『国際法より觀たる幕末外交物語』

 26-72頁
 第二章 主権者

 諸外國が最も判断に苦んだのは、朝廷と幕府との關係であつた。これは無理も無いことで、國内でもどうかすると、關係に就いて充分の説明を爲すことが出來ぬものであつた。幕末の政變は、此兩者の關係を如何に解決すべきやの問題が主となつたので。兩者間の權力の一進一退が幾多の波瀾重畳を來し、遂に維新の大變革となつて、最後の解決を得たのである。
 ズツト古い處や足利時代の事はしばらく措くも。最も隣接して我國情を熟知して居る筈の朝鮮さへ、慶長十二年、使節呂祐吉等の幕府に出したる國書には「日本國王殿下」とあり。其返簡には單に「日本源秀忠」とあつたが、元和三年呉允謙等の來りしときの返簡には「日本王源秀忠」となつた。寛永元年のときには返簡には「日本國主」とすべきか「日本國王」とすべきかに議論はあつたが。遂に「日本國王」となつた。これではいくら幕府全盛時代でも物議の種となつたから、寛永十三年には爾今朝鮮國王の書には日本國大君と記すべく、當方よりの返書には日本國姓某とする。と告知して幾分體裁は良くなつた。此大君といふのは、音讀するので、當時の儒者仲間の用例であつた。彼の有吊なる赤穂義人錄にも將軍を指すに此語を用ひてある。其語の由來意味等に付ては、後年新井白石と雨森芳洲等との論議に盡きて居るから之を略す。これが幕末にまた稊異なる意味を有して、尊外文書には必らず此語を用ふることになり、taikum又はtycoonと呼ぶときは、恰もカイゼル又はズルタンといふ如き稱號となり。明治維新迄行はれで居つたのである。
 正徳元年には、また「日本國王」に逆戻りした。これは新井白石の説に依つたので、白石は種々辯明して居るが感心出來ない。
 朝鮮でさへこんな風であるから、其他の諸國は猶の事で。彼の家康の顧問であつた、アダムスでさへ家康を皇帝と記して居る。また諸國の中で、和蘭は古くから永く貿易し、最も我國情を知つて居るにも拘らず。一六四八年(慶安元年)江戸へ出府した和蘭使節は「江戸の皇帝」「京都の内裏」といふ語を用ひてある。しかし流石にケムプエルは兩者の關係に疑問を懐き、之を判斷して、朝廷を神聖君主。幕府を俗的君主と解した。これか後に至る迄、外人間の正しき概念となつた。(一)
 註一、一體西洋人は初め將軍を唯一の權力者だと思つて居たのに江戸の所謂大君の外京都にも一つ高い位の帝の在すことを聞いて一時本當の主權の所在孰れにあるや分からなくなつたのである而して実權は矢張り幕府自ら聲明する通り江戸にあるそこで彼等は京都の皇居を以て羅馬の法王の樣なものだと合點して仕舞つた故に在來の西洋人の日本記述は殆んど京都をヴアチカン觀て怪まなかつた云々(吉野作造氏「新井白石とヨワンシローチ」  此兩者の關係を、實際的に最も早く理解したのは露國であつた。露國は一八〇四年(文化元年)レサノフを日本開國の使節として派遣したが、その出發に際し、アレクサンドル帝が商務大臣に命じて作らしめた「使者覺書」には
 日本は二頭政治の國なり。もと兵權を掌握せし將軍は、漸次其勢力を増して、遂に政權を恣にするに至り。皇帝ありて京都に政廳を設くと雖些の實權なし。放に公方なる日本の將軍は皇帝たるの實力を有す。されば、卿は公方陛下の議定を仰ぎ、一切皇帝陛下への拝謁など請求せざるを可とす。
