『近世日本國防論 下巻』

 第五編 幕末最後の國防

 (四五六-四六八頁)
 二十、小栗忠順
    付栗本鋤雲 木村芥舟


 彼の經歴と幕末の努力

 幕末の海軍建造を斷行した當路の有力者に小栗上野介忠順のあつたことは、勝の努力よりも一層特記ぜねばならぬものである。勝は幕臣であつて而も當時に有力なる薩藩を利用し、巧みにその運動に從つたものであつたが。小栗は之に反し、撤頭撤尾、幕府を本體として開國進取の國是を執り、爲に日本海軍の基礎を作つた。そこに彼の忠誠と熱心とを看取すべきである。
 彼は三河武士の裔で、夙に徳川家康に随從しで勇名を馳せた小栗又一を先祖とし、その十二代目に當る。彼の父は中川飛驒守忠英の四男で小栗家に婿養子となり、新潟奉行を勤めて同所に歿し、彼は其後を承けて家を嗣ぎ、安政四年使番となり、六年に目付に進んだが、彼の才幹を最初に見極めたのは大老井伊直弼であり、間もなく日本最初の遣米使節の艦に同乘せしめた。言ふまでもなくこの一行は安政條約交換の大任を帶びたもので、正使は新見豐前守、副使は村垣淡路守、彼は當時三十四歳の血氣盛りを以りて、目付役即ち監督として小策豐後守の名を以て渡米したものである。即ち彼は萬延元年正月十八日品川を出帆し、三月十五日華盛頓に到着、四月廿日同所發にて廿八日紐育に入り、五月十二日同所發にて九月廿七日我が品川に歸着したのであつたが、此間に於ける彼の功績は、その膽力と才氣を以つて事業上に見事に發揮せられた。かくて間もなく文久元年魯艦謝馬に來て頑強なる態度を持し、土地借用を申込んだ時、彼は命ぜられて談判使節となり、四月六日外國奉行として對馬に赴き、五月七日同島に着して、直ちに魯のビリレフ艦長と會見商議し、爾来再三の交渉を重ねた。然し双方の意見何れも強硬にして一致點を見出さず、五月十九日彼は一先づ歸府し、尋いで六月廿八日更に幕命を奉じて函館に出張し英國公使と會見し、其力を利用して終に魯國の勢力を挫き、見事魯艦をして對馬を退去せしめたのである。此間の折衝は彼として實に決死的努力を拂つたものであつた。

 陸海軍創設上の功績

 其後彼は暫く閑地にもつたが、元治元年十二月軍艦奉行に抜擢せられ、我が國防上の必要から初めて米國から軍艦を購人した。同時に彼は又日本海軍の基礎を定めんが爲、相州横須賀に造船所及び鐵工所を創設した。加之彼は又横濱に船舶小修理所を建設し、尚森林保存法を按出して船艦材料供給の方途を策し、更に湯島鑄造所を改良して大小砲幷に兵器の改鑄に盡力し、又上州小坂村に鐵鑛採掘の事を發意計畫した。
 既にして彼は歩兵奉行となり、亦陸軍奉行ともなつて我が國陸軍の爲に洋式訓練の端を開いた。勿論その以前から此種の企圖は屡々幕府で繰返されたものであるが、彼は陸軍奉行として立派に之が基礎を固めたものである。即ち彼は二千五百石の旗本といふよりも、陸軍當局としてその溌剌たる才幹を以つて、此等の施設經營を急ぐと共に、親ら出て青山附近の練兵場にその指揮官となり、以つて大隊教練などを行つた。蓋し歩・騎・砲三兵の編成は文久二年に始まつたのであるが、最初は和蘭式に依つて僅に其瑞を開いためみで、爾來數年を經過しても一定の規律が立たず、その目的さへも殆ど達せられなかつた。それを彼は大に遺憾とし、一日栗本瀬兵衛(鋤雲)の許を尋ね、終に塾議の末、佛國公使に依頼し陸軍教師を招聘するに至つた。是に於いて我が國の海軍は之を英國に、陸軍は之を佛國に學ぶといふことゝなり、爾來發展の途を辿つたのである。是皆彼の果斷なる處置に出たものといはねばならぬ。
 要するに彼の陸海軍創始の功は全く見逃すべからざるもので、それは福地櫻痴の著「幕末政治家」に特書する如くであつた。其言に曰く、  小栗は旗本等に課するに、其の領地の高に應じて賦兵を以てし、併せて其の費用を出さしめ、是を以て數大隊の歩兵を組織し夙に徴兵制度の基礎を建てたり。又佛國より教師を聘して右の賊兵を訓練せしめ、併せて陸軍學校を設けて將校を養成せしめたり。是れ所謂幕府の練習兵にして幕府の末路稍々健闘の譽れを博したるは即ち此の兵隊なりけり。
 又、佛國公使の紹介を以て佛國より工師・技師を聘し、英・佛より許多の器械を買ひ入れ、多額の資金を投じて今の横須賀造船廠を設けたるは、實に小栗の英斷に出でたり。是れ小栗が非常の勤勞なりといはざるべからず。當時小栗が栗本安藝守に對ひて「假令徳川氏が其の幕府に熨斗を付けて他人に贈るまでも、土藏附の賣家たるは又快からずや」といひたる如き、以て小栗の心事の一斑を知るに足れり。此の事は栗本匏庵簒の自著に見ゆ、云々。
 よく彼を評し得て正鵠を射たものといつてよい。

