『上毛大觀』

 第三篇 人物傳

 第二章 人物傳

 政治外交に活躍した人々

 二二二‐二二三頁
 小栗上野介忠順

 渡米 内政外交

 小栗上野介忠順は幕末内外多事の時、卓職にして敏腕、積極的にして慎重.常に世界を大觀し、我が國家及び民族の安全と繁榮との爲に幕府の第一線に立つて活躍し、新日木發展の素地を致した政治家である。通稱は又一、文政十年新潟奉行忠高の子として、江戸に生れた。萬延元年三十四歳の時井伊大老に抜擢されて日本最初の遣米使節新見豊前守に隨ひ、目付として渡米し、歸朝後、同年十一月外國奉行に擧げられ、次いで文久二年江戸町奉行、続いて勘定奉行となり初代歩兵奉行を兼ね、當時奉行の轉免頻繁の際に三度勘定奉行となり、元治元年軍艦奉行となり、更に明治元年正月の免職まで勘定奉行・陸海軍奉行をを兼ね、僅か九年の間に多くの要職に登用された。其の間、尊馬に赴いては決死の意氣を以て霧艦の退去を強要し、内外金銀の相場に着目しては小判の品位を三倊に引上げ、奢侈品の増税を行ひ、政費を節減し、内國債を起し、上換紙幣の通用を禁止して財政の整理充實を圖り、新に佛國式陸軍を建設し.賦兵の制を創設し、慶應元年には横須賀に造船所及び鐵工所を開設し、横濱に船舶小修理所を設け、其の他大小砲兵器の改良に苦心し、本縣北甘樂郡小坂村鐵鑛の採掘を計畫する等、外交・財政・兵政の各般に亙つて全力を擧げて藎瘁した。更に國内の統一、列國との權威ある尊立を自己の責任とし、先づ薩長軍を討滅し、幕府の手を以て郡縣の制を布かうとして、將軍慶喜に慫慂したが容れられず、慶喜が朝廷に恭順の意を表する事となつて、終に永の暇を賜つた。よつて明治元年三月一日其の采邑上州群馬郡權田村(今の倉田村の大字)に退隠し、東善寺に寓居した。會〻暴民の襲撃に逢ひ、已むなく發砲撃退した爲に、薩長方の爲に反逆を謀ると揚言され、東山道總督の監軍原保太郎に捕へられ、辯疏したが聽かれず、三倉・水沼の村界烏川の磧に斬られた。刑に臨んで忠順は他日其の冤の雪がるべき事を確信して疑はず、顔色常の如く從容として死に就いた。時に明治元年関四月六日年四十二歳であつた。養嗣子又一も翌七日二十一歳を以て高崎の藩の刑場に於て自若として死に就いた。

引用・参照

『上毛大觀』群馬県 編 (煥乎堂, 1934)
(国立国会図書館デジタルコレクション)