『維新前後に於ける立憲思想』

 一-八頁
 緒言

 從来我が憲政の發達を論ずるものは、先づ五箇條の御誓文中の萬機公論の一條に始まり、民選議院の建白に及び、夫より憲法草案の起草といふのが普通の順序となつて居る。而して憲法草案の起草は公伊藤の功に歸し、民選議院の建白は何うやら伯板垣の手柄の樣に見へ、御誓文は子福岡と子由利との合作といふ風に述べられて居る。
 斯ういふ風の説き方は必らずしも悪いとは云はぬが、是では甚だ物足らぬ感かする。法條の作成といふ樣なことは單なる一屬吏の仕事であつて、憲政史の一少部分を占むるに過ぎない。勿論憲法といふ如き大憲章の起草は普通の法令と異なり一代の大人物の手を煩はすのであるが、然りとて、その起草者丈けの手柄で無ないのは言ふ迄も無いのである。
 要は国民の憲政思想か如何にして發達し、如何にして憲法の正條を要求するに至つたかの經路の説明か必要である。此意味がなかつたならば、如何に金玉の典章を羅列し、其草案作成の苦心を叙逃しても、其は單に法制局の参考となる資料に過ぎないので、憲政史と相距る甚だ遠いのである。嘗ては憲法發布何十年記念かの時にも、幾多の新聞雜誌は唯法案起草の苦心談の縷述を以て充されたのを見て、我國の憲法史としては是れ丈けしか史料が無いのかと思ふと、却つ情無無くなつたのである。或はまた憲法發布式の光景を叙述することを以て憲法の歴史の如くに思ふ見富違いの記事もあつた。假令それ程でないにしても、憲法發布といふことよりも發布式といふ儀式に重きを置いたのか如く見ゆる書冊も尠く無い。愈出でて愈憲政史と緣か遠くなるのである。
 併し斯くはいふものゝ完全なる法制史の存せざる我學界否な一の文化史さへ有せず、進んでは嚴密なる意味に於ける歴史さへ無き我現代に於ては憲政史のみに付き完璧を求むるのは寧ろ求むるものゝ無理かも知れぬ。と言つて之を放置するのは我等學徒の面目では無い。せめては是れが研究の端緒をもと捜したか余の寡聞なる容易に見付かりそうもない。
 さればとて某名著の如く群神天安河原に會するのが議曾政治の始と説くのも、あまりにに吾人には耳遠い感がある。また三浦周行博土の「日本人に法治國民の素質ありや」といへる論文は近來の力作であるが、是れとて雲間の片鱗で憲改史の梗概に迄筆を染められざりしを遺憾とする。(一)

 註一 我帝國の臣民にして江戸時代の影響を受けたりとせば其の法治國民としての素質に決して好ましきものにあらざるや辯を俟たずされど更に遡つて武家法制の起源とし模範とする鎌倉時代に徴せんか貞永式目及び其の追加は遍く公布せられて將軍も其の部下たる御家人も共に拘束せられ權利思想の發達せること寧ろ意表の外に出でたり……果して然れば我國民が江戸吟代たる父め遺傅を有するは好しからずとせんも鎌倉時代なる祖父の性格を遺傅するものとせば未だ必ずしも先天的に法治國民たるの素質を缺くものと悲觀すべからざるに似たり(法制史の研究一一七〇)

 そこで完全なる憲政史は他日の出現に俟つことゝし余輩は姑息なから從来普通に述られて居るる憲政史の殼に立籠りて研究の歩を進めんとしたのである。(二)

 註二「國家及び國家學」第八巻第二號「法學志林」第二十一巻第四號―第九號
 然るに是れでさへ出發點に於てハタと突き富つたのである。萬機公論の御誓文の草案やら、起草者やらは近時史學専門家の研究に因つて明らかとなつのであるが、此御誓文を發するに至つた富時の社曾思潮、憲政思想に付いては何等釦る所は無いのである。また明治政府が此大宣言を發しながら、何等の施設をも爲ずして憲法草案起草迄永き年月を放置して居つたのであらうか。換言すれぱ實行の伴はぬ空宣言の出しつ放しであつたらうかといふのが、余輩の最初に生じた疑問であつた。
 仍つて此疑問を解決すべく貧弱なる材料を蒐集し、よりより二三の雜誌に愚見を發表しつゝあつたが、恰も宜し畏友文學士藤井甚太郎君が其専門の立場から帝國憲法制定史談を研究しつゝあつたのに際會し、異る立場ではあるが、其歸着點を一にする同志のあるのを喜んだのである。(三)

 註三 憲法の精神は其の國の歴史を基礎として解釋せねばならないのであります歴史を知らずして單に法理か文字解釋とか計りで研究しては憲法の精神を會得し難いのでありますのみならず歴史を離れて憲法解釈は反つて國家に大害ある事であります此故に帝國憲法制定の由來を明にすること國史の研究を以て御奉公と存じて居るものには公の重大なる務であるのであります……此勢いと申すか流れと申すか此等の研究は事物の成る一朝一夕にあらずとの理からしても實は最も必要なことであると思ふのでありますかゝる見地に立つて日本憲法制定の由來を考ふるときには是非共筆を維新史に起さねばならぬのであります(歴史地理第三十三巻第四號帝國家憲法制定史談談第一回)

