかく、風さへいとゞひやゝかに思はれつゝ、合や惡に、空はくらく霧のみ深ふはべれば、猶更に自分はじめ、いとゞ哀れに悲しく思はるゝ折しも寅の刻にもおはしけん、ほのかに聞へし鐘の音も、あはれにや、程もあらず、吉倉とかいふ處に來りしに、はや夜もしのゝめの空も、ほのかに見ひ渡り、暁告る村千鳥、ねぐらを出る喜をさへ聞もなつかし、ふた本の松屋形を立出て、行衞は、いとゞ白川の關さへ、今はうらめしく思ひつゞけて、よふよふに水原てふ所に着はべれば、御母君妹君にはゝやまたせ給ひておはしければ、ぬかづきて、母君にも夜すがら、さまさまに御身心を盡し給ひしかば、御障りもありはべらんかと思ひけるに、中々に御年は重ねさせ給ひけれど、御心さわやかに、渡らせ給ひて、さまさまの御物語に暫し呉し侍べりぬ。

   二本の松の屋形を夜すがらに
     あとに見なして行も悲しき

水原といふける所にて、朝飯をしたゝめけるに、はや日も高ふ出、辰の刻過にもなりなんと覺しき頃、何やら物さわがしう聞えければ、御母君にも、何事やらと思ひ給ひぬるうち、知還温齊といふける人の出て來りて、二た本も何やら危きとか聞しかば、爰より庭坂てう所まで、急ぎ行かねばならずといふければ、母君はじめ、皆々うちむれて、立出る心も、いとゞ哀なり、秋の日なれば、みじかくてはや程もなく、午の刻にもなり侍れば、大森とかいふ所のいとせまき宿につき侍りて、晝飯をしたゝめしに、峯子初め幼子心地よげに休みけれど、その賑はしき處事、何といはんかたもなき儘に、目覺して、峯子喜久子には、菓子などほしうもなり給ひなんといゝわびしに、飯さへも中々に出侍らねば、いとさわぎたち、ものさびしき中にも、おさな子の辨へさいもなきものゝ、心の内を見るに、猶ましてや、自分のむねのくるしさ、いとおしさよ。
我君にも二た本の松を立出て、此所まで、程ものう着給ひけるよし聞へ、御母君始にもいそぎ出行くに、いとあつう夜すがらの道すがら、皆人々も勞はれて玉ひたれど、是より庭坂というてう所まで、行かねばならずと聞えつゝ、秋の日の申の刻過るも成り侍らん頃、須川といゝし所に川のあり、爰に渡し場もありければ、いそぎ越侍らんに、舟とてもなく水の音高き事、駕籠のうちより見るさへも、何とのうおそろしう思はれけるに、かたはらの人々等は、皆歩み越けるに峯子はじめには、いかにせまじやと思ひ峯子は駕籠さへも、暫し好まねば、猶更に案じはびつゝ、行過るに、又も渡しのある、日暮るゝばかりなるに、丸き一筋の橋、駕籠にても通り兼ねれど、漸くに渡るも、いといと危き事に思ひ、心のうちの苦しうさ、今はゝや、神や佛の御たすけをのみ、蒙らんと思ひつゝ、其影にや、皆人々も暫障りもなく越しけるよし早や日も西に入そむる、いつ國の宿や、道すがら聞けるに、清水寺といふ寺に着なんと聞えければ、いそぎつき侍らんにも、道はゆかず、實に秋の夜なればいとゞ猶哀を添ふる虫の音のほのかに聞へて、行過るに、やうやう清水寺に着侍る、峯子初めには、いかゞせしや、今に見へず、いとゞこがれはひつゝ、まちたるに、ほのかに燈し火の見へたれば、いと嬉う、漸々に着、夜もはや戌の刻過になり侍り、清水寺にて、今は皆々休しとなん。

 須川とかいゝし渡しを越る身の
      哀につらき浮世とぞ思ふ
 かく斗り浮世の中のかはりてや
      昨日も今日も代る旅寢に

  今暫し、此寺になんや休らひ給ひと聞ひ、母君はじめ、皆人々も髪など結び直しけるに今日は、末の九日巳の刻過にも成り侍りしに、何やら、遥に煙り立けるよし、人々の物語にこはいかに、あの煙りやとたずねしに、今はゝや二本松に、敵の入込給ひなんあやうきとか人々のいゝつゝ程もなく、城を落しと聞ひ、爰も立出よと、いゝける儘に、むねふさがり、いとゞ哀れに思るれど、詮かたなく女子のあさましさ、涙のみ先立、行先も思はれて、是よりは、米澤公の恵みを受け侍るよし聞へ、申の刻頃、清水寺を立出て、道さへも近からねば、又も日も暮るかと、實に吾妻より下り給ふ折からはいさましう旅粧ひなどせしに引替て、皆人々も哀に出行つゝ、折から空も曇り、道さヘもはかゝね、一切かくしとかいふ所よりは、坂のみあり、小高くなりしに夕日の山の端に入そむるに、何か遥に光りの見へ、駕籠に附添ひける人々に聞侍るに、あれは二た本の燒け給ひたる光りかと思れつゝと物語る、いとゞ涙のみ出づゝ、早暫六つ時頃にもなりけるに、村雨の降り出しければ、皆人々も雨具さへもなく、殊更憐れなる姿を見るゝ、も、いとゞ悲しう思はれて、

 夕間ぐれはるかに立けぶりをは
       見るにつけてもあはれ添ぬる
 村雨の降につけても戀しさの
       なをまさり行く二た本の松

道すがらよみつゝ、奥深き山道を行過るに、家も遠く、家の子達も、皆々あとより出行に、幼子泣居る聲の聞しかば、むねもふたかりて、泣幼子よりも、親たちの心をば、我身に引くらべ、いとゞ涙のやるせなく、思ひけるに、是よりして泊り給ひける所までは、四里もありしと聞き、何といはんも、只情のう、殊更道さヘもおくらく、燈火さへも、一ト二、夕なれば、尚さら道もはかどらず、漸々くに戌の刻過頃、季平着しに、いらせ給ひければ、自らは峰子をいだき、休み侍らんにも、丑の刻とも覺しき頃、我君の入らせ給ふと聞へけるに、皆起き出て侍ける、程もなく、我君にも入らせ給ひて、母君初にも逢ひ、さまざまの物語のあり、我君には、御身心常ならずおはしけるに、夜すがらあゆませ給ひしに、御物語りありて、はや夜も程もなう明けなんに、爰に休らひて、我君には、夜も明けしかば、爰を立出で給ひぬ、御母君初めには暫し休らひて、立出侍りぬ爰よりして、産が澤とかいゝし所に、關門のあり、此所我君はじめ打揃はねば、米澤公も通し侍らぬと聞へ、程ものう、産が澤に來りしに、中々に通し侍らず、此所にては、家の子達も、皆打むれて、いとゞ哀の姿見へけるありさま、何といはんも、涙のみ、待ちわびる事は、五つ迄頃より、はや午の刻にもなり侍らんかと思はれて、皆人々も腹さへすき、いとゞ情けなき姿の見へ、母君妹君みずからは、駕籠に打乘り給ひけれど、峯子はじめ、附添ひ給ひける人々には、道すがら、足さへ、暫し休ろうこともなり侍ねば、いといとつらさまさるらん、殊更空も曇りしに、風さへも寒ふ思ふ折柄、村雨の降出しければ、獨更に悲しらふ、實に幼子達のいとしう思はるゝに、道さへはかどらず、漸々未の刻過にも、板屋宿といふ處につき、此處もいとせまくるしうなん、漸々晝飯なぞしたゝしに、はや黄昏の頃、敵の押寄侍らんもはかりがたしと、何やら人々の聲高く物さはがしう聞ひしかば、心も落付かず、此所に敵押寄せなば、いかゞすべきと思はれて、夕べの飯さへむねに通り侍らず、是よりしては、行先も、迚も押はからずと聞へ、心の中もいとくるしう、程もなく、人々の靜まりしかば、今宵は爰にかり枕、雨も頻に降りそゝぎ、いとも哀れに聞へて伏かとすれど、いとゞ猶寢られもやらず、さまさまの事のみ思い出して、大垣てふ所の御二御君には、いかにませますや、御年も重ね給ひ、自らも三十路三つになりぬれば、海山遠くへだゝりても、深き御恩を送り奉りしと思ふに引替て、こたびの事なぞいかばかりの御身心を思ひおしはかり奉り、せめては、み玉章なりとも、送り給ひなば嘸悦びもありなんに、きさらぎの頃よりは、暫しも音づれもなく、其のなつかしさ、七年の春、二本へ引越給ひたる折柄も、御目通りも侍らず、其儘御別れ申、猶更なつかしさの、明暮忘るゝ隙もなく思はるれば、夢になりとも、御姿を思ひつゞけて、夜もすがら、思ひ思ひては、夢の中にや、御姿の見へてはいとゞ嬉しさ御なつかしさ、さまざまの御物語樣もありければ、夢とも思はずしけるに、はや夢もさめ、御名殘りおしさのみ、盡しかねつゝ、御便りさへも、今はゝやなき儘に、暫しば、御目通りさへも、いつの世にかと思はれて、涙に袖のやるせなく、世の中をのみうらみつゝ、朝な夕なに、神や佛に、ちかひつゝ、せめては、御みの御便りをと祈り、長き月日を送りなば、又よき折柄のありて、御目通りも叶奉らん事のみ、祈りつゝ、峯子を思につけても、御二親君の深き恵しは、富士の上よりも、猶高く思ひしものをいかにせん、浮世の中とは思ひども、案事させ給ふ御身心は、言葉にもいゝ盡されず、むねさへいとゞ苦しうさ、涙に袖もほしかぬるに、夜もほのほのと明渡り、雨もおやみしに、けふは板屋峠と聞昨日の雨に、道さへも、はかどりかねつ、聞しに増る箱根山も及びなきかと思はれて、詠めつゝ、、歩みし人の心をば思ひやられて、猶更にいとゞ苦しうおはしけるに、ほのかに家のありければ、人々も皆嬉し氣に見へ、茶杯をこひて、暫し休み、大津宿という所にて、晝飯をしたゝめ、いそぎ立出で給ひぬ、程もあらず、米澤表に、戌の刻過頃着けるに、いかにせん、女子なれども、何とのう恥かしう思はるれば、ましてや、男達の心の中はいかばかりかと思ひ、漸々に處に落つきしに、此所にて、神明の神主ときゝ、今宵よりは此處を泊りと定め、暫しは心も休らひ給ひと思ひ、いとうれしうなん、兎角さまざまにもてなし呉れるに、猶更心もいといとう侍れども、是もせんかたなく、自から始の宿となり侍りぬ、母君妹君には暫し此處よりむかひの方に落付附ふよし、是も米澤公より仰ありしと聞き、昔より人々物語にきゝしに、暫しもたかはず、實に我君始家の子達も、皆殘りなく厚き恵をかけ給ひし事は、千尋の海も及なきこと、さらに思ひ侍りぬ、葉月初の九日、二人の子達より、仙臺の方へ行かねばならつと聞ひ、何とのう名殘のおしまれて、涙にのみくれけるに、母君妹君にも、會津の方に移り給ふとか又また聞ひ、同じ中の一日、米澤表を出給ふに、何となう御名殘りつくされず、泪のみ先立ち、程ものう、聟養子とかいうて、頼丸君を給りしに、いといと其御情けは、中々筆にも盡されずと思ひしに頼丸君の方より、我住方に來り給ひて、悦びの盃を取かはしにける嬉しさに、

