『維新前後の政爭と小栗上野の死』


東善寺小栗上野の一ケ月居住せし室(上記著作口絵)

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 明治戊辰の年、舊幕臣小栗上野介の内室は誕生して久しからぬ一女兒を伴ひ.予が親戚横山主税常盛が會津の第に寄寓せり、予横山家の人々の談により、内室が其の領地上野國權田の陣屋より避難し、新潟を經て會律へ來る迄、偏に辛苦を嘗めし狀態を聞き、同情に堪へざりき、其の後小栗氏の虐殺、又其の人となりを知るに及び、小栗氏に對する同情盆々深きを加ふ、小栗氏は徳川幕府の末造に於て、其の識見手腕天下に匹儔なかりしなり、其の廃藩置縣を主張せるが如き、横須賀の造船所を創建せるが如き、識見手腕の一班を見る可く、其の他外交に經濟に、其の國家に貢献せしもの甚だ多し、氏の捕へらるゝや、一囘の訊問なく、河原に引き出だし、荒薦に坐せしめ、縛首の刑に處せしと云ふ、是蓋し武士を遇するの道を知らざる徒輩の蠻行なりしなり、小栗氏の陣屋に武器多かりしを以て、彼等は小栗氏の罪過とせりと云ふ、武家に武器あるは猶商家に商品あるが如し、何ぞ是を以て罪とすべけんや、當時世人は小栗氏が強硬なる長州征伐論者なりしにより、是の奇禍に罹れりと云へり、予是の説の當否を知らす、友人蜷川溥士小栗氏の傅を著し序文を予に徴む、交誼上辭す可からず、仍て所懐を述べて序文に代ふ。

 昭和三年八月
         男爵 山川健次郎

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 自 序

 小栗上野介は如何なる人物であつたらうか。薩長本位の歴史には、此の人の事業は毫も記さるゝ所なく、其の人となりは、從つて今の日本人に知られて居ない。史家と自稱する人でさへも、此の人物を知らぬ者すら往々ある。
 併し乍ら、大正四年横須賀の海軍工廠開設に關し、横須賀に五十年祭の行はれたりし折、同海軍工廠に於ては、「應に不朽に傅ふ可き所なり]と述べ美しき讃辭を以て、小栗上野介が横須賀造船所創立に到したる國家的功績を認められて居り、又小栗の小胸像が、當時横須賀の公園に建設せられたるに際しては、同人の國家に盡せる功績を嘉みし給ひ、畏くも、當時の皇后陛下は、御内帑金二百圓を御下賜になつたであつた。
 小栗は、幕府の當局及政治家として、國家外交の事に盡瘁し、日本國より、初めて白人の國に向つて、條約交換の爲め派遣せられたる第一次使節三人中の一員であり、其の折の國使としての仝權一行の修養態度は、何れの文明國人にも劣る所なしとして米人の極力賞揚せる所である。又小栗は我が國家政府の正式陸軍を佛國式となすに付ての發案者であり實現者であり、日本國陸軍の開祖と見らるべき功勞者であり、又國家の財政の整理や、開港事務處理の事や、商社創立の事や、公債發行の事や、不換紙幣禁止の事や、日本の鐵工業開始の事に付いて、當時唯一の人物であり、日本開發の智能であり且つ實行者であつた。是れ一代の名士福地源一郎、及博士田口卯吉の指示する所である。
 小果は、封建制度を以て、時代に適合せざるものとなし、我國の政治方式を郡縣の制度忙革めん事を主張したる最初の卓見家である。木戸孝允が、之れを主張したのは、餘程後の事である。
 小栗は、倒幕主張者の如き國家秩序の破壊者ではなかつた。確に卓逸せる國家事業に關する建設的政治家であつた。其の國家國民の爲めに盡せる所は、確かに多大なるものがあ つた。
 小栗は、神州を口癖にして、文化我よりも優秀なる白人を夷狄と罵りて、自ら快として見たり、支那人式の詩文を弄しで悲憤慷慨して見たり、陽明學とか禪學とかを口走つて、 野狐禪者又は偽せ哲學者の如き言辭を弄し、自ら達人の如くに宣傅しで見たり横略陰謀を策して秩序を破壊し時の民族に禍せんと試みたり、或は時機乘ず可しとして名利榮達に憧れたりしたる當時の浪人壯士輩とは、全く選を異にしたる人であった。彼は誠忠無比、幕府の終を飾る眞面目な政治家であつた。
 小栗は。徳川氏の血族たる家筋の人であり、其の昔は松平姓を名乘り、祖先以來、徳川氏に仕へて、武名一世に知られたる名門の出であつた。
 小栗は、斯くの如き人であつたけれども、王政維新以後の慶應四年の四月六日に、其の舊領たる上州の權田村に退き、平穏に住居しつゝありし折、中仙道總督岩倉具定配下の官軍の一味は、何等の罪跡もなかりしに拘らず、小栗を朝廷に對する逆賊と宜し、何等の取調べをも爲さずに、烏川の畔に引き出して處刑し、共の若年の養嗣子と其の家臣六人をも斬罪に處し、其の首を梟したのであつた。「天地の公道に基くべし」との五ヶ條の御誓文をも顧みず、官の名に於て、理由なく無辜の良民六人を折り棄て、斬りし人は榮え、斬られし人は、由來六十年、共の儘に空しく僻村に葬られ、其の姓名さへも史上より拭ひ去られ、其の各種重要の功業は記されずして、空して消え失せんとするのである。是れ國家の爲めに、又人道正義の爲めに、果して是認せらるべき時象であらうか。
 著者の母は、小栗上野介の夫人の實妹であり、從つて余は、幼時より小栗上野介の人物事業及其の冤罪を自らに聞かされ、常に近親の情としで遺憾の念なきを得ないのであつた。之れ生ある人として、當然允さるべき感情であるであらう。
 余は小栗上野介の斬殺せられたる高崎市に近き上州烏川の畔をも訪問して、往時を追懐し且つ富時の事情を調査したのであつたが、權田の村民は、今日に於ては、益々小栗上野介を追敬追慕措かざるものがある。其の冤を世人に訴へて、共の舊主に酬ひんとの厚き情 誼心に燃えつゝある。之れ確に日本人としての人情美である。
 小栗は、薩長二藩の人より痛く憎悪せられた。蓋し徳川方唯一の有力なる人物であつたからである、乍併此の憎悪は、忌むべき私情であつて正しき公憤ではない。私情を以て、國家の功臣を斬り、且つ之れを永遠に僻村に埋沒せしむるは、正義の無視であり、天地公道の蔑如である。薩長五十年の天下は、既に過去の夢と消へ、代は今や昭和の聖代と遷變し來つた。即ち余は、小栗の國家國民の爲めに盡せる事蹟を此所に錄して、小栗上野介の英霊を慰め、同昨に維新前後の事實の眞相を史家の公表せる研究に照して考査し、獨自の見解を以て、自由に、順逆と是非とを解説し、政爭勝利者本位の六十年來の俗論を排斥し。斯くして以て。世上に正邪、善悪、醜美の眞相を傳へんと欲するものである。

 昭和二年十二月即ち、王政復古六十年目の記念の年
  澁谷に於て
    蜷 川 新

     (目次

  前編 小栗上野の功業と冤死

   小栗上野介の外交上に於ける功蹟
   ()安政條約交換使節の大任と米國人の賞讃
     開闢以來白人國への初めての國使、其任務の重大性.米人の賞讃
   ()對州島に於ける露國の艦長に對する小栗の決死的談判
     小栗の態度、幕府の巧妙なる外交政策

   餘錄
   ()小栗上野介とスタンフォード大學の教授
   ()最初の遣米使節の寫眞に付いて
   ()小栗上野介の米國土産

   小栗上野介の我が國の軍事上に於ける功蹟
   ()日本海軍の創設に關する功蹟
     横須賀造船所の建設は小栗の力也、日本海軍の創始
   ()日本の佛國式陸軍創設に關する功蹟
     我日本陸軍の創始者也

   小栗上野介の國家財政及經濟上に於ける功蹟
     紙幣、公債、貿易、商社、信用等に關する小栗の能力、財政の
     改革、經濟界の調整、當時第一の斯道の學者、敵味方を通して
     比肩嗇なし。

   小栗上野介の國内統一の秘策及郡縣制施行の主張
     會津藩と結びし事、佛國を利用して反幕の雄藩を討伐せんとせ
     し事、郡縣制開始の主張、世界の大勢を遠觀せし事。

   小栗上野介と最後の江戸城大會議及小栗の薩長鏖殺の作戰計畫
     小栗の主張せる理議明白なる主戰論、小栗の必勝を期したる作
     戰計畫、大村益次郎も之れを聞いて驚愕感歎したり、小栗の献
     策若し慶喜に用ひられしならば我國民は寧ろ幸福なりしならん、
     當時の日本の形勢如何、維新は既に成れり。

   小栗上野介江戸を去り上州權田村に退く及暴徒の襲撃
    寺院に於ける平和の居住、政治的暴徒數千人の來襲と撃退、其暴
    徒とは果して何者なりしか、暴徒と西郷隆盛、暴徒は小栗を叛逆
    者と宣傳す。

   小栗上野の反逆人としての冤罪、及小栗父子の斬首と梟首
    小栗に何等の罪跡なし、小栗の斬首と英雄らしき態度、父子二人
    家臣六人の非道極る惨殺、此の非道を敢てせしは何人か、斬首の
    不法と之れが嚴正批判

   小栗上野介の母堂と夫人の辛ふじての避難並に其の悲劇
    母堂及夫人は辛ふじて難を逃れ千辛萬苦して越後を經て會津に遁
    ぐ、小栗家從者の忠節と小栗の人格の顯揚。

   小栗上野介の家筋と其履歴
    元龜天正時代井伊、本多、等と並べる名將の家系、井伊大老に抜
    擢せられて遣外國使となる、辭職と登用の頻繁古今無類也。

   小栗上野介と當時の名士との對照
    小栗の作戰計畫に驚嘆したる大村益次郎
    此史實は國民に何を談るや
    小栗上野介と西郷吉之助
    小栗上野介と勝海舟

  十一 小栗上野介の人物と性格
    (一)小栗の少年時代と其大人らしき態度
    (二)小栗は駿馬を馭するを好む
    (三)小栗は風流を好まず
    (四)小栗の書畫に關する意見
    (五)小栗と文藝學術
    (六)小栗の財産
    (七)斬首直前の小栗の心掛
    (八)從容死に就ける小栗の武士らしき最後
    (九)小栗は不可能と云ふことを知らず
    (十)小栗の屋敷と土方久元
    (十一)小栗と新聞發行の意見上申
    (十二)開國論者としての小栗
    (十三)小栗と國粋保全論
    (十四)小粟と財界巨人三野村利左衛門の擢󠄀用
    (十五)小栗上野介の剛直

  十二 小栗上野介の銅像建設、横須賀海軍工廠の小栗の功蹟に關す
     る國家的公正なる聲明、御内帑金の下賜
    (一)横須賀海軍船廠創立の由來
    (二)工廠創設當時の小栗の苦衷

    横須賀公園に於ける小栗の小胸像

    決 論

  後編 維新前後の政爭と自由批判

   維新と其前後との區別
   鎖國攘夷論の危險性
   維新前後、薩藩の權謀術策
   維新後江戸及關東に於ける強盗放火と其の背後の人西郷
   慶應三年十二月九日の所謂小御所會議と山内容堂の正
    諭、岩倉及西郷の權謀

   鳥羽伏見の變と開戰の責任者たる薩長
   江戸城引渡の眞相と英公使パークスの干渉
   徳川方脱走者の飛檄
   東北二十餘藩奮起と輪王寺宮の令旨
   會津藩の忠誠と其正當防衛

    附

    舊會津藩出身某先輩の會津開城に付ての辯明

  十一 維新以後の内亂と國民の犠牲

       (目次終

 前編 小栗上野の功業と其冤󠄀死

 一 小栗上野介の外交上に於ける功績 (目次)

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 (一)安政條約交換使節の大任と米國人の賞讃 (目次)

 開闢以來白人國への初めての國使、其任務の重大性、米人の賞讃

 今を去る六十八年前、即ち萬延元年、日本開闢以來我國として初めて試みられたる「白人の國への全權使節派遣の事」ありたりしに際し、當時未だ其名を世に知られざりし小栗上野介は、井伊大老の抜擢に由り、「御目付」と稱する重き役目を以て、幕府より、全權使節の一員を命ぜられ、遣米使節の一行中に加へらるゝことゝなつた。時に彼れ未だ年壯にして、其齢は實に三十三歳であつた。使節は三人を以て成り、其正使は新見豐前守であり、副使は村垣淡路守であつた。彼等は「奉行」と呼ぶ役目を以て派遣せられたのであつたが、新見は容貌秀麗にして、御小姓出身であり、禮容正しく應接度あり、其の押し出しの堂々たる所より特に正使に選ばれ、村垣は文筆に堪能なる所より副使に選ばれたと傳へらる。而して獨り小栗に至つては、唯單に其の才能膽力の非凡なる所より、一代の偉人井伊大老に嘱目抜擢せられたのであり、「目付」即ち「監督」として、日本國最初の白人國差遣の全權使節に擇ばれたのであつた。彼が非凡の膽力才能の持主でありし事は、其の幼時より、既に近親の人々によりて、認められて居つたのであつた。當時は長崎に行くことでさへも、決死して旅路を履むのであり、萬里の遠きに行くかのやうに考えられて居つた時代であ。國使として初めて碧波高く踏り、洋々として無限の感ありし太平洋を越え、米艦ポーハタン號によりて、日夕白人と伍しつゝ、白人の住する邦人未知萬里遠隔の異域に使するのであるが故に、其人選に付て、時の政府が、慎重に注意を拂ひたるは云ふ迄もない。小栗は一代の大政治家井伊大老の眼識を以て選に當り、此の重大なる任務を命ぜられたのであつた。流石は井伊大老である。我が國家の權威の爲めに洵に人選宜敷を得たりと云ふべきである。當時大老井伊掃部頭は、徳川將軍より、米國大統領に捧呈する國書を歐文となすことに賛成せずして、日本文となしたる程の、國家本位の大眼識を備へたる人物であつたが故に、其人選を爲すに付ても、亦最も國家心に富める才略縦横然かも大膽果敢なる小栗を選びしは、流石に偉人は偉人を知るの感を後人に深からしめ、其の着眼宜敷ものがあつた。
 此の一行の米國に於ける行動は、勿論純日本式であつた。小栗は特に意を用ひ、人目を眩せしめる如き美しき錦の衣袴を擇み用ひた。是れ彼に俗人的痴氣ありしが故にあらず、彼の眼中にには、唯日本國家の重きのみあつて、日本人たる威儀を示すのの要ありとなし、敬國の念に燃えし以外に、他に何物もなかつたのである。當時徳川將軍の米國に送られし図書は、国際法の本則たる「國家平等の原則」に立ちて、何等の非難すべき過誤もなかつたのであり、約三百年前、陸奥の一雄たりし伊達政宗が、支倉を使臣として羅馬法皇に捧呈せし文書の如くに、不平等的卑屈のものでは幸にして全然なかつた。而して國使新見村垣、小栗等が、當時の政府たる幕府より受領したる「下知狀」の如きは、嚴に國家本位に立ちて、我國權を尊重し、嚴正にして要を得たるものであつた。其の文は實に左の如くである。

 定 書

 「本條約書を華盛頓に持行かん爲め、汝儀彼地に送り、其條約書取換ん事を汝に命ず且萬事念を入れ、國體大切に勘考して、兩國の和親永く連綿する樣取計ふべし。
 汝連行く處の役人並下々の者共、船中及陸上にても、不取締の事爲ば、急度戒むべし、故に汝平常夫等の事無きよふに心附くべし。
 若し日本漂明民ありて日本に歸る事を願は、合衆國の政事役人に告知して連歸るべし。」

 安政七年正月十六日 御印
        新見豐前守
        村垣淡路守
        小栗豐後守

 右に云ふ「國體大切」とは、當時の用字法であり、今日に云ふ「國權大切」と云ふことであり、我が國家の權威を維持しつゝ、國際の親交を訂せんことを欲し、此の事に専念せしめたものである。實に之國家外交の要諦であり、幕府の外交は確に要を得たるものであつた。而して此の重大事を命ぜられたる三使臣の任務の、日本開闢以來空前的に重大なりし事は、定めし三人の使臣、殊に小栗をして、堅き決心を以て、之れに臨ましめたものがあつたであらう。
 此の三人の使節は、米國にあつて常に行動宜しきを得、深く一般米人の敬迎を受け、賞讃を博し、立派に國使としての任務を果し得たのであつた。當時の事情に付き、米国人の權威ある一著書に左の如き記事あり、此の消息を明らかにする。

(注)『米国の対東外交』(大日本文明協会刊行書 ; 第50編) / ジョン・ダブリュー・フォスター 著[他] (大日本文明協会, 1912)にて引用文を別掲する。

 同勢七十一人の大名行列を、未知白人の住める大都會に行ひ、何等の失態もなく、日本人の名誉を米國に輝かしたりし第一次我全權の功績は、當に千古世界史上にに傳へられて、日本國民の光彩を不朽に發つであらう。之れ日本國民文化史上、見逃す可からざる一大重要事件である。其後明治五年、岩倉木戸大久保等が、第二次日本全權として、明治政府より米國に派遣せられたし事態と比較し見るも、國民文化史研究上亦興味深きことなるべし。此の第二次全權の行きし折の日本全權及一行の威儀は、果して新見村垣小栗第一次全權等の顕はせる國光以上であつたであらうか、蓋しこれ、知る人ぞ夙に知るところである。(岩倉全權等の事情は、尾佐竹猛氏の近著「幕末外交物語」第四八八頁にあり)兎に角、 第一次遣米使節は、空前の事業たりしに拘はらず、斷じて國命を辱しめざりしのみならず、一般米國人の深く敬服する所となつたのであつた。國民として國家の名誉の爲めに、此事を慶賀して然るべき所である。
 小栗の一行は、萬延元年正月十八日品川より出帆し、三月十五日華盛頓に到着し、四月二十日華盛頓を出發し、二十八日紐育に到着し、五月十二日紐育を出發し、九月二十七日品川に歸着したのであつた。此間小栗上野介の獲得せる政治經濟上の収獲は多大のものがあつらう。
 開闢以來、初めて行はれたる此前古未曾有の國使の渡米と、其の大任を全うし無事歸朝し、兩國の親交を訂したりし事とは、既に是れ日本國家國民の文化の爲めに、空前の重大事件であり、既に之れのみにても一大功業と云ふべきである。國家國民として、當時の全權委員、新見村垣及小栗一行に向つて其の勞を感謝するを禮儀となすべし。國家は、又彼等の功績を明かに彰表して然るべきものである。

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 (二)對州島に於ける露國の艦長に對する小栗の決死的談判 (目次)

 小栗の態度、幕府の巧妙なる外交政策

 小栗上野介は米國よりの歸朝後、文久元年、露國軍艦が對馬に來りて、極めて強硬なる態度を持し、若干の土地を借用せんと欲し、終には内外人の衝突となり、發砲殺人の不幸なる事態を現出したりしに際し、四月六日、外國奉行として幕府より對馬に派遣せられ、五月七日小栗は、對馬に到着したのであつたが、彼は先づ五月十日を以て、ビリレフ艦長と會見商議する所があつた。之れより先、對州の藩士等は、「百日目には、對州の藩主と會見せしむべし」と露人に向つて證言せしことありし所より、露人は、「對馬藩主に面會して、對馬滯在中の厚意に付て感謝の意を述べたし」とのことを、切に小栗に向つて要求したのであつた。五月十日、小栗は書面をビリレフに送り「來る二十五日を以て、必ず對馬の藩主に面會のことを取計ふべし」と約束した。小栗は再び十八日を以て露人と會見した。露人は益々強硬にして「二十五日午後二時には、必ず藩主と會見せしむべし」と小栗に迫つた。事態容易でなかつた、小栗は即ち昂然として彼に對し、語氣を鋭くして「若し余が請け合へる事にして、幕府の命により、成り得ざるが如き事情も生ぜば、我を射殺して可也」と答へた。(當時の文書に依る)此の小栗の決死の答辯は、世上既に傳へられたる所である。小栗の決意は固かつた。、流石に暴横強硬なる露人も、小栗の此の決死的雄々しき態度に接しては、之に敬服し、俄に其の辭和げたとの事であつた。併し乍ら攘夷の聲、常時熾にして内外に事情切迫、定めし其の談判は、小栗をして頗る苦境に立ち困難せしめたであらう、同情なきを得ない。
 小栗が常に決死して國亊に當るの擔力は、之れを以ても窺ふ事が出來る。此の際に於て、如何に小栗に、勇あり智ありとも、如何せん小栗は實力のある露の軍艦を其の口舌を以て對州より逐ひ拂ふことの不可能なりしは云ふ迄もない。小栗は意を決し、即ち談判を中止し一先づ江戸に歸りて對策を講ずるより他に良法なしとし、對州の家臣には「成る可く穏便の處置あるべき」を諭旨し、五月十九日結末を附せずして對州を引上げた。
 夫れ故に、此の談判は、小栗上野介の外交當局としての一大失敗なりとして世人は從来非難するのである。併し乍ら、口舌を以て、東方侵略を行ひ來れ驕慢なる露艦を逐ひ得ざるは、常識を以て知り得ることである。之れ以上に、當時としては策の施し得べきものが無かつたものと見るを正しとせん。小栗は江戸に歸りて後、時宜によりては、再び對州に出張すべき内命をも幕府より受けたのであり、而して小栗は六月二十八日、幕府の命に依り、凾館に出張したのであつた。同時に此の對州問題に付ては、幕府の當局は、巧みに露國の敵たる英國公使を利用せんとし、英國公使に露國の暴狀を説き、英人を煽動し、其の軍艦の威力を借り、英國の干渉を以て、露艦を對島より退去せしむるの策を廻した。策は美事に成功し、英公使之れに應じ、其の軍艦を派遣して露人を壓迫し、八月十五日、ビリレフは終に對島を去つて事は落着したのであつた。(尾佐竹氏著幕末外交物語第三百四十七頁)。但し他に説あり。曰く、「英國のアドミラル、ホープの退去勸誘に對し、ビリレフは強硬に反對したのであつた。然る是と殆んど同時に、露本國より東洋艦隊に引上げの命令傳へられ、ビリレフの坐乘せるプサトニツク號も、其の一部なりしを以て、露艦は自發的に對馬を退去した。英國人としてはホープの力を以て露人を對馬より退去せしものとなすけれど誤也、と信ずる(某博士の説)。」小栗上野介は外國奉行の職を以て函館に差遣せられたが、函館より江戸に歸り、其七月を以て、外國奉行の要職を辭し、閑地に就いた。蓋し事の意の如く取り運ばれざる所より、強烈なる責任觀念上此所に出しものにして、小栗の爲せる所は武士らしい至當の去就であつた。之を攻究するに、當時露國の口實としたる所は、『英國に對馬占領の陰謀あるが故に、正義を愛する露國皇帝は、傍觀するに忍びず、露國は軍艦を繫留して、日本を助け、以て英國に備へん。之が爲めに、小屋掛敷地を對馬の一角に借用したし』(尾佐竹氏著幕末外交物語第三百四十七頁)と云ふにあつた。此の口實の下に、露國は對州の一地を借地して南下の根據を固ふせんとするにあつた。此の「英國云々」の口實あるを以て、幕府の外交政策としては、此の事を窃に英國をして露國に對し其の武力干渉を行はしめ、以て對馬の一部占領を企圖したる露人を對州より美事に逐はしめんとしたのであり、當時の世界の大勢より察し、我國の外交政策としては、賢明なる方法たりしと云ふを當れりとす可し。後年明治の代となりて、日本が露國の南下を防退し、東洋の平和を維持したるに付けても、當時の日本は、「日英同盟」の威力を利用したのであり、決して日本人單獨の力を以て、此の大事を果したのではなかつた。之れ世人の好く知る所である。此の日露戰爭當時に於ける英國利用の我が外交政策は、日本の外交としては、確に其の當を得たるものとして、世人は夙に皆之を認めつゝある。幕末に於ける幕府の對露政策は、又正に之れと同一式の方策であつた。先づ陰忍以て露人に接し,囂々たる攘夷の暴論を排斥し、對州人の無謀なる戰爭決意を慰撫し、而して戰はずして、英國の力を利用し、兇暴なるなる露艦二隻ボサジニカ及オフリチニツクを、對馬より逐ふたのであつた。(尾佐竹氏著幕末外交物語第三百四十九頁)寧ろ巧妙なる外交政策なりしと評して公正なるべし。露英の利害は、古來相一致せず、日本として、大露國の横暴を制するには、露國を仇敵視する英國を利用するを賢明なりとすること、是れ既に六十餘年前、幕府の外交當局の達觀せる所であつた。當時「攘夷」なぞを唱へたる世界の大勢を理解せざる無鐵砲の浪士公卿及某々藩人には、幕府の斯かる賢明巧緻なる外交政策に付て、何等の理解も爲し得ずして、大いに幕府の態度を罵り、幕府の當局を軟弱也として罵りたりしは、無智者の言として當然の事であつた。今日の國民は、理非何れに在るやを冷静公平に明察するを必要とする。此の對州問題に付ても、小栗の苦心を寧ろ諒とすべく、彼を譏るは誹るものゝ不明なるを解すべきである。

 餘 錄 (目次)

 13-14頁
 (一) 小栗上野介とスタンフオード大學の教授 (目次)

 著者は一九一八年六月の世界大戦中、列國赤十字訪問の任務を帶びて歐米に派遣せられたる際偶々米國スタンフオード大學を訪ひ、同校の東洋外交史の教授某氏と會見し、日本より初めて派遣せられた使節の事に付て、同教授と談り合ひしことがあつたが、其の折同教授も、當時の事實に付て、廣く深く研究せられ居りて、面白き話をせられたりしが其の中に左の如き興味ある話もあつた。
 「使節中の一人に、幕末の名士として知られたる小栗上野介が居り、全權の一員として當時の公文書に記されてあつた。新見村垣の二人は『奉行』としてあり、小栗のは『目付』としてあつた。『目付』とは、奇妙な用字であり、外國人には理解に苦しむ文字であり、如何なる任務のものなるかの判斷が附かなかつた。夫れ故に或る一人の日本人に向かつて、此の事の飜譯を依頼した所が、其の日本人は、『目付とはスパイ也』と譯した。全權の中に、スパイ即ち間諜居ると云ふことは、益々合點が行かなかつた。そこで色々手を盡して調べて見た所が『目付とは監督と云ふこと也』と云ふことが分かつて、初めて一行中に、小栗と云ふ英明なる一監督が附せられてあつたことが知られた云々」
 一般に日本人が、日本の外交史に迂闊であり、反つて外人の方が、斯かる事に熱心であることは、誠に遺憾の事だと思つた。日本人には此の缺點は確にある。戒むべきである。

 14-16頁
 (二)最初の遣米使節の寫眞に付て (目次)

