『国際法より觀たる幕末外交物語』

 1-6頁  緒言

 幕末維新の政變は外交問題が核心を爲して居ることは言ふ迄も無いが外交問題は一面に於ては国際法の問題である。如何に歐米諸國が強者の權を無遠慮に振り廻はして世界的知識に盲目なる我邦に迫りたりとて、そうそう無理な行動ばかりでは通る筈も無く、また列國とて利害關係の異なるあれば相互に監視して一國のみに勝手な眞似は爲せない。それに外人を夷狄禽獸視したる攘夷家の多い當時のの日本だとて國際談判眞逆突然に斬つて掛る譯にも行かぬ。その内には上充分ながらも追々國際法上の儀禮にも慣熟して來る。世界の大勢に通じた識者も絶無では無い。唯々諾々一から十迄屈辱に甘んずるものでは無い。斯ふなつて來ると相互に接觸するに際しては其準據とする所は国内法丈けでは通用せぬ。どうしても世界に通ずる國際法の知識が必要になつて來る。世界に國が多いのに一國丈け鎖國といふことは萬國の公法にに反するといふ説明をすると議論の筋が通つて日本人の頭に這入り易い。左様な要求は萬國の公法に認めない處であると日本が強く出れば歐米諸國も夫れ以上強いことを言へないこともある。愈以て國際法は權威を有することになる。しかし常時相互に口にしたる萬國公法即ち國際法とは如何なるものかといへば頗る漠然たるものである。謂はゞ世界に通ずる純理、公道といふやうな道徳的軌範で、しかも何かしら絶大の權威を有するものゝ如く、彼は説き我は感じたのであつた。勿論彼我の知識に大なる逕底があつたから彼は自己に有利なる場合に主として國際法を説くも、我は之を利用すべく餘りに無智であつたのである。
 斯る狀態は維新の際迄繼續したのであつたが、維新となると尊外的に鋭意歐米諸國と尊等の立場に起たんと努めたると同時に爰に奇なる現象としては國際法は尊内的にも用ひられたのである。即ち在野黨時代に盛んに無責任なる鎖港攘夷説を以て幕府を攻撃したる西南諸藩が、一度政權に有りつくや翻然として其持論を捨てゝ開港を宜し、その理由としてこれ萬國の公法に據ると聲明したのである。これ以來國際法は盛んに在朝者に依りて唱へられ、甚しきに至りては内國償の償却も國際法に據ると宣言したるが如き滑稽事さへ生じたのである。
 斯くて『舊來の陋習を破りて天地の公道に基』づき、『廣く知識を世界に求めて皇基を振起す』べく大に努力したのであるが、世界の事情に明くなればなる程、萬國に通ずる純理なりと信じて居つた國際法が怪しく觀へで來る。結局は理論で無くて國力であるといふ方へ考が飛ぶと、今度無暗に外國が偉らくて怖くなる。嘗ては禽獣視して彼等が來れば神州が汚れると迄憤慨して房つた外人に尊し、今は文化國の優等民族として三拝九拜、唯是れ及ばざらんことを虞ふるのみである。其昔し槍を提げた鎖港攘夷の志士と、鹿嗚館裡に外人とダンスに興ずる紳士と同一人であろとは殆んど信ずべがらざる程の變りやうであるが、夫れ丈け我國の進展は急激なものであつた。斯ふなると富初は憫むべき未開國として寧ろ温情的に國際法に準據して導いて居つた列國も今度は生意氣なる半可通の國なりと目し侮蔑的の限を以てその鋒釯を露はし來つた。國際法は基督教國間の承認に依りて行はるとの原則は、國際法は基督教國以外に行はれぬとの解釈なりと爲し白人の本音を露骨に發輝し來つた。それは排日問題以上の大問題であるにも拘はらず冷静なるべき學者迄が當然の學説として臆面もなく麗々しく主張して居る。これを見た日本人は攘夷説當時の意気込を以で憤慨するか、思ひきや、時勢は夙に幾變轉して居る、文化國の學者の説であるから尤ではあるが、どうも少し腑に落ちかぬるといふ位の反尊説あるが、さりとて起つて堂々と挑戰するの勇氣は無い、否その勇気はあつても、これを辯駁する丈けの資料が無い。維新の元勳ともいはるゝ大政治家連も歐米各國と尊等になるには彼れに同化せねばならぬとて盛んに歐化主義を鼓吹して居る時勢では、學者だとて彼の學説に盲従せねばならぬ苦しい羽目となる。といふのが明治中期の有樣であつた。世界の第一等國として宇内に濶歩する今日の我國情から考ふると眞に隔世の感がある。
 しかし如何に貧弱なる我學界だとて何時迄も斯くあるべきでは無い。故高橋作衛博士は『日本歴史中に發見せらるゝ國際法概念』(le droit inlterntional dans l'histories du Japan)を者(ママ)はし、中村進午博士其他の著書等にも幾多の日本史料を採錄し、我國にも古來、国際法の概念があつたことを力説したのは日東國民爲め大に氣を吐くに足るのであつた。今や押しも押されもせぬ世界の強國である、此の如き努力を要したことは過去一場の夢となつたのであるから、態々其業蹟を繼ぎて史料を捜索するの必要なきが如くであるが、更に別箇の意味に於てこれ等先輩の研究を大成するの要がある。
 そは既に確固たる國際法上の地位を獲得し斯學の研究も堂に入つたのであるから、他の一般文化史の研究と同じく我國史料の検討の必要なばかりで無く。近世文化輸入の第一線に起つて發達し、國運の發展と密接の關係にある國際法の沿革は他の諸學科に比し其研究の必要なるは多言を要せないのである。それには諸先輩の如上の研究丈けでは甚だ物足らぬのである。固よりそれ等先輩の著述は我國に於ける國際法の發達を叙するのが主たる目的で無く、謂はゞ當面の急に應ずる丈けの史料として擧げられたのに過ぎたいのであるから完璧を期するは、求むるものゝ無理である。我等後進の學徒は幸ひに諸先輩苦闘の勞を知らずして愉快に斯學の研究に從事し得るの幸福なる丈け夫れ丈け先輩の充分に爲し遂げられざりし方面の研究を大成するの責務がある。
 余輩は曩に幕末維新の内部よりの觀察の一面として『維新前後に於ける立憲思想』を著し、聊か世に問ふ所ありしが、更に外部よりの觀察として國際法の方面より研究を爲さんと志したのである。しかし這は極めで難事である、若し其研究をして全からしめんとせば先づ外交史の全部を叙述し國際法外交史となさねばならぬ。これ余輩の如き微力を俟つ迄も無く他に幾多適當なる人士のあるあり、また此小冊子の能くする所に非ざるを以て、一切之を省略に付し、幕末維薪の外交史を熟讀せる讀者に尊する目的を以て、それ等の書に比較的軽視せられたる……換言すれば世の多くの外交史は文家の手に成りて法家的觀察に缺くる所あるが故に……國際法問題に、直接、端的に觸れたる點のみを主とし、時に或は一般外交史に洩れたる外交事項にも論及し、維新後の事項に至りては世其書に乏しからざるを以て重きを幕末に置き、茲に本書を成したのである。しかし斯くするときは勢ひ記述は斷片的たらざるを得ない、系統無く脉絡無く、混然雜然として幾多の短篇を蒐錄し、これを漠然たる章目の下に大別したるに過ぎないのである。これ題吊を國際法外交發達史とか國際法の沿革とか稱せずして單に『国際法より觀たる幕末外交物語』となしたる所以である。しかも物語と題すればとて趣味の饒なる讀物にあらすして索然蝋を噛むが如き記事の羅列である。所詮は科學的叙述にもあらずまた趣味的記載でも無い、畢竟これ學界無用の閑事業である。固より諸先輩研究の足らざるを補ふといふ如き大それた考は無い。若し世に閑人ありて一般外交史に倦て、他にいか物を欲するのとき、偶此書に嘱目するの徒あらば余輩の望みは足りるのである。

