『懐往事談:附・新聞紙実歴』

 ◎第四

 三十六-三十八頁
 幕府の遣米使節

初め安政五年新たに外國奉行を置き水野筑後守岩瀬肥後守永井玄蕃頭堀織部正の諸人を以て之に任じたりし時には外國奉行は皆幕府の俊秀にして良吏の淵叢なりと稱せられたりしが幾も無くして御養君論の爲に岩瀬永井は井伊大老に擯斥せられ其他才幹あり實驗ある幕吏の重立たる人々は皆倶に退けられ安政六年の末には左しも外國奉行の要地も概ね紈袴子弟か俗吏庸才の集り所成り僅に掘が水野と提携して其間を幹理するに過ぎざりき

米國條約を議定せるに當り本條約(批准)は實施後一年の中に米國華盛頓府に於て交換すべしと定めたるは深意の在りし事にして當時岩瀬水野は此批准交換を期として自から公使となり幕府の中にて有爲の人材を率て米國に赴き親しく外國の狀況を視察し大に我國開明の歩を進むるの機會を得んと望み米國公使ハルリスも亦大に其意を賛成したるに付き斯は議定したる事にして堀田閣老も亦實に同意せられたりと云へり(森山氏の説に據れば堀田閣老は頗る此議を是なりとし或は己れ自から水戸の老公を説き一橋刑部卿殿をも勸め相興に米國一覧として赴くべしと云はれたる事ありしと岩瀬が物語せしと云へり)然るに岩瀬永井は已に退けられしかば水野は其志を保續し此公使の任に當らんと望み幕府も之を肯したり、依て余は水野に随從して米國に赴くの内約を得て頗る悦び其日の來るを俟たりしに水野は前章の變よりして外國奉行を解きたれば余が望も其時に絶たりけり、扨この批准の使命は誰に任せられしかと見れば外國奉行新見豐前守村垣淡路守御目付小栗豐後守後上野介にてありき、新見は奥の衆とて將軍家の左右に侍したる御小姓の出身その人物は温厚の長者なれとも決して良吏の才に非す村垣は純乎たる俗吏にて聊か經驗を積たる人物なれば素より其器に非ず、獨り小栗は活發にして機敏の才に富たりしかば三人中にて穐に此人ありしのみ後年に至り小栗が幕末の難局に當りて善く之に堪たるも米國に赴きて其見聞を廣めたりしもの冥々裏に其効果たりしもの歟、勝麟太郎氏伯爵勝安房も此時幕府の軍艦咸臨に船將となり御軍艦奉行木村攝津守を乘せ公使護送として桑港まで赴き福澤諭吉氏も亦此行に從へり勝伯福澤氏の夙に外事に活眼を開きたるも蓋し此行の慶なりと云ふへき歟、此使節一行は萬延元年の春初に横濱を發し其秋に歸國なし彼地に於て非常の待遇を被り見聞を廣くしたれとも公使その器に非ざりしが上に其歸朝せし時には時勢また頓に一變したるを以て彼等は皆口を鉗して米國にて見聞せし事を説かず其地位を保つに岌々たりければ到底岩瀬水野諸人の苦心もこの爲に水泡に屬したりき

