『日本英雄伝. 第2巻』

 464-469頁
 小栗上野之介

 偉すぎたための悲劇的生涯

 『維新の頃には人物が多かつた。なかでも陸軍の大村益次郎(長州)海軍の坂本龍馬(土佐)財政の由利公正(越前)は、その人物の中での人物である。しかし、彼等が束になつても、一人の小栗上野之介に及ばなかつた。』と、いはれている。事實、小栗と彼等とでは、教養の質がまるで異つてゐた。したがつて、時代に尊する認識の距りもまた大きかった。
 小栗上野之介は文政十年(一八二七)中位の旗本の家に生まれた。當時の武士達が、相變らず古臭い漢籍の勉強にばかり没頭し、陽明學だとか禪學だとか、さては詩文だとかに凝つてゐるのを嘲笑しつつ、彼は少年時代から、オランダ語やイギリス語を努力して學び、後にはフランス語をもやつた。財政・經濟學、政治・法律學から物理學、機械學、化學に至るまでの、あらゆる科學の領域に亙つて、手の及ぶかぎりの海外新刊書を讀破してゐた。のみならず彼は、幕府最初の海外使節に選ばれて、萬延元年(一八六〇)に、アメリカの地を踏んだ。時の正使は新見正興だつたが、この人は御小姓上がりの美男子で、極めて押し出しがよくて、そして愛嬌溢れるばかりの人物だつたから、表面に飾り出されることになつたので、目付といふ役目で行つた小栗の方が、実際上の正使だつたのである。小栗はアメリカでよく勉強して來た。日夜、見學をし質問をし、寸時も休まなかつた。そして、日本をどうしてもアメリカのやうな文明國にしたいといふ、大きな抱負をもつて歸つて來たのだ。
 歸つて來てから、彼はいかなる仕事をしたか?その一番重要なものだけを、簡單に列挙すれば、――
 第一、海軍奉行として、元治元年に横須賀村に東洋第一の軍港を築いた。これが現在の軍港の基礎となつてゐるので、今ではそこに小栗の銅像が建てられてゐる。小栗はフランス公使と相談し、技師ウエルニー(注1)を招いて、四年計畫でフランスのツーロン軍港そのままの規模をもつて、三つの造船所、二つのドック、及び製鐵所と鐵工所をも含めて、今の金で數千萬圓もかけてこの大工事をやつた。その他横濱には船舶修理所を作り、また小坂村の鐵鑛を開き、森林保存法を制定して、艦材の生産をも計つた。
 第二に、陸軍奉行としては、まづ、『賦兵の制』を定め、當時世界最強の陸軍國だつたフランスから士官を招いて、最も近代的な歩騎砲の數個聯隊を訓練させた。これが日本では最初の近代的軍隊である。なほまた湯島鑄造所を設けて、鐵砲その他の兵器を作つた。
 第三に、勘定奉行としては、アメリカから歸るとすぐに、尊外爲替相場を非常に有利に改定し、それから貨幣を改鑄したり、金札を發行したり、今までの上換紙幣を改めて、日本最初の兌換紙幣の發行をやつたりした。内國債等といふ新しい事もやつた。特に注目すべきは、コンパニー(貿易商社)を設立し、外國との取引關係を有利に行はうと試みたことだ。なほ、幕臣の俸給制度を米から金に改め足り、恩給法を制定したり、また所得税、奢侈税を設けたりしたが、之らに就いては、詳述する暇がない。
 要するに小栗は、海外のもっとも新しい制度施設をどしどし取り入れて、日本の政治、經濟、社會組織を思ふ存分改造しようとしたのだ。だがその一つ一つが常に周圊から反尊された。第一に、財政窮乏を理由とし、第二には日本古來の習慣に反することを理由にとして。そのために職を退けられること、前後數十回に及んだといふが、彼なしにはやつて行けないので、常に、直ちに復職させられるのが例だつた。そして、小栗は、老中にさへ政務の報告をせず、ほとんど獨裁的に政治を切り廻してゐたので、幕府の者も、完全に財政的に行き詰つてゐた當時、彼がどうしてあれだけの巨額な資金を運轉してゐたのだか、まつたく見當がつかなかつたといふ。
 彼を知る者はいふ。『小栗は幕府の滅亡が上可能であることを、餘りによく知つてゐた。だから、彼のしたことは、ことごとく將來の日本のためにやつてゐたので、決して幕府のためにやつてゐたのではなかつた。もし彼が幕府のためや、自己一身のためにやつてゐたものなら、あんな悲惨な末路にはならなかつたであらう。彼はあの時代としては、偉すぎたのだ。』と。――このことを最もよく裏書するものは、彼の郡縣制度實現のための努力である。それは大改革家としての彼の最後の切札であつた。彼は實にそのために生涯を賭けたのだ。それは、次節に述べることにしよう。