 彼の悲惨なる末路

 尚は勘定奉行に轉じ、彼獨特の手腕を揮ひ、大に我が國の財政上・經濟上に貢献ぜんと期したが、此事は本篇に關係薄きを以つて省略に從ふ。唯彼は夙に國内統一の秘策を藏し、郡縣制の施行を主張して居たなどは、大に特記に値するものである。哀れにも彼の獻策は將軍慶喜の納れる所とならず、又若年寄として榮進する機會をも失し、百事徳川家の否運と共にその悲惨の運命を伴ひ、同家が朝敵としての名を得たと同時に、彼は薩・長一二の策士の爲に敢なくもその一命を奪はれ、遼大の抱負を實行し得なかつたのみならず、長くその功績をさへ湮滅せられんとした。即ち彼の舊知行所たりし上州權田村に敢なく不幸の眠を續けた。而して長く反逆人としての冤罪の下に一子又一と共に葬られた。而してその最期は東山道總督や参謀の名の下に所謂官軍の包圍する所となり、無殘にも斬首に處せられた上尚梟首の憂目を見たのであつた。享年僅に四十二。如何にも惜むべきの偉丈夫といはねばならぬ。

 彼の開國論と横須賀海軍船廠由來

 吻核が闘國論者として又國防施設者としての逸事を尋ねるに、彼は幼少期から砲術修業に志し、前述した幕府鐵砲方の田付主計に就いて之を學んだが、當時同門弟の結城啓之助なる與力と友とし善く、兩人蘭學を修めると共に、意氣相投合して開國説を主張し、一日慨然として結城に向ひ、彼は「幕府が祖法として三檣以上の大船製造を禁じたことは永久の失策であつて、それが爲に今や國内の船舶一も用ゐるに足らないのである。之は今日の場合一日も早く改めねばならぬ。即ち今後我が國長計としては、盛んに大船を造り廣く海外諸國と往來互市し、彼我双方を利すべきものである。然らざれば到底我が國力をも進展せしめ得ぬ」と慷慨したといふ。然も彼は國粋論者であつたから、幕末の湊法大醫淺田宗伯とも意氣投合し、一日宗伯に向つて、「歐米の長所はどこまでも之を採つて、吾人の利用厚生に資すべきであるが、我が國の衣食性の如きは、自ら歐米諸國と其選を異にして居るから、妄りに洋化してはならぬ。かくては必ず禍を後世に殘す。貴下の醫道の如きもその一であらう」と語つたといふ。一大卓見である。
 又幕末初期から、夙に海軍建造を企てゝ居た佐賀藩主の鍋島齊正(閑叟)が、當時蒸氣工作機械を和蘭ら購求し、その工場を封内に起さんとしたが、不幸にも財力伴はず、又掌事其人を得ずして遂に之を幕府に献納した時、幕府は之を納れて工場を江戸灣に設けんとし、遍く瀕海の地を檢し、端なく相州長浦を選定した。然るに適當なる技術者なき爲、起工を差控へて居たが、幾くもなく彼等の盡力に依つて船廠創設の事となり、此の事を擧げて終に佛國公使に委託した。幕府乃ち元治元年十一月廿六日、彼及び栗本瀬兵衛並に軍艦奉行木下謹吾・淺野伊賀守等をして、同公使及び佛國艦隊司令長官等と共に長浦に赴き、詳にその地形を檢せしめ、端なく灣内に淺所あるを認め、更にその隣灣なる横須賀を測量し、遂に其處を船廠設立の好適地と決し、翌慶應元午正月同船廠創立主任として招聘した佛國海軍技士ウエルニーが來着を機とし、幕府は直ちに創設事務を開始し、九月廿七日内浦山地に之が鍬入初の式を行つた。之ぞ横須賀海軍船廠の由來である。當時彼は栗本・木下・淺野等八人の中に加はつて製鐵所委員に任命せられ、大に奔走盡力したのであつた。その苦心の程は栗本鋤雲著の「横濱半年錄」に詳記せられて居る。

 上州小坂村鐵山溶鑛爐建設

 軍艦建造のため製鐵所を設け、大砲鑄造の爲に反射爐を築いた事府は、諸機械の材料たる鐵類を要する所から、終に上州小坂村の鐵山を開き、そこに溶鑛爐を建設するに至つた。之も主として小栗上州の取計つた所である。慶應元年丑年閏五月の上申に曰く。
 鐵山御開の儀は最も急務の御處置と存じ奉り候、勿論、南部の巖鐵・石州の鋼鐵等處々鐵山も少なからず候へども、松平攝津守領分上州小坂村の義は一山中央悉く巖鐵にて、其の他塊鐵も産出致し候趣、先達て一二取寄せ分析をも 到させ侯處、性合格別宜しく、機械類御製造に最も適應仕るべき品柄に相見、云々。
 この松平攝津守とは上州小幡の城主(貳萬石)で、豫て小坂鐵山を開かんと欲して居た。そこで幕府は急に右取調べの爲、大御番格歩兵差圖役頭取勤方武田斐三郎及び大砲差圖役並勤方山崎大之進等をして同地に赳かしめ、その結果として金久保山こそ最も岩鐵を莫大に産出するものなりと見届け、右鑛石を關口鐵砲製造所に持ち歸つて分析し、極めて良好であつたから、後に松平縫殿頭・淺野伊賀守・合原左衛門尉と小栗上野介との連名の下に、松平攝津守に其旨を指令し、同時に鐵山半鑛爐建設と共に、之に用する火力として同國甘樂郡西牧御林の炭を用ゐることゝなつたのである。

