『讀史餘錄』

 百六十一-百九十七頁
 小栗上野介

 (一)

 上毛の州、榛名山の西麓、烏川の上流にあたりて一地あり、倉田村と稱す、三の倉村權田村と云へる二村の新に合したるものなり。村中烏川臨みて斷崖幾十尺の岡上、雑樹茂れる處に平らかなる地あり。村老人に語て曰く、是れ幕末の名士にして近世の政治家たりし小栗上野介が其居宅を建てん欲して未た成るに及ばざりし所の處、其聚められたる大材と僅に柱のみを樹てたりし家とは久しく薄いざらの間に殘りしが、今はそれさへ已に朽ちて唯落葉の堆きを見るのみなりと。 蓋し權田村はもと上野介が采邑の一にして、彼が四十二の春夢を空しく烏川邊の朝露と共に消え去らしめし所なれば、遺民現に存し、特に其甥の當時幼弱にして死を免れ僧となりて滿教と云へるものゝ如き、東禪寺と稱する山寺に居りて、今猶其迹を吊らひつゝ在るなり。
 アゝ東禪寺畔松風落る所、面に陽壽院殿法岳淨性居士の十字を刻せる彼が冤恨のかたみは、空しく嗣子忠道及び從死者數輩の墓標に侍せられて長へに限りきなき感慨を苔痕に殘せるのみ。

    まれに來る夜はのかなしき松風を        俊 成
      たえずや苔の下にきくらむ。

      * * *

 上野介名は忠順、初め剛太郎と稱し、又一と改め、後豊後守又上野介と云ふ。彼が祖先は東照公に從て参河より崛起し、姉川合戰以來常に先登して一番鎗の名あり、家康呼て又一となし、長坂血鎗九郎等と徳川家中の名物と稱せられき。故に彼が又一の名は彼が家の名譽を紀念する襲稱として兒孫に傳へられたるなり。
 忠順の父忠高實は中川氏、飛驒守英忠の兒なり、母はくに子日下對馬守の妹。
 彼が父母の人となりは今之を知るに由なしと雖、父は忠高は小栗氏を嗣きて新潟奉行となり、安政三年七月に沒し、其遺愛能く人にありたりと云へば、彼が父もあながちに凡庸人にてはあらざりしなるべし。
 而して此の相親和せる父母は、家齊將軍の治世既に爛漫の極に達し,昇平の春方に其一花を減せんと欲したる文政十年を以て一兒を擧げぬ。文政十年は實に家齊前將軍が足利義満以來の太政大臣となりし年にして、寛政の賢輔白河樂翁の死せる前二年なり。奢美佚遊の極に至りし社會も今は漸く自ら顧みて稍馬琴等の勸懲小説を讀まんと欲しき。
 漸く優遊無事が生みたる色黒き小兒は東都駿臺の高爽なる處に置かれ、水野越州が天保の政治下に於て教養せられぬ。
 古より成功の人は多く自修の人なる如く、彼は固より其師父を有せしと雖、彼れをして能く彼たらしめしものは、師父の力にあずして彼自らの力なりしなり。彼は其天稟に於て他に教育せらるゝに適せず、剛愎執拗にして最も人に負くるを惡み、能く武技を嗜み、又漢學を修めしと雖、毫も章句に拘々たる所あらざりき。唯彼は最も敏活なる才氣と尤も強忍なる記性とを有し、後年に至りては自ら多少の蘭學を修め、米國より歸朝せし後の如きは分析機械究理の諸學も究めざるはなかりしなり。然れども皆其大意に通ぜるのみ。
 故に彼は學問の人としては見るに足るべきものあらざりき。而して彼亦自らも學門の人たるをば好まず。常に其眼を時事に注ぎき。特に弘化二年三年に至り、浦賀灣の沖に黒船の形見へ、二百餘年昇平の眠りが端なく覺めべきの秋來るや此の少年有志家は早くも已に開港の説を持し、和流の砲術を鐵砲方田付某に學ぶに當り、深く其部下結城啓之助と交わり愈其持説を確めぬ。結城は與力なり、多少の學問もあり識見もありて熱心なる開港論者なりき。
 斯くて最も人に負くることを惡める彼の氣概は、竟に彼に世上より藝術勵精の名を贈らしめき。彼は忽ち遊倅より擢でられて、兩番に入りぬ、小姓組となりぬ、切米三百俵を賜ひ、更に進物番に進みぬ。彼が實事の教師に逢ひて専ら己を教育せしは此時にして、勤勉敏速なる彼が力は竟に能く彼が進路に自ら其順風を喚びき。
 居ること數歳なり、父忠高官に死し、彼は代て其家を續ぎ、使番に擧げられ、安政六年九月に至り遂に目付となれり。時に三十有三。
 是れ彼が執政的生涯の門出にして、其定員外の目付に擢抜せられしは、方に外國奉行新見相模守村垣淡路守が米國に使するにより、彼は之に監察とならんが爲めなりき。是に於て乎彼が用ゆべき才幹は竟に世の知る所となり、十一月特旨を以て諸大夫に任じ、彼は初めて小栗豐後守源忠順として政治界に顯れぬ。

 (二)

