『明治維新と郡縣思想』

  第一章 郡縣思想の發達

  第一節 郡縣思想の意義

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 一 郡縣と封建

 「郡縣」と謂ふ成語は支那から我國に傳來したものであつて、支那に於ても其起源は甚だ古いのである。元來「郡」も「縣」も國家の行政區劃の名稱であり、行政區劃である以上、獨立の國家で無いことを意味する。從て「郡縣」謂ふものは「封建」と謂ふものと、對立した意味を有するに至るのである。封建とは特殊の組織に依りて、國家が分れて又多くの小地域國體と成つて居るものである。此國體は今日の意義に於ける國家ではないが、其支配者たる封建諸侯が、土地人民を事實上私有することに於て今日の地方行政區劃で無い。故に之を國家と假稱すれば單に地方行政區劃たる郡縣と相對立する。そこで郡縣と封建とは二つの國家組織を意味する語として對立的に用ひられて來た。今日我々が國家の形式の二大分類として、君主國と共和國とを分つ如く、昔は郡縣制度の國家と封建制度の國家とを、國家の二大分類として擧げて居つた。例へば荻生徂徠の「徂徠先生答問書」に『封建の世と郡縣の世とは天下の制法の惣體別にて御座候』とあり、又太宰春臺の「經濟錄」は、開巻第一に先づ『時ヲ知ル』と謂ふことを以て經濟を論ずる要件なりと爲し、而して『時ヲ知ル』ことは則ち封建と郡縣との變遷を明らかにすることなりと爲して曰く『一ツニ時ヲ知ルトハ古今ノ時ヲシルナリ中華ニテ周ヨリ以前ハ帝王ノ地ヲ方千里ニ定メ是ヲ王畿ト云其外ハ諸侯ヲ封シ萬國ヲ建テ國々各別ニ治シム是ヲ封建ノ治ト云秦ノ始皇ニ至テ諸侯ヲ滅シ國吊ヲ去リ天下ヲ一國トナシ三十郡に分チ官吏ヲ置テ治シム漢ヨリ以來歴代是ニ因テ改メス郡ノ内ニ縣ヲオク郡ハ日本ノ六十六州ノ如シ縣ハ此方ノ郡ノ如シ郡ヲ治ル者ヲ守ト云縣ヲ治ル者ヲ令ト云海内ヲ擧テ天子ノ國トナシテ諸侯ヲ建テス守令ヲ置テ治シムル故ニ是ヲ郡縣ノ治ト云サレハ周以前ハ天下封建ニシテ秦漢以後ハ郡縣也ト云コトヲ知ル是經濟論スル第一義也』と。是等を見ても今日の學者が君主國と共和國との區別を重要視するが如く、封建國家と郡縣國家との區別を重要視して居つたことが分るのである。而してこの封建・郡縣の區別をかくの如く重要視せしめたる原因は、儒教の影響に在りと言ふことが出來る。永い間我國人が文化の源泉として崇拝して居つた支那の思想が、深い關係を茲にも示して居るのであるから、先づ以て支那に於ける郡縣・封建思想が我國に移入せらたることに就て述べなければならぬ。

 九頁
 三 郡縣思想と徳川封建思想

 上述の如く支那に於ける郡縣なるものは封建に對立するものとして發達したが、やがて儒教の發達と共に封建は支那上古聖人の治道にして仁政の極致であり、郡縣は其反對概念にして惡政なりとせらるゝに至つたのである。即ち單なる國家制度の分類から脱して、之に價値判斷を加へたる分類と成つたのである。是がそのまゝ我國に移入せられ、徳川氏が天下を平定し自己の封建制度立つるや、上述の封建論は現行の政治制度を擁護し、之に倫理的基礎を與ふるが爲に甚だ適當なるものであるから、支那の郡縣・封建の變遷に關する方法論を我國に當てはめて、日本も上古は封建にして後に郡縣と成つたが、再び封建となり徳川氏に至りて全く此制度が確定したものであり、從つて徳川氏の現行制度は支那聖人の治道に等しく仁政の極致なりとせられたのである。之に對して郡縣は暴秦の惡政にして、我国に於ても之を採用して失敗せるものなりとせられたのである。

 一四-一五頁
 四 郡縣思想と明治政治思想

 明治政治思想の核心は立憲君主國思想である。今この立憲君主國なるものを徳川時代の封建國家に對比すれば、二つの點に於て著しき相違を見出すである。
 其一は朝廷と國民との間に徳川幕府が介在したことである。故に徳川幕府を打倒して其政権を再び朝廷に歸せしめねばならぬ。而して總ての國家統治の作用が朝廷より出づるが爲には、そこに中央集權的なる國家組織が、地方分權的なる封建制度に代つて現はれねばならぬ。茲に王政復古思想としての郡縣思想が發生するのである。
 其二は立憲國に於ける立憲政治制度なるものは、國民が直接に又は其代表機關を通じて間接に國家政治作用に参加し、且國民の基本的權利が確保せられて居ることで、かくの如き制度は徳川氏の封建制度を打倒するに依りて始めて可能ことである。近代の立憲國に對して當時の封建制度は正しくancien regimeであつた。茲にこのancien regimeを克服し、近代の文明國にまで進歩せしむるが爲の理想として、換言すれば立憲政治思想としての郡縣思想が發生するのである。
 かくの如く王政に復古すると謂ふことと、近代の文明國に進步せしむると謂ふこととは、一見矛盾するが如くであるけれども、明治維新が德川氏の封建制度を打倒することに存するものとせば兩者は決して相反馳しない。前者は君主國の確立を、後者は立憲國の建設を目指し、而して兩者は立憲君主國の建設として綜合せられ得るのである。この將來の理想國家は德川時代の封建國家に對立するものとして、是れを郡縣國家と稱することが出來る。換言すれぱ德川氏の封建制度を郡縣制度に改めることは立憲君主國建設の必然の過程であらねばな*らぬ。茲に明治政治思想史に於ける郡縣思想の存在理由があるのである。

