『閣老安藤對馬守』藤澤衞彦 著

 一-三頁
 

 閣老安藤對馬守信睦は、幕府の末路、尊攘開鎖の論盛に、井伊大老遂に非命に斃れて、朝權日に加はり、幕威日に蹙まるの際、蹶起して紛糾の餘を受け、幕府の政權を手中に収めて、内は公武の合體圖り、外は外交の難衝に當り、兎に角にも、大局を爕理し得て、我國運を大禍に導かなかつた事は、其功甚だ偉とすべく、氣略、雄斷、慥に常鱗凡介に非ざるものなるを認むる。而も、輿論の反抗を受けた事は、亦井伊に譲らず、姦物と呼ばれ、逆賊と罵られて、遂に、坂下門の事變出來し、白刃の一撃を受けた。幸に、井伊運命を異にし、致命傷より免かれたが、大抵の者なら、此際氣力の沮む免かれまい。然るに、安藤は、國家の大事、一日曠廢すべからずとして、創痍を包んで、繃帶の儘、直に外人と折衝した。此膽力には、並み居る外人、何れも驚嘆せぬはなかつたといふ。彼は、姦物でもなければ、逆賊でもない、機略あり、識見ある上に、更に操守がある。幕末の宰相として、一個の卓抜なる外交家、政治家と言はねばならぬ。さればこそ、英雄は英雄を知る、故岩倉右府の如きは、最も彼の人物を推稱し、度々我輩に語られた事もあつた。が内地人よりも、外人の間に、最も安藤は畏敬されて居る。當時の米國全權公使ハルリス、英國全權公使アールコツク等は、彼を以て、日本の閣老中、前後最も有力なる者と稱して居た。けれども、時の際會甚だ非なりし爲に、其功業湮沒して多く傳はらぬ。今、此著に因つて、其冤罪の雪がれ、更に光輝ある幕末の偉人として、江湖に紹介さるゝを、頗る快心の事に思ふ。求めらるる儘に一言を序する。