とあつた。レサノフは使命を達せすして歸たのであるが、當時これ程意識して居つた使節は稀れであつた。
 弘化元年(一八四四年)和蘭國王ウイルレム二世の幕府に出した書翰には
 謹而江戸の政廳にまします徳威最高威武隆盛なる大日本國君殿下に書を奉じて微忠を表すといふ風の書方であり、彼のあらゆる豫備知識を以て來りしペルリの國書にさへ
 日本國大君主殿下には平安に被成御座是を至極尊むべく敬ふべき良友と申すべくにや
とある。
 安政二年(一八五五年)日米神奈川條約批准交換の際。井戸尊馬守は、閣老の命なりとして『渠が我將軍を呼ぶに公方なる吊稱を用ふるのは、將軍の尊敬を冒す所以なるを以て。今後は大君なる稱呼を用ふるべし』と注意せしめた、即ち前述朝鮮に尊して用ひし用例を復活して、一般に外交文書に用ふることゝなつたのである。
 此稱號の事については、一八六三年(文久三年)シーボルトが總理大臣トルベツクに送つた日本に尊する意見書の一節に
 大君といふ吊稱は、今の將軍家重から始まつた。家重は將軍といふ言葉は御門(mikado)の軍隊の長といふ意で、これを外國との條約に用ひたことによつて自殺したといふ噂がある前將軍家慶家定の轍をふむことを恐れ、特に大君と稱したのである。
といふのがある。どこから出た説か知らぬが一異聞である。惟ふに右の説の聞き誤りであらう。
 斯くて稱號は一定したのであるが。幕府は窮餘の一策として、條約の締結には朝廷の勅許を要すと云ひ出した。これ史家が幕府自ら其權威を失墜して倒壊を招きたる端緒なりと論ずろ所以でこれに依つて更に内外の困難を増したのである。
 ハリスの日記に(安政五年正月の條)
 彼等は語を進めて左の如く語れり。今や老中の一人開國案を以て京都に於ける精神上の皇帝に伏奏し、其勅裁を仰ぎて諸大吊の異議を壓伏せんと策しつゝあり。故に條約の調印は此勅裁を得るまで延期せられたし(二)彼等は誠實に通商條約の實施を計るべきか故に、京都特派使節の歸府まで是が調印を延期せられんことを求む。而して使者の往復には約二ケ月を要すべし。と
 余は彼等の具申を聞きたる後、問ふて曰く然らば若し、老中の一人京都に赴きてミカドに開國勅許を奏請するに當り、萬一勅裁を得ざるときは條約全部を癈棄せんとするかと。日本全權は此質問を受くるや、斷々乎として答へて曰く、幕府は決して天子より反尊を受けざるの確信を布有すと。余更に問ふて曰く、既にミカドにして本條約の締結に反尊ならざる確信あらば、何を苦んで特に之が允許を奏請するの要ある。と彼等答へて曰く、是れ幕府の政策に重味を附すべき緊要なる儀式なり。即ち若し京都朝廷にして、一度開國の儀を勅許あらんには如何に強硬なる諸大吊と雖も忽ち屏息朊従すべきは火を睹るよりも瞭なればなりと。云々
 また別に
 余は從前の幕府の官吏が、平常日本の主權者たるミカドに尊して。動もすれば輕侮の言動ありしに拘はらず。近來盛んにミカドの絶尊權を主張するを見て、大勢の推移を感ぜずんばあらず。
との一節もあり。その勅許の容易に下らざるや
 従前將軍家を以て、事實上の日本君主と思惟したるに。ミカドが名實共に日本の主權者にして、幕府は單に其假装的統治者たるなきやを疑ひ始めたり。云々