 第一次遣米使節の寫眞は、今日にては日本にもあり、米國の日本大使館にも備へである。併し乍ら、明治の半ば以前迄は、何人も之れを知れるものはなかつた。此の寫眞は、小栗家の養嗣子小栗貞雄が、明治二十二年歐米遊學よりの歸途、米國華府の一歸屋に至り、『當時の寫眞はなきや』を尋ねられた所が、一老翁あり、古き種板の中より、親切にも此の寫眞原版を探し出して、小栗貞雄に示されたる故、小栗貞誰が誰れなるやを知らざりしも、之れを新に寫し取らせて、日本に持ち歸り、之れを本著者の母や其他親族のものに示して、中央の椅子に凭りて並びつゝある重なる數名の中にて、孰れの人が新見村垣の正副使であり、孰れの人が小栗上野介なるかを、初めて知り得たものであつた。斯くして初めて、日本に小栗上野介の容貌風采は知られたのであつたが此の寫眞中、小栗上野介の態度は、一段優れたものがある。悠々として迫らず、然かも胸中深謀遠慮を藏するの趣が明かに窺ひ知られるのである。(右述べたる本著者の母と云ふは、小栗上野介の夫人道子の實妹であり、小栗夫人道子は播州林田の小さき大名たりし建部内匠頭の第二女であつた)。
 余は一九一四年に學術研究の爲めに暫く米國に居りし折、當時の日本大使館を訪ひ、大使某氏に向つて、第一次遣米使節の寫眞の保存はなきやを問ひたりしに、同大便は「岩倉公一行の寫眞は知り居れども、幕府より派遣せられたる遣米使節の寫眞に付ては何等知る所なし」と答へられた。然るに間もなく、大使館の事務窒に至り見れば、遣米第一囘の使節の古き寫眞も掲げられて居たのであつた。蓋し明治時代の御役人なるものは、明治以來の事のみを尊重して、七百年來の國家の正當の制度たる舊幕府時代の事柄を輕視するの風ありて、斯かる我が外交史上重要の寫眞をも、恰も他國人の寫眞でもあるかの如くに輕視して、目に留めざるものなるかを推察し得た。維新の前と後とに由つて、日本と云ふ古き國家を、日本人としで輕重するのは、正しい國民觀念とは云ひ得ない。役人のみならず明冷以後の日本人に、此の訣點多きは、匡正せざる可からざる所である。人或は「奉行」と云ふ名を輕視する人がある、其等の人は、「目付」を「スパイ」と譯する無學の連中と、全く同一型の人である。

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 (三)小栗上野介の米國土産 (目次)

 小栗上野介は、米國に滯在すること數ヶ月、米國人の案内に依り、米國の文物を仔細に見學した。天資聰明の人であるに加へて、當時他人の有し得ざりし此の體驗がある。彼が徳川の末期に、時流に超越せる世界的識見を有するに至れるは、蓋し當然である。小栗上野介は、其親族のものに、其の當時の土産として持ら歸られしものは、地球儀や新しい器絨であつた。『世界を知れ』との警告であつたこと云ふ迄もない。此の事を余の母は、余の幼時屡々余に談つたのであつた。當時無智の輩日本に多く、攘夷を唱へて國家を危殆に陥れんとせし時なるを以て、小栗は國家の爲めに之れを憂へたのであつたが、先づ地球儀に依りて國民を導き、世界を理解せしめ、國民の立揚を知らしめんと欲したのであつたらう其の憂國の至情は多とすべきである。
 小栗上野介は、國民指導の方法として常時種々の珍奇なる機械器具乘馬等を、米國より持ち歸つたのであつた。此等物品の多くは募府仆れ、慶喜恭順された後、其の采邑權田村に退きし折、同地に持ち行きたりしが、同地にて何等理由なくして、東山道總督軍の監軍等に斬殺せられ、共の紀念物や其の家財は、征東軍の人々及び村民によりて、無法にも悉く盗み去られたのであつた。土方伯傅の中の記事によれば、彼の乘馬は、官軍の豐永某之れを奪ひ、彼は濟まし込んで之を乘用したとの事である。
 顧みれば當時の日本人の多くは、日本のみを知つて世界を知らず、「鎖國攘夷」なぞと叫べること、恰も井底の蛙聲に均しきものであり、此等無智狂暴の輩横行し、頑迷固陋の徒多く跋扈し、公卿の一部や若干の雄藩や浪士等が、其間に策を弄し、聲を大にして、己れのみ獨り皇國の忠臣たるかの如くに放言し、夷狄を攘ふ可しなぞと無鐵砲なことを口走りて、外は歐米人より嘲けられ、内は日本の國家に禍害を加へつゝあつたのであつた。此等の盲目者が、當時日本に横行跋扈し、大いに當時の日本の政府を脅かして、窮地に陥れ、後には盲目者は目を開いて、外交問題を政爭に利用し、策謀權略の政客と變じ、彼等の權略成功して彼等は世に榮ゆるに至り、小栗の如き國家を危急より救ひ出したる開國の先覺は、却って反逆人の汚名を附せられて、不幸にも斬罪に處せられたのである。天道非乎是乎とは、斯かる楊合に於て投ぜらるべき呪ひの詞であらう。

 二 小栗上野介の我が國の軍事上に於ける功績 (目次)

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 (一)日本海軍の創設に關する功績 (目次)

 小栗上野介は、暫く閑地に在りしが、元治元年十二月、軍幹奉行の要職を拜命した。彼は日本の國防の爲めに、初めて米國より軍艦を購入した。彼は又日本海軍の基礎を定むるが爲めに、相州横須賀に造船所及び鐵工所を創設したのであつた。其の着眼は偉とすべく其の破天荒の新事業は、永遠に日本民族の外に對する安榮の保證の基礎となつたものである。彼は又横濱に船舶小修理所を建設した。漸くの如くに日本造船業と鐵工業との爲めに彼は同時に一大功勞者であつた。彼は又森林保存の方法を案じ、百世の爲めに、船艦材料供給の方法を定めんとしたのであつた。彼は又湯島鑄造所を改善し、國防の爲めに大小砲並に兵器の改良に盡瘁した。彼は又上州小坂村鐵鑛の採掘を發意計畫した(明治三十四年民友社出版 塚越芳太郎著「讀史餘錄」に此等の事蹟記しあり、「前橋市にて發行する上毛及び上毛人」にも此事記しあり)。
 日清の役、日露の役にも、横須賀造船所は、我が軍國の國民爲めに、偉大なる働きを爲したのであつた。今の平和論者や社會主義者は、總べて軍事工場を呪ふ。然し乍ら此の種の軍事工場ありしが爲めに、日本民族六千萬人は、支那人及露人の脅威より救ひ出されたのである。東洋十億人の爲めの平和も、亦之れありしに由りて成つたのであつた。小栗上野介の爲せる我が海軍の創設は、日本國民救ひ、東洋の平和を確保し、日本國民の爲めに、造船及鐵工業の基礎を立てたるもの也と云ふも、決して過言ではあるまい。
 當時幕府の財政は窮乏し、幕府の權威は衰へ、幕府の存在は望み少なくなつた。此の時に當りて、小栗上野介は、横須賀造船所を急務なりとし、凡庸俗吏の群議を排斥して、責任を一身に負ひ、佛のツーロン軍港に倣ひ、製鐵所一、ドツク大小二、造船所三、及び武器庫廠舎等を、四年を期日とし、總計二百四十萬弗を投じて、以て完成せしむ可しとの計畫を建て、佛人技師ウエルニーと此の事を約定したのであつた。當時の二百四十萬弗は今日の數千萬円にも當るであらう。彼は國家財政の當局として、責任を以て之を斷行し、國家軍事の當局として、國家心に立脚し、之を實行したのである。一徳川氏の爲めではない。
 當時小栗上野介は、幕末の名士にして其の友たりし栗本鋤雲に向つて曰く、「當時の經濟は、眞に所謂遣り繰り身代である。假令此の大事業を起こさずとしても、此の金他に供給することは出來ない、却て是非勿かる可からざるドツクを建設するとせば、之れが爲めにむ、冗費節約の口實を得ることゝなり、財政上利益である。又愈よ出來の上は、旗號に熨斗を染め出すとも、猶ほ土藏附賣家の榮誉を殘すことが出來る」と、其のゲン頗る味あり。栗本は、後年此の事に關し、人に向つて云ふには、「小栗の此の一語は、決して一時の諧謔とのみ見るべきではない、實に無限の悲哀が其の中に藏せられてあつた。小栗の心中には、既に江戸政府の最早久しく存在する能はざるを知つて居たのである。併し乍ら、一日たりとも、政府の存在する以上は、政府の役人としての任務を盡さざる可からざることを念としたものであり、小栗は、常に斯かる口氣を離れたことは無かつた」と、栗本の此の評は當れり。小栗は國家本位の人物であつた。
 小栗上野介は、私利私慾に生き陰謀之れ事とするが如き、有害にして卑しむべく策士風の人物ではなかつた。常に日本國の國家と民族との安全と繁榮とを、其の念となしつゝあつたのである。之れ、鋤雲の右の言を以て明かにし得る。
 當時、國内諸藩の人心紊れ、野心を包藏する浪人壯横行し、陰謀奸策此間に行はれ、彼等は或は私怨の爲めに,あ或は私利の爲めに動き、其の形其の名をのみ美しくして、其の實に於ては、國家を危地に陥れ、其間に乘じて功名を立てんとしたりし人々、全國到る所に多くありたりしが、小栗上野介は、斯かる無識頑迷の輩の一蹴を國是也と信じ、之れを實行せんとする國家本位の政治家であつた。小栗の能力と勢力とを忌みし反對派の連中が「小栗の眼中には唯徳川氏のみありし」と云ふは、彼を誣ふるものである。小栗に疎んぜられし勝海舟の如きは、明治の世となりて後に、此の言を爲せし一人であるけれども、寧ろ其の舊僚を陥るゝの心事の陋を憐まざるを得ない。小人輩の下せる小栗に對する賎劣の批評よりも、當時の事實は、小栗の人物を雄辯に談るを如何せん。史論としては事實を重しとせん哉。
 小栗上野介が、横須賀造船所建設の爲めに盡せし功績に付ては、大正四年九月、同港五十年祭の行はれし折、同港海軍工廠より天下に公表せられたる公文によりて、「不朽に傳へられる可きもの」たることを明らかにせられた。此の事に付ては、後節に此れを詳述する。彼を日本海軍の基礎建設の祖と云ふも不當ではない。

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 (二)日本の佛國式陸軍創設に關する功績 (目次)

 小栗上野介は、歩兵奉行となり、又陸軍奉行ともなつた。彼は、日本國の陸軍の爲めには、洋式の建設者とも云ひ得る人である。日本の洋式陸軍は、明治以降に至りて初めて成立したものでは斷じてない。
 小栗上野介夫人の弟たる坪内定益と云ふ舊旗本の地位に在りし人、幼時著者に談りて曰く
 「幕末に際し、大名旗本の青年中より、洋式の練兵を實際に指揮する士官を養成する目的を以て、折々、青山附近の練兵場にて、大隊教練が行はれたことがある。小き大名や大小旗本の當主や部屋住の子弟等が此所に集つた。今日にては、大名と旗本とは、全然身分の異つた上下の差別ある人間でもあるかの如くに思はれで居るけれども、幕府時代には左樣なことはなく、同じく幕府の「直參」であり、石高でなく、其の職柄によりては、旗本の方が上位に置かれたのもあつた。此の當時、練兵場に集まれる大名旗本の子弟共が、一大隊の歩兵に號令をかけても、廣き練兵場にて、號令の全軍に徹底するやうな人物は、一人たりともなかつた。然るに獨り小栗上野介のみは、身體は小兵であるにも拘らず、其の音聲は頗る強烈にして能く練兵場の隅から隅まで通りて、一大隊の兵を手足の如くに動かし得たものであり、小栗上野介は名家の出であるけれども、天性非凡の人物であった」云々
と、小栗上野介は、二千五百石の武家としでの一名家に産れた旗本の身であつたけれども意氣地なき殿様ではなく、性來斯かる非凡の人物であつたのである。(此の事實は「雜誌上毛及上毛人」にも記してある)
 彼は、日本國家の爲めに佛國式陸軍を建設し、且つ之れが爲めに、種々改善畫策した人であつた。左に名士栗本鋤雲の著「横濱半年錄」の一節を引用して、此の事を明かにする。(塚越氏著謨史餘錄第百八十頁以下に據る)
 「元洽二牛三月の頃と覺えたり。一日小栗上野介淺野美作守、予の官邸を訪ひ、我々今日職掌の陸軍大眼目の事にて議する旨あり、老兄の意見も聞きたければ來れるが、抑廷議舊來の軍制を癈し、洋式の制に倣ひ、始めて騎歩砲の三兵を編みたるは、文久二年の事にして(當時和蘭式を模せり)、既に四五年を經たれども、今以て一定の規律立たざるのみならず、目的さへも確立せず、其の實口ヘ出して、三兵などゝは。言ひ兼ねる揚合なり、因つて兩人が思ふ所にては、何の國なりとも可然國に因み、陸軍の教師を迎へ、士官兵卒を教導せしめ、一定の式を定め度、此事に付參れりと。予此時初めて我國三兵の名ありて、其實なきを知り、大に驚き、兩兄の言の如くは、實に兒戯に類して、一旦緩急あありと雖用ゆ可からず、陸軍教師を聘するは、今日の急務なるべし、併し當節神奈川定番役の輩屡次調練あり、林百郎之れを指揮號令して、専ら英式を用ふと聞けるが、此者などは、如何と答へたるに、兩人輾然として大いに笑ひ、百郎如きは陸軍決して其人なしとせず、況んや山手英兵(此時英國護衛兵横濱本村山手に屯在せり)が調練を柵外より窺ひ、其式立つ日には、神奈川定番役其外とても、皆改めて遵奉せしむるに至るなりと。余失言を悔ひ、兩人が眞意の在る所を悟り、メルメテカシユン海軍は眞に英勁く、陸軍は眞に佛強きの證を、彼國史を援て解説せし事ありき。『今二兄軍旅の事に馴れざる予に相談して、然る後に定むるとあるは、其意知るべし、定めて佛國公使に就而、其教師雇ふとの應否 を決せしめんとするに在るならん』と。二氏頷きて曰ふ、『誠に然り』と。鎖國攘夷の稱何時か變じて、尊王攘夷となりし日に方り、「愛國」の文字未だ我國に生れざりしかば、凡外國人に親接し事を談ずるものは、善悪邪正を問はず、概して皇家に惇る者となし、同じく幕廷に立ち、有志有識を以て稱らるゝ者と雖、意を弛して説るを得ず、況んや四方有爲の士と稱する輩、猥りに起り、細作充満、殆んど耳の垣に屬するありて、幕廷の云々擧動せんとする毎に、未だ行ふに及ばずして、既に世間に傳播し、從つて妨碍百出、終に天朝より沮挌の令下るは、毎事必然するものから、幕吏の膽薄き者は、首に畏れ、苟を全ふするを謀るの外暇あらず、此時淺野は既に羹に懲り、韲を吹き(生麥償金に關して貶黜せられき)、小栗は又權を失ひたる人なれども(攝河泉播四州の地を一橋家ら與へ、京都を守護せしむべき内諭ありし時、閣老小栗を召して、意見を問ひしに、小栗は利害を開陳し、固執して聽かず、自ら死を以て上諭を拒むの責に當らんと請ひしに、事遂に已みしと雖、彼はこれに由で貶せられしなり。彼が非凡の才を懐きながら、終身参政に躋る能はざりしは、實に之に基因せりと云ふ)共に志を屈せず、兵制を更張せんと望むの心切なるより、多く下司譯官の手を經て、事の未済に毀たんを憚り、予に頼て直切に佛國公使に談し、事を容易に定めんと期したるなり。明日予公使館に至り。レオンロセス公使に面會し、陸軍教師延聘の事を談判するに及び、事容易に整えひ、二氏に報ぜしかば、二氏即日陸軍總裁(老中松平伊豆守)に上申しけるに、總裁にも兼而承知の上なれば、立ちどころに決して、夫々手順を逐ふて運たれども、世間尚誰も知る者あらざりき。是に於て日本の兵制は、始めて大に完備せんとなりぬ」
 小栗上野介は、夙に波米して外圃を知り、文明世界の軍制は如何なるものたるかを理解して居った。彼は陸軍としては、佛圃の陸軍が當時各國中、最も完備し整頓し、模範となすに足るを知つて居たのである。彼は夫故に佛國式陸軍を擇んだ。
 彼は、身命を犠牲に供しても、肯ほ日本國陸軍の建設を志したのであつた。當時の幕府を呪へる人々や、當時の一部公卿や、常時の討幕を口にする浪士等が、如何なる陰謀術策を弄すとも、如何に彼を陥れんとするとも、共の身は毒刄に斃るとも、斯かる事には彼に何等の畏怖なく、唯々一念、日本國の爲めに、列國と對峙するに足るべき兵制を布き、強國の陸軍を設けんとするにあつた。私怨者や盲目者は、小栗を目して、唯だ徳川一家の爲めのみに考慮せる人として、彼を誣ゆるのである。併し乍ら、之れ誣ゆるものゝ奸策を表はすに過ぎない。
 普佛戰争以後、獨乙の勢力隆々たるに及んで、日本は獨乙式を擇鐸ぶに至りたりしが、最初は、明治政府も亦舊幕府の軍制を襲ぎ、佛式陸軍に依つたのであつた。而して世界大戰以後、日本の陸軍は、佛國に學ぶ所多大であり。陸軍に屬する空軍の如きは、全然佛國國に模倣するに至つたのである。然らば小栗上野介の建設 せる佛國式に倣へる我國の陸軍は、日本國民の守護者となり、今日にも尚ほ存續するものなるを惟はしめる。
 小栗上野介は、旗本に課するに「賦兵の制」を以てし、之れを以て、數大隊の歩兵を組織した。一代の文豪福地源一郎は、其の著「幕末の政冶家」に述べて曰く、「之れ日本に於ける徴兵制度の基礎である」と。適評と云ふべきである、當時は未だ日本の人民全般より壯丁を徴し得るの時代でなかつたこと云ふ迄もない。此の時以來旗本等は、其の下屋敷又は廣場に於て、其の家臣共を集めで、洋式訓練を開始したのであつた。
 日本の洋式陸軍は、明治以後に至り、初めて長人薩人によりて創始せられたのでは断じてなく、日本の海軍は、明治以後に於て、初めて薩州人によりて建設せられたるものにあらざること國民文化史上に明白に記されなくてはならぬ、日本國民は、日本の軍制史攻究上、此等の重要事實は正確に之れを心得て置くべきである。 (昭和三年三月東京三越樓上に於て、「日本陸軍六十年記念展覧會」が催され、其節日本の洋式陸軍は、明治以後初めて成れるものゝ如くに宣傅せられたるは、日本人として研究足らず)

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  小栗上野介の國家財政及經濟上に於ける功績 (目次)

 小栗上野介は、再々勘定奉行勝手方となつた。之れ幕府の財政を司る行政長官である。當時の國家政府の財政は、小栗の司る所となり、小栗は國家財政の主腦として、能く日本の國家の爲めに、財政の整理・充實を圖り、且つ國民經濟を調節したのであつた。幕府を覆すことを志したる當時の薩長及私黨浪人等より見れば、小栗上野介が、國家の勘定奉行として、幕府に居りしことが、自己の利害關係上より打算して、不利不便甚しきものがあつたであらう。併し乍ら、彼は、福地源一郎が其の著書「幕末政治家」中に記述して、彼を批評せし如くに、「病の癒ゆ可からざるを知りて藥せざるは、孝子の所爲にあらず、國亡び身斃るゝ迄は、公事に鞅掌するこそ武士なれ」と稱して、屈せず撓まず幕末數年の財政の事に付て、日本の國家國民の爲めに盡瘁したのであり、此の點に付ては、識者の定評するが如く、何人と雖、其の財政能力の非凡なるを認めざるを得ないのである。彼は一徳川氏の家政の爲めに盡したるにあらず、國家の政府の爲めに、國民經濟の爲めに、財政の當局として盡瘁したのである。日本國總民の幕末に於ける生活之れが爲めに安全を得たるは云ふ迄もなし。福地源一郎の著書「幕末政治家」の中に、小栗の能力を激賞したる左の文句がある。
 「幕府が末路多事の日に當りて、如何にして其費用の財源を得たりしかは、啻に今日より顧て、不可思議の想を成す而巳にあらず、當時に於ても亦幕吏自らが怪訝したる所なりき。而して其經營を勉め、敢て乏を告ぐること無からしめたるは、實に小栗一人の力なりけり」
 明治の始めの時代に、小栗上野介の如き財政上に非凡の能力を有せし賢臣、果して有せしや如何、由利、大久保、横井等到底小栗に及ぶべくもあらす、明治の初年以後にも日本に財政事務に絶群の人物果してありたりしや如何、公平に比鮫し見るも、亦文化史上の問題として興味ある問題である。若しも小粟上野介にして、明治の御代に於て、聖天子を輔弼し奉る能臣として、財政の國務の上に用ひられたならば、我國の財政及財界の爲めに、明沿の初年以來、夙に財政整ひ、經濟界充實し、國家人民の爲めに、如何に幸福の事であつたであらう。之れ後節財界の巨人三野村の言の如くである。然るに非道權略の輩等、此の人を罪なくして斬殺したるは、國家の爲めに、無限の遺憾である。
 小栗上野介は、自信力の強き人であり、諂諛の人でなかつた。唯だ國家民人の幸福を念とし、其の是也と信ずる所に邁進し、學理に鑑み、實際に顧み、國費の調達を圖つたのである。例へば、彼が勘定奉行として、先例により、國費の精算書を、城中に於ける老中列座の席上に於て、朗讀報告すべき時に臨みても、彼は此の先例に由らず、老中に向つて云ふには(「讀史餘錄」に記しあり)
 「今之れを朗讀した所で、皆様にはお分りないことゝ存する。既に檢閲に供せば、之れにて充分也と思はるゝ。朗讀の如きは、無益の業である。上野斯くてあらんには、ゆめ御爲め惡しくは致すまじ。皆々樣御省念あれ」
と、此の態度は、私利私慾を念とし、其の地位其の職に戀々たる俗吏輩の爲し得る仕業では斷じてない。
 小栗上野介は、勘定奉行の職に就くや、内外金銀相場の事に着目し、我國小判の品位を昇せて三倍に至らしめた。之れ日本の貨幣の海外流出を防ぐが爲めであつた。之れ彼が米國滯留中、彼我金銀量目の比較を研究し、成案を得來つたる結果であつた。之れ他の凡庸の武士には、到底心付かないことであつたのである。彼は勘定奉行としても、英佛獨人等に付て、報告を求め、文書を往復し、外國為替の研究を怠らざりしこと、既に當時の古文書に由りて世に顯著の事實である。
 小栗上野介は、財政の衝に當り、冗費の節約を志した。彼は從來勘定奉行が役職として各大名より受けたる苞苴を斷乎として拒絶し、身を以て範を全國に垂れた。小人輩は、自己の利益を奪はれたる所から、小栗を憎んだのであつた。例へば、大名にして其の藩の財政不足し、國防の事等に付て、幕府に其の財政上の援助を乞ふものあるとき、彼は其の時の事情を調査して、勘定奉行として、若し爲し得れば、幕府の御用金を融通貨與したこともあつた。斯かる事ある場合には、其の大名は、若干の御禮金を包みて、老中と勘定奉行とに贈呈するを從來の常例とした。小栗上野介は、斯かる事あるときには、其の儘之れを幕府の内閣たる城中に持ち行き、之れを老中の面前に披き、憚る所なく述べて曰く、
 「大名某の守殿が、財政困難なりと訴ふるが故に、幕府の勘定奉行としでは、拙者は、極力工夫して之れを調達し貸與したのである。然るに此等大名は、其の有川切なりと稱する金子を分つて、我等に贈るに至つては、其の理由を解するに因しむのである。斯かる餘裕あるならば、幕府より借ることを要せず。幕府も貸すには及ばず、斯かる悪例は、爾今以後斷然癈止しなければならない。拙者は先づ悉く之れを其の儘其の大名に返附すべし。若し老中方の中にて、斯かるものを受け取られたる方もあらば、至急返附せらるゝが宜しかる可し」
と、彼に一點の私利心なきこと、斯くの如きものであつた。誰か官吏としての其の清節に共鳴せざるものがあらうか。之れを非難するものは唯獨り小人輩のみ。彼は又政費節減の爲に、年末其の他の贈與を癈止し、將軍膳部の役人等が、公々然として日々に數十尾の鮮魚を私するを禁じたのであつた。著者幼時、當時幕府の吏たりし人より聞けるに、當時將軍の膳部には、大袈裟なる諸食料品の調達が行はれて居つたのであり、此等は將軍自身の需要以外に頗る多量に供給せられ、幕府大奥の役人等は、之れを役徳として私しつゝあつたとの事である。小栗は之れを嚴禁した。
 彼は節約と同時に、税源を調査し、洒其の他奢侈品に増税し、更に富める商人よりは、一種の所得税を納附せしめ、又造幣の方法を改善し、自ら分析術を示して、大阪の銅座の役人に教へた程であつた。
 彼れは、貿易港に於て、商取引に慣れ切つたる外國人と取引するに付、資本の乏き我國の小商人共に、其の商取引を委するは、日本國家の爲に損失大なりとし、「貿易商組合」又は「會社」の設立を必要なりと論じ、之れを幕府に建議したのであつた。建白書の一節に曰く、(既に世に顯著也)
 「外國人と取引致侯には、何れにても、外國交易の「商社」(西名コンパニー)の法に基き不申候ては、迚も盛大の貿易と御國の利益には、相成り申す間敷と奉存候」
 當時斯かる經濟上の實務を理解し居りし人は、小栗を除いては全國中に於て殆んどなかつたのであらう。「夷人を攘へ」と悲歌慷慨しつゝありし堂上人の一部や、盲目的地方の田舎武士どもには、斯かる文明式經濟上の道理の分らう筈がなかつた。
 彼は叉内國債を起して、財政上に便し、又不換紙幣の通用を禁止し、兌換紙幣を創めて財政を整へ、人民の爲めに利福を與へたのであつた。此の處置は、國民經濟に稗益すること甚大なるものがあつた。彼の上書の一節に曰く、(此の書も既に世上顯著である)
 「兵庫港諸式御入用金の廉を以て、百萬兩の金札、右二十人の者共より差出候儀、御免許に相成候はゞ、町人共おのれの利益有之候事故、御請申上候樣相成可申候。尤も二十人にて百萬兩は大數の如く候得共、右二十人商社頭取に相成候事故、五畿内は不申及、近國の内にも加はり候者有之、就中東西近江の豪商共、右組合に屬し可申侯間、百萬兩位は、出来可申と奉存候、若又右にても危み候樣にも候はゞ、右之内より御用達申渡、税金取立役所に出張爲仕、取立の税銀を立合の上御預けに相成候はゞ、日に月に元金に相成候間、危み申間敷候。横濱表當時の税銀は、大凡一カ年百万両餘り有之可申、兵庫は新港の事ゆゑ、三分の一と見込候ても、三カ年程には、皆濟相成可申と見込申候。右町人共へ御差免に相成候金札の仕樣、譬は
 壱兩の札   拾萬枚 十萬兩
 拾兩の札   一萬枚 十萬兩
 五拾兩の札  二千枚 十萬兩
 百兩の札   七千枚 七十萬兩
 右札は、頭取町人共にて取調仕立上りの上、元方大帳へ番號を以て、御勘定方御目付方にて立合の上割印いたし、金銀同樣通用致可申旨御觸れ渡しに相成、公儀にて御入用金有之、たとへば開港御普請諸式入用拂方の節、金札也正金也町人共より爲差出御拂方に相成候節、分合の利分御下け相成候事。
 楮幣通用の儀は、利税の第一にて、實は公儀にて、御施行相成候樣仕度候得共、一體楮幣は、百萬兩なり、現在の實貨備へ置、楮幣に代へ候故、引換の節何時成り共、差支無之候間、上下是を信用し、通用差支無之、爰に利權相立、物價も相響き不申候得共、支那往昔よりの楮幣竝御國諸侯の楮幣は、現在の實貨なくして貧國より起り、猥りに楮幣を行候間、引替の節差支候に付、上下是を信用致し不申、遂に同種同價の物といへ共、楮幣と實貨との相場、格外懸隔に至り候儀に御座候、支那竝御國内諸侯政御國内諸侯の楮幣は貧より起り、泰西各國の楮幣は富より起り候儀にて、其實天淵の違有之候。右の次第故、楮幣は公儀にて御施行の方、實に可然候得共、自今御備置の實貨無之、此度町人共の楮幣を考へ候も、全く御貯蓄の實無之故より起り候。恐入奉存候へ共、御府庫御充實に無之段は、上下粗ぼ察知候事故、迚も公儀の楮幣は信用不致、遂に人心に關し、物價に響き可申候間、此度は御堪忍被爲在、一先楮幣の利權を、町人共に御任せ有之候方御捷徑と奉存候。」
 何人と雖も、公正の念を以て之れを讀むものは、明治以前に、既に我が日本人にして、今日の兌換制度を知り、歐米の經濟及財政の學に通じ、之れを充分に消化し、何等直譯的の趾なく、事理明白に論述し得たる人物ありしことを驚畏の念を以て讀み下すであらう。博士故人田口卯吉は、小栗の財政上の能力を大いに賞讃したのであつたが適當の讃辭と云ふべきである。然るに彼の勝海舟の如きは、明治時代に於て、小栗を批評し「眼識局小ににして、あまり學問のなかりし人」と云つたけれども、野狐禪や陽明學や、又は詩文の閑文字に付ては、小栗は勝の所謂學問のなかりし人であつたに相違なきも、經濟財政の學理に付ては、勝なぞの及びもつかぬ所であり、當時彼に追随し得るものは、日本國内に於ては敵味方共に一人もなかつたであらう。官軍方の財政通と云へば、何人も云ふ如く、唯だ一人の由利公正であつたけれども、到底小栗に比すべき程の人物ではなかつたこと、之後節掲げる所の如く當時を知る先輩の定論である。
 小栗上野介は、既に準備せられたる不換紙幣發行實施の不可なるを説き、此の禁止を實顯した人であり、此の事ありしが爲めに、日本當時の財政紊れず、物價騰貴の大變動從つて生ずるなく、市場に恐慌起るなく、廣く當時の日本國民は、之れが爲に經濟上の動揺惑亂より救はれたのであつた。之れ前掲福地源一郎のの「幕末政治家」といふ著書中にも明記しある所である。小栗は上述の如くに、經濟學上の「信用」の理法を研究し、之を理解し之を時人に説き、之を國家の上に實際に行つたのである。公正無私に批判して、小栗は我が國經濟學の先進者と云へる。彼は、上述建白書に示す如くに、歐米の財政と、東洋の財政方法との優劣を説いたのである。博士田口卯吉が小栗を目して、「東洋のコプデン、ブライトと評論し、非凡の財政家であつたに相違ない」と評せる如く、確かに財政上日本の先覺者であつたのである。彼は右意見書の如く、公債發行及償却の方法を詳述し、之れによりて以て、國家の財政調理に資したのである。彼は、確かに日本に於ける、いの一番の文明式財政經濟改革家であり、日本の財政經濟史上、筆頭に掲げらるべき先覺者として後世に傅へらるべき一人物と云ふべきであらう。
 小栗上野介は、幕府吏員の俸給方式に、大改正を加へんとしたのであつた。即ち「役高」を癈して、「役金」となさんとしたのであつた。斯くして經費の大節減を斷行せんと試みたのであつた。夫れ故に彼は、老中以上布衣以上の、詳細なる「役人俸給表」を調製した程であつた。
 小栗は。更らに、隠居料即ち一種の官吏恩給金を改め、又萬石以下の「軍役」に代へて、「兵費」を出さしめんと定めた。軍役は、各々の家より若干の人を出すべき定めであつた。
 小栗は、斯かる兵は、蓋し烏合の衆にして、戰に役立つものにあらずとなし、軍制は別に規律正しきものを擇ぶことゝし、整然たる國防軍を作るを要すと主張し、賦兵の制を別に定め、而して知行高物成の半額を以て金納せしむることゝなした。之れ財政と軍備との關聯改革である。(塚越氏「讀書餘碌」に依る)
 小栗は、消極主義の政治家では決してなく、一方に節約し、他方に積極政策を行つた人であつた。長州征伐の如き、凡庸の人々には、皆其の巨額なる軍用金の支出を難しとしたのであつた。然れども小栗は、財政當局として積極的に行動し、美事に之れを支出したのであつた。長州藩としては、小栗は恐怖すべき人であつたらう。併し乍ら國家としては、確かに財政上の能臣であつた。
 會津藩の人々が、將軍の親征を幕府に督促する爲めに、京都より柴太一郎等を江戸に涙遺したことがあつた。柴等が老中に面會の爲め待ちつゝありし折、一人の高官が突と入り來り、曰ふには、
 「其の方共は會津家の使者なるべし、肥後殿が長州征伐の爲め、將軍家進發の催促の使者也と存ずる。諸子にして、之れより老中に面會ある際には、老中諸公は必ず云ふであらう、『兵糧及軍用金の事容易ならず、親征の決し難きはそれが爲めである』と。此の場合には、即座に左の如く云はれよ、『其の件に付ては、勘定奉行小栗上野介殿より聽けるに、勘定奉行は、既に充分の用意成り、夫々糧食の配給も終れりとの事なり』と。
 此の高官とは、小栗上野介のととである。柴等は老中に謁したるに、果して老中は右の事を以て、其の實行の容易ならざることを柴等に向つて告げた。是に於て柴等は、右小栗の言を其通り其の儘老中に言上して、老中を説服し得たとの事である(之れ著者が、舊會津藩の信用高き某先輩より聞ける所である)。之れ當局者としで其任務の忠節なる履行であり、國家政府の能吏としで當然爲さざる可からざることであつたけれども、非凡の財政的能力ある人にして、初めて此の大事を積極的に爲し得たことであつた。
 長州藩の人のみならず、幕府の覆滅を欲したる人々としては、斯かる有能の人物が、幕府に在るを定めし不利不便としたであらう。併し乍ら、七百年來の國法上、國家の正當なる政府として存在したる幕府に、斯かる能吏ありしを國家の爲めに喜ばざるは、公正の「臣民觀念]と云ふを得ない。
 要するに、小栗上野介は、日本國の海外貿易發展の爲めに、日本國民に初めで方針を定めた人であり、商社開設の第一の先覺者であり、紙幣及公債の適當なる發行に付て、日本の開祖であり、造船及鐵工業の聞始者であり、經濟財政の原理を研究して、之れを國家に實行した政治家であり、日本の國民の幸福と開明との爲めに、多大の寄與を爲せる非凡の人物であつたことは、當時の歴史が我等に明示する。
 小栗は、外交上にも軍事上にも、日本國の爲めに先覺たるの名譽を擔ふ可き能臣である。

