『勝海舟.その1』

 265-278頁
 小栗上野介

 

 一部の人が、いふやうに、小栗上野介を以て、幕末に於ける、第一流の人物、と、いふ程には、思はないが、さればとて、平凡の幕臣として、十把一束に、見て了ふのは、此人へ尊して、敬意を失ふのみならず、公平な取扱ひとはいへない。
 著者は、極く古い時分に『国民之友』誌上で、小栗貞雄といふ人の書いた『小栗上野介』を讀んでそれ迄に思つて居た、上野介よりも遥に偉い人である、といふ、感じを持つたのであるが、其の後、幕末史の研究に、段々深入りをして、幕府側の人物を多く知るやうになつてから、やつぱり、傑出した一人として、上野介を、見て居るのである。
 最近に至つて、或人の著した、『維新前後の政争と小栗上野介の死』を讀んで、さらに、新しい事實も判つたが、同時に、世間の一部は、此人を以て、幕末第一の人物なるが如く、吹聴するに急して其他の人物を、ひどく貶して居る人が、在る事を知つて、大いに興は冷めたが、それにしても、平凡な人物でないには違ひないのだから、恩怨の關係なき、著者としては、やはり、幕末の傑人として、此人の事を、述べて置きたいのである。
 小栗の家は、三河以來の旗本として、二千五百石の、祿を食んで居たのだから、幕府時代には、堂堂たる家格を、有つて居た譯だ。
 小栗が、幕府の役人として、やうやく頭を擧げ出したのは、萬延元年の、遣米大使の一行に、加わはつて行つたのが、初めのやうに、思はれる。
 新見豐前守が、正使であつて、村垣淡路守が、副使であつた。どちらも、外國奉行の肩書があつて旗本の出身である。小栗は、御目付の資格で、随行の一人たるに過ぎなかつた。
 此一行の使命は、何であつたかといへば、極めて簡単なことであつた。要するに、安政條約の正書を交換するための使節で、形式的には、大した役目であるが、實質的には、左迄に難しい役でなかつた。
 只、日本政府の、役人としては、最初の國使であつたから、それだけに、問題視されたのである。
 當時、攘夷問題の、やかましい時であつたから、斯うした使節を送る事は、可成り非難も多かつたが、如何に非難されても、送るべきものは、送らなければならないから、井伊大老も、世間の非難には、多少の悩みはもつて居たろうが、よんどころなく、此奮發を爲すに至つたのであらう。
 初めて見た、アメリカの風物、海外の文化が、此人達の眼には、どういふ風に見えたか、その點はよく判らないが、兎に角、その見聞に依つて、多少は、新しい知識を、持つて歸つたに、違ひない。
 殊に、慧敏な人、小栗には、相當得る所があつたらう。歸朝の後、だんだん時代が過ぎて、幕府の立場が怪しくなつた時、小栗は、勘定奉行として、相當の功績を擧げて居るが懐裡育ちの、純な旗本には、ちよつと出來ないだらう、と思はれる小手先の仕事も、見せて居るのだから、小栗には、此洋行が、よほど利益になつて居る事は、明らかである。
 ロシアの軍艦が、尊州へ乘付けて來て、土地の一部を占領した時、幕府は小栗豐後守を談判委員として尊州へ送つてゐる。豐後守は、上野介の事だ。
 何しろ、相手がロシア人だから、一日も早く、此軍艦を、追拂つて了はぬと、何かの因縁を残されて、後日の禍ひになる。そこで、小栗は一生懸命になつて、談判に取かゝつたが、何分にも、言語は、充分にに通ぜず、武人一流の脅しも、ロシア人には、大した利目がなく、どうにも、始末がつかなくなつたから、小栗は事件を保留して、一時、江戸へ引返して來た。
 ロシアは、東洋に、一つの上凍港を持ちたいといふ考へを、永い間、持つて居たのだ。シベリアの草原を下つて來て、浦盬斯徳へ出て來たところが、一年の半ばは役に立たず、軍艦碇泊の港としては猶更に上便が多いのであるから、何所か、都合のよい所が有りさうなものだ、と、碧い眼を光らして、見付け出したのが、尊州であつた。
 此所ならば、支那にも、朝鮮にも、又、日本に尊しても、その威力を示すべく、適當な場所と見て何喰はぬ顔で、軍艦を乘入れてしまつたのだから、、一通りや、二通りの談判で、オイソレと、立退くべき筈はない。
 此時分に、幕府の老中で、外交係をやつて居たのが、安藤尊馬守であつた。安藤は、一般に知られたよりも人物がすぐれて居て、よく、外交の呼吸を、呑込んで居たから、此問題に就ても、小栗の報告を得て、すぐに感じたのは、『これは、幕府の力で、押合つてイルりは、ロシアと、競爭的の立場に居る、いずれかの國を利用し其力を以て追拂ふのが、一番の近道である』と、いふ事であつた。そこで、筋を辿つて、しらべて見ると、英吉利公使を、動かす外に方法はないと判つたから、その手續を、執る事にした。  幸ひな事には、尊馬へ來て居る、ロシア人の言草に、『英吉利人が、此所を狙つて居るから、ロシアで守つてやるのだ』と、いふ口實があつたから、此言葉を利用して、英吉利公使を、煽つてみたのだ。
 安藤は、割合に、外國奉行の氣受けがよかつた。殊に、英吉利公使は、安藤に尊して、好意を有つて居たから、安藤の申出は難なく容れられて、ロシア人へは、英吉利公使の方から懸合ふ事になつた。その結果は、安藤が、思つた通りになつて、ロシアの軍艦は、尊州を引揚げてしまつた。
 一部の人は、これを、小栗の功績の如く、數へ立てゝ居るが、それは大間違ひであつて、全く安藤の打つた、一芝居が、巧く當つた迄の事だ。