 附 録

 393-437頁
 一、生麥事件の眞相

 はしがき

 斯樣な標題を掲ぐると、恰も私が當時の樞機にでも參して居り、従来世に知られざる事柄をでも知つて居るかの如き誤解を招くの恐れあるも、元來學の門外漢でしかも若輩者の私であるから、決して左樣の事を申述ぶるので無く、唯だ從來の史料は區々で判斷に苦む點が多いから、是等の點擧げて愚考を述べ敢て世の批判を乞はんとするのである、羊頭狗肉の毀りは幾重にも御容赦を願ひたい、
 さてまた斯く申したとて、私が幾多の史科を有して居るのでは無い、夫れは斎藤文藏氏が歴史地理第三十三巻第四・五・六號第三十四巻一・五・六號に亘り「英佛人の觀たる生麥事件」と題する貴重なる史料を提供せられたるを拜借し、これに二三の史料を混へたに過ぎぬのであるから、豫じめ斎藤氏に御詑をし併せて一般讀者諸君の御諒解を願ふのである、
 普通史家は生麥事件といへば其最終の薩英戰爭の終局迄述ぶるのが普通の例となつて居るが、私はそこ迄は述べすに單に生麥に於ける出來事其者を述べ樣と思ふのである、一體生麥に於ける事件はホンの突嗟の間に生じた一場の出來事に過ぎなかつたのであるが、其結果があまりに重大であつた爲め、生麥の出來事その者は反つて重大視されず、其結果の研究記述のみに力を盡さるゝの傾きあり、從來比較的閑却されて居つたのであるから、私が敢て揣らず茲に其研究の非望を起すに至つたのである、
 そこで愈々研究に着手して見ると實に尠からざる幾多の難問題に遭遇したのである、一體突嗟の出來事といふものは割合に眞相を得難いもので、簡單である丈け人の見聞や記憶は區々であるので、一例を擧げると、私が先年岐阜で板垣伯遭難の事實を研究した際にも、實地に臨み種々の書類抔も調べて見た處、仲々刳らなかつた、又往年星亨遭難の際も都下の新聞記事が區々であつた樣なものである、それに上麥の出來事は薩藩にあつては自慢話に花は咲いた樣であるが、幕府に尊しては事を曖昧にした樣の形跡あり、一體にどの事件でも加害者側は成るべく事を自己に利益に解するの傾あり、被害者側は之に反して成るべく加害者の暴狀を吹聽したがるものであるのに、此事變の樣に國際問題となつては更に外交の懸引の爲め、事實は幾重にも曲解された樣な節も見え、また攘夷説の勢の良い時代には薩藩士中にも誇張的に盛んに手柄話をした樣であるが、時連一變して薩藩の有力者が廟堂に立ち、今度はあべこべに外人崇拜時代となつては、我邦にも左樣な野蠻未開な時代が御座つたかたどといふ顔をする時勢となつては、益々事件の眞相は解らなくなり、漸く史學獨立の氣運が向いた頃になると、實歴者も概ね地下の人となり史料も散佚するといふ有樣であるから、愈眞相を補足するととが出來無くなつたのである。

 所謂生麥事件といふこと

 先づ第一に此事變を生麥事件といふが、是れは日本側の祀事で外人側では生麥といふ地吊無く、單に神奈川と川崎との間とあるのみであることは斎藤氏の述べられた通りであるが、事變翌日松平修理太夫家來西筑右衛門吊義にて老中に届出でた書面にも、「神奈川宿手前にて異人共四人云々」とあり、また老中より英國公使への書翰にも[島津三郎義川崎卜神奈川トノ間通行之節」云々とあつて生麥の吊は無いが、薩藩が最初に神奈川奉行へ届出でた加害者は浪人體之者云々といふ出鱈目の届書には、「東海道生麥村通行之節」とあつて生麥の吊は出て居るのであるが、生麥の無い方の書方は、是れは宿驛は川崎の次は神奈川であるから、宿驛を主とした記述と見れば、別に上思議は無い樣であるが、茲にに少しく想像を逞ふすれば、被害人の絶命した場處は生麥の地籍であるが、其最初の一撃を加へた場所は、後に述ぶる如く明確を缺く點もあるから、外人側は單に川崎と神奈川との間と記述して、最初の一撃から絶命迄の長き道程と其間の慘虐なる行動とを力説し、薩藩側は其一説の如く、即座に落命したと主張するから、生麥の一地點としたので、所謂加害者側と被害者側との立場の相違から、自然こんな差を生じたのでないかとも思はれる。