 栗本鋤雲と海軍事歴

 尚當時小栗と事を共にした栗本瀬兵衛の事に就いて一言する必要がある。彼はもと幕府の醫官喜多村槐園の三子で、夙に安積艮齋に就いて儒を學び、進んで昌平黌に入り、又醫を多紀・曲直瀬兩家に就いて學び、嘉永三年内班侍醫に列したが、安政五年一たび蝦夷に移住し、文久二年に至り士籍に轉じ、間もなく箱館奉行支配組頭となり、既にして江戸に歸つて昌平黌頭取に任命せられ、同三年七月目付役(監察)となつて横濱鎖港談判の委員となり、竹本淡路守・土屋豐前守と共に横濱に到り、英・佛・米・蘭四國の公使館に出入し、同公使と會見して往復瓣論した。然し其事は到底成就せずと知れる幕府は中途にして之を停止した。そこで彼は歸府し、間もなく老中阿部豐後守に隨つて上京し、當時の事情を具上した。かくて慶應元年には横濱駐在を命ぜられ、同時に横須賀製鐵所掛を兼任し、それより佛國技師を聘し.依つて軍艦翔鶴丸を修理し、その成るや軍艦奉行木下謹吾と共に八丈島に航し、歸途には大島へ寄港し、火山の燒土の船渠築造に用あるや否やを調査して歸府した。尋いで事府で陸軍々制の改正を行ふや、彼は佛國の教師甲必丹ジヤノアン以下數名を聘するの議を定め、又横濱に語學校を設くるの議を建言し、屡々小栗上州及び淺野伊豆守等と協議して盡す所があつた。
 既にして阿部豐後守・松前伊豆守等が將軍に從つて大坂に赴き、外國と議して兵庫開港の期日を早めんとした際、朝命之を不可として二使を罰するや、幕府は彼及び水野筑後守・大久保右近將監に命じて、往いて前議を飜し、兵庫開港は、尚最初の條約に定める所に據らしめた。此時彼は外國奉行に轉じ安藝守に任じ、横濱に至つて四國公使に面接し、辯論大に力めて遂に我が意を達し復命するに至つた。かくて彼は事を以つて佛國に使し、四年五月歸朝したが.時恰も幕府倒れて明治維新の政府成りしより、彼は其仕を辭して歸農し.明治七年に至り報知新聞社に聘せられ て編輯員となり、同十一午東京學士會員に推薦せられ、一世の耆宿として世に立ち、十九年報知祓を辭し、爾来悠々殘年を送り同三十年三月六日七十六歳を以つて歿した。此間、彼はその經歴などを辿つて「匏庵十種」や「横濱半年錄」を草し、又「五月雨草紙」などを殘した。彼の功績は我が維新開國に著しきものありとせねばならぬ。

 陸海軍建設と鋤雲