註:『改訂 肥後藩國事史料 二巻』四二五頁参照

 ◎第五

 三十八-四十九頁
 井伊大老の不人望

御大老井伊掃部頭殿の威權を張られたるは實に安政五年の四月就任の初より萬延元年三月横死に至るまで凡二年間の事なりき。當時余は譯官の末班に在りて横濱に祗役したるを以て親しく其衝に當りたるにも非ず云はゞ關係尤も薄き方なり加ふるに書生より役人になりたる迄にて内治外交大小の政務には一言たりとも喙を容れ得べきに非ず又その實五里霧中にあるの少年なりければ何處を風が吹廻すかと云ふ氣にて勤向後生大事と勉強したる分の事なりき。然れども余が江戸に來りて褐を釋きたる前後より其知を辱うし竊に欣慕の思を爲したるは當時幕府の俊傑と知られたる方々にて第一には水野筑後守岩瀬肥後守永井玄蕃頭川路左衛門尉の四人なりき、然るに岩瀬永井川路の三人は御養君論よりして井伊元老の爲に退けられ尋て其譴責を被り蟄居褫官の身となり現に外國局に殘りたるは僅に水野一人にて夫さへ今日は明日の安否如何を知らず恰も針の席に坐するの狀況にてありき、其他平山謙次郎(後に圖書頭となりて維新後は平山省齋と呼ひたる人なり)木村敬藏の諸氏も余を愛したる人なりしが是も同じく大老の爲に退けられたる連中にてありき、されば余が知遇ょ受けたる人は余か釋褐の前後に概ね擯斥せられて幾と遺す所なきに至れり、是れ敢て余のみに非ず當時外國局に出役したる少年俊秀の僚輩も亦皆同樣の感を懐きて井伊大老を快からず思ひたりき、是れ獨り外國局のみに非ず例は海軍の如きも曩に阿部閣老より堀田閣老の時に至るまでは歐洲の制を採用して専ら改良進歩の途に就きたるを一旦井伊大老の時と成りては着々其歩を停むるの狀を來し又洋學の如きも一時は蕃所調所に於て荷蘭および英佛の書を盛に講習したりしも井伊大老の時に移りては自から衰微の有樣に變じたり是れ必ずしも井伊大老の意には非ざりしならんが大老が西洋進歩の政治學術を好まざるを知りて幕府の有司が其意を逢迎して斯る狀勢に到りしなるべし。要するに大老は其人固より開國主義の人にあらずして實は鎖攘精神の保守家なりと雖とも外交の事情は此時正に實際問題となりて既に條約談判濟にも相成て調印する迄の一際に及びたれば迚も是を引戻して談判前に立返る事は出來ざるが故に己が心には欲せざれども英斷を以て調印をば許したるなり其餘の事は都て西洋風を採用して我從來の獨裁組織を變する事あるべからずと云ふの主趣なりしとは考察せられたり。是に於てか鎖攘主義の尊攘黨が大老を仇視したる而已ならず幕府の進歩黨も亦大老を友視せずして却て其所爲に不平を抱きたりなれば大老は尊攘進歩の兩黨が俱に喜ばざるの地位には陥られたるもの歟。安政六年の冬と覺えたり余が江戸へ立戻りしたる時に水野筑後守を訪問して談偶〻大老の事に及びたりりしに水野は浩嘆して余と雖とも掘(織部正)と雖ども大老に喜ばれざる人物なり其を今日の地位に置て未だ遽に譴責せざるは他なし外交の困難その處理に當るの官吏なきが故なり今日にもあれ大老が爪牙股肱に稍〻外交に適するの人物あらば余と掘は忽に擯斥せられて岩瀬永井川路等と同樣の災阨に陥るべしと言はれたる事ありき以て大老の幕府有司の俊傑に對するの關係を察するに足るへし。又森山氏も外交の事に談及する毎に常に阿部閣老の人となりを稱賛し此閣老が松平(河内守)川路筒井水野井上岩瀬永井掘の諸雄を登庸して外交の任に當らしめたればこそ下田の談判よりして江戸條約も纏つたるなれ若し今日の大老にてあらば百のハルリスありと雖ども砲烟を見ずして平和の開國を見ん事は迚も覺束なかるべしと言ひたる事を記臆せり、今日より回想すれば森山氏の説は頗る一理あるが如くに思惟せらるゝなり

 四十一-四十四頁
 井伊大老の横死

櫻田の變の前日に余は神奈川運上所の休暇三日に連なるを幸ひに請暇を得て二日の夕に江戸に歸り來りて密に浩然の氣を養ひたれければ櫻田の變事を聽たるは三日の正午にてありき、變事を聽たればとて直に登營すべきに非ざりければ(是は内々にて江戸に來りし故なり)其樣子を聞んとて急に雪を踏て友人の許を尋ねたるに何れも皆愉快〻〻と呼び一人として此の變を憂ひ悲める者は幕吏の進歩黨開國黨の中にはあらざりき、然れども是は余が如き青年儕輩若くは身分の低き連中の説なれば決して引當には成り難しと思ひて此夕森山氏を訪ひたるに氏も亦大老の變死は是れ開國の氣運を旺盛ならしむるの兆なるべしとて頗る得色ありき、翌夕水野筑後守に謁して同じく此變事に談及したるに水野は肩を聳して曰く昔し赤穂の義士は四十七人にて旗本の吉良上野介を殺すにあの如き大騒ぎを成したり今や水戸の義士は十七人の人數にて大老の彦根侯を白晝に刺殺したり其技倆は赤穂の義士よりも勝れりと云ふべし、次に幕府の御老若大小目付が此變に周章て急に評議に及び井伊家を説て途中狼藉者に出逢ひ怪我いたし屋敷に引取り療養仕候と存命の如き届書を出させ幕府より藥を賜ひ典藥を遣はされ交々相謀つて天下を欺きたるは失躰にして兒戯に類するものなりと云ふべし、殺されたるが實にて諸人の俱に知つたる所なれば初より殺されたりと届出させ其趣を公示するに若かず然るを斯の如くして己れを欺き人を欺くは何の爲ぞ後日必らず此欺罔の爲に大なる批難を惹起して却て幕府の爲に不利を來すならん、次に井伊大老の斃れたるは諸人皆これを愉快なりと喜べとも余は(筑後守)敢て愉快とは云はず此大老は余が平素感服せざるの人なれとも實は當代の一豪傑なり此人かく非命に死たる上は見よ見よ幕府の政治には必定一大變動を起し京都と云ひ水戸と云ひ其外の尊攘黨と云ひ思はさる邊より事起り來るべし其時に臨み是を處理する宰相は誰かある余が知たる所にては先づ其人ありとも覺えず、あはれ今日に於て幕閣の利たらしむる事を得べきが夫も頗る望み難かるべしと云はれたり、蓋し水野は此機に乘じて一橋刑部卿殿を戴き永井岩瀬川路の諸人と共におのれ自ら進て責任の地位に立たんと思ひたるなり。幕吏の有爲家の言ふ所にて斯の如くなりければ江戸市井の輩は何の理由も知らずして井伊大老横死の上は天下の事は是より幕府の權威は鞏固ならんと徒らに思ひたるは淺ましき事ともなりき