 同君は先づ幕末の「公議與論尊重」(四)より始め考證該博眞に近來の一大論文である。未完ではあるか、速に完成せんことを望むのである。

 註四 歴史地理第三十三巻第四號……米艦渡來と米國與論政治の移入。同第五號……公議與論の政治學説。……同第六號……公議與論の事實。同第三十四巻第三號第四號第五號、第三十五巻第一號

 これと前後して中田薫博士の「デモクラシーと我歴史」(五)といへる貴重なる論文出で余輩の啓發すること多大なるものがあつた。
 註五 若し夫れ民衆をして政治の上に分前を持たしめよ民意をして政治の一要素たらしめよとの主義即ち政治的デモクラシー(民主主義)に至つては維新の時迄は我國に發達する機會が無つたことは事實である併しこれを以て維新後に於いて歐米から輸入し移椊した新思想であると解することあらば維新そのもの歴史と意義とを無視した一大誤謬と云はねぱならぬ何となれば維新の鴻業は幕末に於ける公議輿論の裡に生れ出で明治に於ける與論政治を産み出したものであるから王政復古であると同時に王政の民本化(政治的)である而して此與論政治たるや歐米に於ける自由民權説の模倣でも無ければ天賦人權説の移椊でも無く又た主權在民論の感染でも無い公議輿論の力に依て遂行された王政復古の大事業に伴つて自發的に發達し來つた維新史の副産物であることは當時の歴史を繙くものか皆首肯する所であろう……若しも維新當時の與論政治に多少たりとも外來影響が加つて居るとするならばそは如何にして此政治を行ふかの形式問題に就いてゞあつて此思想の内容そのものは全然自發的であつたのである。(中央公論第三一十四巻第五號)

 そこで余輩は史實を是等の有益なる諸論文に譲り、單なる法的議會史を研究せんとして先づ選擧の方面より論ぜんとしたのである。
 蓋し選擧と投票と議會とは相分離して考ふべからざる概念ではあるが、我國に於ては此の三者各別箇の發達を爲し、明治の中期に至つて、漸く三者合一したる特種の沿革があるので(六)J一諸に之を論ぜんとすれば、却つて錯雜を來すの故を以て、最も議會の概念に近き「選擧」より出發したのであつたが、事情に依り此論文は未完の儘で終つたのであるから、爰には其補遺追完の意味を兼ねて議會史を叙述せんと欲するのである。若し夫れ憲法發布以後議會開會以降の記事に付いては世其書に乏しからざるを以て之を一切省畧に付し、余輩は只だ其前提たる御誓文か如何にして起り其宣言は如何に實施せられたるやに論及するに止めんとするのである。是れ本書一名を帝國議會史前記と註する所以である。

 註六「國家及國家學」第八巻第五號第六號「法曹記事」第三十巻九六四以下

 一-二頁
 第一章 概觀

 重大なる事項あれば集りて議するといふこと丈けは、其範圍に大小廣狭の差こそあれ、何れの國何れの時代に於ても行はるゝところである。これが若し憲政思想議會制度の萌芽といふならば、我邦に於ても勿論その例證を擧ぐるに苦まない。また國家機關中官吏の職務規定に於て、彼此會同合議するにあらずんば獨斷専行を許さゞる制度を以て合議制議會制の起源と論ずるならば、これまたいづれの國家でもこれに類した制度は存すもので、我邦また然りである。しかしながら、近世の所謂憲政思想議會制度は、これをを歐米の輸入に基づくものなりと論定するには何人も反對を試むるものはあるまい。然らば如何にして歐米の思想が我邦に人つたかといふことに付いては、これ世界の大勢なりと一言で片付けて仕舞ふは、あまりに問題を簡易に見過ぐるのである。世界の大勢を受け容るゝには、容るゝ丈けの原因がなくてはならぬ。これにはどうしても徳川時代そのものを觀察せねばならぬ。
 徳川三百年の泰平、それは餘りに永い泰平であつた。殆んど外國の影響を受くることなしに三世紀の平和を樂んだといふことは、史上にも稀れなる時代である。此永き間に於て封建制度は確立し、幕府の權威は全國を壓した。此制度此權威に向つて反抗の念を懐くべからずといふことは、先天的の約束であるかの如く國民の頭を支配した。此時代に於て憲政思想の萌芽をだに睹るべしとは誰人も想像だもせなかつたのである。(以下、略)

 四三-五三頁
 第三章 議會の傍聽

 一八六〇年(萬延元年)日米條約批准交換の爲め正使、新見豐前守正興、副使、村垣淡路守範正、監察、小栗豐後守忠順を米國に派遣した。是れ我國が世界各國と協商して使節を海外に派遣せる嚆矢である。(十四)

