『島崎藤村 夜明け前』 

 (260頁)

 「宮川先生で思い出しました。」と隠居は言った。「手前が喜多村瑞見という方のお供をして、一度神奈川の牡丹屋にお訪ねしたことがございました。青山さんは御存じないかも知れませんが、この喜多村先生がまた変り物と来てる。元は幕府の奥詰のお医者様ですが、開港当時の函館の方へ行って長いこと勤めていらっしゃるうちに、士分に取り立てられて、まもなく函館奉行の組頭でさ。今じゃ江戸へお帰りになって、昌平校の頭取から御目付(監察)に出世なすった。外交掛りを勤めておいでですが、あの調子で行きますと今に外国奉行でしょう。手前もこんな旅籠屋渡世をして見ていますが、あんなに出世をなすった方もめずらしゅうございます。」
 「徳川幕府に人がないでもありませんかね。」
 この平助のトボケた調子に、隠居も笑い出した、外国貿易に、開港の結果に、それに繋がる多くの人の浮沈みに、聞いている半蔵には心にかかることばかりであった。
 
 (377頁)

 土蔵附き売家。
 これは傾きかけた徳川幕府の大身代をどうかして支えられるだけ友えようとしているような、その大番顕の一人とも言うべき小栗上野の口から出た言葉である。土蔵附き売屋とは何か。それは幕府が外国政府より購い入れた軍艦や汽船の修繕に苦しみ、小栗上野とその知友喜多村瑞賢との協力の下に、元治元年あたりからその計画があって、いよいよ慶應元年のはじめより経営の端緒に就いた横須賀の方の新しい造船所を指す。どうして造船所か売屋であるのか。どうしてまた、それがいよいよ出来の上は旗印として熨斗を染め出しても、なお土蔵附きの栄誉を残すであろうと言われるのか。これは小栗上野が一時の諧謔でもない。その内心には、最早時事はいかんともすることが出来ないと知りながらも、幕府の存在するかぎり、一日も任務を尽さね ばならないとする人の口から出た言葉である。実際、幕府内にはこういう人もいた。こういう諧謔の意味は知る人ぞ知ると言って、その志を憐れむ喜多村瑞賢のような人もまた幕府内にいた。言って見れば、山上一族が住む相州三浦の公郷村からほど遠からぬ横須賀の漁港に、そこに新しいドック修船所が幕府の手によって開き始められていたのだ。地中海にある仏国ツウロン港の例にならい、ややその規模を縮小し、製鉄所、ドック、造船場、倉庫等の従来東洋になかった計画がそこに起り始めていたのだ。そして、江戸幕府が没落の運命をたどりつつあったことは、幕府内部のものですらそれを痛感していた間にも、来たるべき時代のためにせっせと支度を怠るまいとするような、こんな近代的な設備がその一隅には隠れていた。
 十五代将軍慶喜は、あだかもこの土蔵附き売屋の札を眺めに徳川の末の代にあらわれて来たような人である。その人を好むと好まないとにかかわらず、当時この国の上下のものが将軍職として仰ぎ見ねばならなかったのも、一橋から入って徳川家を相続した慶喜である。しかし、この新将軍が貴胄の族ながらも多年内外の政局に当り、見聞も広く、経験も積んでいて、決して尋常の貴公子でないことを忘れてはならない。



 (484-485頁)

