『親分子分.侠客編』

 町奴の巻

 九 兼松又四郎、小栗又一の剛直

 伊達政宗、兼松又四郎と喧嘩の事

 65-71頁
 小栗上野の祖先 蜷川氏と小栗家 小栗姓の始め 遊就館に陳列されて居る小栗家の寶 又一の名を賜ふ 初代又一の武功 家康の生きた楯 權現樣へも悪口 二代又一の剛直 小栗の部下よく主の氣性を知る 伊豆守小栗に謝罪す 香木を分つ 小栗坂下門を守る 春日局平川門外に閉出さる

 小栗又一は幕末の勘定奉行として名高い小栗上野介の祖先である。法覺博士、蜷川新氏の『維新前後政爭と』題する書物に、小栗家の系譜と、中興の祖、即ち初代又一とに關して次の記述がある。(著者は小栗家の當主貞雄氏と親交があり、蜷川氏が小栗家の親戚で、小栗家所藏の正しい系譜によつて此記事を作つて居られることをよく知つて居るので、其儘之を採用することとした。)
 『小栗家は、清和源氏』であり、本苗は、松平である。即ち徳川氏祖先の一門である。遠祖は三河を本國となし、又生國を三河となし、松平隼人正信吉と云つた。三代目の二右衛門尉吉忠より、母方の性たる小栗の性を名乘ることゝなつた。此人は榊原忠次と同時に、徳川廣忠に事へ、忠次と同じく「忠」の一字を廣より給ふて「吉政」を「吉忠」と改めた人であり、古より徳川家と深い縁があつた。十六歳にして家康に從ひ、三州上野に於て、櫻井内膳正と合戰の折、敵と槍を交へて奮戦し、比類なき功名を顕し、其以後毎功名あり、其子四代目忠政に至つては、有名なる勇者であり、徳川家康の信用最も厚かつた人である。元亀元年六月十六歳にして姉川の合戰に從ひ家康の身邊遽かに適の迫り來たりし折、家康の側近くにあり、槍を取つて敵と渡合ひ、敵を打取り危機一髪の間に家康を救つた。家康其勇を感賞して其槍を其儘褒美として與へたのであつた。是れ「信國作」の有名なる槍であり、今日尚小栗家に家寶として傳はりつゝある。今は現に遊就館に陳列せられつゝある。其後數度の戰場に於て、常に一番槍を合せ、功名を立てしを以て、家康は其名「又一」と改む可しと命ぜられ、由來「又一」を代々當主の名となし、長坂血槍九郎と共に、日本の戰史の上に、有名なる家柄である。此人は、味方原や長篠や、其他大小の戰に於て、常に功名を立てた人であつた。豐臣秀吉逝ける家康大阪城へ出仕の時、供奉三十六人を從へたりしが、之れ危急決死の行であつた。即ち其内より、太刀持ちとしては、榊原、井伊、本多及び小栗の四人を擇ばれたのである。城門にて、大阪方は供奉の人々の入城を拒みたりしに、之等勇士は、「あたりを拂うて廣間まで家康の供をなし」家康の身邊を守つたのである。以て非凡の勇者たりし事が察知せられる。初めの大阪陣の折には船場の橋梁の燒け落ちたるや否やに付、單騎敵前に進みて偵察し、敵將上條又八も亦其勇氣に嘆賞禁ぜず「斯る勇士を打取る可からず」とて、部下に之を命じ、數千の敵兵は其行動を静に眺めたのであつた。此れ上條又八其人の役後に人に向つて語れる所である。大阪の陣、小栗忠政は常に家康の身邊を離れず、砲彈雨飛の間に、家康の身を掩護して、敵の一彈其股に受けたこともあつた。或は敵を偵察して詳に其の兵數を報告し、殆ど其算を過たず、家康の感を得たこともあつた。此勇者は、元和二年九月十八日病歿したが。其齢は六十二であつた。』
 尚ほ此初代又一が如何に剛直の士であつたかは、『翁草』に載せてある左の挿話によつて見ても知られる。