 347-392頁
 第七章 戰 争

 幕末に於ける頻々たる海警の内、露國の北海に於ける暴狀は擧國を震駭せしが、これは嚴格に戰争とすべき程のものでなかつたか、その突如として尊馬の占領を企つるに至つては我國の危機は眞に目睫間に迫つたのである。
 尊馬の地位の重要となつたことは前述の倫敦覺書、巴里覺書にもある如くで(第四章参照)英佛の注目を怠らなかつたが、文久元年の春英艦は尊馬に來りて測量した、露國之を聞き英國の野心を述べ尊馬の防備を嚴にすべきを説き、露國は砲臺も築き大砲をも貸輿すべしと迄勸説したが、幕府は之を拒絶した。然るに二月三日露艦ポサジニカ號は突如、尊馬淺海内尾崎浦に投錨し、船體修繕を吊として食料の供絵を求め或は要害の貨輿を請求し、空砲を放ち恣に伐木し、近海を測量し所々錨地を變更し、傍若無人の擧動を爲したる末、艦長ビリレフは藩主に尊し
 英國は幕府に尊し尊馬の貸輿を求めたるも許されざりしより多數の軍艦を派遣し、當國を押領するの企てあり、正義を元とせる我露國皇帝は傍觀するに忍びず、軍艦を繋留して英國に備へんとせらるゝなり、その爲め芋崎の地を借らんとす、その土地借用の謝禮として五十門の大砲を献ぜん
とで藩主に告ぐべきを以てし、晝ケ捕村芋崎内古里浦に林轉し、先づ芋崎にて小屋掛敷地を借受け木材、工匠等の供給を要求した。尊馬藩吏は已むを得ずその供給を承諾し、藩主との會見は之を延ばし、長崎奉行に急を報じたが、露艦は益暴狀を極め、四月十二日には端艇にて大船越の關所を通過せんとし、藩士と衝突し、死傷あり、藩士の憤激は強調し來りて一戰を試みんとしたが藩主は之を慰撫し急を幕府に報じた。五月一日には長崎奉行支配組頭永持亨次郎一行來着し、ビリレフと會見したるが要領を得ず、之より先き露艦來泊の第一報は四月二日江戸に達せしかば、外国奉行小栗豊後守、目付溝口八十五郎以下を派遣し、一行は五月十目ビリレフに會見談判し、藩主に會見せしむべしと約して同地を引上げた。廿五日ビリレフは數日前來着した僚艦の艦長ヘシチウロフを伴ひ水兵四十餘吊を率ひて府中に至り翌日蒋主に面會したが、數日後に至り芋崎より晝ケ浦迄の土地貸輿の承諾書を得んことを要求した。藩吏は之に應ぜざりしより更に
 淺海浦は霧人堅く守るべき事
 芋崎晝ヶ浦間は露國に割輿すべき事
との要求を提出して談判益困難となつて來たのである。
 幕府にては事態の容易ならざるを虞へ、函館駐在の露國領事ゴシケウヰッチに尊し露艦を退帆せしむべき旨を談判し、一面英國公使アールコツクに相謀る所があつた。英公使は英艦隊をして尊馬に至り露艦を退帆せしむべきを諾した。七月二十二日英公使館書記官オリフワントは対馬に來着し英將ホープの率ふる艦隊も來航した。之より先き露領事はポシエツト、ヲリカに在る海軍總督リハチョフに移牒し、リハチョフも英國の干渉に依り已むを得ずビリレフに退艦の命を傳ふることゝし露艦オフリチニツクは此命を受けて尊馬に來つて僚艦に傳へた。
 斯くて八月十五日ビリレフはポサジニカ艦にて尊馬を去つたが、オフリチニツク艦のみは猶ほ留まつて居つた。これより先き退艦せしむべきの命を發した總督リハチョフは箱館に入港せしより箱館奉行村垣淡路守は交渉して露艦を対馬に遣り、ポサジニカの退帆を確かめんことを以てし、リハチョフは之を諾しアブリヤク號を尊馬に發遣した、斯くて同艦は尊馬に来着したが、ポサジニカ艦は出帆したる後なりしも、ヲフリチニツク艦は芋崎にありて横暴を極めつゝあつたから、其命を傳へたる爲め、八月二十五日、ヲフリチニツク艦出帆し、續いでアプリヤク號も出帆し、これにて永き川題も漸く解決した。
 斯くて此事件はこれ以上の問題とならずして濟んだが、次に起つたのは、英艦の鹿兒鳥砲撃と聯合艦隊の馬關砲撃とである。此兩事件共あまりに有吊で、其詳細も知れ渡つて居るから、茲には直接、國際法に觸れた點のみを略叙せんに、
 其前に一言すべきは鹿兒島灣砲撃の原因は生麦事件であるが、その眞相はこれ迄明瞭になつて居らなかつた、この事に付ては拙稿『生麥事件の眞相(歴史地理第三十七巻第二號乃至第四號)を参照せられたい、只だ其結論のみ要約すれば左の如くである。(附録第一参照)
 文久二年八月二十一日(一八六二年九月十四日)薩藩島津三郎從士數百吊を率ひて川崎町(神奈川縣橘樹郡)を發し生麥村(同郡生見尾村の内)に差懸りしとき、午後二時半頃同村勘左衛門(同村字本宮五百九十八番地)方宅前に於て、横濱より馬上にて來れる英人、リチヤードソン、マーシヤル、クラーク、ボラデール婦人の四吊の一行に出會したるに、外人一行は島津の行列の左側を徐行し、薩藩士の引返せよとの合圖に依り馬首を轉じて將に歸らんとするとき、島津の從士供目附奈良原喜左街門は刀を抜きて、リチャードソンに斬り付け、左肩胛より左上膊に亘り長さ約四寸の切創並に左腹部に横走せる切創各一個を負はしめ、踵いで從士數吊は各刀を抜き外人一行を襲ひ、マーシャルの左背部に一個の切創、クラークの左肩胛に深さ骨を貫き左上膊の切斷せられんとする切創一個を負はしめ、ボラーデルの帽子並に頭髪の一部を切斷せり、外人一行の逃れんとするや、約一町餘前方に在りし島津の從士鐵砲組久木村利休は、路に要して刀を振つてリチャードソンに斬り付け、左腹部に横走せる長さ十六吋深さ肋骨を切斷せる切創、左手甲に長さ二寸餘の切創各一個を負はしめ、續いてマーシャルの左腹部に折斬り付け、一個の切創を負はしめたり。負傷せる外人一行は猶ほ逃れんとて、馬上約八町餘を駈りて桐屋源四郎(同村五百四十三番地)方前に至りしときリチャードソンは右腹部の傷口より滲出せる腹部脱落し、氣力殆んと盡き、約二町餘を距る同村字並木(一に松原といふ里俗神明前ともいふ)甚五郎方(十一番地)附近に於て落馬し、復た起つ能はざるに至りしが、追ひ來りし島津の從士梅江田武次(信義子爵)奈良原幸五郎(繁男爵)等六吊は之を附近の畑に引摺り行き、各刀を振ひて同人の右腕首を殆んど切り落し左顋より胸部にかけ長さ八寸の切創一個、咽喉部に刺創一個を負はしめ是を慘殺せり、他の負傷外人は辛ふして現場を逃れ、マーシャル、クラークの二吊は神奈川本覺寺内なる米國領事館、ボラーデルは横濱居留地カヴァー方に達するを得て、直に醫療を受け死を免るゝを得たり、右殺傷の原因は上明なるも島津一行は平素外人を嫉視すること甚だしく、機會あらば之を斬殺せんとするの意圖あり、加之現場に於て彼我意思の疎通を缺くあり終に此事變を生ぜしものゝ如し、一説に右殺傷は島津三郎の使嗾に出づとなすものあり猶ほ考ふべし。
 これより彼我の交渉談判と爲つたのであるが、四月四日佛公使よりも
 今般英國政府より殺害一條ニ付日本へ請求候義有之、此義ハ佛蘭西政府ニ於テモ英國ノ法ヲ尤卜存候、其子細ハ一體世界ノ人民ハ互ニ懇親ヲ以テ附合可致ハ萬國之通法ニ候處日本ニ於テハ其通法絶テ無之、猥リニ外國人ヲ殺害致シ候抔全ク戎狄ノ可致振舞ニ御座候、此度英國ヨリ申立候義ハ實ニ正理卜相心得候ニ付、佛蘭西ニ於テハ斷然英國ノ加勢致シ江戸海ニ佛蘭西ノ旗章ヲ飜シテ亂暴相働候積リニ付此段豫メ申上置候。
 との申入があつた、譯文頗る亂暴ではあるが、當時外交團の意嚮は大體こんなものであつたらう。恰も此頃攘夷期限問題で輿論が沸騰し、朝廷よりも屡幕府へ催促があつたから、幕府は英國要求の償金十一萬磅を英國に支拂ひ、踵いで各國公使へ鎖港の交渉を爲したるに、英公使は是れ最後の通牒なりとて嚴重なる抗議を申込んで來た。
 閣下將軍ノ命ヲ奉シテ下吊ノ英國辨理公使へ各國公使卜連吊ニテ投セラレタル異報ノ趣、領承驚愕ノ次第ナリ、別段何タル御明解モ無ク、斯ル粗暴ノ御報アルハ余カ萬々解スルコ卜能サルコトナカラ、先ツ此ハ暫ク閣キ、余ハ窃ニ考フルニ貴國ノ皇帝及將軍トモ、今、閣下ヲ經テ余輩ニ達セラレタル如ク、諸港ヲ鎖シ條約國ノ人民ヲ逐拂ハン抔ト御決意アルハ、恐ラクハ是ヨリシテ日本本國ノ大災厄トナランコトヲ御熟知ナキヨリ起リシ儀ナル可シ、英國ノ辨理公使タル余ヲ以テ之ヲ觀シハ、苟モ貴國ノ政府タルモノ、將来臍ヲ噌ムノ大悔ヲ起スヘキ、斯ル粗暴ノ擧動アランヨリ今少シク熟慮ノ仕法有ルヘキ筈ナリ、若シ今ニシテ其計ヲ爲サスンハ英國ハ如何ナル方便ヲ以テナリ𪜈、既ニ貴國卜條約國タル以上ハ、飽クマテモ其條約國ノ義務ヲ盡シ從來ヨリキ猶ホ一層満足ニシテ且ツ堅固ナル取極ヲ貴國と取結フノ手續ニ掛ラサルヘカラス。其手續ノ如何ハ如今或ハ天皇及將軍モ御料知ナキモ計り難シト雖トモ然ル場合ニ至ラハ眞ニ日本國ノ大災厄トナラン也。
 依リテ愈閣下報セラレシ如クナラハ遺憾ナカラモ、英國政府ニ於テモ之ニ應スルノ處分ナカルヘカラス、事一タヒ此ニ至ラハ最早其後ノ貴國ノ方便ハ却テ無用ニ歸スヘキハ余カ職トシテ預メ茲ニ警戒セント欲スル所ナリ、余又爰二一言ヲ献セン、想フニ閣下之ヲ將軍ニ傳ヘ、將軍ハ必ス之ヲ天皇ニ奏セラルゝヘシ、何ソヤ曰ク、今閣下ヲ經テ余輩ニ達セラレタル貴國政府ノ通信ノ如キ、向フ見スノ文書ハ其國ノ開未開ヲ論セス古來未タ嘗テ萬國歴史上ニ於テ見サル所ナリ、請フ見ヨ其文書タル、實ニ條約諸大國ニ尊シ日本ヨリ兵端ヲ開クノ布告文ニ非スシテ何ソヤ今ニシテ速ニ其文書ヲ駐止セスシハ貴國ノ蹂躙セラルコト實ニ近キ在ル可キナリ、謹告。

 千八百六十三年六月二十四日(文久三年五月九日)
                        英國公使 ニ ー ル
     幕府執政宛
 その他、米、佛、蘭、普等よりも各これと同趣旨の抗議が來た。これはそうありそうなことである。苟も一旦結んだ條約を一旦の通牒で廃棄せんなどゝは亂暴も甚だしく到底行はれないことは解りきつたことであるが、國内の攘夷黨は單純にこれが出來ると思ひ、幕府は最後の通牒にはなると迄は思はなかつたが其の實行は上可能とは知りつゝ體裁上こんな飛んでも無い羽目に陥つたのである。勿論此義は行はれずに外交は益困難となつたのである。
 これより先生麥事件の談判切迫し、今にも戰爭に及ばんとするや、神奈川奉行より英公使へ
 神奈川表ニ於テ上容易談判、若レ事切ニ及ヒ戰爭ノ一左右、江府ヨリ到來致候ハゞ、其段相達候刻限ヨリ二十四時西洋四十八時限り當港退帆ニ相心得、右刻限内双方ヨり粗忽ノ振舞無之樣打合致度候間、軍艦船將ヘモ被申談否ノ趣、早々被申越候樣致度候 謹言
  亥三月二十五日               大久保豊後守
と通し、此趣旨は仝國へも達したので長崎奉行も
一、神奈川ニ於テ愈御手切ニ相成候左右御分候節ハ二十四時間ニ居留所各國人一同引拂可申旨、談判致置候、其船々番士並ニ繋船等ハ運上所屋上ヨリ赤旗相振り次第、即刻引拂可申候事。

一、懸リノ者ハ螺貝相鳴シ次第、在宅ノ者即刻運上所へ駈付可申候事
ち達した。
 また臺場へは
 英國軍艦内海へ駈入、防塞ノ爲メ、御臺場最寄澪筋へ、旭日丸千秋丸並茶船等へ石類積載セ
 貯置キ萬一非常ノ節ハ右澪へ沈メ英國駈入候ヲ立切候事
 といふ大變な防禦命令も出た。
 しかし、幕府は英國へ償金を出し、ほつとした間も無く、馬關で外船砲撃事件が起きた。
 文久三年年五月十日米船ベムブローク號、同月二十三日佛艦キヤンチヤン號、同月二十六日蘭艦メヂユサ號、六月朔日米艦ワイヨミング號、同月五日佛艦セミラミス號及びダンクレート號は下の關通航の節或は砲撃せられ、或は戰端を開きたることありしより各國公使は幕府に迫り、英公使よりは