 三月下旬には、東山道軍が木曽街道の終点ともいうべき板橋に達したとの報知の伝わるばかりでなく、江戸総攻撃の中止せられたことまで馬籠の宿場に伝わって来るようになった。既に大政を奉還し、将軍職辞し、広大な領地までそこへ投げ出しかかった徳川慶喜が江戸城に未練のあろうはずもない。いかに徳川家を疑い憎む反対者でも、当時局外中立の位置にある外国公使らまで認めないもののないこの江戸の主人の恭順に対して 、それを攻めるという手はなかった。慶喜は捨て得るかぎりのものを捨てることによって江戸の市民を救った。
 このことは、いろいろに取り沙汰せられた。もとより、その直接交渉の任当り、あるいは主なき江戸城内留まって諸官の進退と諸般の処置とを総裁し順々として条理を錯乱せしめなかったは、大久保一翁、勝安房、山岡鉄太郎の諸氏である。しかし、幕府内でも最も強硬な主戦派の頭目として聞えた小栗上野の職を褫いで謹慎を命じたほどの堅い決意が慶喜になかったとしたら。当時、「彼を殺せ」とは官軍の中に起こる声であったばかりでなく、江戸城内の味方のものからも起こった。慶喜の心事を知らない兵士らの多くは、その恭順をもってもっぱら京都に降るの意であるとなし、怒気髪を衝き、双眼にはには血涙を濺ぎ、啜り泣いて、「慶喜斬るべし、社稷立つべし」とまでいきまいた。もしその殺気に満ちた空気の中で、幾多め誤解解と反対と悲憤との声を押しきってまでも断乎として公武一和の素志を示すことが慶喜になかったとしたら、おそらく、慶喜がもっと内外の事情に暗い貴公子で、開港条約の履行を外国公使らから迫られた経験もなく、多額の金を注ぎ込んだ債権者としての位置からも日本の内乱を好まない諸外国の存在を意にも留めずに、後患がどうであろうが将来が何となろうがさらに頓着するところもなく、ひたすら徳川家として幕府を失うのが残念であるとの一点に心を奪われるような人でであったなら、たとえ勝安房や山岡鉄太郎や大久保一翁などの奔走尽力があったとしても、この解決は望めなかった。かつては参覲交代制度のような幕府にとって重要な政策を惜しげもなく投げ出した当時からの、あの弱いようで強い、時代の要求に敏感で、そして執着を持たない慶喜の性格を知るものにとっては――また、文久年度と慶応年度との二回にまでわたって幾多の改革に着手したその性格のあらわれを知るものにとっては、これは不思議でもなかったのである。不幸にも、徳川の家の子郎党の中にすら、この主人をよろこばないものがある。その不平は、多年慶喜を排斥しようとする旧い幕臣の中からも起こり、かくのごとき未曽有の大変革はけだし天子を尊ぶの誠意から出たのではなくて全く薩摩と長州との決議から出たことであろうと推測する輩の中からも起り、逆賊の名を負わせられながら何らの抵抗をも示すことなしに過去三百年の都会の誇りをむざむざ西の野蛮人らに蹂みにじらるとはいかにも残念千万であるとする諸陪臣の中からも起こった。「神社(東照宮)に対しても何の面目がある。」――その声はどんな形をとって、どこに飛び出すかもしれなかった。江戸の空は薄暗く、重い空気は八十三里の余もへだった馬籠あたりの街道筋にまで覆いかぶさって来た。

 (573頁)

 どれほどの深さに達するとも知れないような、この大きな破壊の後には何が来るのか。世にはいろいろと言う人がある。徳川十五代将軍が大政奉還を聞いた時に、より善い古代の復帰を信じて疑わなかったような平田門人としても、彼女の夫たちは何らかの形でこれらに答えねばならなかった。



 馬籠宿 2018.10.26 引用者撮影

 (575頁)

 あの東征軍が江戸城に達する前日を期して、陛下が全国人民に五つのお言葉を誓われたことは、まだ半蔵らの記憶に新しい。あのお言葉こそすべてであった。ところが地方の官吏にその人を得ないため、せっかくの御誓文の趣旨にも添いがたいようなことが、こんな山の中に住むものの眼の前にまで起って来た。それは木曽川上流の沿岸から奥筋へかけての多数の住民の死活にもかかわり、ただ一地方の問題としてのみ片づけてしまえないことであった。それが山林事件だ。

 註:専修大学社会科学年報第40号 (研究ノート)
  島崎藤村『夜明け前』における木曽山林事件の虚実 -林業経済史の立場から- 西川善介


 (593-594頁)

 翌日の帰り道には、朝から晴れた。青々とした空の下へ出て行って、ようやく彼の心の憤りを沈めることが出来た。
 「御一新がこんなことでいいのか。」
  ・・・・・
 消えうせべくもない感銘の忘れがたさから、彼はあの新時代の先駆のような東山道軍が岩倉公子を総督にして西からこの木曽街道を進んで来た時の方に思いを馳せた。当時は新政府の信用もまだ一般に薄かった。沿道諸藩の向背のほども測りがたかった。何よりもまず人民の厚い信頼に待たねばならないとして、あの東山道総督執事が地方人民に応援を求める意味の布告を発したことは一度や二度にとどまらなかった。このたび進発の勅命をこうむったのは、一方に諸国の情実を問い、万民塗炭の苦しみを救わせられたき叡旨であるぞと触れ出されたのもあの時であった。徳川支配地はもちろん、諸藩の領分に至るまで、年来苛政に苦しめられて来たもの、その他仔細あるものなどは、遠慮なくその旨を本陣に届けいでよと言われ、彼も本陣役の一人として直接その衝に当たったことはまだ彼には昨日のことのようでもある。彼半蔵のような愚直なものが忘れようとして忘れられないのは、民意の尊重を約束して出発したあの新政府の意気込みであった。彼が多くの街道仲間の不平を排しても、本陣捨て、問屋を捨て庄屋を捨てたというのは、新政府の代理人というべき官吏にこの約束を行ってもらいたいからであった。