 日時の問題

 次に日時の問題であるが、時は惟文久二年八月二十一日西紀一千八百六十二年九月十四日の出來事であることはいふ迄も無いのであるが、何時頃であつたかといふことが研究に値する、一體支那の書は時と處との概念を得るのに乏しい記述で、從つて其影響を受けた我國でも兎角時間の記載が疎である、日本の記事には「午の頃」とあるものもあるが、生麥村組頭八郎右衛門の届書には「今廿一日未上刻頃薩州樣御登り先に於て」云々とあり、生麥村吊主東右衛門並に治郎右衛門の書上には「八月廿一日晝ハツ時頃と覺」云々とあり、ざつと午後の二時頃のことゝなつで居る、外人側のの記事ではモツスマン等英人一行は「午後二時頃神奈川にて馬に乘り約三四哩間續きたる行列を過ぐし馬を並足にて進め本隊の邊に來りしとき遭難したり」とあつて、馬の速度は精密に測定は出來ざるも、日本側の記事は多くは外人は砂烟りを擧げて來るとあり、右の外人の記事中にも「一行は確固たる歩にてその馬を進ましめ、而して間隔の間は緩駈けしたり本式の行列に出會した時は並足であつた」とあるから、疾駈したのでは無かつたが何にしろ彼の砂埃り多い街道だから、日本人から見れば砂烟りを擧げたとも見えたであらう、どちらにしても一時間とはかゝるまい三十分前後であつたらうと思はれる、ジャパン、エキスプレッス「三時頃静かに騎乘しつゝありたり」ジャパン、ヘルドは、「午後二時頃一團は横濱を出で午後三時半頃ボラデール夫人は負傷し歸り來れり」鶴太十郎報告書には「神奈川宿宮之河岸へ晝ハツ半時頃右夷人二人血に染み女夷人は怪我も無之、宿内本覺寺と申亜國コンシユル宿寺へ逃込」云々とあるのを参照すれば、事變の起きたのは午後三時近くと見てよからう、

 被害英人はどういふ風に通つたか

 それから被害者は殺されたのがリチャードソンで傷けられたのがマーシャルルとクラークで帽子を切られたのがボラデール夫人であることは明白であるが、此一行はどの方向から來たのであらうか、久木村利休の實歴談では、自分等が神奈川宿を過ぎて生麥村に差しかゝつたとき、横濱の方から異國人が來た(薩英戰爭)とあるが、是れは方角が違ふ、神奈川宿とあるは川崎宿かまたは鶴見の誤りであらう、岩崎治郎古の談では、英人は川崎大師の見物に行くといふ話からの想像であらうと思ふ、これらの説はさまで根據の無い説であるが、茲に上思議に堪へざるは當年實歴者中の大立者であつた海江田子爵の談は、「江戸を出發し川崎の驛にて少し行列に遅れ、生麥近くなれる頃馬に跨れる四人の外人が子爵の後より足掻をはやめてかけ來りその前をつき抜けて行列の方をさして急ぎしが、忽ち右の外人三人となりて皆ふるい戰き顔色青ざめ向より馳そ來りしより急ぎ行きたるに、黒田了介より外人が斫られた話を聞き、生麥の驛にいたり負傷せる外人を見たり」(太陽第二巷第廿一號)とありこれでは方角が違ふのであるが、子爵の談は更に確保すべく「英人の記す所にては此日は吊も高き金紋先箱の大諸侯島津氏の行列を見んとて、馬は陸を急がせて先へやり、自分等は本牧の岬より舟にて川崎と鶴見との間にあがりしに、行列ははや過ぎ去りて間にあはざりしかば、追かけて見物たすべしとて馬に打乘り、急ぎて追付き行列をかけ抜け、先の方へ出でんとして腕に覺える薩摩武士の鋒先に觸れしなり」(同上)とありて、何れの英人の書に據りしや知らざるも始めての異聞である。是れでは負傷者は江戸の方角へ逃げたことになるが、それからどうしたのであらう舟に乘つて横濱の方へ歸つたと見ねばならぬ、夫では當時の凡ての事情と吻合せないのであるが、何しろ薩藩側の有力な人の實歴談であるから無下に拾つる譯にも行かぬから、茲には只だ此説を疑として掲げで置くのである、通説では外人一行は呻奈川の方より來り、負傷して紳奈川の方へ逃げ歸つたことになって居るが、被害者の疵は概ね背部に有るのであるから、行列の後から來て行列を破つたから突き貫かれた後より斬り付けたといふ風の説もあつたから、遂にこんな誤りを傳へたのではあるまいか、海江田子爵の話は方角を上りと下りと反尊にして考ふるときは、其後の事柄も他の話と符号することになるのである、即ち根本に於て奈良原等と遅れて歩るいたのでは無く、先達つて歩るいたのではあるまいか、勿論行列の先驅は猶ほ先の方に多勢行つたのであるから、其姐巾連中より遅れたのを考へ違へをしたのではなからうかとも思はれる。
 夫から外人一行は何れの側を通つたのであらうか正面より行列と衝突したのであるか、何れを通つたのであらうか.外人の普通として左側を通行したらうと思はれるが、絶命の場所は神奈川よりは右側に當つて居るからお右側とも考へらるゝが、とこれに付いては史料は無いが、只だ一書には「行列が餘りに長いのでシバシ手綱を控へた騎馬の外人は、人家の防砂垣に壓し付けられた」とあるから、其防砂垣を研究するの要がある、防砂垣は海の側にあつたらうと思はれるが、此邊のこと故反尊の川側にでも必あつたから知れぬが、今日では人家櫛比しで往来には垣は無いから何れであるか、到底判明せないが、外人の負傷は體の左側に多いのであるから、行列から見た右側から背を見せて走つたのを新られたものと推定が出來る、從つて最初行列に向つて左側に居り馬首を轉廻しで走つたものと見える、然らずして行列に向つて右側に居り行列を横ぎつて左側へ出て馬首を歸へしたものとするときは、こんた傷は附かぬ筈である、「生麥村騒擾記」には行列先へ駈入り鐵砲隊を駈け通り、駕籠近く來り駕籠をも蹄にかけて過ぎんとしたとあるが、これは餘りに甚だしい、正面から駈け込んで來たのならば、とてもそんなに通らぬ先に殺されて居るは當然で.事體有り得べからざる事である、特に同書の據つた史料たる「勘左衛門書上」には「何れも乘馬にて右島津樣へ行逢ひ候に付、御先手衆より御聲相掛候を、右異人更に聞入上申、既に御駕籠先近く相成り候と心得候内、最早抜き連異人腰の當り被切付候樣子」とあつて、熟讀すると必らずしも行列の中を割つて通つたと解せなければならぬといふ書き振りでも無い、市來四郎の談でも「隨分彼等も用心して道の片側を通つたそうです」(史談會速記錄)とあり、其他の書でも正面から駈せ入つたといふものは見當らない、