  伯爵 大隈重信

 一-八頁
 

 蓋棺事乃了といひ、蓋棺論自定といふも、事は了はり、論は定まらず、定まるは概ね器の小なる者、其の大を加ふるに從ひ、十年にして定まらず、百年にして定まらず、千年尚或は定まらず。故に自ら重きを以て任ずると共に、毀誉褒貶を度外視するの避くべからざるに及ぶ。黄鐘毀棄、瓦釜雷鳴は、何の世にも免かれず。高吊にして言ふに足らざるあり、無吊にして國家又は社會に大功勞あるあり。現代の信ずべからざるが如く、歴史も信ずべからざるが、信ずべからざるの多しとて盡く放棄するは、己れ自ら信ずる所無きと同じく、自ら信ずる無きは自らを放棄するに非ずして何ぞ。人々互に各々信ずる所を表明し、相ひ切磋琢磨して茲に眞實を得るに庶し。
 井伊掃部頭の横死は、當時の志士が局面是より變ずと言へりし所、事の由來は暫く措き、徳川氏二百數十年の治平衛に大なる罅隙を生じ、何等か變改を敢てするの已むを得ざるを見たり。變改の衝に當れる者に、三人の傑出せるあり、一は安藤対馬守信正、二は小栗豐後守忠順、三は勝安房守義邦なり。安藤は如何にかして國内を統一し、以て競ひ來れる列強に當らんとし、爲し得る限りを爲したけれど、多年の慣例は急に改まらず、親藩譜代の外様と錯綜せるは、閣老に尊して幾多姑小姑の如く、啻に鬼千匹のみならず、無難に經過せば尋常の事とし、故障の起これば喧々囂々頻りに之を咎む。斯かる場合に無事を冀ふは徒らに禍患を遷延するに止まる。安藤は胸に成算ありたらんも、退職を餘義なくせられたる後、小栗の如く幕府に權力を集めて諸藩を壓伏するか、將た勝の如く若干の強藩を衛護とし朝廷に權力を集むるか、相反せる二事の一を擇ばざる能はず。種々の事情の促すところ、遂に略ぼ勝の豫定せしが如く爲れるが、謂ゆる勝てば官軍負くれば賊、官軍が九天に昇るの勢いあるの反面、其の反尊者は九地に落ちざるを得ず。新興強藩の關係者が小功小勞ををも賞せらるゝに、舊幕府に屬する者は盡く劣敗者とし擯斥せらる。舊幕出身にて推重せらるゝは、勝、大久保、榎本、大島等にして、皆新強藩に從ひ、又は始め反して後に從ひ、謂はゞ外様によりて吊を成せるなり。而も是等の徒は才略及び膽力に於て能く小栗に拮抗すべきか。勝は幾許か相ひ當るも、他は甚だ覺束なく、恐らく鷹と鳶との比例なり。一或は小栗を以て大隈伯に酷似すとし、或は一層有力とするが、そはともあれ、當時能く比肩する無く、而して現に少しも聞えざるは主として官軍に殺されしに由る。安藤は小栗及び勝を合せる如き位置に居り、事の矛盾性なるだけ、施設の極めて困難なりしも、二年間の執務を稽ふれば、困難に堪ふるの資格を備へしとすべく、唯強藩に屈せんとせざりしが爲め、小栗同じく湮滅に歸す。
 大老井伊は、横死後に祿を減ぜられ、閣老安藤は負傷後に祿を減ぜらる。何人が如何に斯く處置せるか、幕政の方針なきも甚しきに過ぎずや。然も上統一を來たせるは一朝一夕ならず、大廈の覆るは一木の支ふる所に非ずといふの外なきが、井伊は譜代の旗頭として斃れ、人の耳目を聳動し、幕府の絶大搊失なるかに認められ、而して安藤は然らず。されど井伊は常鱗凡介ならざるも、果たして人の談話に上るが如き人物なるやの疑はしく、且藩士は祿を減ぜられしを恨み、維新の變に幕府を助けず、為に藩主は家計を紊さず、寧ろ富裕とし稱せらるゝに至り、或は報酬を與へて直弼を辯護せしめ、或は運動費給して記念像を建てしむる等、大に枉屈を伸ばすを得たり。安藤は此と違ひ、元と小藩なるが上、信正は負傷して直弼の横死の附帶と見え、加ふるに存命して、維新の際に去就を決するに苦み、晩年の頗る振はず、剰へ家計の宜しきを得ず、雪寃せんと欲するもの井伊家の如くにならず、今は安藤尊馬守の吊さへ記憶するもの甚だ少し。勝は新強藩の代表者なる西郷に智慧の程測り知るべからずと言はれしが、若し小栗をして勢に乘ずるを得せしめば、爲す所勝の如きに止まらず、或は遠く其上に出でたるべく、而して安藤小栗及び勝を幕末の三傑とせば、安藤は少くも門地に於て第一に居り、優に幕末を代表すべし。然るに今日誰か幕末の豪傑に安藤あるを知るぞ。政府は維新史料編纂局を設けしが、史實の公平を得るやは聊か疑ふべく、公平を念とするも、既に先入の主と爲れる無きや。順序よりせば、徳川氏の宗家及び三家三卿並に縁故の深き譜代に於て別に編纂局を設け、幕末に盡力し、湮滅して聞えざる者を顯はすべき筈ながら、現に元勲といふの生存しては、多少憚る所なきを得ず、急に之を望むも益なし。澁澤男は慶喜公の傳を編纂しつゝあるが、是れ公の恩誼を感ぜるに出で、公自らの立場としては、一身を明かにするよりも湮滅せる舊幕臣を顯彰するを當然とせん。
 さもあれ、此處に閣老安藤尊馬守傳の出づ、何ぞ唯史實の缺陥を補ふのみならんや。