 ◎第十三

 百二十四-百二十八頁
 横須賀製鐵所設立の由来

元治元年の八月より慶應元年の三月まで凡八ケ月の間は余が爲には尤も閑散無爲の時にてぞありける。一年許も眼病に罹りて引籠り漸く全快の上にて出勤して見たりければ僅の間に世の中の狀勢はいたく移り變りて何事も思の外に成行たり、扨て外交の事は如何と視れば當時は幕府が曩に頼にしたりける米國ハルリス公使は既に任満ち歸國して今は佛國ロシュ公使が漸く幕府の信用を博したり而して英國パークス公使新に渡來して頻に幕府に向て議論を試みたる時なれば外交世界は英佛の時節とは見えたりけり、去れば閣老の應接も數年前の如くに鄭重ばかりを旨とすると云ふにも非ずして時の外國掛り御老中は公使の申込み又は外國奉行の申立に由て諸公使に面會を遂られ若年寄は閣老の代理として屡々横濱にも出向はれ現に税則改正談判の如きも酒井飛騨守が自から全權を帶て取扱はれたりと覺えたり、斯る狀況なれば外國奉行の價直も漸々に貴からず成り來りて今は閣老と公使との間に挾まれたる取次役の樣には見えたりき、尤も其應接談判には從來常に我日本譯官を介し荷蘭語を外交用語に成したりしかども今は全く廢して應接は勿論往復の文書は日本英佛の語にて互に其譯文を添ふる事となりにけり。凡そ介譯の常情として自國の譯官を使用する方が幾分か不便不利益を被るものなるを幕府は是まで既に之を實驗したり、然るに今は佛公使にはカションあり英公使にはシーボルトありて俱に善く日本語にに通じて通辯を勤めたれば復た日本譯官を介するの必要を省きたり。其來翰の如きも英語或は佛語の原文に彼方にて認めたる日本譯文を添へ來るに付き、外國局員の敏捷なる早くも是に乘じて日本文の外には依然として既廢に屬したる荷蘭譯文を添へて我國の譯官中には英語若くは佛語に通じて外交文書を譯稿する程の人なし僅に字典に頼て讀み下し其意味を朧氣に了解し得る位なれば迚も譯する事は出來申さずと分疏したり、是敢て構へて分疏するに非ず實に英佛の語を十分に話し英佛の文を十分に稿する者は江戸廣し雖ども當時一人も無かりければなり。而して是が意外の幸となりて談判の上にて偶々意味の行違を生ずれば往々其過失を彼方の通辯の通譯又は譯文に歸して幕府の有司は當然愛くべきの苦情を受ずして免れたる事もありけり。斯る次第ゆゑに余輩の通辯御用の輩は大に繁忙を減じて來翰の原文と是に添たる譯文とを校讐翻譯し又は我書翰に添ふる荷蘭譯文を稿する位に止りて英佛諸公使の應接には閣老面談の塲合の外は出席せざる事となり其中にても余は奉行の爲に機密の書面を認などする秘書官の樣なる勤を此頃より心得たる故に猶更通辧の事務には疎遠に相成たり且つ從來は閣老参政が外人に面談の節には大小目付是に立會を要したるが幕府の法例にして此の御目付方の事を不適當にもスパイと翻譯したるが爲に外國公使は大に是を忌み嫌て苟も兩國交際の談判にスパイの列座を許す事やあるべきと論じ頗る面倒の思を爲したりしに是も栗本安藝守(鋤雲翁)が御目付を勤めながら主任官の外國奉行に代りて屡々佛公使に引合ふたる時より何時と無く自から廢せられて此節にては御目付立會及び支配向侍座と云事も止たりき。右に付横須賀製鐵所取立の件に付ては余は親しく其事情を與り知らざるなり、但し是より先き幕府は軍艦及運送船を買入て海軍の所轄に屬せる艦船漸次に其數を増加し其上に此艦船には老朽のものゝ多くして常に修繕を必要とするに關らず幕府の造船修艦所とては長崎飽の浦の製造所と江戸石川島の造船所の二カ所ありしのみ夫さへ其規模は至て小さくて實は修繕の用にも造船の用にも適せされば幕府は其船を上海に廻航せしめて修繕するの不便を感じたり、是に由て御勘定奉行小栗上野介は主として此不便を除くの策を立て栗本及び山口駿河守(泉處)等に謀り佛公使の紹介を以て當時軍艦を率て横濱に來日したりける佛國海軍少將某に乞ひ一士官を聘雇し横濱に製鐵所を設て差向たるに修繕の用に充て更に少將某の推薦に由りて佛國海軍の工部士官ウエルニーを上海より召寄せ之に托するに一個の盛大なる製鐵所設立の事を以てするの見込を立て曩に鍋島家より獻納したる製鐵器械を横須賀に据付け不足の分は英佛より買入れ其職工等をも佛國より雇入るの議を定め熨斗を附て他人に與ふまでも責て土藏附の賣家に致し置き度ものなりと云ひたる時の事までの概略は余は素より之を承知はしたれども直接に其事を取扱ひたるには非ず言はゞ傍觀傳聞したるに過ぎざりき。然るに此横須賀製鐵所取設の議は慶應元年に至りて愈々議定したりければ幕府は此年の四月廿五日を以て外國奉行柴田日向守(前に貞太郎と稱して外國の組頭を勤め竹内松平が歐洲使節の時に書記官長となりて随行したる人なり)に命ずるに御用有之英佛兩國へ被差遣旨を以てしたり、依て其随行員には組頭水品樂太郎(梅處)調役富田達三(冬三)同波小花作之助(作助)通辯御用鹽田三郎および余の五名を命ぜられたり、此随行は余が兼て期せざる所なりしに此命ありたると實に望外の喜なりき、余が外遊は前後四回の多きに及びたれども眞に愉快にして且つ見聞の益を得たるの多かりしは此行と其後明治三年に伊藤大藏少輔(今の總理伯爵)に從ひて芳川君(今の司法大臣)と共に米國に赴きたるの兩回にて今日までも常に記臆に留まるを覺ゆるなり

