『新編 倉渕村誌 第一巻 資料編1原始・古代 中世 近世』

 第三部 近 世

 607-609頁
 第六章 小栗上野介忠順

 概説 文中()内のゴシック数字は、本文の史料番号を示す。

 徳川幕府は慶応三年十月大政を奉還し、新政府による施政が推進された。幕府の重鎮であった小栗上野介(一八二七~一八六八)は慶応四年正月十五日職を辞し、同月二十八日、知行所上野国権田村へ隠棲のため土着願を提出、二十九日土着が許可になっている。「小栗日記」によると、江戸駿河台の小栗邸を引き払い、家臣三〇人と共に二月二十八日江戸より権田村へ父子、家族と共に発足した。二月晦日高崎宿に宿泊、三月一日夕方七時過に権田村仮宿所の東善寺へ到着している。

 小栗上野介と倉渕村 倉渕地域のうち権田村は、宝永二年(一七〇五)から幕末に至るまで一六〇数年の間、小栗氏の領地(旗本領知行所)として支配下にあった。小栗上野介忠順は、文政十年(一八二七)江戸駿河台の邸宅で出生、幼吊剛太郎といった。安政二年(一八五五)十月、二五〇〇石の家督を相続した。小栗家十二代目の当主となったのは二九歳の時であった。権田村の住民は小栗家との交わりが深かった。小栗家の禄高は二五〇〇石であり、その内三七〇石余が権田村の領地であった。その外上州与六分村(八八石)、同斉田村(一七〇石余)、下野足利郡高橋村(一、三五四石)、その他上総国・下総国の飛び地を領した(後藤日記)。また遣米使節の後、緑野郡小林村・森村(三〇〇石)が加増されている。

 遣米使節と佐藤藤七の航海日記 安静六年(一八五九)幕府がアメリカと結んだ通商条約批准書交換のため、小栗上野介忠順は使節の一員に加えられた。正使外国奉行新見豊前守正興、副使同村垣淡路守範正、小栗(三四歳)は目付(監察)として使命を果たした。使節団は総人数七十七人であった。この中には小栗氏の家臣給人塚本真彦・吉田好三ら六人、権田村住人吊主兼侍の佐藤勘兵衛らが同船した。
 佐藤勘兵衛(藤七)は、安政七年「世界周遊略記」(三一三)を記しており、一月十八日出航(米軍艦ポーハタン号)、九月二十七日横浜に帰着までの一行の行動が詳細に記述されている(「航海日記」)ので採録した。

 幕末と忠順の動静 安政七年四月三日付(一八六〇年五月二十二日)通商条約批准書首文の写しは、下田市の玉泉寺に展示されている。忠順はアメリカから洋書・地球儀・望遠鏡・ネジ等数多くの近代的な品々を購入してきた。帰国後十月二十日、将軍家茂の御座間において金十枚と時朊を賞賜されている。万延元年(一八六〇)外国奉行、ロシア軍艦(対馬入港)交渉に当る。文久二年(一八六二)には、御軍制御用・勘定奉行(勝手方)となり豊後守から上野介と改める。同年八月には江戸南町奉行、十二月には歩兵奉行兼勘定奉行。文久三年(一八六三)には陸軍奉行並となつた。元治元年(一八六五)十二月に軍艦奉行に任じられた。慶応元年(一八六五)三九歳、横須賀に製鉄所・造船所の建設に当り忠順の提唱によってによって、フランス公使と契約を取りかわした。慶応三年(一八六七)に勘定奉行兼陸軍奉行となった(大坪元治小栗上野介略年譜)。
 慶応四年一月十一日付(ママ)の小栗日記には、将軍慶喜が鳥羽伏見の戦に敗れ「軍艦開陽丸にて品川沖江還御云々」と記している。十三日在京の大吊や旗本大広間において大評定を開いた。主戦論と恭順論に分かれた際、忠順は主戦論を唱え将軍にせまったが、役職をとりあげられた。十五日の日記には「芙蓉間御役御免……(中略)酒井雅楽守被仰渡、夕七ツ退出ス」とたんたんと書かれている。