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  小栗上野介の國内統一の秘策及郡縣制施行の主張 (目次)

 小栗上野介は、幕府の當局として、國内統一、國民安堵及列國との權威ある對抗を、其の自己の責任なりと確信した。幕府の重要なる地位にありし政治家として、叉武士の道徳觀念として、斯く確信すべきは當然である。當時の政府としての幕府は、云ふ迄もなく、不法に存在するにあらず、七百年來の國民觀念として存在し、國家より是認せられ、日本國法の認むる所として、國家の正當なる權力の行使者であつたこと、法理として何等疑義なき所である。好きと嫌ひとは、そは別の問題である。凡そ人民として、時の政府に反くものは、必然に國家の秩序を紊すものである。國家の秩序維持は、云ふ迄もなく政府の任務である。當時の大藩と云ひ小藩と云ふも、法規上何れも皆な三百年來、徳川幕府の統率下に存在し、三代將軍以來即ち二百餘年來、臣從の禮節を持して一種の法制としで参勤交替し、服從し來つたものであつた。此の幕府は徳川氏により創始せられたるにあらず、明確に七百年來、國家國民の是認し來りたる國家の制度であり、此の法、此の慣例を守ることが、即ち當時の日本國家の秩序の維持であつた。斯く解釋する以外に正しき解釋なかる可し。
 當時諸藩中、幕府の政策を阻碍し、幕府に公然反抗し、自己の權勢を張らんとするもの生じ、小栗は、幕府として其の正當の權力を以て、日本の秩序を恢復するを其の任務なりと信じたのである。唯だ獨り小栗上野介のみならず、幕府を一國の政府と認めつゝある武家としての責任を理解するものは、其の良心に基き、斯く信じなければならなかつたのであつた。
 長州藩は、唯だ箇々自由の長防地方の暴民としてゞなく、組織ある毛利藩の公式の軍として、進んで京都の禁裏に發砲するの不臣の行爲を敢へてした。一旦此の事ありし以上は長州藩が、日本國の全人民より進んで膺懲討伐せらるべきは、日本国民の臣民道として、國民正義として、免る可からざることであつた。長州藩人の放てる砲彈は、唯だ單に、若于の會津人だけにのみ的中するが如き、都合のよい有機物にあらざるととは勿諭である。
 長州人の蛉門の襲撃程、禁裏の爲めに、危険急迫なりしことは、徳川時代を通じて未だ曾て無かりし事であり、全日本國民の共に均しく、甚だ遺憾乍ら、忘る可からざる維新前の不祥事であつた。事實は抹消し得可らず。
 小栗上野介は、私怨心利己心を以て動ける人ではなかつた。當時の國家の重要なる地位にある人として、此の重大問題を眞面目に考慮した。彼が長州藩を討伐するに努力せるは臣民としての義である、責任觀念の發現である。彼は之れが爲めに、種々の方法を考慮した。之れ國家の吏として當然のことであつた。
 小栗上野介は、富時會津藩と深く結んだ。會津藩は本來仙臺南部秋田米澤に對して置かれたものであるけれども、當時此の要なきを知りたる小栗上野介は、會津藩を東北より駿府に移さんと私に考慮した。會津藩の當局も、私に人を派遣して、駿府の國情を調査した事もあつたと聞く。(此事は書面として殘り居らす、傳説として存す)。
 小栗は叉、國費の足らざる所より、當時の幕府方一般の所見にも鑑み、外債を起し其の資金を以て、不斷に幕府の政策を妨げ、幕府覆破の陰謀を策せる一二雄藩の討伐にも充てんと考慮した。更に爲し得可くんば、佛國海軍の武力を利用し、之れを以て長州藩を、叉時宜により薩藩をも討伐せんと考へたのであつた。此の問題に關し、薩長を謳歌する一派は、痛く小栗を非難怨嗟し、恰も小栗は賣國奴でありしかの如くに罵れるのであり、今日にても尚ほ斯かる事を口にする人さへもある。併し乍ら、そは餘りに當時の事情を研究せざる淺薄なる罵詈である。今日の昨代に於ては、過去の歴史に關しては、事實の眞相を捉へ、公正の判断を下すを必要とする。
 之れを世界の歴史に徴するに、外國の兵を利用して、國内を統一するの政策を執れるは外交史上列國に古今幾多の例ありて、二百午前天草の亂に際し、和蘭船を利用せる幕府としては、叉當時好く外國の事情理解せる幕府としては、無論斯かる外交史上の先例を承知し居つたのであり、決して一時の短見浅慮を以て、國を賣るも可也として、輕卒に之れを行はんとしたものにあらざるは云ふ迄もなかるべく、窮餘の一策として、巧妙に外人を利用せんとしたものであること、何人も理解し得るところであらう。一代の一大先覺と云はれたる學者福澤諭吉の如きも、外國兵利用の事を以て、當時幕府に建白した一人であつた。 此の事今日にては、新進史家の間に的に明白であり、此の建白書は、博士瀧本誠一現に之れを保管しつゝあること、同博士の余に談れる所である。外國の事情に詳しく通ずる人の間に、此の種の意見、當時自ら生じ來りたること、此の例を以ても明白であり、此の事に付いて、従來小栗一人のみの意見の如くに解するものありしは、當時の事情を知らざる盲目的判断である。福澤のみならず、當時此の方策を可となすこと、之れ幕府方一般の空氣であつた(太陽昭和二年四月號尾佐竹氏論文「徳川幕府と佛蘭西との密約に付て」參照)。松平伯耆守が、板倉伊賀守及稲葉兵部少輔に宛てたる上書にも、此の事が記載しあり、紀藩の武内孫介の上書にも此の事がある。小笠原壹岐守にも、老中として此の意見ありしことも史賓上確かである。余は余の知人親族等より、常時此の説は、一般に行はれしものたるを聞いて居つた。夫れ救に此の件に付て、小栗一人のみを特に其の責任者の如くに目するは全然事情を調査せすして、流言に聽ける輕卒者の誤解に出づるものなることを、余は特に茲に記載して小粟上野介の爲めに辯明する。余の見る所によれば、此の原因は佛國に在りて、佛國政府より初めに持ち出したる方策である。元治元年幕府が池田筑後守を佛國に派遣したりし當時、佛國より此の方策を提案したりしこと。之れ史上既に明白である。此の種の提言は、當時英も佛も其の他も、何れも東洋諸國のみならず其の他に對しても試みし所であり、或は實行したる所である。外交史を知るものには、此の事ありしとて何んの驚異もなし、蓋し當時既に日本は、開港を諸外國に約し、外國船の爲めに、日本の一定港灣に出入し、叉世界公通路を通航するの自由は、日本政府に由り認められたのであつた。然るに長州及薩州に於ては、而して特に長州藩に於ては、頭迷に「攘夷」を主張し、此の國家對國家の條約を無視して、彼に何等の不法非禮もなきに、馬關に於て突如として、外國軍艦を砲撃したり、外人に危害を加へたりしたのであつたが故に、佛國としては此の行爲を不法とし、條約に基く權利の主張を爲し、長州一藩に對する贋懲を欲したるは、佛國の自主の外交政策上の立場より見れば、當然のことであつた。佛國としては、斯くして、其の對日本の條約上の權利を確保し、同時に初めより友邦と擇びたる日本の國内統一に助勢し、而して後徐ろに、東洋に於て適當なる政治的地歩を得んとするの普通の外交的方策を有して居たものであらう。縱令佛國の外交家にして、若干の野心を包藏し居りたればとて、此の方策は、必ずしも佛人の野心家の欲するが如くに、實現し得るものでは斷じてなく、要は日本國外交當局の手腕如何によつて、其の結果は定まるのである。余は當時の幕府當局には、英人の軍艦を利用して、露の軍艦二隻を對馬より逐ひし賢明なる外交上の手心を以て、再び佛國の海軍を利用して、佛米蘭三國の軍艦を砲撃し、外人の憤るところとなれる長藩を懲さんとしたものであると判断する。
 之れを史に徴するに、其の當時より少し以前に、伊太利は、佛國軍に助けられて、多年の仇敵墺國を討ち、光輝ある「伊太利の建設」を爲したのであつた。伊太利なる獨立帝國は、獨自の兵力のみに成つたのではなかつた。此の事伊太利の不名譽にあらざりしは、世界の承認する所である。二百年前、墺國が土耳古より襲はれ、首府維那將に危からんとした折にも、墺國は佛国軍に助けられて其の敵土耳古人を排け得たのであつた。叉米國の獨立は、佛國人の武力と佛國の勢援とによりで援助せられ初めて成りしものであり、希臘獨立は、英人の軍力資力に助けられて初めで成り、支那長髪賊の内乱は、英人の軍略と武力とによりて、初めて平定やられたのであり、獨乙のビスマルクの獨乙統一政策 .も、初めは墺及伊の力を利用せしものなること、外交史の示す所の如くである。而して近く這囘の大戰爭に於ても、佛國自身は、自力以外に、英米伊等の大軍に援けられ、獨逸の大軍を逐ふたのであつた。此の事ありしとて、佛國に何等の不利も不名譽もなかりしこと世界の人之れを認める。青島の獨逸軍攻撃も英兵は少數であつたけれども、日英兵の合同事業であり、一九一八年に大戰爭の止みし翌年、ポーランドが露國より百萬の大兵を以て侵撃せられし折にも、佛國陸軍の援助を得て波蘭は初めて獨立を保ち得たのである。又新後征東軍は、慶喜恭順の後に於て、江戸城を攻略せんとし、英公使パークスの或種の援助を乞ふたのであつた(此事は附録「江戸城引渡の節」に詳述す)。此等東西古今の事例は枚擧に遑なく、列國間には世間並みの事とも云ふべき程のことである。獨自の力のみに據るは無論獨立國家として上の上なるものである。然らば當時長州は如何であつたかと云ふに、長州は英國より私かに武器等の供給受けつゝありて、後には坂本龍馬の提言に基き、薩を通して英國より武器を得たのであり、又佐賀藩はアームストログ砲の供給を英國より受け、之れを會津攻撃にさへ用ひたのであり、又慶喜の恭順したるにも拘はらず、征東軍は戰を豫期して東進し來り、慶喜の恭順を無観して、江戸を攻撃するに意を決し、之れに先つて薩州の代表、總参謀西郷は、部下の参謀木梨精一郎及渡邊清を横濵に差遺し、當時横濱に居りし英公使パークスの死傷者救護に關する援助を得んことを申し入れたる事實あること前述の如くである(吉田東伍博士、維新史八講に二二九頁及尾佐竹猛著幕末外交物語二八一頁參照)。
 英人は本來頗る巧獪である。維新以前より、佛國の反對側に立ち密かに中央政府への反抗者たる長と薩とを援助しつゝあつたのである。而して幕府の威力衰へたるを見るや、大いに薩人に迎合せんとしたのである。之れ顯著の事實である。英人は古今を通じて、其の外交は、巧妙であり老獪至極であること。外交史上顯著である。之れに對して、佛國の方は、寧ろ比較的正直ものであることも、國際事實として列國既に定評がある。此の英人をさへも、前述の如く幕府の外國奉行は夙に巧みに利用し、露人を對州より驅逐することを得たのであつた。夫れ故に、幕府方の人は、窮餘の方策として、佛人が其の軍艦の砲撃せられたるを不法とし、進んで主張する援助の好意を善用し、其の海軍の威力を利用して、長州藩を其の海岸より砲撃せしめ、幕府は其の自己の訓練せる陸兵を以て、長州を膺懲せんと考慮したること、世上傅ふるが如くなりとせば、そは、當時としては、必然に案出せらるべき一種の權謀的方策であつたであらう。而して薩長が之れを目して、嫌悪すべき方策として痛く含めることも、亦薩長としでは當然の情であつたと云へる。大觀するに、當時の佛國の事情としでは、溌溂たる生氣ある日本國家を、佛の思ふが儘になすが如き執着力を、當時の皇帝奈翁三世は既に有せず、將に満々の野心を包藏する隣邦プロシヤの爲めに、一撃に會せんとするの危險は刻々に迫りつゝあつた危い時である。佛國政府の爲せる行動に付て見ても、遠く深く又執拗に、日本に對して陰謀を有せざりしことは、佛國が、一二隻の軍艦を日本に貸し、僅かに六百萬兩の借款を引き受けることを拒絶したりしたことを以て明白である。併し乍ら、兎に角此の事は唯單に噂のみであり、實現せられざりしことは、結構のことであつたと云ふを正しとする。當時此の事を聞き憤怒畏怖せしものは、第一に長州藩であつたであらう。此の事にして實行せらるれば、長州は其時を以て非常の危地に陥つたであらう。又其の藩籍を奉還せしめ、日本を小栗等の主張の如くに、「封建を癈止して七百年來の雄藩も一擧郡縣となさん」事なぞは、曾て夢にだも考へざりし薩州藩も、此の計畫を関知しては、大いに小栗等を含んだに相違ない。英國人は、此の幕府の計畫を薩州人に告げて、薩州藩を激發し、其の間に陰謀を廻らしつゝあつたのである。之れ英國人らしい外交であつた、又當時野心を抱藏し幕府を覆さんとして策謀したる長州派の公卿の一味にも、之れを自己の利害の爲めの重大事件也と考へたのも、必然であつたらう。小栗に對する彼等一味の深怨は茲に在る。而して勝海舟が、後年小栗等の此の意見を非難し、之れが爲めに「外國の干渉來るを怖れたり」との事を、後年薩長政府の代となりて、世上に放言し、自己獨り當時大局を達觀せるものゝ如くに吹聽し、小栗の世を去れる後の久しき後年に至りて、其同僚たりし小栗を非難攻撃しで居るのは、眞面目に聽く可き程の價値ある議論とも見へぬ如くである。之れを常識を以て判斷し見るに、福澤も小栗も國家を危地に置くが如き無識淺見の人物であるべき筈がない。勝海舟は、其の祿を食みつゝありし政府の對外政策のみを罵り、幕府の倒滅を策謀せる薩長二藩が、英國より援助せられつゝあることに付ては、之れを罵らず、却つて之れを是認するのである。之れ理解し得可からざる不徹底の態度である。日本國民が、佛國に援助せらるゝを不可となすならば英國より援助せらるゝことをも、同じ樣に非難するを正しとする。然るに勝海舟に此の事なきは、公明無私の正論と見るを得ない。日本人としては、共に外國の援助なくして國内統一に進むを、最も正しき道となす。無論余は斯くあるを望み、借兵のこと唯噂のみにして終りしを慶賀する。
 小栗上野介は、世界の大勢に順應し、日本國民を以て、世界の各國民に對峙せしめ、日本國の權威を維持し、日木國の發達を圖らんが爲めには、先づ國内を平定し、進んで七百年來の封建の制度を改めて、「郡縣の制」となさゞる可からずと信じ、且つ之れを主張したのであつた。是れ、開國に伴ひ、日本國家の上に、當然到來すべき大勢也と觀破したものである。小栗は現在自己の擔當しつゝある政府の力を以て、自ら此の一大事を斷行せんと欲したのである。之れ當局の政治家として至當の考慮であつた。國家正當の政府の最重用行政機關の頭目としては、日本國の改善を以て自己の責任也と感ずるのが、確かに正しき觀念である。當時の政治は云ふ迄もなく、今日の如き輿論政治ではなく、國法の認むる所に依り、専制の政洽であつた。一切の政治を當局の自信力によつて斷行するのが、當時の政治當局としでの政治道徳であつた。小栗上野介は佛國の指圖に從ひ、其の云ふが儘に、日本の國家國體を無視して、日本を改造せんと考慮するが如き、薄志弱行不義不臣の人にあらざりしことは、彼の行爲の萬事が之れを明證して居る。輕卒に流言に聽き、小人式の邪推を以て、此問題に關して、小栗の人物を毒せんとするが如きは、正論者としては愼む可きことである。
 維新以後の政府は、薩長二藩人を中心として形成せられた。而して國内不平の徒は、久しきに亘りて、藩閥の専横を痛撃したのであつた。併しながら、此の専制は、維新後に於て、各藩人が是認して作らしめたものであつた。而して未だ専制の代に於て、薩長人が當局者として、自己の所信に進めるは、不當ではなかつた。小栗が三百年來、徳川幕府譜代の臣僚たる名家に生れ、自己は現に國務の要地に居り、重職を司りつゝあるに於ては、世界の大勢に順應し、幕府の自ら國是と信ずる所により、國家民人の爲めに國政を改善し、封建を癈して、郡縣の制に改めんと欲したるは、政治家として、又日本の臣民として、正しき觀念であつた。
 小栗上野介の提唱したる此の郡縣制度の重大問題に關し、勝安房の如きは、當時小栗に説かれはしも即座に何事も答へず、唯當時左の如く考慮し、之れを大阪に於て凡庸の老中板倉に向つて主張したとの事を、後年に至りて、自ら世上に揚言して居る。(海舟著開國起原)
 「(前略)是時顯要の官吏、平素余と快からざる者余を見て愕然たらざるなく、小栗上野等兩三名、余を別室に引き云々(中略)郡懸の議は、英國交際起るに當つて、當然の議なるべし。今、我が徳川家、邦家萬世の爲めに、諸侯を削小し、自ら政權を持して天下に號令せんとするは、大に不可なるべし。眞に邦家の御爲めを以て此大事業を成さんと欲せば、先自ら倒れ、自ら削小して顧みず、賢を撰み能を擧げ、誠心誠意天下に愧づる事なき地位に立ち、然る後成すべきなり云々」
と、勝が、徳川幕府の祿を喰みつゝあり乍ら、「先自ら倒れろ」と云ふに至つては、吏として忠誠心なし、之れ無責任者の言である。福澤論吉が、後年『痩せ我慢の説』なる有名の一論文を書いて、勝の無耻無骨頂を痛撃し、世人の注目を惹きたりしことは、血ある人間としては、
何人と雖同感と叫ばざるを得まい。若し夫れ幕府とし「自ら先づ倒れた」ならば、最早自己の是正と信ずる改革も「成すの途なく」、政治改善の事望みなきに至るは必然である。「然る後成すべきなり」とは不可解の言である。假令立憲時代となり、言論政洽の世の中と變りたりとも、政府當局としては、反對黨の反抗に對しては、自己の處見を主とし、其の所信を實行せんか爲めに「議會解散」の方法さへ認められつゝある。先づ自ら仆るれば、所信は亡び、能臣等は殺害せらる。況や七百年間、正式に國家の政府として存在し、政府の専斷を以て、國是に邁進するを法則也徳義也と認め來りたる時勢に於てをや、政府が國是と信ずる所は、政府の責任として、之れを行ふことが、是れ東西古今を通じて政治家の任務である。勝安房に、此の普通の徳義觀念なかりしもりか、福澤論吉が彼を「意氣地なし」として痛撃したるは尤である。當時徳川方の人は、何人も勝を目して「薩長への内通者」と卑下したりしは、謂はれれなしと云ふを得まい。勝の如き變通の大才人は、敵手の爲めには極めて便宜の人であるけれども、縦令今日の政黨政洽の御代としても、危險にして味方として信ずるを得ない。本來二百五十餘の「大名」なるものは、「大名」たる國法上の地位としては、孰れれも徳川政府が取り立てたものであり、彼等は永年に亘りて、松平の姓を賜ふて、臣從するを光榮としたものであり、其の祿其の身分は、徳川政府によりて與へられ、又は認められたものである。夫れ故に、此の徳川政府としては、開國に適應すべき日本國家の國是の爲めに、其の自ら與へ又は認めたるものを、自ら削るの權利あるは、法理として明白何んの疑もなき所である。幕府は、國家の爲めに、此の事を爲して、以て國民に其の誠心誠意を披瀝し得可し。海舟勝の如くに、「幕府は先づ自ら亡び、自ら倒るゝにあらずんば誠意なし」と云ふは、反つて餘りに無責任の主張であり、忠臣は自ら憤つて死し、能臣は忌まれて反對者に斬らるべし。川路左衛門尉の如き、小栗上野介の如き其の例である。會津藩の苦しめられたるも其れである。勝の言の如きは、當時の政府たるの地位を無視したるものにして、初めて口にし得る言である。勝海舟の主張の如きは福澤の評言の如くに、封建時代の武士の行道として、唾棄し排斥すべきものである。英國公使サトウが、後年舊幕府方の某に向つて、勝を以て「徳川政府の爲めにならざりし人」と批評せし事も、權謀に富める信用し難き外國人の言とは云へ、的中したる批評であり、勝を好まざりし栗本鋤雲が、明洽中ばの或る折に、舊知相會せる衆人の面前に於て[勝ッ下れ!]と大喝怒罵せしことも、粟本の情として洵に尤である。勝は自ら曰く「やせ蛙お辭儀のみして濟ましけり」と。彼れは斯かる人物であつた。見樣によつては、權略縱横の一大才人であつたに相違ない。小栗とは全然型を異にする。小栗と彼れとは同一にして論ず可からず。小栗は本來松平氏であり、遠祖以來徳川氏の一門であり、名家であり、忠臣である。勝は飛び入りの侍であり、微臣である。二者の思想には、當然に血と水との如き差異があつたのである。

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  小栗上野と最後の江戸城大會議及小栗の薩長鏖殺の作戰計畫 (目次)