 

 小栗が取扱つた、仕事の一つとしては、横須賀の造船所は、たしかに、その努力の多かつた事を、認めなければなるまい。けれども、實際の監督者としては、栗本安藝守が居て、成功の運びに至らしめた事を無視する譯にはならぬ。
 要するに、小栗と栗本の、共同的仕事として、視る可きが、至當であつて、栗本の書殘したものでそれに就いての記録はあるが、今は、大して必要も認めないから、茲に掲げる事は、止めて置て、唯だ此造船所を以て、小栗一人の功也、とする人があるから、序でに、一言して置く譯だ。
 小栗が、郡縣制度を布くやうに、幕府へ、進言した事は、當時の幕吏としては、頭の働きのよい人だ、といふ事は、認め得られる。けれども、幕府の建前からすれば、此方策には、多くの矛盾が、伴つて居らぬか。若し、郡縣制度を行ふとすれば、封建制度の基礎を、爲して居る、大吊を、どう處分するか、と、いふ事が、大きい問題になる。それには、、先づ、徳川が、領土の返還をして、大吊の一人たる事を、止めてかゝらなければ、出來る事でない。小栗の意見には、それ迄の事は、現はれて居ないのだから、勝安房に、雑ぜ返されて、グウと参つてしまつたのは、當然の事である。
 が、併し當時の幕吏として、逸早く、郡縣制度を主張した事は、流石に、小栗であると考へさせられる。
 もう一つ、小栗は、賦兵制を、主張して、或點まで實行し得たのだから、これは偉いといへる。
 旗本の次男、又は三男からね兵隊を取つて、これに新しい、洋式の調練を加へて、今迄にない、兵制を建てよう、としたのだから、確かに新しい遣方として、見る事は出來る。  けれども、之を以て、徴兵令の前提とする事は出來ない。何故なれば、此兵制は、士人を限つて建てられてあるのだから、一般に謂ふ所の徴兵制度とは、大分に隔りがある。  其點に就ていへば、長州の奇兵隊は、明らかに徴兵制度の見本として、之を認める事は、出来る。その譯は、奇兵隊に入つて、兵士となるものは、當時の士人に限らず農工商如何なる人でもよいといふのであるから、これこそ、眞に、徴兵の實質を、有つて居たのである。
 それにしても、小栗が、舊慣墨守を、唯一の信條にして居た幕府の役人の中に在て、斯うした新しい事を考へ、今迄の殻を破つて行かう、とする進歩的態度は、推賞に値する。  小栗が財政に關する、一種の知識を有つて居て、幕末に際し、那の混亂して居る、徳川の財政を巧みに繰廻して、融通の道を拓き、整理に努力した事に就ては、これ亦、其力を認めてやらなければならぬ。
 或は、貨幣制度の事に就て、固より、昔の事だから、徹底したものではないが、多少の手を加へて通貨の価値を、高くした事なぞは、舊幕の政治家には、多く見る事の出來ぬ所で、これは、ちょいとでも、アメリカの土を、踏んで來た、御蔭と見るべきである。
 元來、勘定奉行は、眞面目にに勤めれば、骨の折れる役で、殊に、財政逼迫の時代に、此役に當る、と、骨が細くなるほど、心配はあるものだが、其代り、少し猾く構えれば、、何でもない。要するに將軍の身上であるから、どうならうと、直接には、自分への影響の來ないことである。其日其日の遣繰さえ上手にやつて居れば、どうか、斯うか、役も勤まるし、大吊の方から、いろいろな事情を申立てゝ、融通を迫つて來る時に、何とか工夫わつけてやれば、袖の下は、相當に來るし、結局、返濟されないでも、自分の搊にはならず、こんな、甘い事はないのだ。  然し、小栗は、さうした、上純な事を避けて、真面目にやつて退け、大吊への融通などは、さらに肯かなかつた。そればかりでなく、幕府の費用に、極度の節約を加へて、内部からは、相當に非難されたが、それにも怯まず、頑張り通したところは、流石である。