 彼は文を能くせざりき、彼は詩を作らざりき、彼は酒を嗜まざりき、彼は聲色を近けざりき、彼は實に風流韻事の何物たるを解せざりし冷膓漢なりき。唯纔に書畫を愛するの癖ありしと雖、彼は決して古人の手に成りしものを藏することなく、常に
 其宋といひ明といふも畢竟鑑定家の臆測に過ぎずして之を目撃せしにはあらず。斯くの如き眞僞不明のものを十襲愛藏するは不見識の至りなり。と稱し、當時の名匠大家をして其面前に揮毫せしめ、始めて之を珍藏するが如き、餘韻なき科學的の愛翫者なりしなり。
 去れば彼は無味乾燥なる政治經濟以外には復た彼として見るべきものあらざりしを以て、彼は初より政治經濟に於て其意を注がざる所はなかりし。然れども其眞に政治的の生涯に入りたりと見るべきは萬延元年彼が目付として米國に使せし時より慶應四年(明治元年)正月に至る九年間なり。
 彼は此間に屡其職に就罷し、生涯七十餘回の貶黜に逢ひしといへば、彼が尋常人ならざりし所以自ら知らるべく、彼が才氣の如何も亦察せらるべし。
 彼は萬延元年米國より歸て十一月外國奉行となり、數月にして翌文久元年七月之を辭し、二年三月寄合より小姓組番頭となり、六月勘定奉行勝手方、閏八月町奉行、十二月勘定奉行兼歩兵奉行となり、三年四月之を辭し、七月更に寄合より陸軍奉行並となり、同月又之を罷め、元治元年八月再び寄合より勘定奉行勝手方に任し、十二月軍艦奉行勝手方となり、二年二月免せられ、慶應元年三たび寄合より入て勘定奉行勝手方となり、二年八月海軍奉行並を兼ね、三年十二月陸軍奉行並を兼ね、以て四年(明治元年)正月の免職に至りぬ。此間は實に幕政の最も困難を極めたる秋にして、和宮の東下、將軍の上洛、攘夷の詔、水戸京師の戰、防長の征討、昭徳將軍の薨去、慶喜將軍の就職、馬關鹿児島の砲撃、兵庫開発の紛紜、將軍の辭職等、皆此日に起らさるものなかりき。然るに彼は此の危急の日に在て、一方には國力を養ふをつとめ、一方には政弊を改革し政費を節減し、精勵事に從ひ、着々其歩を進めぬ。
 蓋し彼は生れて其時を得ざりし、建設的改革家にして、最とも急激なる進歩黨なりしかば、因循守舊を事とする幕吏の間に容れられず、特に踔勵風發四座を壓し、意氣颯爽として頗る關東男兒の本色を顯はしゝを以て、彼が精悍を惡む者亦少なからざりき。其屡黜けられて屡用ひられしものは、彼が才幹の此日に於て得て舎つべからざるものありしを以てなり。
 彼が勘定奉行として先例により國費の清算書を閣老参政列座の席に朗讀報告すべき時に臨み、彼は之を朗讀せずして閣老に謂て
 今之を朗讀するも閣下は之に解せざるべし、既に檢閲に供せばそれにて足りなん、何ぞ必ずしも無益の朗讀を事とするを須ゆへき。上野斯くて在らんにはゆめ御爲惡しくは致すまじ、閣下請ふ省念せよ。
 と云ひしが如き、如何に彼か自信に厚き乎、如何に彼が政幣改革を以て自ら任せし乎、如何に彼が財權を自在に調理せし乎、又如何に彼か權要を畏れざりし乎を知るに足らん。
 是れ彼が談笑縱横にして極めて壯快なる人なりしに係らず、常に愛せられずして却て畏れられたる所以の一にして、彼か彼たる所以も亦是に在りき。
 而して彼は嘗て小姓組番頭となりし時、當時武備擴張の折柄とて、書院番小姓組兩番の數組合して大隊を編成し、其番頭は順次に大隊長として之に洋式操練を施せしが、紈袴の子弟番頭に補し一人の大隊操法を解するものあらざれしに、彼は自ら之を指揮して號令嚴明一隊粛として手足を使ふ如くなりしかば、同僚皆之を愧ちて密に自ら學び遂によく之を指揮操練するに至りしと云ふ。亦以て彼が風姿を想像すべからざらんや。
 アヽ彼は實に此くの如き資ありしものなりしなり。
 而れども彼の所長は其實是に在らずして却て財政の調理に在りき。彼は新見村垣等の始めて日本國使として本條約定交換の爲め米國に使するに當り、之が監察として同く米國に行きしが、彼は此時早くも已に目を彼我金銀量目の比較に注ぎ、皈て小判の位を昇せて三倍餘に至らしめしと聞く。顧ふに當日の洋癖家たりし彼か、此行に因て其知見を満足せしめしは、獨り此の一事のみにあらざりしなるべし。
 彼は歸朝後盛に歐米の開化を入れて舊習を一洗すべしと論議せしが、既にして外國奉行に擧けられ、魯艦を郤けんか爲に對馬に行きゝ。然れども此くの如き談判は開國家たる彼が長技にあらずして、彼は却て對馬に砲臺を建築すべき意見を懐きて還りぬ。
 彼は遂に罷められて後勘定奉行勝手方となり、こゝに始めて其驥足を展ぶへき地を得たりき。彼が建設的改革家たりし本色を顯はしゝは實に此日より始まる。
 彼は先づ多年の政幣を改革し、紊亂を極めたる財政を整理するを以て、改革の第一着歩なりと信じ、彼は其消極的手段に於てはまづ冗費を節減すべしと決心なしぬ。
 是より先き江戸政府の積弊として、官吏は贈與惠賜の収入極めて多く、實際の俸給に勝り、爲に引夤して其間に生する冗費貲られざりしが、彼は首として之を一新せんと思ひ立ち、彼は大藩より勘定奉行等に苞苴するを嚴に謝して受けざりき。人皆陽に其廉潔を賞しゝと雖も、其實此等の贈與は些少の進物に因て冥々の間に大なる便宜を得べきものなりしかば、却て彼を疾む者ありき。而して彼は更に年末其他の先例に由れる意味なき贈與を廢し、嘉例と稱する無益の儀式を停め、閣老以下諸役人に晝餐を與ふるを廢し、以て膳所の小吏等が公然日々に數尾の鮮魚を竊取し去るを禁じぬ。
 此くの如く彼は極めて微細なる冗費にまで節減を加へしこと一にして足らさりしのみならず、彼は遂に官吏の俸給令に大改正を加へんと欲し、従來の役高を變して之を役金となさんとなしき。