 大命に由る上洛途上、鳥羽伏見に於て、徳川慶喜及及其れに随伴したる護衛者は、唯單に上洛の途上なるにも拘らず、突如として、薩長權謀家の畫策せる陰謀的襲撃に會し、武士道に基き、引くに引かれず、自衛上已むを得ざるの戰爭となつた、之れか鳥羽伏見の戰である。慶喜は自己の勝手を以て上洛せるものにあらずして、朝廷の命を奉じて入京したものである、不平を訴へんか爲めに、勝手に兵を率ゐて進發したのではない、縱令比較的多數の護衛者を以て擁護せられたりとは云へ、此の大命を奉ぜるものに對して「天地の公道に基きて」國民に臨み給へる至仁至慈の朝廷として、兵力を以て突如襲撃を加へらるゝ道理はあり得ない筈である。果然此の襲撃は、無諭朝命にあらず、既に大政を奉還したる一徳川氏を此の機會に於て、一擧に無勢力となさんと欲したる大權謀家數氏即ち西郷初め薩長方の權略家の案出したる、政治家としての天下取りの一種の大權策であり、彼等の思ふ壺にはまり來れる此の好機會を捉へて、特に襲撃の積極手段に出でたるものなること、蓋し誤りなき判斷である。余之れを信用すべき先輩より聞けるに、開戰後第三日目に至り、薩長方より突如として揚げたる「錦旗」なるものは、京都の染色業者岡某の奇智に出でたるものであり、有り合せの錦を掉頭に附して、之れを「錦旗」と稱せしものなりとの事である。洵に是れ亂世的の奇策なるべきも、之れ確に一種の詐術である。
 鳥羽伏見の戰は、其の以前長州の藩兵が遠く長州より大擧し來り自ら好んで事を起し、其の兵を率ゐて宮城蛤門に迫り、禁裏に向つて發砲したるの能動的の内亂とは、同一にして諭ずべきものではなく、徳川方より戰を開始したるにあらず、全く薩長方策士の能動的術策に初まりしものであつた。當時會津の家老の上書には正しく此事が述べてある。權謀術敷を好める薩長の方面よりしで之れを見れば、政治家の權略として、確かに好箇の時機を擇びしものと云ふべく、西郷、大久保及岩倉の如き、流石に一代の權謀術數的政治家であつたと云へるであらう。之れも亦一種の見解である。薩州の如きは、蛤門の戰に際しては、會津藩の勇士と共に、長州の兵に當り、而して鳥羽伏見の戰に於ては、昨の友たりし會津藩を敵とし、長州の藩士と列を同ふしたのである。冷静に、王道的に、正直に之れを批評すれば如何、唯權略を擇びたりしものと云ふの他あるまい。長州に至つては、之れと異り、始終一本調子の所があつた。勿論其の心實は、國家國民本位にあらずして、唯單に三百年前の仇敵たる一徳川氏なるものを仆す可しとの一長藩本位の私怨心に甚きたるに相違ない。併し乍ら其の主張行動は、終始し一貫し反徳川であつた。蓋し當時の策謀的薩州人は、權略より主として打算し、向後の天下を左右するの好地位に立たんとする政治的野望に充ち満ちて居つたものであらう。之れは、覇者的に見れば巧妙であり、王者的に眺むれば、非議すべきものである。鳥取の藩士に半那武兵衛と云へる人あり、此の人の如きは、所謂當時の官軍なるものが、一名の勇敢なろ會津藩士を捕へ來つて、其の鼻を切り其の耳を斷ち、軍狀を自白せしめんとしたりしも、其の人豪氣にして終に頑として一言をも發せざりしを以て、即ち之れをなぶり殺しになせるの惨酷を現場に目撃し、正義人道の觀念上忍ぶに能はず、即ち因州の家老和田某に之れを訴へ、王者の軍としての行動の非なるを論じたりしに、其の家老は、正義を重んぜずして、權略家の走狗たるを可也とせしものか「今の場合、斯かる事を口にす可からず」と半那を壓迫せしを以て、半那はが慨然として「王者の軍として爲す可きところにあらず」と稱し、直ちに其の職を去りて本國に歸り、尚ほ心平かならずして、終に出家して僧となり、一生を「風外」の名を以て過せし事實さへありて、當時の薩長軍は、權略には頗る秀で居りしも、正々堂々の姿なく、漢學者の所謂「王者の師」ではなかつたことを後世に物語る、慶應三年十二月九日以來の薩人巨頭の行動に憤りたる當時の慶喜の「上書」にも、「薩藩奸黨」としで此の事を訴へられてある。
 斯かる事情にあるが故に、尚ほ會桑二藩の兵其の他の勇兵を有しつゝ、海を渡りて、慶喜の東京に歸り來たるや、幕府方のものは、何れも皆十二月九日の小御所會議に於ける薩人等の陰謀に憤慨し、更らに、伏見の理由なき襲撃に痛く憤慨したものであり、武士道に由り、正當防衛として、戰を以て理非曲直を決せんことを主張せしもの多かりしは、道理として又人情として、至當のことであつた。然るに直ちに、此の徳川方を目して、「逆賊也」として、薩長方は宜布し、巧に全国に宜傅した。由來權略に富める薩長方の權謀術策としては、必然此の機先的方策に出づ可きものであつたであらう。併し乍ら、慶喜既に政權を至誠を以返上し、平和に七百年の幕府制消滅し光彩千古に輝く可き「王政復古」前年既に成りし後に於て、殊更に徳川方を根本的に覆すに好都合なる事情の展開を來らしめんと畫策したる薩長の權略は、之れを權略としてのみ眺むるを正觀とす可し。(後編詳論)
 慶喜は、一日在京の大名及舊旗本を、江戸城に集めて、此の急迫せる事情に對して、如 何なる態度を取るべきかを評議した。余は少年時代に、舊旗本の人々より、當時の事情を聞いたことがあるが、それによれば、左の如くである。
 「從來の將軍家御前の奏上は、大名にせよ旗下にせよ、臣下は何れも共の首を席に垂れて、恐々縮々として言上するを三百年來の禮儀として居つたのであるが、此の時に至りては、人々皆極度に昂奮し、且つ慶喜公の態度餘りに曖味不決斷であつたが爲めに言を發するものも、發せざるものも、皆其の首を高く昂げ、噴然として席に列し將軍に對する三百年來の習慣禮儀は、全く癈れた云々」
と。さもあるべし、空前の非常時である。
 斯かる場合に於て、純忠にして豪邁なる小栗上野介なるものが、唯沈默して其の場を退くものにあらざりしは、想像に難くないところである。之れを同じく當時の信用ある舊幕の人々より聞けるに(斯かる記述も世上にある)。小栗は進み出で、慶喜の袖を捉へ『我等に反逆の名を附せらるゝ理なし、非は總て彼等に在り』『何故に速かに正義の一戰を決し給はざるや』『我等は武士の取るべき正しき途に依らんのみ』『作戰の方策は斯くかく也』と決意固く述べ立てたとのことであつた。徳川慶喜は、之れを聽き、驚いて其の袖を全力を籠めて振り拂はれ、奥を差して逃げ去られ、大會議は之れにて終つたとの事である。余は此の事情は、後掲大村益次郎の談にもある如く(後節參照)、誤りなき事實也と信ずるものであり、小栗上野介としては、必ず斯る大膽率直の行爲に出づ可き人也と推斷するものである。若し夫れ萬人の長たるものにして、理義に直進せずして、名利に迷あらば、大事去り、好機逃れ、必ずや其の忠烈の配下を犠牲にし、能臣をして犬死せしむるに至るものである、鑑むべき事である。
 小栗上野介は、義と理とを重んずる人であつた。朝廷に反くが如き不義不忠の武士では勿論なかつた。叉其の主君たる前將軍を侮辱するが如き不謹慎の人でも斷じてなかつた。唯其の志す所は、術策と私怨と私利とを以て、故更に挑發して事を起し、徳川方總べてを無理無體に討ち亡ぼさんとする者に反抗し、武士の習ひを重んじ、正當防衛の立場に於て之に反對し、的確なる作戰計畫を以て、理非を武力に依つて決せんとするあつた。小栗が日本國家國民の爲めに、忠誠の人であることは、彼が九年の仕官中に爲せる大局的事業を以て、充分に之れを證明せらるゝのである。
 小栗上野介は、決して無謀無智の勇者であるべき筈はなかつた。常人に優れたる勇者であり、智者であり、能者であつた。彼が主戰論を主張したるに付ては、薩長と公卿との合同陰謀權略に對して、正義の勝利者たるの自信を深く有しで居つたからである。小栗が其 の當時主張したる討薩長の作戰計畫とは、然らば如何なるものであつたであらうか。少年時代余之れを當時生存せる舊旗本の人々に聞けるに、左の如きものであつた。(書物にも此れと同じような事は述べられてある)
 「薩長其の他之れに附隨せる連合の討徳川軍に對し、直ちに徳川方に屬する陸海の兩軍の當時既に完成せるものを以て、之れに對抗する事、其の一般方略は左の如し。
 (一)海軍は、徳川方に當時既に日本國中、他に比すべきものなき有力なる新鋭の軍艦[開陽]があつた。其の噸數は三千餘噸を算し、砲二十六門を有した。此等軍艦をして、先ず駿河灣に於て掩蔽物なき海岸を進軍し來る討徳川軍の密集隊を砲撃せしめ完全に其の退路を遮斷する。斯くせば、東海道を進み來るものは、忽ちにしで潰え去り、前後の連絡は絶え、彈薬食糧斷たれるであらうこと必然也となした。
 (二)陸軍としては既に數年以來佛人シヤノーアン(此人は人物であり、後に佛國の大臣となる)の訓練を受けたる歩騎砲の文明式軍隊あり、此等精軍数千人に充分の武器を授け、敵軍を箱根以東に誘ふて、一撃之を粉砕する。小栗は特に敵をして箱根を通過せしめ、江戸附近に誘ひ「袋中の鼠」として之れをぜ全減せしめんと主張したのであつた。敵は其の背後の連絡全く斷たれて、援軍來るの途なく、。後退の途なく、糧食さへ全く得るの途斷たれて、全軍生存の途を失ふは、疑なき所である。
 (三)更らに一部の海軍をして、神戸兵庫の方面に於て、重ねて薩長軍其の他の軍の退路を砲撃し遮斷せしめ、他との連絡を絶對的に禁絶する事。
 (四)斯くする間に、九州の不平分子(例へば熊本の奇傑川上玄齊等)は、起つて薩軍の虚を衝くであらう。全國の大小名は、必ず此の形勢を觀望して、薩長方への不正の襲撃に對して正當防衛に出でたる徳川方に應援すべく、權謀の薩長は全國諸藩より憎まれて孤立し、其の中堅たる軍の退路は斷たれ、糧食兵器は盡き、必然全減するに至るであらう。(川上玄齊の事は、勝海舟自身が談れる所なりとして、雑誌「道」昭和二年十二月號第三十五頁にも載せられてある。曰く「勝先生の談る所によれば、當時熊本に川上玄齊と云ふ奇傑が居つて、薩長の尻尾に附くを快とせず、彼等が東征に乘じ、一藩を提て京都を占領し、奥羽關東と和應じて、薩長を「袋の鼠」となす可く計畫し、古莊嘉門に命じ、榎本武陽などゝ通謀したものだ云々」
 (五)軍用金に付ては、小栗上野介は、責任を以て、之れを必ず調達する。
 以上の意見は、今日の軍人に示しても「成程そは名案である」と云ふのである。何人が考へても、彼我の廟算を明かにせば、此作戰計畫は勝たざる可からざる方策である。闘志なき若干の藩兵を遠く長州に差遣したる「長州征伐時代」とは、同一にして見る可からざる事態であつ。之れ臆測にあらずして、當時の實情であつた。上野戰争終りし後、大村益次郎が小栗の此の作戰を江藤等に談りて「我等の首はなかりしなるべし」と畏怖したりしは、史實に依り明白である。(此事は後節に詳記しあり)
 當時、討徳川軍の一味には、土佐藩や佐賀藩や薩藩の貧弱なる海軍あるのみであつた。
 徳川方の有したる洋行歸りの榎本武揚の率ゆる新式の海軍に匹敵すべくもなかつた。徳川方海軍の力は偉大なるものであつた。若しも小栗の右の作戰計畫にして用ひられたならば薩長に與して、兵を出し或は御用金を調へたる關西の諸藩は、形勢の變化に件ひ、自己擁護上、必然薩長に離れ、或は中立し、或は薩長の退路を斷つたであらう。輪王寺の宮の令旨を奉じ、薩長の陰謀權略を怒りて起てる程の熱烈なる東北の諸藩は、必ずや奮然として起ち、前述熊本の川上玄齋を初めとし、九州の諸藩士も、亦殆んど總て、勝味ある徳川方に屬するに至り、松山、高松を初め、四國の諸藩も亦必ず同樣に出でたであらう。之れ恐らくは誤りなき判斷である。慶喜恭順の後には、諸藩は慶喜を援くる正しき理由なし。併し乍ら、薩人長人一味の甚しき權略は、當時の士人皆能く之れを理解して居つた。若しも武十道の疋義に基き、慶喜にして小栗の献策を容れ、理非を天下に問ふたならば、諸藩は權略を憎悪し、正理に與すべきは、三百年間、武士道に修養を積める武士として、事當然であつたであらう、斯くあるべき筈である。
 小栗の右方策にして、若しも徳川慶喜の用ゆるところとなつたならば、光輝ある王政復 古は、既に前年成りたる後なるを以て、天皇統治の下に、其の勢い速やかに、慶應四年を以て、日本は郡縣となつたことであらう。然り千古不磨の光輝ある王政維新は、既に前年十月十五日を以て、泰平裡に美事に成り立つて居たのである。又若しも小栗の献策にして用ひられたならば、東北及北陸に於ける悲惨なる戰争は斷じて起ることなく、此の地方に於で幾多の有爲の人物を失ふことは決してなく、又明治以後の佐賀、長州及鹿兒島の忌むべき内亂もなく、幕府の斷行したる開國の外交は一貫し、明治初年後久しきに亘れる「藩閥の政治」は、全然生ずることも有り得なかつたであらう。之れ理路の正しき推論である。
 日本今日の文明は、日本國民の開ける所であり、唯單に某々地方藩士と云ふ一地方人のみの開ける所ではない。文明の施設は、此の一二の藩人にのみ理解せらるゝ道理は斷じてなく、日本國民自身の力の爲せる所である。縱令徳川方の勝利となつた所で、今日の如き國民的文化は、必然當然に日本國に輝き來りしこと、何等疑ふべくもない。尊王の將軍徳が慶喜の理義正しき上奏に依り、國民環視の裡に、國民の望める大政奉還は、其の前年の 十月十四日に既定の事實となつたのである。之れ絶對不動の事である。斯くして前年の十月十五日を以つて「光輝ある王政復古」は、既に成り永遠不動のものと成つたのである。之れ萬民の敬仰したる所であり、世界への矜りである。唯慶應四年以後の御代が、萬機公論の實を擧げ、全國諸藩の賢能を中心として、直ちに郡縣制を以て聖代を創設したりしか、將た又薩人長人と云ふ二地方人のみを中心として、藩閥政治を組織し、之れを行ふこと五十年に及びしかの差はあり得た。果して孰れが國民文化の爲めに幸福であつたらうか。
 薩長の權略敗れ、徳川方にして、若しも正義の勝利者となつたならば、勢を見るに敏なる英國人は、必然に新勢力に好意を示し來りたること疑ひなかるべく、之れが爲めに、世の俗人文客の論ずるが如くに、英佛の戰爭を日本の國土内に引き起すが如きことは、想像する餘地もないのである。現に各國は當時「局外中立」を觸れ出したのであり、英公使パークスも、中立を名として、西郷の江戸城攻撃に關する援助要求を峻拒して居たのである。英佛は案外正直であつた。佛國は幕府方の要求を辭み、英國は西郷の要求を拒んだ。世人が、此の種問題に付て、小栗のみを罵り、西郷に關しては一言も批評するものなきは、 公正の議論と云ひ得まい。何故に斯かる不公平の評論が、日本人の間に、久しきに亘りて何等の疑問もなしに是認せらるゝのであらうか。今日の日本國民は、此の史實に關し、最早確固たる正論に其の耳を藉すべき時なるを知るべきである。
 小栗上野介の主張と行道とは、常に一貫して迷ふ所なし。彼は、國家の興隆を念とし、國民の進歩安榮を祈り、世界の大勢に遲れれざらん事を希ふたのである。
 若しも長州の藩士が三百年間、其の足を江戸城に向け、「如何にしても、關ヶ原以來の舊怨たる徳川を亡ぼさんと誓ひたりし」事が、而して其の結果が、維新に先つて「攘夷討幕」として顯れ來たりしことが、主義一貫の忠烈なる藩士の至情として、是認せらるべきものであるならば、徳川氏に關係深き名家の出たる小栗が、徳川方全部即ち全國を中心として、國の爲め時代に適應する郡懸制の創設を企圖し、之れが實行に努力せしことは、右と同じ理路を以て、是認せられざる可からざる一貫の士的心事であると云へる。
 小栗の如きは、從來俗人文士の漫評するが如くに、時勢を解せざる頑迷者ではなく、國家の臣僚として、内外古今を通觀し、主張明白、意志鞏固なる一代の政治家として認めら るべき人物と稱して不可なかる可し。小栗を目して、唯徳川氏一家のみを重んじ、國家國民を念とせざりしが如くに見るは、勝海舟等の云ふところであるけれども、勝の如き老獪なる才人が、後年に至りて勝手な批評を試みたればとて、史實を知るものより見れば、何等傾聽の値あらざるや前述の如くである。勝海舟が、後年に至りて、小栗を非碓し、自己獨り賢者であるかの如くに放言せるは、寧ろ其の器局の小なるを自白せるものと評して然る可きであらう。

 74-83頁
  小栗上野介江戸を去り上州權田村に退く及暴徒の襲撃 (目次)

 小栗上野介は、前將軍慶喜が恭順を決心したる所より、最早其の身を江戸に置くの必要なきを惟ひ、三百年來の「知行所」即ち「采邑地」たる上野國權田村に居住するの目的を以て、慶應四年二月二十八日江戸の屋敷を引き拂つた。而して三月朔日ね權田村に到着した。
 小栗の江戸の上屋敷は、神田駿河臺にあつた。此の屋敷は、明洽の御代となり江戸が地方の藩士により占領せらるゝことゝなりてより、土佐の土方久元が、之れを占有しで居住した。此の屋敷には、小栗の本宅以外に、小栗の建てたる江戸唯一の石造四洋館があつた。此の主屋と西洋館は、紀念物として後年土方伯も之れを保全し、後には小石川の土方伯の別荘に移したのであつた。其の着意や面白し。
 小栗は江戸退去に臨み、その兼ねて愛翫し玄關に備へ附けありたる一門の大砲と小銃若干挺とを、或は包装し、或は小箱又は長持に藏めて運び行つた。此の長特等の包装物は、その重量の甚しく重かりし所より、世の小人輩は、定めし數十萬兩の幕府の官金を納めたるものなる可しと想像したとの事である。然るに彼は清節の士であつた。金錢私する小人ではなかつた。小人は小人の心を以て、人を眺めるものである。
 小栗上野介は、上州の一山村權田村に退き、向後の時勢が、如何に變化し行くかを、静かに眺める心算であつたものゝ如くである。彼としては、此の場合之れ以外に、その身を處する方法はないのであつたらう。彼は江戸を去るの前夜、振武隊長澁澤成一郎に、左の如きことを談つたとのこと世に傳へらる。(書物にも此の事は記してある)
 「予固より見る所ありて、當初開戰を唱へたれども、行はれなかつた。今や主君恭順し江戸は他人の有に歸せんとする。人心挫折し機は既に去つた。最早戰ふことは出來ない。縦令會津、桑名諸藩が、東北諸侯を連衡し、官軍に抗した所で、將軍既に恭順せられたる上は、何んの名義も立たたいのである。況んや烏合の衆をや。數月の後には事應さに定まるであらう。然れども強藩互に勳功を爭ひ、軋轢内に生じ、遂に群雄割拠となるでもあらう。若しも斯かる時機も來たならば、我等は主君を奉じて天下に檄すべし。三百年の徳澤施して人に在り。國家の再造難事ではないであらう。我等は時機の到來を待つの外なし。予は之れより去りて知行所權田に土着し、民衆を懐け、農兵を養ひ、事あらば雄飛すべく、事なければ頑民となりて終るべし」 と、彼の云ふ所に一點の不明なし、彼は確かに時代を達觀しで居つた。大鳥や榎本等に比すれば「鷹と鳶との比例也」と三宅雪嶺の評せしは當れりと云ふべし。彼に反逆の意志などは毫頭もなかつた。唯時勢を窺ふの心があつたのみ。そは政治家として、當然の考慮であつた。彼に一點の不法なし。一沫の非理なし。
 小栗上野介は、其舊領に住家なく、即ち權田村の寺院東善寺に寓居した。而して一小丘上、四邊の眺め美しき一平坦地、俗稱「觀音山」を相して、此所に住宅を建てんと企畫し、日々馬に跨り此の工事を督したのであつた。同時に此の平坦地に河水を引き、相當の水田を作らんとしつゝあつた。今日に至るも、尚ほ其の地域存在し、村民は、能く此の事實を知りつゝある。
 彼が權田村に居住するや、間もなく一群の政治的暴徒は、權田村に襲撃し来つた。從來世人は、唯地方の博徒の如くに傳へて居るけれども、然らず。此の事に付て權田村東善寺の保存する記録肥錄には、左の如く記してある。(即ち野州及武州より起れ「所謂關東騒擾の浪人」であつた)
 「一隊は野州より起り、前橋高崎附近を掠奪し、室田村に來り、外一隊は武州秩父より起り、藤岡富岡附近を掠奪して、慶應四年三月二日室田にて、此の二隊合同協議の上同三日三の倉へ押寄せ來たり、其數七千人餘人、尚ほ隣村の人民を煽動して、四日の朝權田村へ襲來たり、四方を取り圍みて、五カ所に放火し、發砲盛なり。上野介茲に於て捨て置けずとし、武力を以て逐ひ拂へり。暴徒の首魁は、金井莊助と云ふ者なり。追彿ひたるは、四日の正午十二時頃なり」
 小栗上野介は、勘定奉行の職に在りしが故に、巨額の金銀を所有するものとして、博徒より成れる一盗賊團は、之れを奪掠せんが爲めに、襲ひ來りしものゝ如くに世には一般に傅へられで居る。七千人も入り來る道路なき僻村である、蓋し唯ふに、七千と云ふ大裂裟の數は、官軍方にて放てる宜傅に相違なく「小栗に七千人をも撃退し得る程の強固なる兵備あり」と吹聽する」一つの手段であつたに相違ない。彼等暴徒は、相當多敷を擁せしも、作戰家であり且豪氣なる小栗上野介及其從者小人数の一撃に會して逃げ去り、その儘分散し終つたのである。普通の盗賊團では、彼等は斷じて無かつた。彼等は政治的の浪人團であつた。
 荻野博士の著「王政維新の歴史」にあるが如く、薩藩人は、當時浪人を關東に放つて、強盗放火其他亂暴を爲さしめたのである。夫故に此等小栗を襲へる暴徒が、薩長の策士等と、「初めより如何なる連絡ありしやも知れない」との感じが、直ちに現地に至り見ば浮ぶのである。當時此の方面に兇暴無類なる、長州浪人祖式金八郎と云ふものが居つたのであり、餘りに殘虐にして終に仲間より排斥そられたと傅へらる。此等の暴徒とは、蓋し、薩人の放てる浪人等一類の打てる恐るべき芝居ではなかつたらうか。彼等は此の暴徒をして、その兼て憎怨せる小栗を討たしめんとしたのではなからうか。然るに暴徒は小栗を討ち得ずして、却つて敗走したのであつた、是に於てか薩長人等は、其等所謂暴徒をして聲を殊更に大にせしめて、「小栗に七千人を撃攘するに足る軍備あり、小栗には朝廷に反逆の企圖あり」と宜傅せしめたものであつたらう。必ずや斯く云はしむることが、權略に富める薩長策士の仕組める陰謀であつたに相違ない。門地ある武士がその生命として尊べる大砲小銃刀劍等の武器を常に所有するは、當然のことであり、而して武力を以て襲撃し來れる無法の暴徒を討つは當然適法である。
 小栗上野介は、此等の多数の暴徒に對抗するが爲めに、江戸引揚に際し、江戸の屋敷より武士の魂として携へ來れる(幕府時代、小栗の邸の玄關に備へてあつたのである)一門大砲を、道路の傍に鋸ゑ付けたのであつた。小栗の身分として、刀劍銃砲を所有するは云ふ迄もなく當然であつた。況んや小栗は熱心なる新武器の研究者であつたをや。然るに其の後、小栗殺害の當の責任者監軍豐永某等一味は、小栗が大砲を所有するを見て「大砲備付ありたり」と故更に反逆の準備の如くに云ひ爲したものであり、之れを以て、小栗殺害の唯一の好口實となしたのであつた。唯單に一地方の暴徒威嚇の爲めに備へ付けしものを目して「朝廷への反逆」と見たるに至つて、「監軍」と云ふ職名にも似合はず、其の人物の軍事的判斷力たるものゝ甚しく缺けたるを嘲けらざるを得ない。併し乍ら、之れが彼等の策略であつたのであらう。さすれば今日の國民として静觀すれば、其の權謀術數の甚しかりしことをを、東山道總督軍の名譽の爲めに慨かざるを得ない。一門の大砲を以てして、如何にして天下の諸藩より成る官軍に反抗し得るであらうか。若しも正直に豐永某等が、斯く考慮したるものなりと云ふならば、當時の「監軍」なるものは、其の職名に似合はず専門的に軍事を解せず、薩長人の走狗であり、唯官軍の權威を弄せる驕慢横暴の壯士輩に過ぎざりしものなりとの誹りを免るを得まい。小栗上野介が、斯かる小人物輩に出會したのは、餘りに不權衡であつた。之れも亦小栗の運命である。僅かに數名の家來を伴ふて、平穏に上毛の山深き一寒村に住居し、地方農民の兒童を教育しつゝありし一代の人物を目して、「朝廷に向つて反逆す」と宜告せるが如きは、常識を缺ける官の吏にして初めて口にし得る突飛の宣言である。蓋し惟ふに、彼等は故更に斯く主張したのであり、斯くする事が、小栗上野介の斬殺に沒頭したる彼等一味相通の悪辣なる策略であつたのであらう。
 「西郷は、當時多数の浪人を江戸の薩邸に募集しおいて、之れを諸方に放ち、亂暴狼藉をさせ、關東及江戸を騒がせ云々」との史實が、萩野由之博士著「王政復古の歴史」第一八五頁に明記してあること上述の如し。然らば、上毛に於ける右の政治的暴徒は、武州及野州より來りしものであり、西郷の放てる一味のものであつたに相違ないと判斷し得る、普通の盗賊團でありしならば、小栗に反撃せられて、其れなり其儘に、解散する理由はあり得ない筈である。又次の節に記載の如くに、同穴の浪人策士大音龍太郎の作れる「小栗の罪状申渡の届書]中にも、「舊幕の苛政を恨候百姓共蜂起致」と記しありて、此の暴徒が、政治的の暴徒たることを、何人も問はざるに、彼は自ら告白し態々立證しつゝある。即ち官軍としては、平和に居住する小栗上野を殺害するの理由を見出し得ざりしが故に、浪人暴徒を使用し、小栗の首級を浪人暴徒の手によりて討たしめんと、彼等一派は畫策したものであらう。之れ恐るべき陰課政策であつた。由來世人は一般に之れを知らず、翠單純なる強盗團となす、誤也。即ち此の一事を以ても、小栗と反對派の代表的人物西卿とは、對照せられ、今日に於て國民によりて、公明に是非を判決せられざる可からざる關係にある。上州の此の一寒村地方のみに限りて、舊幕の苛政(?)を憤り、數千の百姓が、俄然として一人の小栗に向つて蜂起する理曲は、常識を以て判斷し、決してあり得可からざることである。
 慶應四年正月徳川慶喜が、朝廷に奉りたる上書にも左の文句がある。暴徒の強盗殺人の事件を明かにする。