 註十四 昔遣唐使といへどわづか海路を距てたる鄰國なり米利堅は皇國と晝夜反對にして一萬里外なりかく例しもなき大任を蒙り五大州に名の聞へん事は實に男子に生得しかひ有りなど言すかしけるがよくよくかえり見るはをろかなる身にて天地開闢以來初て異域の使命を蒙り君命をはづかしむれば神州の恥辱と成らんことゝおもへばむねくるしき事かぎりなし(村俎淡路守範正航海日記)
 幕府當路者は此行を以て彼國文化に接觸して裨益する所あらんとし米公使また大に斡旋するところありしなりといふ。(十五)

 註十五 米國條釣を議定するに當り批准は實施後一年の中に米國華盛頓府に於て交換すべしと定まりたるは深意のありし事にして當時岩瀬水野は批准交換を期として自から人公使となり幕府の中にて有爲の人材を率いて米岡に赴き親く外國の狀況を觀察し大に我國開明の歩を進むるの機會を得んと望み米國公使ハルリスも亦大に其の意を賛成したるに付き斯は議定したる事にして堀田閣老も亦實に同意せられたりと云へり(森山氏の説に據れば堀田閣老は頗る此議を是なりとし或は己れ自ら水戸の老公を説き一橋刑部卿殿をも勸め相興に米國一覧として起るべしと云はれたる事ありしと岩瀬が物語せりと云へり)云々後年に至り小栗が幕末の難局に當りて善く之に堪たるも米國に赴きて其の見聞を廣めたりしもの冥々裏に其の効果ありしもの 歟勝麟太郎(伯爵勝安房)も此時幕府の軍艦咸臨丸に船將となり御軍艦奉行木村攝津守を乘せ公使護衛として桑港迄赴き福澤諭吉氏も亦此行に從へり勝伯福澤の夙に外事に活眼を開きたるも蓋し此行の慶なりと云ふべき歟(懐往事談二一八)

 其使節の携へ行きし議定書添付の將軍の書翰󠄀は、從來の慣例に反し和文を以て認めし如きは外交上一新例を開きたるものにて幕府當局者の見識亦凡ならざるものがあつた。之を華盛頓會議に於ける加藤全權の日本語演説と對比し多大の興趣を感ずるのである。(一六)

 註十六 「同人」第六十一號、第九十六號久保田滿明氏雁信餘音、「法律及政治」第二巻第十二號拙稿「幕末國際法の發達」(六)参照

 四月四日使節一行は米國議會を傍聽した。我國人にして議會なるものを見聞したる嚆矢である。副使村垣淡路守範正の「航海日記」の一節(十七)に。
 四月四日 晴 午後にコングレス館に(議事堂也)行の約なれば、例の人々が案内して車にのりて七八町東へ行ば、コングレス館に至る長二町許幅一町許もある三階造の高臺、惣體自きマルメン石もて造り屋根の上に丸く大なる櫓の如きもの今普請中にて半組たてたり、正面の石の階段を登るに二丈もあるべし、人口正面に華盛頓國初の圖.其他さまざまの額を掲げ所々見巡るに、口々に番兵有評議の席とて案内するに二十間に十間もあるべき板敷にして四方折廻し、二階桟舗にして合天井の如く、格子に組て金銀彩色の模様ある玻璃の板を入、高き事二丈餘も有べし、正面高き所に副統領(ワイスフレシテントといふ)前に少し高き臺に書記官二人、其前圓く椅子を竝べ、各机書籍を夥しく設け凡四五十人も竝居て、其中一人立て大音聲に罵、手眞似などして狂人の如し、何か云ひ柊りてまた一人立て前の如し、何事なるやととひければ、國事を衆議し、各意中をのこさす建白せしを、副統領聞て決すろよし、二階桟敷には男女群集して耳をそばだてゝ聞たり、かゝる評議の席のかたはらに聞てゐしが、何成と問べきよし云ぬれど、素より言語も通せず、又とふべきことはりもなければ其儘出ぬ。二階に登りてまた此桟敷にて一見せよとて椅子にかゝりで見る、衆議最中なり、國政のやんごとなき評議なりと、例のもも引掛筒袖にて、大音に罵るさま副統領の高き所に居る體抔、我日本橋の魚市のさまによく似たりと、ひそかに語合たり、またこなたかなた見巡るに、同じ席有けり此席は人なし、こは合衆國諸部落の公事吟味ものを裁斷する所とぞ、またこなたに行は大統領の來りし時の控所とて見せけるが、柱も天井も皆白石の室にて兩壁に殊に大成玻璃鏡を掲げ、またかなたに廣さ席有、椅子數多を置、正面に白石の佛像めきたるものあり、ここは陰氣にして例の宗門を説所と見ゆれど、内評の席といふ、總じて國務は此堂にて扱ふ事とぞ、吏人も多く、常に大統領は出ず、副統領にて多分は事を決したるを、大統領は聞のみといふ、國中第一の高堂美を盡したるもの也、かくて客舎に歸る云々(文中圓點を附したるは編者 「例のもも引…體抔」・「く似たり」・「合衆國諸部落の公事吟味」円点あり)
 極東封建國の使節が、民主國の議會を見たる感想は、此の如くである。一人一役、威儀堂々として、左樣、然らば、貴殿、拙者といふ用語で、秘密神聖裡に、國事をするものと思い込んで、居つた處、此さまは何事だと呆れた樣子が睹るが如くである。其之を形容して日本橋の魚河岸の如しとの評は眞に奇想天外である。範正をして我國今日の議會を傍聽せしめたなら、正に魚河岸以下と評するであろう。閑話休題此記事中既に「議事堂」の譯字あるは注意に値する。