 (605-607頁)

「青山君、あれで老先生(平田鉄胤のこと)も、もう十年若くしておきたかったね。」と正香は盃を重ねながら言った。「明治御一新の声を聞いた時に、先生は六十七歳の老年だからね。先生を中心にした時代は――まあ、実際の話が、明治の三年までだね。」
「あの年の六月には、先生も大学の方もお辞めになったように聞いていますが。」と半蔵も言って見る。
「見たまえ。」という正香の眼はかがやいて来た。「われわれはお互いに十年の後を期した。こんなに早く国学者の認められる時が来ようとも思わなかった。そりゃ、この大政の復古が中興の昔に帰るようなことであっちゃならない、神武の創業にまで帰って行くことでなくちゃならない――ああいうことを唱え出したのも、あの玉松あたりさ。復古はお互いの信条だからね。しかし君、復古が復古であるというのは、それの達成せられないところにあるのさ。そう無造作に出来るものが、復古じゃない。ところが世間の人はそうは思いませんね。あの明治三年あたりまでの勢いと来たら、本居平田の学説も知らないものは人間じゃないようなことまで言い出した。それこそ、猫も、杓子もですよ。篤胤先生の著述なぞは随分広く行われましたね。ところが君、その結果は、というと、何が『古事記伝』や『古史伝』を著わした人たちの真意かもよく解らないうちに、みんな素通りだ。いくら、昨日の新は今日の旧だというような、こんな潮流の急な時勢でも、これじゃ――まったく、ひどい。」
「暮田さん。」と半蔵はほんのり好い色になって来た正香の顔を眺めながら、さらに話しつづけた。「わたしなぞはこれからだと思っていますよ。」
「それさ。」
「われわれはまだ、踏み出したばかりじゃありませんかね。」
「君の言う通りさ。今になってよく考えて見ると、何十年かかったらこの御一新がほんとうに成就されるものか、ちょいと見当がつかない。あれで鉄胤先生なぞの意志も、政治を高めるというところにあったろうし、同門には越前の中根雪江のような人もあって、随分先生を助けもしたろうがね、いかな先生も年には勝てない。この御一新の序幕の中で、先生も老いてして行かれたようなものさね。まだそれでも、明治四年あたりまではよかった。版籍を奉還した諸侯が知事でいて、その下に立つ旧藩の人たちが民政をやった時分には、すくなくも御一新の成就するまではと言ったものだし、また実際それを心がけた藩もあった。しよいよ廃藩の実行となると、こいつがやかましい。江戸大城の明渡しには異議なしでも、自分らの城まで明けけ渡せとなると、中には考えてしまった藩もあるからね。一方には郡県の政治が始まる。官吏の就職運動が激しくなる。成り上がり者の官吏の中にはむやみと威張りたがるような乱暴なやつが出て来る。先刻も君の話のようになかなか地方の官吏にはその人も得られないのさ。国家の事業は窮屈な官業に混同されてしまって、この調子で行ったらますます官僚万能の世の中さ。まあ、青山君、君だって、こんなはずじゃなかったと思うでしょう。見たまえ、この際、力を担ぎ出そうとする連中なぞが士族仲間から頭を持ち上げて来ましたぜ。征韓、征韓――あの声はどうです。もとより膺懲のことは忘れてはならない。たとい外国と和親を結んでも、曲直は明らかにせねばならない。国内の不正もまたたださねばならない。それはもう当然なことです。しかし全国人民の後ろ楯なしに、そんな力が担ぎ出せるものか、どうか。なるほど、不平のやりどころのない士族はそれで納まるかも知れないが、百姓や町人はどうなろう。御一新の成就もまだおぼつかないところへ持って来て、また中世を造るようなことがあっちゃならない。早く中世を遁れよというのが、あの本居先生なぞの教えたことじゃなかったですか……」



 (608-609頁)

