『群馬県資料集 第七巻 小栗日記』

 小栗上野介日記・家計簿

 九-十一頁
 調査書

 小栗上野介忠順は徳川家の旗本であるが、当時の上刕に五か所の領地を有した関係で、失脚してから榛名山西麓烏川渓谷の群馬県権田に土着して永住の計を立て、同村の観音山の上に遙々と山奥水路を引き田地を拓き、邸宅建築に着手したことから官軍方の嫌疑を受けて、どさくさ紛れの内に問答無用とバッサリ斬首された人物で、論者によると上野介のことを倒潰寸前の徳川の天下を唯一本で支えた支柱であったかの如く買被るものもあるが、それは人によっていろいろの見方があろうけれども、殺して惜しい人物だったということは誰一人異論はないと思う。
 その上野介の烏川原で斬られたのが明治元年閏四月六日で、今年はその八十八年目、所謂棺を蓋うて定まる筈の彼の人物伝の、今以て首肯し得るものが書かれてないのはどうしたことであろうか。
 それこそ彼の権田隠退後の生活が当初から誤り伝えられて、恐ろしく腹黒い奸物であるかの如く、思い込まれていた為に外ならない。
 さらば何故にそんなことになったかというに、多年勘定奉行という幕府の身上廻しをやって令吊のあった上野介だから、権田へ引込むに当り、莫大な軍用金を着朊して持込んだろうという、凡そ馬鹿気きった風説がまことしやかに流布されて、彼が江戸から権田に着したのが三月一日と、もうその四日には数千の百姓一揆が掠奪に押寄せた騒ぎがあり、或はそれと一脉通じる処のあったらしい岩松の新田万次郎一家が、小栗の知行所群馬郡下済田村の吊主を突然拉致して新町に監禁し、領主上野介の動静を逐一糾問したあたりから、時の官軍方でも目の上の瘤視していた小栗をやっつけて、巨万の有金を奪取出来れば一石二鳥だというような処から、有無をいわさず謀叛人として斬首して見た処、案に相違して金はいくらもないので、大当外れのてれ隠しに、小栗こそは莫大の軍用金を何処かえ埋蔵した大悪人であるというようなデマを放送したので、こんな場合その冤を雪ぐ為に結束して起たなければならぬ旧領権田のの村民までが、既にあの当時自分等の安全を計るに急で殿様を死地に陥れた形跡さえある位ゆえ、小栗の為に弁護するもの殆どなく、従て在職中の花々しかった上野介が、隠退後は時勢を見る明をスッカリ奪われ蟷螂の斧を揮うような愚物だったかの如く伝えられてしまったのも止むを得ないことであった。
 然るに数年前、県下北群馬郡渋川市の旧家後藤善十郎氏の篋底から、八十余年の夢を破って出現した小栗上野介自筆の日記と家計簿とは、わが県内はいうまでもなく、普く天下の小栗上刕研究家にとって正に闇夜の大炬火とならずには居ないであろう。上野介非業に死してから八十六年、漸々のことで一昨年群馬県史跡に指定された権田東善寺の小栗墓前に、昨年の春は命日を期してその胸像除幕の祝典が盛大に挙げられ、引続いて今回この自筆日記と家計簿十年分との発見を弘く社会に宣布することは、何という巧妙なる天の配剤であろうか。
 既にその原本は東大の資料編纂所に提出して留置かるること数カ月、維新資料として最も貴重な文化財との折紙を附され、鄭重還付を受けているが、即ち慶応三年分三百五十四日間、同四年(明治元年)分百二十日で後者には殺される日を入れて四日間だけ書いてないことになる。
 いまこの二冊の日記を通して見る上野介という人間は、如何なる時にも決して感情を紙面に表わさないのに驚く。大坂で大敗して気抜けのようになって帰府した将軍慶喜を出迎えても、その翌日江戸城で和戦の大評定、主戦派の急先鋒たる彼自身が、将軍の袴の裾を押えて極論した為、遂にその怒りに触れて、将軍家から直々に職を免じられた。こんな例は徳川三百年に彼一人ほかなかったといわれる。その日の記事も平々淡々と表面の事しか筆にして居ない。
 彼の日記には喜怒ももなければ、哀傷もない。彼は恐らく鉄のような人だったのであろう。そのまた鉄の人のキチンとした物を無駄にしない好適例として、彼の日記の最期の頁、即ち三十五丁目閏四月二日記事の中に挿まれて、十五行に墨で罫を引いた下敷紙の表裏共彼氏の多年の手垢で真黒に汚れているのに気付く時、誰か上野の為に胸の一ぱいにならざるものがあろうか。
 こうした小栗という非凡の人物は、その翌三日に形勢を察して母堂と妻女を会津へ落とし、五日に官軍に捕縛され六日にはもう首を舘林に送り出される始末、所謂電光石火的に官軍の手で片付けられてしまったが、その末期に太刀取の気おくれから一ト太刀で首の落ちない上野介が、「お静かに」と一言冷罵を浴びせたということが伝えられて、太刀取ならぬものが聞いても、肌身を寒くするに十分であろう。

 小栗上野介日記

 六五*八七頁
 日記(慶応四年歳次戊申従正月)

 十二日 酉 天気能

 一 第八字登 城致候処昨夜大坂より御敗軍ニ而開陽丸御船ニ而品川沖江 還御被 遊候由ニ付即刻浜海軍所江為 御迎相越第十時御機嫌克還御被遊候
 一 大坂城者大敗ニ而御引上之由ニ有之候
 一 又一今日屯所より罷帰り申し候

 『新編 倉渕村誌 第一巻 資料編Ⅰ 原始・古代・中世・近世』

 第六章 小栗上野介忠順

 第一節 小栗日記

 621頁
 三〇六 慶応四年 権田村旗本領主小栗上野介日記(抄)

 二日 酉 天気能
 一 終日在宿
 一 真彦、三ノ倉村・高崎宿江為引合遣候処、明後四日、又一義高崎城下江相越、夫ゟ同藩之者同道ニ而、行田迄相越候積り、尤同所ニ総督罷在候段、高崎家来申聞候趣

引用・参照

『群馬県資料集 第七巻 小栗日記』昭和四十七年九月二十日発行 群馬県文化事業振興会
同書の調査報告 群馬県文化財専門委員 本田理一(夏彦)から抜粋

『新編 倉渕村誌 第一巻 資料編Ⅰ 原始・古代・中世・近世』平成二十年三月十日発行
編集 倉渕村誌編さん委員会 発行 倉渕村誌刊行委員会

(最後の記録日 慶応4年閏4月2日・1868年5月23日戊辰 己酉:五日小栗捕縛、翌六日斬首)