 (三)

 彼が從來の足高役料扶持等を癈して之を役金にせんとせしは、財政整理上大なる便益あるのみならず、又少なからざる經費を節減し得べきものなりしなり、彼は之を實行せんが爲に先づ老中以下布以上の精詳なる官吏給表を調製したりき。之を慶應二年の事とす。
而して彼は更に隠居料即ち一種の官吏恩給金を改訂し、又萬石以下の軍役に代へて兵費を出さしめんと定めぬ。
 軍役は慶安令に因て各若干人を出すべき定制なりしなり。然るに彼は謂へり、此くの如くして出せし兵は所謂烏合の衆のみ戰闘の用をなさゞるなり、軍制は別に一定の規律を以て操練したるものを要すと。故に彼は知行高物成の半額を以て之を金納せしむべしとせり。
 此くの如く彼は一方には冗費を節し、一方には税源を探り、或は酒其他の奢侈品等に課税し、或は富商よりして一種の所得税を出さしめ、以て紊乱を極めたる幕末の財政を整理せんとし、又大に意を造幣のの事に注ぎ、大坂銅座の如き曾て官用を以て上坂せし時親ら臨て奸吏を詰責し之に分析術を示して其方法を改正せしめし事あり。
 余曾て當日の官人水野痴雲が筆記したる慶應三年に於ける征長軍費の豫算を見るに
  御進發御入用凡積一ケ月
      米四千三百六十八石三斗餘
      金十七萬四千二百三十五兩三分餘
  一、金三百十五萬七千四百四十六兩餘
      御進發被仰出候節より御發途幷大坂御滯留中子九月より寅五月中迄御供之向
      御手當金旅御扶持方石代金其外
  一、金百二十一萬九千六百五十兩一分餘
      寅六月より同十二月中迄御進發御供之向御手當金旅御扶持方石代金其外凡積
とあり、此の一事を以てしても以て當事の國用が如何に多かりしかを察するに足るなり。此日の大藏大臣たるもの豈難からずや。而して假令不完全ながらも之を彌縫し行きたる彼が手腕は今更喋々するに及ばざるべし。
 然れども彼は之が爲に天下衆怨の府となりき。就中其軍役金の新制の如き、最も人の疾怨する所となりしなり。
 此怨聲囂々たる間に立て而も談笑自若たりし彼は、如何に自信の厚かりしよ。
 而して彼は慶應三年兵庫論喧しき時に同僚と共に一篇の意見書を提出せしが、中實に左の如く云ひき。
 此度兵庫港御開可相成に付ては、是迄長崎横濱兩港之仕來にては開港に相成候度毎に御損失に相成、西洋各國において港を開き政府之利益を得候方法とは相反し、實以奉恐入候次第、右は全く商人組合之仕法無之薄元手之商人共一己々々之利慾に而巳耽り候故之儀と奉存候。
 大坂町人共之内身元宜敷者廿程撰出仕兵庫開港塲交易商人頭取申渡、右之者組合諸商買取引いたし、其望之者廿人之組合に入取引致候積。薄元手之者互に競ひ取引いたし候樣にては、元手厚の外國人之爲に利權は得られ候。外國人と取引致候には何れにても外國交易の商社(西名コンパニー)之法に基き不申候半而は、迚も盛大之貿易と御國之利益には相成申間敷と奉存候。
 是れ彼が外國貿易に關する意見の一にして彼は切に貿易商組合の設立を望みたりしなり。又云く、
 兵庫港諸式御入用金之廉を以て、百萬兩之金札右町人廿人程之者共より差出候儀御免許に相成候はゞね町人共おのれ之利益有之候事故、御請申上候樣相成可申候。尤廿人にて百萬兩は大數之如く候得共、右廿人商社頭取に相成候事故、五畿内は不申及近國之内にも加り候者有之、就中東西近江之豪商共右組合に屬し可申候間、百萬兩単位は出來可申と奉存候。若又右にても危み候樣にも候はゞ、右之内より御用達申渡、税金取立役所に出張爲仕、取立之税銀立合之上御預けに相成候はゞ、日に月に元金に相成候間危み申間敷候。横濱表當時税銀大凡一ケ年百萬兩餘は有之可申、兵庫は新港之事ゆゑ三分之一と見込候ても三カ年程には皆濟相成可申と見込候。右町人共へ御差免に相成候金札之仕樣譬は
  壹兩之礼  拾萬枚 十萬兩
  拾兩之札  一萬枚 十萬兩
  五拾兩之札 二千枚 拾萬兩
  百兩之札  七千枚 七十萬兩
   合百萬兩
 右札は頭取町人共にて取調仕立上り之上、元方大帳へ番號を以御勘定方御目付方にて立合之上割印いたし、金銀同樣通用致可申旨御觸渡に相成公儀にて御入用金有之たとへは開港御普請幷諸式入用拂方之節、金札也正金也町人共より爲差出、御拂方に相成候節分合之利分御下け相成候事。