 かくばかり厚き情にふたもとの
       松の綠も色を添ひつゝ
 今年よりいや獨しげき幾萬代
       みどりをそへよ二本の松

程もなく、十五夜の月を詠めしに、あはれに見え、常ならば、月もおもしろう詠めけるに、今年より月もいとゞあはれげに見へ、心もすみわたらねば

 いかにして變りしさこそうらめしき
        さやけき月を見るにつけても

今度は、會津の方へ敵押寄せ來つらんと聞く、母君妹君いかにおはしますらんと思ひしに、會津の方より、家の子の米澤に着き、母君妹君には、會津公と諸共に御籠城とか聞へ、又御立もありしと聞へさまざまの物語、いといと御年も六十峠六つにもなりぬれば、自からも、殊更に思ひ、神や佛にちかひつゝ、長き別れにも成り侍らんかと思ひ、實に泪のみくれしに、同末の三日朝まだき、會津の方を出給ふよし聞へ、母君妹君にも御乘物さへもいとむづかしう、殊にあやうき御難のありけると聞ひ、夜すがら、ひばら峠とかいゝける所を、子の刻頃燈し火迚もなく、明松とかいゝしものを、一と二たつにて、越し給ふよし、嶺の峠は、中々に板屋峠よりも、いといと危きとは人々の物語に聞、三度の飯さへもなく、御泊りの宿さへもなきよし、實にじつに人々の物語でさへも、思ひやられて涙のみ、よふよふに末の九日、晝とも覺しき頃、今日は母君もかへり給ふよし、云ひければ、いといと嬉しう、自からも、とう思ひどもまゝならず詮かたもなく濱女を出しゝに、黄昏の頃、御着給ひしと聞ひ、母君妹君かたはらの人々までも、津々かもなきよし、御さへやかにわたらせ給ひて、聊御勞れさへもなく、殊更悦び給ひしと聞、嬉しくなん思はるゝに、よふよふ菊月初の頃、二本も、はや降参とか聞へ、日野氏二本へ來りしといゝ出しに、いとうれしく、程もなく、歸られ侍りしと聞、また名殘りおしまれて、今日も、中の三日後の月見といゝて宿より、御酒さまざまの品給りければ何とのう二た本の事思はれて、

 長月の空さへいとゞ澄渡り
       かけもなつかしふたもとの宿

同じ中の六日、爰を出よといゝ侍るに、母君には、中の五日に、米澤表を立出、自からは、六日辰の刻頃、爰を立出て、大澤宿に着しに、今度は、いそぎ行にも及ぬかと聞ひしかば、今宵は爰に泊り侍りぬ、七日朝立出て、板屋峠を行に、今度は、雨もなく、道すがら、四方の山々谷かけなど、いと美しう見へける有樣に暫しは憂き事を忘るゝ計に見ひ、實に米澤領の紅葉は、二た本の紅葉より、一入そめける有樣、言葉にも盡しかぬれど見へし儘に詠み侍りぬ

 安達太郎の山の錦もおよびなき
       から紅の木々の紅葉は
 紅葉ばの木々の錦を見渡せば
       しばしはうきもわすられにけり

かくていうて行けるに、はや晝飯にも成りぬれば、季平に行んと聞たるに、彼の所には行かねじとや、切からしとか、いふてふ所、いといとむさぐるしき宿のあり、此所にていそぎ立て、庭坂てふ所に泊りぬ、八日朝辰の刻頃、庭坂を立出て、夫れより暫し行に櫻本とかいゝし名主のありて、爰にて立寄給ひと云ける儘に、寄りしかば、赤き飯に御酒さまざまの品の出しかば、皆かたはらの人々、殊更悦びびうちむれて、たべ侍る風情のおかしさいはんかたなく、夫れより程もなく、須川の渡し場に懸りしに、今度は、危き川も立退き給ひしに引替て、皆板もて作り、暫しはおそろしくとも思はれずしけれども、立退給ひし時の事のみおもはれて、詠め越せしに、はや間もなく、大森につき晝飯をしたゝめ、道さへも廣からねば、殊に空もうらゝかなれば、自からも駕籠より出て、歩みしに、かたはらの人々も、はづかに四人が程のみにて、漸々歩み、通に石坂のみ多く、暑さは暑し、咽さへもかはきぬれど、湯水さへもなく、折々は、木陰に休らひては、又あゆみしに、一理餘りもありけるよし、漸く水原に、申の刻頃侍り、爰に二夜泊りぬといゝける由、いと嬉しう思はれて、申の刻過につき侍りぬ。

 けふはまた我住馴るふたもとに
       歸り行身ぞ哀なりける

 
画像左:正三位丹羽長國公小影(明治三六年一一月七〇歳)
画像右:丹羽長國公夫人久子小影(明治三一年四月六三歳)
「道の記」からの写真を編集し掲載した。

註:『戊辰戰記 上下合巻 全』「第十八 二本松之戰」参照

 150-153頁
 二二 岩瀬肥後守の人物と事業 (目次)

 余は常に岩瀬肥後守を敬慕する一人である、此人ありしが爲に、模範的條約成立し、他の列國之れに倣ひ、日本に不名譽と不利益となからしむるを得たのである。日本の今日の西洋文明は、此の人の先づ開ける所也とも云ひ得るのである、敬意を表せざるを得ない。
 人或は領事裁判權の附しありしを指して屈辱と云ふ、併し乍ら、之れ無理の注文である、昔し新井白石の朝鮮と交渉せし當時より、「日本人は日本法に則り、而して鮮人は朝鮮の法に則り處罰せらるべし」と定められたのであつた。斯く考へるのが、昔しの人として正當なのであつた。夫故に、土耳古は歐人と條約を締結するに付て、歐人は歐法に依り、土耳古人は土耳古法に依ると定めたのであり、之れが自國を本位とする正當のもの也と信じられたのである。而して之れが白人對東洋人の國際法則となつたのである。徳川幕府の時代に於て、米人は米國の法規に依りて裁判せらるべしとなせしは、何等不法にあらず、屈辱にあらざりしものと見るのを公正とする。外國人側から考へて見るときに、法系を異にする日本に來りて、日本法の適用を受けるのであつては。一日も晏如たるを得ざるは知れた話であり、和親貿易は事實爲し得ざること明白である。領事裁判繼は、彼我の法系や政治や習慣やが一致し來れば、必然に取り去らるべきものなのである、此れ岩倉、伊藤、大久保等が、明治五年米國に渡りて、其の高慢なる揚言にも似ず、條約の改正を爲し絵図、其の儘に歸國し來つた所以である、岩瀬の爲せる所正し。
 岩瀬は、ハルリスと十三囘談判したが、ハルリスの主張に少しでも非理なるものあらば、之れを直ちに衝き込んだ、ハルリスは、岩瀬の論理的なるに心から敬服したのであつた。斯くして條約は道理ある形體のものとして出來上つたのである、ハルリスは、其の日記に、岩瀬を賞讃して後世に書き遺したのであつた。岩瀬の如きは、日本國中にて、外交家として當時第一人者であつた事が分る。當時の公卿諸氏なぞは、世界を知らず、日本を知らず、江戸を知らず、話にはならなかつた人である。條約の事などにて、偏見固陋の人人を相手にするのは無用であつた、當時の各藩の攘夷論者が、岩瀬を罵りしは、天に向かつて唾するが如きものであつた。
 岩瀬は公卿等と直接會見して談論すれば、公卿等は一言の辭さへ發し得ざる程に、其の愚を曝露して耻ぢ入た事であらう、岩瀬も死を決して之れを欲した。然るに、「從五位之下にては堂上に昇れず」と公卿等は稱し、岩瀬を會議に加はらしめなかつた。當時の固陋なる公卿等は、國事よりも、位の上下を重要視したのであつた。難ずべき態度と云はざるを得ない、或人は此事に付て「言を其の職の卑に託して」と書いて居られ又某氏は「忠震卑賤之職を以て」と批評して居らるゝが、之れは甚だしい誤りである。岩瀬の職は外交の重職である、幕府の旗本である、爵位は五位である、國家政府の重要なる地位に居りし人である、「職の卑賤」とは何たる暴評であるか、生家は比較的卑しとでも云ふならば、其は當れり、今人は「旗本の地位」を知らず、又幕府と地方の藩とを混同視する人甚だ多し、幕府時代には、大名とても、多くは從五位であり、職としては旗下の下に居たのもあつた、江戸登城の往來にて兩者出會せば、互に輿の小窓を開いて、對當の敬禮を爲したのである。水野筑後守が長崎に至れる折、鍋島藩主其人が如何に之れを迎へたるかは、別節にも引用しあり、史を匡すの心あるなれば、旗本は地方の藩士とは身分が違つて居つた事を研究せらるること肝要である。岩瀬は從四位ならざりし爲めに、堂上に入るを拒絶せられたのであつた、職賤しと云ふは、歴史の不知と評せざるを得ない。
 岩瀬が、井伊大老より排けられたのは遺憾であつた、併し乍ら、家茂は慶喜に優る賢者であつた、此人を排して、先づ慶喜を立てん事を主張せしは、此點は明也と云ふを得ない。攘夷家水戸の昭齊を立つるの政治上當時危險なりし事は、察せらるべき筈であつた。
 岩瀬が勅允なくして、調印の實現を大老に向つて説きしは、國家本位の政治家として正しと云ふべきである、「大政の御委任」は、國家の二百年來の大法則でありし時代に於ては、此の御委任の通りになして、一切の責任を負ふのが正しと云ふ可きである。法理上斯く論ぜざるを得ないのであり、何れの時代としても、此の理は變る事なしと信ずる。反對派が「違勅々々」と云へりしは、政爭であり、理論ではない、政爭的の論爭ならは、何分傾聽の價値なしと云ふのが、公正觀であらう。