 更に彼の政事家的手腕を有した英斷振りは、幕末に於ける陸軍創建に關する諸法令を一瞥しても、略々之で察知することが出來る。即ち勝海丹の後年編纂した「陸軍歴史」の砲銃鑄造篇には、江川坦庵や佐賀藩などの記事の外は政殆ど彼の豐後守たりし當時の消息に就いて充たされて居る。その元治元年五月八月松平縫殿頭からの彼へ言渡として、大小砲鑄造の義は方今の御急務、容易ならざる義にて、追々機械製造所も御取立て相成るべく候得共、差向き湯島鑄立場・關口錐入場等卸取建て以來規則相立たず、掛り役々人員のみ多く、却て無益の手數相掛け、自然鑄立も捗取り申さず候間、其方義、右御用引受け取扱ひ候やう仰せ付けられ侯間、此上見込の趣申聞けらるべく候事。
とあるに對し、彼は早速その意見を上陳し、諸種の改革方案を進言したのである。中に曰く、
 湯島の義は先年御鐵砲方江川太郎左衛門へ御委任にて、夫々爐・韛等御取立て、當節に至るまで同人手傳幷に手付・手代等數人懸り仰せ付け置かれ、其の上三兵役を始め立合の者迄にては、五十人餘の者ヘ夫々野扶持等下し置かれ、是のみにても 少からざる御入用殊に會所入用等も多分に相掛り居り候處、元來御鑄立の義ば、職方の者へ請負にて懸目一貫目に付き永三百八十文餘りの當りを以て仕上りの積りに相威り居り候に付き、自然出來方も宣しからず、懸り役々も姑息の情より少々の義は寛大に到し置き侯義之なしとも申し難く、爐・韛にて鎔解仕り候ては、地銅錫等の試驗も仕らず候に付、アルセニヅキ(金屬)・鉛等の難物之あり候故、多數の發射に堪へ申さず、且つ昨年中御下知濟みに相成り候反射爐の義は何分關口濕地にて然るべくとも申し上げ難く、それ是れ堪辨仕候處、差當是迄の舊弊一洗仕り候ては、一端は御鑄造御廢しの上、改めて御規則御取設け之なくては行はれ難くやには候へども、左候ては是迄伺ひ濟み相成り居り、御鑄込も仕らず侯御筒七十門餘も之あり候ては、是等鑄込て差支相咸り申すべく、就ては先づ關ロ一ケ所御取纏め相成り候て、是迄の御鐵砲方手傳並に手付・手代共一同懸り御免仰付けられ、其の餘是迄掛りの者共も人數相減じ候やう仰せ渡され.一ト先御仕法替の趣にて御差止めに仰せ出だされ、改めて反射爐・錐臺其の外御取建の義仰せ渡され候て、夫々掛りの者等主役の義は御人選の上申上げ候やう仕るべく候、云々。
 かくて是等の意見が採用せられ、終に彼は陸軍奉行並に海陸軍器械製造用主役を仰付けられ、以後は小栗上野介と稱するに至り、從つて從前の江川太郎左衛門は永年父祖三代の功勞を賞賜して一先づ退役仰せ付けられ、彼代つて萬事を處理するに至つた。是に於いて大改革の手初めとして瀧野川地内に反射爐・錐臺を建設し.品川・洲崎等内海臺場の備砲を新規の物に取換へ、尚陸軍奉行・玉藥奉行とその職掌を細別し、又新に佛山砲四十挺を製造して一時の用に供した。當時諸方面の反對などがあつたけれども、彼は斷乎として之を斥け鋭意よくその目的そ達成したのであつた。