彼はまた平田一門の前途についても考えて見た。
 その時になって見ると、先師歿後の門人が全国で四千人にも達した明治元年あたりを平田派全盛時代の頂上とする。伊那の谷あたりの最も篤胤研究のさかんであった地方では、あの年平田入門者なるものは一年間百二十人多くに上ったが、明治三年には十九人にガタ落ちがして、同四年にはわずかに四人の入門者を数える。北には倉沢義髄を出し、南には片桐春一、北原稲雄、原信好を出し、先師遺著『古史伝』三十一巻の上木頒布に、山吹社中発起の条山神社の創設に、ほとんど平田研究者の苗床ともいうべき谷間であった伊那ですらそれだ。これを中央に見ても、正香のいわゆる「政治を高めようとする」祭政一致の理想は、やがて太政官中の神祇官を生み、鉄胤先生を中心とする神祇官はほとんど一代の文教を指導する位置にすらあった。大政復古の当時、帝には国是の確定を列祖神霊に告ぐるため、わざわざ神祇官へ行幸し給うたほどであったが、やがて明治四年八月には神祇官も神祇省と改められ、同五年三月にはその神祇省も廃せられて教部省の設置を見、同じ年の十月にはついに教部文部両省の合併を見るほどに推し移って来る。今は師も老い、正香のような先輩ですら余生を賀茂の方に送ろうとしている。そういう半蔵が同門の友人仲間でも、香蔵は病み、景蔵は隠れた。これには彼も腕を組んでしまった。

 (635頁)

 多吉はまた半蔵を見に来て言った。
 「どうです、青山さん。江戸のころから見ると、町の様子も変りましたろう。去年の春から、敵打ちの厳禁――そうです。敵打ちの厳禁でさ。政府も大きな仕事をやったもんさね。親兄弟の讐を勝手に復すようなことは、講釈師の昔話になってしまいました。それだけでも世の中は変って来ましたね。江戸に長く住み慣れたものから見ると、徳川さまは実にかあいそうです。徳川さまの御恩を忘れちゃならない。皆それを言ってます。お隅のやつなぞもね、葵の御紋を見ると涙がこぼれるなんて、そう言ってますよ。」

 (638頁)

 外には台湾生蛮征討のことが起り、内には西南地方の結社組織の噂なぞがしきりに伝わって来て、息苦しい時代の雲行きはどうしてそう容易く言えるわけのものでもなかったが、しかし、何となく彼の胸に纏まって浮かんで来るものはある。うっかりすると御一新の改革も逆に流れそうで、心あるものの多くが期待したこの世の建直しも、四民平等の新機運も、実際どうなろうかとさえ危ぶまれた。

 彼は自分に尋ねて見た。
 「これでも復古と言えるのか。」
 その彼の眼前に展けつつあったものは、帰り来る古代でもなくて、実に思いがけない近つ代であった。



 (645頁)

 「教部省のことは最早言うに足りない。」
 とは半蔵の歎息だ。
 今は彼も再び役所の同僚の方へ帰って行く気はないし、また帰れもしない。いよいよ役所の仕事から離れて、辞職の手続きをする心に至って見ると、彼なぞのそう長くは身を置くべき場所でないこともはっきりした。

 半蔵が教部省御雇いとしての日はこんなふうに終りを告げた。半年の奉職は短かったが、しかし彼はいろいろなことを学んで来た。平田派諸先輩の学者たちが祭政一致の企てに手を焼いたことをも、それに代って組織された神仏合同大教院のような政府の教化事業が結局失敗に終るべき運命のものであることを知って来たのも、その短い月日の間であった。ここまで御一新に路を開けたあの本居翁のような人さえもが多くの俗吏によってどんなふうに取り扱われているかを知って来たのも、またその間であった。



 (647頁)

 木曽路通過の正香は賀茂の方へ赴任して行く旅の途中で、古い神社へとこころざす手本を彼に示したのもあの先輩だが、彼とともに酌みかわした酒の上で平田一門の前途を語り、御一新の成就のおぼつかないことを語り、復古が復古であるというのはそれの達成せられないところにあると語り、しまいには熱い暗い涙があの先輩の男らしい顔を流れたことを思い出した。

 (672頁)

 四

 裁断申し渡し書付けの写し
    信濃国筑摩郡神坂村平民
    当時水無神社宮司兼中講義
              青山半蔵
 その方儀、憂国の過慮より、自作の和歌一首録しおきたる扇面を行幸の途上において叡覧に備わらんことを欲し、みだりに供奉の乗車と誤認し、投進せしに、御の車駕に触る。右は衝突儀仗の条をもって論じ、情を酌量して五等を減じ、懲役五十日のところ、過誤につき贖罪金三円七十五銭申し付くる。
  明治八年一月十三日
               東京裁判所