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 二三 幕府倒滅の理由に關する徳富氏の評論 (目次)

 東京日日新聞に、以前よりの續きものたる蘇峰生の名を以てする「日本國民史」と云ふのがあり、「幕府米船來航後の措置を上申す」と題し、其の後に、「斯る次第なれば、江戸と京都との外交に關する知識及其の感情には、餘程の差別が存したることは、之を測定するに難くない。而して此の差別が、徳川氏の最後まで附き纏ふて、遂に徳川氏は心ならずも攘夷の詔を奉じ、之を奉じつゝ、其の實行を果さず、之を果たさゞるが爲めに遂に自ら、倒るゝの已むなきに至つたのだ、然も事をして此に至らしめたるは、畢竟米國船來航の當初に於て、幕府が自ら其の事情を申明し、國是の存する所を、精細公明にに之を奏上し、少くとも幕府と朝廷とが、對外問題に付て、歩調を一にするの道を取らなかつたことが、其の失策の根源でであると云はねばならぬ。要するに當初の氣休め文句が、遂に幕府を禍するに至つたものと云はねばならぬ。」と書いてある、如斯の批判が、國民の歴史を書く人として、公衆の前に公然と爲され得るものならば、今の史家とは誠に簡疎淺薄なものと云はねばならない感がする。
 徳富氏の説に依るときは、「徳川幕府は攘夷を果たさゞるが故に、遂に自ら倒るゝの已むなきに至つたのだ」と云ふにあるが故に、其れならば、「攘夷のの勅を實行すれば、徳川幕府は倒るゝ事はなかつた」と云ふ事を反面に主張するのである乎、其れでは徳富氏は、攘夷は之れを行ふ可きものとなし、之れを行ふを正しきものと論ずる主張となる理論であり、從前の言とは撞着し來りて、不一貫の論者たるを表白する事にになる。又徳富氏の云ふが如くならば、幕府の不倒滅を好むが如き論客に見へ、王政維新を呪ふが如くに聞へるが、果して左樣な意見を有せらるゝなりや、議論には正面と反面との存在するを顧みらるべし。
 余は幕府側の亡びたる人民として喜ぶものである、必然の事也と之を見る。之れを事實に依つて見るに、幕府に失政ありしが爲めに亡びし事實なく、外部より亡ぼされたる事實なし、幕府は自ら時代の必要を信じて亡びたる也、「慶喜國家に盡すの途は、大政奉還以外になし」と上書して亡びたのである。之れ事實なるを如何せん、對外關係を生じたる以上は、幕府制度を以てしては、日本の爲めにならずと、經驗上幕府方にて自ら認めたのである。幕府方の賢明なる人の明澄なる自覺である。徳富氏の云ふが如く、攘夷を實行したると否とが、徳川幕府の滅亡と否とに關係なし、攘夷を實行せば、一徳川氏のみならず、日本國に禍したりし事、明々白々等の疑問なき所なのである。今日の國民としては公平に此の事を論ずべし、東坊城總長の言は當時の國民の信じたる言にあらざり事、勿論である。之れ世界を知らず、日本を知らざる固陋なる一公卿の言に過ぎない、其の「剩さへ二箇所の土地を遣はす」と云ふが如きに至つて、其の無智を天下にに表明しつゝある、昔し王朝時代にもね九州博多には、支那人の爲めに、互市場が開かれ、支那人は多く此所に居住して居つたのである。之れ土地を支那人に遺したるにあらず、此の歴史さへも彼れ坊城は知らないのであつたらう。又長崎に於て、和蘭人の居住せし二百年來の事實も、彼れ坊城は知らないのであらう、彼れ坊城にして、若し之を知つて居つたならば、彼れは「神明對して何の顔あつてか」、生きつゝあつたのである。無責任なる公卿と云ふべきである。斯る不明無智の人の言を引き合ひにして、恰も「冒す可らざる言」であるかの如くに論じ立てるに至つては、徳富氏の史論は、「公卿の一家史」たる嫌あり價値少しと云はれざるを得ない、斷じて「國民史」にあらず。
 又徳富氏は、國是の存する所を奏上しなかつたものゝ如くに論じ、「其れが失策の根源だ」と論じ立てゝ居らるゝが、死を決して國是の奏上を爲さんとしたる岩瀬肥後守に關して、公卿等は、「從四位の位にあらず」との故を以て、其の上奏を故意に阻碍したりし事は、歴史上顯著の事實ではないか、徳富氏は之を知らざるや、若しも知つて尚ほ右の如き言を爲すならば、之れ故意に當時の政府たりし幕府を陥れて、國民歴史上の事實を誣ひ、能吏の正論を滅せんとする曲説と評す可きである。幕府は有らゆる方法を以て、國是の奏上を爲さんとしても、陰謀の徒、又は不明の輩等、之れを阻止したのであつた、理非は明なのである。
 歴史は事實を離れて存在せず、史論は人の勝手なれども、其の意圖に伴いて變ず、不明又は曲解の人からは非論理的論斷のみ生じ來るべく、正しき考慮の人には正しき結論あり。之れ當然也。

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 二四 横濱開港の恩人水野筑後守と其記錄 (目次)

 横濱の開港は、如何にして成りしか、無論其れは薩長二藩人の開きしものではない、彼等 は總て開港に反對した人々であつた。米人ハルリスは、神奈川を以て開港地なりと主張し、頑強に之を言張り、幕府の外交家を脅したのであつた。併し乍ら、水野筑後守は神奈川にては東西の通路たる所より、必ず事端繁からんことを憂へ、横濱を以て居留地となすべし主張し、終に其の目的を達し得たのであつた。其の苦心察すべく、其の決意固かりしこと敬服すべきである。明治以後に於て、斯る堅忍の外交家は稀れである。左に此の事に關して、水野筑後守の自ら認めたる記錄を此所に掲げて、其の事實を明にする。(水野家所藏の古文書に依る)
 先年横濱にて公表せられたる文献の中には、水野以外の人が、横濱を開きしが如くに記してあり、例の勝海舟の事業の一部のようにも匂はせてあつたが、其れは誤りである。
 『安政七年申正月二十日、神奈川表外國人等、居留地は宿驛の北はづれより子安村にかけて、五丁斗の海岸片頬と去末年中約定ありしに、横濱の方にて各國商人の住地割渡されん事を、コンシュル共より申立て、蘭亞兩國のコンシュルは、其館舎をも、同所に取建て旨申出でたり、幕府は詮議の上之を差許せり。
 此神奈川表異人居留地之事は、井上、岩瀬など、一昨年中、ハルリスと條約を結びし此、彼よりは横濱、神奈川と引分け、二カ所に申立たりしが、横濱をば斷はり宿驛の方に定めたるにて、二カ所にては不都合なるべしとて取斗ひたる趣なり、然るに、宿驛に、各國人居留あれば、旅行の輩、止宿にも混雜し、諸國之人民通行繁く、公家の通行、萬石已上之交代旅行など、いか樣之差支可申儀斗難ければ、横濱の方に居留せしめんとて、去春已來度々廟堂より命ぜられ、ハルリスと再三辯論に及ぶといへども、條約に神奈川の町を開くとありて、其約を定し此は、横濱は畑にて人家はあらず、殊に横濱を加へ書き出したるを、此方にて除きたれば、今に至りて變じがたく、往來の地にあらされば、商賣等交易の便ならず、横濱は邊土なりとて、果は激怒し承引せず、此方よりは宿驛も横濱もともに、神奈川一灣中の地にして其所に居留を許し家屋を建てしむれば、則ち條約の意に叶ひ且此方商賣も横濱の方は、岸深く、陸地廣く、地勢便なるが故に、居留を好む旨を説諭すといへども、頑固に申張り、果は違約など唱へ、本國へ達して戰爭起さんなど申募るといへども、素より一灣中の地なれば、違約の事なき旨を、主として種々辯論に及びしに、遂に承服せず、開港期日迄は、先づ其儘になし置かんとて、其後は辯論をも受けず、下田に歸り、直に本國の便船を待つて長崎に至り清朝へ行きたり、五月の頃、下田に歸り來り、英のコンシュルゼネラルを伴ひ來り、先づ英官を開港期に臨み、品川に入帆せしめて、期日に至り、神奈川に住せしむる、コンシュルの居所、並商人の借家など設けあるやを問ひ、直に彼地に至らしめ、ハルリスも六月二日江戸に來りしが横濱へは上陸もせず,善福寺を旅館として上陸し、舊によりと、横濱をば承引せず、宿驛の方にて、居留地を求めしにて、追々蘭も佛もコンシュル渡來したるをすゝめて、俱に其意を主張せるにより、廟堂再議ありて、止むを得ず、子安の邊を割渡し置たるなり。
此方にては、ハルリス去春中、下田へ歸り、清國へ越したる中、日夜を分たず、畑をならし、山を開き、商人を移し、居留をせしめ、御役宅を初め、役々の宅は云ふに及ばず、波止場を築き、會所を建て、藏をもつらね設けしにて、其事三月の末より起り、六月二日までの間なれは、其事に預れるものゝ功勞おもひやりぬべし、これ宿驛の方にては、前段の如き障りあるのみならず、追々各國より居留し、萬延に及ふ時は、夷人と雜居となり、街道をも移すの外なく、其果、取締りも立がたき故に、開港前に、宿驛よりも盛んになして、ハルリスを初め外國商人等をして、此處に足を留めしめんと、上下こぞりて、心を合せ取設けたるなり、然りといへども、ハルリスは一度も此地に來らず、他の官吏迄をも語らひて、前意を主張せしが、蘭の官吏は、初めより此地の形勢便利を見て宿驛を好まず、英もさのみ宿の方を要とせざれども、皆なハルリスのいざなひによりて、雷同せしなり、然るに外國商人等は、一人も宿驛の方を好む者なく、取定めたる地に家を建ん事は、更にうけがわず、彼地の管吏等百方辯説せし由なれども、官吏は素より、其國の商人に益らん事を計らんが爲め、居留の事にて、其給分も既に商賣等よりあたへある處、不便なる宿驛の地を約して、地勢を備へたる横濱を否むは、更に其職に應ぜざれば、本國に達して官吏を引替べしなど申募りたる由にて遂にハルリス金川(神奈川に同し)のコンシュル館に至り去十二月中商人等に演説し由なれども、更にうけがふものなく空しく歸り居たりしが終に本文の如申出でたり、去春以來此事に預れる輩の心嚢はいふに及ばず、永久の都合いか斗なるべきにや、地利人利を得る時は、外夷の兇暴といへども、勝事能はず、先賢の格言おもひあはすべく、ハルリスの奸邪察すべし、條約を定むる亞米利加を始めとし、其事を計る、かくの如き人なり、今に至り、上下其事に困苦し、日々杞憂せるむべなるかな。 去春掘織部正、村垣淡路守とともに、金川の驛亭にて、ハルリスと横濱地の事を諭ぜし時、再々復論、彼は横濱は金川の地に非ずと云、我は一灣の地と説く、既に始めペルリ横濱にて定めたる條約を、ハルリスの定めし條約には、「神奈川條約」と掲げ置きたるは、横濱も金川の地たる事、我が辯を待たざる旨等、辯ぜしに至りて、彼れ手に持ち居たる條約書を机上に打つけ又は脱置たる毛衣を取て、あらく肩にに打かけ、或は直に立去らん體をなして、脱してかたはらの床に置たる剱を取りて、いかめしく帶したるなど、實に暴戻自姿詞に述がたく筆にも記しがたし。』