 註十七 萬延元年第一遣米使日記一二七-一二九 遣米使日記七〇-七一

 米人側の記事では。(十八)
 彼等は建物中を案内せられ、又立派なる天井を示されたり、然れども、紹介せられたる人々の驚きたる事には、彼等は見物の何の他の部分に於てよりも、立法手續をなすの方式に於て遙かに多くの興味を示したり。彼はホンの少時留まりて.やがて退きたり、勿諭、代議士連からの哄笑により、及外來席より男女の狂亂的群衆突進により續かれたり、外來席は殆んど空虚となりたりき。
とある、物見高いヤンキーの中には、今日我等が臺灣の生蠻でも見るような物數奇から、騒いだやうである。

 註十八 一八六〇年六月九日紐育發行フランクレスリー繪入新聞

 また左の記事もある。
 余は下院の入口に入らむとせしに二名の日本人に會へり、彼等は余を見て大いに喜び、手をひろげて親しき樣子を示せり、彼等は頻りに硝子戸より議場をのぞき込みつゝありしが、此日は恰も全院委員會にて、ジョン、クイシー、アダムスの息なるアダムスが此會期中に於ける最初の演説をなしつゝありき。而かも其演説は頗る雄大なるものなりしが、其二名の日本人は之を見て何事か批評し合ふ樣子を示せり、而して彼等は通譯も案内もなしにホテルより遠く此處迄來り歸途は同じ道を辿りて歸る心算なるが如し、蓋し使節一行の下級随行員は未だ馬車乘合馬車に乘るの習慣を有せざりき。(十九)
とある此熱心なる二名の日本人と果して何人なるか不明であるが、或は福澤諭吉等の新知識であつたらう。

 註十九 一八六〇年六月二十日紐育ヘラルド中のワシントン通信

 使節一行の將来品の中に。
 一、議事堂役人附 一冊 此は議事堂役人より
      新見豐前守へ
 一、同 同 同
      村垣淡路守へ
 一、同 同 同
      支配組頭
       成瀬善四郎へ
 一、同 同 同
      支配調役
       塚原重五郎へ
 一、議事官姓名記 二冊
      通詞
       立石得十郎へ
 一、コングレス館役人付三冊(外國奉行御役所相納度候とある六十六部八十五冊の内)
との品目がある。扨て此一行は、不十分ながらも米國の文化に接觸したのであつたか、歸國後は時勢一變したる爲皆口を鉗して其見聞を説かなかつたので我文化に影響する處は尠かつた。

   註二十 此使節一行は萬延元年の春初に横濱を發し秋に歸國なし彼の地に於て非常の待遇を被り見聞廣くしたけれども公使その器に非ざりしが上に其歸朝せし時には時勢また頓に一變したるを以て彼等は皆口を鉗して米國にて見聞せし事を説かず其地位を保つに岌々たり云々(懐往事談三八)

 一八六一年(文久元年)十一月幕府は竹内下野守。松平石見守。京極能登守を使節として英佛魯蘭孛葡の六國へ派遣し、開港延期の談判を爲さしめ、併せて露國と樺太境界確定の談判を爲さしめた。明治文化の大先達福澤諭吉、福地源一郎等は實に此一行の隨員であつた。
 就中福澤は今次は二度目の洋行にて、其前、新見豐前守の使節の際は軍艦奉行木村攝津守の從僕として渡米したるも、其時は豫備智識に乏しく、(二一)爲めに政治上の見聞も狭かつたが、此時は御雇通詞として、相當の素養もあり、議會制度の研究にも注意を拂つたのである。(二二)

 註二一 社會上政治上經濟上の事は一向分らなかつた(福翁自傳一九一)

 註二二 政治上の事に就いては龍動巴里等に在留中色々な事を聞いたが固より其事柄の由來を知らぬから能く分る譯もない(福翁自傳二一〇)