 楮弊通之儀は利税之第一にて實は公儀にて御施行相成候樣仕度候得共、一體楮弊は百萬兩なり千萬兩なり現在之實貨備へ置、楮弊に代へ候事故、引替之節何時成共差支無之候間、上下是を信用し通用差支無之、爰に於て利權相立、物價も相響き不申候得共、支那往昔よりの楮弊幷御國諸侯之楮弊は、現在之實貨なくして、貧國より起り猥りに楮弊を行候間、引替之節差支候に付、上下是を信用致し不申、遂に同種同價之物といへ共、楮弊と實貨との相塲格外懸隔に至り候儀に御座候。支那幷御國内諸侯之楮弊は貧より起り、泰西各國之楮弊は富より起り候義にて、其實天淵之違有之候。右之次第故楮弊は公議にて御施行之方實に可然候得共、自今御備置之實貨無之、此度町人共之楮弊を考へ候も全く御貯蓄之實貨無之故より起り候、恐入奉存候へ共御府庫御充實に無之段は、上下粗察知候事故、迚公儀之楮弊は信用不致遂に人心に關し、物價に響き可申候間、此度は御堪忍被爲在、一先楮弊之利權を町人共に御任せ有之候方御捷径と奉存候。
 盖し彼は内國債を起して兵庫開港費に充んと欲したるもののにて、彼が如何に明に理財の術を知りし乎、又如何に經濟上に於ける、信用の價値を詳にせし乎は、此書を見ても知るに足るべし。
 而して彼は更に内國債償却の方法を示し、又兌換紙幣の發行、公私紙幣幷行等の説をなしぬ。
 且彼之に附言して
 右之外氣燈(ガスランプ)書信館(ポストヲフシー)等公儀におゐて御取設に相成候はゞ莫大之御利益相成可申候。
と言ひしを見れば、彼は亦瓦斯燈及び郵便局設置等の意見をも有したりしなり。
 加之彼は理財上に於て時輩の思ひ及ばざりし猶一個の考案を有したりき。そは他にあらず、彼が外債をこすの意見を有せし事是なり。
 是れ當時に於ては最も人の恐たる所にして、今日に於ても猶且之を恐るゝもの少なからざる所なるが、彼は決して之を好ましき者にはあらざるも恐るべきものにはあらずとせり。彼は實に外債を募て其内亂を討平せんと欲し、已に之を佛國公使と相約したりき。盖し徳川政府の下に日本を郡縣にするは彼が素望なりしを以てなり。
 是に由て之を觀れば彼が腦漿は全く文明國の政治家たるに足る腦漿なりしなり。
 當時の大藏大臣としての彼は實に此の如くなりしが、又此日の建設的改革家としての彼も、決して得易き彼にはあらざりき。
 彼嘗て横須賀造船所設置を計畫せし時其使用せし所の栗本安藝守(鋤雲)に告て曰く、
 當時の經濟は眞に所謂遣り繰身上にて、假令此事(造船所設置)を起さゞるも其財を移して他に供するが如きにあらず。故に是非無るべからざるの「ドツク」修船所を取立るとならば、却て冗費を節する口實を得るの益あり、又愈出來の上は旗號に熨斗を染出すも猶土藏附賣家の榮譽を殘すべし。
 と。
 栗本之を人に語るらく、
 上野が此語は一時の諧謔にあらず、實に無限の憐むべき者あり。中心既に政府(江戸政府)の最早久存する能はざるを十分に判する久しければ、其存するの間は一日も政府の任盡さゞる可からさるに注意せしものにて、熟友晤言の間常に口氣を離れさりき。
 盖し彼は最も熱心なる佐幕家にして外債を起こし、薩長を征討すべしとの意見を有せし程なりしが、其國を愛するの情に至ては、決して當時の自ら愛國家と稱するものに劣らさりき。唯勤王黨攘夷黨の如き王家を中心とせる固陋狭隘なる愛國者にあらずして、彼は百世の日本を目的としたる愛國者なりしなり。彼は身江戸政府の一吏人なるを以て、能く其事ふる所に忠なるを、自家の本分と信じたると共に、彼は又文明的愛國の意味を解し、百世の日本の爲に開明富強の基礎を作る事を勉めしなり。
 アヽ百世の日本の爲には寧ろ旗號に熨斗を染出して其事業を敵黨に贈るを辭せず、而して僅に土藏附賣家の榮譽を以て自家は之を満足せんとしたる彼が心事は、抑亦憐むべからずや元治。
 是れ彼が幕命旦夕を計らざる慶應の衰亂中に處しながら、猶且孜々汲々としてご毫厘冗費を節し巨萬の新事業を興し、以て鳥羽伏見戰雲天を壓せし明治元年の正月までも息まざりし所以。
 而して彼は本と巧に人の疾怨を買ひしだけありて、情實てふ極めて趣品ある或物の價値をば知らざりければ。彼は弊政改革には適當せる資格を有せしものなり。而して彼は又才を使ふて頗る人を凌ぎしだけありて、開化の地盤は宜しく何物たるべきを知りたりければ、彼は建設的改革家としては適當せる資格を有せしものなり。是の故に彼が非常なる政費節減は、以て一方に開化の基礎を作らんと欲したるが爲にして、元治の秋慶應の春、其施置したる建設的事業少なからざるを見るべし。
