『土方伯』

 第二 幕府衰亡の原因

 三七九-四〇四頁
 第十八 王政復古と伯

 往年の囘顧○諸卿以下伯等の勤勞苦衷○風雲暗澹○感慨無量○伯藩籍に復し三條公に随從す○當時天下の大勢○討幕の宣旨○徳川家の因循姑息○慶喜疎外○容堂尊岩倉の論爭○只一剣あるのみ○二條城御所尊抗の姿○二條城に於ける議論沸騰○大阪城に於ける東軍○東軍始末書○春嶽の周旋○江戸の變○大目付瀬川播磨守の上阪○主戰論者勢力を得○除奸上表文○鳥羽伏見の戰○伯の觀戰○諸藩の向背○官軍意外の勝利○征討號令布告○慶喜恭順○江戸城授受歴史上の美談○五條の御誓文○即位大典○江戸を東京と改む○明治維新の大業着々其緒につく○三條公鎭將被仰付○伯軍監となる○大村益次郎建策○上野戰爭日誌の笑話○上野戰爭實況○伯加賀邸に入る○伯團子坂に至る○團子坂混戰○大村の作戰成功○上野陥落○鐘樓高閣燒盡○中堂燒失の奇觀○財政困難○大隈大坂にて金策を講ず○上野戰爭と軍用金○芝増上寺に軍用金を強請す

 大政返上と、伏見鳥羽の風雲。囘顧すれば文久三年八月七日七卿冠纓の身を以て、一朝佞者の陥擠に遭ひ、簑笠蕭として西に下られてから爰に六年の久しき、伯には竊かに慨然として之に從ひ一身を捧げて平昔の知遇に報ひんことを期せられた、爾來世事日に非であり、妖雲常に天日を蔽ひ、内は幕奸の傲暴、外は外夷の跳梁と云ふ有樣で、心を傷ましめられたのも一にして足らず、幾度となく時の蹉跌に會して、各地に流寓し、具さに艱難を嘗められたのであるが、諸卿の心事は日に益々堅く、一日も嘗て禁闕を離れず、片時も天下を忘れ給ふたことがなかつたのである、嗚呼日月天に懸り、浮雲豈長く光を翳さんやで、時勢一變、諸卿多年の苦節も空しからず、茲に再び天日を拜せらるゝことゝなり、伯が多年の勤勞苦衷も亦其の功空しからず、誠に觀喜の至であつたが、然し當時尚復古の王業其緒につかんとするの時であつて、百事荒廢の餘を受け、政亦草創に屬し、前途暗澹として憂ふべきもの尠からざるの時であり、奸魁未だ殪れず、豺狼動もすれば、反噬を遑ふせんとするの勢いで、銃聲一發先づ其氣魄を奪はねば、禍根遂に抜くべからざるの時である、然も伯等が歠血死生を誓はれた、幾多の友は、今は天涯萬里呼ぶとも還らずで、諸友と共に大に國事に奔走せらるゝことの出來なかつたのは誠に遺憾の至りであり、伯等の感慨推するに餘りありである、そこで伯にはこれ迄云はヾ脱走人であつたが、十二月二十七日京都に着せらるゝと同時に、藩命で藩籍に復せらるゝことゝなり、高知藩士となられたのである、が然し暫らく高知藩士のまヾで、三條公に付いて居らるゝことになつたのである、これは三條公と山内家とは親戚の間柄でもあつたからのことである。
 然して當時天下の大勢と云ふものは、將軍が大政をを奉還したので、天下の諸政は、衆議公論に依て、行はせらるゝと云ふとであつたが、然し薩摩の方では是を見て喜ばぬ、何んだか幕府に機先を制せられた、かの如き感じがあるので上平である、其れに西郷は元來大々的破壊をして、七百年來の宿幣を根底から破壊せねば、眞の政治上の改革は出來ぬ、七百餘年の禍根除去し、武門政治の歴史を引繰返すには、座談などで平和の内に出來るものでない、と云ふ卓見を持つて居たので、兵力でやらねばならぬと云ふ考えであつた。其所で十月十四日には、幕府からは政權奉還の上奏が奉られて居るにも拘はらず、其晩には意外の處から密勅と申して、慶喜及會津を誅伐する奉書が降ると云ふ有樣で、討幕の宣旨が意外の邊から天降つたのである、これは正しく薩長の内意及手段を表明して居る證據である、然して將軍の辭職、王政復古と云ふことが、勅許になつた以上、最早其必要もなくなつたのであるが、然し當時浮説紛々であり、其内に薩州では三田尻に集中してゐる兵を牽ひて西郷が上京することになり、兵庫西の宮までやつて來たのである。