 事件の起つた地點

 次に此變事の行はれし地點に付いては日本側の記事の多くは生麥の立場近くといふことになつで居るが、其立場とは何處か上明である、鶴太十郎の報告書には、負傷者は一二町逃退桐屋の前にて落馬、夫れよりニ町程逃退きたりとあるから最初の斬られし場所より落命の場所迄は三四町あることとなるも、宮里孫八郎の手紙では行列より十町位先きになつて行きしに、負傷外人が後より、負傷外人の離れ馬が來れりとあろから、其離れ馬は負傷外人の落馬した後のことであるから、負傷と落馬との間は十町以内のことが判る、更に外人側の記述ではジャパン、エキスプレッスは神奈川より四哩程なる處にて遭難したりとあり、英國公使より外國奉行へ差出したる書簡にも神奈川より二里許りの處にてとあり、老中板倉周防守宅にて同人並に水野和泉守と米國公使及び和蘭將官との應接の時には、外國人より咋日午後英國の者四人内一人は女にて神奈川より三里程隔りたる場所とありて地點を明確に定め難きが、ジャパン、ヘラルドは一行が神奈川より約四哩の處にて斬られ、死體は三哩程先たる路上に横れりとあるから、其差なる一哩間の出來事と斷定せなければならない、又モッスン記事では武装したる人々の密集隊が橋を越へたる時一行は止り、此處にて被害を受けたとあるから、其行列の本隊は少くも一二町はあつたらうと思はるゝから、橋の手前一二町邊であらねばならぬ、然らば其橋といふは何橋かを研究せねばならぬから、前の鶴の報告にある桐屋の附近を第一に捜して見た方が宜いと思ひ、其桐屋を尋ねて見た、昔しの面影は無いが場處は、元通りであるといふことで、地番は生見尾村字生麦五百四十三番地で當主は川端久吉といふので、絶命の場所より約二町位で鶴の報告書と合ふから此桐屋の附近一二町邊に橋は無いかと調べて見た處ちよいとした土橋がある、或は是れかと思つたがこんた橋は恂道の内にも他にもある決して行々しく橋などゝいふものでは無い、それでは或は鶴見橋のことでは無いかと思はれる、此橋ならば是非氣の附かねぱならぬので「薩英戰爭」の記事にも、「鶴見川の橋板踏みおどろかし右岸に渡つて生麥村にさし掛り」とあるから、どうも鶴見橋のことらしい、そうすれば其一二町手前と落命の現場迄はとても一哩ではきかぬ、あまり遠過ぎるからどうも具合が悪い、然るに生麥村吊主東右衛門・同治郎衛門の書上には「生麦村内字本宮村田屋勘左衛門前にて英吉利人慮外有之趣きにて三人切捨被遊候趣」云々とあるから、先づ其家を捜した捜した處、東京方面から行けば右側で生麥六百九十八番地關口常吉の家がそれであるとのことで、其の手前に右に述べた様な幅三尺にも足らぬ土橋があり、是れから字本宮であつて其左側の家は以前は立場であつて稲荷鮨を賣つて居つて、外國人も時々來たといふことである、是れで判明した、日本人側の立場といふのは是れで、外國側の橋を越へた處といふのは此處で、北處から絶命の場所迄も十町以上もあるから約一哩位と見てちよからう、今の處ではまあ此邊と斷定して置きたい。