 幕末の新式調練と兩人の奔走

 尚西洋銃陣法即ち三兵調諌の事は安政五六年頃から幕府に採用せられて、從来の弓槍隊に代へることゝなり、從つて夙に道場を開いた江川塾や下會根塾乃至佐久間塾などでは、愈々之を實演し、それが爲に「三兵タクチーキ」や「三兵活法」等の著書も出版を重ねるやうになつたが、然しそれは殆ど洋法の眞似事に過ぎず、頗る不充分なものであつた。のみならず、是等洋式調練の學修に就いて、原書を讀み且外人と親しく會話し得るのでなては、眞に其法を理解し得ること能はずといふ所から、茲に英・佛國の練習といふことが始まり、横濱表に於いて天・亜・佛等の外人に就いて先づ語學を修習することゝなつた。勝海舟編集の「陸軍歴史」第二十四巻以下に三兵傳習の項を設けて、詳しくその狀況が記してあるが、全く形式的な文面ばかりである。されば同書に引用してある栗本鋤雲著の「横濱半年錄」の文字の如きは、其等の消息を最も率直に物語つて居る。蓋し、鋤雲は瀬兵衛と通稱し、當時の陸軍方の當局者であつたから、幕府の小栗上野介・淺野美作守などと應對した狀況を手輕く記述して居るのである。今同問答中の文字に據ると、實に左の如き幼稚の狀態であつたのである。
 抑々幕府で愈々洋式に倣つて歩・騎・砲三兵の編成に取掛つたのは文久二年であつて、爾來四五年を經過したけれども充分に進捗しない。即ち倉橋長門・貴志大隅などが長崎傳習に赴いたけれども、僅に蘭人に就いて騎馬の技を受けたのみ、騎兵隊操縱などといふ事には達して居ない。然し單に乗馬を知る丈でも他に優れて居るといふので、兩人を騎兵頭とした位に過ぎず、爾餘は皆譯本「三兵タクチーキ」等に就き、或は高畠五郎や大島圭介等に問合せ、各自その臆測を以つて三兵調練の眞似事をしたに過ぎない。是に於いて幕府の當局者たる小栗・淺野の兩人は、此際兎に角何國かの陸軍教師を迎へて士官・兵卒を教導せしめ、一定の法式を作りたいといふので、一朝栗本瀬兵衛を訪ねて其事を粗談じた。時に之を聞いた栗本も大に賛成し、乃ち自己從來の見聞から陸軍では佛兵が第一位に居り、海軍は英兵が第一位に居るやうである。されば今日の場合、先づ佛國公使に就いてその教師を雇ふのがよからんといふことになり、其議一決の後、栗本は早速佛國公使館に至り、當時横濱駐在のレオンロセスに面會し、陸軍教師傭聘の事を談じ其議容易に整ひ、即日之を陸軍總裁に上申し、同總裁老中松前伊豆守等の許可を得て終に佛國教師聘入の事とたつた。然るに當時我が國で佛語に通じたのは、僅に鹽田三郎・立廣作の二人位であつたから栗本は佛公使レオンロセスと謀り、先づ語學を練習せしめる爲、横濱表に佛國語學傳習所を創設すること約し、其議を小栗・淺野兩人に示して賛成を得、三人連署上申の後、日・佛間に條約を交換し、漸く實行の運びに至つたものといふ。當時佛國から我が國に聘せられたのは、同國陸軍總督の人選に依り、カピテン・シヤノワンといふ者であつて、向後三年間滞在せしめる約束を結び、即ち西暦千八百六十六年十一月六日の取極めとなり、間もなく我が國に來朝したのであつた。
 又同時に年季狀を取交して、佛國から日本陸軍の教師として、インゲレク、ボンネツト、バレツト.イサベル、ベルリユセル、ブリユネー、メツスロー、ジユブスケー、デシヤルム、ブーヒヱー、マルラン、フラルタン、メルメー等の數氏をも招聘した。
 かくて後、佛國教師教頭シヤノワンの建白となつて先づ大砲隊を組織し、その勤務方を定め、次に神奈川太田陣屋を以つて三兵傳習所とし、尋いで横濱表英彿語學傳習の開場を布告し三兵傳習操練所を建設し、進んで江戸表にも三兵傳習を開始し、更に三兵士官學校を建設せんとし、駒場野を卜して操練場を取建て.又シヤノワンの建白に依り、種々施設する所があつたが、幕末の最後に至り、政局の進展上止むなく彼等佛國教師を解約するに至つたのであつた。

