『維新傳疑史話』

 (一四 - 一五頁)
 七 小栗作戰の建策

 徳川慶喜伏見より敗歸、將士を江戸城に集め善後の計を議す。小栗忠順(上野介)戊辰の役は薩長の王命を假りて徳川氏を陥れたる姦謀として、徳川氏の恢復を謀り策を建てゝ曰はく、唯一戰あるのみ。徳川氏方に新鋭の海軍を擁し他人の企及する所にあらず。即ち開陽丸のごとき、其の噸數三千餘、砲二十餘門を有せり。今斯等軍艦を以て、先づ掩蔽なく進み來る西軍を駿河灣に要撃し進路を遮斷せば、東海道を東下する敵軍は忽ちに潰走せん。彈藥食糧斷ゆる事は必せり。而して陸軍は佛國シヤイアンの訓練せる歩騎砲の精鋭なる數千人をして、敵軍を函嶺以東に誘き入れ、江戸附近に於て撃たば、直に嚢中の鼠にして、一撃粉砕して全滅すべし。援軍來るに途なく、必勝疑なきなり、九州不平の士川上玄齊の徒、必らず起つて薩軍の虚を衝かん。全國の大小名形勢を觀望 する者、亦必らず薩長の詔を矯るの不正を鳴らして我に響應するならん。西軍の中堅は退路を絶たれ、糧食兵器を盡き、此の四圍挟撃に逢はヾ、又何んぞ能く爲さんや。我が軍用金の調達に至つては、忠順誓つて責任を以て之を辨ぜんと。時に慶喜意既に恭順に決し、忠順の言を郤けて聽かず。起つて内に入らんとす。忠順慷慨禁ぜず。進んで慶喜の袖を捉へて曰はく、我に反逆の罪を嫁せらるゝ理なし。非は總て彼にあるのみと。慶喜極力袖を拂うて曰はく、汝が職今之を免ずと。徳川氏開府以來二百年餘、將軍親しく有司の職を免ずること唯だ小栗あるのみ。後日大村永敏之を聞き、江藤新平に謂つて曰はく、苟くも此の策にして能く行はれなば、我が輩の首は無かりしならんと。

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 七 小栗上野の述懐

 小栗忠順既に慶喜に黜けられ、江戸を去り其の采邑權田匿る。嘆して曰はく、我れ固より所見ありて開戰を唱へたれども行はれず、今や主君既に恭順し、江戸は他人の有に歸せん。人心挫折し、機は已に去れり、縱令會桑諸藩、東北の諸侯と連衡し官軍に坑行すとも、將軍にして既に恭順に決せば何んぞ名分の立つことあらん。況んや烏合の衆をや。數月の後は事應に定まるべきなり。然れども強藩互に勳功を爭ひ、軋轢内に生じ、遂に群雄割據の勢いをなすべし。若し時機是に至らば、我等は主君を奉じ天下に檄せん。三百年の徳澤施して人に在り。國家の再造難事にあらず。我等は時機の到來を待つ外なし。予は去りて權田に土着し、民衆を懐け、農兵を養ひ、事あらば雄飛すべし。事無ければ頑民となり終へんのみと。後年或る人之を論じて曰はく、慶喜にして能く小栗の策を用ゐんか、天下の事未だ知るべからず、慶喜の上表政權を奉還するや、辭正しく義明らかなること、數百年來武門の尊王孰れか能く企て及ばん。彼の薩長のごとき、もと不逞陰謀の公卿を刼持し、天子の幼冲を利して天下を壟斷する者なり。今一戰能く之を平夷せば、眞の王政復古觀るべし。戊辰丁丑の喪亂無かるべし。内は上下協和し、外は列國と對峙し、明治の盛業兵に釁らずして得べし。惜しいかなと。斯の言未だ可否をしらず。異聞を姑らくす錄す。小栗權田に匿る。官軍に誘殺せられ、子の又一と共に其の首を梟せられ慘酷を極めたり。

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 三十二 小栗上野介郡縣の説

 小栗上野介忠順は徳川氏の世臣にして、幕府の勘定奉行參政しなる。時に天下尊攘論盛んに興り幕府制すること能はず、諸藩或は自立抗衡の志あり。諸外國英佛のごとき又陰に結託して互に謀る所あらんとす。慶應元年兵庫開港の議起るや、朝廷之を許さず、幕府益々窘蹙す。將軍家茂軍職を辭し、政柄を奉還せんことを請ふ。天皇優詔許し給はず。長門毛利氏犯闕の罪を以て幕府に討伐せられ、天下騒擾益々甚し。上野介以謂らく、海内統一して外邦と對峙せずんば、何を以て能く國を立てんやと。會々佛國公使ロセス其の皇帝那浪翁三世の旨を承け、幕府に兵を假し統一を贊くるの意を述ぶ。上野介曰はく、時機至れりと。乃ち密に因つて長藩を討滅し、餘勢を以て諸藩に臨み向背を問ひ、封建を廢し郡縣となし、海内劃一の政を布かんと欲す。之を同志の當路に説く。或は可とし或は默す。勝安芳之を聞き、曰はく、是石敬瑭地を割き禍を貽すの愚計なり。尚ほ我以て力爭せざるべからずと。