此の際幕府が決心をして手段を即決すれば、確に機先を制することが出來たのであつたろうに、 容堂の上京するのを空頼にして、何とも手出しをせず、只々因循姑息で、常に受身になつて居た勿論幕府では常時衆議公論を頼みにし、諸大吊が上京したならば、多数同意で新政権を組織せやうとして居た、薩長では諸大吊の相談を好まぬ、この非常の變革は薩長でやる決心をして居た、然して幕府は衆議となれば、自然慶喜を中心として新政體の組織が出來るであらうと、そればかり頼みにして居たが、薩長では飽くまで破壊するだけ破壊して、後に建設せねばならぬと云ふ考へでもあり、兎角に破壊手段を取り、後は何とでもなると云ふ見込であつたから、從つて慶喜を疎外すると云ふ手段を講じたので、如斯計畫が岩倉公や薩長の間に於てなされてあつたのである、所で十二月八日になると、二條攝政が朝議を開き、毛利公父子、三條公以下の赦免に付いて論爭があり、九日の朝にになつて愈々朝議が決し、毛利公父子、三條公以下恩免と云ふことになり、二條公以下退出さるゝと同時に、岩倉公の急参内となり、中山中紊言幷に尾州、越前、藝州の三公が留つて居る、これは八日の晩に打合はがせしてあつたものである、然して中山中紊言の手から五藩(薩、越、藝、尾、土)に會津桑吊に代つて、御所を護れと云ふ密勅があり、且つ會桑二藩の禁門の警衛を免ぜられたと云ふ始末であつたが、勿論薩長では決心の臍を固めて居たので、兵力で爭ふ決心である、其所へ宮中から五藩御召しと云ふことになり、薩長は官軍として働くと云ふ有樣になつたので、會津や桑吊も豫ての元治元年甲子の變の再演を恐れて手を引いた、のみならず平和の内に王政維新を行ふ考へであつたから、造作もなく會桑は避けて仕舞つた、それから九日の晩には彼の有吊な小御所の會議があつた、當時の大議論をした相手は、容堂侯と岩倉公とである、容堂侯の議論は、天下の政治を議するは、公明正大でなければならぬと云ふので、かの慶喜にもこの會議に與らせたいと云ふ論である、岩倉公は今日のこと悉く君命に出づると申して、絶尊に拒絶する、理屈を聞かぬ、遮二無二抑へ付ける、當時岩倉公は既に御前會議に出づる時、短刀を懐にして出たと云ふ勢いである、其所で春嶽が仲裁をして、今日は王政復古と云ふ大會議であるから、今少しく慎重にして欲しい、然して天下の喜びになるやうな、相談がして貰ひたいと云ふ、然し雙方が中々聞かぬ、岩倉公の方では大久保、容堂侯の方では後藤が互に辯をしたが、何分岩倉公や西郷の考へでは只一剣あるのみと云ふ決心であるから、後藤も君公(容堂)に最早致し方がないと勸める、容堂侯は御所を下る、すると徳川慶喜には罪状があるから、悔悟の意を表し、封土をも奉還せよと云ふ朝命が降だる、すると二條城と御所とは僅かの隔たりであるから雙方が尊抗の姿となり、江戸會津桑吊のものは二條城に立籠り、五藩及長州人は宮中に立籠つて、二條城を敵と見做して居るので、丁度幕府は境町御門の變動の時の長州人の羽目に落ちたのである、其所で二條城では議論が沸騰して來た、其議論と云ふのは、既に王政復古となり、諸大吊を召して、衆議に依て新政府を立つると云ふことになつて居るのを、岩倉が横合から手を出し、五藩の兵が宮中に押寄せて來て、丸で文久三年と同一の綸旨反覆である、幕府を倒して薩長幕府を立つるのであらうと云ふので、非常に騒がしくなつて來た、依て慶喜は、何分にも御所と間近であるから、何かの間違ひが出來てはならぬと云ふので、大阪へき取らうとしたが、然し旗本の會桑が大に激昂して二條城から引かぬのみか、慶喜公を引止めて城から出さぬので、慶喜公は餘義なく夜無提灯で城を逃げ出して大坂城に入つた、すると追駆け追駆け幕府、會津、桑吊の兵が大阪城に集つて來て、自然に大阪城へ立籠ると云ふ形になつて來た、其所で一方京都では長州人が慶喜を大坂に置くのは、虎を野に放つと動揺であると主張する、當時大阪は兵數も多い、茲に立籠つて陸海の交通を遮斷されては京都も困ると云ふので、此度は京都側でいろいろ論が起る、餘り西郷が強がるから斯樣なことになつたとか、岩倉が餘り果斷に過ぎるとか云ふので、とかくの議論が持擧つて來た、其處へ大坂