 百二十九-百三十五頁
 理事官の英佛使命

柴田へ賜はつたる將軍家の御委任伏には佛國西國都府に於て談判の儀其方へ委任せしめ全權使節を命する者なりとありたけれども此頃までし都て外國へ派遣する使人を使節と唱へ大使公使等の區別は未だ無かりしなり然るに此使節を大使と唱ふるは甚は不當なり須く其稱呼を取替べしと佛公使の忠告に依り更に特命理事官と改め夫々の命令を與へられ俗務は組頭調役これに専當し外國の引合は鹽田一人にて擔當したれば余は存外に用務少なく僅に諸般の書物に從事して其準備を助け、乃ち此年閏五月三日を以て江戸を發して横濱に至り同き五日英國郵船ニポールに乘込みて發船し六月廿七日歴山太に着し即日郵船ナヤンザに乘移りて七月六日に馬塞里に到着したり。此行は前年歐洲使節の時と違ひて人數も少なく殊に理事官を初め一行は概ね外國行に實驗ある連中なれば案外に不都合なく乘船も郵船の事ゆゑ十分の便利を有し航海中は碁將棋と詩作にて日を送つたり但し余は碁も知らず將棋も知らざる至て不器用の性質なれば戦中にて談話と讀書の外は儕輩の相手になりて詩を作るをば日課の樣に仕たり其御蔭にて詩は餘程上手になりて一行中の李杜とまで稱せらるゝ地位に進みたるが惜かな着船と共に止めたるを以て航海中の李杜は何時の間にやら忽ち原の詩語碎金先生幼學詩韻詞宗と相成たり若し航海中の通りに始終勉強にて作りたらば今日は日本の大詩人は櫻痴先生なりと稱せられたらんにと述懐しても後悔は先に立たず。斯りければ此行は航海中も英佛帶在中も思の外に過失少なく随て談抦に供すべき失策の材料も至て拂底なりき
馬塞里にはウエルニー出迎へて我一行を案内し佛國ツーロンの船廠を見物し數日間その工場を巡視して規模の概略を説明せられたり、是は横須賀の地勢ツーロンに似たるを以て専ら我製鐵所の参考に供せんが爲なりし、斯て同き十七日巴里に入り理事官の本據を定めてより後オルリアンブレスト等の諸所に赴き公私の船廠を見物したれども余は其時は更に少しも佛語を知らず英語とても甚だ未熟なれば通辯も翻譯も都て鹽田一人を煩したり。且余は江戸を發する前に於て森山先生の忠告もありたれば此行に於て佛國にて萬國公法国際法を學ぶべしと奉行より内命を受け柴田も其議然るべし併し表向き傳習生徒の樣に成ては不都合ゆゑ他人に目立ざる樣に致すべしと達せられたりければ巴里到着の後は本務は傍より手傳する位にて目的の修行に心を委ねたり 然れども此目的の修行は太だ困難にして事頗る容易ならず、其故は日本に居たる時よりホウ井ートン又はフ井リモール等の著書を字典と首引にて少々讀齧つたけれども其書は英文に非ざれば則ち荷蘭文にして佛文には非ざるなり、扨て巴里にてウエルニーに頼み其紹介にて二三の國際法學者に謁して教を乞はんと試みたりしに彼學者先生は快く承諾しさればとて課程時刻を定め愈〻其教を受け掛て見たれば、余は先生が(假令英語には御互に十分に通達せざるにせよ)其法律沙汰の解し難きに辟易し、彼先生も亦余が法律沙汰には全く無知無識なるには驚愕して講義も説明も手の着かた無に困難したり、其困難の末が到底尋常の法理及び國際上の歴史さへ知らずして、萬國公法修行などゝは思ひも寄らざる目的なり依て先づ一通り國際に關係ある歴史を學ぶべし尋常一と通りの法律を學ぶべし其爲には英語にては不便なるが上に外交の用語は佛語なれば先づ佛語の稽古より初め玉ふべしとの引導を被つたり、此引導は甲の先生のみならず乙丙丁と紹介せられたる諸先生が異口同音の説諭にてウエルニーさへも遂に同樣の忠告を與へたれば憐むべし外