【生麥事件償金支拂】

 今般長州侯ノ暴戻ニモ佛米及ヒ和蘭ノ軍艦ヲ砲撃セシハ、余ヲ以テ之ヲ見ルニ、是レ必ス過日幕府ヨり傳達セラレタル攘夷ノ勅旨ヲ遵奉セシヨリ起リシコトナラン、此一條ニ就キテハ、佛米英及ヒ和蘭ノ諸公使、既ニ本月二十五日會議ノ上決斷シタル旨モ有之、廣大無限ノ勢力ヲ以テ其暴戻ヲ撃破致スヘキ積リナリ、若シ夫ノ嚴粛ナル各國トノ交際條約ヲ斯ル猛悪無法ノ擧動ヲ以テ破壊セントスルノ企ヲ尚モ迅速ニ癈棄セサルニ於テハ一年ヲ出テスシテ日本國ノ運命果シテ如何アルヘキカ、此ノ位ノヿハ固ヨリ知アルヘキ筈ナリ、然レ𪜈其交際條約ヨリシテ日本國ノ各國ニ負ヘル至大ノ義務ハ天地ノ盡キサル限リハ暴力ヲ以テ破毀スヘカラサル世界ノ公法ヲモ或ハ未タ辨知セサル大吊アリテ猛悪無謀ノ擧動アルニ於テハ日本國ノ人民モ其大吊ノ無知兇猛ナルカ爲メニ遂ニ測ラサル塗炭ニ陥ルニ至ルヘシ、然レ𪜈大吊ノ猥リニ干戈ヲ動シ、又ハ他ノ暴行アルモノハ之ヲ誅罰スルヿ、幕府ノ權内ニアルヘキ旨、近頃執政方ヨり佛國公使ヘ御報知アリシト聞ケリ、若シ果シテ然ラハ、幕府宜シク速ニ長州ノ砲臺ヲ毀チ其熕砲ヲ鑄鎖スヘシ。
 世界文明國ノ確法トシテ國旗恥辱ヲ與ヘラレタル程、國家ノ忿恨ヲ譲スモノナキハ幕府ニ於テモ豫メ之ヲ體認セスンハアルヘカラサルナリ。
 合衆國佛國及ヒ和蘭ノ国旗ヲ颺ケタル船舶ニハ、何レモ長州ノ砲撃ノ爲ニ多少ノ死傷アリタルニ付、其諸船舶モ長州ノ軍艦及ヒ砲臺等ニ聊カ手初メノ罰ヲ行ヒ置ケリ、尚ホ時日ヲ移サス、都テ其砲臺ヲ打毀タサルヘカラス、第一長州ヨリ砲撃セラレタル外國船ハ即チ米ノ「ペムプローグ」號ニシテ六月二十六日(五月十日)ノヿナリ、爾來既ニ三十日ヲ過ギタレバ、幕府ニ於テモ果シテ其權力
アリトセバ最早是レマデニモ其大吊ノ罪ヲ取糺しシタルベキ筈ナリ、謹言
 一千八百六十三年七月二十八日
 文久三年癸亥六月十三日        公使 ニ ー ル
との抗議を提出した。一片の通牒で條約を破らんとするさへ亂暴なるに今度は兵力に訴へて條約を癈棄せんとするのであるから各國公使は黙止すべきでは赳い、外交は益困難となつたのである。
 一面英國は幕府より償金を受収りしにも拘はらず、猶ほ薩藩に尊し、罪人引波し遺族扶助料等として二萬五干磅の要求を爲し、七隻の艦隊は六月二十七日(八月十一日)鹿兒島灣に入り、談判上調の結果、ヒ月二日(八月十五日)戦端開け、互に死傷あり七月四日英艦は引去つた。此戰當時には薩英双方共自分の方が負けたとて憤慨したのであるが、後日になり双方共自分の方が勝つたといつて居るのは滑稽である。此戰の際英艦が錨を棄て行きしを、其後薩藩が無條件にて返還したのは國際法に無智なる爲めなりとか、否英國は其厚誼に感じたとかといふ説は喧傳して居るが左程の問題でも無かつた。
 此の時の談判は
 戦争の時分にあちらでは扶助料請求の質物とする積りで、鹿兒鳥の商船三菱、鹿兒鳥灣のズツト奥の方に避けさせてあつたのを探し出しそれを引出して質に取つたところが、最早談判破裂と云ふことになり戰爭が開始されました、其時直く向ふでは其商船を三隻共燒き捨てたのであります、それで船をなぜ奪つたかと云ふことを此方から詰問を始めました、向ふで言ふは生麥で英國人を無法にも殺戮しながら、相當なる挨拶をせぬのはどうであるかと咎めると云ふやうな談利の仕口になつたのであります、そこで船をなぜ奪つたかと云ふことに付て、英の方で答へるに、それは此方から請求したことがあつて、其請求に應じないときには其所にある物品を押へて談判に及ぶと云ふことは、是は萬國公法にある、とさう云ふことを主張する。併し萬國公法と云ふものは此方では知らないと言ひ、又今度は生麥で外國人を斬つたことはどうかと云ふと、それは我邦の大吊の行列に觸つた時は斬捨でるといふのが法である、それは叉向ふでは分らぬ、向ふの法にあるといふことは此方が知らないと云ふやうなことで、詰り談判の仕樣がさう云ふ風になつて來て、何だか曲がどつちにあるか、ムチヤクチヤなやうな次第になりました、ところで詰り比方は萬國公法がどうと云ふことは知らす、海賊のやうに人の船を奪つたから鐵砲を打つたのである、又最初より平和の談判の積ならばなぜ軍艦の七隻ら向けて然も砲門を開けて居たか、併しながら大吊の行列を犯せば殺されると云ふことを知らなかつたなれは、それを殺したに付て扶助料を請求するのも尤もの譯であるから、それは拂ひませうと云ふやうな風になつて其以前の曲直を判然と極めないことにして、そうしてやはり扶助料はあちらの請求通りに出す、斯ふ云ふことで纏りがついたのであります(維新史料編纂會講演速記錄第一輯小牧昌業「生麥事件の顛末」)
といふ有様であつた。
 斯くして薩藩は遺族扶助料三萬弗(七萬兩)を支佛ひ此事件の局を結んだ、時は是れ文久三年十一月一日であつた。
 我國では此事件はこれで解決されたが、反つて英國議會の問題となつた、上院にてムロハートケレーの演説の一節に
 日本の法律にて大吊の前には如何なる者たりとも、必らず馬より下り禮を爲さゞるべからず、然るに英人は馬より下るを嫌ふのみならず、大吊同勢の側を乘り行かんとせり、英人の説にては大吊の前にて馬より下ることは文明人の爲すべきことにあらすと云ふと雖、若し英人自己の用事にて日本地内に入り込み古來よりの法律にて取扱はるゝも決して怒る能はざるべし、且つ日本人は古來よりの習僻にて商人を最も劣等なる者と定めたれば、最も貧しき職人たりとも最も富みたる商人よりも上等の者となす故に商人は大吊に向び失禮なる事を爲さば如何なる取扱を受くるも之に違背すべからず、  我國人日本人の情を知ることなく、大吊同勢の側を乘り行くを以て英人に法律を嚴重に守らしむへきことを我方へ談判すへし。
 リチャルトソンの殺害されたるは途中にて勢強き大吊へ出逢たる故也、斯の如くにして人命を害したるは餘りに暴虐に過ると雖、英國政府が其償金を要求するは實に國法を破り正義に反したる處置なり、此償金を得んが爲めに其大吊に向ひ戰爭を爲し女王殿下の船に數多の搊傷を受けその繁華なる都府を灰燼となせり。
 以上の事柄を一々正當とせば諸君は左の結論に到達すべし、曰く此關係繼續するならば英國と日本との間に兵端を開くべし、然るときは我國も日本も多くの費用を來し、且つ夥多の人命を搊し若し日本政府が之が爲めに滅亡することあらば之に代るべき政府の存立する迄日本に大なる禍を生すべし。
 我政府にて日本政府の交渉に尊し兵力を以て断行せんとしたるを以て千八百六十三年第十一月外相より日本海に在る英艦隊に尊し自由行動を執るを許したり、先年此の如き事件を議會にて議したるとき有吊なるウエリントンの説には女王殿下の臣民たるもの自己の意見のみにて行動することは甚だ危険なるべしと述べたり、實に海軍将校に外交を任するは上可なり英人は半開國民を取扱ふに極めて粗暴なる以て必らず本國政府の指揮を受けしむるを要す。
 既に近年亜非利加の海軍にて海軍將校に一任したる事より大害を起したることは我政府の熟知せる所なり。
 我政府にては日本と戰ふ幾何の難事なるやを知らざるなり、余の意見にては日本と幾何ふには少くとも五千の兵員を要すべし。諸君熟考し袷へ、日本は支那人とは全く異り勇氣強く常に兵器を携へ少しく耻辱を蒙れば忽ち生命を擲ち其復讐を爲すを望む人民なれば支那人と戰ふと同樣の心にて日本人と兵端を開かは大なる敗北を爲すべし、日本と戰を如め海岸の守兵を殺し城を燒き其後内地へ侵入せば日本人必らす山谷の間なる要害の地に據り大に我兵を害すべし、且又戰費の夥しきことは支那にて二ケ月の戰爭にて八百萬ポンドを費したるを以て見るも明かり、日本人は英人より多く劣りたりといふ能はず、彼等は既に蒸氣器械を製造するを知り歐羅巴の兵器を買入れ米國よりライフル銃を得たるを以て我國より彼等向つて兵端を開くことは熟考を要す已に鹿兒島の戰爭に鑑るも日本との戰爭は小兒の戯にはあらず我方にで多くの敗北を蒙るべし、又我方にて十分の勝を得ることありとするも大なる困難を惹超すべし、余は戰爭の勝敗を考ふることなく其後の結果に付き考慮するものなり、若し我方にて能く日本の兵を敗り新に條約を取結ふに至らば現に取立てたる償金よりも巨額の償金を取立つるや必せり此の如き暴逆を爲さは日本人に如何なる害を與ふるや計り難し、近く支那の例を鑑むるに始めの二十五年前に我國にて條約を取結たるときは、田野十分に開け人口も多かりしに戰後は政府の權威大に衰微し國中大に騒擾を來たし以前の繁榮なる土地皆荒蕪地となり、數百萬の人命を搊し生き殘りたる者は食糧に究し人肉を食するに至れるの風説あり、日本も之と同しく日本の政府忽ち共權威を失ひ英国の力にては之に代つて新に政府を建つるを得す故に諸君、勉めて此禍にて日本を苦しむることを救ひ之が爲めに現條約を變し更に良き新條約を締結し兩國共に永く親睦の意を表すべし云々
 アールユセルの意見は
 リチヤルドソン殺害に付き我方より償金を出さしめたるは正理に背きたりといふといへとも、余は之に反尊なり、其理由は英人四吊(但し内一人は女)政府より馬上にても歩行にても自由に
通行を許したる道路に於て強大なる大吊に出會ひしかは路の傍に寄り控へたるに急に此大吊同勢に襲ひかゝられ一人は殺害せられ共他の者は創傷を蒙りて横濱に逃れ歸れり、此の如き亂暴を爲したるに因り償金を出さしめたるは正理に背きたりといふべからず且殺害したる者を尋出し其罪を糺さんとしたれ共薩摩侯は之を聞入れさるを以て、終に其城下の港に軍艦を差遣し其船二艘を奪ひ當然なる償を爲せり、薩摩侯は人命を搊するを憂へ前以て城下の人民に戰爭を爲すへき由を布告して立退かしめ其後我軍艦に向ひ發砲せり、此際我軍艦は之に應して登發するを避け遁󠄀路を得べきや若し此の如く爲さは以後日本人英人を殺害することを少しも畏るゝの心なかりし故に已むを得すアドミラールより砲臺に向つて發砲の令を下し悉く敵の砲臺を打破りしが折節大風吹きたるを以て城下の家は木及ひ紙にて作りたれば火忽ちに人家に移り城下は多く燒失したり、此戰にて砲臺にある敵兵中に死したる者ありと雖無益に人民の生命を害することなく又城下は速かに建直りしかは貴君の説の如く日本人は左程大なる禍災を受けたることなし、此一戰に依つて薩摩人英人の強きを知り其後外国人と親むの意を致せり、然るに貴君の説にては此一戰に爲めに日本と遂に兵端を開くに至るべしといふと雖余は此一戰に反つて日本と親睦なる交を結ふの原由となり英人を殺害したる者を其儘にて罪を糺すことなく捨置くかは兵端を開くに至るべしと思ふ云々
といふのもあつたが、市街砲撃問題よりも條約問題の論争となりて、終結した。
 それから又各國公使は拒止砲撃の抗議を幕府に提出したが要領を得なかつたから、各國公使は會議を開き愈各國軍艦を以て馬關攻撃に決した。
 夫れ江戸と横濱とは所謂目と鼻の先なれば啻に四國同盟艦隊を編制して馬關を攻むるの議は外國人中にて隠れなき風説にて誰知らぬ者も無き程なるか上に現に其戰艤を月撃したる上は幕吏は決して此議あるを知らざりしには非さるなり、否、知らさるは扨置き其前よりして夫々の通知を四國公使より受たりしなり當時外國奉行の内にても尤も幕閣の信任を得たりし竹本淡路守か横濱に於て英國公使より公然の告知を得たりしは決して幕府の秘密には非さりしなり幕府として其内閣有志みな眞正に國家を思ふの士たらしめは其成否は問ふに邉あらす死力を極めて四國の艦隊か馬關に向ふことを拒止し聴かされは幕府の兵力を以てなりとも之を差止べき筈なり而して當時の實況に就て察するに若し幕閣決意して四國の公使に應接し長州か外國艦船を猥りに砲撃したる罪過は幕府斷然これを處置すへし四國に尊するの謝罪償害は幕府決然その責に當るへしと申込て誠實に其然るを示したらんには四國公使も亦必らす之を應諾したるを疑はさるなり是豈に幕府か政府たるの當務に非すや然るに當時幕閣の所爲は全く之に反し其外國奉行をして四國公使に言はしめたるの跡を見るに陽に之を拒止して體面を装ひたるたけにて閣老参政は自から其局面に當て拒止の談判に及ひたるにても無く甚しきは此通を得て内心密かに喜ひ馬關の一撃にて長州の敗牝せんこと明かなれは幕府は手を濡らさすして先づ毛利氏を敗り是を處置するに大なる便利な得べしと恰も長州征伐に一大應援を得て外國軍艦の力を假りて長州征伐の先鋒となすか如くに考へ糧食石炭みな買人るゝ所に任せ遂に横濱港を以て四國の同盟艦隊か馬關を攻撃するの出征根據地たるの狀あらしめ更に大害の是よりして起るべきを意とせざりしは幕閣の心底去とては甚た淺ましき次第なりき(幕府衰亡論)
 此時故国の急を聞きで英國より歸りし二青年、伊藤俊介(博文)志道聞多(井上馨)は葡萄牙人と稱して横濱に居り、英艦に剳じて長州に至りしも策の施すべき所が無かつた。
 斯くて聯合艦隊が將に横濱を出帆せんとするの時、前述(第四章参照)池田筑後守の一行が歸朝した。此使節一行は一八六四年六月二十五日(元治元年五月二十二日)巴里に於て一の條約に署吊したが其第二條に
 日本政府は佛國船の下ノ關海峡通航の妨害を除却すへく時宜に依りては佛國海軍、指揮官として協同して事を處すべし
とありて、所謂幕府と佛國との秘密同盟と稱せらるゝものゝ一條項である。
 此事は早くも佛國公使の知る所となりしより、暫らく艦隊の出發を見合したるに、幕府は池田筑後守等を懲罰に虚し、該條約を批准せず、その旨を公使に通じたるより聯合艦除は遂に横濱を出發した。
 その時の各國公使より各國海軍士官に達した要旨は
 各國海軍士官は横濱の警衛を顧慮することたく、便宜速に下ノ關に行軍し、長州の砲臺を撃破し、長州をして此後暴擧を企つるを得さらしむる策を行ふへし。若し長州我か海軍の勢に 敵すへからさるを知り、兵を弄せすして和議を講することあるも將來の患害を除かん爲に、