 木村芥舟と米國渡航

 栗本鋤雲と共に、幕府の海軍創設に就いて附記すべきは木村芥舟の事である。茶舟は幕府旗下の士で攝津守と稱し、當時幕府で新に編制したる海軍の長官となつた。即ち安政初年頃から長崎表で傳習したる軍艦操縦の術も、五六年の後技倆漸く塾したりとて、幕府では遠洋航海を試みることゝなり、當時和蘭で新造したる軍艦咸臨丸を艤装し.爲に彼を以つて海軍奉行に任じ米國に到らしめたのである。時に乘船せる者は長崎の傳習生を主なる者とし、遠く太平洋を航して北米合衆國の西岸桑港に住かしめた。これ安政六年十二月のことであつて、翌年正月無事に桑港に達し、それから上陸して合衆國の各地を巡遊し、滞在數ケ月の後歸途に就き、閏五月を以つて歸朝したのであつた。當時福澤諭吉氏も彼の從僕といふ名義で、同船に乘り組米國を視察して、大に知見を廣める所があつたから、同氏は其事を彼の後年の著術なる「三十年史」に序文を加へ、大に彼を稱揚して居るのである。かくて歸朝後、彼は海軍總裁となつて我が海軍界の事を企畫し、その意見幕府に用ゐられて着々實行し、爲に海軍の面目を一新したから、後には海軍所頭取に任じ、又勘定奉行勝手方を命ぜられ正五位に叙せられたのである。所が不幸にも幾くもなく幕府倒壊し、彼亦其職を失ふに至り、改めて明治維新から聘せられたが辭して應ぜず、爲に晩節を全うした。かくて明治三十四年十二月九日、七十二歳を以つて没したのである。

引用・参照

『近世日本国防論.下巻』 足立栗園 著 (三教書院, 1940)
(国立国会図書館デジタルコレクション)