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 二五 江戸城降服と川路左衛門尉の武士道的自害 (目次)

 川路左衛門尉は、最後の江戸城會議のありし頃には、既に半身不随の病を得て、番町の邸に隠退して居つた人である。彼は幕末に於て外國奉行として、大に國家の爲めに盡策盡力した人であつた。
降服論者勝を制し慶喜は寛永寺に屛居する事となり、此事が水野筑後守より川路に傳へらるゝや、川路は老の身を以て、悵然として痛恨し、切齒して慷慨し、曰ふには、「薩長二奸は口を朝旨に藉りて、以て私憤を逞ふする、是れ亂賊である、然るに、凡庸の輩今や衝に當り、彼等の乘ずる所となつた。降服とは何事であるか、旗本八萬騎中一人の氣節ある人士はないのであるか、萬事は終つた」と、熱涙は兩眼より下り、即ち起きて沐浴し、禮服を着け、家人を退け、遺書を草し、左手に兼貞の刀執り、之を腹に刺し割腹せんとした。賢夫人大越氏、戸の隙より之れを窺ひ大いに愕き、將さに其の室に走り入らんとしたが、此時左衛門尉は、目を瞑らして大喝一聲、怒號して曰ふには、「近く勿れ、汝を傷けるのを恐れる」と、急に傍らの銃を手に取り、轟然一發喉を貫いて自害した。此時六十八歳であつた、時は慶應四年三月十五日の夜であつた、夫人は有名なる賢夫人であつたが。静に室に入つて、其の血を拭ひ取り、白布を以て腹と喉とを包み、之れを床上に安置した。官軍の人々は、此事を聞き川路の家を取り圍み、外部との交通を遮斷した仕舞つた、夫人は葬式を營むに困惑した、官軍なるものゝ冷酷を知るべし、即ち夜半二時、滿市の人々寝鎭まれるを待ち、夫人は一人悄然として夫の遺骸を守りつ、不忍池畔の大正寺に埋葬した、悲痛なる事件である。
 死に先つ數日、川路は詩を賦して曰く、
 「平臥病牀既四年、中風衰叟日潜然、君恩山岳毫難報、徒致茲身歸九天」 長州出身の乃木大將は、川路の自害を賞賛し、其狀を究めらるゝこと最も深かつた云ふことであり、川路が自害の事を口にせらるゝや、いつも感極り落涙せらるゝを常としたと傳へらる。忠誠の士好く忠誠の士を知ると云ふべき也。(塚本氏の「奉公」に掲られたる川路傳に依る)
 山崎有信著「彰義隊戰史」の序に、長州派の安廣伴一郎は記して曰く、「彼れ累世徳川氏の恩澤に沐浴し、主家の將に傾かんとするを見て、切歯憤慨、唯一死を以て主家に酬ゆるの外他なしとした、之を夫の義を見て爲さゞるの徒に比すれば、啻に霄壌の差にあらざるなり、云々」と此人の言に依れば、降服は徳川方武士の爲す可らざるものであり、降服を主張したる勝一派の如きは、敵と雖、實は愛想をつかしたるものなるべく、病に臥せる川路が、老の身を以て、憤りて自害せるは、長州の人乃木大將の正しき涙と共に、我等も亦涙なきを得ないのである。降服するは武士としてあるまじき悖徳である。日本の武士道は、古來斯く教へ來りしものである。降服を説き之れを行ふて有名となりし者は、古來勝海舟一派以外に類例なかるべし、反幕側の爲めに便宜なりしが爲めに、反幕側よりは賞揚せられたのであつた、日本人は斯る事の再びせらるゝを禁ぜざる可らず。
 當時日本橋魚河岸の若衆は、外國奉行をつとめて、當年世の人に知られし朝比奈甲斐と云へる一人の旗本の許に其の總代を送り、云はしめて曰く、「此の魚河岸だけは、私共若衆を以て必ず守ります、私共は出刃を以て勢揃いをいたします、積年の御恩は身心を捧げて報ひます」と、此意氣や愛すべきであつた。今日の魚河岸江戸ッ子諸君の感や如何に。
 昭和二年一月一日號『國本』第一〇六頁に、「外相川路聖謨傳」として、石川諒一氏の研究が、發表せられてある、其の末文に、左の如く述べてある。

 幹蟲の才冠節の士

 『此が択捉の外交談判は、我が國史を通じての大成功と謂はねばならぬものであつた。露使エトロフと樺太との殆んど全部を自國の領土と宣言したのに對して、論難折衝の結果、先づエトロフ對する主張を抛たせ、樺太に就いては、これまた欲望を達し得ざらしめ、更に通商の儀に至つても、單に他國に比して、優越權與へるといふ空約をしたゞけで、略ぼ我が國の欲する所を彼に首肯させたのであつた。坐作應對、よく國際の公法に適つて少しも固陋偏執に失するなく、而かも大綱を摑つて毅然として屈せず、よく使節の任を盡くして、一國の體面を傷つけなかつたのは、實に堂々たる好個の全權大使だつたのである。打ち見やる長崎埠頭の碧波、萬古巖に咽んで川路、筒井等の功績を讃へてゐるのである。
 殊に川路の態度は進退度あり、議論に當つては、従容として論難し、少しも疑滯するところが無かつたので、プーチヤチンはいたくも川路の人と爲りに敬服したけれども後人をして更に追慕の情に勝へざらしめるものは氷雲よりも厲き川路の清操氣節にある。慶應四年の正月、伏見鳥羽の一戰に敗れて、徳川慶喜あはれや、賊名を負うて東に走られ、錦旗を擁せる薩、長、土等の西軍、東海、東山、北陸の三道より江戸城に迫らんとした。そして、この年三月十五日、東臺の花は方に發して、大江戸の自然は春色濃やかであるのに、徳川三百年の覇業は、全く終焉を告げたのであつた。こゝに至つてその事ふるところに忠なる川路は江戸城を拝して血涙數行『身、幕府の臣として、主家の覆滅を見る、方に是君辱めらるれば臣死すの時ぢや吁、我れまた何の辭を以てか、祖宗累世の神靈に謝し奉るを得んや。』と、自ら彈丸を呑んで斃れたのであつた。雲濤萬里の外に在つて、このことを耳にしたプーチヤチンは聲を呑んで哭したといふことである。才幹有つて而して氣節にに富んだ川路の如きは、眞に幕臣の粹といふべく、彼の五稜郭の勇將もこれに對して顔色なきものがある。自主的精神無く、獨立氣魄無く、徒らに英米二國の鼻息を覗つ追随外交をこれ事とせる我國當路の諸君子は、幕末の外相敬齋川路聖謨の風を聞いて、よろしく昏々たる惰眠の裡より醒むべきである』。(大正十五年十二月七日朝脱稿。)

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 二六 井伊大老の勇斷と其の合法性 (目次)

