『幕末外交談』

 百二十二-百二十五頁
 遣米使

 亜米利加條約の末條に、右條約の趣は來る未年六月五日(即ち千八百五十九年七月四日、)より執行ふへし、此日限或は其以前にても、都合次第、日本政府より使節を以て亜米利加華盛頓府にて本書を取替すへし、若無餘儀子細有之、此期限中本書取替せ上濟とも、條約の趣は此期限より執行ふへし、本條約は、日本よりは大君の御名と奥印を署し、高官の者名を記し印を調して證とし、合衆國よりは、プレジデント自ら名を記し、セクレタリスフアンスタート(官名)自から名を記し合衆國の印を鈐して証とすへし、云々
 結約の初に方りて、か〻る約束をなしたるは、蓋しハリスの深意あるところにして、我國にて觀光采風の識を具へ、取長與善の才あり、しかも幕府にあつき有司をして此任に膺らしめて、以て歐米の文化を視せしめ、我國の未た及はさる所を啓かんとせしものにして、當時其談判の全權たる、岩瀬肥後守の如きも、亦自ら任する所あり、奮て此役に從はんとし、果たして彼文事武備を實験して、我國に一大改革を施さんず大志を抱き、兩心相契する所ありしや知るへし、(魯西亜條約末文にも聖伯祿堡にて取替すの文あり)されは堀田閣老も、既に是議を是なりとし、内々には其使節たるものも預定ありしほとなり、然るに上幸にして、岩瀬、永井ともに、定嗣の論合ざるより罷黜され、水野筑後守は、其志をつきて、進んで其任にあたらんことを望み、幕閣にも其意なりしも、此亦横濱開港の初に、魯西亜士官の戕殺せらるゝあり、折柄神奈川奉行として出張中なりしが、此變に處する事行届かずとて、表面外國奉行、兼神奈川奉行の職を罷られたる程なれば、同じく遣米の使命を奉する能はす、竟に外國奉行新見豊前守、村垣淡路守、目付小栗豊後守(後上野介)に命せられたり、新見の父、豊前守は、頗る漢學に通し、忠良の譽あり、曾て大坂町奉行として淀川を浚渫し其土を以て天保山を築き、府民に其功を賞せられ又愼徳公襲職の後、前代の奢靡を矯め、儉約の令を布き、文武の道を奬勵せられたる如き、左右に在りて啓沃の力少からすと聞けり、されと其子豊前守は、尋常の才にして、其父に似す、淡路守は、吏途の出身にて、た〻吏務に経驗ありといふまてなれは、到底岩瀬其の人に及ふへくもあらす、獨り小栗のみは、英鋭の才にして、敢爲の氣象に富みたれは幾許か此行に於て見聞を廣め心胸を開きしことあるへし、されは幕末の衰運に際し、鞠躬盡瘁し、所謂存一日則盡一日臣子之實の覺悟を以て、敢て勞を辭せす、徳川氏末路の一良吏と稱せられたるも、蓋し基く所あるべし、當時使節のものは、十万石以上諸侯の格式を用ることを許され、大統領謁見の際なども、其途上は、かの臺傘たて傘を用ひ、大鳥毛の槍を、赤坂奴をしてふらしむる趣向ありしも、彼の地に至りて、餘りに殊樣なりとて用ひざりしときけり、されば屬吏の外、從者も數十人を要し、諸道具も夥しかりければ、亜米利加より迎接の爲に越せしポウハタン艦のみには搭載し能はず、夫是にて別に軍艦咸臨丸を以て、桑港まで航せしめ、且は諸道具載搬し、且は使節の護衛ともせり、軍艦奉行木村攝津守、(今芥舟)これが將となり、勝麟太郎、(今安房伯)指揮をを司り、海軍士官の俊秀多くこれに從へり、(今赤松男遣中に在り、福澤諭吉も通辯として乗組めり、)嚮きに安政五年閏五月、長崎に於て海軍傳習を開きしより、たゞ三十ケ月にして、太平洋の遠航路を、我國人而巳にて、これをなし得るに達せしことの頗る誇るに足るべきのみならず、(此行、航路案内までに、米人を雇入たるも、船の進退は皆我邦人にてこれをなせり、)此一行の内には、爲に外事に活眼を開きたる人々も多かりしとおもはる、されど此一行萬延の秋歸國なせし時には、時勢既に其初のごとくならず、攘夷の燄、漸く盛なるを以て、その見聞する所を以て、我邦人の耳目を開くことさへ敢てせざる位なれば、最初岩瀬ハルリス等苦心籌畫する所も、徒に屬せるぞ是非なき