 彼は性急なりき、彼は何事をも爲さずして一日を過ごし能ふ者にはあらざりき。
 彼は多く大藏大臣の椅子に坐したるの外、陸軍大臣の事をも行へり。海軍大臣の事をも行へり。彼は元治元年大小砲鑄造事務を托せられて、湯島鑄造所を改正し、掛り員を淘汰し、官制を改め内海と砲臺を巡視し、彈丸製造方を更へ、江川太郎左衛門を免して武田斐三郎を用ひ、之を初めとして着々歩を進め、以て大に兵器の改良をなしぬ。上州小坂村鐵山の如き實に彼が此時其同僚と共に採掘を發意せしもの。彼は又曾て文久の末年軍制改良の事務に参せしが、慶應元年に至りて大に陸軍々制の改良をなしぬ。栗本鋤雲横濱半年錄を著して之を詳にせり曰く、
 元治二年(慶應元年)三月頃の事と覺へたり。一日小栗上野介淺野美作守予が反り目の官邸を訪ひ、我々今日職掌の陸軍大眼目の事にて議する旨あり、老兄の意見も聞きたければ來れるが、抑延議舊儡の軍制を癈し洋式の制に倣ひ、始て騎兵砲の三兵を編みたるは文久二年の事にして(當時和蘭式を模せり)、既に四五年經たれど、今以て一定の規律立たざるのみならず、目的さへも確定せず、其實口へ出して三兵などゝは言ひ兼る場合なり、因て兩人が思ふ所にては、何の國なりとも可然國に因み陸軍の教師を迎へ、士官兵卒を教導せしめ、一定の式を定め度、此事に付て参れりと。予此時始て我國三兵の名ありて其實なきを知り、大いに驚き、兩兄も言の如くは實に兒戯に類して一旦緩急ありと雖も用ゆべからず、陸軍教師を、聘するは最も今日の急務なるべし、併し當節神奈川定番役の輩屡次調練あり、林百郎之れを指揮號令して専ら英式を用ふと聞けるが、此者なとは如何と答へたるに、兩人輾然として大に笑ひ、百郎如きは陸軍決して其人なしとせず、況や山手英兵(此時英國護衛兵横濱本村山手に屯在せり)が調練を棚外より窺ひ其爲にならふが如きは我が屑とする所にあらず、兩人が相談する所は眞に我が陸軍の本式を定制するに在るなれば、其式立の日には神奈川定番役其外とても皆改めて遵奉せしむるに至るなりと。余失言悔ひ、兩人が眞意の在る所を悟り、メルメテカシユン海軍は眞に英勁く陸軍は眞に佛強きの證を彼國史を援て解説せし事ありき、今二兄軍旅の事に馴れざる予に相談して(栗本は曾て佛公使と相善かりき)然る後に定むるとあるは其意知るべし定めて佛國公使に就而其教師を雇ふの應否を決せしめんとするに在るのみあらん。二氏頷きて云ふ、誠に然り。鎖國攘夷の稱何時か變じて尊王攘夷となりし日に方り愛國の文字未だ我國に生まれざりしかば、凡外國人に親接し事を談するものは善悪邪正を問はず概して皇家に悖る者となし、同く幕廷に立ち有志有識を以て稱せらるゝ者といへども意を弛して語るを得ず、況や四方有爲の士と稱する輩環りて起り細作充満殆ど耳の垣に屬するにありて、幕廷の云云擧動せんとする毎に、未だ行ふに及ばずすして既に世間に傳播し、從て妨碍百出、終に天朝より沮格の令下るは毎事必然するものから、幕吏の膽薄き者は首に畏れ苟も身を全ふするを謀るの外暇あらず、此時淺野は既に羹に懲り齏を吹き(生麥償金に關して貶黜せられき)、小栗は又新に權を失ひたる人なれども(攝河泉播四州を一橋家に與へ京師を守護せしむべき内諭ありし時、閣老小栗を召て意見を聞ひしに、小栗は利害を開陳し固執して聽かず、自ら死を以て上諭を拒むの責に當らんと請ひしにより、事遂に已みしと雖も、彼はこれに由て貶せられしなり。彼が非凡の才を懐きながら終身参政に躋る能はざりしは實に之に基因せりと云ふ)、共に志を屈せず、兵制を更張せんと望むの心切なるより、多く下司譯官の手を經て事の未濟に毀たんを憚り、予に頼て直切に佛國公使に談じ事を容易に定めんと期したるより、明日予公使館に至りレオンロセス、(公使)に面し、陸軍教師延聘の事を談判するに及び、事容易に整ひ、二氏に報せしかば二氏即日陸軍総裁(老中松平伊豆守と覺ゆ)に上申しけるに、総裁にも兼而承知の上なれば立ちどころに決して夫々手順を逐ふて運びたれども、世間尚誰も知る者あらざりき。是に於て日本の兵制は始めて大に完備せんとなしぬ。