 一

 井伊大老は、政治家らしい武士らしい人物であつた、日本の國家を重んじ、日本の國威を重んじ、日本の國法を重んじ、日本國家の秩序を重んじた。此人と反對に立つた人々から見れば、「憎い奴だ」と云つたような感情を其胸に挟んだのであらう。政爭に沒頭する者は、私の感情に炎えることあるは、之れも亦免れない事である。然れども七十年の今日よりしては、日本國民を本位として、此の政治家を公正に眺る事は道理であり、斯く見る時に、此人に對して、余は日本人民として尊敬の念なきを得ない。
 或は云はん「世既に定評あり」と、所が決しそうでもない、福地源一郎の如は「幕府を衰滅せしむるの禍源たるを知らざりしは、井伊大老が大政治家たるの識見に乏しきが故なり」(幕末政治家第百二十九頁)なぞと痛く罵つて居り、三宅雪嶺は「安藤對馬守」の序文に於て、「井伊は果して世評の如き大人物なるや疑はし」と云つたような批評を下されて居る。併し乍ら、余は井伊大老の爲せる事業より判斷して、如何にも政治家らしくあり、日本國民の進歩幸福の爲めに盡されたる幕末の大政治家たるを追慕する。史論として此事に付て述べて見る。

 二

 井伊大老が、斷乎として安政條約を調印せられたのは、外國奉行たりし一代の人物岩瀬肥後守の言に聽かれたのであるが、實に國民本位に立てる英斷であつた。
 「クリミヤ戰勝の餘威を以て、英佛二國が、力主義一點張りを以て日本に臨み、日本に不利なる問題を提出せざるに先ち、比較的穏健なる米國と先づ條約を締結し、之れを以て、日本と白人國との先例となし、他の列國をして之れ以上の要求を爲さしめざるようにす可し」
 之れが賢明なる政治家岩瀬の主張であり、井伊大老は之れに賛成せられたのであつたが、岩瀬も井伊も、共に能く當時の頑迷なる俗論を一蹴し、能く大勢を理解し、日本國民を救へる人と云ふべきである。
 勅許なしに條約を結んだと云ふ事が、當時反幕派の強き攻撃であり、井伊や岩瀬は、此點にて從來非國民的不忠の人であるかの如くに罵られて居り、今日にも尚ほ此の風が殘つて居る。
 併し乍ら、政治家として尊ぶべきは、全國民の利福を念とする事である。本來政治は、人民の幸福の爲めに行はるべきは無論なり、政治家は其の與へられたる權限の範囲内に於て、全國民の爲めに其全力を注ぐ可きものである。井伊の信ずる所にては、數百年來時代の要求にに由り、日本に大本的國法が定められてあつて、政治は全然幕府に御委任と云ふことに定められ、之れが公然定められたる成文的の日本の數世紀間の國法であり、此國法を以て由來日本民族は統治せられ、七百年の久しきに亘り之れにて士も農工商も即ち國民一般は満足し、日本國民の幸福と進歩とは、確め來られたものである。井伊等としては、此國法を重んずる事が政治家として正しいと信じたのであつたが、此の態度は、法理上及政治上是認せらるべきものである。恰も今日の立憲政體の時代には、何れの國に於ても三權分立の原則定められ、議會の權限として認められたる事は、君主も之れを冒し得られざると同じである。國に基本國法の存在する以上は、之れを重んずる事が、正しい政治でなくてはならない。井伊等は此の國法尊重を固持したのであつた。或は云ハン、ペルリ來朝以來、條約の事は、朝廷の勅許を乞ふに至つたのであり、之れを冒すは不法であると、併し乍ら之を史實に見るのに、二百年來の明文的なる御委任の方式が、其當時に於て、明白に解除せられたと云ふ事態はないのである。其故に責任を重んずる當局政治家としては、國法に重きを置き、曖昧優柔を排し、其の盡すべきを盡すのが、至當であつたと云へる。此點福地源一郎の説には、法理的見解がなく、嘉永以來の一時的現象を目して、「制度也」と斷言して居るが、制度と斷言すべき何等の論據は見られないことを、福地の缺點とする。(「幕末政治家」一三九頁)
 當時井伊を憎惡し、之を陥んとせる反幕黨は、「違勅」を以て井伊を攻めた。併し乍ら、此の勅書には、關白九條の署名なく、勅書としての法定の形式を充して居なかつた、有数なる公文たるの公式を失つて居つた。今日の憲法に於て、若しも詔勅には大臣の副署を要すと定められてあつたならば、此形式は必ず履行せられなければならないのであるが、當時としても之れと同じことである。形式を完ふせざる詔勅を、公卿等が、輕卒に公に示して、國政の全御委任を受けつゝある幕府に對したる事、又之を某大名に傳達したりと云ふことは、其の當否如何、其責任は果して誰れに歸せらる可きものであらう乎、凡國法は總て絶對に重んじなければならない、然らざれば、國家の秩序は紊れる事必然也。或は云はん、當時は日本は法治國にあらずして、専制國なりしが故に法理論は通用ぜざるべし、當時は封建政治の國であつたと、其れならば、尚更らの事、國の政治を委任せられつゝある政治當局者の責任ある國權觀念を重んじなければならない筈である。井伊の爲せる所を非也としたのは、當時の固陋なる攘夷論者であつた。其の中にて、浪士、藩士等は公卿等と内外策動して、百方に政治上の陰謀を廻らした、彼等自身としては彼等の主張は、「所信上斯くあらざる可らず」と云ふにあつたろう、但し中には野心家も多く混つて居たであらう。何れにしても國の秩序を破壊するものたりしは明らかである。
 井伊としては、斯る陰謀を廻らして、國法上正當の權限ある大老の爲す所を妨ぐるものに對しては、之を放任して置き得ざりしは、勿論の事であつた。放任せばそは無能であり、無責任である、即ち斷乎として、當時のの大老は國政を阻碍する此等陰謀の徒を捕へ、國法により處分した。西京にても、江戸にても多く捕へられた。公明に之れを行ひ幕府の旗本でも大名でも何んの差別なしに嚴峻に處罰した。此等捕へられたる人の側から見れば、甚だ殘酷であると見へたらう、併し乍ら、大老としては、已むを得ないことであつた。福地源一郎は「斯る事を爲せし故に、幕府の命を縮めた」と非難する、併し乍ら幕府は永遠に存在す可き制度では斷じてないのであり、存在を少しく縮めたからとて何等國家の生存上に差支はないのである。福地の如くに、幕府本位にて、井伊の此の斷獄非也と見るのは、是認し能うはざることである。國法を重んじ國家の爲めに盡せる政治家として大老井伊を眺むべきである。理として、井伊の行動は正しく、情としては、刑を受けし人は氣の毒であつた。教育家が日本の小中學生等に教へるにしても、此の點の批判を公正にして、唯だ單に感情的に走るが如きことのないようにするのが、今日以後國民の取るべき正しき態度なるべし。此の大老井伊に對し、私情を挟み暗殺せる人を目して「志士」なぞと賞讃すべき理由斷じでなし。井伊が將軍の命令書として、新見、村垣、小栗の三全權に命じたる安政七年一月十六日附の公書にも、「國體大切に勘考して、兩國の和親永く連綿するよう取計ふべし」とある、「國體大切」と云ふは「國家大切」「國權大切」と云ふ事であらう、此の言を以ても、井伊は國家本位の人であり國家を念としたる事が判る。又福地は「井伊は開國の定見ありしにあらず」と罵るけれども、此の公文書には、「和親永く連綿する樣に取計ふべ」しとある、井伊等國政當局が開國の國是たるを確信して條約を交換したる事一點疑なし、福地の見に誤謬あり、國家國民を念として、國法を重んじ、國家の秩序を尊びたる所に、井伊の政治家としての價値がある、當時の攘夷の俗論者は、「謬見の徒也」「亡國の主張者也」と裁判するのが、今日の人としては正解也と云ふべきである。
 初めより又は中頃よりして攘夷論者を口にせる連中が、後年に至り、政爭上の完全なる勝利者となつたればとて、攘夷論は正しき主張也とは云ひ得ない筈である。彼等攘夷黨が天下を取りし時代の初年に、攘夷論者が英人パークスを襲へる事件を生じ、此時昨日迄攘夷黨たりし當路要人が、天下の志士と自稱せる井田某、三枝某の首を斬り、加之之を梟し、傷も負はざるパークスに陳謝したりし事件を見たならば、「攘夷論者は極刑に價するもの也」と云ふ事を、彼等自ら信じ、之れを天下に告白して居る事明白也。此の事たるや井伊の斷獄を罵るものは同じように明治二年の右の梟首の處分を罵らざるを得まい。史論は感情より全く離れる事が大切である。若しも明治の初年の右の處置を謳歌するならば、安政の井伊の斷を賞讃するを要する。明治政府の崇英外交を謳歌する人は、幕府の行へる開港外交を同じように賞讃するのが道理である。敗者に對しては口穢く罵り、勝者にのみ頌徳の表を捧げるなぞは、餘りに阿諛に過ぐ。斯る史論者は、今日の國民には最早信用なし、後年征韓論の事件の際、岩倉は、江藤及西郷等に對して、
 「聖上遣韓大使の議を聞し召さるとも、宰相たる余は斷じて之を諫止し奉らざる可らず」
 と放言し、後の論客は此の岩倉の態度を賞めるのであるが、責任ある政治家には、斯る態度が必要であらう、之れと同じように、井伊岩瀬等は、國民の利益の爲めに其の職を奉じたる政治家として、今日以後の日本人より認められざる可らざる人である。
 明治二年二月、太政官より布告せられた公文の中にも
 「其節は、幕府へ御委任之儀に付、諸事交際之儀、於幕府取扱候」
 とある、井伊の爲せる所は、朝廷よりの委任權の範囲内にて爲せるものである、國民としては斯く解釋せざるを得ない。
 井伊のみならず、幕府の終りには、幕府方に幾多の人物が出でた、日本人にてあり乍ら、日本人の中に出でたる人物を後世に傳へないのは、如何にも不誠實である。

 176-184頁
 二七 水野筑後守の國政改革意見 (目次)