 上野介忠順権田村へ隠棲 重職の地位から無役となった忠順は、自宅に滞在することが多かった。御役御免を聞いた友人知己の数が増し、本人も知己を訪れている(慶応四年正月~小栗日記)。権田村に土着するまでの間、種々身の振り方の相談が知友により行われたと考えられる。領地の返紊と土着願いに対し幕府は「采地返紊に及ばず土着勝手たるべし」と指令している。二月二十八日江戸を出立するまでに、かつて小栗氏によって油の小売商人から取り立てられ、忠順の父忠高に理財の方法を教えられた三野村理左衛門は、日記によると一月十一日・二月四日・十四日・二十日・二十四日と五回訪問し、忠順と逢っている。理右衛門は後に三井財閥を創設した者である。蜷川新の『維新正観』によると、理右衛門(ママ)は忠順に千両箱を指し出し、「米国に一時渡らるべし」とアメリカ行を勧めたという。しかし忠順はこれを辞退し、「好意には感謝するけれども、思うところあって暫く上野権田村へ引きあげる。もしも後年婦女子が困惑した折は何分よろしく頼む」と答えたと記している。もし理右衛門の勧めによって渡米しておれば「小栗騒動」という悲劇は起こらなかったであろう。旧領足利郡高橋村は一三五四石の村高の地であるのに、なぜ権田村を隠棲の地として選んだのであろうか。『群馬県史第三巻』(昭和二年発行)には「権田村には吊主佐藤藤七・誉田三左衛門など有力者が少なくない。殊に藤七は忠順がアメリカ使節として渡航の際に随行し信任があり、忠順に権田村への土着を勧めたのであろう」と記している。

 暴徒の鎮圧 慶応四年三月一日、東善寺を仮宿所として落ちついて間もなく、暴徒約一、〇〇〇余人が三ノ倉に集まり、廻文を三ノ倉・水沼・岩水・川浦の村々の廻し、村民を強制的に仲間に入らせ、従わない者の家には火をつけて焼き払うと脅迫した。権田村では忠順が村役人に穏便に手配対応するよう申渡し、(小栗日記三月二日条)防戦の手筈を指揮した。四日朝、三ノ倉屯集の者共権田村へ押寄せるとの注進を受け、忠順は、母・於道・於鉞など女子共武笠銀之助と佐藤藤七村役人を附添わせ、村内の山間部へ避難させた。忠順は家来・歩兵、村内の猟師や強壮の者一〇〇人余を召連れ対応した。五手に分かれ、二手は川浦の方防がせた。暴徒は三方よりおよそ二〇〇〇人も押し寄せた。追討も行き届き鎮静した(小栗日記三月四日条)。暴徒鎮圧の状況は、岩永村塚越家の「永代記録帳」、三ノ倉村茂木家文書に、地元記録として詳細に記述されている(三〇七・三〇八)。倉渕村権田村の外、川浦・岩永・水沼・三ノ倉四か村の役人が夜に入り詫に訪れている。忠順は「今後何事も話し合い融和致すべし」としている。

 観音山の開発 暴徒鎮圧後は、観音山の用水開発と陣屋・館(住居)の建設に当っている。予算は三十両程であった。忠順は以後毎日観音山普請所の見分に当っている。四月二日には小高水路・新道作りの手間代として佐藤勘兵衛へ百両を渡している。観音山の開発は、処刑により、完成をみずに終わっている。

 小栗上野介追補と処刑 慶応四年小栗父子の動向について、「永代記録帳」には、「五日官軍先手一万人御通り、七日東山道総督岩倉殿諸家様警固にて御通行」とある。四年四月閏四月一日、高崎・安中・吉井藩、小栗上野介と懸合、養子又一を人質にとり、大砲一挺、鉄砲五挺取上云々、折手の豊永寛市郎・原 保太郎は三藩へ追捕を命じた。高崎勢三五〇人安中勢五一八人、吉井勢八〇人のおよそ九四八人を権田村へ出向させている(三〇九)。達(三一一)によると、「小栗上野介は、領地権田村において陣屋等厳重に相備え砲台を築き容易ならざる企て……謀叛につき誅殺致すべき事」と布達している。慶応四年閏四月六日、水沼川原において上野介は天誅を蒙りせしむとして処刑、家来三人も打首、養子又一と家来三人高崎において処刑された(高札及処刑達)。小栗家の財産取調と処分は、大音龍太郎巡察使附合議局が後藤八郎右衛門(渋川町問屋)に命じて財産調査と記録がなされた(三一四)。

引用・参照

『新編 倉渕村誌 第一巻 資料編1原始・古代 中世 近世』
編集 平成二十年三月十日発行 編集 倉渕村誌編さん委員会
発行 倉渕村誌刊行委員会
(註:日記については別頁参照)