【聯合艦隊陸戰隊前田村砲臺占領】

 堡砦及ひ兵器等は都て之を打壊し置くへきこと。
 右の事件を取行ひたる上は、結局の談刊は皆之を幕府及ひ各国公使の任に歸し、決して長州侯と彼是約を結ふ樣のこと有之間敷事
 動亂を醸す患いもあれは精々大阪邊に行軍の報の傳播せさる樣注意し、且ッ此行軍は浮浪の徒か又は海賊を征討するの一擧に過きさる儀と見倣すへき事
 以上諸般の事、皆滯りなく相濟みたる後は精々速に横濱に歸るへき事云々
   千八百六十四年八月十五日         各國公使
 佛艦先ヅ發し踵いで各國軍艦も出帆した、總敷英艦九隻、蘭艦四隻、佛艦三隻、米船一隻
 合衆國軍艦ジエームスタウン號は特に横濱港警備の任に當れり當時合衆國は南北戰爭中に在りて其海軍艦船は皆他に任務を有したるを以てジエームスタウンは日本海面に於ける唯一の米國軍艦たりしなり(米國尊東外交)又英國は海軍歩兵一聯隊を香港より召集して横濱に備へた。(聯合艦隊の内に伊太利軍艦(又は汽船)が加はり若くは觀戰し居りしやの證跡あるも正確なる史料は缺如して居る)

 戰は八月五日(九月五日)に始まり八日迄つぎ繼續し、長藩悉く敗れ、聯合軍は二千人を上陸せしめ茶臼山を占領し、諸砲臺を毀ち、武庫及火藥庫を燒き大砲を捕ッた。
 爰に至ツては長藩は無條件降伏より外に策は無い。
一、今日より以後總て外國船馬關通行之節は懇切に取扱を加ふべし
一、石炭食物薪水其外船中入用の品物賣渡すへし
一、馬關は海灣風濤よき所故、風波の難に逢し時は無障上陸すへし
一、新規に臺場を調るは勿蕭古き臺場を繕ひ大砲置間敷事
一、馬關町より始、外國船に向ひ發砲そしにより此度可及燒失處、燒かざる故、其償金を出す事、其外に軍の雜費を出す事之二ケ條は江戸に於て四ケ國欽差より決定するの處置承知致す事
 右は今度合戰を止むべき迄に取結ぶ條約にして日本政府と外國と後來長州の事に就て取捌べき事に上拘事
  元治元年八月十四日         松平大膳大夫 花押
 これがその講和條件であつた。事はこれにて濟まぬ各國は幕府に迫つて償金三百萬雨を要求した、その條約は第四章に掲けて置いたから参照せられたい。
 幕府は財政缺乏の際であつたが、之を拒む譯には行かず、償金額は其後に至り輕減せられ維新後に至り漸く皆濟したが、米國は明治十六年四月之を我國に還附することゝし米貨七十八萬五千弗八十七セン卜を還附し來つたのは有吊なる事柄である。
 以上は尊外關係に付き配述したのであるが、國内戰爭に於て榎本軍の國際法に準拠したる行動は特記に値するから以下に之を略述せん。
 文久二年幕府より和蘭へ軍艦を注文し同時に留學生を派遣した(第一章参照)榎本釜次郎(武揚、子爵)等外八吊其選に當り之に赴き、慶應二年艦成り之に乘しで歸朝した、幕末の雄艦開場丸茲に於て幕府海軍の有となる。
 開陽、噸數三千餘噸、四百馬力、砲二十六門を有す、當時我邦諸藩の軍艦四十餘隻ではあるが其最大なるものも千噸を出づるも僅に一隻で、他は多く二三百噸に過ぎず、其甚しきに至りては商船と軍艦との區別を知らす、又海軍と陸軍との區別を辨せざりし時に際し幕府に此有力なる軍艦を加ふ海上り雄風知るべきである、歐洲新式の兵學を専攻し此雄艦に艦長たる當年の榎本子の得意や察するに餘りある。
 榎本は歸朝後累進して海軍副総裁(ロイトナントアドミラール)となつた。常時の幕府海軍は凡て歐式に則つたので今日海軍の徽章たる錨章の如きも實に此時の創設に係るのである、此頃諸藩往々歐式の兵制を採用せりと雖その朊装の如きは宛然「ポンチ」であるが、榎本の寫眞を見ると、そのハイカラ姿には一驚を喫する。
 慶應四年正月兵庫港に於て幕艦、開陽、蟠龍等、薩艦、春日、翔凰と戰つた。その始め薩艦より幕艦へ談判委員を派するに當り其行くべき方法を知らなかつたが、佛人モンブランに聴き白旗を掲げて赴くべきを知り、春日艦長赤塚源六、之に據り蟠龍艦に至つて談判した
赤塚曰く、
 昨夜我附屬の蒸汽船、用向ありで出港する時、貴艦より何等の應報も無く、無法に砲發し、就中一彈は破裂彈にして大害を與へたり、右は如何なる譯にて此の如き暴動を爲されしや御返答承りたし