  大正二年十月 雪嶺迂人

 (五)對馬守の對外政策

 第六 ヒュースケン暗殺事件

 一四七-一四八頁

 幕府の運命は此爲に其衰亡を促したること幾干なるや知らずと云はざる可からず、嗚呼、これ皆浮浪せる攘夷論者の罪にあらずや。是より先、米國公使は、日本人をして外國の事情を視察せしめんと希ひ、岩瀬肥後守と謀り、曩に安政三年條約談判の時に於て、其條約批准は、華盛頓に於て交換すべしと定め、岩瀬永井の諸士は、此使命を奉じて赴くの覺悟なりしが、御養君論の事よりして、兩士とも井伊大老の意に觸れて蟄居を命ぜられたれば、外國奉行新見豐前守、村垣淡路守は正副使に命ぜられ、萬延元年正月を以て米國に搭じて横濱を出で、米國に赴き、同九月を以て歸朝したりき、是れ幕府より使臣を外國に派遣したる嚆矢なれば、米國にて是を優待するに非常の盛擧を以てしたけれども、此使節等は、歸朝の上にて時勢に阻遏せられて見聞を報道する事も能はざるの悲惨に遭遇したり。但し兩使に随行したりし勝麟太郎(後に安房守)小栗豐後守(後に上野介)の兩名士、その外の俊秀が、其後其所見を煥發したるは、蓋し此行の効果にてありき。
 當時旗本中より擇ばれたる別手組の護衛中には、我は天下の旗本なり、將軍家の御馬前にて討死をこそせめ、異人の守護たること能はずと慷慨せる者あり、又譜代の諸大名に命じて、公使館の外部を護衛せしめたるに、其士の中には、却て異人無禮なりとて、之を傷け、自殺したる者ありて、味方が味方にならず、中々油斷の成り難き有樣なりしといふ。