 第三節 王政復古思想としての郡縣思想

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 二 王政復古思想と封建思想

 然し乍ら王政復古思想は必ずしも封建制度を打倒し、郡縣制度を再建する意味に於ての、王政復古を内容として居らなかつた。徳川氏の幕府は必ず之を打倒し、其政權を朝廷に奉還せしめねばならぬが、封建制度はそのまゝ之を維持せんとする程度の王政復古思想も多かつたのである。殊に實際王政復古の思想を體系化し、又は實際運動を指導せる者は多く武士階級であつて、其武士の國家生活上の優越なる地位は、封建制度に依りて始めて存在し得るものなることを考へねばならぬ。故に、彼等は朝廷親政の政治組織を理想としても、自己の據つて立つ基礎たる封建制度まで、併せて解消せんと欲しない思想も存することは、容易に考へ得られるであらう。

 六七-六九頁
 然し乍ら茲に意外にも幕府有司の間に於て、郡縣制度を布かんとの意見を抱いて居つた事があつたらしい史料がある。夫れは「續再夢紀事」に収錄せられたる秋月種樹(九州高鍋藩世子)が慶應元年十月松平春嶽に宛てたる書簡であるが、其一節に左の如く記されて居る。
 一體松前抔之説は夷人へ頼ミ諸侯を亡し天下郡縣の世となし大樹公を以て天下大統領となし才智あるもの政を執る可きの論を建候由夫故事を誤候と存じ候併し是は松前のみならず幕府諸吏(當今當路之者は皆此説なり就中二閣老酒井飛驒守御勘定奉行小栗上總介御用取次竹本隼人正は其魁なりといふ)皆其説ニ而夷人と親密ニ事を取計ひ候由(續再夢紀事)
 茲に『松前』とあるは老中松前崇廣、『酒井飛驒守』とあるは若年寄酒井忠毗、『小栗上總介』とあるは小栗忠順『竹本隼人正』とあるは竹本正明『二閣老』は老中松前崇廣及び阿部正外である。之に對し春嶽の返書の一節に次の如く見えて居る。
 一體松前抔之説は夷人へ頼ミ天子及諸侯云々委細之垂事喫驚之至ニ御座候此説は備前藩士之探索之よし尤拙老(春嶽)考候處此説決而なき事にあらずと奉存候老拙總裁在職中(政事總裁文久二年七月より文久三年三月まで)是等之髣髴之議論酒井飛驒守小栗上總介二人申候于今耳底ニ殘り有之候(續再夢紀事)
 かくの如く松平春嶽も此風説を或程度まで裏書して居る。丁度此頃即ち慶應元年十月、老中松前阿部の二人は、兵庫開港談判に關し朝廷より譴責せられ其職を免ぜられたので、一層かくの如き風説が高かつたのかも知れぬ。當時幕府有司の一部が仏蘭西と甚だ接近して居つたので、其力を借りて幕府の政權を恢復せんとの考へを時折表示したのが此風説の起りであらう。而して夫れが偶然全國郡縣化と謂ふことゝ結び付いたのである。勿論是れは單なる思想で何等其具體的方法に着手したもので無い。然し茲に於ても『天下郡縣之世となし』とある次へ『才智あるもの政を執る』とある。即ち郡縣制度と立憲政治制度との關係を暗示して居る。慶應三年十二月九日の所謂「王政復古ノ大號令」に至りて『神武創業ノ始ニ原ツキ』國政一新を計る旨が表示せられた。
 <省略>
 故に茲に於ては王政復古は『神武創業ノ始メ』にかへすと謂ふことである。而して是れが郡縣思想と如何なる關係を有するかを考へる必要がある。今日世上に傳へられて居るところに依ると、王政復古を以て神武創業の始めにかへすと謂ふことは、岩倉具視の側近に在りし玉松操(眞弘)が岩倉に入説し、是れが岩倉の説と成つて、この王政復古の大號令中に現はれたと謂ふことに成つて居る。然し乍ら此事に就ては未だ確實なる史料が發見せられない。比較的信ずるに足ると考へられるのは、玉松の側近に在りし三宮義胤の「玉松先生實歴覺書」であらう。次に之を引用する。
 <省略>

引用・参照

『明治維新と郡縣思想』浅井清 著 昭和十四年十一月十日初版發行 巌松堂書店

(国立国会図書館デジタルコレクション)