からは十二月の十七日に始末書を申出た、それは大坂に下つた理由は臣下の激昂に依ること、然して臣下のみの激昂は御所に奸悪なものが、近來見えるから、それを退けたいと云ふことであるので、岩倉公も少々折れ、春嶽に内談をした、其所で春嶽が大阪に行つて慶喜公に、從來幕府もいろいろ失敗があつたから、謝罪として官職一等を下し、領分八百萬石を幾らか減じて朝廷へ返し奉れと云ふのであつた、所が其石高に何程減ずると云ふこともないので、幕府方では新政府の費用が入るならば、全國平均高割にして面々の分限に應じて入費を奉ることにして欲しいと云ふのである、所が京都側では江戸の八百萬石と云ふのは、餘り多すぎるから、なるべく徳川の權限を剥ぎたい考へから、大分八ケ釜しかつたのであるが、愈々十二月廿八日に、慶喜の辭官と用途公平の申立てが纏つたので慶喜を京都へ呼出して打解けて御奉公させ、慶喜も打解けて上京する考であつた、其處へ十二月の末に江戸で突然變が起つた、それは當時江戸で多數の浪人、が薩摩邸を根據として、義兵を擧げやうと騒ぎ立て、野州の岩船山、上州、相州にも浪人が出没し、江戸市中にも浪人の暴行が行はれ、江戸の西丸に火が起つて燒けると云ふ始末であり、然してこれは薩人と浪人の暴行であると云ふことであつて、時の老中小笠原壹岐守が、薩邸へ惡徒浪人を出せと迫つたが、應ぜぬので大砲を仕向けて屋敷を燒く、薩人浪人は逃げ出して、品川沖の蝴蝶丸に乘込む、幕府の軍艦が追駆る、一方では大阪へ陸路注進すると云ふ騒ぎである、すると當時大目付の瀬川播摩守が大阪へ上つた、この人は大の主戰論者であるから、君側の奸を拂へと主張する、大阪城に居る主戰論者が愈々勢を得て、廿八九日と云ふ大晦に及んで、愈々上洛と云ふことになり、戰爭をすると云ふことになつた、其れに慶喜も動かされて、遂に播摩守が先鋒となつて、左の上表文を持つて上洛した。

 一、薩藩奸黨の者共の罪状別紙の通にて、天人共に憎む所に候間、御引渡被下度、萬一御採用上相成候はヾ、上得止誅戮を加へ可申候、此段謹で奉奏聞候、

 一、大事件は衆議を盡すと被仰出置候處、去月九日、突然非常御變革を口實に致し、幼帝を侮り奉り、諸般の処置、私論を主張候事、

 一、主上御幼冲の折柄、先帝御依托被爲在候攝政殿下を廢し、参内を止め、すべて私意を以て宮方、堂上方を黜陟せしむる事、

 一、九門其外の警衛と唱へ、他藩の者を煽動し、兵仗を以て宮闕に迫候條、朝廷を憚らず大上敬の事、

 一、浮浪の徒を語合、江戸屋敷へ屯集、市中に押込み強盗致し候證跡、分明にに有之候事、

 即ち戰爭をする考へで上京をしたので、茲に鳥羽伏見の戰爭が始つたのであるが、其れは慶應四年正月三日の晩であつた、此時伯には物見にゆけと云ふ命に依り、馬上菊の御紋の提灯を提げて行かれた、すると間もなく鐵砲の丸がピユウピユウ來るので、とても馬上では進めぬ、馬から下りて馬丁に馬を托し、此處を去るなと命じて、徒歩で行つて見られた所が、兵火のために左右の家は燒かれ、双方が砲をやつて居る、會津の兵を薩摩が摛にして引いて來るのも見へた、それから戻つて復命されたのであるが、其晩は徹宵で、續いて翌日も一、二の戰爭があり、皆勝ち軍で、大分樂にもなり、案外早く伏見から淀、鳥羽の方へ、官軍がドシドシ進んで行つたと云ふことである、當時伯には伏見まで行き引返して來らるゝと、歸途京都の方で火の揚るのが見えたので非常に驚かれ、これは又京都で戰爭が始つたのであるかと思はれたが、全くそれは京都方面に當る民家の失火であつたと云ふことである、何分當時の戰爭は、薩長の士氣は頗る旺盛なもので、必死であるに拘はらず、幕府は士氣も振はず、將師もなく、全く烏合の衆であつて、幕府も會津桑吊の兵も皆人頼みで誰れかの加勢を頼む云ふ有樣であつた、所が藤堂が伏見に居り、二條城には水戸の兵隊が居ても一向に助けて呉れぬ、又紀州でも彦根でも手出しをせぬ、某所へ淀藩さへが叛くと云ふ有樣であり、尚江戸から上つた幕兵が江州まで來ながら嚇かされて退却すると云ふ始末で、大に敗北した、然して薩長では四圊皆敵、一身の外に味方なしと云ふ決心で戰ひ、尚一方ではニ三日尊戰して、萬一敗戰するやうな場合には、裏手から天子を挟んで丹波同道に出で、西國に行つて再擧を謀る覺悟であつた、斯樣な譯でもともと薩長でも一擧大勝とは思ひも依らなかつたのであるが、意外にも早く勝つことが出來たのである。