        薩藩奸黨ノ者罪狀之事

 一、家來共浮浪ノ徒ヲ語合、屋敷へ屯集、江戸市中押入、強盗致シ、酒井左衛門尉人數屯所へ發砲亂暴致シ、其他野州總州燒討劫盗ニ及候迹分明ニ有之候事

 右の「薩藩奸黨」とは何人の事か、當時薩藩を勣かしたる巨頭一味の事であるや云ふ迄もなし。彼等浪人暴徒は、上述の如く、武州野州より進み來りしものであり、薩藩奸黨一味と連絡あることが判断せらるゝ。

 83-111頁
  小栗上野介の反逆人としての冤罪、及小栗父子の斬首と梟首 (目次)

 小栗上野介は、權田村に平穏に居住しつゝあつた。彼は附近農家の子弟を教育し、僻村の村夫子に早更りして、穏やかに生活しつゝあつた。然るに東山道總督岩倉具定及其の参謀板垣退助伊知地正治等は、前述浪人暴徒の放てる流言に基さ其の訴を取り入れたるものと號し、「小栗に叛逆の企圖あり」との事を口賓として、小栗を以て反逆者也と公文を以て四方に宣布し、途方もなき大袈裟なる總督の命令を發した。其の命令は左の如きものである。但し「追捕」であつて「殺害の命」ではなかつた。

 小栗上野介近日、其領地上州權田村に陣屋等嚴重に相構へ、加之砲臺を築き、不容易企有之趣き諸方注進難聞捨銀聞捨、深く探索を加鍵處、逆謀判然、上は奉對天朝不埒至極、下は主人慶喜恭順の意に相戻候に付、追捕の儀其藩々へ申附候、爲國家協心同力可抽忠勤候、萬一手に餘り候得ば、早速本陣へ可申出候、先鋒諸隊を以て、一擧誅戮可致事
右の通り被仰出候間、御達申候、急に盡力可有之事

                 東山道總督府執事

                  高峙藩主 松平 右京 亮殿
                  安中藩主 板 倉 主 計殿
                  小幡藩主 松 平 鐵 丸殿
 右囘覧の上各申合追捕可致事

 右の文面には、「深く探索」又は「逆謀判然」とある。然れども何等の確實なる調査は行はれなかつたのであり、唯若干の小人輩を出して、樣子を探らしめたに過ぎない。「逆謀判然」の文字の如きは、全然事實を無視したる嘘言である。唯事は、豫め計策して襲はしめたる暴徒の流言を其の儘口實として、追捕の命令となつたのである。之れ確かに、官としては無責任の行爲である。而して之れ實に「天地の公道」を蹂躙したる、悪辣なる術策であつた。
 此の布令を發して後に、監軍豐永某等の指揮の下に、兵を進めらるゝこととなり、彼等監軍は官の威を以て、附近の三藩を説き、慶應四年四月一日、高崎、安中、小幡の三藩は其の嚴命拒み難く、約八百の兵を率ひて、權田の寺院に迫り來り、小栗上野介に面談し、右の布令を示して、上野介を詰問したものであつた。但し諸藩士は、「自ら陪臣也」と稱して、頗る恭謙なる態度を持して舊幕の高官たりし小栗に接した。之れ武士として當然の禮儀であつた。取調べて見れば、布令に云ふが如き陣屋もなく、無論砲臺も築かれては居なかつたのである。「逆謀判然」なぞ云ふは、官としてあるまじ嘘言に過ぎなかつたことが判明した。此の布令の内容は、事實と相違するものなるは、詳しく調査せずとも、容易に知り得し所であつたた。此の時小栗上野介は、何等反逆の意なきを静かに辯じて、其の江戸より携へ來れる大砲一門小銃二十挺を三藩の士に引渡した、問責の諸藩士は、即ち事態明白也として引揚げ去つた。小栗は殺害を免れ得た。是れ當然の處置であつた。而して翌二日、養嗣子又一其の年二十一歳なる青年に、從臣三名を附し、。高崎なる官軍の出張所に出頭せしめた。之れ小栗上野介に私心なきを表明の爲めであつた。併し乍ら、之れ一種の人質政策であつた。其の情や悲し。
 小栗の殺害を企圖したる豐永等監軍は、高崎藩士令の公明なる處置に付て不満足であり三藩に異心ありとし、「官軍は三藩を討伐す可し」と威嚇し、小栗を殺害せざりしを憤り、彼等を詰責した。彼等監軍の一味は、板垣等の命を帶び、初めより小栗を無理無體に殺害せんと計畫しつゝあつたのである。物情不穏であつた。其の物々しき樣子にて、小栗は事の危險なるを慮り、他所に逃れんかとの意は動いた。四月三日忠節なる從者の勸めにより寺を去る里餘なる同村字龜澤の農家大井秋次郎の家に立ち寄り、少時休憩しつゝあつた。此の時權田の名主佐藤藤七なるもの追ひかけ来り、官軍の命なりとて、申し述べて云ふには、
 「上野介殿に於て御立退被爲、御歸館なき場合には、權田村民一同の難儀を惹起し、且高崎の陣所へ出頭せられたる又一殿の御一命にも係はる事故、御歸りの上、他意なき事を官軍へ申し聞き被爲候はゞ、一村の爲め、且は又一殿の御為め、之れに若くもの無之、何卒御歸り有之度」
と、之れ官軍方の放てる奇略であつた。
 小栗上野介は、總督方の軍の兇暴酷薄にして、罪もなき村民を困しめ、或は虐殺をも仕兼ねまじき危急に迫りつゝあるを感得し、即ち直ちに最後の決意を爲した。即ち其の身を犠牲と爲して、以て無辜の村民を救はんことを小栗上野介は決心したのであつた。豪膽にして由來屡々決死せられたる小栗上野介が、狭き同じ村の民家に逃げ隠れるが如き、非常識にして卑怯の事を爲すものにあらざるは云ふ迄もない。
 當時、高崎藩に於ては、幕末の最も有力者たりし小栗の人となりに敬意を拂ひ、豐永等の脅迫的督促に面しても、容易に兵を出し得なかつたとの事である。小栗に對し何の怨もなき幕府の親藩高崎藩としては、武士の禮儀としても、此の出兵は敢てし得られざりしこと勿論である。官軍の人々等一方には此等の諸藩を威嚇し、他方には語氣を強ふして此の地方の農民等を成嚇し、強ひて三藩に命じて、出兵を爲すと同時に、他方農民に命じて、寺院を去れる上野介を呼び戻らしめ、當初よりの目的通りに、一擧之れを殺害せんと畫したものであつた。當時の高崎藩士等の武士的信念に薄きものありしこと、憐むべきものがある。
 上野介は、右百姓佐藤の言を聽き、「我れ素より他意あるにあらず、寺院に歸りて、官軍に他意なきことを申し述べん」と静かに答へられ、引返して寺院に行かれたのであつた。之れ三日夜の事である。誰か之れを聞いて、悲哀の感に打たれざるものぞ。
 此の當時、官軍なる名を以て、兵を率ひ三の倉に來りし指揮官は、東山道の總督岩倉の配下たりし上述の豐永某及何某の兩人であつたことが、特に寺院の古記錄に記されてある。彼等は無論参謀土佐人板垣退助及薩人伊知地正治の命を受けて来たのである。其の際小栗の斬殺に關係ある陰謀策士にして、従來近江の一浪人たりし大音龍太郎は、三の倉には來なかつたなある。参謀板垣退助は、二人の監軍等に向つて宜しく「斷然たる處分を爲せ」と命じたとの事である。何等の取詞べも爲さずに、幕末筆頭の薩長反對の有力者なるが故に、斯かる混亂に乘じて、小栗父子を斬つて捨て、梟首す可しとの意味であると解し得たりしとのことである。官軍方上下一體の悪辣なる策謀行爲でありしことが明に看取せられ得る。夫れ故に、小栗父子の殺害を企て、之れを理不藎に實行せし當の下手人は此等の下役監軍共一派であつたが、總参謀初め薩長軍方の上下脈絡ある計略であることが明かに透見せられ得る。彼等は、蓋し斯くして年來の私怨を果さんとしたりしものなるべし。恐るべし。
 五日、高崎安中吉井の三藩兵約一千人(古文書に依る)は、豐永某及大野に率ゐられ、東善寺を包圍し、東善寺に突入し來つた。而して一言半句をも云ふところなく、無理無體に小栗上野介を捕縛した。小栗は些の抵抗を爲さず、頗る尋常に縛に就いた。之れ當時の責任者が自ら後人に談れる所である。由來世人の傅ふる所によれば、小栗上野介は、縛せられて神色自若、何等怖れず何等恨まず、夙に決死して居りし彼は、唯從容自若としで居つたとの事である。流石に彼は、幕末九年間國家を一身に負へる天下絶群の政治家であつたと云へる。彼に才あり勇あり而して修養あり、敬すべき所である。
 征東軍は、反逆の大罪人として小栗を縛し、駕に乘せ、之れを護衛し、三倉村の征東軍陣營に拉し去つた。而して六日早朝、烏川邊りの河原に、上野介及家來三人を引き出した。此の地は、權田村の寺院を去る數町の寂しき所であり、權田村の隣村地内である。監軍等は、特に此の計畫を爲したものであらう。而して監軍等は、何の申渡もなく、此の寂しき河原に於て、一代の政治家にして國家の功臣なる小栗上野介の首を刎ねた。然かも官軍方の下手人の心は怖ぢ其の腕鈍くして、一刀を以て首を斬り落し得ず、無惨にも、二刀にて此の國家の忠臣の尊き首を、拙くも折り落したのであつた。村民は此狀を見て、戰慄し、祟り恐ろしとして、官軍に訴へたる事、土方伯傳(註)にある。斬首に當りて、冷酷鬼の如き監軍等は、唯一言小栗に向つて問ふた、「何事か言ひ遺す事はなきか」と。神の如くに其の心清らかなる小栗は、莞爾として答へて曰く、「何事もなし」、「唯既に母と妻とを遁しやりたるを以て、此等婦女子には寛典を望む」と。天地の公道を重んぜざる此等非人道の輩に向つては、斯くも細く人間の道を説き聞かすを要したのであらう。上野介の斬首に先ちて、故更に冷酷なる監軍等は、忠節なる三人の家來を、上野介の面前に於て斬首した。一人は「殘念なり」と口走つた、小栗は直ちに叱して、斯かる場合に未練ある可からずと諭した。彼等は無論明治照代の穏やかなる臣民であり、彼等には何等の罪もなかつたのである。強て之れを斬害す、噫、是れ非道残虐の極みである。恰も悪魔の如し、嗚呼英雄の死や常に美し矣。斬るものは心悪魔の如く、小手先鈍くして、電光鋭どからざりしも、斬らるゝものは武士の修養完く備り、恰も春風を斬るが如くであつたと傅へらる。此の場画は眞に劇的である。
 官軍等は、此の非道なる斬首を敢てし、日本國家の功臣を殺害したる後、更に残虐にも小栗上野介の首を青竹の尖端につき差して、之れを路傍に樹てゝ、梟首の辱めを與へた、(同地古老の談に依る)。共の後、更に其の首級は、館林に在りし総督岩倉具定の許に送られて、首賓檢に供せられた。此節岩倉の顔色や如何なりしか。地方人の云ふところに依れば官軍は館林にでも梟首したとの事である。烏川河畔に梟されし小栗上野介の打首の傍に、残酷なる監軍等は、左の如き立札を爲した(權田村東善寺の記錄に依る)。

                小 栗 上 野 介

 右之者奉對朝廷、企大逆候條明白ニ付、令蒙天誅者也
   慶應戊辰閏四月
                     東山道先鋒總督府使員

 從者の梟首には、左の如き立札を爲した。

 此者共、主人ノ悪ヲ逢迎シ、共ニは働奸逆條明白ニ付、加天誅、梟首スルモノナリ

 今日の日本國民は、官軍方の人々上下一體となりで行へる、非道惨虐なる此の殺戮を如何に眺むるや。何等の取調なくして、四名の日本國の臣民を斬る、之れ暴者の凶悪ではないか。斯くの如きは、五ケ條の御誓文に從ひ「天地の公道」を守るべき正しき官吏の斷じて爲す可からざる非行ではなからうか。岩倉總督の出せる「追捕令」に算へたるが如き、「陣屋」もなく、「砲臺」もなきこと明白なるに拘はらず、而して又何等他に反逆の形跡なきこと明瞭なるに拘はらず、之れを「反逆」と呼ぶは、之れ事實を誣ゆる不當不正の宣告ではないか。正しき國家の軍憲は、斯かる詐言非違を爲す可きものにあらざるや、亦云ふ迄も無かるべし。總督岩倉の出せし總督令文面には、「追捕」とあり、而して「若しも手に餘りし場合には誅戮致すべし」とある。小栗上野介は。絶對に縛者の命令に服從したるものである。然らば之れを縛り上げ、取調を爲さずして殺害し、剩さへ之れを梟首するとは何んたる不法何んたる暴狀ぞや。之れ監軍等が、右總督府令の明文を無視したるものであり、法規的に細く云へば、確かに「越權の不法行爲」を爲せるものである。而して總督初め參謀等が、此の越權を看過せるは、始めより上下脈絡ある策謀なるが爲めであるや。亦云ふ迄も勿るべし。薩長人公卿及土佐人總掛り的の殺害行爲は、果して何事を談るであらうか、曰く、「小栗上野介が、幕末唯一の一大人物であり、薩長側の爲めに、恐るべき唯一の能臣であつたことを立證するのみ」である。
 小粟上野介は、反逆者ならざるのみならず、大正四年横須賀海軍工廠の官文書を以て聲明せられたるか如く、明かに日本國家の功臣である。然るに官の名に於て、此の功臣を反逆の大罪人として殺害し、之れを梟首するとは、果Lで之れ何事であらうか。日本二千五百年の歴史中、斯かる非道横行のこと他に類例かあるであらうか。斯くの如くに、不法の行爲の公々然として行はれたる事實は、史論としでは漫然之れを過去の混亂時代の事也として放棄し置くべきことにてはあらざるべし。明洽初年の歴史に赫々の光彩あらんことを切に日本國民は祈る。而して之れか爲めには、此の人情事理を無視したる事態の生ぜし事を、日本國民としては、眞に無限の痛恨事となさゞるを得ないではないか。
 徳川慶喜は、薩長軍に對して、四日に亘りて鳥羽伏見に激戰し而して死なし。其以前毛利氏は、組織的に「見兵五萬」と號せる大軍を京都に差し向け(永岡清治氏著『舊夢會津白虎隊』第七十四頁)、宮廷に發砲して死なし。松平容保は慶喜恭順の後に、砲百十餘門を備へ、三千の兵を以て、交戰三十日、大いに薩長軍を悩まして死なし、榎本大鳥等も、大いに薩長軍と各地に戰ふて死なし。然るに、獨り小栗上野介に至つては、平和に一寒村に引退し、何等の罪跡なくして、官の名によつて反逆者として斬殺せられ、然かも梟首の辱をさへ受けて、六十年來拭はれず、此の處置たる、國家の行爲としで、公正と云ひ得可きであらうか。國民の判斷や如何。
 小栗上野介は、四十二歳を以て逝いた。所謂厄年である。由來小栗の人物と功勞とを知れるものは、從來彼を殺害せる一味の姦悪を心に憎みつゝも、同時に、「之れも亦天災也と諦らむるより他に途なし」として、忍び來つたのであつた。勝者は反逆人をさへ功臣として祭るの勝手気儘を爲せども、敗者には雪冤の力だになし、洵に之れ浮世の悲哀である。
 小栗上野介の養嗣子又一は、高崎に至りて、官軍より牢獄に幽せられしが、無綸何等の罪もなき歳僅かに二十一歳の青年であつた。彼も一人物であつた。彼は四月七日、高崎に於て、從容自若として、其の從者三名と共に、官軍の命令下に、高崎藩の一足輕によつて斬首せられた。之れ亦實に非道の極と云ふべきである。斬首を命じたるもの、今日よりして静かに考慮せば、其の非違に付て全然辯解の途なかる可し。
 當時の此の方面の總督及共の配下は、正當の理由なくして、小栗氏父子二人と從臣六人との良民を殺害したのである。斯くして往昔支那に行はれし「罪三族に及ぶ」的古式の非道は、維新以後即ち明治元年四月に於て、我國に顯はれたのあつた。確に之れ維新直後の歴史の一汚點であるのを悲しむ。明治元年三月、即ち此の斬殺に先つこと一ヶ月にして、全國民に向つて廣く發せられたる、光輝ある「五ケ條の御誓文」の第三に曰く、「官民一途庶民に至る迄各其の志を遂げ」と。官の名を以て、罪跡なき六名の人民を殺害することは之れ官民一途の大義を缺き、人民をして其の志を遂げしめざる暴行ではないか。又「御誓文」の第四に曰く「天地の公道に基くべし」と。總督配下の官僚等が、上下相通謀し、無辜の日本臣民六名を殺害せるは、之れ「天地の公道」を蹂躙せるものたるや昭々疑なし。之れ此の御誓文を汚し奉れる不臣の行爲でなくして將た何んであらう。千古に輝ある御誓文の確保實現の爲めに、當時上下の吏僚等が、誠忠の心を以て、之れに努力するところなくして、反つて斯かる殘虐非道の行爲を敢へてせしことを、今日の國民は、痛歎せざるを得まい。彼等は、御誓文を拜して、何の顔色を以て對せるのであつたか。何故に彼等は臣下たるの責を引かぬのであつたか。當時の御代は、決して殺人放火強盗自由の亂世にあらず。又「軍將の意思は即ち法なり」と云ふが如きマーシャル法式の暗黒時代でもなく、光輝ある五ヶ條の御誓文さへ四海に發布せられて、「萬機は公論に決すべく」、「人は天地の公道に依る可し」と命ぜられたる時代であつた。官の名に於て、非道暴戻は、斷じて允さるべき時ではなかつたこと、明々白々何んの疑なき所である。
 當時、此の方面の總督軍に屬せる策士近江の浪人大音龍太郎が、小栗上野介の「罪狀申渡シノ届書」と云ふものを、當時總督軍の當路に提出しで居る。此の公文書は、後年政治家として有名なる島田三郎の手より小栗家に傳へられたものである。其の書は總べてが術策を以て作られつゝある、左の如し。但し、當時の暴徒の事情を刊斷するが爲めには、好箇の材料である。

             小 粟 上 野

 [右上野儀今春於江戸、會津容保小笠原壹岐等申談、陰に碓井嶮を拒絶致し、王師を相抗申候心得にて、其釆邑上州群馬郡權田村に引退、不時に絶嶮之地を擇、保壘を構え、兵を募候、折柄舊幕の苛政を恨候百姓共蜂起致候に付、上野指揮にて、無謂民舎を放火し、無辜の細民を打殺、其上申唱侯には、官軍たりとも吾釆邑え踏込候者は、壹人も不洩打取可申など、非禮之申條言語同斷に付、高崎吉井安中三藩え被命問罪師指向候處、器械を隠し、養子又一を降人として高崎藩へ指出候に付、一且三藩引揚申候得共、何分事跡暗件靉昧、依之再三藩指向候所、已に砲戰之用意を致候得共、夫々手配難行届、無據謝罪申出候に付、篤と取糾候處、雷火帽付鐵砲數十挺土中に隠埋致置候より、益詰問罪跡判然、深恐入候段申出候得共、其儘捨置候得者、越後屯集の賊に謀を通、不容易場合可立至侯間、即時上野父子並家來六人打捨申候、且又踏方闕所處置之儀別紙之涌り仕候、以上

       戊申後四月                 大 音 龍 太 郎

 斯る時代に於ける策士は、罪跡を覆ふが爲めに、何れの時代にも、斯かる虚偽的の文書を作成するものである。策士大音なるものゝ作れる右公文書の、如何にもわざとらしく、事實を離れたる僞作であり、疎慢無責任たること、彼等として月並の作品である。其の強いて小栗を反逆の大罪人らしく作れる點に至つて、悪辣なる策士の本領が顯はれて居る。誰かれか其の非道非道悖徳なるを怒り、其の陰瞼悪辣極まるものなるを憤らざるものやある。斯かるニ三の小人輩、素より憎むべし。去れど此の不法非逍は、彼等二三の小人輩限りの思附に成れる出先的仕事にあらず、彼等の行爲には、薩人長人公卿及土州人等との遠く深き脉絡あり、官軍方一帶の畫策豫謀せる行爲でありしを奈何せん。彼等の非道悖徳は、國民歴史上永遠拭ふべくもなし。  此の策士大音なるものは、後日に至り、小栗上野介の爲めの「弔意金」なりと稱し、且つ「總督府の命令也」と稱して、小栗斬殺後間もなく、即ち四月十五日に、自ら金二十五兩を小栗の舊知行所たる權田村に携へ來り、之れを同村の名主、藤七に手渡し小栗の供養を依頼し去つたのであつた。昨は總督府側は「反逆者なるが故に天珠を加ふ」と廣く世に布告しつゝ、今は打つて變つて、特に弔慰金を奉納して、小果上野介の靈を慰め、其の墓標を建設せしめ、其の永遠の供養を依頼するに至つては、官の行爲としては、餘りに權變あり、餘りに威信なき處置と云ふべきである。蓋し當時の此の方面の官軍なるものが、小栗父子殺害の餘りに非道残虐なりしを悔い且つ世上に自白せしこと、之れを以て明白に窺はる。然れども金二十五兩を以て、國家の功臣父子と良民六名を殺戮せる一大過罪は、到底償ふべくもあらず。總督岩倉、参謀板垣及伊知地等は、此の弔慰金を贈れるのみにては、共に其の重大責任は免れ得ないのである。後年自由を叫べる板坦と、當時の暴虐を好める板垣とは、別人の觀あるも奇怪至極也。
 小栗上野介父子の今日の墓石は、此の右大音の供へたる弔慰金を以て、其の當時夙に地方民の誠意により建設せられたるものであり、地方の名工二名、相競ふで作り上けたる美事なる紀念物である。而して其の殘金は、永く土地の名主藤吉に頂けられたのであつた。小栗上野介の墓標と相並んで、小栗又一の墓石がある。又一の墓は高崎附近にもある。其の下方に、同時に殺害せられたる家來及會津に走りて戰死せし二人の家臣並に憤然自害したる侍女の墓が並びつゝある。上野介の胴體は茲に葬られあれども、然れども上野介の首級は、當時忠節なる百姓某が、之れを舘林の寺院より堀り出し來つて、觀音山に埋めたりとの噂のみ傳へられありて、永遠に其の處在不明であり、或は館林の法輪寺内にありとも傅へられ、或は同地の茂林寺に在りとの説もある。唯共其の胴體のみ葬られたのである。一代の政治家の最後として、洵とに悲惨なる話であり、正義人道を重んずる日本人として何人も公憤なきを得ざる痛恨事である。余は此の不幸なる一代の人物の墓前に、地方人と共に二本の若き杉を植えて、之れを永遠の紀念物とすることにしたが、時は是れ正さに昭和ニ年十月十日のことであつた。若き杉よ。永遠に上野介の英名と共に榮えよ。
 權田村は、高峙市の北西方約八里、榛名山麓にありて、島川を遡れる山中にある。今日にては自働車の便あれども、昔は定めて交通不便の土地であつたらう。東善寺は、信州に通ずる山間の街道に沿ふて、山腹にあり。境内左奥に、小栗上野介父子の墓がある。墓は整然として神々しく存在し、森嚴の氣充ちつゝある。其の墓碑名は左の如くである。

  一 陽壽院殿法岳淨性居士 忠順 享年四十二歳

  一 本教院殿樹山貞松居士 忠道 享年二十一歳

 小栗上野介父子と共に官軍に斬られたるは、その家臣大井磯十郎、荒川祐臓、渡邊多三郎、塚本眞彦、沓掛藤十郎、多田金之助の六人であつたが、彼等は武家の臣として、その主と共に生き主と共に亡び、正しく士道を履めるものとして、定めし満足のことであらう。此等六氏の墓は、上野介父子の墓よりも、一段低き段下に、整然として相並びて建てられ嚴然としてその英主を守り、端然として正義を履むの形を呈しつゝ、永遠に偉人に事へたる忠臣の範として、世道人心の正の爲めに遺されつゝある。之れを眺め心嬉しく余には感ぜられた。國史上の美談として世に傅へて然る可し。
 土地の人々は、此等の墓を守り、今日にては、土地の衿りとして、訪ふ人毎に偉人斬首の事情を談るのである。而して土地の人々は、小栗上野介が、罪なくして永遠に反逆人の名を附せられつゝあるのを無上の遺憾となし、何等かの方法に由つて、小栗上野介が、國家の功臣として認められるゝに至らんことを祈りり、從来此の事に付て、前橋及高崎の有志と共に運動したる篤志家もあつたとの事である。併し乍ら、小栗家の養嗣子小栗貞雄は、小粟上野介の人物は、必ず史家の明判によりて、不朽永遠に 顯はる可しと主張し、官憲に對して何等運動がましさことを好まれないのである。確かに小栗上野介の心事を賢察せる卓見と云ふべきであらう。  故人名士福地源一郎及鳥田三郎等は、小栗上野介の國家的功績表彰に關して、井上馨に向つて、大いに藎力せられたとの事であつたが、六十年前小栗を憎悪せる薩州及長州の勢力は、その當時は尚ほ存在し、之れを阻んだ。後ち、小栗上野の血縁者たる故大隈侯爵夫人も、内々人を以て某方面に對し此の事に力を致されたが、成らなかつた。
 小叉貞雄は、皇后陛下より御内帑金二百圓を賜はりし事を以て、「既に小栗上野介の罪名は償はれたり」と解釋せられ、此の事は「上毛及上毛人」と云ふ前橋市にて發行する雜誌にも掲げられである。(大正十三年六月『上毛及上毛人』参照)(註)
 皇后陛下の御仁徳はいとも畏し。

