『海国史談』

 六〇四-七〇四頁
 (二百七十八) 小栗上州と海軍編制

 幕末の奇傑小栗上野介が幕府の海軍建造に就ての大功は必ず之を想起せねばならぬ、上野介は幼吊を又一といひ長じて忠順と改め、豊後守とも稱した旗士であつたが、幼より岐嶷で大義に通じ財務に明かであつたことは當時彼に匹敵するものなかつたといふ、されば深く泰西の學門技藝を尊重して、之を我國に輸入布殖せざるべからずとし、最初新見、村垣等と共に米國に使した時は年僅に二十餘歳であつたにも拘はらず、先づ金銀量目比較の事に注意して彼に就て質問し、歸朝後始めて小判の位を昇して三倊餘としたほどであつたが、既にして勘定奉行に擧げられ陸海軍奉行を兼ぬるに至つて、鋭意海軍の擴張を期し、勝、大久保、矢田堀等の吊士をも其配下に入れて事を處せしめたのであつた、さればにや勝伯の著海軍歴史には巻中所々に其意見を錄し、特に小栗上州の儘力をせる點を摘記せられて居る、即ち講武所に兵學傳習所に開成所に海軍所に一として力を用ひぬ所はなく、特に横須賀造船所設立の如きは、上州が計ひにて栗本鋤雲専ら困難中に群議を排して成功せしめたものであつたといふ、之は鋤雲翁の匏庵漫錄に記された所故に一の疑を挟むべき餘地がないのである、然しかゝる奇傑であつたが幕末に際し、尚ほ徳川氏の社稷を重んじ、主として開戰論を唱へ、將軍慶喜大阪より敗歸するや上州は頻りに之に勸め、慶喜恭順の旨を述ぶるや上州は入内の裾を持して放たず、強辯して避けなかつた、されば慶喜は止むなく直語して上州の職を免ずるに至つたが、將軍直語の免職は幕府を通じて上州一人であるといふ、以て其硬骨男子たるを卜することが出來る。されば罷免後は其邑上州群馬郡三ノ倉村大字權田に歸り、練兵一隊を養ふて自ら守つたが、一日官軍の將某來攻め欺いて之を招致した時、衆の諫むるをも聴かず、單騎之に赴いて其戮する所となつたと傳へる。實に明治元年であつたのである、上州の末路は憫むべきであるが、此明敏果斷の士ありたればこそ我國當時の兵制上且つ財政上にも、大に其基礎を固めしむるに至つたもので、之は大に稱揚せねばならぬ所に相違ないのである。

引用・参照

『海国史談』足立栗園 述 (中外商業新報商況社, 1905)
(国立国会図書館デジタルコレクション)