 (四)

 日本海軍に關する彼の事業は、米国より軍艦を購入せし事あり、海軍々制の大改革をなすが爲めに經費の節減を計畫し事あり、其他此類の些事を擧ぐれば猶あるべしと雖、彼が日本海軍の爲に久しく記臆せらるべきはかの横須賀せん船廠と横濱工廠の創設なりき。
 都府近傍に船廠を要すべしとの意見は、曽て永井玄蕃岩瀬修理等に由つて提出せられし事ありしが、未た實行の手段を得ずして、久しく措て問はざれしに、彼が勘定奉行より軍艦奉行を兼るに至るや、彼は海軍擴張の第一着を以て船廠の設置にありとし、直に之が創設を計畫なしぬ。
 初め佐賀候鍋島閑叟蒸氣修理器械を和蘭より購ひ、之を其領内に据付けんとせしに、其費用の夥多なると之を掌るべき其人なきとに因り、乃ち之を幕府に献じ、
幕府は之を石炭庫に投し置きしが、彼は先ず之を基礎として船渠及ひ製鐵所を取建てんと發意し、乃ち之を佛公使に謀りき。工師ウエルニー氏佛國より至りて之を檢するに及び、其器械小にして用ゆるに適せざりしかば、彼は之を横濱に据付手け以て船舶の小修理に充てしめ、別に相州横須賀灣に工塲を設けしめんとし、終に彼の地中海に於けるツーロン製鐵所の式に依り之を三分の二となし、製鐵所一ドツク大小二造船所三及び武庫廠廨等を四年二百四十萬弗にて設置せしむべき約を定めぬ、是れ實に明治の日本に貽りたる最大遺物の其一にして、今の横須賀造船所なり。
 而して彼は慶應元年横須賀船廠工事の着手せらるゝに當り、更に其同僚と一篇の意見書を出しぬ。書は森林育保の方案にして、百世の爲に艦材供給の方を講ずるものなりき。
 斯く彼は幾多の新事業を起し、若しくは之が改革をなしたりしが、其新文明の輸入に係るものは多く之れを佛國に依頼しぬ。蓋し此時佛國ナポレオン三世帝大に威を東洋に奮はんと欲し、密に日本と連合するの意ありしを以て、彼は竟に相結託するに至りしなり。
 然るに彼が日佛同盟策は端りなく他の各國の爲に不滿とせられ、彼は啻に内國に於て久しく怨府なりしのみならず、又各國公使よりも多少の疾怨を買ふに至りき。故に其海軍改革の如き佛公使之れを勸めて之を英國に托せしめ、以て其の疾怨の幾分を寛ふせしめんと欲せしに係らず、日本外交塲裡は遂に英佛二公使の權勢を爭ふ所となりぬ。
 而して英公使は到底幕廷に於て佛人を凌ぐことの難きを知り、彼は圖を更めてこれより薩長を助け、之れをして幕府に代らしめ、以て其の國際間の利を佛人の手より強奪せんと欲したり。
 顧ふに彼が稍愛憎の偏ありしことは、實に其最大なる弱點にして、彼が人の疾怨を買ひしも、多くこの間に在りしならん乎。
 之を要するに彼の政治的生涯は元より久しからざるに非ざりしと雖も、其最も世に爲すありたるは幕府最末の三四年にして、元治より慶應二年三年に至りては、彼は實に幕府の精神なりき。此一個無名の蕭何ありたるが爲、幕府の上下は其全力を傾けて彼が存亡問題に從事するを得しなり。而して彼は幕末に於て斯くの如く、須要なる人物なりしに係らず、幕府の存亡問題につきては彼は初より其意を挟む所なきが如くなりし者は、抑大に故ありき。
 蓋し彼は素開國黨なりしを以て、寧ろ井伊派と其感情を同ふせしものなりしなり、京師黨の意見は常に關東黨の意見を壓し、公武一和皇妹東下等皆却て京師黨の利用する所となり、竟に強て攘夷の詔を幕廷に下すまでに至りし程なれば、最も急進なる開國家たりし彼は、固より幕府存亡問題即ち對京師策の献替操縱者には任ぜらるゝ能はざりしなり。是れ彼か元治慶應の間に、彼の如き實勢を有しながら、猶且幕府の存亡に相干せざりし所以てなり。
 而して其慶喜に於けるや、更にこれよりも甚しきものありき。
 彼は將軍とは其初め全く反對の地位に立ちしものなり。彼は感情に於ても既に井伊派に属し、攘夷尊王説を持せる水戸派即ち一橋派とは、主義に於て、全く正反對をなし、常に一橋派を以て幕府を弱むるものなりと信したりしなり。去れは彼が攝河泉播を一橋に分與すべしとの内勅を拒みし如きも、實に之が爲なりしを以て、彼は其下僚たりしもの多くは越て参政に躋りしに係らす、空しく其非凡なる才幹を懐いて、勘定奉行陸海軍奉行間に往來し滯留し、幕府の存亡問題の如きは、竟に久しく一言するを許されざりき。
 然れども明治戊辰の暗澹たる新年來たり、鳥羽伏見の戰塵天を壓して、幕府征討の聲四方に叫はるゝに當りては、彼は復た其地位を守るの要あらざりき。彼は慶喜將軍が京攝間に敗北して遁れ歸りしを憤慨し、兵を遣て筥根碓氷の險を扼し、關東奥羽の諸侯を連ねて、西、長薩を破り、以て君側を清めんと欲しぬ。
 當時幕府に二黨ありき、一は降参論者にして一は主戰論者なり。降参論者は勝安房守之が首領にして、彼は成功したる大片桐且元なりき。彼は久しく薩候と交り、又海軍奉行として英人を知り(英人當時薩長に結べり)而して慶喜將軍又曽て水戸派の首領にして薩長黨と其議論を同ふしたるものなりしを以て、最も媾和に便宜あり、加之彼は片桐且元の如く無謀なるにあらずして、東征の兵未だ京坂を出でざるに、彼は早く已に西軍の参謀西郷吉之助と密約をなしき。主戰論者は會桑諸藩以下過激なる幕士最も之を主張し、或は承久の例にならひ大兵を率て西上し以て君側を一清すべしとなし、或は軍艦を遣りて其巣窟を擣かしむべしとなし、其議論極めて熱上せしが、小栗上野こそ其首謀者なれと世に目せられぬ。
 彼は慶喜の東皈するや、直に入て主戰を勸めぬ。痛言激論、切諫して退かず、慶喜の立て内に入らんとするや、彼は進て其裾を摭り強辯して猶放たさりしと云ふ。彼は遂に此座に於て直に最もなる免職の命を受けたりしなり。幕府二百六十年間將軍の直語に由て職を免せられしものは唯彼のみ。此時曽て久しく反對者として記臆せられし彼が他の容るゝ所とならざりしも宜ならずや。
 慶喜は因て手書して群下を諭しぬ。余が命を用ゐずして王師に抗する者あらば、これ刃を余が身に刺すなりと。
 名士川路左衛門尉の如き爲に憤慨して自殺せり。
 彼も亦今は是迄なりと、書を裁して其所領を還し、且身は其領邑たりし上州權田村に土着し、農兵を組織して、以て一旦緩急の用に應せんと欲すと請へり。命あり、領邑は還すに及ばざれども、土着は心のまゝなるべしと。
 是に於て明治元年二月廿八日、梅花歴亂、梨花發くの時、彼は春雁を趂ふて、花のあずまの春を見棄てつゝ、家族を引き纒て北の方上州權田村にと急ぎぬ。三月第一日彼は春とはいへど都の空に似もやらぬいと淋しき山里に着きけり。