 英人果して島津氏の行列を切れりや否や

 それから最も根本の問題としては外人が果たして島津の行列を切つたかどうかといふ點である、此點は薩藩は最後迄外人は行列を切つて無禮であるから切り捨てたと主張し、外人側は其然らざるを力説したのであるが、外人側の史料を待たずに日本人側の記事で見ると薩藩最初の届書には、
 島津三郎儀昨廿一日東海道生麥村通行之箇節、先供近處へ外國人乗馬ニテ向フヨリ参リ候處、横合ゟ浪人體之者三四人外國人エ何カ及混雜候體ニ付、三郎供方之者共引纒居候處、右浪人體之者モ行衛相知レ上申、三郎供方之者ノ所業ニ及候義ニハ決シテ無御座候、此段御届申上置候以上、
 八月二十二日   國 分 市 十 郎
とあつて行列を切つたことは一言も見へて居ない然るに共其次の届書となると、
 島津三郎儀昨日御當地出立仕候段ハ御届申上候通リニ候、然ル處神奈川宿手前ニテ異人共四人馬上ニテ行列内ヘ乘込候ニ付、手樣ヲ以テ叮嚀精々相示候得共、無體ニ乘入候ニ付キ、是非ナク先供ノ内足輕岡野新助ト申者兩人へ切付候處右異人逃去候ヲ右新助追掛行越夫形何方ヘ罷越候哉、行衛相知レ申サス候、猶精々探索致シ尋得次第其節ノ時宣承屈、旱連御届申上ベク候得共、先早々御届申ベク旨程ヶ谷祠驛ヨリ申付越候以上
                 松平修理太夫家來
     八月廿一日             西 筑右衛門
といふ風に變つで來たのである、要言すれば初めはそれは拙者の知らぬことで御座る、近頃流行の浪人者の外人暗殺で御座るといふて居つたものが實は外人共無理無體に行列へ乘込んで來たから是非無く斬つたので、此方から事を好むので無く、先方が悪いので御座る、其切つたものも何處かへ行つて知れませぬといふ辨解である、其岡野新助といふのは虚無の人間で、こんな藁人形を造つたときに先方が行列を切つたといふ口實も出來たのである、大體の趣向はチャンと判るのである、市來四郎の談話でも、
 其時供人數の内に居た者の話しに、異人は馬に乘つて女連れで御坐りまして、随分彼等も用心して道の片側か通つたそうです、行列を切つたと申す程の事ではなかつた云々
海江田子爵の談といへるものにも、
 島津久光公は奈良原氏を、駕の傍に召しよせ御側家老小松帯刀を以て問はしめられけるは、何が故に外人を斫れりしぞ、答へて曰く、行列を遮らむとしたればなり、かさねて問はしめられけるに、行列を遮りて無體せしを斫るはさる理はりもあれど、まだ遮りもせざるに之を斫れりしは何故ぞ、この時奈良原氏昂然として曰く、斯かる無禮あらしめざるをこそ御供目附の職掌なりとは日比存じつれ、若し外人をして行列を遮ぎらしめ了はらば、たゞ腹かき切りて申譯立つべかりしを、幸にも遮ぎらぬさきに斫りてのけたれば、うけたたまはる職掌をもあだにせざるを得たり、それがしの面目此上やある、
まあこんな處で之れ以上あまり明言する必要はあるまい、