國方の一少年才子と云はれたる福地源一郎が我こそは此行にて萬國公法の秘億奥を學び歸朝の上は雄辯を振ひ卓説を述べ外國の公使等を俎豆禮譲の間に論拆して彼が僭横傲慢を挫きて其擔を奪ひ其心を寒からしめ以て日本を九鼎大呂の重に安ぜんなれと思ひ込たる雄志大望は僅數日間の試驗にて忽に泡沫となり轉一轉して佛語生徒と相成たれば是よりロニーと云へる東洋僻の奇論士を頼みて佛語の稽古に從事したり、去れば余が此時の随行は其結果が英佛再度の見物と佛語修行とに止まつたりき、然れども佛語を少し學び得たると外國の事情を聊か知り得たるは此行の利益なれば猶已むには勝つたりき
扨理事官一行は巴里に本據を定め諸方の工場に對ひては製鐵器械買入の注文約定を結び又ウエルニーより紹介したる佛人に對しては其雇入の約束を夫々取結ぶが爲に數月の滯在を必要なりとし其間グランドホテルに止宿しては入費莫大なり宜しく一屋を賃借して居住すべしとウエルニーより忠告したりければ柴田は是に從ひてホルタンス街にある某伯の別邸を借受け料理人小使下婢ども雇入て七月下旬に引移り十月廿一日迄此家に住居したり、然れども其後に此入費を計算して見たりければホテルに宿したると左迄の差異はなかりき。柴田は小心謹密の人にて敢て政治家と稱すべきの器量あるに非ざれども僚屬に對しては極めて信切なる人にありき、其性質は保守の氣象に富めるが上に一行の行狀に付き歸朝の上に批難を被りては容易ならずと憂ひたり(是は初度の施設および鎖港談判使節一行の行狀に付随分中外の批難を聞たるとありしが故なり)故に草履に代るに革靴を以てする事は許したれども其時は衣服冠り物とも都て純然たる日本風を守り決して外國の風を學ぶ事なかれ我國威を殞し彼が嘲笑を招くは實に國辱なりと戒めたり、此時や荷蘭國には數年前に幕府より送つたる傳習生徒あり又た巴里倫敦には陰に長州または薩摩より來遊せる書生もありて概ね皆西洋風の冠帽衣服を着して瀟灑たるに我一行のみに頭には黒塗の陣笠を戴き身には小袖小袴羽織を着し腰には大小を挿みて巴里の市街を通行するは心恥かしく思うはるゝ而已かは諸人みな笑つてオー、ジヤポネー、アー、シノアと呼び甚しきは犬が吠付こと度々なれば余の如きは率先して嘆願したれども柴田は更に聞入れず、既に肥田濱五郎が幕命にて荷蘭より來り我一行に加はりしに當り柴田は其日よりして肥田に命じて洋服を脱して日本風に復らしめたりされば余等は當時竊に柴田を目するに頑固を以てし其西洋の文華を嫌へる事を罵つたりけるが今日に成て回想すれば柴田が守る所を守り殊俗異風の嘲嗤は耻辱に非ず風俗は國家の憲章を以てするに非ざるよりは妄りに變ずべからずと云ひ己れも守り随行員にも守らせたるは感服にてありきと云ふべき歟。柴田は随行員が夜遊して不品行の譏を招かん事を恐れ招待に應して晩餐或は夜會に赴くの外は曾て一人にて夜中門を出たる事なく其の一身を以て随行員を抑留するの犠牲に供したり、故に某劇塲若くは曲馬興ありと聞けば随行員を引率して見物に赴き、平日晩餐を畢るの後は盡く座敷に集まり倶に茄菲紅茶または酒を飲み打興じて高談劇話し種々の遊戯を爲し遂には腕押し居相撲の殺風景に至るまで己れが餓鬼大將になり禿頭に汗を出して其合手になり何なる事にても更に否む色なく俱に興じ随行員を樂み喜ばしむるを目的とし大抵午後か一時に至るを常とし朝は随行員よりも先に目を覺して公務を執れること毎日なりき、是に由て此行には夜遊の不品行は至て稀にして其令聞を維持したり、是も亦常人に出來ざる所にて柴田が手段は實に勉めたりと云ふべきなり