   歸來、其見聞を纏めて著述したのが、明治初年を風靡した『西洋事情』である。

 第六章 大政奉還と議会論

 一四六-一六四頁
 第一節 大政奉還の眞意

 源頼朝、幕府を開きてより六百七十六年。徳川家康、將軍宜下を蒙りてより二百六十五年の政權を奉還する慶喜の苦衷の容易ならざるものなりしは言ふ迄も無し。しかも事茲に至りし動機は、源烈公の遺子として.至誠天地を貫きしに由ることは勿論。さては内外政策の行詰りは、此非常手段の外他に採るべきの手段無しと觀じたるの理由も、加はつて居るであろう。而して、此大事決行の後、政局は如何に推移するかに就いての觀察も。其考量の内に加はつて居つたか如何か。は研究すべき一問題である。
 これに付いては『徳川慶喜公傳』は説明して曰く。
 此に、幕府の意思を考ふるに、公か我手によりて、幕府を葬り、政權を朝廷に返し奉らばや、と思はれけるは、一朝一夕にあらず。既に、宗家相續の際にも。はた、軍職御請の際にも、之を斷行せんとの志、ましまししか、さるにても、如何にして、其實を擧くべきかについて、定見を有し給はざりき。公は、若し、王政を復古せんにも、公卿堂上にては、力足らす、諸大名lとても同樣なり。さりとて、諸藩士等が、直に、大政を執行するは、事情の許さゞる所なり。要するに、今天下の人材は、下々に集まりたれば、其説によりて、百事公論に決する外、あるべからず、と思ひ定められしが、未だ、其方法を得ずして、空しく歳月の流れ行くを嘆かれたり。然るに土藩の建白出づるに及び、其中に、上院に、公卿、諸大名、下院に、諸藩士を選補し、公論によりて事は行はゞ、王政復古の實を擧ぐるを得んとあるを見て、大に喜ばれ、容堂も、亦、此言を爲せる上は、此説によらぱ、素願を達するに足らん、今は、政權奉還の好機會なり、とて之を腹心の、老中、板倉伊賀守、若年寄格、永井玄蕃頭に告げられしに、二人も、今は、餘議なき次第なり、然か思召さるゝ上は御英斷遊ばされて、然るべしと申す、公重ねて、祖宗三百年に近き、政權を奉還することなれば、譜代大名以下、旗本を召して、衆議を盡すべきはづながら、さありては、徒に、紛擾を招くのみにて、輙く、評決すべしとも思はれず、寧ろ、先づ、事を決して、然る後に、知らしむべしと、仰せられ、二人も、亦台旨に、賛同しまゐらせたり、此密議に與れるは、千百の有司中、唯、伊賀守、玄蕃頭の二人ゐるのみ。とある。これでは、議會論は、大政本還決意の原因で、議會論が出なかつたなら大政本還も止めとはならなくても、少くとも遅れたものと、云ひ得られるであらう。
 そこで、更に一歩を進めて、大政奉還には、慶喜自身の地位は、どう爲ると考へたのであろうか。苟くも斯の如き、一大事を爲すのに、一身の利害榮辱は顧る處にあらずと云はば、夫れ迄のことであるが。奉還後の後始末迄考へて居る間には、どうしでも我身はといふ考が、浮かんで來るに相違無ひ。それも、世間あり觸れの晝行燈、ボンヤリ大名で、菽麥を辯ざる手合ならば格別、人並以上の聰明叡智、一世の重望を負ふて將軍職に就きし慶喜が、其事の念頭に浮かばぬといふ筈は無ひ。されど、裏後の事實の如く、辭官、紊地の後、更に、朝敵の汚名を迄受けやうとは、想像はしなかつたには相違無からうが、それでは、どう考へたと、推測すべきか。これに付てはもう一度、最初の、土佐蕃の建白富時の事情に付いて、考察するの要がある。
 勝安房(伯爵)の言として、世間に傳はる處に依ると。
 後藤が、一代中の大働きは、慶應三年、藩主、山内容堂の意見書を懐にして、京都二條絨に抵り、徳川慶喜に面接して、内外の事情を説き、政權奉還の、止むを得ざること、勸説したる一事である。この勸説も、中々如才なく、説き立てた『政権奉還の後は、朝廷に於かせられても、議事御改革あらせらるべきは言ふ迄も無し、其時に於ては、屹度、將軍を首座の地位に、置かせらるべきことは、是れ、叉歴代朝廷と徳川家の關係の上に於て明かなる次第で御座る。されば、名正しうして、更に、天下の實權を握る所以にて候』と、時に、徳川慶喜は、天下の形勢、殆んど、局面を一變せむず有樣、となりしことを知るが故に、後藤の斯る如才無き、名實併せ得ろ才辯に、説き立てられて、殆んど、煙に巻かれたる樣になり、是が爲めに、稊意を動かした。此の時、抜け目なき、後藤は、占めたと思ふて、隙さす、又々才辯を揮ひ『若し今にして、此名實併せ得たる御處置を、御斷行に相成らざる時は、無論、討幕の命は、立處に起るべく、加之、御邊に、如何樣なる、一椿事の降り來るべきや、亦知るべからざる事に候、討幕の勅命、出でたるの暁、止むなく、政權奉還の擧に、出でなば、君祖の威霊に尊し奉りて何と、御申譯が御座る』と、慶喜の 氣合に、乖じて、あらめる、術策を用ひ、右より左より、どちらからでも、もう慶喜は、後藤の言ふことを.聞かねばならなくなつて來て、さすがの慶喜も、未練を殘さす、後藤の言ふことを聞いた。云々(伯爵「後藤象二郎」中に援用の一説)と、いふのがある。見て來た樣な、講談師的口調であるが、これは根本に於て、大間違いであるといふのは、後藤は直持慶喜に演べたのては無く、永井玄蕃頭に雄辯を揮ひ、永井をして、慶喜に達せしめたのである。しかし其論旨は、大體、右の樣で有つたらしいことは其他にも傅へられて居り、また、其後に於ける、土佐藩の行動に付ても、察知することが出來る。
 然るに『徳川慶喜公傅』は此説を非常に氣にして、辯解を試みて居る。日く
 論者、或は曰く、後藤象二郎の、永井玄蕃頭に説くや、政權奉還の後、新政府には、公を戴き、依然、徳川家を中心として、組織せんことをいふ.玄蕃頭の意、爲に動き、公も、亦た、之を豫想して、上表に及ばれしなりと、然れども、是れ、事實にあらず、抑坂本龍馬の立案せる、職制には、関白、議定、参議の、三職を置き、三條元中紊言を、關白に、松平大藏大輔、伊達伊豫守、松平容堂、毛利大膳、島津大隅、鍋島閑叟、を議定に、長岡良之助、後藤象二郎、三岡八郎、横井平四郎、桂小五郎、小松帶刀、西郷吉之助を、参議に擬し、別に、内大臣を置き、公を以て、之に擬したり、土藩の論、概ね、龍馬の指導に出でたれば象二郎等の意、亦此にあるべし、豈、論者のいへるが如き事を入説すべけんや。
 慶喜の行動に付きては、一々辯解を附せる、同書としては斯る辯明のあるのは、敢て怪むに足らないか、此説明は、却つて問ふに落ちずして、語るに落つるものである。
 そは坂本の案では。
 關白は、公卿中より選任し、上一人を輔弼し萬機を關白し、大政を總裁するの職にて、私に三條元中紊言を以て之に擬し、別に内大臣を置きて關白の副貳となし、私に公を以て、之に擬したり。
といふので、最高は關白であるが、前に、慶喜の意中を記した同書の一節に『王政を復古せんにも、公卿堂上にては、力足らず』とあるでは無いか。三條如何に英才でも、一公卿では無いか。而して、議定と、参議は、全部大名と、藩士である。これに慶喜が、從前の聲望と、八百萬石の實力を以て、副關白と爲つては、三條一人、如何にヂタバタしても、關白の空名を擁するに止まり。事實は徳川政府では無ひか。(七九)

