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 其四十三 小栗又市松平豆州をして過を謝せしむ

 寛永のころ増上寺において御法會ありしとき.小栗又市の組の立並びたる陳列少し出張りければ、松平伊豆守信綱朝臣通るとて、少し後へ立退べしと命せられける、與力の士言けるは此事を聞入なば小栗殿の心に叶ふまじとて其まゝにて居つゝ、事すみてひそかに小栗氏に申遣はしければいやしくも他の下知を肯はでありしこと、従ひなば許すまじきにといひて宿所へ文を遣はして其身は豆州の許に行て見参に入度由申されければ、未だ歸宅なしといふ、さらば待奉るべしとて亭へ通りて居られける、程なく豆州歸られければ其由を申すに、豆州打笑ひ左あらむとて直ちに逢て能こぞ來られたり、先には組の面々へ指南して候、ふと思ひよりで聊かの品なることにこそ候へ、誤り候ぞ心にかけられなとありければ、其仰に侯へば事濟侯、某が預りたる組のことに、御方なればとて御いろひあるべく事にあらず、それ故其由を承はるべき爲に参りたるに、御會釋の上は所存も殘り候はずとありしかば、、今朝よりの勤めにさびしくありし常飯まゐらせんとて、さまさま饗し數献の上にて、是は上より賜はりたる木なり分け送らんとて、沈を一ふし贈られける。(窓のすさみ)
 評に曰、徳川氏天下を一統し二百五十年の覇業を成就したるは、三河武士の堅甲利兵天下に敵する者なきに在り、其三河武士の強さは素より暴虎馮河の勇あるが故にあらず、紀律嚴粛にして其命令に服從することも亦他に秀でゝ整へるが故なり。而して其軍紀の正しさは將る者の人格よく其部下を手足の如くに働かしむけるに在り、左れば慶元を距る未だ遠からざる寛永ごろに於ては、旗下の宿將漸く凋落し盡したり雖も 猶往時の餘風未だ除かずして、紀律を重んて一身の利害を問ざるの美風あり、小栗又市が閣老松平豆州の邸に赴くや、宿所へ文を遣はしたりといふ、その文には如何なることを記せしやを知らざれども、思ふに豆州の答如何によりて隨分差違て死する程の決心はありしならむ、然る泌に豆州亦知慮深き人にして早く小栗の意を察し、まづ自ら口を開きて其過ちを謝し、之を饗するに酒食を以し之に贈るに將軍恩賜の香木を以す、小栗の怒ら忽ち解けて和氣春の如くなるを得たり、某が預りたる組の事に御方なればとで御いろひあるべき事に非ず云々との言は、文官たる閣老が軍隊に干渉すべきに非ずとの意思は明白なり、身命を賭しても之を爭はんとする決心も亦明なり、組の與力も亦之を知るを以、敢で豆州の命に從はざりし、されば小栗が豆州りの一言已れが組に指揮がましき言を爲したるを怒る、眞に番頭たるの人格をるの人格を具え、之を懇切に慰めて過ちを謝するに吝ならざりし豆州も、亦大臣たるの器局あり。當時徳川氏の盛なる豈偶然ならむや。

引用・参照

『日本武士気質』 葦名慶一郎 (桜所) 編 (新公論社[ほか], 1908
(国立国会図書館デジタルコレクション)