 小栗直言の事

 薩摩守樣關ケ原にて頸を御取り御前へ御出なされ候。權現樣御悦びなされ諸大名も譽申され候。小栗又申候は、逃廻る敵の足手を押へて頚をとらせられ候を譽申候へば、いつも敵は弱きものと思召て、後の爲悪く候と申す。薩摩守樣も是を御聞き被成、御立腹なされ候由。又一は久敷御使番にて覺有ものなり。權現樣へも、すね廻り悪口など仕る故、立身もえせず一代五百石取なり。死る年頃御加増下され間もなく死去なり。
 寛永の頃、久世、坂部、兼松、阿部、池田等の諸士と共に、旗本の精粋を以て稱せられたのは、恐らく二代又一のことであらう。松崎堯臣の『窓のすさみ』に次の記述がある。文中、又一を又市郎としてあるのは、恐らく誤りであらう。
 『寛永の後の頃なるべし。増上寺にて法會ありし時、小栗又市郎(又一?)の組の立ちならびたる陣列、少し出張りければ、伊豆守信綱朝臣通るとて、少し跡へ退くべしと命ぜられける。與力の士言けるは、此事聞入れなば、小栗殿の心に叶ふまじとて、其儘にして居つゝかの事すみてひそかに小栗氏に申しければ、いしくも他の下知に從はざりつる。若し從(ひ)なばゆるすまじきと云いて、宿所へ文をつかはし、其身は朝臣の許に往て、見参に入たきよし申されけるに、いま歸宅なかりしかば、さらば待ち奉るべきとて、亭へ通りて居られけり。かくて朝臣歸られければ、其よしを申すに、朝臣うち笑(ひ)、さ有(り)なんとて直にあひて、よくこそ來られたれ。先には組の面々へ指南して候へ。ふと思ひ寄(り)て卒爾なる事にこそ候つれ。あやまり候ぞ。心に掛られなと有りければ、さの仰せにて候得ば事濟み候。某が預かりたる組の事を御方なればとて、御いろひ有るべき事に候はず。夫れ故其由を、承はるべきとて参りたるに候。御會釈の上は、申樣もなく候と有りしかば、今朝よりかの勤めにきびしく有るべし。常飯参らせんとてさまざまもてなし、數獻の上、是は上より給はりたる木なり、分贈せんとて沈を一ふし贈られけり。かかるうちに小栗の陪從輿を持來り、死體を受取(り)に参候と云入りれけり。朝臣の聰明故にこそ、事なくて止みける。其世の武士の剛強、大やう此たぐひなりしとぞ。』
 『此又市郎坂下御門當番たりし日、品川邊へ御成(り)有(り)て、只今還御なると御先拂來て云へども、御門を不開して、御門前にうづくまり居たるに、御輿いたりて、又市々々と御詞有し時、御門を開きしとかや。惣じて此頃は大概此格にて有りしにや。春日局の何事にか夜登城せんとて、平川口へ行きかゝり、春日なるを通し候へと有りければ、天照太神にても夜は通すことならざるとて開ざりしかば、是非なく歸り、翌日登城して涙を流して語られけるに、さも有るべしと上意にて、御感のけしきなりければ、其沙汰もなかりけり。されば宇都宮より急に還御有し折も、夜の事なればたやすく通し不奉りしを、却て御感有りとかや。昔は武備を大切に守りし國風、をのずから如此なりしとぞ。』
 當年、尼將軍の再現として世にその權勢を謳はれた春日局を平川口の夜露に打たせたまゝ門の閂を一分も動かさうとしなかつたのは、旗本の精鋭近藤登之介であつたといふ説もある。

引用・参照・底本

『親分子分.侠客編』白柳秀湖 著 (千倉書房, 1930)
(国立国会図書館デジタルコレクション)