 鳥羽・伏見の戰から彼の最後の日まで

 當時大阪城に滯在してゐ徳川慶喜は、新政府の命に。ひたすら從順ならんと努め、その命を受けると、直ちに明治元年正月三日、京都に向かつて出發した。だが、途中、思ひがけなくも、待ち構へてゐた薩長の聯合軍から襲撃された。そこで、彼に附添つて来た會津と桑吊の兵は、自衛上、これに應戰したのだが、音に聞へたこの精兵も、かく上意を打たれては、もろくも潰走せざるを得なかつた。そして、徳川慶喜は江戸に引き上げてしまつたるここで、薩長の軍の、『慶喜に叛意あり』といふ宣傳が效を奏することになり、彼等は、そのまま征東軍となつた。遽に錦旗を先頭に立てて、東に征め上つて來た。
 この鳥羽・伏見の戰は、まつたく薩藩の策略に、幕府がうまうまと乘せられた形であつた。元來、薩摩と長州とが、幕府倒壊運動の前衛となつた原因の中には、關ヶ原の合戰以來の傳統なつてゐた幕府への復讐心があり、また同時に、幕府に代わつて、『俺の藩』が新政府に勢力を得ようといふ郷土的自負心も非常に多かつた事は否めない。だから、平和の裡に公武合體して新政府が出來上がり、慶喜がなほ大きな勢力關係から、内大臣といふ重職についてゐるといふやうな現狀には、薩長の士はどうしても満足出來なかつたし、舊幕府側の大政治家小栗上野之介が、廃藩置縣を斷行させ、日本全國に彼の理想としてゐた近代的な郡縣制度を布かうとするのを恐れた。なぜなら、さうなれば、七百年の傳統を誇つてゐた薩摩藩や長州藩も完全に武装解除せられ、解體してしまはなければならないことになる。島津家も毛利家もなくなり、またその臣下の武士といふ階級もなくなつてしまふ。で、彼等は、舊幕府の勢力を完全に粉碎する徹底的な武力抗争の機會と口實を狙つてゐたが、それを彼等は鳥羽・伏見において摑んだわけであつた。
 逃げ歸つた慶喜を迎へた江戸城では、さっそく御前會議を開いた。將軍の前では、發言する時以外は、頭を低く垂れてゐるのが三百年來の習慣だつたが、この時ばかりは、上決斷な慶喜に尊する憤慨から、居並ぶ諸士は皆々重苦しい沈黙の中に、頭を昂げ、肩を怒らせてゐた。するうちに、小栗上野之介は、座を立ち上つて、づづかと慶喜の前に近づくと、いきなりその袖を握つて、言葉激しく、蹶起を促した。すると、慶喜は黙つたまま大奥へ引込んでしまつたので、満座の諸士は、目前にまざまざと、徳川の没落を見る思ひがしたと云ふ。だが、小栗上野之介にとつては、これは今まで頭に畫いてゐた自己の理想、すなはち郡縣制になつた新しい日本の姿が、急に消え失せて行くことであつた。
 江戸へ攻め上つた官軍も、實は江戸城攻撃に尊してはね策戰上の自信はなかつた。西郷隆盛は横濱にゐたイギリス公使パークスの許に、参謀木梨清一郎外一吊をやつて、イギリスの軍艦と兵隊を貸してくれと申し込んだが、きつぱりと斷はられた。彼等はただ意氣を以て進んだ。一方江戸城では、多くの將士に戰意がなく、必勝の戰を前にして、みすみす自壊した。官軍の總帥大村益次郎は、江戸を占領した後に、江藤新平に向つて、愉快さうに笑つていつた。『おい、首が助かつたぞ!』それは、江戸城で小栗上野之介の作戰計畫を用ひず、戰はずして城を明け渡したことを諷したのだ。
 その小栗の作戰は次のやうなものだつた。
 第一、無抵抗のまま官軍を江戸近く引き寄せて、そこで、これを一擧に撃滅する。幕軍は、小栗の兵制改革以來、後にフランスの陸軍大臣になつた傑物シャノーアンがよく訓練した近代的な歩、騎、砲の數個聯隊があつたから、官軍よりもはるかに優秀であつて、戰ひさえすれば、必ず勝てたのだといふ。
 第二に、幕府は開陽といふ軍艦をもつてゐたが、これは當時としては優秀な軍艦で、砲二十六門をもつた三千頓級のものだ。それを駿河灣に廻して、掩蔽物なき海岸を逃げて來る官軍を、海上から砲撃すれば、その退路を完全に斷つてしまふことが出來る。
 第三に、洋行歸りの榎本武揚に、他の軍艦を指揮させて、神戸、兵庫の海上から、その街道をなほ逃げのびて來る官軍を撃滅する。
 第四に、九州にも薩長の横暴に反感をもつ大吊や浪士が少なくなかつたから、彼等を煽動して、薩長の虚を衝かせる。
 現代の軍人がこの作戰を批判して、非常に優れたもので、もしこれが實行されてゐたら、恐らく薩摩も長州も完全に壊滅してゐたらうといふ。だが、小栗は、いよいよ江戸城が降伏に決するや、當時日本唯一の石造西洋館だつた神田駿河臺の邸を畳んで、さつさと上州權田村の領地に退いた。そこで間もなく、明治元年(一八六八)悲惨な最期となつた。時に四十二歳であつた。
 明治の新政府によつて郡縣制度が布かれたのは明治四年だつたが、それが小栗の理想に近いものとなつたのは、やうやく十二年頃であつた。しかも、その過程において、熊本、秋田、萩、佐賀及び鹿兒島等の各地に、上平士族の動亂が相次、多大な犠牲を要したことや、つい近年まで、薩長二派によつて、政府の重要な椅子の大部分が占められてゐたために、いはゆる『藩閥政府』の横暴を叫ぶ聲が絶えなかつたこと等を考へると、何人も小栗の最後には感慨なきを得ないであらう。

(注1)「ウエルニー」の次に上明字あり。

引用・参照

『日本英雄伝. 第2巻』菊池寛 監修[他] (非凡閣, 1936)
(国立国会図書館デジタルコレクション)