 水野筑後守は、幕末有名なる人物であつた、小栗が對州より歸り來りし折に、水野は懇々と其の再渡島を勸めた人であつた。本書載錄の小栗の書面は、此事件を談るものである、岩瀬、水野、小栗と云へば、幕末の歴史を飾る秀なる人物であり、我國の文化を開ける政治家であり、、國民の爲めの恩人である。明治廿六年十一月、田邊太一が、「舊幕外交談」として、讀賣新聞に掲げたる古い文章がある、此の一節を抄記して、此人物を今人に紹介する。明治廿六年の昔しの論である、薩長大いに榮へたる時代にも、正論は正論として迎へられたること、言論の自由の爲めに、國民正義の爲めに、追慶すべきである。

               廿六年十一月讀賣新聞掲載
   水野筑後守の致仕    田邊太一著舊幕外交談

 『一葉の墜る、以て秋を知るべく、一壺の氷れるを以て冬を知るべし、識者は、一士の進退を以て、時運の消長を卜すときけり、予は水野筑後守が致仕せしに於て、この感なき能はざるなり、筑後守は、幕府に於て、祿高五百石の士のみ、されど嘉永の初、擢られて目付となりしに始まりて、長崎奉行に遷り、こゝに初めて、英國水師提督ゼームス、ステリング、荷蘭理事官ドン、クルキュルシュスと談判して、長崎函館の兩港に船舶の入ることを許し、缺乏品を購買することを許すの約を結びて、初めて外交の事にあたり、尋て安政戊午亞米利加初、五國條約訂結の際、岩瀬、永井、堀等の諸士と共に、外國奉行を以て、其事に從ひ、随つて、横濱開港の計畫、二朱銀の鋳造、通用等に盡瘁し、爾来凡そ外交の事に於て、陽に陰に、これにあづからざることなく、且岩瀬其他の人々の、或は死し或は罪を得てよりは、筑後専獨外事に任ずるの勢あり、侃々諤々、知ていはざることなく、安藤閣老のごとき、才を恃て自ら用ゆるの癖ありしも、深く其人を重んじ、敢て他の有司と同視せず、「かのハルリスは漸く手ににいれたが、築後はまださうはゆかぬ」との嘆息は、その一時の戯言なりしとはいへ、當時筑後守の幕廷
にありて、いかに當路に畏憚せられたりしや知るべし、されば、外交上重要の任に於てはいつも不幸にして其事にあたるを得ず(亞米利加及歐洲各國への使節の如しと)いへども、其の謀議に参し、協賛匡正する所は、實に鮮少ならざりしなり。然るに文久二年七月突然函館奉行を命ぜられたり、此れ松平春嶽政事總裁の職を奉じ、幕政改革の初めなり、當時邊彊の任輕からざるを知り、長崎函館の奉行皆其任地に在住せしめ、一方面の任を専らにせしめんとの政略なり。殊に函館奉行は、蝦夷地開拓の事をも兼任して、北方開港場の長として、貿易其他外人に接するの際、實に北門の鎖錀なり、其任固より輕からず、随つて其人を撰ぶも、固より其所なりといへども、筑後守を以て此任に命ぜしは、これを用んとにはあらずして、これを遠けんとの意に出でしものゝごとし。これその強頂の性、時宰に容られざりしによるといへども、その議する所、大に當時の政略に反せしを以てなりし、筑後守が最初に反對せしは、酒井雅樂をして京師に周旋せしむるの一事なり、以爲く、これ閣老の正に任ずべきの事なり、外藩の士人に頼み、假令その功を爲し得るも、幕府の權は、こゝに堕落すべし、開國を以て朝廷に説かんとならば、久世閣老躬から進んで其局に膺りて、其力を盡さざるべからず、しからんには、己れも其下に随ひ、死を以て從事すべしと力爭して得る能はざりしかば、蓋し此の時已に官を去るの志ありしと、然るに春獄の政事を總裁し、百事革正の期となれるを以て、筑後守は、再び此時を以て、第一に開國の國是を定めんことを上言せり。
 鎖攘の事、從來の行かゝりより、京師關東の間に、自然約束あるがごとく、皇妹降嫁のことよりして、猶幕府の責任たるの觀あり、されば、此際從前の執政者を黜罰するの機を以て、是迄只管朝意を遵奉すと稱して、其の實、事理に於て、不可なる時勢に於て、不能たる攘夷の旨を極言諫爭することなく、彌縫といへばいふべきも、結句朝廷を欺罔せし從前の罪を自白し、總裁はじめ閣老にも上京して、公卿諸侯に謀りて、開國の大規模を一定すべし、春獄は諸侯伯の内に重望あるの人なり、幕府の支族としても、亦幕府内にありての資格としても溜間の班にありて、實に家門譜代の上席にあり、加ふるに提封三十萬、その藩威を以て、其志を達するに餘りあり、况んや、其藩論は夙に開國に在りしをや、これ筑後守が、専ら春獄に屬望する所にして、これを輔けて、朝旨を廻さんとし、己れも身を挺して此事に當らんと企てたり、以爲攘夷の事、畢竟朝旨に出づる者といふを以て、天下の囂を致し、幕府其の間に介し、中外に其威信を損ずるにいたりしも、一旦朝旨開國に定らば、かの無識無謀の暴徒はいふを待たず、所謂革命に志すの輩は以てその口を間執するを得べし、然してこれにつきて、幕府の組織を革め、其内廷と外廷とを分離し、その經濟を別ち、内廷は將軍親近の士を以て、たゞ左右給仕の侍にのみ給し、外廷は文武の二途に分ち、武は武士の家職として、旗下の士のごとき、從來軍役の制を革めて、實用の隊伍を編制するに於ては、世祿の多寡に從ひて、兵賦を出さしむべし、然る上は、文官に任ずるもの當今の如く、其世祿あるものは別に職俸を給せざるの法を改め、閣老をはじめ皆其職を給すべし、然れば、旗下の士、二三男厄介も、其材あるもの、これを用ゆるを得べく、諸藩の士も別に徳川氏の臣屬とするに及ばず、直に其材に從てこれを擧用し得べし、かくして人材下に沈滯することなく、百揆以て擧るべきはいふを待たず、又以て志あり才あるの士をして、不遇を嘆ずるの餘り、不逞ををもふの根を絶つべし、此機を以て、これをなさゞれば、再び幕府の權を恢復し得るの時なしとて、益々春獄をはじめ、時宰に向つていたく爭議せしときけり、遂には時宰もこれを避けて、筑後守が面謁を乞ふときけば、事に託して之を辭するにいたれりと、而して忽ちに函館奉行の命を受くるに至りしかば、筑後守も此までなりとして、其職を辭する而巳ならず並て隠居をも願ふに至りしと、時宰もかくなりては、さすがに棄てがたく、數々其同僚村垣淡路守をして慰留せしめたれども、筑後守は、峭直の質にして、不撓不屈の精神は、寧ろ剛腹執抑の譏あるほどなれば、いかにこれを肯ずべき、竟に九月三日に及びて退隠を遂げ自から癡雲と號せり。
 筑後守は其身の嚴正なるに似ず、士を愛し、才を憐み、附弛の土といへども、よくこれ容れて、これを器使し、其下を遇する又殊に恩あり、前にもいひしごとく、幕末三士の一と稱せらるゝも、實に所以あるなり、蓋し岩瀬の敏穎なるに遜るも、持重は或はこれに過ぐるあるべく、小栗の英果に及ばざるも、人を容るの量ありとは、皆人の評する所なりといへり、その退隠の後なりき、三條姉小路兩勅使の東下に方りて、その世に傳播せし勅旨といへるもの「日本を焦土とすとも云々」の語あるを聞て
、慨然其所親にいつていはく、當今諸浪士輩が、幕府を以て、不臣の志ありとし、承久の事をなさんなどゝの憶測を逞すくるものあれども、幕府には、たゞ京師の首尾を繕はんことのみを勉て、寧ろ卑屈に失するの狀あるほどなれば、敢てかゝる大不敬を犯さんことはゆめあるべからず、安藤閣老の如き、最も此嫌疑を受けて、爲めに兇手に傷らるゝに至りたれど、其人となり、才ありと雖も膽なく、いかでかゝる企あるべき、そは過去の事なれども、今勅使の宣する所、果して世間にいひはやすごときことあらば、予は平生徳川氏祖宗以來の意志を奉じ、孔孟程朱の教に育はれ、他人に比して、頗ぶる尊王の念に富むものなりといへども、予にして力あらば、かしこくも、〇〇の事を行はんとをもふものなり、其故をいはゞ、外交の事起るより、幕吏の爲す所、多少過あるは免れずといへども、結約の始より、今日に至るまで、その心を盡し力を勞せしは、何事ぞ、條約を維持して、我國をして、世界列國の仲間にいれ、且は國土人民の安寧を計りしにあらずや、然るを、宇内の形勢も察せず、和戰の利害をも究めず、日本全國を擧て、これを焦土とすとも攘夷を實行遊ばされたき叡慮ありと、執達ありときけり、假令その勅使は、これに附随する浪士輩に指嗾されて、これが傀儡たるにもせよ、既にこれを勅使といへば即ちかしこくも聖天子が親ら宣せ給へるものと聞かざるを得ず、然るに、かゝる口上あるは何事ぞ、幕府は先其勅使をとゞめ置て、閣老をして上京せしめ、このことの、果して叡旨に出でたるや否を糺し、もし叡旨に出でずとせば、兩公卿は、矯詔の大罪なり、宜しく相當の處分あるべし、萬一叡旨に出しとせば、幕府は誠心を以てこれを諫沮し奉るべし、しかして聽納あらせられざれば、畢竟國を保もち民を案じ給ふこと、その天職にてましますからは、其の天職を盡させ給はんにはいかなる御忿りも、いかなる御好みも枉げさせ給ふべきを、たゞ御一身の御望みを遂げさせられんが爲めに、此國を焦土となし給はんことは恐ながら天職を奉ぜさせ給ふべき御心とは思はれず(中略)と、果してこの論ありしや否は知らずと雖も、筑後守の性格と抱負とは、よつて見るべきに足れり。」云々』
 水野は茨城縣下の其の知行所に於ては、常平倉を設けて、人民の危急に備へ、又附近の荒蕪地を開墾して此所に農民を移住せしめ、又當時二人以上の産兒を壓殺したりし惡風を救ふたのであつた。
 内治にも外交にも、當代の先覺であり、眞に國家本位に立てる政治家であつた。
 小栗上州は此人と知己且つ遠緣の關係に在つた、幕府方に開國の恩人たる賢明なる政治家のあつた事を、今日の國民は公正に認めて然るべきである。