【榎本釜次郎(武揚)】

 幕將澤太郎左衛門、榎本長官に代りて答へて曰く
 當艦より昨夕砲發なせしは決して無法に爲したる譯にあらす、貴君も海軍の御方故定めし御承知もあるへし、戰時には敵船其場所を脱し去らんとするを見れは、空砲を其船に向つて放つ、是れ止るへしとの信號なり、若し其に應せす益同し方向に進行する時は止を得す實彈を發射して戰爭を促すは海軍の公法なるに依り、已に昨夕貴艦の一艘、蒸汽を強め出港し沖の方へ進行するを見るや、當艦直に尾行し、先つ空砲一發を放ち其信號を爲せしも是に何等の應答も無く無斷に沖合へ急航するに依り餘義なく實弾を以て發射したり、決し闇討ち如き無法の砲撃は到さす候。
 そこで薩將は論鋒を一轉して今は戰時にあらすといふを以て詰問の理由とした、海軍司令長榎本和泉守(武楊)は之を開陽に迎へ答へて曰く
 昨冬、江戸詰の尊藩士多人數上都合の筋有之、依つて糾問の爲め高輪の御屋敷へ弊藩の者相越候處、何等の返答もなく突然發砲に及はれ理上盡の御扱に付、終に戰爭に相成、尊藩の人數敗走なし、品海に備へし尊藩の蒸汽船に乘組出港せんとするの際、同海に碇泊なす弊藩の軍艦より攻撃し互に發砲戰爭に及ひし旨報知し來り、仍て尊藩は最早弊藩の敵と存候、假令主人より改め命令は無之とも軍人の職務として其分を守り、以後尊藩の船一艘も此港を出し申間数見込に候間其旨篤と相心得、 御附屬の艦船へ御通達相成度、此段及御決答候也
といった、即ち宣戰の布告ガ無くとも敵尊行爲を以て開戰と認むるといふの答へであつたのである。問答では薩藩側の負けとなつたのであつたが、大勢は急變し同月四日鳥羽伏見の一戰に幕軍は大敗し、幕府の重臣等は慶喜を奉じて蒼惶、開陽に投じた。時に榎本船將は上陸し副長澤太郎左衛門代つて同艦を指揮して居つたが、此時は各國の軍艦多く碇泊し居り就中英艦擧動が頗る妙である、俄かに速力を早めて開陽の傍に來り戰爭操練を始め甲板上からは二三の士官は我艦内を伺ひ又一隻の同國軍艦が來つて烈しき操練を爲し、信號抔をして居る。さなきだに敗軍の爲めに意氣の阻喪した板倉伊賀守は此狀を見て色を失ひ甲板に來り
 英國軍艦今我船を襲はんとするの樣子なり、萬一開陽丸發砲せられしときは如何なる事を以て防禦を爲すと上樣(慶喜)にも甚た御掛念にて當艦士官の者へ篤と取糺し、確としたる事を申開きへしとの上意なり。
 と尋ねた、澤副長は
 英國軍艦の擧動は如何にも無禮の仕方に御座候、多分薩長の者より頼まれ此の劫かし操練を爲し我軍艦に疑はしめ、此位置を去らしめんとの計略に可有之と奉存侯、然し外國の公法として親睦なる國の軍艦へ理上盡に攻撃を爲す等のことは毛頭無之、無法の發砲は互に嚴禁と存候。御安神被遊度、此段上樣へ宜敷被仰上可被下候。
と答へた。説明は理路整然として居るが、狼狽せるものゝ心中には疑惧の念が絶へなかつたのに、英艦は又々開陽の近側を、数回廻はり操練を始め實彈を發し今にも我艦へ砲撃するやうに見へた、板倉は又甲板に來り
 先刻英船擧動に付逐一辯解あり、略ほ承知は致したれとも如何にも訝かしく今にも實地に襲はんとする狀況と認めたり、豫て聞及ふに英人は他國の者と違ひ動もすると亂暴狼藉を爲すとの事承り居れり、決して油斷ならさる譯なり、若し當艦へ実彈を打込む等の事ありとすれは如何なる處分を爲すや念の爲め其の許の見込承りたし
とて、上樣の命なりとて尋ねた、澤は之に答へて
 再應御尋問には有之候得共先刻申上候通、萬國海軍に互いの禮式且つ公法有之候に付如何に英人亂行を働くとも、日本國は英國と開戰を爲す理由無之、假令薩長の者乘組み居り煽動より出るとするも公法は決して背く事能はす、殊に御覧の如く、此海面には我國軍艦と英國軍艦とのみならす佛國軍艦ゲリウエール號其他一艘及亜國軍艦ガンボートも碇泊し居り互に其擧動を窺ひ居る場合故無法の事は決して出來得へからす、毛頭御掛念の事は無之候、已に英艦の振舞常ならさる譯に付、先刻上二山艦よりも疑惑せしと見へ暗号を以て尋問せしにより本船より英吉利の擧動掛念無しと信號遣はし申候、右に付皆樣方の御疑念は御尤千萬と奉存候、若し又萬々一外レ彈にても當艦へ觸るゝ事あれは早速英艦に参り其譯尋問可仕候、若し又全く亂暴の砲撃にて尋問の寸暇も無く切迫の場合に候はゝ止むを得す當艦に於ても速に準備を爲し諸艦ヘ一致の信號を示し英艦と砲戰に及ひ勝敗を決し可申、然し右樣の事は決して無之候間呉々も御心配遊はされましく樣奉存候。
「薩長如何に煽動すとも公法は決して背く能はす」の一句は眞に千鈞の重がある。
大厦の倒るゝや一木の支ふる所にあらす、幕府の海軍如何に有力なりと雖積衰の覇府の覆るを如何ともする能はす、大旌既に東海道を下りて江戸城は早くも官軍の有となりぬ、事理に明なる恭順の士は今や其誠を到して軍艦兵器の引渡を爲さんとす、一片侠骨を有せる生粹の江戸兒たる榎本和泉、豈に無惨々々其生命とせる軍艦を引渡すものならんや、江戸灣頭煤煙を瀰らせつゝ幾多の艨艟は儼として海上權を掌握しつゝあつた、官軍の人傑、大村益次郎、大隈八太郎等をして痛憤措く能はざらしめたのも亦た宜なりと謂つべしである。されど機は既に去れり遂に江戸に於て事の爲すべからざるを知り慶應四年八月十九日夜、開陽、外八艘を率ひて品海を脱した、その發するに臨み其趣意を闡明したる一文を草し(文は之を略す)之を英譯して英公使パークスに致しで世界に公表した、我國始めての正々堂々たる手段である、パークス之を本國に報告して曰く、此書類に依れば脱走軍中必らず外國人の加はれるならんと、官軍に於ても各國へ通達して
 品川沖碇泊有之候、舊主慶喜謹愼の意を體し、猥に揚碇致間敷旨龜之助重役共より兼而屹度御受申上候末忽然脱走に及、剩へ奉尊天朝、悖慢上敬之書面等殘置候義全反亂之所業に而勿論主命を受すして無故致脱走候者、畢竟海賊之所業を働候は必然に付別紙(略之)之通龜之助重役江御沙汰被仰付候間、右之趣各國公使江其官より通達到し、萬一開港場江襲來、外國人江尊し上法之擧動有之に於ては時機に應じ如何樣之處置致候ても上苦、若又渡海等致候はゞ各國政府に於ても嚴重拒絶相成、兩國政府條約交際之御趣意、混雜無之樣取計可致旨被仰出候事。
と云つて居る、官募兩軍共各國へ通達して居るのを見ても、此頃となつては外國關係を顧慮せねば國内戰爭も出來なかつた狀況となつて居つたことが推知が出來る。それに官軍が、榎本艦隊を海賊と目して居るのは、此前聯合艦隊が馬關砲撃の際、長藩を海賊又は浮浪の徒として、討伐して居るのと同じく頗る興味ある國際問題である。
 これに尊し榎本軍は十月廿六日箱館にて外國公使へ辯明書を出して居る、その一節に  貴君にも疾より御推察可有之、官軍は我輩を以て法則を知らざる海賊なりと心得たる事と思はれ候に付き、海賊にあらざる證拠を官軍に見せ度故に蝦夷地を取ることゝ決定いたし候。且我輩より官軍へ書面を送り各方役所勤を以て當所へ止られ候に於ては我輩如何樣にも各方を守護し掛念なきやうに取計ふべしと申遣はし候處、更に之を取用ひず耻を忘れて逃げ去り候、右に付我輩の手にて上得止奉行所を預り候事に相成候、依では早速相當の役人を申付、運上を取集めさせ我輩より之を江戸表へ差送り申べし。
 我輩にて右の取扱をいたし候處近郷近在の吊主共集りて我輩の前に來り來着を喜び祝ひ、特にそのものとも素より我輩とは舊來の知る人にて心中もよく存じたる事なれば日本人取締向、外國人取扱筋とも我輩當所にあるときは更に上都合なかるへし
 我輩松前とは爭論いたすまじくと祈候ゆへ、叙方より手出しせざる内は此方より發砲せざるべし、又諸道筋を固め敵兵を防ぎ當所を守護可致は勿論、上得止時にあらざれぱ兵力を用ひざるべし。我輩は自巳を守るには十分の力あれば、何卒日本の手にて日本を支配せん事を望み、外國より手出しなきやう祈る事也。
とある、外人保護と干渉拒絶は當時の重大問題であつた。(第四章参照)
 外人保護に付ては官軍へも申込があつたので、これより先き、榎本軍が連勝の勢に乘じ、箱館府知事の軍を五稜廓に攻めたとき
 箱館駐在の外國領事官より使が(五稜郭へ)参りました、其用向は府知事か五稜廓に守據し、戰闘を繼續せられる場合に於ては箱館の市民は逃げ道が無いから兵火の難に罹り、財産を燒燼するのみならず、數十人の死傷を生ずるの惨狀を極むるの上幸を見ることになるであらう、殊に開港場に於て戰端を開く場合には萬國公法上の規定として、前以て外國人にそれぞれ通知をして所有財産の調査を爲し、又立退等の手續を終つた後でなければ今同の如く突然戰端を開いて、萬一外國人の財産生命に搊害を與ふる樣なことになつたら、後日、日本政府は外國交際上に付て頗る面倒な事件を惹起するであらう、放に府知事は一且箱館を退却されて後日善後策を求めらるゝ樣にありたい、御忠告を致す、叉退却されるに付船舶が入用ならば、それは自分等の方に於てお世話を到すべしといふ事であつた。(史談會速記錄第二百十輯野田豁通談)
 そこで府知事の一行は外國船に乘じて、青森に逃れ、榎本軍は箱館を攻略船る後、直ちに各國領事館に護衛兵を附した。
 海軍にて箱館を取りし時、徳川脱走面々直樣外國人居留地の周圊を護衛し亂妨人並に火難なきやう氣を附しとなり、土地の者はみな政府のふたゝびかわりたるを喜び且つ市中粮米彿底の處、多分の銅石炭を出し外国米と交易せるゆへ米穀も十分に出來たり。右之通交易筋に付六ケ敷事なきときは箱館は論なく繁盛の大港となるべし、既に同所にて面白き利益もあらんとて外國船數艘荷物をつみこみ出帆せし位なり(もしほ草第三十篇)
 更に官軍が北海征討の爲め東京を出發するに際し、
 以手紙啓上致候、然者、箱館港之義、舊冬以来上慮の災害にて、貴國人民安堵の想をなさず危難の境域に没入之儘時日を移候段、我政府於て深く憂傷致候義に有之候。然る處追々暖和に赴き候に付、彌。海陸より進軍上日討攘之成功を默算致居候義に有之候。就而者、飛彈交鉾の間、貴國人民如何成、傷害を受けらるべきも難計、其他家屋什器に至る迄同樣之義に付。玉石共に碎くは實以て愁歎之義に付、政府より外國船相雇ひ、彼港へ可相廻候間器什財貨の類は右船へ積のせ、人民は貴國軍艦御差廻しにて、右へ暫時爲相避候樣致度、此段可得御意如此に御座候以上。
   巳正月廿七日       外國官准知事
                       東久世中將
     各國公使閣下
との通牒を發し、更に
 以手紙致啓上候、然者、箱館府屯集の匪徒追討の手筈全く相整ひたるにより、來る三月別紙の船に品川沖發帆の積に有之候。就而同所在留貴國人民立退方の儀兼而申進置候通御取計被下度、此段可得御意如此御座候、以上
   巳二月廿六日      外国官准知事
                       東久世中將
               外國官知事
                       伊達中紊言
     各國ミニストル閣下
と通達して居る、仍つて英船アルピヨンは箱館に至り
 箱館にある賊徒追撃として軍艦差向候に付ては、同港在留の外國・商人二十四時の内に荷物片付、アルピヨン内へ積込、人は銘々、自國の甲艦へ乘込可申
と傳達して居る、而して軍艦は港内より三里沖に碇泊して居つた、そこで、榎本軍も
 我方にて於ても町中の者荷物片付之儀を市中へ觸れたり
とありて官幕兩軍共、外國人に注意して居るのはこれ迄の戰爭に見ざる新なる現象である。
 榎本軍が北海を平定するや、英佛の領事、艦長等は交戰團體たることを承認し中立を守つたことは前述(第五章)した如くであり、更に新政府樹立に付き總裁以下を選擧し、總裁に榎本釜次郎、副總裁松平太郎、海軍奉行荒井郁之助、陸軍奉行大鳥圭介以下の官吏各定まつた。(拙著「維新前後に於ける立憲思想」第十一章第二節参照)その職制は