 何故に英人を斬つたか

 然らば何が故に外人を切つたか、久木村利休は
 其時分は異國人となると誰も切つて見たい見たいと焦つて居る時で、俺も切つて見度くて腕が鳴つて仕樣がなかつた、切つて見たいもんちゃナアとは思つたが、無闇に切る譯にも行かず指を咬へて遺り過ごしで行くと、忽ち後列の方で囂囂と騒々しい物音がする、ハト思つた突嗟に行つたなと刀の鞘に手を掛けて振向くと、一人の英人が片腹を押へて懸命に驅けて來る、愈御馳走がやつて來る此處こそはと思つたから其近寄るのを待つて居る云々、
といふて居る正直な告白である、唯でさへ試斬りや何かといふて人を斬りたがる若侍共は、攘夷思想の流行で何んでも異人と見たら斬つて遣りたくて溜らたかつた時に、此一行に出會つたのだから無事に濟む筈は無い、
 それに當時の思想としては百姓町人の乗馬は禁じられてあつたのに、異人共は素町人の分際で乘馬してあるく、甚だ怪しがらぬとは屡聞く上平であつた、日本人同志でも單なる一人の士の通行に尊して百姓町人が馬乘の儘通つたら、是丈けでも無禮打に會ふのは當然である、況んや大吊行列に尊しては勿論の事である、更に況んや夫が禽獣に均しい夷狄で、我神州を汚す奴輩で豫々斬り棄てたく思つた輩に於ておやである、見れば馬乘の儘なるに冠物(帽子)さへ取らぬ、特に女の僻に馬上で冠物の儘威張つて居るのは癪に觸るといふ感情もあつたらう、極端なる男尊女卑で、百姓町人を奴隷のごとく思つて居る薩藩と、女尊男卑で商業を重んずる英國人と出會つたのが双方の上幸であつた、爾後の外交談判でも外人側は頻りに英國の貴女一人といふ辭が重きを爲して居るのに、日本側は之を重要視せたかつた樣である、被害の外人中男子は皆傷を受けたのに女子のみ傷が無く、帽子と髪とに切り付けたのを見ても薩人の感情は窺はれる、林薫伯爵の談話(後は昔の記)に曰く、