 註七九 イ、當時の形勢上兎角徳川家は諸大名を頼みにして公論衆議を申立て諸國の大名が來ると多數同意で以て新政體を組織しようといふのである。而も薩摩人は其衆議といふ事を好まぬ諸大名の相談を好まぬ。其譯は是の非常の一擧は薩摩と長州此二藩でやる固より外の者は頼みにしませぬといふ獨斷主義であつた然るに幕府側の方では諸大名を澤山集てそこで人望威光は定めし慶喜公に集るだろうと考へて居つた。是は道理です平和の衆議に問へば勢そうなければならぬのである。それで一方は衆議を頼み一方は獨斷で施し非常手段を以て何處迄も破壊するので破壊さへすれば能事終る、其跡はどうでもなるといふ考である。それで其頃の事を尾崎三良といふ人の話に此の十月頃まだ坂本や尾崎邊での考案では矢張り攝政關白といふものを置いてそれ總理大臣とし、其次にはどうしても徳川を捨つる事は出來ぬ。此當時慶喜は内大臣であるから内大臣を舊の儘にして其次に参與とか参議とかいふものを置いてそれを内閣にしたいといふ案を立て、それが當時岩倉村で通用した案でありましたと聞いて居る。然るに十二月の九日になりまして岩倉の案を見ますと攝政關白も内大臣も撤去して無い總裁といふ名で有栖川宮がお立ちになる内大臣が無いから慶喜も宮中へ御呼出しにならなかつた。是は坂本龍馬あたりの土佐人の案が破れ模樣が變りまして薩長側で全く徳川川慶喜を丸で押除けるといふことになったのであらう(維新史八講二○八以下)
 ロ、山内容堂松平春嶽等の唱ふる所にして由來公卿は惰弱にして治國安民の能力無くかの藤原藤房の如き者さへも出家遁世して僅かに武家の力に依頼し治安を維持したる程なれば、單に過去に於ける武家の専横をのみ責めて之を郤くべきにあらず故に徳川をして政權を朝廷に返上せしめ之が行政の權を奪ふも慶喜を元老院議長に任じ議政の任に當らしめ以て其面目を保たしむべしと爲せるもの岩倉等の議論と相尊して兩極を爲せり(板垣退助述「我國憲政の由來」)
 ハ、一千八百六十七年十一月最後の將軍慶喜が一は其知友なる土佐の藩主容堂の爲に動され一は自ら内亂の發生せんことを憂慮し、全國大名の會議を開催して新たなる制度を議定すべきを條件として終に將軍職を退き政權を天皇に奉還すべき意志を表明したる布告を發するに至たり(一九一二年七月三十日のタイムス)