 上野戰爭と維新財政。伏見鳥羽で破れた慶喜は最早頼む所がなく、俄に怖氣が付いて六日には松平容保、松平定敬、板倉勝静などを率ひて、早々軍艦に乘つて江戸へ歸つた、七日には慶喜の罪を聲らし、征討の大號令が布告になり、公卿諸侯をして其去就を決せしめられ、有栖川宮熾仁親王を大總督として、追討せしめられた、すると慶喜の心機が一轉して、愈々恭順の意を表し、上野の寛永寺に謹慎したので、朝廷では其追討を止めさせられ、次いで江戸城及兵器を収め、慶喜の死一等を減じて、水戸に幽閉せらるゝこととなつた、當時江戸の人氣は甚だ紛々擾々たるものであつたが、江戸城の明渡しは西郷と勝との間に、談笑の内に出來たので、歴史上の美談となつて居る、爾後幕府の舊臣其他東北の諸藩の中には、是を喜ばず官軍に抗するものがあつたが、上野、會津、函館に破れ、維新の風雲も翌年の五月には全く段落が付いて、全國悉く平定したのである、其所で慶應四年戊辰の三月には、天皇紫宸殿に出御ましまし公卿諸侯率ひ天神地祇を祭りて、五事を誓ひ給ひ、次いで八月には紫宸殿で、即位の大典を擧げさせられ、九月には慶應四年を改めて、明治元年となし給ひ一世一元の制を定めさせ給ひ、江戸を東京と改稱し、十月には始めて東京に行幸遊ばされ、次いで二年三月に再び茲に遷行あらせられて、永久この地に止まり玉ふことゝなつた、それから諸侯の封土人民を奉還し、官制の改革があり、廢藩置縣が行はれ、明治維新の大業も、着々其緒に就いたのである、其所で伯はかの伏見鳥羽の戰爭が濟むと、當時三條公には鎭將と云ふを仰付つて、江戸表へ下らることゝなつたので、伯には軍監となつて随行され江戸に下り、三條公と興に西丸這られたのである、すると當時上野に立籠つて居た、上平黨彰義隊を撃たねばなるまいと云ふことになり、其計畫を論議されたのである、其時に伯が最も感心されたのは、かの大村益次郎(故兵部大輔)である、かれは西郷や寺島(秋介男)など、共に参謀をして居つたが、當時先ず第一に諸見付の固めをスツかり正義の藩にやらせやうと云ふことで、鍛冶橋・呉朊橋の樣な外廓の門を正義の藩々に言付けて警固せしむることになり、其れから上野を討つ議につき、兎角用事の有無に拘はらず、諸藩の隊長を毎日西丸に集むる事になつたが、これは俄に諸藩の隊長を召集すれば、彼等から直に悟らるゝ恐があるからであつた、其れから愈々來る五月十五日には上野を征伐すると云ふことになつたが、其時大村が策を建じて云ふには、十三日に上野山近邊の町役人を呼んで、十五日に上野を征伐するから、老人や小供などは、怪我のない樣に立退きするやう、達したが好かろうと云ふのである、すると外の者が、其れは頗る拙策である、丁度鎭西八郎が、御所を夜討にしやうと云ふのを沮められた爲め、逆襲されたやうなもので、敵に十分の準備を與へ、逆襲を受けるかも知れぬから、其は頗る迂策であると、反駁した、處が大村の云ふには、三百や四百の兵を動かすであるならば、いざ知らず、大兵を動かすにはサウは容易く出來るものでない、反つて敵は十五日と云ふのは聲言であるから、必ず十四日には來るであらうと思つて、夜も眠らず、大騒をやるであらう、其間に味方は十分休養し、夜も寢て鋭氣を養うが好い、と主張して枉げない、流石に大村は軍事に掛けては、手配が巧手である、然し一同は尚上安心であつたが、彼の言に從ひ、十三日に上野近邊の町役人を集めて、來る五月十五日上野を征伐するから、老幼婦女子を立退かせろと達したと云ふことである。