 (696頁)

 全国徴兵の新制度を是認し大坂鎮台兵の一部を熊本に移してまでも訓練と規律とに重きを置こうとする干城と、その正反対に立った利秋とは、ついに明治十年には互いに兵火の間相見ゆる人たちであった。
 この戦争は東北戦争よりもっと不幸であった。なぜかなら、これはそのそもそもの起りにおいて味方同志の戦争であるのだから。体内の血が逆に流れ、総身の毛筋が逆立つような内部の苦しい抗争であるのだから。そして、かつての官武一途も上下一和も徳川幕府を向うに廻しての一途一和であって、一旦共同の敵たる慶喜の倒れた上は味方同志の排斥と暗闘もまた止むを得ないとする国内の不一致を世界万国に向って示したようなものであるから。よもや起つまいと言われた西郷隆盛のような人までが起って、一万五千人からの血気にはやる子弟と運命をともにするようになった。長州の木戸孝允のごとき人はそれを言って、西郷ありてこそ自分らも薩摩と合力し、いささか維新の盛時にも遭遇したものであるのに、と地団駄を踏んだ。この隆盛の進退はよくよく孝允にも惜しまれたと見えて、人は短所よりむしろ長所で身を誤る、西郷老人もまた長ずるところをもって一朝の憤りに迷い末路をを誤るのは実に残念千万であると言ったという。開戦は十年二月晦日であった。薩摩方も予想外に強く、官軍は始終大苦戦で、開戦後四十日の間にわずかに三、四里の進軍と聞いて、孝允なぞはこれを明示の帝の中興に大関係ある白骨勝負と見た。そして、今度の隆盛らの動きは無名の暴発であるから、天下の方向も幸いに迷うことはあるまいが、もともと明治維新と言われるものがまるで手品か何かのように甘く調ったところから、行政の官吏らがすこしも人世の艱苦を嘗めないのにただただその手品のようなところのみを真似て、容易に一本の筆頭で数百年にもわたる人民の生活や慣習を破り去り、功名の一方にのみ注目する時勢は言葉に尽くせない、天下の人心はまだまだ決して楽しんでいない、このありさまを目撃して血涙のほかはないと言って、時代を憂い憂いの戦時の空気の中に病み倒れて行ったのも孝允であった。
 これくらいの艱難がこの国維新の途上に沸いて来るのは当然であったかも知れない。

 (707-708頁)

それほど彼の心はまだ暗かった。幾多の欠陥の社会に伏在すればこそ、天賦人権の新説も頭を持ち上げ、欧羅巴人の中に生まれた自由の理も喧伝せられ、民約論のたぐいまで紹介せられて、福沢諭吉、板垣退助、馬場辰猪、中江篤介らの人たちが思い思いに、あるいは文明の急務を説き、あるいは民権の思想を鼓吹し、あるいは国会開設の必要を唱うるに至つた。真智なしには権利の説の是非も定めがたく、海の東西ににある諸理想の区別をも見究めがたい。ただただわけもなしに附和雷同する人たちの声は啓蒙の時にはまぬがれがたいことかも知れないが、それが郷里の山林事件にまで響いて来るので、半蔵なぞはハラハラした。物を教える人がめっきり多くなって、しかも学ぶに難い世の中になって来た。良心あるものはその声に聴いて道をたどるのほかはなかったのである。
 この空気の中だ。今度木曽山を争おうとする人たちに言わせると、
 「平田門人は復古の約束をしながら、そんな古はどこにも帰って来ないではないか。」
 というにあるらしい。
 これには半蔵は返す言葉もない。復古が復古であるというのは、それの達成せられないところにあると言ったあの暮田正香の言葉なぞを思い出して彼は暗然とした。

 (718頁)

 言葉もまた重要な交通の機関である。かく万国交際の世の中になつて、一切の学術、工芸、政治、教育から軍隊の組織まで西洋に学ばなければならないものの多いこの過渡時代に、まず外国の言葉を習得して、自由に彼と我との事情を通じ得るものは、その知識があるだけでも今日の役者として立てられる。今や維新と言い、日進月歩の時と言って、国学にとどまる平田門人ごときはあたかも旧習を脱せざるもののように見なさるるのも止むを得なかった。ただ半蔵としては、たといこの過渡時代がどれほど長く続くとも、これまで大和言葉のために戦って来た国学諸先輩の骨折りがこのまま水泡に帰するとは彼には考えられもしなかった。いつか先の方には再び国学の役に立つ時が来ると信じないかぎり、彼なぞの立つ瀬はなかったのであった。