 四百六十三-四百六十六頁
 ◎改税約書

 この約定を通觀するに、減税の條を除きては、あへて我に不利あるものともいふべからず、殊に第九第十條のごときは、こゝに至りて初て鎖國の鑰を解きしものといふべく、これまで幕府當事者が物議に沮せられ、敢て斷行し得ざりし者を、公然約書中に掲けて顧みざりしは、時機塾せしとはいへ、亦小栗が果敢にして斷ずる處あるによらずんばあらず、
 小栗は、幕府の世臣にして、所謂旗下八萬の一なりき、短小精悍、事に臨で踔厲風發、目中人なきの概あり、其勘定奉行たりし時、先例によりて國費の清算書を閣老参政列座の席に朗讀報国すべき時に當り「今これを朗讀すとも、閣下方にはこれを解せざるべし、上野かくてあらんには、ゆめ御爲あしくはゝかり候はじ、しか觀念あらるべし」と放言せしは、その自任自信の篤きいかんを見るべし、されば人其才の用べきを知るといへども、亦これを忌むもの多く、加るに夙に開國の論を執りしを以て、世に容られず、屡々用られて屡々退き、貶黜せらるゝこと數十次に及べり、漸くこの時に至りて任用せられ、少しく其抱負を實施するを得しも、既に幕府將に倒れんとするの兩三年前にありて、大に胸中の經綸を行ふを得ざりしは遺憾といふべし、されど其職にあるにあたりて、水野閣老を輔けて、多年の政弊を掃除し、財政を釐革し、守成の時に於て、建設の政を施さんとす、故に征長の事起るに方りて、此機を以て徳川氏の武威を張り、長州はは勿論、われに上利を計れる薩藩をも殪し、勢に乘じて、各大藩を割弱して、大に強幹弱枝の畧を施さんとの思念は、其方寸に蟠る所なりき、されば伏見の事敗れて、慶喜公東下せらる〻に方りて、専ら兵を擧て王師に抗すべきを主張せしも、用られざりければ、直に身を退きて其采邑に屏居し、天下の變を待んとことを計りしは、予が澁澤成一朗(喜作)にきく所に徴して知るべし、其言に曰く「予が戰論と主張せしは、實に見る所ありて然りしなり、無謀の血氣にはやりしにはあらず、されど事既にこゝに至り、人心挫折して、機既に去れり、假令東北諸藩連衡するあるも、主將既に順に歸せり、何事をかなし得べき、とはいへ事既に平ぐの後、強藩互に其權を爭ひ、内必ず相軋して、以て邦内割據の勢をなすに至ることあるべし、其時こそ直に起て、主公を奉じて天下に檄し、以て中興を計らんとす、もししからず、天下太平に謳歌するに至らば、一頑民となりて沒ん、」とこれ其心事なりしに、その久しく財政を營せしを以て、その貯蓄の厚からんを疑ひ、土匪のこれを襲ふありしも、よく撃てこれを退けしが、かの土匪等は、官軍に頼てその志を遂げんとし、これを東山道總督の軍前に訴へて、その幕府の金銀兵械を私窃し、采邑に砦を構へて反謀るとの趣を以てせしかば、遂に其手に囚はれ、空しく烏川の上に斬首せられたり、その平生操守尤も嚴にして、贈遺を斥け、一毫も私する所あらざりし、小栗上野介の家に遺財あるまじきを知らずして、却て誨盗の狀ありしは、是非なけれ、兎に角幕府の末、經費浩繁の際一身財政を主りて、その宭迫を見ず、天晴肅何の任盡せしのみならず、陸海軍の皇張より、祿制官制の改革までも、多くは其經畫する所にい出で、この積弱積貧の幕府をして、伏見の一役まで、其命脈を保維せしめしは、實に小栗の力にありといふも、虚譽ならざるを知るべし
 且こゝに附記すべきは、此約書の第十一條なり、これかの下關償金三百萬弗の内を以て、これを建立すべきの内議ありしが如く、又彼償金消淸の上は、この燈臺の爲、通航の船舶より若干の税を課すべしとの豫約ありしと覺えぬ、然れども幕府の傾覆と共に、かゝる事もこれを紹繼するに道なく、今日の狀に成行しものなるべし、

引用・参照

『幕末外交談』田辺太一 (蓮舟) 著 (富山房, 1898)
(国立国会図書館デジタルコレクション)