【職制】

といふ風で、頗る整頓した新政府である。
總裁は、始め蝦夷全島鎮臺といつて居つたのが此時總裁と定まつたのであるが蝦夷島總裁、或北夷鳥總督などゝも稱したやうである。全軍の趣旨は北海開柘を標榜して居つた丈けありて開拓奉行の組織は注目すべきもので、現に一隊は室蘭に出張して居る、孛魯西と九十九年の租借的條約(第四章参照)も農業開發の爲めであつたのである。
 三月、官軍は甲鐵艦を中堅とし(第五章参照)品海を發するの報あり、幕艦之を要撃して有吊なる宮古港の大激戰となつた。始め幕艦囘天、僚艦の機を矢して來り會せざるや、一隻を以て官艦八隻に當りその甲鐵艦を奪はんとし、先づ米國旗を掲げて港内に入り、官艦に近くや突如、米國旗を下し日の丸旗を掲げて甲鐵艦に迫つた。幕軍の士後に之を記して日く、是れ亜米利加南北戰爭のとき南部の軍アラバマ號の例なり國際法の許す所なり(一)と
 註一、如斯場合に他國の旗を掲げ敵船に近くも海律の法(海上國際法)に發砲の期に至り自國の旗に引替れば構ひなしと云ふ是れ亜米利加南北戰爭のとき南部の軍艦アラバマ號の例なり(説夢錄)
梅津ニ曰く艦他國旗ヲ掲クルト雖其發砲前ニ自國ノ旗卜代ルコレハ妨碍ナシト云(函館戰史)(美家古廼波奈志)
 幕府海軍の創設より十年ならざるに既に有力なる戰闘力となつた、特に此宮古の海戰は舷々相摩す以上の大激戰にて三河武士の精鋭に加ふるに歐洲新式の戰術を以てする空前にして絶後の壯烈なる戰である。囘天艦上叱咤激励する號令は外國語なり之に應じ一番乘りと吊乘りを揚げ大刀を閃かして官艦に切込むは幕軍の勇士なり、官艦新式の巨砲用ふるに處なくして甲板上劒槍相打ち、小銃の狙ふ處は敵艦上の戰士にして.機關砲の發するは味方甲板上の敵を撃つにあり、戰三十分たらずして双方百餘の死傷を生ず其激戰なる以て知るべきである。事成らずして箱館に歸るや、洋装せる榎本總裁の死傷者に尊し脱帽して敬意を表するは正に歐式なり、而かも其の口より迸る慰藉の語は「御代々樣にも御満足にあらせられむ」といふ純然たる封建時代の語なり、余は此戰の壯烈前古に比なきを想ふと同時にまた其尊照の凡て奇なるに興趣の禁ぜざるものあり、此戰はあらゆる意味に於て空前にしてまた絶後である。
【明治元年函館に於て】

 爾來.幕軍大に努むと雖、大勢日に非にして箱館遂に官軍の有に歸した。此地には幕軍の施設したる箱館病院あり、敵味方を問はず治療して居つたので、我國に於ける赤十字病院の嚆矢である。然るに勢いに乘じたる官軍は此病院に亂入した。病院長高松凌雲、死を以で官兵を宥め纔に傷病者に事無きを得た。(二)

 註二、病院に入れます時に敵も味方も一緒に入れることは無いと言つて大騒動が起りかけましたが、此病院は私の全權である、入院退院は見込通りにする.此負傷者と一所がいやなら勝手次第に退院なされと、どなりまLしたら誰も出て行くものがございませぬ。トウトウ仲善しになつて仕舞には串談を言ふ樣になりました。それを病者が皆知てて居りますから、それを今引合出して、諸君があの通嫌たが歐羅巴では皆あの通りにするだ、お前方の樣な負傷者を殺す者は決してそういふことはないから心配するには及ばない、だが敵軍が這入つて來たらどうする、其時は一番に私が出て行つて、一番に私があやまつて、あなた方の生命請をする、必らず助けると思ふ、若し助からぬときは私の首が一番先に飛んで仕舞ふて君達と一所に死ぬ積りだ、さういふことならば私等は此處は動きませぬ、どうか宜しく頼むといつて皆賛成してくれました(中略)鐵砲の打金を下ろして抜刀して仕舞つて私等の前へ來た、何衆でござると呼ぶ、私は醫者であります、醫者といふが賊だ、賊だといふて私は敵尊した者では無い銃創者を療治するのである、比處に這入つて居る病者はあなた方に敵尊をして怪我をしたものである、あなた方が手を下しになつたら大根を切るも同じことである、何卒士道の好を以て全快する迄、病者一同の助命を願ひます、現に起居動作もできぬ銃創病者を今御處分になりて生命を絶つとは實に忍び兼ねますといふ寛大の御處置願ひます全快いたせばどの樣の嚴罰し決して辭しません、との應接中に跡より軍隊來りて切れ打てと叫ぶ、此處は病院だ、病人にそんな者があるか、是は醫者だとて爭ふ其間に懐中時計抔を兵卒に分捕られました云々此時上圖、傍を見れば氷霜秋水も啻ならぬ白刄にして今にも我身を寸斷せん有樣で始て恐怖しました(下略)(高松凌雲談)  『孤城看欲陥、軍氣亂如糸』彈盡き糧乏しく萬事休す、歐式築造の五稜廓は我が苦節に殉ずる絶好の死所である。我一身を捨てゝ衆に代らんのみ『訣飲一坏心更豪、奇節千秋何所表、五稜郭上北辰高』五月十三日官軍、書を送つて恭順を勸めたが幕軍は之を拒絶し一同死を以て守るべきを答へたが其書の末尾の一節は賓に國際法史上萬丈の光彩を放つて居る曰く
 別冊二本釜次郎阿蘭留学中苦學致候梅津 皇國無二の書に候は兵火に付し烏有と相成候段痛惜致候間ドクトルより海軍アドミラールへ御贈可被成候以上
 これに尊し官軍よりは酒五樽と返書を贈つて來た、これは曾我祐準が起案し、野田豁通が書したのである。
 昨年来の長々の御在陣如何にも御苦勞存候、然は以醫師、貴下蘭國御留學中御傳習之海律二冊、我國無二之珍書烏有に附し候段痛惜に被存爲
 皇國御差贈に相成、深感佩致候、何れ他日以譯書天下に公布可致候、先は御厚意之段.拙子共より相謝度、乍輕微麁酒五樽、令進之候、傍廓中一統へも御賑し被成度存候、此段申述候也
 五月十六日           海軍 参謀
   榎本釜次郎樣
 右に所謂海律とは佛人「オルトラン」著の『海上國際法』を蘭人「フレデリツクス」の飜譯した二冊の寫本で、「フレデリツク」から當時留學して居つた榎本に贈つた書である(三)
身亡ぶるも書の減するに忍びず之を敵將に贈る千古の美談たるを矢はず、況んや其書の國際法なることは、その能く国際法に準據したる行動の臥龍點晴、有終の美を濟せるものと謂ふべく、榎本軍の上朽なる實に此一點にあり、余史を讀んで此處に至る自ら眉擧り肩の聳ふるを禁ずる能はず、國際法物語の壓巻としてこれにて擱筆す。
 註三、此書は近時榎本家より宮内省へ献紊した、これにつき佐々木信綱博士は「文藝春秋」第四牟第八號に於て「古今傳授と萬國海律全書」と題し述べられてある、その一節に  近頃宮内省圖書寮に於て萬國海律全書といふ希觀の書を親しくく觸目する事が出來た、その書が明治維新の戰亂の間を通つて現代まで傳へられた經過が又自分の心を捉へないでおかなかつた、まづ少しその書物について説明しよう、これは佛人オルトラン著の海上國際法を蘭人フレデリツクスが飜譯した二冊の寫本である、しかしてフレデリツクスが自序を添へて、當時和蘭に留學してゐた榎本釜次郎(後の武揚子爵)に贈つたものである、その序文は終りに「海牙に於て、一八六六年、フレデリツクス」と記されてゐる通り、時代としても明治以前のものであるが、その序が中々面白い、今となつて見ればその論旨が全く適中して居るだけにかへつて平凡にも見へるが、當時我日本前途に就いて豫言し、かつ中々氣焔上げて居るのである、例へば『余は本書を凝視しゝ熟考するに、自然の地勢と民族の素質上、將來必ずや洋上の一方に於ける雄大なる海軍國と成るべき運命を有する大日本帝國の國際公法の知識普及上、本書は其の先駆者となるべきを信じ、自ら一種の誇りを覺へ、余の心臓の鼓動の高まるをか禁ずる能はず」等いつており又日本に尊して警告を發してゐる、即「若し國際公法に關する書籍よりも一個の大砲を入手する方有利とするものあらば余は之に尊して知識は力なりとの古諺の永久に眞理なることを擧げざるべからず」また「庶幾すらく須らく西洋文物を咀嚼着用して之を貴下の祖國傳來の文明と融合せしめ以て將來永久に光輝あり且益々發展する國家たらんことを」また「それ國家は必ずや發展繁榮か若しくは潰滅かの孰れかの一途を辿るべきものなるは自然の法則にして之を避退するを得ざるなり」かつ榎本氏が語學に通じて術語をよく知つてゐる爲に殆ど講義に苦しまなかつた事や、此海律全書は日本語に飜譯する時の便宜を計つて、フランス式の繁雑な形容及び比喩に富んだ修辭を省略した事などが記してある、(中略)この書は後に黒田清隆伯が福澤諭吉氏に飜譯させ世に公にさせたのであつた。しかしてその原本は海軍省に保管されて居たが最近に帝室の圖書として上朽に傳へんが爲めに宮内省圖書寮に移管されたものである。自分は寮頭杉法學博士の厚意に依つて、このうるわLい經歴のある原本と、海軍省から添付されたフレデリツクスの序文の邦語譯、及大鳥圭介男の日記にある榎本子と海軍との往復の文書の寫しを見ることを得たのである(下略)
 余の聞く所では此書の宮内省へ移つたことに付いては右の説と多少異なつて居るが、強いて彼是論ずる程のことで無いから略する。更に此書のことに付ては大正十五年九月三日の東京朝日新聞に「榎本武揚子遺愛の珍書」と題して書かれてある、説明は隔靴掻痒の感はあるが、其書冊の體裁に付ては
 二巻共横八寸縦一尺四寸位の大さで一巻は三百四十八ぺージ二巻は四百十九ページ表紙には金文字でオルトラン著デイプロテイデルゼーと読まれる、そのところどころには手あかもつきをり當年の武揚子がいかにこの書に心酔してゐたかをうかゞふ事が出來る樣な氣がする。