 (720頁)

それにしても、全国四千人を数えた平田篤胤歿後の門人の中に、この時代の大波を乗り越えるものはあらわれないのか、と彼は嘆息した。所詮、復古は含蓄で、事物に働きかける実際の力にはならないと聞くのも辛く、ひとりで酒を飲めば飲むほど、かえって彼は寝られなかった。

 (750頁)

 何が『古事記伝』や『古史伝』を著わした人たちの真意かもよく解らないうちに、みんな素通りだ、いくら昨日の新は今日の旧だというような、こんな潮流の急な時勢でも、これじゃ――まったく、ひどい、とあの正香の言ったことを思い出した。本居平田の学説も知らないものは人間じゃないようなことまで言われた昨日の勢いは間違いであったのか、一切の国学者の考えたことも過った熱心からだとされる今日の時が本当であるのか、このはなはだしい変り方に面と対っては、ただただ彼なぞは眼も眩むばかり。かつての神仏分離の運動が過ぎて行った後になって見ると、昨日まで宗教廓清の急先鋒と目された平田門人らも今日は頑執盲排のともがら扱いである。ことに、愚かな彼のようなものは、すること、なすこと、周囲のものに誤解されるばかりでなく、ややもすると「あんな狂人はやっつけろ」ぐらいのことは言いかねないような、そんな嘲りの声さえ耳の底に聞きつけることがある。この周囲のものの誤解から来る敵意ほど、彼の心を悲しませるものもなかった。

 (762頁)

 これまで丹精して来た植松の家にゆっくり父を迎えたいことであった。今となっては残念ながらそれも叶わない。五十余年の涙の多い生涯を送った父が最後に行きついたところは、そんな座敷牢であるかと思うと、彼女は何かこう自分の内にも親譲りの触りたくないものに否でも応でも触るような気がして、その心から言いあらわしがたい恐怖を誘われた。

 (763頁)

 「いやはや、今度という今度はわたしも弱りました。粂さまは何も御存じお師匠さまにはあの隠宅もありますし、これがただの気鬱症か何かなら、誰もあんな暗いところへお師匠さまを入れたかありません。お寺へ火をつけるようなことがあったものですから、それから大やかまし。おまけに、ちょうど馬籠の祭礼の最中で、皆あわててしまいましたわい。」





 (768頁)

 しかし、座敷牢へ落ちて行くまでの半蔵が心持をたどって見ようとするのも、この旧い友人のほかにない。景蔵は勝重のような後進の者を前に置いて、何も蔽い隠そうとする人でなかった。彼に言わせると、古代復帰の夢想を抱いて明治維新の成就を期した国学者仲間の動き――平田鉄胤翁をはじめ、篤胤歿後の門人と言わるる多くの同門の人たちがなしたこと考えたことも、結局大きな失敗に終ったのであった。半蔵のような純情の人が狂いもするはずではなかろうかと。

 (780頁)

 すべて、すべて後方になった。ひとり彼の生涯が終りを告げたばかりでなく、維新以来の明治の舞台もその十九年あたりまでを一つの過渡期として大きく廻りかけていた。人々は進歩を孕んだ昨日の保守にも疲れた。新しい日本を求める心はようやく多くの若者の胸に萌して来たが、しかし封建時代を葬ることばかり知って、まだまことの維新の成就する日を望むことも出来ないような不幸な薄暗さがあたりを支配していた。



 (781頁)

 勝重は師匠の口からわずかにもれて来た忘れがたい言葉、「わたしはおてんとうさまも見ずに死ぬ」というあの言葉を思い出して悲しく思った。



 (800頁)

 解 説  野間 宏

 この「夜明け前」が構想されまた書きはじめられた時期には、明治維新をもっぱら神聖視しまた飾り立てて、これをもって国民を完全に支配しようという、大日本帝国と天皇制確立のための考えをもってつくり出された歴史や物語などが行きわたっていた時期であった。そして、そのようななかで明治維新はまるでもっぱら数名の維新の元勲たちによってなされたかのような考えがひろげられていたともいえる。

引用・参照・底本

『日本の文学 島崎藤村(二)夜明け前(全)』中央公論社 昭和48年2月20日発行