『海軍夜話』 久住幸作 著

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 帝國海軍發祥の地

 幕末の英傑小栗上野介

 幕末の英傑、當時の勘定奉行(今日でいへば大藏大臣)小栗上野介忠順は、横須賀海軍工廠の前身横須賀製鐵所創設の先覺者であつて、わが無敵海軍生みの親である。
 彼は、横須賀の地勢が、東海方面では無二の天然の要港であること在逸早く發見し、わが日本將來の國防上から是非とも造船所を設け、そして軍艦の碇泊港とすべさことを提唱し、且つその實現に着手したのであるから實に先見の明ありといふべく、また日本海軍創設の恩人である。
 小栗上野介が、横須賀の要港であることを發見したのは、幕府の遣米使節として渡米した歸りに、東京灣外で汽船が支障を生じて、横濱まで航行を續けられないで大いに困つたときであつた。そのとき寥々たるー漁村に過ぎなかつた横須賀といふ天然の良港を發見して立ち寄り、辛じて汽船を應急修理して横濱に歸港することが出來た。炯眼な上野介は、江戸と横濱を控えた現在の東京灣に、將來海軍の根據地として、その横須賀を第一の候補地として早くも胸中に決意してゐたのであつた。

 國防の重大性と製鐵所

 小栗上野介は、みづから主唱して暮府に建言して、栗本鋤雲、軍艦奉行木下謹吾、フランス公使口セス、フランス艦隊司令長官ジョーラス、軍艦セミラミス艦長及び士官などを率ゐて、幕府の軍鑑 順動丸に乘つて横須賀灣に來たのが元治元年十一月であつた。
 一行の軍艦が横須賀灣に入るや、フランスの士官連は
 『ツ—ロン、ツ— ロン!』
 と叫んで手を叩いて喜んだ。つまり横須賀が彼等の母國の、なつかしいツーロン軍港の景勝とそつくりだといふのであつた。小栗上野介の製鐵所創設の候補地は、フランス海軍の艦隊長官や士官連の大賛成のものに、横須賀と決定したのである。この事は幕府の製鐵所約定書の中にも、
 一、横須賀灣地形中海岸フランス國ツ― ロン湾に似たるにより製鐵所は右地に取建あるに倣ひ大概横四百五十間、縱二百間の地坪を以て取建る事。
 と書かれてある。わが日本帝國海軍の本格的の發祥地、軍港都横須賀の繁榮の端緒は、この時開かれたと見てよい。 
 小栗上野介は、國防の重大性を力説し、國家百年の大計のためだといふので、幕府の苦しい財布の中から、洋銀二百四十萬ドルをやつとのことで捻出し、製鐵所の建設にとりかゝつた。そして慶應元年九月二十七日、製鐵所建設の鍬入式を擧行したが、この日はまた横須賀軍港開港の日であつたともいへるのである。
 その頃の横須賀は、全村の 戸數二百六戸といふ寂しいー漁村であつた。

引用・参照・底本

『海軍夜話』 久住幸作 著 昭和十八年四月五日初版發行 海國社

(国立国会図書館デジタルコレクション)