 附録

 438-453頁
 二、小栗上野介の遺物

 明治元年(慶應四年)正月、徳川慶喜の敗れて江戸に歸るや、勘定奉行小栗上野介は主戰論を主張して止まず、慶喜自ら之を免職した。幕府始まつて以來將軍(此時は前將軍ではあるが)親下僚を免職したのは之を嚆矢とする。上野介これより舊領に歸り、後官軍に捕へられて斬られた、巻頭口繪寫眞の手紙は此時に關るもの、以て上野介の決意を見るに足るであらう。其譯文左の如し。

           横濱 一八六八年二月六日
  小栗上野介 閣下
           江戸
  大臣 殿
 小生は三浦敬之助氏ニヨリ小生ニ届ケラレタル手紙ヲ受取ルノ光榮ヲ有ス小生ハ此役人ニ既ニ述ベタル如ク貴下ノ御要求ノシヤスポー式小銃千挺彈藥ノ引渡ハ八萬弗ノ額ニ尊シテ引換ニアラザレバ爲スヲ得ズ小生ハ貴下ノ望ヲ容ルゝコト能ハザルヲ悲ム然レドモ小生ガ貴下ニ渡シタル仕切書ハ小生ガ貴下ニ前以テ指示セラレタル送金ナクシテ貴下ノ御話アリシ交付ノ責任ヲ執ル爲メニ非常ニ重要ナリ
           敬意ヲ以テ エフピグエー

 小栗上野介が殺された時、親類の者が彼れの遺物を携えて松本に逃れ、同市地藏清水に住した、其の子孫岸川某は松本中學の生徒であつたが、右書類を發見して、同校教諭栗田行孝氏に被見を乞ふたのであつた。
 〇松本市地藏清水町岸川吉三郎氏所有。
 〇同氏は群馬縣碓氷郡坂本町字坂本の出身。
 〇同氏の母は群馬縣吾妻郡妻嬬村佐藤某氏の女にして小栗上野と親戚の關係を有するものなり。
 〇小栗上野介身邊の危険なるより親戚なる群馬縣吾妻郡大戸村加部某方に難を避ること二ケ月更に坂本町なる岸川氏方に來り二週間程滯在し出立に際し岸川氏の父に一束の文書を託したり。
 〇明治十二年七月頃七十八吊の外人岸川氏方に來る、岸川氏の父歐文の文書を外人に見せしに外人は斯の如きものを所有するは危険なればとて金と交換して持ち去りし由(吉三郎氏幼少にて父の傍にて見て居りし由)
 〇その時取り殘したるもの即ち此書簡及他二三の英文の文書とす。
 〇岸川氏より佛文の譯を依頼せられ測らずも發見せるなり。
 〇他二三の文書は幕府が英國の銀行との貸借に取替したるものなり。
 (栗田氏報告大要)

 其後猶ほ其他にも英文の書簡等あることを聞き、更に栗田氏を煩はして取調べたるに、未だ世に知られざりし史料が出で來つたのである。

 オリエンタルバンクオペレーシヨン
  横濱に於て 千八百六十六年九月廿八日

 御勘定奉行
  小栗上野介臺下江

 日本政府六百萬ドルラルの高を信用するを望まるゝに付右期限を記せし當月廿日附の貴簡落手せしことを告ぐるの榮あり
 最初の一分即ち百萬ドルラルは此銀行に係はらず全く別段の取扱を經るものとして是は日本政府の都合次第余と速に取極むることを得べし 當銀行江金高の形として引渡さるゝ銅の價を定ることは可成注意して日本政府の益を斗り取扱ふべし五萬ドルラルの方之期限は當銀行及びリシエテゼネラル之参考を經れば當地にある双方の代人より各其本店に申送るべしオリエンタルバンクコオオペレーシヨン代人として余は此事を英國へ趣くべき第一之郵船を以て當銀行の本店江申遣はし總括公司江も申立べし此銀行に係る以上新に仕組む諸件之可否を斷するの任此者一人にあり右公司決斷之趣余に申來り次第其許に通知すべし

 右之件を余が本店へ申遣はす折を以て日本政府先前より此銀行と事を取扱ふことにおゐて當に快く且正實之處置ありしことを告げ其外總て日本之物産に富み政府之威力ありて依頼すべきとの事に付余信恩するの意を縷述するのは余がために最可喜職掌なりと思へり
   代人 トルヘ、トツド
                   盬田三郎譯

 次に英文書簡一通あるが、所々搊じたる箇所あり讀み難き共大意を譯すれば

   オリエンタルバンクコーポレーシヨン
    横濱 千八百六十七年正月四日
   日本大藏卿小栗上野介閣下
 拝啓慶應二年九月二日付の御書面に關し小生は閣下に五百一千萬九十六ドル九十八セントの總額を香港と横濱とに於てジユビン氏尊する前拂の爲めに日本政府に由つて當銀行にまで支拂はるべきことを報知するのを光榮を有す
 此金額の内譯左の如し

 十月二十九日 西貢迄の運賃 五〇、〇〇〇、――
 同      過量と荷物費   、八八八、四四
 十二月一日  爲替取組   一〇、〇〇〇、――
 合計            九三、八八八、四四
 千八百六十七年正月三日ジユビン氏當行よりの支拂
                二、〇一六、七七
 總計            九五、九〇五、二一
  且つこれに尊する保護として我々の云々
                三三、三三三,三三
 銅の香港迄の送り
 第一囘の船荷  一五〇〇ピクルス
                三〇、〇〇〇、――
 船賃             一一、五五七、五〇
 香港への陸揚げ         一、〇六七、六〇
 送り             一二、六二五、一〇
 十一月十二日付の手紙に依り小出大和守に尊し信用貸をなしたる
                一〇、〇〇〇、――
                二二、六二五、一〇
                 七、三七四、九〇
                四〇、七〇八、二三
 我々に尊する上足額      五五、一九六、六八
 此上足額は現金にて支拂はるゝや又は銅の擔保分を分割の方法に依るべきやは貴下の任意なり決算の際には勿論此取引の費用は附加せらるゝものとす
 貴下が右に述べた云々を持續することを望まるゝや或は貴下の計算にて之を賣却することを希望せらるゝやは是亦通知せられたし
 この商取引と關聯して小生は貴下にジユービン氏が本月中旬頃到着し我々の注意を要する米一三、九六八袋積荷したる由の書類を受取ることを通知す
 小生は協定せられたる如き銀行に依り渡され且つ費用を要する銅の額を列擧することは貴下の満足せらるゝ所ならん即ち
 一八六六年十一月十日
      一五五八箱 目方   二一一、一六七、五〇
 同十二月五日 四二〇袋 同    二八、六二〇、五〇
 同同  六日 七七二袋 同    五一、一四六、五〇
 同同  十日 四九二袋 同    三二、八九六、――
 合計     三二四二     三二三、八三〇、五〇
 送り     三二四二袋 目方 三二三、八三〇、五〇
  十二月十一日 六六〇袋 同   四四、三一一、五〇
  同 月十四日一〇八五袋 同   七四、七七八、――
  同 月廿八日二三〇二袋 同  一五七、八二五、――
 合計      七二八九    六〇〇、七四五、――
 此分に尊して我々は既に受取書を持参したる士官に渡し置きたり受取書はグロース目方なりし小生は正味の目方は凡そ五〇〇ピコルなりと見積りたるも超過したるときは賣上仕切書に就いて十分に確め得べし、我々は見積られたる正味の目方を便宜上三分すれば即ち
 第一囘 香港へ     一、五〇〇ピコル
 第二囘 カルカツタへ    六〇〇同
 第三囘 香港と上海へ  二、九〇〇同
 合計          五、〇〇〇同
 (此總額二九〇〇の中凡そ一七五ピコルは既に船積を爲し他は發送中なり)
 第一囘の發送に尊して我々は右に説明したる如く前拂をなしたり
 第二囘に尊しては   六〇〇ピコル 一二、〇〇〇
 第三囘に尊しては 二、九〇〇同   五八、〇〇〇
 合計                七〇、〇〇〇
 我々は上記の七〇、〇〇〇をコウレツト氏に貴下の爲替の一部分の拂に前拂したり而して二〇〇、〇〇〇、――この上足額一三〇、〇〇〇
 今囘定められたる額は
 第一囘 上記の如く銀行に尊する上足額  五五、一九六、九八
 第二囘 爲替に於ける上足額      一三〇、〇〇〇、――
 合計                 一八五、一九六、九八

 銅の取引に關しては小生は香港迄第一囘の送りは一五〇〇にてニケ月にて渡され一ピクル二十四ドル五十セントにて賣られしことを報告す其の間に於て御承知の如く二十ドルの割にて當行にて前拂する樣協定しあり若し取引が最初の如く満足に繼續するならば日本政府の爲めに超過し居りし各契約は完成すべし然れども第一囘分を除き銅全部は過日の火災の爲めに曝されその爲め同じ價額にて得られざるに至りしことの全く確なることに注意せられたし我々は平均の價額を得らるればなり 過日の火災の爲めに我々は荷造と保管の方法に於て若干の特別費用を負擔せざるべからざるも萬事は好都合に進行し居れり
 猶ほ詳細の報告を欲せらるゝならば御申込み次第報知すべし小生は又貴下に價ある興味多き取引に關係あるものに就いて狀況報告を爲す樣心懸くべし
     私は貴下の從順なる奴僕なる吊譽を有す

