『偉人豪傑言行録:修養教訓』

 146-147頁
 一五五 小栗忠順上野介の稱を忌まず

 徳川氏の世に幕下の士上野介の稱を忌むことは長澤の松平上野介本多上野介正純堀田上野介正信吉良上野介義央の人々其終をせざりし故にその後は皆之を上祥なりと避けて稱するものなかりしに近頃小栗又一(忠順)受領して上野介と稱し百餘年來人の稱せざる吊を用ひたりこれを以て忠順の俗忌などに拘々せず英邁の人たることを知るに足れり然れども戊辰の歳上州の采地に在て官軍の爲に殺され遂に亦令終にあらざるも奇といふべし

 156-158頁
 一六四 小栗忠順製鐵所を横須賀に創建す

 小栗忠順製鐵所を設けんことを謀り地を相州横須賀に相し岩治元年十二月下旬始てこれを卜定す是より先き忠順豫め異議あるもの多くこれを拒まんことを憂ひ密に老中水野和泉守若年寄酒井飛驒守等と議り微行して栗本鯤を横濱の官舎に訪ひ竊に鯤をして佛國公使に詢はしむ二三有司の外未だこれを知るものなし時に鯤忠順に謂つて云く予は巨費の如何を慮ふのみ宜しく仔細商量あれよ今に於ては爲すも爲さゞるも我に在り既に外人に託せし後は復如何すべからず忠順笑て云く今日の經濟は眞に所謂遣り繰り身上にて假令此事を起さゞるも其財を移して他に供するがごときに非ず故になかるべからざる船渠を設るとならば反て他の冗費を節する口實を得る益あり又功終るの後は旗號に熨斗を染出すも猶土藏付賣家の榮誉を殘すべしと蓋し忠順が此の語は一時の諧謔にあらず實に憐むべき者あり中心既に政府の廢久しからざるを熟知すれども其存するの間は一日も政府の任を盡さゞるべからざるにに注意せしものにて熟友唔會の間常に此口氣を離れざりき鯤乃ち佛公使及び同國水師提督と謀り同國滊器學士某氏を聘して總裁爲し横須賀に於て製鐵所一所船渠二所造船所三所其外武庫廠廨共に全四年を期して成功し總計二百四十万萬弗を用ふることを約定せり(佛國ツーロン製鐵所の式に據り其規模三分の二を殺げりといふ)既にして忠順故ありて職を罷められしかば後人尚其緒を繼てこれに從事せり當時海軍の士は政府の意を解せず其のこれを佛人に委するを爭そひ他の論者も亦上急の務なりと稱し百方これを沮格せんと試みしが決議既に數月の前に在るを以て復如何とも爲すことな其盤錯の際に處し忠順苦慮焦心以て草創の功を奏せしは實に偉なり是今の横須賀造船所の起源なり

 267-268頁
 二七三 小栗忠順死を以て内旨を拒むの責に當らんと請ふ

 元治の初に攝河泉播四州の地を割き一橋家を増封し以て京畿を守衛せしむべきやの内旨あり老中勘定奉行小栗上野介(忠順)を召て意見を問ふに忠順利害を敷陳し固く執て聞かず自ら死を以て朝旨を拒むの責に當らんと請なり因て其事遂に行はれずして止む然れども為に朝廷を憚り要職に居ること能はず出て陸軍奉行並に補せらる

 268-270頁
 二七四 小栗忠順戦淺野氏祐幕府の兵制を更張す

 幕府舊來の軍制を廢し洋式に倣ひ始めて騎歩砲の三兵を編制したるは文久二年の事にして固より一時の假定に出て且種々の妨礙あるが爲四五年を經たるも未だ一定の規律を立るに至らず是に於て陸軍奉行並小栗上野介(忠順)陸軍御用取扱淺野美作守(氏祐)の二人陸軍總裁松平伊豆守(老中)副總裁松平縫殿頭(若年寄)に議し陸軍教師を外國に迎へ士官兵卒を教導せしめ以て一定の式を定んと欲す然れども當時の勢凡そ外國人に親接し事を談ずる者は是非を問はず概して朝旨に悖る者となし加ふるに細作充満殆んど耳の垣に属するありて幕廷の一擧一動みな未だ施行に及ばずして既に世間に傳播し從がつて妨礙百出し終に天朝より沮格の令下ること毎事必ず然らざるなし故に幕吏は多く畏怖して苟も身を全ふするを謀るの外暇あらず然るを二人共に志を屈せず兵制を更張するに切なりしかば以為らくその下司譯官の手を經て事の未濟に敗るゝはみなこれを密勿に定めざるに坐すするなりと因て二人は深くこれを關防し一日密に栗本鋤雲を横濱反り目の官舎に訪ひ鋤雲をして直に佛國公使に就て教師延聘の事を議らしむ鋤雲公使の許諾を得て乃ちこれを二人に報ず二人これを陸軍總裁に上陳し事立所に決するを得たり是に於て幕府佛國に通牒して攝理官二人三兵教師各二人及び下士職工を兼るもの數輩を延聘ず實に元治二年なり我が國陸軍教師に外人を用ひたるは之を權輿とす

引用・参照

『偉人豪傑言行録:修養教訓』南梁居士 編 (求光閣書店, 1911) (国立国会図書館デジタルコレクション)