『明治維新』

 第三章 幕府の倒壊

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 第三節 国際勢力と国内勢力との結合

 この間、国際資本の力は、さらに前進を続けた。慶応年五月(一八六六年六月)の改税約書の調印かそれである。その要旨は、安政条約か従価五ないし三五パーセントの輸出入税であるのにたいし、これを従量五パーセントに引き下げ、さらに貿易・交通にたいする制限の撤去、貿易への便宜供給を約したものであった。この新税率は、列強の待望していた中国なみの低率のものであり、それは、世界資本主義の「半植民地」的な経済的劣位の市場として確定されたものであり、またそのための封建的制約の解消の、より強力な要請であった。
 ここに至って、わが開国は、対内的にも、対外的にも、確定され、位置づけられたのである。
 幕府は、長州藩における「激徒再発」と「私に家来外国へ相渡、大砲・小銃等の兵器多分に取調ことの理由で、朝命を請い受けて長州再征を行った。いよいよ戦闘が始まり、防長州が戦場となるや、幕府は、各国船舶の下関海峡通航の禁止を求めたが、イギリスはこれを拒んだ。戦雲たれこめる海峡には、イギリス公使、フランス公使が相共にあらわれ、それぞれ長州藩士要人や幕軍指揮官の老中に会見、はなばなしい外交戦を展開した。フランス公使は、老中の求めに応じて、征長の戦略を指示し、長州への侵入は下関からするが良いと教えた。これにたいしイギリス公使は、外国船通航の障害となるという理由で、幕府軍の下関攻撃を行わないよう申し入れた。
 イギリスの薩長への接近、それよりもはるかに緊密に、かつ目だって、フランスの幕府への接近がなされた。ナポレオン三世のボナパルティズムが、ブルジョアージーとプロレタリアートの対立の上に乗る専制権力であった故に、民衆の攻撃の鋒先を常に外にそらす必要の故に、その外交政策は、はでな外交的策動による積極主義をとっていた。この方針を体して、幕仏提携を策したのが、駐日公使ロッシュ(Léon Roches)であり、また当時幕政の実権を握っていた勘定奉行小栗忠順・外国奉行栗本鯤(鋤雲)らの親仏派であった。そして対日貿易に劣弱な地位しか占めえなかったフランス(52)と、衰頽の途を辿りつつあった幕府との提携方式は、勢い独占的色彩の濃い政治的軍事的性格のものであった。すなわら幕府はフランス士官を招聘して、陸軍の改革を企て、フランス技師の指導の下に横須賀・横浜の製鉄所を建造し、幕仏間の貿易を振興するために、彼我それぞれに商社を設立し、あるいは、総額六〇〇万ドルにおよぶ借款、軍艦・武器購人などの契約を結んだ。それはフランスの財政的軍事的援助によって、幕府権力を強化し、反幕派諸藩の屈伏を企図するものであり、幕府を絶対主義化するための努力であった。しかしながら、このような表面はなばなしい提携の懸け声にもかかわらず、第一に、極東にそれ程の力を注ぐ余裕をもたなかったフランスの国力の弱さ、第二にその独占的利権をめざす外交が、列国外交団から孤立せざるをえなかった事情、第三に幕府内部に絶対主義化する弾力性をもたなかった事実、これらの理由から、さして実効をもたらすことなく、やがてフランス本国の対日政策の転換(53)、幕府の瓦解に遭って、徒花に終ってしまったのである。
 国際勢力と結合する国内政局の展開、それはわか国の政治的椊民地化の危機を意味したであろうか。なるほどイギリスは薩長に、フランスは幕府に軍事援助を申し出てはいる。しかし時すでに外国側では、封建支配者内部の開明派の生長と上からの漸次的な封建制の解消のコースが確信されており、わが方では、富国強兵(絶対主義化)の目的意識をはっきり把梶した上での開国政策か全封建支配者によって保持され始めた時期であった。それだけに、国際勢力と国内勢力の相互利用の仕方には、互いに明白な限界が意識されていた。すなわちイギリスとフランスは、対日外交の指導権を争うための謀略としての国内政局への働きかけであり、薩長と幕府とは、これまた国内政治の指導権を争うための謀略としての対外提携策であった。そればかりでなく、倒幕派にも、佐幕派にも、共通して外圧にたいする対抗意識が強く働いていた。その対抗意識は。攘夷思想の形を変えた持続であっただけに、わが封建支配者にとり本能的に根強いものであり、兄弟牆にせめいで外侮を招いた清朝の教訓が、強く彼らの言動を自制せしめていた。それにしても。倒幕派・佐幕派双方の指導者が、絶対主義的改革の方向を自覚し、来るべき政治体制の構想をある程度もちうるに至ったのは、換言すれば尊王攘夷的名分論の泥沼からようやく脱け出ることができたのは、イギリス・フランスの外交官の指導によるところか大きかった。
 中央集権的国家体制、議会制度が次第に新しい政治理念として浮かびあがってきた。

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(52)
貿易の全額の三分の二以上を占めていた横浜の貿易額について検討すると、一八六三年においては、イギリスが八〇・七%を占めていたのに、フランスは一・七%、その後フランスの進出が著しくなった一八六五年でも、イギリスの八五・九%に比して、フランスは八・二パーセントであった(石井孝著『幕末の外交』)。
(53)
対日積極策を推進した外相ドゥルイ(Drouyn de Lhuys)はメキシコ問題やルクセンブルグ問題などの失敗で、一八六六年九月辞職し、ドゥームーティエ(Marquis de Moustiers)が代わった。インドシナ経営に専念する必要を認めた彼はロッシュの独占的幕府擁護政策が、フランスを国際的孤立に陥れるを恐れて、ロッシュに帰国命令を発した。ロッシュは留任を懇請したので、許されたが、その後の彼は、本国外交当局から遊離した存在であった。なおロッシュおよび幕仏提携に関しては、大塚武松『仏国公使レオン・ロッシユの政策行動について』(『史学雑誌』第四六巻第七・八号)石井孝『幕末における日仏間の経済関係」(『歴史学研究』第六巻一・二号)参照。

引用・参照

『明治維新』遠山茂樹著1995年1月17日第1刷発行
発行所 岩波書店 同時代ライブラリー