 185-188頁
 二八 水野筑後守と佐賀鍋島侯との應接 (目次)

 今日に於ては、旗本と一口に云へば、微々たる「徳川氏の番士」でもあるかの如くに解せられて居る風がある。
 然に旗本は、三百年の間、「直参」と云ふ取扱を國家から受けて居た武士の高き地位であり、地方大名の藩士とは、地位が全く違ひ、上下の區別嚴然たるものがあつた。旗本は、大名と同格であったのである。『勘定奉行勝手方』と云ふ安つぽいような名の役目が、一國の政治の殆んど總てを引受けて居た事なぞは、此の旗本の國法上の地位が理解せられなければ、全く分らふ筈がない。
 詳細なる事は本書に不説として、左に長崎奉行水野筑紫守の日記の一節を抄記して旗本とは、大名に對して、如何なる資格地位のものであつたかの事實を明かにする。
 松平家や鍋島家が、幕府の奉行に對して如何に鄭重なる應接を爲したかゞ、之れにて判明する。

 水野筑後守長崎奉行赴任旅行(中山道筋に係る)

 嘉永六年七月廿一日江戸出立八月八月廿六日長崎着(七月廿三日家慶將軍薨去)
 七月廿三日(七月廿七日大阪まち奉行を經て露西亞長崎渡來の旨にて旅中差急ぎ着崎すべき達あり)
 (前略)
 直方、晝休、四時頃着す、使者直答す如例、(筑前國直方)
 松平美濃守須らく滯府に付、爲名代、息下野守在邑中に付、明日山家驛にて、對話之儀、先驛へ書狀にて被申越し處、差支の爲、對話斷之旨、使者にて被申越、用人にて及相當、
 此邊を出て、壹丁計にて、左に川あり、其邊石炭を多く積置きたり、二斗入位のワラ俵にもなして積置き、又右の畑道より、小車に大なるカゴを入れ、積みて引來るなり、價百目にて錢三文位の由、堀出したる儘にて燃る也、燃て用をなしたる跡、型炭の如し、
 是は炭の代りに用ゆる也、尤硫黄の氣強く、臭氣堪がたし、
 此邊石炭の粉を、道途の中央へ、五六寸の厚さに敷たる所ありて、十丁計の間也、砂の代りに馳走に敷たりと見へたり

 (後略)
 八月廿四日
 (前略)
 佐賀。小休、鍋島使者にて對話、相越の程合打合有之、及案内、染帷子麻着替へ、家來共も同斷、玄關の間次へ出迎へ居間へ直て上端に着座す、肥前守より、御機嫌被伺、不爲替段、申達す、少し跡へ下り、肥州は被進、尤床を右、カベを後口、自分着座、肥州は向ひ合、障子の方後口に被致、最初伺之節は、少し筋違に着座す、のし家老に持出さす、自分より可出處、此節故見合せ、茶、たばこ斗暫對談、退散の比、玄關敷臺迄送之、家用給玄關白洲に出居、前後同斷也、
 右相濟み、此方より爲挨拶可越處、此節急ぎの事にて、斷の爲め使者を以申遣之、
 家用、五百疋、給人は三百疋づゝ、鍋島より使者にて被送、直答挨拶、其外家老相越逢、
 茶十二袋づゝ痕より被送
 (後略)
 藩侯と奉行との應接ぶりは此の日記にて好く分る、旗本は大名の下位に居たものでない

 188-189頁
 二九 水野筑後守の拓殖政策 (目次)

 文久元年十二月、水野筑後守は、當時其の島情の確然判明せざりし小笠原島に差遣せられることになつた、同月三日咸臨丸に乘じて江戸を發した、途中颱風に會して洋中に漂ふこと一ケ月餘、二年正月小笠原島に到着した。先づ父島に上陸したが、兼て外人の居る所から、先づ大砲を發つて威を示した、而して島中の米人を集めて、日本領たるを告げ、日本の命令に從ふべきことを命じた。米人の建てたる家と拓地とは時價を以て買上げてやつたが、、適當の策であつた。從是して役所を建築し、筑後守は之れに住んだ、更に島の地圖を作り、村の名を定め、規則を設け、道路を開き、橋梁を築き、拓殖の基礎を立てた、それより母島に渡つた、母島には一人の英人が住んで居た、同じように之れに論して、日本の法令に服從せしむることにした。
筑後守は、小笠原島に六ケ月留つて、拓殖政策上爲すべきを爲し、三月江戸に還つた、之れ拓殖政策上の逸す可らざるの功績である。
 水野筑後守は、又國内にも拓殖政策を行つた、即ち茨城縣鹿島郡白鳥村阿玉村大黑原に新百姓村を建設して、荒地を開拓したが、今日も其の地は發展して殘つて居る。
 右の如くに、拓殖政策は、既に舊幕府時代より開始せられたものであり、北海道も同じであつた。函館奉行は外交と拓殖とを司つたものである。
 明治以降に至りて、始めて拓殖政策は生じたものではない、今の日本國民は、公正に此事を看取すべきである。

 190-191頁
 三〇 小栗上野介と米國 (目次)

 小栗上野介は、萬延元年、初めての日本の國使の一人として、米國に使した人であつたが、幕府亡び、小栗が其の知行所上野國に引き上げんとせし折、後年財界の雄者となれる三野村利左衛門は、千兩箱を小栗に呈して、之れを以て、「米國に一時渡らるべし」と願ひ出でたとの事が傳へられて居る。然るに小栗は之を辭退し、其の「好意は感謝するけれども、思ふ所ありて、暫く上野國に引き上げる、若しも後年婦女子の困扼する折もありしならば其節は、何分宜しく頼む」と答へられたとの事である。
 明治の初年、「小栗は米國に逃れ居れり」との風説傳はり、新政府の或る方面の人人の中にては、「若しも其れが眞實であるならば、大藏大亟に召し出さん」なぞと噂した人もあつたとの事も傳へられて居る。小栗を斬りし下手人が、現に世に大手をふつて居る時に、斯る噂ありしとは信じ難けれども、風説としてはあつた事である。小栗は、まさか、勝や山岡なぞと同じように西郷に拾はれて身賣りする人ではなかるべく、遥かに江戸ツ子武士らしい、高邁の人であつたこと明白である。詐略陰謀を弄べる連中と其肩を並べて、酒蛙々々然として務めるなぞは、氣節ある人間の爲し得ることではなし、小栗は必ず斯く云つたでもあらうと余は信ずる。

 191-192頁
 三一 小栗上野介の祟りを怖れたる村民 (目次)

 上州權田の河原にて小栗上野介の殺害せらるゝや、其地方の村民は、非常に恐怖し「小栗殿の祟り恐ろし」と日夜心配した。蓋し其の斬首の方法が、餘りに無法であり、村民も小栗の死に付て責任あるを感じたからであらう。當時小栗の斬り落されたる首のコロコロコロと轉りて向ける方向の村民は、「小栗殿の睨まれたる眼差し恐ろし、必ず祟あるべし」と痛く恐れて、居たまらず官軍に訴え出でたとの事である。忠誠達識の小栗上野を斬殺して其の非を覚らざる官軍方の驕慢なる連中は、之れに對して、「祟り若し恐ろしとならば、官軍の札を、各戸の戸口にはつて置け」と命令したとの事である。此事、「土方伯傳」に在り、
 偉人小栗としては、莞爾として斬られたのであつたけれども、多年恩を蒙り、且つ畏服せし村民としては斯くも戰慄したのであつた。今日にても、小栗上野の爲めに不利を圖りりし家は、不幸に沈み行くとの評、地方にありとの事である。地方民の不得心より自ら招ける因果であらう。小栗の斬首を命じたる岩倉や板垣やは、其子孫果して榮へつゝありや如何、當時の下手人某々等は果して心平かなるや否や、我れ知らず。

 192-194頁
 三二 小栗上野の財産と掠奪 (目次)

 小栗上野は、米國より、種々の機械を求め來り、又經濟財政に關する種々の洋書を購ひ來つた小栗は之れを上州權田村に携へ行いたのであり、當時の重量ある行李は、何れも此等の物品を以て充されて居つたのである。
 小栗の殺害せられて後、官軍方むの役人等は、日に日に、金はなきか、貴重品はなきかと、此等の物品を取調べたりし事、今日同地の古老の談る所であるる葡萄酒を毒薬と見て恐れたり、石油ランプを畠の面にて恐る恐る點火したりして、恰も卑怯の敵人の如き失態を示した事が、今日傳はりつゝある。此等の物品は如何に處置せられたのであらうか。
 小栗を捕へるが爲めに、官軍より差し向けられたる人々は數百人もある。彼等が各人一品づゝ盗み行きたりとしても、總ては皆無となるであらう。下手人の一人たる豐永貫一郎は、小栗の外國より購來りし馬を盗みて、之れに乘り意氣揚々として引き上げたりと傳へられて居る。餘の同類は推して知るべし。
 小栗家の物品は、小栗死せる後に、無主物となる道理なし、小栗の物品は、官により沒収せらるゝ道理もなし、如何に當時大小盗人の天下に横行せしかを知るべきである。
 小栗の所有せし洋書の中にて、若干は其後前橋の某學校に傳はれりと窃に余に告ぐる人もある。安中藩の某々氏も、何物かを今日も尚ほ所藏すべしと告ぐる人もある。小栗の使用せし帽子掛を余の爲めに送られし人もあつた。今や權田の東善寺に存在するものは、小型の銃一挺と、望遠鏡とあるのみ、上州地方人の爲めに此始末を惜む、里人は何故に世に提示せざるや。
 無罪の人は殺されて、殺人者は罪せられず、故意に他人の物品を盗めるものは、何んの犯罪ともならずして、六十年間、國家は沈黙す、之れ果して明治初年の結果か。
群馬県人の爲めに此事を惜み訴ふ。