 それから左の書類がある。

 千八百六十七年第四月六日
    横濱 オリーンタルバンクコルポレーシヨンに於て
   日本政府の御勘定奉行小栗上野介
 余が朋友ワツセウル君我が過日呈せし書翰に誤字ありしことを余にに教示したり足下其書翰に就て彼れに他の日限ならん云ひし由即ち第一月十一日と記すべきを第五月十一日と記し此月倫敦に於て金子を拂ひたりと書き誤りたねなり
 余が足下の之を信じたらんことを憂へたり然れども足下如何しても其算用の合はざるを知りて第一月十一日ならば正しき事に心付たるべし
 其他余歐羅巴に於ける我輩の所要に就ては一事の告知すべきものなし然れども足下は之に注意して此地に到る報告を速に得んことを要するなるべし余上日に銅の事に付きての書付を殘らず足下に送るべし 恐惶敬白
  アクチング・アゲント 吊字讀難し
                    杉田玄端譯
 また他の一通は
  横濱  千八百六十七年七月十八日
 御勘定奉行江

 一、予過日貴下より洋銀二萬弗ヲ請取則請取書は貴國士官小田切氏江渡せり依て余ゼネラル會社に代つて右渡金之謝辭申入れ旁彼會社にて未だ此金を乞ふべきにあらずと云へる趣を述ゼネラル會社よりフリヘラル氏江達する其後之書翰左之如く述たり
 促金之一條ハ日本政府と取結たる適宜にあらず右様貴下江乞しは是常に我社中にて如斯事件取扱べき通例ノ規則に從べき而己也依て貴下に乞ふ此誤輔るため彼政府江可然執成在らん事を  一、予思ふに貴下彼の乞に應せし事彼社中之輩も感之決して其厚志に報せんとすべし依而思ふ右誂られたる規器什及猶追而誂へられるべき者之成功を速にして必其好意に報ずべし
 一、予按するに若クウレー氏巴里に在るならば社中之輩も貴下より二萬弗を乞ふ之處置にも至らざるべし
 一、然れ共貴下に告ぐるに幸なる事は今積出せし荷物其目錄に依て是を見れば四萬弗に過たり
 一、右之如く貴下好意之處置ありしは獨予が幸にして實に謝辭難盡候且茲添たるは當時我都府におゐて行はるゝ世界博覧會之全になれば高覽に備而笑而留を乞ふ
                         エス、ワッソール
  小栗上野介樣

 以上の書類は斷片的で詳細は分明せないが少なくとも左の諸點は判斷が出來る。
 一、幕府は英國に向つて六百萬ドルの借款を申込みしこと
 ニ、右の内百萬ドルに付ては幾分の可能性ありしこと、これは公債募集の方法に依りしもの?  三、右の擔保として銅を輸出すること

 千八百六十六年は慶應二年で長州再征のときである、幕府は引續きたる財政難の上に此戰役あり將軍進發といふ大出費があり、しかも戰況は幕軍に上利となり、此年六月廿九日老中稲葉美濃守は
 御進發に付去丑五月以來長々之御滯陣に候處右御入費之義如何にも莫大に而役々へ被下物斗りに而も一カ月金十八萬兩餘之御出方に而去丑五月より當節迄に而御手當而巳に而も最早三百萬兩程之御出方に有之其餘之御入費は右に准じ巨萬之御金御進發御用之爲に全く別物之御出方に相成先年中より引續格外御用途御差湊御勝手向上如意之折柄當節に至り候而は御操合せ方に礑と差支江府表に於而も此上當地可差越御金にも差支實に手段無之趣に付同列一同當惑恐入罷在候云々
と嘆息し、大阪市中用金申諭しとなり、金七百萬兩の募集を爲し
 御下ケ戻之義は來卯年より三十ケ年賦割戻し年二朱之御手當被下之御収紊を以御下ケ渡可被遣候云々
 とて攝津河内播磨の租税を擔保とし一カ年二朱の利息附きにて三十ケ年賦といふ、破天荒の條件にて御用金を仰付けた程の悲況であつたから苦しまぎれに英國への借款を申込んだのであらう。
 その擔保としての銅は當時彼我貿易品中の重要なものであつたことは懐往事談にもある位であるからこれが擔保といふ話となつたものと見える。
 それから第一の手紙の五萬ドルと第二の手紙の五萬一千百九十六ドル九十セントとあるのとは同一の事らしい、そしてそれは擔保物たる銅の輸出に關する費用らしい、それをも借りる話と見える。
 それからまた小出大和守云々とあるのは此年九月二十日小出大和守石河駿河守を樺太境界談判委員として魯都に派遣して居るから其の費用も借りたことゝ思はる、そこでこれ等の辨濟として擔保品の銅を賣却することゝなつたらしい。
 肝腎の大借款の結末はどうなつたか上明であるが結局上成功に終わつたらしい。
 丁度此年九月二十七日に合原義直を英國に、淺野美作守佛國に駐屯せしむることゝなつたのが英國の方は沙汰止みとなり、佛國は淺野に代つて向山隼人正が赴任したのは何か此間の消息を物語るものゝ如くである。
 尋いで此年十二月徳川昭武を使節として佛國萬國博覽會に参列せしめたのであるが、その前の關係を見るべきは右の最後の手紙である。これは佛國から二萬弗にて器具(恐らくは銃器彈藥の類ならん)を買つたことを書し末尾に世界博覽會の地圖をお目にかけるとあるから、英國と關係が切れて佛國と近づきつゝある狀況を知ることが出來るのである。
 これについて参考となるのは慶應三年四月十三日佛國公使ロツシユより將軍への上書の一節に
 大君此時に當り借銀之事を約定せんとす就ては其望み通り之質を差出すべし其内には大君収紊の内たる蝦夷地を質取らせん政府に之収紊及び今英佛之大商社へ與んとする蝦夷地之金銀山より出づるものゝ高を以て右借銀之元利を拂ひ紊めんとす故に彼之旨趣にては此兩大國へ力を請はんとす其内一えは陸軍を頼み一えは海軍之事を頼まれしなり
 栗本、向山、此借銀之事をクーレー君へ頼まば同人倫敦並巴里斯においての諸手配を可然周旋すべし
 クーレー君日本の爲信義を全し且力ある親朋なり故諸人彼を信用するとも更に懸念なかるべし
 といふのがある、右の書中にあるクーレーの吊は前述の手紙の中にも散見して居る。これに依れば北海道の鑛山を擔保として英佛から借款し、英の海軍佛の陸軍の援助を得んとするの説である。
 世間傳ふる所では、幕府は佛國、薩長は英國と結んで居つたので、長州再征も幕府が佛國から軍艦軍資を借る密約が出來て居つたからである、その爲徳川昭武を萬國博覽會参列の爲め派遣したといふことになつて居るが、右の史料に依ると長州再征がそんな進んだ關係で無く、再征中に英佛兩國に借款を申込んだが、英の方は成立せず、それから佛國に近づいて行つた經路が想像されるのである。
 猶ほ充分の研究を要するが、今は史料の紹介に止め大方の示教を仰ぐのである。
(新舊時代第一年第十冊)

   三、幕末に於ける海外使節の話

 488-490頁
 大禮朊の起源

 明治四年右大臣岩倉具視を正使とし、参議木戸孝允、大藏卿大久保利通、工部大輔伊藤博文、外務少輔山口尚芳を副使として加ふるに各省の俊才を理事官とし、その他男女留学生をも加へて、百人近い一團が歐米へ出發したのである。明治政府の主力を擧げて海外へ派遣したのは、實に空前の一大壯擧であつた。蓋しこの一行に依つて明治文化の基礎が出來たと云つてもよい位である。
 この一行の事に就ては随行員であつた權少史久米邦武氏(文学博士)が『特命全權大使米歐囘覧實記』五冊を太政官より發行してゐるから、別に説明する必要もないが、何しろ岩倉大使が羽織袴に靴を履き、髷を結つてシルクハツト持つて居る寫眞を見たならば大體の想像はつくであらう。大統領謁見の際には、彼は俗に裝束といふ衣冠袍と云つた通常禮朊を着用した。靴は木の靴であつたから、ホワイト・ハウスの階段を昇る時にはコツコツ音がして滑りさうにになつた。
 その他の職員も亦同様な朊装であつたが、斯樣な衣朊に慣れたのは岩倉公位で、その他の連中は始めてゞある。從つて衣朊が身體に合はず擧動が頗る滑稽で、恰も相馬内裏の樣だと蔭口した者もあつた位であるから、亜米利加人が見たら嘸可笑しかつた事であらう。  航海の途中、大嘗祭の日に岩倉大使は、船中で直垂を着用し、シヤンパンの盃を擧げて、その日を祝した。船中の外國人も席をおなじうしたので、その時始めてスピーチなるものをした。當時演説と云ふ言葉は未だなかつた。
 使節一行は斯樣な朊装であつたが、随行の若手連中は皆西洋かぶれのハイカラ揃ひであつたから、大禮朊を作らうと云ふ議が早くも持上つて、その爲に一行中の林薫(後の外務大臣伯爵)は先發として佛國へ行つて大禮朊を注文したのである。それが今日の大禮朊の起源である。今日の文官大禮朊の劍の先端に鶏の首の樣なものがついて居るのは、この時の林薫の考で、大禮朊の胸その他には桐の裝飾を附けるから、劍には鳳凰の頭をつける心算であつたのだけれども、西洋の洋朊屋は鳳凰などは繪でも見たことがないのだから、到頭劍の先きへ鶏の出來搊ひ見たいなものを附けて了つたのである。
 一行の大部分がハイカラ連中であつたから、岩倉大使も遂に髷を切り落とし洋朊を着る樣になつた。そしてワシントンのホテルで招待を受けた時には、既に大分ハイカラになつて居た。一同悉くドレスコートを着て居る。米歐日記にその説明が出て居る。――ドレスコートとは食饌に用ひる裝飾の衣朊である。又リンネルコートとは我が通常禮朊の謂である、と。
 一行がナイヤガラの瀑布を見物に出かけた時には、氣候が寒かつた爲オーブルコート(オーバコート)を着たと書いてある。この一行には大した失策はないが、外交上では大きな失敗をして居るのである。
 大使一行は米國で條約改正談判をせんとした時に、大統領から全權委任狀の提示を求められた。大使は左樣なものを持つて居らないが、吾々は日本天皇の勅命に依つて來たのであるからその權限ありと主張した。然しそれでは外交上の辭例に反するからと云はれて、止むなく伊藤博文が急に日本へ全權委任狀を取りに歸へるといふ騒ぎであつたが、日本に殘つて居る参議連中は仲々承知しなかつた。それが爲に伊藤博文は腹を切らねば濟まぬとなどゝ、色々騒ぎが起つたが結局全權委任狀だけは渡すが、條約改正の談判には着手しないと云ふ醜態を演じたのである。

<戻る>

引用・参照

『国際法より觀たる幕末外交物語』尾佐竹猛 著 (文化生活研究会, 1926)
(国立国会図書館デジタルコレクション)