 一四八-一六〇頁
 第七 對馬島政策

 此處に又、外交上の一問題となりたるは、魯西亞軍艦が、我が對馬島に繋泊して占守の狀示したること是也。對馬島は、本國と今の朝鮮との間に介在し、東三〇の海峡と相應じ、日本海の關鎖たり、然るに魯西亞は安政五年、(千八百五十八年)清國と分界の條約を議決し、滿州以東沿海の地、皆其所有に歸せしを以て、夙くも此地を開拓し、招商飾武の規模を立て、以て英國と東洋に其衡を爭はんと計れり。されば一旦緩急ありて、日本の守備行とどかず、此島にして英國の手に落ちるあらば、その南出の咽喉を扼せられ、攻守上、利害の關するところ少からず。と、魯鷲の眼光鋭く既にここに注げり。折柄、英國にて、此島の周圍を測量せしとの報あり、また江戸にある同國公使より此島を得んことを、我政府に逼りたりとの風説もきこゑたりしかば、(其實は、對馬島は、一旦太西各國に戰を開くことあらば、或は爭地たらんを以て、早く其港を開き、各國の船艦に出入を許し、人民を居住せしめて、權力の權衡上、我國の無事を計るが道なるべし、との事英公使アールコツクより勸説する所あり。猶此後も兩都兩港延期談判の爲、太西各國へ差遣されたる我使節は、到處の政府より此談判を受けたる程なり。)魯國政府は早くも我國に在るコンシユルゴスケウイチに内諭傳へ、其實を檢せしめたり。(魯國は訂約の後も、公使を江戸に置かず、コンシユルを以て、所謂チプロマチーキアゲントとして、國交上の事を行はしめ、既國書を捧呈し、將軍にも謁したり、されば幕閣に於ては、公使に準じて彼を待遇したり、然れども彼は常に函館に駐在したり)ゴスケウイチは、文久元年二月、自國の軍艦に駕して長崎に至り、探問遂げ、英國にて同島の測量をなせしを聞知せしなり。即ち直に江戸に到り、幕閣に圖るに英國の野心はかるべからざるを報じ、もし、日本の守備淡薄にして、英國に抗するに足らざれば、魯國より砲堡も築き、大砲をも資助して、其防禦を助くべしとの事を説けり、是固より聽可すべきものにあらざれば、幕閣は、對馬島防禦の事は、我一手にて充分の手當をなす可き旨を答へたるに、ゴスケウイチは、強て要請する所もあらず、そのまゝ、函館へ歸りたりしが、これと同時に、魯國船將ビリレフ、その軍艦ポサジニカに乘じ、對馬島内尾崎浦に碇繫し、船損修理を名として、乘組のものを上陸せしめ、永住の勢を示せり、領主宗對馬守より、長崎奉行へ通牒し、江戸政府へも上申して木材牛等賣渡し方をも申出、殊に大船越關所を小挺にて通過する等、自恣の狀あるを以て、土人との闘爭も生じ、ために命を殞すものすらあり、これ棄置くべきにあらず。と、幕府は其四月、外國奉行小栗豐後守、目付溝口八十五郎に命じ、其地に赴きて談判せしめ、又一面には、長崎奉行に牒して、先書を船將に送らしめ、猶吏を派して、談判せしめんことを命ぜり、是に於て長崎奉行支配組頭長持亨次郎は、その五月對馬芋崎に赴き、船將ビリレフに面接し、既に送れる書狀の旨に基き談ずる所ありしも、彼は本國海軍提督リハチヨフの命令を奉じて此處に滯在する者なれば、一己の見を以て返答に及びがたきをいひ、且此事に就ては、近き内に本國政府より江戸政府へ交渉する所あるべきにより、其談判の模樣によりて進退すべしとて、我が退去を肯んぜず、且は、秘密ながら大砲五十門、本國政府より、本島守備の爲め之に備付、日本政府へ獻上するの見込あり、其事も不遠江戸政府との談判あるべきなれば、必當島領主にも其沙汰あるべしなどいひ立、埒あかざる内、江戸より、小栗溝口兩使の到着あり、ビリレフ初度の應接には、久々此地に滯在し、領主の保護を受けたるにより、面會の上謝辭を述べたしとの事を請ひたるも、宗家にては、家中の折合を氣遣ひ、小栗よりして其事を拒絶せんことを請ひたり。是拒みおふさるべき理あるべきか、小栗の中間にありて心を苦しめしは、魯船を退くるの談判よりつらかりしが如く、終に日を期して、領主に面會せしむべきの書をビリレフに送り、又これを藩士に喩して、己れは俄に江戸に還れり、小栗は英果の質、有爲の才 に富み、かつて亞米利加に使して、外國の風光をも見聞せし人、且は、岩瀬肥後守、水野筑後守と並稱して、幕末の三傑とよばるる人なり、然るに此一瑣事すら了するを得ず、空しく江戸に歸れるは何が故ぞ、斯人にして此事ある、吾人の解し得ざる所なり、是何事か秘密の存するあるにあらざらんや、されど既に文書の徴すべきなく、又故老の問ふべきなし、ただその後任たる外國奉行野々村丹後守、目付小笠原攝津守に、勘定吟味役立田錄助を添へられ、再び對馬へ遣はされたる時、宗家對馬守へ贈りたる其諭告によりて、少しく此邊の消息を窺ひ得べきのみ。
