『大隈侯一言一行』

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 (一三八)幕末の偉傑小栗上野介が侯爵家に繋る奇縁

 巻首に収めた小栗又一の墓畔に於ける侯夫妻のの寫眞について、茲に一篇の趣味ある哀話がある。人も知る通り、小栗上野介は、勝海舟らの先輩で、硬直と精勵と政治家としての偉大な雄資とに於て、群を抜いて居た。彼れが幕末の時に徳川家に尊する忠誠を傾けたことは、一個の美談であつた。それが時勢の上から、上幸に彼れの身に禍して、終に悲壯極まる最後最後を遂げたのである。
 ところが、新潟行のことから侯爵夫人が、小栗家と親戚の間柄であられると云ふことが、上圖した機會からわかつた。大正二年八月に侯が夫人を同伴して北陸巡遊の途に上らるゝことに決定すると、夫人は私に向つて「新潟の寺町に法音寺と云ふ寺が御座いませうか。其寺には妾の伯父小栗又一の墓がある 仄かに聞いて居るのですが、未だ一族中誰れも墓参したことが御座いません。今度新潟へ赴くのを幸ひに是非、墓参したいと思ひます。御面倒ながら、貴君は新潟に御知己も多いことですから、御序に墓の有無を御問合せ下さいませんか。」と云はれた。
 私は直ぐに承知して、新潟の校友に手紙を送つて調べて貰ふと寺の本堂は先年燒失したが、其の碑は現存すると云つて其碑文の寫しまで寄越した。其事を夫人に語ると、夫人も喜ばれた。ところが、夫人が侯と共に、新潟へ着いて、法音寺に参詣されると、市民は、小栗家と大隈家との間にどんな關係か゜あるのだろうと、聊か奇異に思つた。今其由來を記さう。
 侯爵夫人の家は性を小栗と稱し、同家は祖先以來、主人を又一と云ひ、安政年間には、當主が新潟奉行を勤めたことがあつた。其人は吊を忠高と云つて、幕府の留守居役中川忠英の第四子であつた。ところが忠英は、小栗忠清と親しい友であつたので、男子がないところから、忠高を養子に貰ひ受けたのである。忠高は、仁慈な性質で、新潟奉行の職を勤めた時代、極めて徳望があつた。そして四十七歳の時に卒去した。其の子には、有吊な上野介忠順を出したのである。幕末史を讀んだ人々は、上野介の悲壯な最後をよく知つて居られるであらうが、茲に少しく彼れの半生を略叙したい。
 上野介は、幼吊を又一と云ひ、後に豐後守と稱した。幼少の時から非凡の性を發揮して、夙に其見識が卓越して居た。彼れは兵學傳習所や、講武所や、開成所、横須賀造船所などのために力をつくした。二十幾歳で、アメリカに派遣された時、早くも、財政のことを注意し、金銀量目比較のことなどを研究して、歸朝匆々、小判の價を三倊餘に上らせた爲め、時の勘定役は、舌を捲いて其卓識と慧敏に驚いたさうである。
 彼れは、極めて品行が正しかつた。酒も飲まず、女色にも近付かなかつた。そして忠直の性は、君のために是と思ふところを直言するので、前後七十餘囘、貶黜されたさうである。朝幕の間が破裂して、徳川慶喜が大阪城へ歸つた時、開戰論、和睦論が起ると、上野介は、飽迄、開戰説を主張て、官軍に向つて強く抵抗しようと力説した。慶喜は、上野介の言を斥けたが、どうしても聞かないで、慶喜が將に入内しようとするのを固く捉へて離さなかった。それが爲、即座に慶喜から免職を申渡された。將軍が臣下に向つて、直接其職を免ずると云つたのは、幕府開けて以來のことであつた。
 かうした硬直の英雄も、時運に逆行した爲、所領高崎へ歸つて官軍に抗した結果、明治元年四月、官軍のため誘殺された。其時、彼れは、官軍から召されたのだが、人々は固く彼れを諫めて「行くと殺されるであらう」と云つた。けれども「それを恐れて行かぬのは男子の恥辱だ」と云つて、毅然として單騎、官軍の陣所へ赴く途中、上意討ちに逢つて悲壯な最後を遂げたのである。
 かうした偉傑を出した小栗家の墓が、新潟にあつて、久しく、訪ふ人も少かつた折柄、春風秋雨、幾星霜を重ねた後、其親戚に當るところの侯夫人の手から、暖い心の香華を手向けられたことは、地下の小栗又一氏の靈をどんなに喜ばせたであらう。それに侯夫妻は、小栗忠高と親しくした藤井家の當主を引見して、當時の思ひ出話もされた。誠に情味の深い話である。

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 (一三九)小栗上野介の子孫

 茲に又一つの奇縁とも云ふべきは、小栗忠高から五十兩の祭祀料を預けられ、且つ其後小栗一家のため、年々必要な祭祀料を怠ることなく法音寺に収めて居た新潟の藤井忠太郎氏と私の家とが親戚であることだ。藤井家は前に述べた通り、小栗忠高が、新潟奉行の時代に極めて懇親であつた。
 藤井忠太郎氏が上野介の子孫について話したところになると、上野介の死後、其一族は新潟へ逃れて來て、藤井家に手頼たのである。其時、上野介の母(又一氏の未亡人)上野介夫人(當時妊娠中)及び十七歳ばかりの娘が居た。
 侯夫人の話によると、當時十七歳の娘を人々は侯夫人の前身だと思つたが、間違ひで、上野介夫人の里方の姪であつたさうで、上野介には、子がなた爲、姪を養女として、養子を他から迎へるつもりであつたさうだ。然し此姪はどうなつたか、全く消息がわからない。
 此三人の婦人と臣僕二人は遥かに越後へ藤井を當てに來たので藤井は深く同情して、隠宅に匿し、年老いた一人の家人の外、隠宅へ一切出入することを禁じ、嚴に世上に秘して置いた。ところが此等落人のみやびた樣子は、いつか人に知れ、チラホラ評判に上り始めたので藤井も前途を氣遣ひ、家裏の堀よりそつと舟に載せて會津に落した後は、藤井家へ更らに消息が來なかつたさうである。この落人は、新潟に於て藤井に頼ることが出來なければ、會津の秋月に頼るつもりであつたと藤井氏に告げたと云へば、會津に落したるは秋月に頼らしめたに相違ない。扨て懐妊せる婦人は、辛苦のため妊娠後間もなく歿し、生まれた女子はお國と吊のり、七歳の時、初めて侯夫人に知れたりと云ふ。此の七年間、三井家の三野村氏が上野介と舊縁ある所から深く匿して養ひ、其由を維新の亂が平定して後漸く侯夫人に仔細を報じた後、此婦人は小栗貞雄氏の配偶となり、其の間に設けた長子は矢張又一の名を襲はしめたさうだ。

引用・参照

『大隈侯一言一行』市島謙吉 著述[他] (早稲田大学出版部, 1922)
(国立国会図書館デジタルコレクション)