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 三三 最期の江戸城會議と小栗上野介の武士的態度 (目次)

 最後の江戸城會議は、幕府としての會議ではない。幕府は前年十月に既に亡び去つたのである。江戸城會議は、公卿と薩長の巧妙なる策略に引つ懸りたる一箇の徳川氏が、其儘降参して薩長方の思ふ壺にはまるか、又は武士らしい態度を持して、武士道の正義を守るかの會議に過ぎたかつた、重大なれども事は簡明である。總大將の肚一つにて即刻何れとかに定まる可き性質のものであつたが、首腦者慶喜が生命を愛しみ、敵方の暗示に誘はれ、迷に迷ひしとの事にて、一週間もかゝつたのである。此事を明にする爲めに、水野筑後守の手記に係る日記を左に掲げる。此日記は、水野筑後の孫に當らるゝ水野克讓氏の所藏せらるゝ所であり、未だ世に出でない材料である。

    御留守居支配 御系圖納出役甲一郎父 水野癡雲
「慶應四年戊辰正月 (井上備前守より達)
 十三日 登城 御前へ被召出御直御尋等有之見込申上夜九半時過退出
 十四日 登城 御前へ被召出種々評議有之暁七時退出
 十五日 登城 御用部屋にて評論夜九時退出
 十六日 同  暁六時退出
 十七日 同  暁八時退出
 十八日 同
   同廿一日 晝後より登城晩八時退出
 右は小笠原壹岐守殿より只今登城可致旨の御書取御目付戸川伊豆守殿爲持來る直に登城せし也」
 徳川慶喜は、「薩藩奸黨罪狀の事」と云ふ思ひ切り薩人糾彈の上奏文迄も朝廷に奉りし人である。其所謂奸黨の人々が主力となり、江戸を目がけて攻め寄せ來るに對して之れに降服せるは、蓋し首尾不一貫の甚しきものである。鳥羽伏見にて一旦敵の策略に引きかゝり衝突せる以上は、理非を武力に依りて解決するのが武士らしい道であつた、又之れに反し若も鳥羽伏見にて戰ひし事が、不臣不忠であると考へたならば、武士として切腹するのが唯一の取るべき道であつた、恭順だけでは濟むべきものではなかつた。徳川方には何等の罪過もなきに拘はらず、反對の陰謀家は、慶喜を以て反逆人と宣するの方法を取つた、此の陰謀家を排撃し終れば直ちに理非は正さるゝのであつた、至誠を以て國家の爲めに大政を奉還したる慶喜は、勤王家として當年唯一の實行者たりし事は、一點疑の無い所である。此の大精神は、對者の陰謀によりて壓し潰されてはならない、小栗上野介が、慶喜の袖を捉へて、主戰論を唱へ、慶喜の怖れて其の場を逃れしは此の時であり、小栗の意見は、武士として當然の主張であつた。若しも一切の横略を掃滅するの英雄的大精神を、最後の徳川氏の肚裏に藏して居たならば、起きると仆れるとを問はず、徳川末期に一段の光彩は輝いたであらう。恭順とは、云ふ迄もなく降参の別名である、武士として光輝ある行動ではない、慶喜は殿樣であつて、英雄ではなかつた。
 江戸城會議とは、向背の理非を爭へる大會議であり、武士道史上顯著の大事件であつた。

 197-207頁
 三四 露艦の對馬占領と小栗上野介の心事 (目次)

 小栗上野の書簡は多く存在せず、水野克讓氏の有せらるゝ一卷の私信と他に二三存在するのみ、此書信私書であり、世人に示さんが爲めに書かれたものにあらざるが故に、粉飾なく却つて小栗上野介の心事が赤裸々に判明する、由つて之れを茲に公にする。
 之れに由れば、小栗の意見は、對馬を以て、幕府の直轄領となし、而して後ちに露人と談判するにあらざれば、談判は結末を有利に告ぐる能はずと云ふにあつた。此意見用ひられざる以上は再び行くも詮なし、無益に任を帶びて遠く中央を去らんよりも必要の時機に於て、國家中央の事に盡すの必要なるを論じたものであることが判明する。
 小栗の「心事」と云ふのは、小栗に次で野々村丹後守が奉行として、對馬に差遣せられたる折に、對州の國守宗氏與へられたる論告書に現はれて居る。
 「右對州へ爲御用被差遣候に付ては、今度内願の趣も有之候に付、州中巨細巡見をも可致候間、差支無之樣被取計候、尤道筋其外休泊可致場所等、聊取繕不及候間、家來共決して心配不被爲、有之儘の所案内致候樣可被申候事」
 右内願とは、
 「對州の地は、御用地に被仰出、私へは相當の地所被下候樣、御沙汰被成下候はば士民一同安堵仕」と云ふ意義也、(藤澤衛彦著閣老安藤對馬守第一五三頁)

(一) 筑後守樣 御内閲     忠  順

     「別紙申上候通り、今日より引込の儀何分可然取斗御願候、付いては此程蒙臺命候箱館御用之儀も、急に發程之御沙汰御座候得共、迚も即今發足仕候儀には兼至候、且、小子素より見込も申上置候處、何之御沙汰も無之、一昨日御逢之節、何分對州表之義一人も滯留不致、一同引拂候段、御懸念も不少趣御沙汰も有之、旁以再三反省仕候處實以於彼地取斗方不行届、右故却而御懸念を増加仕候事に相成、何共恐入候儀、格別之御寛待にて、再出張被仰渡候ば、實以難有儀にて候得共、迚も此上出張仕候迚、小生見込とも違候御指圖故、取纏り候見据も無之、且彼地引拂候節、對州家來共に申聞候儀も之有候、是迄の姿にて、再出張は何の面目か重役共へ面晤も難仕、尚不都合を相生候樣にては、實に恐人候儀に付、先決心仕候、此儀の御用は不日御免相願候積に御座侯、付ては跡に他人へ被仰付候儀は.必然と奉存侯、可然御含御内聽に御入置被下候樣仕度、尤何分前文之次第思慮仕候得共胸中否塞仕、從て眩暈を生じ、何分肝疾之所爲と奉存候得共、迚も急に全快は仕間敷哉に醫師も申聞候、右之趣可然御斟酌の上、御一同樣に御傅聲相願侯、委曲中申上度候得共、何分不文聴認取兼候儘大略を申上候餘は拝眉に萬々可申上候、呉〻も劣生不顧不肖、是迄要路に立、不斗右御様の不都合を生じ、只今に至り心附候、何共恐入候次第、乍去實以他念は無之唯〻恐懼之餘より決心仕侯意裏は御憐察奉願候早々不備
  七月朔日

 (二) 筑後守樣         豊後守

 日々打續炎難堪、先以被爲揃益御清穆奉賀候、抑一昨日引込御届差出候處、縷々御懇切に蒙御教示、殊に山城へ御説諭破下候趣委曲同人よりも申越、千萬奉謝候、右に付早速御教示に隨從仕、出勤も可仕候處、何分不快も同扁にて一兩に出日に出勤も難仕、就は數日御頼合願出候ても、迚も不日出勤之見据も無之候に付、今日より引込養生仕度存候、何分可然御取斗奉願候、尤後刻御詰番へ宛御届は差出候間可然奉願候段々御教示も有之處、右を不相用樣思召の程深恐縮仕候得共、實に無餘義次第故、引込養生仕候間不惡御承引可被下候、且別に小子内存等申上候見込無之候に付、夫故此程御用被仰渡候節も、一通りに御講も仕置候爲故、此上罷出候は迚も外見込申上候義にも難至、寄て此程命の通り、主意柄徹底不仕義には可有之候得共、右樣之念慮發出仕侯節當節の病症に有之甚富惑仕候、御憐察可被下候、何も此段申上度早々己上
 七月三日
   尚々日々御用繁奉察候、且今日之御詰番誰殿に候哉相伺虞度候呉々も前文の次第可然奉願候己上

 (三) 再  答         豊後守

 御細答拝見仕候、縷々御説論之趣、實以難有御禮筆端に盡かたく候、乍去再三熟考も仕候處元來中歸りの積りにて歸府は不仕、一先御用濟の積りに取斗、其故は迚も彼地に滯在候迚、御取締相立候見据も無之、却て御不都合を相生じ候義と見込候に付支配向の者も殘し不仕る申、一同引拂の義に有之、然る處中歸の姿に相成候はば、是迄彼地にて取斗の見込とも相違仕實に恐入候次第に相成、素より最前被仰渡候節は、魯人へ引合等相遂、對州之國政を始、航船を鑑察し、御主意に相添仕、然る上は右御用も一通は相濟候義に御座候、然る處又々出張に候はヾ、兼て見込も申上置候義に付、御採用の上御所置も有之候はヾ、如何樣とも可仕候得共、何分即今の景況にては、實以行届候見据も無之、既に支配向の中にも右の議論申聞、再出張御免相願度趣申出侯者も有之、旁以當惑の次第、依て何れにも今日は御届差出候間、御進達被下候樣奉願候、再應御説論も有之候處頑論のみ申上候段不惡御承引可被下候、日々御用繁の處種々申上候段、何共恐縮の至御宥恕可被下候、何も再答迄如斯御座候己上
 七月三日
  封筩
   水野筑後守樣      小栗豊後守

引用・参照・底本

『維新前後の政争と小栗上野. 続』蜷川新 著 (日本書院出版部, 1931)
「御道迺記」は、「道の記 丹羽久子 著 (小此木忠七郎, 1917)」国立国会図書館デジタルコレクションで検索可です。
『嘉永明治史鑑:詔勅奏建』清田黙 評 (循誘学舎, 1894)(PDF)
『近世日本国民史. 第31 彼理来航及其当時』徳富猪一郎 著(民友社, 1935)(PDF)
(国立国会図書館デジタルコレクション)