 右對州へ爲御用被差遣候に付ては、今度内願の趣も有之候に付、州中巨細巡見をも可致候間、家來共決して心配不被、有之儘の所案内致候樣可被申付候事。
 其内願といふものを見るに『對州の地は、御用地に被仰出、私へは相當の地所成下候樣、御沙汰被仰出被成下候はゞ、士民一同安堵仕』とはあれども、其前文『六百有餘年連綿の舊地、累代の墳墓を離れ、難儀千萬の仕合、申計無御座』との苦語あるを見れば、これその内願とはいへ、其決して甘心するものにあらざるを知るべし。小栗は、大局に着眼するの士なり、對州の地、英公使の着眼するが如く、これを開港塲とするも、また防備を嚴にするも、到底小弱の藩侯に委すべきものならざるを實地に悟り、上地の不已得べきを見て、其狀を親しく具稟し、政府の底意を固め、然る後に魯艦將と應對するにあらざれば、ただ一日を苟くするものたるを知りて、一旦江戸に歸りたるに非ざるを得んや、而して、對州藩にも、其機を知りて自ら進んで此内願を提出せるものと知らる。されば彼の三使の復命具申する所を見るに、開港塲といふといへども、元貿易の爲にするにあらざれば、港口二三の村落を公に収めて、其他は依然宗家に附するも差支あるまじとの議も立てたり、彼此を相参せば、小栗の見る所は、開港に非ずして防備の論なりしは、また思ひ半ばに過ぐべし、而して、是閣議に容れられずして再遣を辭し、其職を免ぜらるるに到りし者なるや又明かなり。而して彼の魯艦を退けしむること、畢竟其艦將相對にて行届べからざるを、對馬守(安藤)も悟り得たれば、一面は米國公使の媒介を以て、露西亞外國事務大臣に移牒し、其退去の令を下さんことを請ひ、一面は其意を以て、函館奉行村垣淡路守より、ゴシケウイチに談判せしめしに、ゴシケウイチは其行違に生ぜし事なるべきを謝して、親ら周旋して其軍艦アフリヤクに、函館奉行の屬吏を乘組せ、アドミラール並にコンシユルより、公書を持たせ、ビリレフへ送り、七月廿五日に到り、一同退帆に及べり(此間他魯艦數隻の來往するあれども、要なきを以て、一々其名を掲けず)而して此事たる、後使野々山輩の未だ對馬に達せざるの前に在り。即其上陸中住居せし小屋等は、皆長崎奉行所の手に預りその取締をなせり。彼の野々山一行は、魯艦との應對に後れたるも、對州地檢踏の命あるを以て、暫く其地に留り、十月末に到りて江戸に歸れり、此一事よりして、對馬守は、外國軍艦の我守備薄弱を窺ひ、放恣の振舞あるに苦慮し、又下の關以内中國海を航海すをことを不法なりとして、米英、兩國公使に對し數々論駁する所あり、又和蘭醫師シーボルドを雇顧問とし、其事に付、太西邦交上の例など檢討せしめることありしが、遂に其在職中、其師志を果たすこと能はずして罷みたり。當時對馬守の意は、唯京師の調和を計らんとせし、半鎖攘方針の意に出たるものあるやも圖り知るべからずと雖、内瀬戸に他國の軍艦を入れまじきとの事に注目ありしは、其軍防上に用意の密なることを知るべし爾来泰西の學漸く我國に入り、萬國交通の方法等、識者の研究する所も少なからざるに、漸く昨今に到りて墺國名儒の説に耳を聳かして、内瀬戸閉鎖を説くものあり、海軍参謀の士、又國防上より對馬守の先見を賛する事淺からず、吾人はこれを前日反顧して、轉た不學無術を以て鳴りし安藤對馬守に感ぜずんばあらざるなり。嗚呼、對馬の地勢、東洋問題に於て緊切の要地なると、瀬戸内海の國防上重要なるとは、夙に此時よりして絶叫せしめられたる也。
 シーボルドとは、獨逸聯邦巴威の人にして、和蘭に仕へ、その東印度會社衛生醫官となり、我文政八年を以て、長崎出島に來往し、例によりて甲比丹と共に、東江戸に出で、將軍に謁せし事ありし、然るに其學術深邃なるを以て、當時洋方醫學に志あるもの往々これに就學し幕府の士高橋作左衛門の如き、其所務天文暦數にあるを以て、其我國法財政風俗産物等、また外人の問知せざることをも探知するの便を得、我學士醫士も其蒙を發するを得て、兩ながら、益する所少るからざりし、然るに其歸國の後、其荷物を積たる船の颶風の爲に再び長崎に歸り來れるあり、幕府の法に、密商を防がんが爲に、出港の船には、其積荷等を細査する事なしといへども、入港の船は、必其檢査を嚴にせり、よつて其積荷の中即シーボルト持荷の中より、當時國禁とせし秘籍が發見するを致し、竟に幕命以て出島に幽せらる。諸司シーボトに交り、殊に禁書等を贈りしもの、高橋作左衛門を初め、夫々嚴罪に處せられし後、凡一ヵ年にして、シーボルドの抅禁を解かれ本國に歸るを得たれども、猶再渡を許さざるの申渡を得たり、實に文政十二年なり。