 ◎第十六

 一五五-一六〇頁
 大政返上後の江戸

大政返上の事を柳營にて表向に公達ありしは十月十九日の事にてありき。前將軍家(慶喜公)の御奏聞書、朝廷聞召の御沙汰書、前將軍家より閣老への御諭旨、閣老より幕臣一同への達示とも都て此日を以て同時に發布せられたり。尤も御奏聞書等は閣老まで其前に京都より廻付にも相成たるべきが公達は此日が始めなり、但し十五六日頃より世上にては既に將軍家政權奉還の風聞ありしと雖ども去事の有べき筈なしとて信を置かざりしに今や此公達を得て餘りの意外に茫然たる計なりき、外面より想像すれば江戸城にて此公達を得たたりし時には幕府の文武は皆盡く昂激して悲憤慷慨を極め上を下へと混雑して閣老参政は是を鎮制するに困り切たるべしと思ふならんが、當日の實際は敢て然らず、唯〻呆れ返つて其意を解せずと云へる有樣なれば所謂悲極れば哭するに聲なくまた涙なしの實況なりき、但し此呆れ返つたるは志ある連中のみにて其餘は是は怪からぬと云ひたる迄にて別に感覺なき輩が多數なりければ當日は意外に静謐にて平日に變りたる景色も見えざりしが數日を経て後に有志の面々が稍〻騒立たる程にてありき。蓋し當時の情態を囘想するに(第一には)是は將軍家の奇計に出て先年昭徳院殿が條約勅許なきを憤りて辭表を呈し御東歸と決心し玉ひ爲に朝廷を驚かして由て其勅許を得玉ひたると同一轍に出させたる御英斷なるべし。此日本全國の大政が烏帽衣狩衣の公卿原や薩長藩の陪臣書生共に取扱が出來るものか。見よ見よ朝廷も諸藩もあぐみ果て再び幕府へ頼みて御委任あるに相違なし。御家門御譜代は云ふに及ばず外樣の諸大名たりとも幕府の號令ならでは決して遵奉せざるべし、是が即ち雨降て地固まるの喩にて幕府の爲に將來の地位を鞏固ならしむるの機會なりと信じて御委任を空頼にせる輩あり(第二は)當將軍家の御心底こそ心得られぬ。既に先年御後見御補佐の初より尊攘説に御同意あつて京都薩長の歡心を買ひ爲に幕府の御威勢の墜るをば顧み玉はず。故將軍家兩度の御上洛薩長征伐の御進發を促し奉り遂に坂城に於て薨御あらせ玉ひしも其原因を尋ぬれば當將軍家の御所爲に出たりと申さんも不可なかるべき歟。然るに今度薩長の勢いに恐れて大政返上とは何事ぞや。此上は我々共飽くまでも覺悟を極めて直諫なし奉り愈々御聽納なき暁には大御所になし参らせても再び幕府の御武威を快復せざる可からずと時勢の眞相をも知らで扼腕せる輩あり(第三には)今日の事たる到底雌雄を兵力に決すべきの時機なり當將軍家の思召も實は此に外ならざるべし。依て議論は二の次となして先づ急に幕府の制度を改革して大に海陸の兵備を増加し以て戰爭の準備を爲さゞる可からず。其爲には信誼ある外國に依頼して外債を募り砲器軍艦を買入て兵力を擴張すべしと盗を捕へて縄を綯ふが如き主戰論の輩ありて其中にも第二が尤も多數なりしかども幕臣全躰の數に比ふれば猶餘程の少數なり去れば幕臣の多數は方針の向ふ所を知らずして彷徨し徒らに時日を經過するに外ならざりき。現に余が如き時論得意の饒舌漢も何の考案の出る所を知らで幾と十餘日を送つたる徒の一人なりき