 こゝ面臼い史料がある、『江藤南白』の一節に。
 西は、文久二年、荷蘭に留學し、慶應元年十二月歸朝し、翌年九月、京都に滯在中なる將軍慶喜の徴に應じ、左右に近侍することなり。三年十月十三日、召されて、二條城に赴きしに一士人か伺侯して.慶喜と相尊せるあり、西は、雨者の尊話を筆記すべきの命を受け、其席に侍せしめられしも、伺候者の聲、低くして、一々聴取る能はざりしが、後此士人は、薩摩の小松帶刀にして、慶喜の大政奉還は、此時、略決心せるものたるを知れりといへり。西は、其夕、再び城中に召され、慶喜より泰西の國家三權分別法、並に英吉利議院の制度に關する質問を受け、席上口頭を以て、一應説明を爲し置き、退去の後、更に、西洋官制賂考、一本を撰して、之を慶喜に上れり、西洋官制略考の内容は今之を詳知するを得ずと雖も、歐米各國の代議政体體の下に郡縣制度を行へる形式の概要を記述したるものたるべきは亦疑ふべからず。故に、慶喜の、大政を奉還するに至りたる所以のものは、歐米各國の政體,及、一股の形勢に鑑み、政體變革の免るべからざるを洞見し、封建を廃止して郡縣政治を布かんとするに在りしを知るに足るべし。而して、西は、此年、春、閑を得たる際、立憲君主制度、聯邦制度の利害、及び、中央集權論、等を作りたることあり。叉此年十二月、新に歐洲より歸れる寺島宗則より、近く閑を得て會合し、大に封建制度の可否を論ぜんとの書信を得、彼は其希望に應ずべきを約束したりしも、忽ち、其月九日の大變革となり、尋で鳥羽伏見の變となりしが爲め、終に、寺島との約を履むこと能はずして止みたりと。(江藤南白上巻四九九以下)(西周傳にも畧同樣の記事あり或は同書より出でしならんか西周傳には小山正武の言を援いて曰く
 立憲君主制度と聯邦制度との利害及び中央集權論あり、此年初春の稿に係る周嘗て嘆じて曰く。幕府一派の人士中能く此書を解するものは原市之進、泗井十之允、廣澤富二郎山田安五郎、數輩あるみと
 これは耳寄りな話である。西は、慶喜の政務顧問なることは前述の如くであるから。前述の憲法草案も、此時の起草らしく思はるゝのである。其文中に在る『英制畧思考』とは。右の文中にある『西洋官制畧考』といふのと同一物であらう。又前述憲法草案中の『禁裏之權』即ち天皇の権利義務の章では『鈴定之權』即ち、裁可のことを規定し。議院にて決定したるものは異議無きことゝあるは、裁可の法理論としては、不思議は無ひが、此時勢では意味深長である。
 それから『政府之權』即ち、全國の政府の元首は徳川當主を尊奉し大君と稱し、行法(政)權は.悉ぐ之に屬し、上院の議長と爲り。三個の投票權あり、又、下院の解散權を有し、閣員は萬石以上の大小名より採用すといふ趣旨の規定である。而して、立法權と、天皇の裁可其他凡ての體制から見てこれは、どうしても、大政奉還後の、新政體と見ねばならぬ。
 是等は、何處迄西の自發的意見で、何處迄が慶喜の命で起草したのか、分明では無ひが、慶喜を、總理大臣、兼、貴族院議長とし、剰へ、衆議院の解散權迄、認めるといふ如き規定は、到底、西一人の獨斷的意見で出来る譯では無いから。これは慶喜の意見と見て可かろう。
 しかし。これも慶喜一人の意見といふよりも。幕府全體の樣である。それは前述、西の上書の内の『家臣其申立候洋制斟酌之儀』云々とあるのは、如何なる事か上明であるが、政權奉還の報、江戸に達するや。諸有志の大評定となりしが、其時、老中稲藁美濃守は。(徳川慶喜公傳参照)
 将軍家の上表、勅許を得ば、即日より、公家、武家、外藩、親藩等の名義を癈し。
 封邑は、舊に依りて、孰れも王臣となり。將軍家は、攝關を兼ねて。實權を掌握し。上下の議事院を開き、衆議公論によりて。國是を定むべし。云々。
 老中格、松平縫殿頭乘謨(伯爵大給恒)は。
 政體を一變して、王政復古せんことは、目下の急務なれども、六百年來の武門政治を、解體せんは容易の業にあらず。宜しく、先づ、廣く諸大名を會して、意見を徴し、然る後、上下の兩議事院を開きて政を行ふべし、斯くて、王政施行の上は、諸大名等は、私に兵を貯ふるの制を癈し新に、政府の海陸軍を各地に配置して、全國守衛の兵に當て、費用の如きは、徳川家以下諸大名に至る迄、悉く封祿の三分の一を上納すべし。即ち全國の力を以て、全國を守り、全國の財を以て、全國の費用に充つべし。將軍家には、上院議事の上位を占め全國守衛兵の總指揮官となり給ふべきなり。云々