 それから今一つ伯のお話に面白かつたと云ふのは、日誌を作られたことである。即ち戰爭をしない前から、上野を一撃の下に破つて、官軍の大勝利を得たと云ふ日誌を作る役を、新田三郎(善雄)と云ふ、大和柳澤藩の男が擔當したと云ふ事である、此人は漢學の立派に出來る男で、勤皇家の若手の中でも屈指の人であり、文事に長じて居るので日誌の草稿を書いた、所が其時分は活版のない時節であるから、總板に摺らねばならぬ、其所で芝の三島町の和泉屋と云ふ書林の亭主に、御用があるから板木師を連れて來い、と云つて召喚の上、擒にして仕舞ひ辨當を與へ、番兵を付て、家との交通を嚴禁されたのである、是れは外に洩るゝ事を恐れてヾあつたが、如何にも非道い話であつたと云ふことである。
 かくて十四日には、諸見付の門から、内に這入つて來る者は、許して入れたが、中に居るものは一切門の外に出さない、随分大工も左官も、城内の御普請御用で、ウカウカやつて來て居たが、一向に何も知らなかつたと云ふことである、處で夕景になると、ソロソロ色めいて來て、愈々翌十五日の午前四時に、勢揃ひをして押出した、其折三條公は馬上でやつて來られ、成るたけ上野の宮の御身に怪我のなきやう、充分氣を附けて呉れい、と云ふことであつた、然して伯はその時軍監であつたから、彼所の兵は好く働くとか、此所の兵は數が少ないから、こちらから兵を廻せとか、云ふことを傳ふる役目である、其處で最初伯が、本郷の加賀の邸に這入らるゝと、此處では大砲を据えて、上忍の辨天を隔てゝ向ふの臺を射つたが、何處に宮樣が居らるゝやら一向に分らぬので仕方がない、それからズツと團子坂の方へ行かるゝと、此處では何分通り道が狭い、然して此方は田舎の藩の兵であるから、土地が一向上案内で、かれこれ遮二無二突進して行つた、處が敵は十分に地理を知つて居るので、町家の二階あたりから續々狙撃したので堪らない、一時はドツと逃げた、逃げたも、逃げたも、其怖さ加減と云ふものは實に話にならぬと云ふことであり、丸で子供の喧嘩みたやうなものであつたと云ふことである。所でドウ云ふ機會か、鳥渡盛返しが出來て、今度は此方から逐撃すると、敵の奴が、逃げるも、逃げるも、ドンドン逃げる、是を追駆けて行くと、雨は篠つくばかりに降つて來る、四方は眞暗がりの所へ、鐵砲の丸前からも來れば後ろからも來る、何んでも寺の多い所であるので、石塔を小楯に取つて、音のする方に向つて鐵砲を撃つと云ふ有樣であり、そして一番怖かつたのは味方の臆病の奴が、後から鐵砲を撃つので、何分調練も碌々しない奴があつたので、耐らなかつたと云ふことである。
 それから朝の内の事であつたが、伯が加賀邸から團子坂に行かるゝ途中、嘗て話に聞いた、腰を抜かしたのを目撃されたと云ふ事である、町人で年の頃四十位の男と、三十前後の女の四人連れが逃げて來た、逃げて來よると、跡から敵彈が飛んで來て、石垣に中つて破裂し、ガチヤガチヤと云ふ音がした、すると其男が其場にヘタばつて仕舞つたので、伯には丸が的つたのであるかと、身體を檢べしめられた、處が一向に血も出ない、女の方は却て氣丈で、早く行かう行かうと云ふ、男は起きやうとしたが、手は動くが、足が利かない、即ち腰が抜けたのである、何分戰爭最中であるから、介抱をしてやらるゝ譯にも行かなかつたので、餘儀なく見棄てゝズンズン行かれたと云ふことである。然して敵は畳を五六枚づゝ積重ねて、防戰したが、彼等のの見込では、十五日と云ふので、聲言であるから、多分十四日の夕暮れ頃打込んで來るであらうと考へたものと見え、敵方では十四日の夕暮れ頃から、大騒ぎをやつて、畳で胸壁などを築いて頻に待つて居た、所が一向攻めて來ないので、遂待くたぶれ、これは確か威かしであらうと云ふので、夜が明けると、却つて安心して休憩したと云ふことであり、其所を官軍に撃たれたので、全く大村の思ふ坪に嵌つたと云ふことである、かくてトウトウ官軍が勝つことは勝つたが、非常に疲労し盡して居る、入換へる新手の兵は勿論なく、まして當時藩々の向背も、充分に分らぬ時であるから、其所で折角上野を攻落して、再び敵の手に渡り、要害に據られては大變であるから、思ひ切つて此處を燒き拂はふと云ふことになり、惜氣もなく畳建具を積上げて、鐘樓から吉祥閣乃至宮樣の御住居(今の博物館のある所)中堂まで、悉く燒いて仕舞つたのである。
