『町人の天下』

 二十八 幕府及諸侯の御用金

 一七六-一七八頁
 安政の御用金 三野村利左衛門の事

 次に十三代家定の安政元年、幕府は又も國防及び、内裏修覆の費用に窮し、勘定奉行小栗上野介をして、五月江戸の町人に命じ金二十二萬兩圓の御用金を上紊せしめた。此の時、三井家の江戸勤番は三井高喜であつたが、豫め此の事あるを聞き、前年も莫大の御用金に應じて、各商店共、非常な打撃を被つて居る矢先、成る可く其負擔を輕からしめんとして十人組とも連絡を通じ、番頭三野村利八の養子、利左衛門をして上野介に交渉せしめ、百方、事情を具陳して大いに其負擔額を減ずる事を得た。三野村利左衛門は素と信州の人である。江戸に出でゝ神田三崎町の油屋紀の國屋方に奉公し、毎日駿河臺、小川町邊を賣り歩いて居る間に駿河臺の上野介の邸へ出入りする事となり大に上野介と意氣相投じ、其の世話で三井家の番頭三野村利八の養子となつたのである。高喜が利左衛門をして上野介に御用金の輕減を運動させたのも此縁故があつたからである。  見よ、幕府は寶暦以來、殆ど江戸、大阪の町人によつて纔かに天下の政治を行ふ事が出來たのである。武力に尊して建設せられたる徳川氏の封建制度は此時、事實に於いて既に金力の破壊する所となつて居たのである。

 二十九 町人の勤王

 一八三-一八五頁
 三井高輻の勤王 金穀出紊所と其御用達

 慶應三年十二月二十六日、天下の風雲漸く急ならんとするに際し、京都の御所の金穀出紊所から三井家の主人高輻に宛てた左の如き通達があつた
 今般、幕府は大政を返還し、直に大阪城に引上げたたるに付、天下の政事は總て朝廷より仰出さる可きは勿論の儀に候へ共、未だ幕府より會計方の引渡なければ、畏れ多くも一金の御貯へなき姿にて、何分にも御手落の儀なり。仍て金穀出紊所を置かれ、金穀醵集方儘力中に候處、方今の形勢より察するに、朝幕の間、何時兵端を開く可きやも測り難く、扨て、經費及軍費金の支出に差支ふるの懸念なきに非ず、其組織は年來輦下に居住し、往昔より禁裏御兩替相勤め來り候儀に付、更に金穀出紊所御用達申附候。此場合を恐察し奉り、急ぎ勤王一途に儘力可致候。
 此一通の通達書には維新の革命と、其裡面に働きたる富豪の力とが遺憾なく表はされて居る。後世新しき眼光を以て史を修するものゝ正に忘るゝ可からざる重要の文書である。三井高福は卒然禁闕に伺候して其大命を拜した。斯くて三井家の手代數吊は常に金穀出紊所に出頭して朝廷の財務を鞅掌する事となつたのである。

引用・参照

『町人の天下』白柳秀湖 著 (隆文館, 1910)
(国立国会図書館デジタルコレクション)