 (五)

 喬木風多きは古より然り、况や彼が如き圭角多きものをや。彼は其長官にも惡まれぬ。其下僚にも惡まれぬ。又其同僚にも惡まれぬ。而して世人よりは久しく幕府の財政を處理せしを以て、彼は必ず其家を肥したるべしと言はれぬ。特に其主戰黨の首領なりしを以て、降参黨よりは彼は必ず媾和の妨害をなすべしとして最も猜忌せられぬ。
 彼が土着せしは、以て天下の變を見んが爲めなりしなり。媾和にして豫想の如く成らん乎、固より可。然れども測るべからざるの敵情、或は媾和の成らざる事もあるべく、且敵兵は本是れ諸侯の聯合軍なるを以て、諸侯相爭ひ、再び群雄割據の時代となるやも知るべからざるなり。加之彼が都下に在るは、事に益なふして徒に刺客の來るを待つものに似たりき。是の故に彼は一旦事あらば爲すあるに足るべき上州に退きぬ。地の東北を控するに便なるが爲めなり。其都下を去りし前夜彼が振武隊長渋澤成一朗に語りしと云へるは、實に其當日の心事なりき。彼は曰へり、
 予固より見る所ありて、當初開戰を唱へたれども、行はれざりき。今や主公恭順し、城地將に他人の有に歸せんとす、人心挫折し、機既に失せり、復た戰ふべからざるなり。縱令會桑諸藩東北諸侯を連衡して官軍に抗するも、大樹既に恭順す、何の名かこれ有ん。况や烏合の衆をや。數月に出でずして事應に定まるべし。然れども強藩互に勲功を爭ひ、内相軋轢して、遂に群雄の割據するに至らば、我々は主公を奉じて檄を天下に傳ふべし、三百年の徳澤施して人に在り、國家の再造難からざるのみ。我々が今日の計は鋭を養ふて時機を待つに如く莫。予は是より去て采邑に土着し、農兵を練り、民衆を懐け、以て事あらば雄飛すべく天下泰平に歸せば前朝の頑民となりて終らん。
 斯くて彼が上州權田村に土着するや、之を久ふして數千の一揆來て彼を襲ひぬ。一揆は若干の浪士博徒が之を煽動し來りしものにして、此等の浪士は果して彼が反對黨の教唆に出でしや否やを知る由なしと雖、附和随行せし多數のものは、實に彼が有せし巨多の金銀を奪はんが爲なりき。盖し彼は土着の日農兵組織の爲めに多少の彈薬を持ち來りしが、世人は之を金銀なるべしと噂し、其漬物樽をも皆貨幣を充せしものなりと想像したりき。
 一揆は彼が從者の爲に撃ち退けられぬ。
 偶山道の總督岩倉具定兵を率ゐて來りぬ。總督の陣前には彼が幕府の金銀兵器を窃私事し來り、砦を構へて將に事を擧げんとすと告ぐるものありき。官兵の出張所なる知縣事大戸龍太郎が門には彼が謀を會藩に通じて官兵を襲撃せんとすると告るものありき。
 間者は日々に來りぬ。
 然れども彼は此時静に世變を見つゝありしものにて、未だ必ずしも此くの如き企圖はあらざりしなり。
 而して世評は愈喧しくなりぬ。彼は是に於て其誣妄なる嫌疑を辯疏せしめ、且都下の情勢を窺はしせんが爲に、嗣子忠道を江都に遣りぬ。而して既に晩かりき。忠道は高崎藩に拘せられぬ。
 山道總督、檄を高崎安中小幡三藩に移して兵を出さしめり、曰く
 小栗上野介近日其領地權田村に陣屋等厳重に相構へ、加之砲臺を築き不容易企有之趣、諸法注進、難聞捨、深く探索を加候處、逆謀判然。上は奉對天朝に不埒至極、下は主人慶喜恭順の意にも相戻り候に付、追捕の儀、其藩々へ申付候間、爲國家協心同力可抽忠勤候事。萬一手に餘り候者、早速本陣へ可申出候。先鋒諸隊を以て、一擧誅戮可致候事。
 右之通被仰出候間、御達申候。急に盡力可之有候事。
      東山道總督府執事
        松平右京亮(高崎藩主)
        板倉主計頭(安中藩主)
        松平 鐵丸(小幡藩主)
 右回覧の上、各藩申合、追捕可致候事。