其間に京都の模樣も追々に聞え御親藩の國論も凡そ黑白を辨し得るに至りければ十一月の初よりして議論紛々柳營中に起つたり(但し是も高官に限られて一般は猶平然として各々改革の爲に己等が俸給の減ぜらるゝを氣遣ひたるのみなりき)余は原來純乎たる佐幕主義にて苟も時勢の許さん限りは飽までも幕府獨裁の制をば保守せんと望み深く京都の干渉と諸藩の横議を憎み彼の公武合躰と云ふが如き合議政躰と幕府獨裁とは両立すべきものに非ずと主張せし者なりけるが兩度の洋行殊には佛國滯在中に聽聞したる説は激烈なる民權自由論にして其快活なるが爲に大に素志を此の説に動かされ加ふるに愛讀せる所の書は英米の政治論たり英佛の歴史たるを以て第一の極端保守と第二の極端進歩とは常に自己の胸中に衝突して徃來消長をなし感情に激せらるゝ毎に識らず持見を動揺して條理の分別を紊し適正の定説を謬る事この時より始まれり(是れ實に余が短所にして此病は維新後に渉りても常に政論の局面に於て自から除却すること能はざりしなり)於是乎余は思らく將軍家已に大政返上あらせ玉ひし上は之を回復するは行ふ可からざるの望みなり。此上は徳川氏寧ろ進て其主任となり是を實行せしむるに若かず。若しも此儘にて傍觀せらるゝ時は徳川幕府倒れて薩長幕府これに代るの狀勢たるに外ならざるべし。畢竟は朝廷を奉戴して國家統一の政令を施されんが爲にこそ二百七十年以來の幕府政權を奉還せられたるなれ安ぞ薩長及び公卿の私有たらしめんとて奉還する事やはある。依て將軍家は自から禁裏に参内あつて公卿諸侯藩會議の制度を立て御自分その大統領と成て差圖を下し玉ふべし。然る時は事すべよく行はるれば大政返上の目的を達すべく事行はれざる時は那破崙が佛國に於けるが如く名義は大統領にて其實は獨裁の權を掌握し玉ふべきなり。徒らに大政を返上して公卿薩長の爲す所に任ぜらるゝは御長計に非ずと。乃ち此趣旨を書面に認め小栗上野介の許へ持参して差出し併て其議を口頭にて辨じ御同意とあらば閣老方へ申立られ京都への御使は承り度と述べたるに、小栗氏は卿󠄁が意見は頗る長計なりとは雖も第一には將軍家の思召も知れず。第二には在京閣老其他の腰抜官員にては迚も行はるべしとは思はれず。然るに憖に斯る説を提出しては却て薩長の乘ずる所となりて益々幕府の滅亡を成就せしむるの媒と相成べし。故に此説は呈出せざるに若かずと諭されたり。余は心中小栗氏の説には甚だ不服なりしと雖ども去とて外に此建議の取次を頼むべき途なかりしを以て残念ながら草稿を反古には成たりけり、併し其後に至りて考ふれば小栗氏の言は江戸に居て遠く上方の事情を洞察し得るたるが如し假令余が説の閣老に納られて上京したればとて無論に行はるべくは有らざりしなり。斯の如くなれば余は政權奉還以後の處置が如何にも心に掛りあはれ上京の機あらばと待設たる處に恰も好し外国奉行糟屋筑後守に随ひ大坂へ罷越すべしとの命を得たり。是は此冬十一月下旬某日が千八百六十八年一月一日に當りて江戸大坂の兩市及び兵庫新潟兩港を外國貿易に開くべき期限たるを以てなり(此兩港兩都は曩に叙たる如ぐ五年の延期にて今日まで其開市を猶豫したるなり)幕府にては大政返上を爲されたるに係らず既に此年の春よりして兩都開市の用意に取掛り夫々の吏員を置き官衙を新築し居留地を定めなど仕て其事に鞅掌したるなれば中止すべきに非ずとて進行したるなり