       『參考古文書』

 左記は、上州權田村の長老某氏の保有する古文書の寫しである。

       覺  書

 慶應三年辰年朔日、小栗上野介殿權田村ヘ到着ス、寛永年中ヨリ知行所タリ、小栗又一殿任官、小栗上野介殿御勘定奉行ト成御高貮千七百石餘ナリ
 上野五ケ村、下野貮ケ村、上總五ケ村知行所タリ、知行所權田村ヘ到著、主従皆到著、概略當時世間一般意外ノ不人氣ニテ、博徒賊徒等徒黨シ、是ニ村々百姓相加ハリ、質屋穀屋物持強商人等ヘ押入リ、金銭穀物ヲ押借リ、質物ハ置主方ヘ返シ、寶物貴重品等ハ焼拂打損ジテ、追々近寄四方ヨリ集リ、慶應四辰年三月四日朝、賊徒博徒ヲ頭取ニ、隣村々ノ百姓加勢シテ、權田村八方ヲ取圍、八方ヨリ攻寄セ、鐵砲竹鑓大刀鎗棒皆夫々ノ道具ヲ携、時ノ聲ヲ上ゲテ攻寄セ、百姓與右衛門淺五郎治平忠兵衛源七市助八兵衛甚右衛門徳右衛門徳兵衛善四郎ノ十一戸外ニ、堂二棟ヘ火ヲ掛ケ、焼拂フニ依リ、小栗殿主従モ據ナク、鐵砲抜刀ヲ持テ、八方追拂ニ掛ル、凡ソ六千餘人ノ徒黨直ニ逃去リ、一陣地宮原源兵衛宅本陣故、是ヲ焼拂、宮原ハ大集合地故、五軒皆焼拂、追散、手向者源兵衛市右衛門首打取、其外六人切捨、引續テ川浦村岩氷村水沼村三ノ倉ヘ使者ヲ以テ尋問ス、今日ノ仕業、何ノ遺趣遺恨有哉否哉、速ニ答辯爲スベキ旨ヲ談示スル所、各村一同無法ノ申譯ナク、詫ヲ來タシ依テ和解トナルナリ
 小栗殿觀音山ヘ住居ノ目的ヲ以テ、慶應四辰年三月十日、地形建築ニ取掛ル、居宅素建三棟、畑五段歩モ開墾ス、四月朔日、高崎藩大野八百助ヲ頭取トシテ、從者六百人、安中藩吉井藩合セテ總人數八百人餘押寄來リ、小栗殿ヘ何等談判有、委細不分明ニテ、大炮小炮合セテ五挺ヲ受取、若殿又一殿、塚本眞彦同道ニテ、四月四日高崎ヘ引連戻ル
 其後皇軍使員トシテ豐永貫一郎、同原保太郎頭取ニテ、高崎藩隊長宮部八三郎太、中澤岡右衛門附添、櫻井三左衛門、瀧口金作、兵士津田富五郎、勅使河原嘉一郎、大西熊吉、長宮美代次、内藤熊次郎、堀江倉太、谷口忠之助、岩上時之助、篠原八三郎、倉田甚内、内藤村平、山本村右衛門、渡邊惣助、大西廣治、使役金子孫平太、深井保二、目付徒士頭山崎四郎平、横山兼太郎、西谷熊三郎、菅沼太吉、信史文三助、竹本市太郎、内村巳之助、小澤藏三郎、島田金助、桑原一之助、川村藤吉、内田谷太郎、市川廣之助、中込三藏、奥村門之助、中村逸平、灰樂助、鈴木沖助、峯村谷五郎、堤作之助、岡野良之助、高橋榮七、五十嵐奥太郎、竹内道之助、淺尾忠次郎、森山與惣次、坪井清次郎、村田孫次郎、松本 之助、片柳鐵次郎、奥村小次郎、福田友藏、野口實之助,者頭大野八百之助、谷口忠左衛門、足輕小頭鳥居文之助、近藤貫一、竹内宏次郎、多田要之助、櫻井常五郎、大澤安次郎、中村源次郎、瀧口平四、土田忠之助、本間兼三郎、稲田岩三郎、本間重吉、愛坂達多、加藤平次郎、野田傳之助、脇野安之助、小用喜一郎、越野春三郎、中村善之助、竹内三次郎、大澤忠三郎、畠山庄三郎、深見大治、市川朔之助、竹内喜八、大澤勝次郎、畔見喜藏、甘利藤一郎、宮原林之助、渡邊三次郎、横塚鎗三郎、菊澤菊次郎、栗林永三、土田惣三郎、小林巳之助、小島榮次郎、永井鎗藏、佐股福太郎、峯元太郎、藤牧彦八郎、加藤善五郎、佐藤門彌、島田兼次、住谷熊太郎、田中三十郎、山崎文四郎、美濃部文七、竹内友次、林傳三郎、伊與三郎、山口喜久藏、川股兼藏、島田金八郎、島田善太郎、麻生峯之助、須田植三郎、鳥居元吉、小澤八五郎、淺見新兵衛、愛坂末之助、賄方天野忠太、勘定役村田安太郎、淺見藤之助、才料脇野傳八、佐藤米右衛門、長谷川市平、手傳飯島藤兵衛、矢島利平、中曽根丈右衛門、田島卯左衛門
安中藩重役横山鐵之助、番頭藤田専藤
物頭星野武三郎、郡奉行福長重兵衛
兵糧奉行海保岩五郎、大目附武井覺彌、寶橋民右衛門、小林森之亟
代官倉林愛之勒、乘本杢次郎
徒目附淺田五郎作、鈴木萬作、竹内粂三郎
賄役田中鎔三郎、吉村新八郎、柏瀬奥之助
書役茂木鍛藏、平樂亦作、新島双八
諸士本田鍛蔵、森村萬臓、小山省藏、和田鐶三、小野本吉、高橋銀次郎、寶橋徳十郎、清水信吉、中村良吉、岡本廣之助、差江萬五郎、島田常之亟、岡村復四郎、秋山老之助、久保庭太門、淺田忠太郎、飯田鋠藏、石井龜太郎、河合鐵次郎、津金誠之助、平樂章太郎、山岡杢造、岡田定五郎、墨川鐘之助、後藤重太郎、武元清太、富岡鎗吉、中村光三郎、田口鏻之助、山形三之助、山田重太、松原誠之助、山田鐵藏、森本勘之助、飯島伴四郎
醫師瀨金元保、千木良昌庵
大炮方山田洽助、海保又六郎、佐藤鎌藏、茂木盛吉、桗田靜吉、田野村左内、武井九十九
足輕百人、農兵七十人、若黨二十人、中間二百六十四人、吉井藩ニ百人餘
右二藩士壹千人餘押寄來リ、何之談判モ無ク、小栗殿及ヒ家來大井磯十郎、多田金之助、沓掛藤五郎主從四人、三ノ倉ヘ引立参リ、三ノ倉上川原ニ於テ打首トナス、名主佐藤勘兵衛、池田長左衛門ノ兩人出頭死體ヲ貰受歸リ、東善寺墓地ヘ埋葬ス、若殿小栗又一殿ハ、高崎ニ於テ打首、此死體ハ、同知行所下齊田村、與六分村、森村、小林村ノ四ケ村ニテ貰受、下齊田村ヘ埋葬ス
奥方女中ハ、百姓足輕、中島三左衛門、民吉、銀十郎、福松、啓介、藤太郎、兼松、彦太郎、友吉、升吉、龜吉、龍作、定吉、三津五郎、源忠、富吉
右十六人御供ニテ、越後國新與迄落越、手續ヲ得テ會津城ヘ入籠、無事ニ過ス
後ニ官軍トシテ、松井左京之介、板倉主計、吉井鐵丸、三藩士右ノ家來ヲ引率、四月朔日ヨリ、七百人程ニテ同月廿四日迄、小栗殿財産寶物荷物諸品取調居、官軍追寮使大音龍太郎取計ニテ、名主佐藤勘兵衛、池田長左衛門、兩人ノ役向ハ意外ノ迷惑難儀ス
百姓一同モ大ニ難儀筆紙ニ盡難、慶應三辰年四月廿四日ヨリ、權田村ハ高崎城主松平右京之介鎮撫列トナル、松平右京之介改名大河内右京之介御預リ所トナル、又天朝御料トナル、御割附皆濟目録郷帳御調ニ付、高崎役所ヘ差出ス、次ニ前橋御料所トナル
慶應三辰年三月四日燒家十一戸ヘ手當義捐金寄附、連名左ニ
金四百兩 小栗上野介、金貮百兩 佐藤勘兵衛
金壹百兩 池田長左衛門、金壹百兩 濱名伊太夫、金五十兩 牧野長兵衛、金貮拾五兩 中島三左衛門、金貮拾五兩 牧野清五郎、貮拾五兩 市川源蔵、金壹百兩 正福院
 外ニ
金貮百貮拾五兩 小栗殿ヨリ土産トシテ
 〆金壹千貮百五拾兩
     此配當方左ニ
金貳 百 兩也 村中百七拾戸へ割渡ス
金拾 壹 兩也 牧野長兵衛へ入用積リ
金百   兩也 善四郎へ渡ス
金百   兩也 源七、市助兩人ヘ渡ス
金八 拾 兩也 徳兵衛へ渡ス
金貳捨五 兩也 甚右衛門へ渡ス
金九 拾 兩也 八兵衛へ渡ス
金百 六 兩也 與右衛門へ渡ス
金百 六 兩也 忠兵衛へ渡ス
金拾   兩也 淺五郎へ渡ス
金貳兩 貳 分 惣兵衛ヘ渡ス
金壹兩 貳 分 おりつヘ渡ス
金貳    分 大工佐兵衛ヘ渡ス
金壹兩 貳 分 友吉ヘ渡ス
金壹   兩也 園吉ヘ渡ス
 〆金九百拾五兩也
     差   引
金參百參拾五兩  餘リ備金

(註)『土方伯傅』は、国立国会図書館デジタルコレクションにて『土方伯』で検索できる。なお、HP「小栗上野介忠順、斯く語られる」の中、「土方伯 王政復古と伯」に載せた。

 111-115頁
  小栗上野介の母堂と夫人の辛ふじての避難並其悲劇 (目次)

 小栗上野介は權田村の村民を官軍方の壓迫より救ひ出さんが爲めに、自己の身を全ふすることを思ひ止まり、東善寺に戻り來つた。此の時を以て、小栗上野介は、既にその身の最後を決心したものと云はれて居る、洵に好い決心であつた。之れ四月三日の事である。
 此の夜上野介は、その母堂国子及その夫人道子を諭して、權田村を去らしめ、危難を避けしめたのであつた。當時の情勢が如何に恐怖的のものであり、官軍方壓迫の恐るべきものであつたことが、之れにて想像せらるゝ。罪も無き二十一歳の若年の養嗣子でさへも、残虐非道に殺戮する程の暴戻であつたが故に、又會津地方にでは婦人でさへも虐殺せられた事實あるが故に、婦人の身と雖も危かりしこと、明かに推測し得られる所である。
 夫人道子は、當時初めて孕める重き身であつた。身は日本武尊の直系なる播州林田の小大名、建部内匠頭の家に生れたる、由緒正しき婦人である。その良人は、國家民族を念とし、幕府を一身に負ふて起てる國家の功臣であるにも拘はらず、今や何等の罪もなくして征東軍より反逆者として布令せられ、寺院の附近には人馬の往来如何にも物悽く、剣尖近く迫り輝き來り、一家全員の命、旦夕に迫り、多年の恩顧を小栗家より受けたる全村民の爲めに犠牲となつて、今日か明日かの中に、はかなくも、その夫上野介は亡び行かんとするの雄々しき大覺悟あるを見て、夫人の心中は如何であつたらうか。誰れか此の不幸の夫人に同情し、此の不幸の北堂の爲めに、此の悲裏なる出來事を聞いで同情せざるものぞ。
 小栗上野介は、その決心を語り、静かに旨を諭して、母堂及夫人を、越後を經て會津に去らしめた。その折附き從へるものは、女中二人、從者譽田三左衛門、中澤兼吉、塚越富五郎、佐藤銀十郎、塚越房吉、池田傅十郎等の十六人であつた。
 余は幼時之れを我が母より聞けるに、小栗上野介の夫人は、後年に至りても「當時の悲憤とその困阨せる事情とは聞いて呉れるな」と云はれたとの事であつた。その危急困阨察すべきである。余が聞ける所及人の著書等によれば、當時夫人は、その身の危険を慮り、その身を草刈籠の中に潜め、その頭上に藁を覆ひ、村の一農民をして之を背負はしめ、母子二途に分れ、斯くして辛うじて官軍方追手の難を免れ、山に伏し、谷に眠り、千辛萬苦しで、辛うじて越後に逃れたとのことである、悲哀の極である。蓋し越後新潟は、上野介の父忠高が、その以前奉行を勤めたりし地方であり、その墓も存在する場所であり、舊知の人從つて多く居つたからである。茲に一行は合して、藤井某氏の家に潜み、先代小栗忠高の墓に詣で、次いで會津に去つたのであつた。會津藩は、小栗上野介と深き關係にあつた。小栗は、此の強勇忠烈なる藩主藩臣に深く敬意を表して居つたのであつた。道子夫人は、會津方より送られたる人の案内を以て、更に逸れて會津に到り、一時は會津の家老横山主税の家に潜み、更らに一病院となりし家の中に養はれ、此處にて一女子を擧げた。之れ六月十四日の事であり、四月三日上野介と別れてより。二ヶ月十餘日である。四月には、越後には官軍既に集中せられた時代である。此の間に於ける北堂及夫人の心勞は察するに餘りがある。上野介不幸此の世を去りで後、幸にして此の名家に一女子は生れ、父子二人は殺害せられたれども、血統亡びざるを得た。天道是也。夫人としては、せめてもの慰藉であつたであらう。此の女子は國子と命名せられ、今の小栗貞雄の夫人である。横山主税常徳は、文久慶應の交、京都守護職たる會津侯を補佐して功績あつた人物である。小栗上野介は、此の人物を能く知つて居たものと察せられる。
 小栗夫人は、會津戰爭の濟みし後東京に戻られ、深川に在りし三井家の大番頭三野村の邸に養はれた。夫人の實家建部家は小藩なれども當時は一大名として、依然東京神田明神下の邸にありしも、夫人は之れに頼られなかつた。蓋し三野村は、後節に記述する所の如く舊幕時代に於て、小栗上野介の恩顧を受けた人であつたのである。その後夫人は不幸の生活の中に他界せられた。夫人は建部家に生れたる兄弟姉妹中の最も賢明の夫人と云はれた。余も幼時此の夫人が、折々余の家に來られ、余も母に伴はれて、此の賢夫人の小き貧しき深川の住居を訪へるを記憶して居る。夫人逝かれて後、建部子爵家にて、其の遺子國子を世話せらるゝ話もあつたが、大隈重信夫人が、上野介の親族なりし所より(伯夫人は旗本三枝家の出である)國子は、大隈伯爵家に引き取られ、次いで大隈家より名士矢野文雄に乞ひて、其の實弟貞雄を迎へて國子に配した。國子夫人は、温良恭謙にして、事理を能く辨へられたる貞淑の夫人である。今一男あり、名を又一と呼ばれて居る。
 當時夫人に伴せし人々の忠誠や、其他小栗家に事へし人々の献身的行動は眞に敬服すべきものがあり、「上毛及上毛人」に詳しく掲げられ、美談として上州人の間に傅へられつゝある。小栗上野介は、下僚より尊敬せられたる人なること、之れを以ても判明する。小栗を敵視せる小人輩が、小栗は愛憎多く、小人を多く近けし人の如くに宣傳せるは、小栗を陥るゝ爲めの執拗なる弄策に過ぎないのである。總て超凡の人物は小人輩の誹を受け、愚民を籠絡するに努力する權略の輩は、凡愚の衆望を収め、一代の大人物であるかの如くに傳へらるゝこと、其の例や多し。

 115-123頁
  小栗上野介の家筋其履歴 (目次)

 小栗上野介は、如何なる家筋の人であつたであらうか。之れを取調べることも、亦小栗の人物研究の上に必要がある。
 小栗家は、清和源氏であり、本苗は、松平である。即ち徳川氏祖先の一門である。遠祖は三河を本國となし、又生國を三河となし、松平隼人正信吉と云つた。三代目の二右衛門尉吉忠より、母方の姓たる小栗の姓を名乘ることゝなつた。此人は榊原忠次と同時に、徳川廣忠に事へ、忠次と同じく「忠」の一字を廣忠より給ふて「吉政」を「吉忠」と改めた人であり、古へより徳川家と深縁があつた。十六歳にして、家康に從ひ、三州上野に於て、櫻井内膳正と合戰の折、敵と槍を交へて奮戰し、比類なき功名を顯し、其以後毎戰功名あり、其子四代目忠改に至つては、有名なる勇者であり、徳川家康の信川最も厚かつた人である。元龜元年六月十六歳にして姉川の合戰に從ひ、家康の身邊遽かに敵の迫り來りし折、家康の側近くにあり槍を取つて、敵と渡合ひ、敵を打取り、危機一髪の間に家康を救つた。家康其勇を感賞して、其槍を其儘褒美としで與へたのであつた。是れ「信國作」の有名なる槍であり、今日尚小栗家に家賓としで傅はりゝある。今は硯に遊就館に陳列せられつゝある。其の後數度の戰場に於いて、常に一番槍を合せ、功名を立てしを以つて、家康は其名を「又一」と改む可しと命ぜられ、由來[又一]を代々當主の名となし、長板血槍九郎と共に、日本の戰史の上に、有名なる家柄である。此人は、味方原や長篠や、其他大小の戰に於いて、常に功名を立てた人であつた。豐臣秀吉逝ける後、家康大阪城へ出仕の時供奉三十六人を從へたりしが、之れ危急決死の行であつた。即ち其内より、太刀持ちとしては、榊原、井伊、本多及小栗の四人を擇れたのである。城門にて、大阪方は、供奉の人々の入城を拒みたりしに、此等勇士は「あたりを拂ふて廣間まで家康の供を爲し」(系圖に斯く記しあり)家康の身邊を守つたのである。以つて非凡の勇者たりし事が察知せられる。初めの大阪陣の折には、船場の橋梁の燒け落ちたるや否やに付、單騎敵前に進みて偵察し、敵將上條又八も亦、其勇氣に嘆賞禁ぜ申ず、「斯る勇士を打取る可からず」とて、部下に之を命じ、數千の敵兵は、其行勘を靜かに眺めたのであつた。之れ上條又八其人の役後に人に向つで語れる所である。大阪の陣。小栗忠政は常に家康の身邊を離れず、砲彈雨飛の間に、家康の身を掩護して、敵の一彈を、其股に受けたこともあつた。或は敵を偵察して詳に其兵數を報告し、殆んど其算を過たず、家康の感を得たこともあつた。此勇者は、元和二年九月十八日病歿したが、其齢は六十二であつた。
 小栗上野介は十二代目の此名家の相續者である。
 小栗上野介が、徳川幕府のために、井伊大老と同じ樣に、精忠の人でありしは、其家柄上當然であり、斯くなければならない人であつた。
 小栗上野介の父は、中川飛彈守忠英の四男であつたが、其母は小栗家の息女であつた。
 小栗上野介の父は、新潟の奉行を勤めた人であり、同地に於いて逝去した。重要なる幕府直轄地即ち所謂天領地の「奉行」となるには、能吏にして、初めで擇ばれたのであつた。總べて所謂天領地奉行の役所は、嚴然たる城廓を爲して居つた。奉行は一地方の行政長官であり、中位以下の小大名と同じ樣な立場であつた。(飛彈國高山町には、昔の奉行所が存在して居る)
 小栗上野介の父は、安政二年七月二十八日新潟の奉行役所にて病歿し、十月二十二日上野介其家を繼ぎ、初めて堂々たる旗本として世に出づる人となり、四年「御使番」とたり、十二月「布衣」となり、六年九月十二日「目付」となり、十三日大老井伊掃部頭より、米國へ差遣せらるべき旨申渡され、十一月二十一日「諸太夫」となり、十二月朔日、日本國出發の爲めに、將軍に謁見被仰付、其れより以後約十年種々の重要の地位に就き、國歩の艱難なる日本國家の爲めに、身命を投じて励精せしものであつた。
 小栗上野介は、歳三十三にして「目付」となり、次で渡米し。歳四十二にして官軍方より上州權田の河原にて殺害せられたのである。彼れが米國に使せしは三十四の歳であり萬延元年であり、西暦としては一八六〇年の正月である。而して彼の斬殺せられたる慶應四年四月は、一八六八年に當るが故に、小粟の國家的活動は、幕末九年間の事であつた。文豪福地源一郎著「幕末政治家」中、其第二百六十四頁に述べるが如くに、「幕末數年間幕府としての其威力を支持し得たるものは、全く小栗上野介一人の力」であつた。
 小栗家は、本來二千五百石の碌を食める旗本であつた。旗本としては、小栗家は中の上位であり、極くの大身の旗本ではない。併し乍ら、所謂「小つ旗本」ではなかつた。其采邑は、上野下野上總下總等七ケ村に飛び離れて居つた。其中にて、下野國足利那高橋村は千三百五十四石餘であり、最大の采邑地であつた。旗本の采有地は、加増ある毎に、飛地を給はるものであつた。一ケ所にまとまりて五千石以上の収獲ある大知行所を有するものは、旗本としても其例少く、例へば「生駒家」の如き、「坪内家」の如きであり、此等の旗本に至りては、其所に陣屋を設置し、其形式共権威は、一萬石以上二三萬石迄の大名と餘りに異る所はなかつたけれども、小栗の如き三千石以下の身代であり、飛地しで居つた采邑には、陣屋の設けなぞはなかつたのである。小栗の退去地たりし三百七十五石の取れ高ある上州の權田村には、勿論陣屋も住居もなかつた。權田村は、榛名山麓に在り、鳥川に沿へる谿間の僻村であり、爭乱時代の住居地としては、却つて好都合としで之を撰んだものであらう。
 小栗上野介は、外國奉行、町奉行、軍艦奉行、歩兵奉行、勘定奉行等を勤めた人であつた。此等奉行は、當時の國法上、國家の重要の官職であつた。大臣とか長官とか云ふ支那式の六ケ敷文字は使用せざりしも、奉行は中央政府にありて、日本の國政を司るものであつた。然り碓かに是れ三百年來の國法に由る純日本式の獨創的官名であつた。
 小栗上野介は、其九年の仕官の一生の中に、七十餘囘も職を動いたと傳へられる。自己の利益の爲めに、其椅子を守るか如き、世渡り上手の卑劣の人物ではなかつたこと、之れによりて知らるる。而して國家として是非とも用ひられざる可らざる重要の能臣であつたことも、之れにて亦好く窺はるゝ。
 從來小栗の傅を書ける人の中に、小栗は豪頑不屈にして、上司や俗人や配下に憎まれ、其が爲に、非凡なる能者を以てしして、尚一生を旗本にて終り、老中又は若年寄に進み得ざりしが如くに批判するものがあるけれども、斯る人は「旗本」と云ふ徳川時代の國法上の地位を理解せざる人と云へる。幕府時代の國法としては、旗本は旗本として存在し、大名は大名としで存在するのが、徳川幕府の秩序正しき、且巧妙なる獨創的の制度であつた。旗本は、其石高としては、一萬石以下の身分の直參であり、大名とは一萬以上の身分の直參、即ち藩主其人であつた。併し乍ら、一萬石以上の錄高あるが故に國家の政洽上の地位必ずしも尊しと云ふのではなかつた。縦令外様大名が、百萬石を領すとも、或は七十萬石を領すも、外様は唯片田舎一地方の權力者たるに過きずして、國家の中央には何等の權力も有しないのであつた。即ち地方的權力ある一武人たるに過ぎなかつた。之れ富時の制度であつた。併し乍ら、旗本に至りては、之と全く異なり.其錄高の如何に拘はらず、人物により.家筋により、其官職に頗る重要なるものがあり、其官職の如何によつては、國家中央政府の國政上の行政長官であつた。例へば幕府の殿中即ち大奥向としては「側用取次」の如き、幕政即ち表の國政向としては「勘定奉行勝手方」の如きは、旗本の官職としでは、最も高き地位であり、此地位に在るものは、當時の國法上、總て重要の國務に干與する大官であつた。如何なる高錄の地方大名をも。眼下に見下し得た程である。地方の小き大名の如き、勿論其比にあらず、小栗上野介は、此等の高き職務に屡々就いたのである。即ち屡々重用せられ、幕府の爲めに是非とも無くてはならぬと認められた人物であつたのである。世俗の誤りを茲に匡して置く。

【參照】
 今日の一千戸の華族中には、二百六十の舊大名がある。一萬石以上を領したる此等大名は、例外なく、悉く今日にては、子爵以上である。旗本の中でも、例外的に二三軒の「子」と[男]とがある。「生駒」や「喜連川」の如きは、夫れである。其他は如何たる名家でも、國家の功臣の家でも、明洽以後は、普通の士族となされたのであつた。

 123-127頁
  小栗上野介と當時の名士との對照 (目次)

 明洽初年以來、今日に至る迄既に六十年、其間、勝てる薩長及其一派の自己宣傅や、之れに阿附せる俗流文士の輩が、勝利者本位の人物評に付ては、國民は既に聞き鮑きつゝある。余は日本國民本位に立ちて、小栗上野介と常時の名士若干人とを對照しね何れが果たして政治家として文化の貢献者なるやを公正に論評し見る。
 維新當時より世に活動せられたる某顯官あり、薩長側に近き長老であつたが、此人或時余に談つて云はるゝに、
 「維新當時、幕府方と反對側との兩方面に於いて、執れに最も優秀の人物多かりしかと云つたならば、公平の評として、幕府の方に優逸の人物が比較的多く居つたと云はざるを得ない。例へば、官軍方の財政通と云へば、越前の由利公正であつた。併し乍ら財政家としては、小栗上野介には此人及び可くもない。但し詩や文には由利は秀でゝ居る。又陸軍通と云へば、長州の大村益次郎であつた。併し乍ら、此人も亦小栗には及ぶ可くもない。又海軍通と云へば、土佐の坂本龍馬であつた。併し乍ら、此人は到底本武揚には匹敵す可くもない。之れ公平の見方である。然れども、徳川方は敗北した。之は時勢と云ふものである」と。
 右の評は、面白く余には聞かれた。世間の識者も亦、同樣の感を爲すことであらう。
 博士三宅雪嶺は、小栗を以て「當時好く比肩するものなし」と批判せられ、勝以上の人物と目し、「其他は及ぶ可らす」と斷定して居らるる。左に其諭旨の全部を引用する。(藤澤衛彦著『閣老安藤對馬守』序文)
 「(前略)井伊掃部頭の横死は、當時の志士が局面是より變すと言へりし所、事の由來は暫く措き、徳川氏二百數十年の治平術に大なる罅隙を生じ、何等か變改を敢てするの已むを得ざるを見たり。變改の衝に當れる者に、三人の傑出せるあり、一は安藤對馬守信正、二に小栗豐後守忠順、三は勝安房紙守義邦なり。安藤は如何にしてか國内を統一し、以て競ひ來れる列強に當らんとし、爲し得る限りを爲したれど、多年の慣例は急に改まらず、親藩譜代外樣と錯綜せるは、閣老に對し幾多姑小姑の如く、啻に鬼千匹のみならず、無難に經過せば尋常の事とし、故障の起れば喧々囂々頻りに之を咎む。斯かる場合に無事を冀ふは徒らに禍患を遷延するに止まる。安藤は胸に成算ありたらんも、退職を餘儀なくせらたる後、小栗の如く幕府に權力を集めて諸藩を壓伏するか、將た勝の如く若干の強藩を衛護とし朝廷に權力を集むるか、相反せる二事の一を擇ばざる能はず。種々の事情の促すところ、遂に略ぼ勝の豫定せしが如く爲れるが、謂ゆる勝てば官軍負くれば賊、官軍が九天に昇るの勢いあるの反面、其の反對者は九地に落ちざるを得ず。新興強藩の關係者が小功小勞ををも賞せらるゝに、舊幕府に屬する者は盡く劣敗者とし擯斥せらる。舊幕出身にて推重せらるゝは、勝、大久保、榎本、大島等にして、皆新強藩に從ひ、又は始め反して後に從ひ、謂はゞ外様によりて名を成せるなり。而も是等の徒は才略及び膽力に於て能く小栗に拮抗すべきか。勝は幾許か相ひ當るも、他は甚だ覺束なく、恐らく鷹と鳶との比例なり。一或は小栗を以て大隈伯に酷似すとし、或は一層有力とするが、そはともあれ、當時能く比肩する無く、而して現に少しも聞えざるは主として官軍に殺されしに由る。安藤は小栗及び勝を合せる如き位置に居り、事の矛盾性なるだけ、施設の極めて困難なりしも、二年間の執務を稽ふれば、困難に堪ふるの資格を備へしとすべく、唯強藩に屈せんとせざりしが爲め、小栗同じく湮滅に歸す。(中略)勝は新強藩の代表者なる西郷に「智慧の程測り知るべからず」と言はれしが、若し小栗をして勢に乘ずるを得せしめば、爲す所勝の如きに止まらず、或は遠く其上に出でたるべく、而して安藤小栗及び勝を幕末の三傑とせば、安藤は少くも門地に於て第一に居り、優に幕末を代表すべし。然るに今日誰か幕末の豪傑に安藤あるを知るぞ。政府は維新史料編纂局を設けしが、史實の公平を得るやは聊か疑ふべく、公平を念とするも、既に先入の主と爲れる無きや。順序よりせば、徳川氏の宗家及び三家三卿並に縁故の深き譜代に於て別に編纂局を設け、幕末に盡力し、湮滅して聞えざる者を顯はすべき筈ながら、現に元勲といふの生存しては、多少憚る所なきを得ず、急に之を望むも益なし。澁澤男は慶喜公の傳を編纂しつゝあるが、是れ公の恩誼を感ぜるに出で、公自らの立場としては、一身を明かにするよりも湮滅せる舊幕臣を顯彰するを當然とせん。
 さもあれ、此處に閣老安藤對馬守傳の出づ、何ぞ唯史實の缺陥を補ふのみならんや。
 大正二年十月 雪嶺迂人