 

 伏見鳥羽の戰ひが終つて、朝廷の征討軍が、江戸へ押寄せて來る、といふ時、幕府の内部には、硬軟、樣々の議論があつて、その態度は、容易に決しなかつた。
 江戸城内には、征討軍を迎へて、もう一戰を試みるか。それともに恭順を表して、恐れ入つて了ふか。どちら途を行くべきか、といふのが、結局の議論であつた。
 小栗は極端な、主戰論者で、頻りに強い議論を、唱へて居たのである。
 『幕府には、有力な海軍が在るのだから、それを、二つに分けて、一つは、駿河灣の沖合に備へ、又一つは、播磨灘の沖に、送つて置けば、それで、戰争の大局は定まる。東海道筋を、進んで來る、官軍に尊しては、箱根の嶮を要して防ぐか、或は箱根から内へ、引込んで戰ふか。いずれにしても那の方面で戰ふて居る間に、沖合の軍艦から、新式の大砲で打ちかければ、只一戰で、紊まりは決いて了ふ。又、關西方面の戰ひは、中国を上る薩長、及び其味方の兵を、播磨沖から、横さまに、砲撃を加へて、その進路、若くは退路を遮断してしまえば、容易に勝敗は、決し得られる』
 斯うした事を言ひ立てゝ、しきりに、強がりの幕臣を、煽り立てたものだ。殊にふらんす公使と一種の密約が、あるかの如くに吹聴して、その應援を仄めかしたなぞは頭が働き過ぎて居る。
 此主張に尊しては、勝安房が、巧妙な反尊をして、小栗の議論や計畫を、片端から、打崩して居る。別の言葉でいへば、和戰の論争は、勝と小栗の智慧くらべでもあり、又、根くらべでもあつた。
 それであるから、小栗を偉い、といふ人は、自然、勝を貶すやうになり、勝に感心して居るものは小栗を以て、徒に戰爭に熱した,短見者として、排斥する傾きに、なるのであらう。
 公平な立場から見て、小栗の主戰論は、根拠が、何所に在るか、よく判らなかつた。假に、あの時小栗の主張通りにどこ迄も戰つたとして、その結果が、どうなるであらうか。  薩長の人達が、それ迄に、執つた手段には、ずいぶん無理もあれば、ひどい遣過ぎもあつた。けれども、時勢は、いつか知らず、徳川に、背中を向けて居たのだから、どうも致方がない。
 天下の事、すべて兵力のみを以て、所斷し得る、と考へたら、それは、大層間違ひである。形勢の動きには、時代思潮の流れが、反映して來る。政府の動きには、民心の向背が、眼に見えずに、働いて居る。さうした事を、考へる者が知者であり、それに背いて駆けて行く者は、愚者である。
 兵力の多いものが、必ず兵力の少ない者に勝つ、とのみは限らない。長州征伐は、どういふ譯で、徳川が負けたらうか。伏見鳥羽の戰ひに、一萬三千の幕兵が負けて、四千人の薩長軍が、勝つて居るこれは、どういふ譯だらうか。戰爭といふものゝ、味ひは、さうした所に在るのだらう。
 小栗は、斯ういふ事を、考へて居たか、どうか。如何に武力で、突つてみた所が、時勢進展は如何ともする事は、出來まい。小栗が考へて居た。策戰は、官軍の方でも、思ひ付いて居た者が無いとはいへない。大村益二郎が、小栗の策戰を、傳へ聞いて、ひどく感心した。といふ事、鬼の首でも、とつたようにして、小栗を、褒めて居る人はあるが、却て大村は、幕府の方で、さうした策戰に出るだろう、といふ事を、考へて居たのかも知れない。その圖星に、當つた事を聞かされたから、小栗は流石だと思つて、褒めたのではあるまいか。
 若し、然うだとすれば、小栗の策戰は、愈よ實戰となつて、その裏を、掻かれて居たに違ひない。幕府が、いかに強がつても、軍艦の五艘や六艘で、那の時の大勢は、いかんとも、爲し得るものではない。
 思ふに、勝は、それを考へて居たのだらう。勝利を得る時の事ばかり、考へて居て、敗戰の時の場合を考へぬものは、愚である。また、勝つたところで、その結局は、どうなるか、といふ事迄、考へて置かぬ者は、無知の徒である。
 勝が、那アした態度に出た事は、武士の意地といふ點のみからみれば、大に缺けて居たかも知れない。其代りに戰局を、縮めた功はある。戰局の狭まつた為に、一般の國民は、助かつた居る。同時に徳川も、罪を許されて、駿、遠、参の領主に、なつたではないか。  小栗は、自説が行はれなくなつたので、江戸を引拂ひ、自分の領地、上州の權田村へ、身をひいてしまつた。それは、賢明な遣方であつたが、大砲を、引張つて行つたのは、何の為か判らない。
 戰さを爲るため、とすれば、一門や二門の大砲では、何の用も爲すまいし、庭の飾物としては、あまり面白い物でもなからう。何れにしても、時と場合を考へなさ過ぎる、拙い仕業であつた。
 小栗が、強烈な主戰論者で、あつた丈けに、大砲をひいて、領地へ引揚げた、といふ事は、その實力の如何を問はず、小栗に尊して、好感を有つて居らぬ、思慮の淺い、官軍の將士には、何となく、一種の疑惑を有たせたに、違ひない。
 著者は、小栗の最期を見るにつけて、遺憾として居る。當時の事に就て云ふと、小栗ほどの、知者に似合はず、その態度には、どうも、疑ひを有たれる事が、少なからず在つた、と、聞いて居る。