 百六十一-百六十五頁
 前將軍家御着後の大坂城

其頃江戸市中に於ては窮民蜂起屯集の事ありき。去年(慶應二年)の秋米穀の登り惡かりしが爲に米價漸く昂貴したる今年の秋も亦豐熟ならざりければ益々騰貴して壹兩にて僅に一斗一升を得るに過ぎず爲に柴棍米を輸入して(俗に南京米)缺乏を補ふに至りければ、市中の貧民は十一月の下旬に至りて市中各所に屯集し偏く富者迫りて米錢を乞ひ廣塲に竃を設け釜を掛け粥を煮て貧民公共の食に充て、來會せざるは富者なりと見做して是に向て直に施與を迫つたり。余は下谷に居住セシヲ以て近隣を見廻りたるに上野廣小路、御成道、廣徳寺前、菊屋橋、佐久間河岸の諸所に此屯集あると目撃したり、されば江戸市中の流行となりて各地みな如此なりしと云へり、然れども此貧民は敢て別に富家を破却し米錢を掠奪すると云ふが如き暴擧を成さず詰り救助を望むの示威たるに過ぎざりければ町奉行所に於て臨時救助の令を發せしと共に穏に解散したりき。(此屯集は長きも四五日短きは二三日に過ぎざりしと覺えたり)却説く余はこの屯集解散を見たるの後に十一月廿七日に糟屋築州に随ひ僚屬兩三輩を率て俱に軍艦に便船し廿九日の暮兵庫に着し直に早駕籠にて徹夜大坂に上るの途に就きたるニ゜西の宮に至れば市中舞踊に狂乎して人足の一人も得ること能はず糟屋は憤然として宿役人を叱咤すれども宿役人も唯々恐入たりと低頭平身して謝する迄にて其力にても肝心の人足を集むる事は出來ざりしを以て其夜は西の宮に一宿して翌日大坂には着したり。此踊は其頃諸神の御札が空より降ること所々に流行し(江戸にも此前曾てさる事ありと云へり)京都大坂より西の宮は頃日頻に降る最中ゆゑ市民は是を豐年の吉瑞とし『善じや無いか善じや無いか』と云ふ句に野卑猥褻する鄙詞を挿みて可笑き調子にて唄ひ太鼓小鼓笛三味線等の鳴物を加へ老若男女の差別なく花やかなる衣服を着て市中を踊り廻りて騒ぎ歩行けるなり、現に我等が大坂に着したる時も此御礼降りエジヤナイカ踊の大流行の最中にてありき、或は云ふ此御礼降りは京都方の人々が人心を騒擾しむせる爲に施したる計畧なりと其果して然るや否やを知されども騒擾を極めたるには辟易したりき
扨大坂の城内には御座敷續きに三個の部屋を以て外國方の詰所と定め奉行には川勝近江守石川河内守、組頭には西吉十郎(成度)其外の役々既に先着して専ら開市に關するの外交事務を取扱ひて英佛米蘭四國の公使等も前後上坂して各々寺町に旅宿を設け奉行等は時々公使を尋問して開市上の手續の談判に捗り居たれば敢て別に異狀ありとも見えず殊に大坂御城内御座敷向は平日の如く粛然として舊觀を改めざれば余が江戸にて想像せし如き混雑は更に其萌をも顯はさゞりけれ。然れども京都の報道は日々是に接する毎に益々禍機の切迫せるを露はし唯今にも變事は京都に起るべきの狀を覆ふこと能はざりき。余は斯く大坂に來つたれども別に専任擔當の事務も無ければ閑散は同じく閑散にて毎朝旅宿より出でゝ登城し二三の雑務を處理し一二の草案を作るに止まり幾と某員に備はるに過ぎざれば何にもして京都に上り親しく今日の狀勢を視察し所懐の意見を陳述せんと欲し事を外交事務の上申に托して其使命を帶び上京すべしと屡々奉行に乞ひたれども在坂の奉行等は概皆余が知己に非ざれば其必要なしと云ふ一言にて拒絶したるを以て京坂の間も猶咫尺天涯の思を爲し漠然として其事情を詳にする事を得ざりき。斯て數日を經たるに十二月十日十一日に至りて京都よりの一報は落雷の耳を貫くが如くに大坂に達したり、朝廷萬機御裁決、毛利大膳父子入洛御免官位復舊、脱走幷に退黜の公卿勅勘御免、攝政關白幕府等廢絶、内覧議轉兩奏守護職所司代廢止、御所内へは關東の者一人も立入こと不相成、朝廷には新に三職を置き、薩土の藩兵に禁衛を命じ、京都を戒嚴ある旨の報道は陸續として到着しアハヤ今日只今にも兵亂は京都に起るべしとの急報なれども當時大坂には常番あるのみにて事に會て用立べき兵士は一小隊も無ければ諸人相集りて如何にや如何にやと氣揉たる計なり、十二日の夜に至り前將軍家には唯今二條御城御立會津桑名其外役々御供にて明朝御着坂との急報あり、十三日の朝余は奉行等と共に府外まで罷出て御出迎申上たるに前將軍家を初とし奉り一同馬上にて御渡あらせられたり(御疲勞の躰とは聞たれども我等は地上に平伏して頭を擡ること叶はざれば尊顔を拝するを得ず随て御容躰を備にするを得ざりき)是よりして大坂御城内は雑沓を極め御玄關より大廣間柳の間に掛ては會津桑名の兩藩これに詰切り其外扈從の幕兵皆御城内に詰合たれば殿上の間御白書院御廊下等の御座敷を除くの外は都て宿陣の躰に一變し諸人皆憤慨して殺氣を帶び兵戰に訴へざれば其怒を釋くべきの期なしと云ふ色を顯はしたりき
御着坂の上はと思ひたる余が宿志も事已に此に至りたれば既に六日の菖蒲と成たるを以て思ひ切り、扨是よりは如何相成べきかと思惟したれども素より分別の出る譯にても無く又少々の分別ありとて誰も取次て上申すべき知己も無ければ空しく事の成らん樣を見るの外なし、尤も已に御下坂の上は直に御東歸遊ばされ大坂城へは留守の鎮兵として傳習兵を差置かれ攝海へは軍艦を繋かせられて事發するの日は京都と西國の通路を斷たるべき御用意あつて可然歟と云ふ旨を平山圖書頭塚原但馬守まで申立たりしかども兩氏とも余が從來の懇意たりしに係らず卿等が與り知る事に非ずと令語を以て擯斥し取合もせざりけり

引用・参照

『懐往事談:附・新聞紙実歴』福地桜痴 著 (民友社, 1894)
(国立国会図書館デジタルコレクション)