 當時この中堂の燃ゆる時に、伯が目撃され、一同と興に感ぜられた話がある、それは中堂の上に水瓶のやうなものが置いてあつた、是は防火の爲めに設くるのであると云ふ事であるが、それに鴻が巣を造つて居る、所でこの日は餘り風がなかつたので、煙はズツト上に立ち昇つて居る、夕景には雨が歇んで、日和が好くなつて、風がどちらからか吹いて來る、すると煙の間から親鳥の居るのが見える、其れには一同が奇異の想をし、禽獸でも我が兒を愛するは、かほどであるかと感じたと云ふことである、然して見る間に中堂は燒落ちたが、鴻は興に燒け死んだのか、乃至其前に飛去つたのか、兎も角も子を愛する情の切なのには、流石の荒くれ武士も、感じ入つと云ふことである。
 夫れから維新朝廷の財政は如何であるかと云ふに、其困迫は非常なものである、何分寛永安政の頃から國中が、内外の騒ぎて、幕府の財政には非常な困難をして有らん限りの方法を講じ、租税では足らぬので、連に御用金を申付けて、江戸や大阪の町人の金持に迫つて、いろいろと説諭をして金を出させる方法に苦慮をした、又薩長は申すに及ばず、諸國でも上時の金を使つて居ると云ふ譯で、日本國を擧げて財政に困つて居る有樣であつた、元來金と云ふものは、多く運用の上から、生ずるものであるから、或は信用が立ち融通の道を得れば、意外に急場を救つて行くことも出來るものであるが、慶應明治の昔に於てはそれが出來ぬので、かの沸蘭西人から作つて貰つた、横須賀の造船所も追々代金を拂つて行くと云ふことであり、又米國へ注文した軍艦や兵器が横濱へ着いても、これを受取る手續が出來ぬと云ふ始末で、金高にすれば極めて少額のことであるが、當時幕府でも新政府でも、殆んど苦にして困つて居たと云ふ狀態で、今日の二十八億の外債に較べて見たならば、何でも無いことであるが、何分財政運用の方法が分からぬので、金には甚だ困つた、然して當時の新政府の費用と云ふものは、何處から出すかといふに、政府の歳入の途がまだ確立して居ない所へ、國用は中々多種多用で多いのであるから、財政には非常に困つたので當時大隈(重信)は横須賀造船所及軍艦などの處分の爲に江戸へ下つた、其時に大隈は大阪で金策をし、御上のために金を出せと、金持ちに御用達を命じて、漸く廿五萬兩の金を得たと云ふことで、早速船で横濱から品川へやつて來た、所でだんだん樣子を聞くと二百万兩以上なくては横須賀造船所を受取ることが出來ぬと云ふことであるから、募金をしやうとして居る矢先、大村が金を戰爭に使用したいと云ふ、それは當時西郷が江戸城を受取つたけれども、多數の彰義隊以下の舊兵隊が、都下に潜伏して居るので、これを根絶するにはどうしても戰爭をせぬばならぬ、所が軍用金がなくて困つて居る、其所で大隈が廿五萬兩の金を大村に渡したので、五月の上野戰爭を決行したと云ふやうな次第であった、斯様な場合で戰爭はせねばならぬ、軍用金はないと云ふ狀況であつたから、上野戰爭の少し前のことであつたが、段々評議をした結果、芝の増上寺には幾らか金があるだらうから、彼に強談に行つて御用金を申付けやうと云ふことになつて愈々行くことになつた、何にしろ其時分は門閥を尊ぶ時であるから、萬小路通房卿(現伯爵)を頭にして、ニ三人附いて増上寺に行き、和尚に面會を求めた、處が役僧某が、慶接をしたので、「今日は御用でで参つたが、實は金を借りに來たのである、武家は身命を抛つて朝廷に御奉公をする、當寺は大寺のことであるから必條金があるだらう、金を出して呉れ、今朝廷に軍用の金がないから、借らねば何とも致し方がない、追々朝廷に金が出來れ返すから是非出して呉れ」と強談した處、今日の時節柄で末寺からも金が來ぬとか、何とか、苦情を云つて居るので、グズグズ云つて躊躇して居るならば、酷い目に逢はすからと云ふので、怖ろしい見幕で攻めかけたので、トウトウ千兩出したと云ふことである、如何にも亂暴であるが、又餘儀ない場合であり、且軍用窮迫の一斑もこれに依て推測さるゝのである。