 

 小栗の死は、權田村へ退いてから、間もなくの事であつた。その方面の、官軍を指揮したのは、豐永貫一郎、原保太郎で、小栗父子を捕へたのは、其手に属する、連中であつたが、いずれにしろ、その刑罰は、嚴酷に過ぎた、と、いふ事に、否と、いひ得るものはなからう。
 誰の考へにしてみても、一應は、江戸に送つて、取調の手續を爲るのが、當然の事であつて、出先の軍人――而も、今の事にしてみれば、中隊長程度のもの――が、自分勝手に、これ程の人を、處分してしまつたのは、どう辯疏しても、軽卒、殘酷、無法の批評は、免れ得まい、と思ふ。
 さればといふて、此事を、西郷や、板垣の所為として、獨斷的に、批難するのは、當らない。どうせ、戰爭の最中だから、跡になつて論ずれば、斯うした事に、似て居る出來事は、いくらでもある。
 著者は、小栗が逮捕された顛末や、殺された時の狀況を書いて、今の人の同情に、訴へる事は爲たくない。從つて茲にには、その時の公文書二三を、掲げて置く事にする。

 小栗上野介、近日、其領地、上州權田村に、陣屋等、嚴重に相構へ、加之、砲臺を築き上容易企、有之趣き諸方注進、難聞捨、深く探索を加候處、逆謀判然、上は、奉尊天朝、上埒至極下は、主人慶喜恭順の意に、相戻候に付、追補の儀、其藩々へ申附候、爲國家、協心同力、可抽忠勤候、萬一、手に餘り候得ば、本陣へ、可申出候、先鋒諸隊を以て、一擧誅戮可致事 右の通り、被仰出候間、御達申候、急に、盡力可有之事
   東山道總督府執事

  高崎藩主 松平右京 殿
  安中藩主 板倉主計 殿
  小幡藩主 松平鐵丸 殿
 右、回覧の上、各申合せ、追補可致事

                  小栗上野介
 右之者、奉尊朝廷、企大逆候條、明白ニ付、令蒙天誅者也
  慶應戊辰閏四月
                東山道先鋒總督府使員

                  小栗上野介
 右上野儀、今春於江戸、會津容保小笠原壹岐等申談、陰に、碓井嶮を拒絶致し、王師を相抗申候心得にて、其采邑上州群野郡權田村に引退、上時に、絶嶮之地擇、堡塁を構え、兵を募候、折柄、舊幕の苛政を恨候百姓共、蜂起致候に付、上野指揮にて、無謂民舎を放火し、無辜の細民を打殺、其上、申唱候には官軍たりとも、吾采邑え踏込候者は、壹人も上洩、打取可申など、非禮之申條、言語道斷に付、高崎、吉井、安中、三藩え被命、問罪師指向候處、器械を隠し、養子又一を降人として、高崎藩へ指出候に付、一旦、三藩引揚申候得共、何分、事跡暗件曖昧、依之、再三藩指向候所、已に防戰之用意を致候得共、夫々手配難行届、無擠、謝罪申出候に付、篤と取糺候處、雷火帽付鐵砲數十挺、土中に隠埋致置候より、益詰問、罪政判然、、深恐入候段申出候得共、其儘捨置候得者、越後屯集の賊に、謀を通、上容易場合に、可立至候間、即時、上野父子、並家來六人、打捨申候、且又、踏方闕所處置之儀、別紙の通り仕候、以上。
  戊辰後四月
                大音龍太郎

引用・参照

『勝海舟.その1』(新装維新十傑 ; 第7巻) / 伊藤痴遊 著 (平凡社, 1941)
(国立国会図書館デジタルコレクション)