 予が知れるヴァンリードと云ふ米人は日本語を解し頗る日本通を以て自任したるが、リチャ ルドソン等よりも前に島津の行列に逢ひ、直に下馬しで馬の口を執り道の傍に佇み、駕の通る時脱帽して敬禮し、何事なく江戸に到着したる後りチャルドソンの生麥事件を聞き、日本の風を知らずして倨傲無禮の爲めに殃を被りたるは、是れ自業自得なりと予に語れり云々、
とある、彼我儀禮の相違が原因であつたことが判る、薩藩側の記錄でも、始め一人の外人に出會つたが、此者は馬から下りて馬の口を執つて居りたから無事に濟んだといふことがあるさうだから、外人は右のヴァンリードの事に相違ない、此外人は和英商話を發行し又岸田吟香の「藻鹽草」の出版主でもあり、榎本軍乘脱走の際にも布哇へ來いと云つた位で、當時に於ける大の日本通であつた、
同伯は更に目く、
 文久二年(千八百六十二年)の事なり、東海道は諸侯の往返頻繁なれば成丈け通行を見合はす樣にと幕府より外人に照會し置きたれども、外國人は成丈け内外間に据へ付けたる障碍を排去せんと欲し、東海道に出でざれば散策運動の便なしとて右の照會を承諾せず、然らば本牧の方に向つて運動散歩の便な開かれよとて、幕府は新規に平坦の道路を作り、東海道に大吊の通行ある時は前以て通知する故、其時丈は切めて遠慮せらるゝ樣にと請求したるに、香港より避暑に來りし一行「レノックス、リチャルドソン」「ミユンスボロデール」と「マーシャル」「クラーク」の四人香港へ歸る以前に是非江戸を見物せんと云ふ友人等は今日は島津三郎通行の通知ありたり、危險多ければ見合すべしと云ふ、四人は聽入れずして否此等アジヤ人の取扱方は予能く心得居れり、心配なしとて八月廿一日東海道に出で終に生麥の騒動を引起せり云々、
 彼れ英人等は支那に於て支那人に尊する心持ちにて日本人に尊する積りであつたらうが、其相手は事もあらうに頑固なる攘夷黨の親玉で、牽ゆるは薩摩隼人の精鋭ときたから溜らない、這度外人無禮あらば斬り捨てるといふ意味の届書を出して堂々と江戸を發した此一行と、東洋人の頑迷を打破せなければ上可なりといふ意氣込みの外人と出會つたのだから、無事に濟む筈が無い、
然し薩藩側は如何に感情が相容れぬといふても、一人の通行のときでは無く行列のときであつたから、突如として斬りかゝつたのでは無い一應は引返へす樣に合圖したのである、是れは英國公使より外國奉行への書翰にも「先番の者甚だ無禮にも三人の者に向ひ引退けと命じければ、三人の者は上快なる事を避けんが爲めに引退きしが此時夫の先番の者忽ち切掛り」たりとあり、此方は馬上で來るのが無禮だと云ひ先方では引返せといふのが無禮だといふ、第一歩に於て感情が衝突して居る、又ジャパン、ヘラルドにも「其或る者が一行に路傍に避くる樣合圖をなし一行が之れをなしたる事を告げたり、一行は馬を路傍に避けさせたりしが、引き返せとの絶えざる合圖の爲め一行は神奈川方面に返へらんとて馬を囘したり」とあり、其他の外國人側の記述に見るも斯様に記されて居る、従つて薩藩の届出に「手樣を以て叮嚀精々相示候得共」とあるのは、叮嚀か否かは別として、此事實はあつたのである、ボーヴホアール侯爵の日記に「此等の人々は大吊の爲めには全道路が自由に殘さるべき事を要求するの習慣を知らざるより十分速やかに除けざりきとの事なり」とあるのは要を得て居る、外人一行が引返へすかまたは下馬・土下座して居つたら問題は起らなかつたらうが、外人側は道さへ避ければ宣いとて進んで來たから、端なく無禮者として薩藩士の怒りを買つたのである、然しいざ談判となると是れ丈けでは薩藩側は理由薄弱である、特に該地方は條約に依り自由に外人に遊歩を許されたる區城であるから、寧ろ外人が大吊行列を切つた許すべからざる重大の侮辱である、外國だとて國王の行列を切つたら捨でゝ置かないだらうといふ理由を考へたものと推測されるのである。

 下手人は誰か

 扨て下手人は誰れかといふと表面の届出には足輕岡野新助といふものなりと記され、「近世外交史」にも此説を採用し、「久光公記」には更に「先年同藩を浪人したる足輕岡野新助といふものが、舊主の行列を拜まんとて、窃に此所へ來りしが、右の有樣を見て怒に堪へず、躍り出でゝ斬りたるなりと云へり]との説を掲げてあるが、是れは架空の人物で、實際は供目附の奈良原喜左衛門であることは、明白で、其時の刀だとて二尺五寸籐原忠廣作の大刀が、今猶ほ奈良原家に保存されてある。

引用・参照

『国際法より観たる幕末外交物語』 尾佐竹猛 著 (文化生活研究会, 1926)
(国立国会図書館デジタルコレクション)