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 三十三 幕末英佛の爭

 小栗の郡縣議あるや、勝義邦(安房)は板倉閣老(勝靜)に問ふに決議如何を以てす。閣老曰はく、郡縣の政は、是天下の大事にして、今日の急務にあらず。惟だ征長軍敗れて薩藩亦長に通じ、幕府に不利ならんとせり。卿等其れ君國の爲めに善く之れを計れ。郡縣の事、豈に今日之を言ふに暇あらんやと。或は曰はく、小栗の議は、一二閣老の然れども納るゝ所となれども、幕議は盡く賛同するにあらずと。然れども此の時英佛二國互に雄を我が國に爭ふ。英は薩摩を援け、佛は幕府と結ぶ。英國公使パークスは西國諸侯に説くに幕議既に決するを以てす。たまたま佛國萬國博覧会の擧あり。將軍は水戸藩主の弟、徳川民部大輔(後の從二位昭武)をして、有司を率ゐて巴黎に往かしむ。英公使掌を拍ちて謂へらく、吾が策成れりと。已にして説を西諸侯の間に放つ者あり。曰はく、是幕府借兵の質となすなりしと。又曰はく、幕府陰に既に九州四國を佛蘭西に典し借兵の訳りと。西諸侯聞いて益々恐惶し。同盟反抗の志あり。

 (八三 - 八四頁)
 三十四 勝安房郡縣を駁す

 此の時に當りて、勝安房守義邦、事を以て大阪に至る。一日閣老板倉勝靜(周防守)に見えて曰はく、聞くがごとくんば、幕府外援を借りて、諸侯を廢する議ありと、苟くも外交一たび開け、彼我往來の道日に繁なれば、封建性の時宜に適せざるは論なきなり。然れども、今や徳川氏海内を擧げて私せんとす。是道にあらず。宜しく自ら率先して、其の封土を削り、之を朝廷に納め、努めて公平至誠を以て天下に臨まば、實に空前絶後の大美事なり。諸侯宜しく聽かざることなかるべし。區々の薩長或は不平を唱ふることありとも、其れ何んか能く爲さんや。廟議苟も決定せんか、薩長をして戰はずして我が議に服從せしむるは、臣不肖と雖ども、請ふ自ら任ぜんと。時に幕臣大久保忠寛(一翁)密かに建議して、速かに政權を朝廷に奉還し徳川氏は駿遠參甲信五國の舊封に就き藩屏の職を奉じ、天皇大一統の鴻謨を昭にすべしと請ふ。議用ゐられずと雖ども、時論之を異とす。

 (八四 - 八五頁)
 三十五 小栗上野介の警語

 小栗上野介は、幕府の有司なり。慶應年間建議し、兵を佛國に假り、薩長諸藩幕府に抵抗する者を誅夷せんことを謀る。議用ゐられずして止む。上野介嘆じて曰はく、吾閣老諸公の言を聞くに、皆胸に成竹あるに非らず。但曰はく、國家今日の政、苟も無事に經過すれば則ち足れり、後日の事は其の時に臨んでどうか成ることならんと。此の其の時に臨んでどうかなるの一語は、豈に眞に所謂一語以て國を喪すべき者ならずやと。嗚呼、古今國家大政に與かる者、其の國を誤り禍を貽す、大抵皆此の其の時に臨んでどうかなるの一語に出でず。上野介の言、亦未だ人を以て言を廢すべからざるなり。

 (一七九 - 一八〇頁)
 九 朝幕の人物

 維新に及びたる一顯官嘗て曰はく、朝幕の人物孰れが優秀多かりしと云へば、其の實は幕府の方多かりき。朝廷の財政家は越前の由利公正を推せども、小栗上野介に及ぶべからず。たゞ詩文の餘事は由利に如かず。陸軍は長州の大村益次郎あれども、亦小栗の兵略に劣れり。海軍は土佐の坂本龍馬を秀となせども、竟に榎本武揚に敵せず。而して幕の敗亡は、大義名分と時勢の然らしむるとのみ。幕人にして傑出せる者は、勝安芳、大久保一翁、榎本武揚、大鳥圭介の徒なり。然れども、皆新強藩に從ひ歸化の人物、其の始めは之に敵し、後には從ひたる者なり。勝安芳自ら詠じて「やせ蛙お辭儀みして濟しけり」と。福澤諭吉痩せ我慢の設を著はし、勝榎本に贈りたることは、善く箇中の消息を語れる者と云ふべし。

 (一八四 - 一八四頁)
 十六 王政復古果して何の名かある

 土佐の坂本龍馬は、王政復古論者の一なり。慶喜將軍の大政奉還の擧あるや、龍馬謂へらく、今や我が國勢を察するに、是上下一致恩讐兩忘して盛んに經論を行ふべき秋なり。徳川氏既に政柄を奉歸し、退いて藩屏に就かんか、海内諸侯聰明にして善く時體に通ずる者は、徳川内府(慶喜)を舍てゝ其れ誰かある。宜しく三條前中納言實美と共に、文武輔相の首班に置き、以て國政を調理せしむべきなりと。以て列藩諸有司の間に説く。皆之れを賛す。獨り岩倉具視、大久保利通等聽かず。曰はく。今日徳川氏仆さずんば、王政復古、果して何の名かあると。

引用・参照・底本

『維新傳疑史話』 牧野謙次郎 著 昭和十三年三月三十日發行 日光書院

(国立国会図書館デジタルコレクション)