 ○小栗豐後守の策略○大村の論○江藤の敏智○慶喜公の勤王に幕議一變す○會津籠城○五稜郭戰闘○天下平定○小栗豐後守斬首○小栗斬首當時の實況○小田原藩士吉井等を函嶺に暗殺す○問罪使小田原に至る○吉井實子斬罪の太刀取をなす

 維新風雲の段落。それから上野戰爭後大村益次郎や、江藤新平など云ふ参謀軍監が集つて、いろいろ話をして居ると、大村が論じて云ふには、幕府て若し小栗豐後守(忠順初め豐後守後上野介)の獻策を用ひて、實地にやつたならば、有栖川總督宮を初め、我々は幾んど生命がなかつたであらう、夫れは何故であるかと云ふに、官軍が東に向つて來ると云ふ事になつてから、かの柳營で一日大評議があつた、其時小栗豐後守の獻策は、此度有栖川宮が大總督となつて、關東御征伐と云ふことに決したと云ふことであるが、併し其率ゆる所の兵員は、僅に三萬人を越すまい、依て函嶺の關門を開いて江戸に官軍を入れて仕舞ひ、其上で函嶺を閉ざし、又東山道の方面は木曽路を塞いで、悉く官軍を江戸に入れて置いて、戰へば鏖殺にして終ふことは容易である、然して軍艦の一半を以つて浦賀を扼し、他の一半を以て攝海を衝く、さすれば關東の諸侯は大抵徳川家の味方になるであらう、此度の事を關ケ原の役と見れば、關西にも譜代大吊もあれば親藩もある。又外様大吊の中でも幕府に志を寄せて居るものも、絶無ではない、依て此擧を以て徳川家恢復の途も立つであらうからと云ふことで、其日の評議が一決し、小栗豐後守の策略に依て實行することになつて、一同下城して終つた、所が夜が明くると、僅々一夜の内に其議が飜然反覆して仕舞ひ、小栗幷に是に加擔したものは、遂役儀迄免ぜられて仕舞つたが、如何にも敵ながら氣の毒な次第であつたと云ふと、此聲に應じて江藤が云ふには、小栗はさう云ふ間抜けだからいかぬと云ふ、何にが間抜けだと反駁する、其所で江藤が云ふには、議論が一決したからと云つて下城して安々寢る樣な間抜けだから、反覆されるのも當然のことである。この危急存亡の場合に呑氣な考へを持つてはいかぬ、議が一決したらならば、其所で直に部署を定め、誰は何の兵隊を以て、何方に當れと云ふ部署を定めて仕舞つて、直ぐそれを發表せねばならぬ、夫れをボンヤリ歸つて安閑と寢ると云ふやうな、間抜けでは到底出來やう筈がない、と云つたので、中々話が面白かつたと云ふことであり、江藤のこの話を聞いたものは、皆一同に江藤の機敏に感じたと云ふことである。
 其所でこの幕議の一變した原因は、詰り慶喜公の勤王心の厚い所から起つたので、これを輔けたのは勝や大久保(一翁)山岡などである、當時幕府の小壯者は大言壯語、決して江戸城は渡さぬと騒いだが、慶喜公を初め勤王の徒が、どうしてもソウ云ふとことは出來ないと云ふので、慶喜公は江戸城を出でゝ、上野寛永寺に屏居して恭順の意を表し、江戸城を明渡して仕舞ふことゝなつた、ソレが口惜しくて耐らぬ連中が、上野に立籠つて一擧をやる考へであつたが、上野が官軍のために破れて仕舞つたので仕方がなく野州から段々官軍と戰ひ仙臺に落ち行き、トウトウ會津籠城と云ふことになつた、然して其結局が函館の方へ行つて五稜郭で戰ふたが、遂に明治二年になつて最早如何とも詮方なく、孤城落日で降朊して仕舞つたので、茲に始めて天下泰平に歸したのである。