 勝海舟は、明治時代に至り、小栗を目して、[眼中唯徳川氏あるのみにして大局達觀の明なし」と嘲つたのであつたが、勝の如くに、敵手たる薩人のみを信頼したる他力木位の才人より見たならば、小栗は斯く評價せられざるを得ぬであらう。併し乍ら、三宅博士の如くに、小栗と勝を比較し、小栗を優れりと見る識者も世には多かるべし。蓋し之れ高所大局より、公正に二人物を觀ての正評と云ふべきであらう。流石に三宅博士は、凡庸の文土に一頭地を抜いて居らるゝ。

 128-133頁
 小栗の作戰計畫に驚嘆したる大村益次郎 (目次)

 小栗上野介が主張したる東上せる薩長軍要撃の軍略は、何人が考へても、必勝的のものであり、若しも之れが行はれたならば、薩長人の天下取は一朝にして夢と消え、日本國は小栗の兼ての考察によりて、直ちに郡縣制となり、天皇の御親政の下に、世界の大勢に適應する昭代の輝きたりしことは、蓋し疑は有り得まい。其れだけに彼れ小栗は、薩長公卿等より畏怖せられて、罪もなき無理無體に斬殺せられたのであつたが、彼の作戰計畫に關して、長藩の大村益次郎が、上野彰義隊の戰爭の濟みし後に、同輩どもに物語つた左の事實を以て見ても、其の如何に確實の案なりしかと云ふことが分かるのである。此の事實は菴原鉚次郎及木村知治の共著「土方伯」第三百九十八頁より第四百二頁迄に記されてある(此書は特に土方伯の爲めに編めるものであり土方伯の承認したりしものである)。
 江藤新平が當時之れを聞きて、小栗が其妙案の即時斷行を爲さヾりしを迂闊なりと誹りしは、流石に敏捷なる人の意見として、面白い點ではあるけれども、小栗は將軍自身ではないのであり、慶喜將軍時代の政治は、小栗の思ふ通りに一寸手輕に行くものでなかりし事情を考慮し見れば、江藤の誹謗も「一時の負け惜しみ的弄言」として唯面白く聴かるるに過ぎざるものなるを解すべきであらう。兎に角江藤の負け惜しみ的冷罵を聞くよりも大村の正直なる告白を聞いた方が、小栗の人物判斷の上には一層興味のあるのを覺へるのである。
 左に其文を敵記する。
 「上野戰爭後大村益次郎や江藤新平なぞと云ふ参謀軍監が集つて、いろいろの話をして居ると、大村が論じて云ふには、幕府で若し小栗豐後守(忠順初め豐後守後上野介)の献策を用ひて、實地にやつたならば、我々は幾んど生命がなかつたであらう。夫れは何故であるか云ふに、官軍が東に向つて來ると云ふ事になつてから、柳營で一日大評議があつた。其時小栗豐後守の献策は、此度有栖川宮が大總督となつて、關東御征伐と云ふことに決したと云ふことであるが、併し、其率ゆる所の兵員は僅に三萬人を越すまい、依つて凾嶺の關門を開いて江戸に官軍を入れて仕舞ひ、其上で凾嶺を閉ざし、又東山道の方面は木曽路を塞いで悉く官軍を江戸に入れ置いて戰へば、鏖殺にして終ふことは容易である。然して軍艦の一半を以つて駿河を扼し、他の一半を以て攝海を衝く。さすれば關東の諸侯は大抵徳川家の味方になるであらう。此度の事を關ケ原の役と見れば、關西にも譜代大名もあれば、親藩もある。又外樣大名の中でも幕府に志を寄せて居るものも絶無ではない。依つて此擧を以て徳川家恢復の途も立つであらうからと云ふことで、其日の評議が一決し、小栗豐後守の策略に依つて實行することになつて、一同下城した終つた。所が夜が明くると、僅々一夜の内に其議が反復して仕舞ひ、小栗派竝に是れに加擔したものは、遂に役儀まで免ぜられて仕舞つたが、如何にも敵ながら氣の毒な次第であつたと云ふと、此の聲に應じて、江藤が云ふには、小栗はさう云ふ間抜けだからいかぬと云ふ、何が間抜けだと反駁する、其所で江藤が云ふには、議論が一決したからと云つて下城して安々寢る樣な間抜けだから、反復されるのも當然のことである。この危急存亡の場合に、呑氣な考へを持つてはいかぬ。議が一決したらならば、其所で直ちに部署を定め、誰は難の兵隊を以て、何方に當れと云ふ部署を定めてしまつて、直ぐに發表せねばならぬ。夫れをボンヤリ歸つて安閑と寢るといふやうな間抜けでは、到底出來やう筈がない、と云つたので、中々話が面白かつたと云ふことであり、江藤のこの話を聞いたものは、皆一同に江藤の機敏に感じたと云ふことである」

 此の史實は國民に何を談るや (目次)

 薩長方の唯一の軍略家であつた大村は流石に偉い所があり、公正に見て敵乍ら小栗の作戰計畫には驚嘆したのであつた。「小栗は大村に勝る」と識者の評あるは、之れにても判明する。若し小栗の言にして、慶喜の用ゆる所となつたならば如何であつたらう。
 一徳川慶喜としても、薩長人に降服するの屈辱なく、一徳川慶喜としても維新の大功臣たる名誉を完ふして「大政奉還」の終を美事に結ぶを得たのであり、又世界の大勢上不必要なりし封建の制度は、小栗の持論の如くに、直ちに廢止せられて、明治四年の後までも、日本に時代遅れの封建制度が存續することなく、日本國民は、慶應四年の初めより、早く世界の大勢に順應し、早く文化に浴し、早く郡縣制の聖代を楽しみ得たであらう。王政復古の回天的大業は、慶喜の大政奉還を以て前年十月十四日を以て、完全に成つたのである。慶應四年に至り、故更に亂を挑發したりし、薩長の勝ちし爲に「王政復古」初めて生じたのでは斷じてないのであること、之れ明白の事實なるが故に、小栗の意見にして用ひられしならば、國家の爲にも、裨益甚大なりしは蓋し云ふ迄もなかるべし。
 又若し小栗の言用ひられしならば、之れが爲めに、東北の悲惨なる内亂も起らず、之れが爲めに、國民の五十年に亙りて非難し怨嗟したる「薩閥政府」も生ずることなく、之れが爲めに、佐賀の亂や萩の亂や、西郷の起せる内亂も全く生ずることなかりしこと明白の理である。小栗一人の死と生との爲めに、此の重大なる結果の成否が生じたのであつたと云へる。薩長を本位となすものより見れば、小栗の意見行はれざりしは薩長の天下を作るが爲めに何よりの好都合であつたりしが故に、小栗の意見用ひられざりしを歡喜祝賀し、却つて勝等の薩長の爲めに都合好かりし軟論を賞揚し、色々と自分勝手の理屈も附けるのであらうけれども、今日の時代より冷静に六十年前を判斷し、何れが日本國民文化の爲めに、擇まる可きものなりしかを考慮することも,亦興味ある問題である。

 133-137頁
 小栗上野介と西郷吉之助 (目次)

 勝と西郷とを幕末の二大人物として、比較する人は由來好くある。勝自身も亦「當時の英雄は勝西郷のみと」と云つた風の態度を世人に示したものであり、大いに西郷を賞めそやし、古今無變の英雄也と謳歌し、之れと共に、自己の價値を高面と努めたこと歴々である。併し乍ら、三宅博士の公評せるが如く小栗は勝に勝る人物である。然らば、小栗と西郷とを對比するのは、又面白き對照でなければならぬ。
 小栗は反逆人として官軍に斬殺せられた。西郷は反逆人として官軍の彈丸に斃れた。前者には反逆人たる何等の證跡なかりしも、後者には立派に反逆人たる擧兵があつた。然も後者は死後神として祭られ、前者は永遠に反逆者として寒村に葬られつゝある。是れ實に勝者と敗者との差異であるのを見て、人生に疑生し、人事に悲哀の念なきをを得まい。
 小栗は外交及び財政の二重要務に通じ、實際に國家の行政長官として幕末多事の九年間、其衝に當りて、當時無比の事蹟を擧げた人である。西郷は外交財政に通じたりしことを未だ曾て聞きしことなく、此點には比較すべき程の何者も遺されて居ない。反つて西郷は慶應四年三月十三日、其の参謀を横濱に特派して、既に中立を宣言せる英公使パークスに向かつて、戰争に由る死傷者救助の助力を得んことを請ひ、英公使より中立の故を以て即時拒絶せられたる事あるを見れば、西郷は外交を理解する人物と云ふを得ない。又西郷は「金札發行は朝廷の命也從はざるものは斬つて捨つべし」(米山梅吉著『銀行行餘錄』第十三頁)と放言せし所を見れば、紙幣に關する信用の何者たるを理解せず、唯だ權力と腕力とを信ぜし人なることが好く判明し、財政の事なぞは全く理解せざりし人なりと云へる。
 小栗の死は悲壯であり、英雄らしき終りを遂げた。西郷は官軍の彈丸に撃たれ、其部下より首を刎ねられたのであつたが、其の死に際の美しかりしことを聞きしことなし。
 小栗は國家國民の爲めに軍政に付て盡瘁し、彼の創始せし佛國式陸軍は、後世に殘されて今日に榮へつゝある。西郷は陸軍大將の高地位に迄昇つた人であつたけれども、特に軍事に付て、後世に遺されたる意見又は事業と云ふものは一も見られない。西郷は十年の反亂には、日本國民を敵とし、多くの日本人民を殺し、四千萬圓の國帑を費消せしめたのであり、終始一貫して國家國民の爲めに盡せりと云ふを何人も憚らざるを得ない缺點がある。
 小栗は權謀術數を弄せしことなく、恪勤精勵、萬事直情徑行であつた。之れが爲めに必然に小人輩に憎まれた。小栗は人を觀るの明を有せしも、人を籠絡するの術を弄せず、唯だ國家を念とし所信を斷行するのみであつた。西郷は偉大なる權謀家であつた。大膽不敵にして、而して大度であつた。西郷は部下を籠蓋するの心術を超凡的に心得て居つた。變に處して機變縦横の大略を有して居つた。
 小栗は禪學や陽明學を學ばなかつた。併し經濟、財政、軍事、外交等を學んだ。小栗は詩文を弄ばなかつた。西郷は陽明學を學びたることあり、禪も稍や心得た。詩文も作つた。但し學者と云ふ程の人でなかつた。西郷は人生觀としては往々味ある言辭を世に遺して居る。小栗は斯る閑文字なし。之れ及ばざる點である。
 小栗は開國論争者中の第一人者と云ふ可き人であり、世界の大勢に順應し日本を郡縣制度に改めざる可らずと主張したる先覺者であつた。西郷には斯る大勢達觀的意見のありしことを聞かない。  小栗は亂世に處しても、立派に功業を建て得る偉人であり、治世に處しても、第一流の政治家たるを得、軍將としても、十二分に能力ある人であつた。西郷は亂世の英雄たるは確かであり、凡人の追随を允さなかつたが、軍政家又は軍略家たるの能力ありしを聞きしことなく、治世の政治家たることは、不可能の如くであつた。
 西郷は薩藩人をして日本の南隅より中原に活躍せしめ、日本の天下を取らしむるが爲には、唯一にして無二の働を爲した一大人物である。此人なかりしならば、慶應四年以後の天下は、薩人長人のものでは斷じてなかつた。當時の同黨としては此人を尊崇し、無二の偉人と賞讃せるは、確かに郷黨心として尤も也と云へる。併し乍ら、廣く日本國民としての公正なる立場より、今日に於いて冷静に史論として之れを論ずれば、此人には「古今無双の英雄」と云ふ程の事跡はない。又此人なかりしからとて、日本民族の文化發展には大なる影響はない。又此人無かりしからとて、王政復古は世界の大勢と慶喜の至誠を以て立派に成就した。此人無かりしならば、維新後の騒擾反亂は決して生ずることは無かつた。史實は我等に斯く談る。
 共に一代の人物である。問題は何れが優秀の人物であるかに在る。史上の人物として取扱ひ、公正無私に其の心實及事功を論評するは、今日以後に於て必要となすべく、而して又國民文化史上興味ある問題である。

 137-142頁
 小栗上野介と勝海舟 (目次)

 勝海舟に至つては然らば如何、彼れは外交軍事財政の實績に付いて、小栗上野介と比すべくもない。勝は小栗に比較し得る程の要地に立なかつた。彼は自己宣傳や、世渡りや、詩文に於いては、小栗に遙かに勝つて居つた。併し乍ら、勝海舟、小栗上野介の如き熱烈なる忠誠心を有して居なかつた。彼は公然敵たりし薩長の信友であり、斯く當時の味方の衆目より悉く見られて居つた。徳川政府の内事は、彼によりて總て敵方に洩れると徳川方や會津の人は皆信じて居た。味方より見て、彼は信頼す可き人ではなかつた。徳川慶喜でさへも、實は彼を信ぜし人ではなかつた。之れ慶喜が、後年其の最も信じ且つ最も愛せる近親の人に洩された所である。當時大久保某と云ふ一人の旗本があつた。勝の心事行動を憎み、一日小栗に向かつて曰く「勝は有害な人間である。我は彼を除かんと欲す」と。小栗は默々として其可否に付いて一言するところはなかつた。併し乍ら、突如として此人の腰に差せる大刀を引抜き、其鋭利の切つ尖を静かに眺め「貴殿の刀は好く切れさうだと」と。之れにて此大久保某は、勝を切るの決心を爲し、附狙ひしも,終に果さヾりしとの事であつた。之れ此人が、余の親しめる人に後年談りし所である。勝海舟は、幕末の名士栗本鋤雲よりも、深く憎まれた人であつた。勝海舟は、江戸城引渡に付ては、彼の英才と人格とを以て、敵方の大立物西郷を敬服せしめ、平和裡に江戸城を引渡し、百萬の人民を戰亂より救ひしが如くに、世人よりは六十年來思はれて居るけれども、尾佐竹猛氏の大正十五年十二月發行『幕末外交物語』第二八二頁吉田東伍博士著『維新史八講』第二二九-二三〇頁に記してある所によれば、西郷は當時戰闘を欲したのであり、唯英公使パークスより抗議せられて、之れを思ひ止つたのである。此事既に尾佐竹、吉田兩史家の研究に成る史實によりて明白なるに於ては、勝に此の引渡の件に付て、從来世俗に傳へられたるが如き、偉大なる人格的政治家とも云つた様な大功業はなかりしものと斷じ得る。慶應四年三月十三日勝が西郷に送りし對談希望を申入れし書面は、俗人の賞揚するところであるけれども、論旨明確を缺き、降伏するが如くでもあり、戰ふが如くでもあり、此書を一讀したからとて「戰争ほど面白きものはなし」と云へる西郷なるものが、直ちに敬服し、其攻撃を思ひ止まるが如き程の神妙巧緻の文章とは見経ないのである(此事後に詳記あり)。斯かる事にて、西郷が武力使用の中止を決心するが如き簞純愚直の人物であるならば、前年十二月九日の小御所會議に際し、岩倉を間接に使嗾し、山内容堂の唱へたる正論を懐劍以て脅かさしめんとしたるが如きことあらう筈なく、鳥羽伏見の戰を突如として開始する理由もなし。西郷の從来の權略縦横の超凡的行道を以て判斷すれば、勝の一言に敬服して、江戸城砲撃を中止したるが如きことはあり得可らざることゝ云へる。勝が斯る場合に於て勝として其最善を盡したるは好し。併し乍ら、小栗が成功を確信しての作戰の大方略に比すれば、其武士らしき能力に於て天地の差異があつたと云へる。凡そ士に尊ぶところは氣節に在る。本来恭順せる慶喜を一撃せんとするが如きは、非道暴虐である。從来薩藩を援助し來れる英公使パークスの抗議は理として正しく、之れには流石の西郷も反抗を不利と考へたものでらう。勝海舟は本來が徳川氏の譜代の臣下の家に生れ來りし人にあらずして、其の三代前の祖以後に、卑しき士分の株を買ひ得て初めて士に列したり人である。其血は、小栗の如き武士らしき忠烈を以て充ち満ち居らざりしこと、是れ是非もなし。福澤諭吉が「彼に痩せ我慢なし」として明治時代に有名なる「痩せ我慢の説」を公にして、以つて彼を強く攻撃したりしは、學者らしき正しき男らしき大膽の論評である。勝海舟が後年に至り、小栗を目して「唯徳川氏一點張りにして、大局眼なし」と批評せしが如きは、餘りにも身の程知らぬ驕慢である。彼は小栗の主張したる「世を郡縣に改めざる可らず」との主張に對しても、當時は小栗の面前に之れを論爭せずして默々し、小栗死せる後、小栗を冷評して「國家本位の人にあらず」とし、己れ獨リ卓見者でありしかの如くに宣傳するは、是れ蓋し人物の小を示すものである。
 西郷以下の人物と小栗とを比較するなどは、無益なる弄筆である。
 小栗は大學者にあらず、大英雄にあらず、大聖大徳にあらず。併し乍ら、政府の當局として、熱烈なる事業家であり、重要なる事績を擧げたる經世家であり、世界の大局を達觀せる非凡の人であり、日本の國家國民の安榮を念としたる愛國者であり、意思強く、主張固く、死を怖れず、生を偸まず、私利を營まず、權勢に阿らず、政治家として、軍將として、文治の能吏として、一箇の良民として、信頼するに足るべき一大人物であつたこと疑ふ餘地はない。彼固より、當時の小人輩の批評せしが如き、敵のみあつて味方なき小人物にあらず、人を見るの明なき凡人にあらず、私利を圖れる小人にあらず、西洋かぶれのハイカラにあらず、世と推移する俗物にあらず、斯る一大人物に對して、文士中往々「時代を解せざる偏見者」の如く批評するものあるは、薩長本位の不謹慎なる批評を爲すの徒と云ふべきである。
 新撰組の勇士近藤勇も、慶應四年四月二十五日、板橋にて官軍に捕へられ、官軍の手に斬られた。而して彼の首は遠く京都に迄送られて、梟首せられた。「之れ私怨を報いたる一例として」當代の先覺山川健次郎博士は、昭和二年六月に出版せられたる『永倉新八傳』の序文に正論直議して居らるゝ。近藤に付いては、慶喜恭順以後、勝海舟より軍用金を得微力の抵抗ではあつたけれども、甲州に於て官軍と戰つたのであつた。之れ罪せらるべきものであつた。夫れにしても、態々曾て近藤活躍せる任地京都に其首級を送りての梟首は、天地の公道に基ける王師の爲すべき所にあらざるべし。之に付いては、其方面の官軍参謀香川敬三等の私怨的行爲を山川博士に追随して責めざるを得ぬ。況んや人物遙かに優り、國家の要地に居り、現實に國家に功勞あり、何等の罪跡も反抗もなかりし良民、小栗上野介父子と其臣下六人を梟首せる輩と其命令者とに至つては、正義人道の上より見て、其罪や斷じて許さる可からずと裁判して然るべし。法律には時効あれども、國民的制裁には、時効と云ふものなし矣。

 142-156頁
 十一 小栗上野介の人物と性格 (目次)

 小栗上野介は、二千五百石を領したる由緒正しき旗本の家にまれた。即ち立派な身分を産まれ乍らに有して居った人である。旗本と一藩の侍とは、當時は家格が違つて居つた。直參と陪臣との差があつたのである。小栗は江戸にて産れ、江戸にて育ち、江戸にて文武を學び、生活上の苦心なぞは絶對になく、樂々と生ひ立ちし人であつた。夫れ故に、身を細民より起した立志傳的の人では勿論なく、貧しき侍より成りて上つたと云ふ立身者でもなかつた。從つて其幼時の立身傅的苦心奮闘談なぞは。あり得やう筈がなく。其小年時の事に付いては、何等特筆すべき事も知られて居ないのである。
 彼に付いて、從来世間又は近親朋友の間忙知られつゝある事實を左に紹介し、彼の人となりを知るの一端に供する。

 (一)小栗の少年時代と其大人らしき態度 (目次)

 小栗上野介の夫人は前述せるか如く、錄高一萬石の小大名幡州林田の藩主、建部内匠頭の女であり、此建部家は、日本武尊の直系として名家であり、當時の藩主政醇は、賢明なる藩主あつたが、此建部家に折々小栗上野介は、機嫌奉伺として行かれた事がある。其當時の事を、其舊藩士等が、余の少年時代、余に談りし事があつたが、彼等曰く、
 「小栗上野介は、年僅かに十四歳の頃であつたが、初めて建部家の客となりて来邱せられし折、恰も其擧動全然大人の如く、言語明晰、音吐朗々堂々としで既に巨人の風あり、未だ十四の少年にてあり乍ら、煙草を燻らし、煙草盆を強く叩き立てつゝ一問一答建部政醇藩主と應答し、人皆其高慢に驚き乍ら、後世には如何なる人物となられるであらうかと噂し合つた」と。
 小栗上野介は、小供の時より頗る高慢であり、非凡なりし事が之れを以つで能く窺はれる。

 (二) 小栗は駿馬を馭するを好む (目次)

 蜷川相模守と云ふ一旗本の家は、當時神田區錦町にあり、小栗上野介の家は駿河臺にあつた。小栗上野介は、毎朝登城する度毎に、必ず蜷川家の家臣共の居住する所謂侍長屋の前を通過するを例とした。蜷川家の舊臣たりし森山休平と云ふ學術識見優れたる一老人があつたが、余の幼時此の老人余に談つて曰く、
 「小栗上野介登城は、普通人の如くに輿に依らずして、常に乗馬であつた。而して小栗上野介の登城せらるゝ折には、假令家の中に潜みつゝあつても「之れは小栗殿の登城也」と云ふ事が、其馬の足音にて能く判断し得られた。蓋し小粟上野介は、必ず駿馬に跨り行くを例とし、其馬蹄の響きが、他の馬の夫れとは全く違つて居たからである」と。
 小栗が如何に武人らしき豪邁の気風の人であつたかが、之にて能く分る。

 (三) 小栗は風流を好まず (目次)

 小栗上野は、一日朝比奈閑水と云ふ當時其名の聞へた外國奉行役を勤めた一旗本等と共に、遊船にて墨堤の櫻花を見物に行つたことがある。小栗は朝比奈に誘はれたのである。此時小栗は、櫻も酒も美人も全く眼中に入れずして、唯曰く、
 「彼の川の瀬は、水利上の利害は如何であらう。又彼の堰は、今少しく高くせぱ有利ではあるまいか、或は低くせば更に好いではなかろうか。彼方の水田此方の水利は、民生の爲に、善悪可否如何であらう」云々と。
 小栗は斯く國民經濟に關する事のみを云ひくらし、全然人民の利幅を基脚とせる事のみを論じ來たり論じ去り、身は櫻花妍を爭ふの下にありて、花見の客であるなぞは、全然忘れ居りしと云ふことである。彼は斯くの如くに俗物ではなかつた。

 (四) 小栗の書畫に關する意見 (目次)

 小栗は書畫を愛好した。併し乍ら古人の手に成りしものを藏するを好まずして、常に云ふには、
 「宋と云ひ明と云ふも、畢竟鑑定家の憶測に過ぎないのであり、何人も之を現地現代に目撃せしにはあらず、斯くの如き眞偽不明のものを無上に愛好するなぞ不見識の至りである」と。
 彼の書畫觀は斯くの如くであつた。而して彼は當時の名匠大家をして、其面前に於て揮毫せしめ、其眞物なるを知つて始めて之を珍藏したとのことである。(塚越氏著『讀史餘錄』百六十五頁)

 (五) 小栗と文藝學術 (目次)

 小栗は武技漢學を修め、財政經濟の書を學び、分析、機械等の事をも研究せし先學的の人であつた。彼は當時一般に流行したる禪學や陽明學を味つたり、偉そうな事を人に談つたり、書冊に書いたり、又は詩文の閑文字に耽ることなぞは殆んどしなかつた。

 (六) 小栗と財産 (目次)

 小栗は、恪勤清廉の士であつた。意に満たざれば、直ちに其の職を辭したる人であつた。権田村には二三千兩の家柄上何人も所持したる金を持ち行きしに過ぎずして、莫大の公金を藏せしなぞは、全然嘘であり、其殺害せられし後、彼の住める寺には、拜領の黄金二枚殘りありしのみなりとの事である。赤城山に三百五十萬兩を埋めしなぞの話は、信じ難き風説である。

 (七) 斬首直前の小栗の心掛 (目次)

 小栗は、其斬に處せられんとする折、當時の官軍の人々は。死刑の徒に與ふる方式として、食膳に三片の交肴を添へで提出した。然るに彼は之に手を觸れなかつたとのことである。蓋し斬首の折に、若しも喉口に飯粒だもあらば、武士の不名譽也と思ひしが爲めなりとと傅へられて居る。彼は武士らしき注意探き人であつた。

 (八) 從容死に就ける小栗の武士らしき最後 (目次)

 小栗は何等の罪跡なかりしも、村民を救ふの仁愛心より犠牲となり、官軍の名もなき吏員等より、何んの宣告もなくして、殺害せらるゝに臨み、神色自若、何等怖れず、憶せず、又何人をも怨みず、從容として其首を刎ねられたのであつた。之れクリストの如き、日連の如き大悟の聖人にして、初めて爲し得る態度に酷似する。彼は、當時の所謂志士の如くに、陽明通禪學通の賣名や、詩文を以てせる決死の宜傅なぞは少しもせざりし人なるも、其修養は立派に出來て居つた人なることが、之れにて分かる。

 (九) 小栗は不可能と云ふことを知らず (目次)

 明治の文壇に榮えし、文人文豪福地源一郎は、舊幕府時代に小栗の配下に在りし人であつたが、此人『幕末政洽家』なる著書の中に記しで曰く、
 「小栗は敢て不可能の詞を吐きたる事なく、病の癒ゆ可らざを知りて藥せざるは孝子の所為に非ず、國亡び身斃るゝ迄は公事に鞅掌するこそ、眞の武士なれと云ひて、屈せず、撓まず、幕府の維持を以て、進みて己が負擔となせり」と。
 小栗の責任觀念の強かりしことや、彼が其事へたる政府の爲めに、忠節無二の武士なりしことや、彼が奈翁の如くに總てに可能を信じ、意思強固、才略非凡なりし事等、以つて知る可きである。

 (十) 小栗の屋敷と土方久元 (目次)

 小栗上野介の屋敷は、神田駿河臺にあつた。維新以後旗本の屋敷は總で取り上げられたものであり、小栗の家屋敷は、土佐の土方久元の占餌するところとたつたが、此の屋敷の中に、小栗上野介は、米國にて體驗せし所に從ひ、江戸の最初にして江戸唯一の石造洋館を建てたのであつた。即ち東京としては、洋館住居の第一人者は、確かに小栗上野介であつたのである。両白き話である。
 彼は、政治、經濟、財政、外交等の國務に付て、日本0改造者であつたのみならず、彼は生活問題に付ても、改造者であつた。彼を目して、日本改造の先覺となすも、過言ではなく、誇張ではなく、正しき判決である。

 (十一) 小栗と新聞發行の意見上申 (目次)