 彼は斯くなる上は此處に冤死するも詮なし、一先づ難を避けて世變の歸する所を見るべしと、乃ち會津若くは越後に向て出で立ちぬ。途忠道より來りし使人に引きとめられ、彼は其嗣子をふり棄て去るの無情を忍ぶ能はずして竟に引返しぬ。
 此時、山道兵の監軍原保太郎、豐永貫一郎等、三藩の兵を卒て隣邑三の倉村の全透院と稱する一寺に陣し、彼が歸て其寓所たる東禪寺に入るや、突至して忽ち彼を縛し去りぬ。
 彼は此時自ら充分に其冤を明し得べきを信じて恐れざりき。而して監軍等は意必殺に在りしを以て一の問ふ所あらず。
 監軍は彼を拘し去て彼の食膳に三片の交肴(死罪者に與ふる食膳)を添へて饗しぬ。彼は直ちに其身の如何に成り行くべきかを知り、復た其箸を手にすることをなさゞりしと古老傳へり。若し斬首せらるゝに當りて喉中飯粒だものあらんには、彼は怯れたりとて耻を屍の上に殘すが爲めなりき。
 烏川岸の荒磧に水沼河原と稱する地あり。明治元年閏四月第六日、幾個の士人は多數の兵卒に擁せられて荒薦の上に置かれき。アヽ幕末の名士小栗上野介は、四十二年を一期として終に此の人も知らぬ僻境の草陰に隠れぬ。其跡を訪へば唯春風春草在り。

     * * *

 嗣子忠道、實は駒井甲斐守の次子、又一と稱しき。彼は其養父が死したる翌日高崎の磧に斬られぬ、時に二十一歳。許婚日下對馬守の女雪子亦函館にて没しぬ、不幸は美はしき二人を葬り了れり。
 忠順の夫人建部氏みち子は、其良人が再び權田村に引返すに當り、彼女は諫められて涙を揮ひつゝ其良人に別れ、良人の母鏡壽院と共にみすゞかる信濃路を經て、野に伏し、山に匿れ、あらゆる辛酸を嘗め盡くして越後路に落ち行き、竟に農人の背に負はれつゝ草籠の中に潜みて追手の刃を遁るゝに至りき。
 斯くて彼女は新潟に到り、藤井某の家に匿れしが、此處にも久しく忍びかねて、又會津路をさして落ちぬ。殊に彼女は此時唯ならぬ身にて、家を出てより二閲月ならざるに六月十四日賤が伏屋の假りの宿りに一女子を生みけり。是れ實に今の小栗貞雄氏(矢野文雄氏の弟)の夫人國子なり。
 大隈伯爵夫人三枝氏亦上州の從妹。
 嗚呼、彼が死は冤なりき。彼が死狀は此くの如く惨なりき。彼は社會の過渡に臨みて世と共に碌々たる能はずして死せり。彼は陰謀ありしと疑はれし、時變を察するりは外に何等の陰謀もあらざりき。彼は巨萬の官金を持ち去れりと疑はれしも、彼が死後のかたみには其君の賜を紀念したる大判二枚より外はあらざりき。彼は實に世に誤解せられしなり。
 蓋し彼は其卓厲風發の中に、一種の義侠的慈悲心を含みき。又彼は其最も明白にして整然たる幾何學的の脳漿に、極めて性急なる活血を有しき。
 彼は其下僚を輕蔑せし事もあるべし、其上輩を凌ぎし事もあるべし、而して又其愛する所を偏愛し、其憎む所を偏憎せし事もあるべし。然れども彼は思ひの外其心中には悪意を有せざりき。彼は自家の敏腕達識なるに任せて、人の敏腕達識ならざるを歯がゆがりて怒り散らせしのみ。顧ふに其意氣凛然事を處するに當りては、痘痕滿面、色極めて黒き彼が眼中より、如何に鋭き異彩を放ちしょ。
 彼は自ら其行爲を註解するを好まさりし故、最も多く人に誤解せられき。
 彼は竟に其才幹を以て身を滅ぼしぬ。
 然れども、彼が身を滅ぼしたる所以は、亦其世に傑出したる所以なりき。

引用・参照・底本

『讀史餘錄』塚越芳太郎 著 (民友社, 1901)
(国立国会図書館デジタルコレクション)