 夫れから小栗は前にも云ふた如く、幕府での武將で、兵器彈藥杯(抔か)も澤山にある、其所で江戸城明渡しの後は、所領に引籠つて居つたが、小栗は兵器を蓄へて謀反をすると云ふ噂が立つたので、其頃東山道の總督岩倉太夫(具定公)副總督岩倉八千丸(具經公)から、高崎、壬生に小栗を討取れと云ふ命令を下された、所が二藩とも恐れて手を下さない、なぜ恐れたかと云ふに、未だ徳川家の有樣がドウなるか分らぬのと、次には小栗が徳川家に用ゐられて政權を握つて居る頃の私恩もあり、情誼に於て出來ない所がある、彼れ此れで愚圖々々して居つて、何とも埒が明かぬ、其所で原保太郎(當時貴族院議員)が當時東山道の参謀か何かであつたが、豐永某と兩人で使者となり、壬生高崎二藩の陣へ行き、既に小栗豐後守を征伐すべき命を下してあるが、躊躇して居るのは如何なる譯であるか、其藩に於て二心を懐いて居るのか、乃至征伐が出來ぬ云ふの乎、然らば官軍の兵を以て撃つて了ふが、先ず其血祭に高崎壬生を先に討つと云つたので吃驚し、夫れから小栗豐後守を取囲んで、親子共縛つたが、矢張り怖くて處分がつかぬので、原と豐永がが受取つて首を斬つたと云ふことである、當時小栗の最後を、直接豐永から伯が聞かれたと云ふことであるが、流石に小栗は豪らいもので、磧に引出されて愈々斬首さるゝ場合になつても、少しも恐るゝ氣色なく、縦容として一向平然たるものであり、何か申置くことはないかと問ふた處、此期に臨んで何も申す事はないが、唯自分の娘に十四歳になるのがある、これは寛大の御処置が願ひたいと云ふことであつたので、夫れは女の事であるから決して構わぬと申渡して首を斬つたと云ふことである、所が首を斬つた磧の川向ふの村民が非常に苦情を云つて、どうも小栗豐後守父子は、我々の村を睨んで首を斬られたから、村が必ず後難を受けるに違いない、どうして呉れるかと云ふのであるから、懇々道理を説諭したがどうしても分からぬ、其れぢやア好い事がある、貴樣たちの方に祟のないやうにして遣らう、即ち我々が小栗父子の首を斬つたのであるから、我々の吊を書いて門戸に貼つて置け、然らば村には何の祟もあるまいと申渡したので、彼等はそれは難有いいと云つて爭つて貼つたとか云ふことである、依て多分今日でも一枚や二枚は殘つて居るであらうとの事である。
 上野戰爭が濟むと、當時東京近傍の藩々から、脱走侍の届が頻々と出た、これは矢張り筒井順慶流で、實は形勢を觀望するために、藩命を以て彰義隊に這入つて居つたものが澤山にあつたが、上野が攻め落とされたので脱走と見做して届出たのである、それから此上野を燒いたことは、非常に官軍の威令が行はるゝ動機となつたが、茲に一つ馬鹿を見たのは小田原藩である、當時小田原藩の者が、函嶺で因州人の中井半九郎(今尚小田原に墳墓あり)吉井茂一の兩人を暗殺したことがあつた、所が其因州人は任官のある人で、吉井と云ふ男は徳川の旗本で、松下嘉兵衛と云ふ三千石を領して居つた人の家老でである、この松下の先祖は、秀吉の朋友で嘉平次と云つた人である、彼れの家は秀吉以來大吊となつたが、零落して旗本となり三千石を領して居た、然るに松下家と土佐の山内とは古い親戚であつて、家老は始終土佐の方から擇んで遣はした、其所でこの吉井茂一も矢張り勤王家で、伯の朋友であつた、この吉井が段々松下嘉兵衛に説いて、どうも斯樣な時節になつて見れば、飽くまで朝廷の方へ御竭しせねばならぬ、特に本家同樣である山内家に於ても、朝廷に竭して居る以上、進退を共にしなければならぬ、と云ふので、民兵百人許り組立て函嶺の方へ兵を繰出して來た、所が幕府からこの頃林庄之助が兵を率いて小田原に來たので、小田原は丁度、筑前の樣に、幕府に通じ林にに加擔して、吉井を騙し討ちにして仕舞つた、其所で上野戰爭が濟んでから、小田原へ問罪使を差立てることになつた、すると小田原は上下非常の混雑で大騒ぎになり、主謀となつた家老を断罪に處し、吉井を殺した藩士を捕縛して朝廷に差出した、當時吉井茂一に一人の遺子があつて十歳位であつた、これに多田某と云ふ吉井の實弟が附いて、復仇を願ひ出た、併し朝廷では下手人が捕縛してあるから敵討を許さぬ、其所で斬罪の太刀取と云ふものを言附けた、それから愈々死刑になつて、打首をする時に幼年の子供が、伯父に助けられて斬罪を行ふたのであつた、今日から見れば如何にも可笑しな話であるが、其時分はまだこんな有樣であつたと云ふことである。

引用・参照

『土方伯』菴原鉚次郎, 木村知治 著 (菴原鉚次郎, 1913):画像
(国立国会図書館デジタルコレクション)