 これは、貴族院議長、兼、陸海軍大元帥説である。
 數囘の洋行を爲し、幕臣中の眞知識なりし、福地源一郎は
 余は思らく、將軍家已に大政返上あらせ給ひし上は之を回復するは、行ふべからざるの望みなり。此上は、徳川氏、寧ろ進で其主任となり、是を實行せしむるに若かず。若しも、此儘にて傍觀せらるる時は、徳川幕府倒れて、薩長幕府これに代るの狀勢たるに外ならざるべし。畢竟は、朝廷を奉戴して國家統一の政令を施されんが爲にこそ、二百七十年以來の幕府政權を奉還せられたるなれ。安ぞ薩長及び公卿の私有たらしめんとて、奉還する事やはある。依て將軍家は自から禁裏に参内あつて、公卿諸侯藩會議の制度を立て、御自分その大統領と成て差圖を下し賜ふべし。然る時は事すべよく行はるれば、大政返上の目的を達すべく事行はれざる時は、那破崙が佛國に於けるが如く、名義は大統領にて其實は獨裁の權を掌握し給ふべきなり。徒らに大政を返上して、公卿薩長の爲す所に任ぜらるゝは御長計に非ずと、乃ち此趣旨を書面に認め小栗上野介の許へ持参して差出し、併て其議を口頭にて辯じ、御同意とあらば閣老方へ申立られ、京都への御使は承り度と述べたるに、小栗氏は、卿󠄁が意見は頗る長計なりとは雖も。第一には將軍家の思召も知れず、第二には在京閣老、其他の腰抜官員にては、迚も行はるべしとは思はれず。然るに、憖に斯る説を提出しては、却て、薩長の乘ずる所と爲りて、益々幕府の滅亡を成就せしむるの媒と相成べし。故に此説は呈出せざるに若かずと諭されたり、余は心中小栗氏の説には甚だ不服なりしと雖ども。去りとて外に此建議の取次を頼むべき途なかりしを以て、残念ながら草稿を反古には成たりけり。併し其後に至りて、考ふれば、小栗氏の言は江戸に居て、遠く上方の事情を洞察し得るたるが如し。云々(懐往事談一五八以下)
 此意見は、慶喜の耳目には達しなかつたが、これは慶喜の心中の十の七八を忖度したものでなかつたろうか。又小栗上野介が、それは薩長に幕府討滅の辭柄を與ふるものなりとの説は流石に卓見である。
 更に、當時直接慶喜に曾つた松平春嶽は
 余上京直に参内二條城へ登城し、慶喜公に尊面し。今度大政御奉還の次第を豫め慶喜公被話候、今後如何成物か春嶽考はなきかと。被申候故中々如私愚鈊なるものゝ考へ付かたしと答。慶喜公云く、是迄は御承知の通り於幕府天下を統御の政權あり、役人は皆旗本を用ひ、老中若年寄は譜代大名を相用ひ候。從今は右等の弊習を破り、天下の諸侯を京師に會同し、諸藩の有名豪傑なる人を撰みて公平無私に政治を議し執行する外、他なしと申請。考ふるに政權は全く徳川氏に如次、前將軍にてはなくとも、諸候頭にても被命候やの心算の趣に被相考申候(逸事史補)
 と記して居る。春嶽の觀察は確かに慶喜の胸中を忖度して誤りないのである。また越前藩士中根雪江が、後藤象次郎の言なりとて春嶽に語りて
 徳川慶喜公の上表されし政權返上は、被聞届候て關白、幕府、議奏、傅奏等其他一切被癈。慶喜公は矢張議定職破置。委評畧す。極密春嶽公へは申上侯樣岩倉公より御沙汰に候。決て他へ御もらし候ては、天下の一大事故、極密に願度云々(同上)とあり。土佐派の主張は、或程度迄岩倉に諒解を得て居つたことが知れる。
 また政權奉還後、慶喜が各國公使を引見したときの口達の一節に
 余は祖宗以來、傅承の政權を擲ち、廣く天下の諸侯を聚め公議を盡し與論を採りて、國是を定めんことを朝廷に奏聞したるに、先帝の御遺命にて幼主を撫翼する攝政殿下を始め、宮、堂上方、余が政權を還すことを承諾したり。さりながら、諸侯の公議相決する迄、諸事是迄の通り政權を執行すべしとの勅命なるにより、其會議の期を待ち其席に臨まんとせしに云々
 といふのがある。
 以上の縷述を綜合して見ると、大政を奉還しても、議院又は政府の主長として、依然實權を掌握する事が出來る。即ぢ名を捨てゝ實を取ることが出來る。……といふ考から、此大事を決行したものと觀察することが出來る。然れども、余輩は敢で慶喜の政治家としての手腕、又は其心事の批判を爲すのが本論の目的では無ひ。要は只だ大政奉還と議會論とは、不可分の關係にあつたことを論斷すれば足れるのである。

引用・参照

『維新前後に於ける立憲思想』尾佐竹猛 著 (文化生活研究会, 1925)
(国立国会図書館デジタルコレクション)
別頁『懐往事談』