然るに嘉永以還、國制頓に變じ、各國と通信通商の約を結ぶに至りたるを以て、シーボルト再渡の禁を解くに到れりと聞き、再び長崎に來り、書を政府に奉りて意見を陳じ、時宜を諭ぜり、安藤閣老は、我學士の中、西洋の政治其他の事に、いまだ通暁せるもの少く、外交上にも往々兢手の場合なきにあらざるを以て、遂にシーボルド江戸に引き、これを赤羽接遇所に置き、以てこれを顧問とし、月俸百兩に別段手當として年二百兩を給し政治外交上、其意見を問ふことのみならず、學術上、其指導を得んことを希ふものには、就て質す所あらしめたりければ、一時は外人の内に於て、頗る勢力あるがごとき狀ありしより、時の和蘭公使デウイツトの嫉妬來し、本國政府の意に非らずとの旨を以て、閣老に迫り、其庸を解かしむるに到れり、シーボルドの此地位にに在りしは、僅數月間の事にして、我政治上さして裨補する所もなく、亦其功を収むる時もなかりしといへども、外人にして我が政治に参せしものは、實に此人に權輿せり、加之我國の名を歐西各國に播揚せしは、皆シーボルド著書の力によれり、されば、隠然我国に功勞ありと稱するも不可なかるべしと思へば、こゝにこれを記せり。(幕末外交史――田邊太一)
 露國が、日本の領土の内に、根據地を得んと勉めたるは、前世紀の末に始まれり、其亞細亞に於ける領土、嘗て日本に屬せし千島群島の一部の獲得、及び米のシトカ殖民地に於ける小領土は、日本を三方より包圍して、唯餘す所は、南の一方あるのみ、かくて、露國は、亞細亞及び亞米利加の領土の間に、出來得る限り完全なる聯絡を爲さんとて、密かに時機を得てり、人若し露國が朝鮮日本の二國と、米國の西北方に横りて、アラスカ岬南に聯れるアリユーチアン群島と、シトカの要害途に據らんとするを見ば、其膨張の計畫が、必ずしも東半球の範圍に限られざるを思ふなるべし。(『日本紀行』――ペリー提督)
 安藤閣老は、豫て英國公使が、對州の開港を希望する如き狀あるを察知し、京都の故障最も甚だしき兵庫に代ふるに、(新潟は不便の地なりとして、外人も承知の上、未だ開港せざるなり)對州の開港を以てすべき氣勢示し、以て公使(英國公使アールコツク)の露艦退去談判に助力せんことを求めたり。其談判筆記中、之を證するものあり。左の如し。
 我『アドミラルは、對州へ相越、魯人へ如何樣の談判致候積に候哉。』彼『魯西亞船將に逢ひ其方此仕へ碇泊可致筋無之、早々立去可申旨申談候。先、方の主意には有之候得共、夫迄には手續も有之候。』
 我『此方にてはゴシケウイチへ申遣、承知の處、又英へ願候樣存致候而は不宜、其邊は被心得居候樣致度候。』
 アドミラール『私談判無候議は、私存意も有之儀に而、決して日本政府に而關係無御坐候。』
 ―中略―
 我『對州は港も宜し、右を開港塲抔には如何のものに候哉。』
 彼『對州の地勢は不存故、何共難申上アドミラル今度相越候間、地勢見分致候上、可申上候。宜地勢に候はゞ、右場所御開港に相成候はゞ、魯國には大不都合相成、日本には至極御都合よろしく御座候。』
 ―下略―
 此談判の結果により、日本政府に關係なく、アドミラル、ホープをして、條約違反の理由の下に、斷然露艦の退去を求めしむるに決し、露人の芋崎經營の着々歩を進めて、種々なる建築物、營造物の灣頭に駢立したる頃に至り、七月、英國のコルヴエツト艦「エンカウダー」及砲艦「リングダヴ」號は、ホープ中將及書記官オリフアントを載せて、俄に江戸灣を發したり。オリフアントは、對馬に上陸して、先づ事の眞相を調査し、又露人の駐屯せる陣營に就て、其詳細を探るに努め、ホープ中將、親ら露艦「ポサードニク」の碇泊せる處に赴きて公然其退去を要求し、ビリレフ之を拒絶するに及び、更に抗議の一書を露國太平洋艦隊司令官に致したり。然るに恰も此の時聖比得堡に歸還すべき旨の命令を本國政府よりリツハチヨフの許に達しければ、彼は、ゴスケウイツチの周旋により、軍艦を備へ、屬吏をして急行して、命をビリレフに傳へしめ、一切の建築物を、土地の日本官吏に委託して、軍艦を率ゐて對馬を去らしめ、己れは、首都に向つて出發したり。蓋露國は、ゴルチヤコフの意見に從ひて、終に對馬を斷念するの已むを得ざるに至りしなり。(開國大勢史――大隈重信)
衛彦曰蓋し斯の如くに至りしもの、なほ對馬守の外國政策否其外人操縱策が宜しきを得たるに起因せしめずんばあらず。

註:『海舟全集. 第2巻』参照

引用・参照・底本

『閣老安藤對馬守』藤澤衞彦 著 大正三年七月十八日發行 (国立国会図書館デジタルコレクション)