『日本新聞發達史』

 第三章 新聞紙初めて表はる

 二四*二五頁
 第一節 小栗上野介と池田筑後守の卓見

 慶應三年徳川幕府は愈よ大政を返上して、天下の輿論東西に二分し、我國の新聞紙は初めて飜譯時代から創作の時代に入るのであるが、こゝに一言して置かなければならなないのは、幕府瓦解以前既に新聞紙の利益を認めて、是を發行せんとした政治家のあつたことである、其先覺者は内政上では小栗上野介外交上では池田筑後守である、兩者共に幕臣であつて夙に海外に旅行して其利益を認め、將に瓦解せせんとする幕府の頽勢を挽回せんとしたのは注目すべき値がある、長州藩を中心とする幕府顛覆の一味が落書、張紙、チョボクレ等舊式の宣傳機關を利用して或は攘夷論を或は復古論を宣傅して政變を企てたるに比し數等の達見であると云はねばならぬ、小栗は幕府最初の遣外使節新見豐前守に随行して米國に赴き彼地に於る新聞を詳に視察して幕府の機關紙を發行せんとし、歸朝後直ちに(萬延元年一八六○年)是を幕府に建言した、小栗は常時の随員福沢諭吉をして發行せしめる計畫であつたが、幕府内是に耳を傾くるものなく遂に其意を達しなかつた、慶應三年幕府倒るゝに及んで小栗は之を慨嘆し、もし新聞紙あつて公武の秘密、官民の内情暴露したならば事此處に及ばなかつたらうと云つたと云ふ、池田筑後守は開國延期の爲めに歐洲に派遣された幕府の使臣である、元治元年(一八六四年)歸朝して尊外政策について上書し、從來幕府が尊外政策に失敗したのは國情の疎通を缺く爲めである、即ち一つは海外駐在の公使無きと一つは新聞社中に加人せざる爲めであると述べ外交上新聞の必要を諭じてゐる、此説も同じく幕議の用ひる所とならなかつた、斯くの如く幕府が有利なる機關を利用し得なかつた間に内政外交共に行き詰まり、長藩を中心とする宣傳は遂に成功して慶應三年には大政を返上するこζゝなつた。故に愈幕府よ瓦解するや幕議に壓迫されたる江戸の言論界は始めて發生し、京阪を中心とする薩派と尊抗してこゝに明治元年の自由上羈の新聞を發生せしめた

引用・参照

『日本新聞発達史』小野秀雄 著 (大阪毎日新聞社[ほか], 1922)
(国立国会図書館デジタルコレクション)