 小栗は又新聞發行の必要を幕府に建議した第一人者であつた。『日本新聞發達史』第三五頁に左の記事がある。
 「小栗は當時福沢諭吉をして、新聞を發行せしむる計畫であつたが、幕府内之れに耳を傾くるものなく、遂に其意を達し得なかつた。慶應三年幕府倒るゝに及び、小栗は、若し新聞紙あつて、公武の秘密、官民の内情曝露せられたりしならば、事此所に及ばなかつたであらうと云つたとの事である」
 新聞に關しても、小栗は日本に於ける最初の着眼者であつたこと、右の如くである。當時長藩は、自己宜傅に苦心したりしこと、長岡清治著『舊夢白虎隊』に詳しく記してあるが如く、薩藩は天下取りの陰謀に苦心惨憺たる有樣であつたが、一般に徳川方は、殿樣式たるを免れずして、上品に率直に其途を進んだものであつた。殿樣と浪人との差は免れざりしも、小栗自身には、薩長人以上に進んだる主張計重ありしは明かである。

 (十二) 開國論者としての小栗 (目次)

 小栗上野介は、砲術を田村主計と云ふ人に付て學んだのであつたが、主計の弟子に、結城啓之助と云三ふ「與力」がおつた。此人蘭學に通じ、夙に開國Oの説を唱へた。小栗は青年時代、身分の上下はありしも、此人と意氣投合し、常に議論を上下したが、或時慨然として云ふには、「幕府三檣の大船を造るを禁じたりしが故に、國内の新舶は一も用ひるに足るものなし。之れ國家の長計でない。宜しく三檣の大船を造り、自我交易し、彼我を利す可し。然らざれば、國力何時の日か進展するを得んや」と。彼が斯く云ひし時代には、未だ國家は無事にして、海防警衛の事もなかつた時代なりしに拘はらず、彼の識見は、既に斯くも俗人を抜いて居つたのである。彼と頑迷なる攘夷論者とは、初めより比較し得可らざる差違があつたのである。彼の主張は、國家本位であり、民族の安榮を基となすものであつた。神州を口にし、盲斷を敢てし、唯だ感情を以つて「夷狄々々}と叫び狂へる盲斷の徒とは、天壌的の差異があつたのである。(塚本松之助氏漢文『小栗忠順傅』參照)

 (十三) 小栗と國粋保全論 (目次)

 小栗上野介は、漢方醫の淺田粟園と友人であつたが、小粟は或日栗園に向つて云ふには「余は歐米の長所は、其苟も利用厚生に供し得るものであるならば、一として之れを取り入れざるものはなし。併し乍ら、我國の衣食住は、自ら歐米と異つたる所がある。除外なく彼等の事物を日本に取り入れたならば、必ずや弊害生ずる。醫術の如きは即ち其最も然るものである」と。之れに由て觀ても、小栗の識見は、明治政府時代の何人よりも一段優つて居つたことが分る。独逸に於ても、米國に於ても、日本の漢方醫書をはるばる日本に來つて聚集し、本國に持ち去つて之れを研究し、大いに日本の旧式醫術を取り入れ、各々其國の人民の爲めに利益しつゝあるのであつて、今日にては、最早日本には、古への醫術に關する良書全くなしと云ふが如き有樣であり、「東洋醫道會」さへも、新に生るゝに至つたのである。明治初代の政治家や役人等は、小栗に對し、果して何んの面目あつてか、其の靈に對することが出來るであらうか。(塚水松之助氏の漢文『小栗忠順傅』参照)

 (十四) 小栗と財界巨人三野村利左衛門の擢用 (目次)

 三野村利左衛門と云ふ人かあつた。擔氣才幹人に優れて居つたが、不遇にして志を得ず油を小賣して貧しき生活を立てゝに居つた。此人小栗家に出入しつゝある間に、其人物は小栗上野の眼識に留つて、上野介は此人を其家の用人となした。三野村は之れより上野介に近侍して、上野介の理財の方法を見習ひ、大いに悟る所があつた。小栗上野介戸を去つて後、三野村は三井家に聘せられ、三井の家を起して、數千萬圓の富を新に作らしめた。常に人に向つて謂つて曰ふには、「若し先主小栗をして今日にあらしめ、財政の要路に立たしめたならば、國家の財政を利益したること測り知る可からざるものがあつたであらう。余の爲す所の如きは、先主より之れを見れば、兒戯に過ぎざるのみ」と。(塚本氏『小栗傳』)
 三野村の如き一大理財家は、明治時代の日本にも稀なるものであつたが、此人は小栗の眼識に照らされて小栗家の用人に擢用せられ、小栗の智能によりて啓發せられ、理財を學んだ人なのであつた。此人が後年に至り、小栗夫人と其遺子國子とを救ひで永く其邸内に養ひたりしは、流石に舊恩を忘れざる行爲であり、一つの美談である。偉人は蓋し偉人を知る。小栗は剛腹にして人を容れずと罵る人が往々あるけれども、小栗の眼に映じたる世の偉人は、必ず用ひられた事實あり、三野村の如きは即ち其一例である。權田村地方の人が、今日尚小栗を敬慕する事實に接しても、小栗上野介は、正しき人や、物の分つた人や、配下の人々より敬迎せられたる人物なることが好く分る。(塚本氏漢文『小栗忠順傳』参照)

 (十五) 小栗上野介の剛直 (目次)

 慶喜未だ將軍となられざる時、當時の幕府の老中は、京都の攘夷論者への人望取りの一種の政策に基き、攝津、河内、和泉、播磨の學半を以つて慶喜に與へ、京都を守護せしめんことを計畫したのであつた。此時小栗上野介は、此策を不可也とし、大いに老中等と争ふた。其爭は、個人の利害の爲めより打算せられたのでは勿論なく、國家本位の大局的主張に基く爭いであつた。曰く「水戸侯は攘夷を唱ふること久しいものである。慶喜公若し京都に上られたならば、攘夷の説は京都に於て益々勢を得、事は危機を孕むや必然である。斷じて慶喜公を以つて、京都守護職となす可らず。若し幕府にして、此事を斷行せんとせらるゝならば、先づ拙者忠順゜の此首を刎ねられ豫よ」と。小栗の主長は、一點の私利私心に出たるにあらずして、「攘夷は國を亡ぼすもの」なるを憂へての「國民的忠言」をあつた。當時の攘夷論者から之れを見たならば、自己の陰謀計策を阻碍するものとして、定めし小栗を憎んだことであつたらう。けれども、そは全く個人の私心である。我等は國民として天下の大道に立ち、事實を正觀して正論を下すことが史論として大切なるを信ずる。栗本鋤雲の言に由れば、小栗は此の事ありしが爲めに、「若年寄」の職に昇るに至り得ざりし也と云ふ。小栗上野介は、慶喜と國家的思想初めより遠かり、慶喜に用ひられ得ざりしは事實であつた。永岡清治近著『舊夢白虎隊』中にも、「若し當時小栗上州をして上國に在らしめたならば、内府をして其機を失はしむるが如きことは萬なかるべしとなり」との言があるが、事實を仔細に知れる多くの人は、小栗の人物を偉也とし、斯く論ぜざるを得ぬのである。慶喜が理義明白なる小栗の建言を容れず、小栗の人物に信頼せられさせりしは、初めよりの感情的行違いありしとは云へ、國家國民の文化促進の爲めに惜しむべきことであつた。但し薩長方の天下取成功の爲めには、小栗の排けられしことは、何よりの仕合せと云ふ可きであつた。薩長の成功は、慶喜の助けたる所なりとも云ひ得る。

 157-172頁
 十二 小栗上野介の銅像建設及横須賀海軍工廠の小栗の功績に關する國家的公正なる聲明及御内帑金の下賜 (目次)

 大正四年、横須貿に於て、其造船所開設五十年の祝賀會が催された。此際同工廠の名を以つて、「横須賀海軍船廠創設の由來及其發達の梗概」と題する聲明書が發せられたが、其中に左の記事がある。
 「ウェルニーガ、就任以來正ニ十年、其間終始一貫能ク其職に盡瘁創業ノ功ヲ完ウシ、船廠經營ノ基礎ヲ確立シテ、範ヲ後世ニ貽シタルノ功績ハ、曩キニ小栗上野介ガ極力異論ヲ排シテ、船廠設立ノ議ヲ成立セシメタルノ偉績ト共ニ、應サニ之ヲ不朽ニ傳フベキ所ナリ」
と。之れ洵に公正なる且つ權威ある聲明である。叉小栗の開ける横須賀軍港が國家の爲めに重要なるを論じて曰く、
 「抑モ横須賀ノ地タル、半世紀以前ニ在テハ、實ニ三浦半鳥無名ノ一小蜑里ニ過ギザリシガ、此ニ製戮鐵所ノ經營セラルルヤ、海ニハ艦船輻湊シ、陸ニハ人家櫛比シテ云々。其事跡ハ啻ニ我國造船史上ニ重要ノ關係ヲ有スルノミナラズ、明治維新以後ニ於ケル我海軍發達ノ經路ヲ知ルノ津梁タルヲ以テ、左ニ其創設ノ由來ト爾後五十年間ニ於ケル沿革ノ大要ヲ叙セントス」
 此宣言中、大正の後に至りて、特に「明治以後」のみのことを云ふは、永遠なる日本國家の官衙の聲明としては、妥當でないと云ひ得る。若しも「元治元年以来の日本國家の海軍の根據地なり」と云はれたならば、更に一段公正なる國家的聲明であつたと余は思ふ。元治元年以來、小栗上野介の主たる盡力によりて、此國防並に鐵工業上に關する重要なる根據地は、國家の爲に成立したのである。此事は、同工廠の聲明書中にもある。左の如し。
 「小栗上野介勘定奉行ヲ以テ、海軍所ノ事ヲ兼ネルアリ、夙ニ時勢ヲ洞察シ、海軍ノ大ニ擴張セラレザルベカラザルヲ悟リ、極力異論ヲ排シテ、遂ニ此の議ヲ成立セシメタリ」
と。之れ事實の宣明である。
 明洽の四十五年間、官憲の名に於いて、小栗上野介の功績を認めたる公文書の發せられたるととは一囘だになく、同じ舊幕時代の人にして、明治政府に事へたる勝海舟の如きは前述の如くに、明治時代に至りて彼を非難し、彼の功を賞揚せず、又彼れの無罪を辯ぜす而して徳川方の一味にしても、薩長の勢威に畏怖し、一人として公明正大に、男らしき聲を揚げて、小栗上野介の國家的功勞と無罪とを論述したものはなかつたのであるが、但し舊募府に事へたる福地源一郎、鳥田三邱の二人者は、此事に付て密に種々骨を折られたことはあつた。其後時代は變化し、大正四年となりて、初めて我帝國の海軍工廠は、右の如くに、公明正大の宜言を爲して、小栗の功績の一端を公認するに至つたのである。當時の工廠長黑井中將の如き、公人として大いに小栗の功顯揚の事に盡力せられたる人であつた。其公正無私の態度は、國民として敬服感謝なきを得ない。
 小栗の功勞の一端は、五十年の後に至りて、初めて海軍官憲により公に認められた。而して小栗の胸像は、横須賀の公園に建設せられる事となつた。極めて小型なるものではあるけれども、彼が六十年前、當時の官事方上下通謀の非道残虐なる行爲によりて上州烏川の畔に反逆の大罪人として梟首せられたるに反して、今日の宣言を以て、不朽に傅ふべき國家の功勞者として認められ、横須賀地方の人々より其の胸像は仰ぎ眺められるに至つたのである。之れ人定まり天定まり、正義の聲の天より地に反響せるものと云ふへきである。
 畏れ多くも、小栗の功勞は皇后陛下の御聖聞に達し、銅像の建設費として金二百圓を下賜あらせられ、正義を重んずる者は、御仁徳に感泣したのであつた。
 當時大森皇后宮大夫は、小栗家に來りて、此思召を達せられたのである。
 大森大夫は、當時小栗家の人に談つて曰く、
 「私も過去には、小栗上野介を宜しからぬ人の如くに聞いで居りましたが、取調べの結果として、此人が國家の功臣であることを知り得ました」と。
 大森大夫は、舊幕府関係の人であであり、薩州、長州の人にあらざるも、世人の知る所の如く、長州の先輩に引立てられ立身したる人である。彼は恐らくは、小栗を怨嗟憎悪せる一方の悪評のみを聞きて、兩面よりの説を聞かず、世に好くある所の缺席裁判を以つて、小栗上野介の人となりを判斷して居つたものと見える。世の中には斯ること甚だ多し。之れ世に宜傅に努力する者勝を制し、邪は正を制し、正義の案外世に行はれざる所以である。
 古今を通じ、願くは君子國の稱ある日本の歴史の上には、斯る缺席裁判の行はれて、正しき事實の滅却するに至るが如きことなからんことを。之れ國民として、世道人心の是正の爲めに、歴史の神聖を保つが爲めに、切に祈る所である。辰史は正しき心を以て、事實を正しく記するものたるに於いて、初めて信用の價値がある。

 「參考文献」

 左記は、「横須賀海軍工廠の公文」と「栗本鋤雲の著書」中の一切である。

 一、横須賀海軍船廠創立の由來 (目次)

徳川幕府ノ末外舶ノ我ガ近海ニ出没スルモノ漸ク多キヲ加ヘ遂ニ相踵イデ互市ヲ強請スルニ至レリ是ニ於テ幕府ハ國防ノ一日モ忽ニスベカラザルヲ覺リ旗下ノ士ニ命ジ蘭人ニ就イテ海軍ノ諸科ヲ習得セシメ又外國ヨリ艦船ヲ購入シテ教練警備ノ用ニ供セシガ更ニ自ラ之ヲ製造シテ大ニ海軍ノ擴張ヲ計ラムト欲シ安政四年技師ヲ和蘭ヨリ傭聘シテ始メテ製鐵工場ヲ長崎ニ設ク然レドモ其地僻遠加フルニ規模狭小ニシテ巨船ヲ造ルニ適セズ仍テ別ニ一大船廠ヲ江戸灣ニ創設セムト欲シ有司ヲ會シテ之ヲ議セシム當時國用多端府庫空乏ノ故ヲ以テ之ヲ難ズルモノ多ク議論百出容易ニ決セズ會〻小栗上野介勘定本行ヲ以テ海軍所ノ事務ヲ兼掌スルアリ夙ニ時勢ヲ洞察シ極力異論ヲ排シテ船廠設立ノ急務夕ルヲ主張ス幕府遂ニ之ヲ容レ上野介及目付栗本瀬兵衛ニ命ジ本邦駐箚ノ佛國全權公使ロセスニ就イテ諮詢セシム公使乃チ横濱在泊ノ佛國艦隊司令長官ジヨーライスト謀リ且船廠創立主任トシテ佛國海軍技士ウエルーニヲ薦ム次イデ幕府ハ船廠創立ノ計畫ヲ擧ゲテ之ア公使ニ委托ス時ニ元治元年十一月十日ナリ
是ヨリ先佐賀藩主鍋島齊正ハ蒸汽工作機械ヲ和蘭ヨリ贖ヒ將サニ工場ヲ封内ニ起サムトセシガ掌事人ナク財力亦夕乏シキヲ以テ遂ニ之ヲ幕府ニ献ズ幕府之ヲ納レ工場ヲ江戸灣ニ設ケムトシ遍ネク瀬海ノ地ヲ檢シテ相州長浦ヲ渡定セシモ適任ノ技術者ナキヲ以テ竟ニ工ヲ起スニ至ラザリキ然ルニ今ヤ舶廠創設ノ事ヲ擧ゲテ佛國公使ニ委託スルコトトナリタルヲ以テ幕府ハ同月二十六日小栗、栗本及ビ軍艦奉行木下謹吾、淺野伊賀守ヲシテ公使、司令長官ヲ始メ佛國軍艦ノ艦長士官等ト共=長浦ニ赴キ更ニ其地ヲ檢セシム此日佛國士官自ラ錘測セシガ灣内ニ淺所アルヲ以テ更ニ隣灣横須賀ヲ査測シ始メテ船廠設立ノ好適地卜決セリ
其翌慶應元年正月ウエルニー來着セシヲ以テ幕府ハ公使以下關係諸員卜共ニ舶廠設立方案ヲ議定シ小栗、栗本、木下、淺野及ビ山口駿河守、柴田日向守、石野筑前守、増田作右衛等八人ヲ製鐵所委員ニ任ジテ創設事務ヲ擔當セシム越へテ九月二十七日内浦山地ニ於テ鍬人初メノ式ヲ行フ之ヲ横須賀海軍船廠建設事業ノ起工トス實ニ今ヲ距ルコト五十周年前ナリ
王政維新ニ際シ本所モ亦タ朝廷ノ収ムル所トナリ首メニ神奈川府裁判所ノ管轄ニ屬シ次イデ大藏省、民都省及工部省等ニ轉屬セシガ明洽五年十月海軍省ノ所管トナリ以テ今日ニ及ベリ
今茲ニ創立五十周年祝典ヲ擧グルニ際シ本廠創立由來ヲ略記シ以テ永遠ニ傳フト云爾
   大正四年九月二十七日
              横須賀海軍工廠長 海軍中將 黑井悌次郎

 二、工廠創設當時の小栗の苦衷 (目次)

 一日小栗上野介、予が官邸に來り云、先年佐賀より政府へ納めし蒸汽修船器械一式あり蓋し鍋鳥閑叟翁其國に取建る心組にて和蘭より購ひたるが、其取建費の夥多なると其之を掌る人なきを病み、政府に納めて用を爲さしめんと欲するなり、其器械三分の二は既に運びて當港(横濱)石炭庫にあり、一分は猶長崎港にあり、客歳既に相州貉ヶ谷灣に於て、此器械を以て「ドック」及製鐵所を取建んとし、既に掛役員も定め測量迄も爲したれど、其業に馴れし人無きを以て弭めたれど。許多の器械を錆腐に付して閑叟翁が芳志を空ふするに忍びず、兄今囘翔鶴(船名)を修理するに用ひたる佛人ドロートル輩を率ゐ貉ヶ谷に至り一と骨折り呉ては如何と、左も無造作に話出せしが、予「ドック」の名さへ始て聞きたる程なれば、況や製鐵所などは如何なる物なるやも知らやず、且佛人ドロートル輩を傭ふには、從令當人は承知するも水師提督や公使の意中も測り難ければ遽に諾せず、上野と共に今夕佛館に往て協議し然る上に其請に應ずべしと答へたり。上野茲に於て其僕を金川驛に遣し其旅館を定め、予と共に佛公使館に就き其由を語るに、ロセスも其業に暗ければドロートルの果して其任に適すべきか否やを判ずる能はず、此に於て一价を馳せて水師提督ジョウライスに報ぜしかば、ジョウライスは上野の來るを知り、使と共に公使館に來り其談を聞て後答へで云、ドロートル年猶少にして學も末だ深からず、故に既に成る物は守り能ふべしと雖、新たに造る業覺束なし、本船一等蒸汽士官ジンソライと云ふ者あり、此人今私事を以て上海に行くと雖、早晩歸り來れば此者歸り次第其器を點檢せしめ、然る後確と報ずべしと、茲に於て談止みて歸れり。 「セミラミース」艦乗組士官蒸汽方ジンソライ上海より到り、佐賀献納蒸汽製鐵器械を熟觀するの後に、提督ジヨーライス公使ロセスを以て申出る趣は、該器械の義は船體小振にて從で馬力も強からざれば鐵具の小補理は辨ずるに足る迄の用にて、迚も「ドツク」を造り大仕事を做し得べき物にあらず、且「ドツク」を造り船艦を造り出すが如き大事業は、中々我輩學術の能く成就すべきにあらざれば、是は其任に堪へたる然るべき人を選みて別に雇ふにあらざれば叶間敷、且該器械は之を横濱近傍に掘付小修復に備へられなば至極用便なるべき旨なりしかば出府して小栗氏に相談を遂げしに既に軍艦を有する以上は破損は有勝の事なれば、之を修復するの處無かるべからず、況や唯今迄の如く彼國使用餘の古船買ひ、我は託して新調するも我に修船場無き以上は、一たび壊れなば忽ち用を爲す能はず、又壊船の度毎に外國へ運航するときは、往返費用計りも格外の事なれば、断然良工を迎へ近港にて然る可き場所を選ばせ、取建る事に決定すべしと極りたれば、何れの國なりとも其然る可さを選まんと議したるに、海外各國皆我師なれど餘國は桀傲不遜にて我を恐嚇し、其不馴を欺き飽迄利を貪らんとするのみなれど、唯佛國は巽順にして他に比すれば其説も稍信を取るに足る、依て矢張佛國に委託する樣爲すべしと、予猶其巨費の如何を憚りたれば、塾々仔細商量あられよ、今に於ては爲すも爲さゞるも我に在り、既に託せし後は復如何ともすべからずと云へば上野笑て、當時の經濟は眞に所謂遣り繰り身上にて、假令此事を起さゞるも、其財を移して他に供するが如きにあらず、故に是非無かるべからざる「ドック」修船所を取立るとならば、却て他の冗費を節する口實を得るの益あり、又愈々出來の上は旗號に熨斗を染出すも猶土藏附賣家の榮譽を殘すべし(上野が此語は一時り諧謔にあらず、實に無限の憐むべき者あり、中心既に政府の最早久存する能はざるを、十分に判する久しければ、其存するの間は一日も政府の任を盡さゞる可からざるに注意せし者にて、熟友唔言の間、常に此口氣を離れざりき)夫より佐賀献納器械の長崎に殘りある分も盡く横濱に取寄せ、ジンソライの取調な經て、錆腐の分手入磨き立一と通り組立を試みし上、同港太田川緣沼地を埋立て建築するこに至り、予が部下にては杉浦精介(今赤城と改名)軍艦方よりは誰なりしや名を記せず、通詞は北村元四郎(今名村泰藏)等を掛役となし佛人ジンソライ、同ドロートル、同エーデの輩、其餘も共に横濱小製鐵所の建築に從事せしめ、固より大事業なるを以て、内には閣老水野和泉守、參政酒井飛驒守が命を以て、佛公使同水師提督と議し其推選を以て同國蒸汽學士ウェルニーを上海より召寄せ、追々談判を遂ぐるの末、終に同人を傭ひ總裁とし、相州横須賀灣に於て、彼國地中海に在るツーロン製鐵所の式に依り、其規模を三分の二に縮め、製鐵所一ヶ所、「ドツク」大小二ヶ所、造船場三ケ所、武庫廠廨共に全四年にして成功し、其費用は凡一年六十萬弗、四年總計二百四十萬弗を用ゆべきを約し、於是大日本帝國に於て、始て造船、製鐵、船渠の大事業を起したりし、此時東洋各國中、支那の大と雖、猶未だ有らざる所なりと云へり。
 (栗本鋤雲氏の手記に係る「横濱半年餘」より抜萃)

 横須賀公園に於ける小栗の胸像 (目次)



 横須賀 ヴェルニー公園 2019.03.18 引用者撮影

 結   論 (目次)

 小栗上野介は、徳川幕府に事へ、時局頗る困難なりし折國家政府の重職に就き、國家と民族との幸福進歩の爲めに提身盡瘁し、責任を以て國家最高の政務を執行した。此人を國家忠節の能臣なりと批判するは、我が武士道に照して正しいと云へる。
 小栗上野介は、夙に海外の情勢を實檢した人であり、國家對國家の明かなる國民觀念を有し、開國を國是となし、國家の興隆と民族の安榮の爲めに、終始提身盡力する所あつた此人を愛國の能史と批判するは、國家観念上より見て、確かに誤りなき所である。
 小栗上野介の爲せる所は、薩長人印徳川方反對派の爲めには、頗る不利であつた、夫故に反對派は、小栗に何等反逆の意思もなく又事實もなかりしに拘はらず、無理やりに彼れを反逆人なりと世上に宜布して、公然斬首し且つ梟首した、之れ御誓文に示し給へる「天地の公道」を無視したるものであり、唯だ私怨の爲めに、能臣良吏を惨殺したるものと云へる。此不臣不法を敢てせしものは、天定まれる今日に於いては正義の裁判に依りて、其非道の責任を免るゝことを得ない筈である。若しも混亂の際なりしが故に、此大過失ありしも亦止むを得ずと云ふものもあるならば、そは確かに不義不臣不法の是認者である、此非道は、御誓文に示し給へる「天地の公道」を蔑視し、之れを蹂躙せる一大過失也と断じ得る、當時國民に示し給へる「五條の御誓文」は、光彩燦として宇内六合を照し、永遠に國民の間に輝きがある。天地は明かに、當時の正邪を刊別し、正に從ひ裁判するであらう。
 小栗上野介は、外交家としでは、第一次の遣米使であり、軍事に付ては、洋式陸海軍の創始者であり、財政經濟に付ては絶群の政治家であり、彼は砿に國家の爲めに、種々の施設を創始し、又重要の改革を爲せる偉人であつた、即ち國利民福の爲めに、國務改善の努力者であり、疑いもなく國家の功勞者である。
 小栗上野介は、國政擔當の局に在りつゝ、舊來の陋習を打破して、國家社會の改造を爲さんと盡力したる人である。夫故に小栗上野介を目して、日本改造の先覺と呼び、文化史上重要の人也と云ふは、誇張でなくして、妥當であると斷言し得る。
 小栗上野介は、私利私慾を排斥し、専心國家に奉仕し、唯だ眼中公明と理義とのみを有する大膽剛直の人であつた、彼を能吏良臣と稱しても、決して過言ではない。
 小栗上野介は、常に決死して國事に當り、斷じて生を偸まなかつた、當時の俗吏等偏狭無禮にして、一國顯要の此能臣を、上州烏川の河畔に斬られんとしたる其刹那、彼が泰然自若、春風の態度を持したるは、膽力あり、修養ある英雄的人物と云ふべきである、彼は武士として、洵に雄々しい人物であつた。
 小栗上野介は、世の所謂志士の爲せる如くに、詩文を弄せず、禪學を弄ばず、彼等の如くに哲學者の如き片言隻語を放たず、俗物の爲せるが如き、賣文賣名の浮華なく稚氣なく彼は俗物的才人にあらず、又俗悪なる慷慨家でもなかつた。
、小栗上野介の名は、敵よりも味方よりも、大いに幕末に於で知られたけれども、明洽以後、彼の不幸なる横死と共に、彼の名は埋没せられ終つた、賣名の俗物にあらざる小栗上野介としては、之れにて定めし満足であらう。彼の英靈は永遠に生きて天に在り。莞爾として、浮世の推移を靜に眺めつゝあるであらう。
 併し乍ら、小栗上野介は、幕末多難の九年間、日本國民文化の爲めに、大いに盡瘁したる卓逸の政治家であり、頼朝の末にも、北條の末にも、足利の末にも、豐臣の末にも、見出し得られざる程の愛國者であり、文武の能吏であり、たつけん達見家であつた。昭和時代以後、此人の名は、更めて日本國民によりて、記憶せらるべき筈である。六十年後の今日に於いては、藩閥者流の黨派的私怨も、最早消滅し盡し、小栗の功業人物を壓迫し排斥し去る怖るべき忌むべき魔力もなし、由来横行せる曲學者も、彼の正しき行爲を汚すの力最早あるなし、彼は向後國民より正しく知らるべく、而して其心事は、六十年の後に至りて、初めで國民の正しき裁判により、國家國民を念とし、公正順忠實に其の名の如くなりしことを日本國民によりて認めらるゝに至るであらう。
 余は此著を以て、不幸の死を遂げし偉人小栗上野介を辯護し、正邪順逆を匡し、同時に慶應三四年の頃、反對黨の術數權謀に由りて逆賊の如くに陥れられ、六十年者會より全く埋没せられたる不幸なる無數の同胞國民を救ひ、其英靈をして光明に俗せしめんと欲する。
 小栗上野介の生は、國家國民の名譽と文化と利益との爲めに捧げられた。而して彼の悲惨なる死は、六十年前の歴史に對し、今や當さに、破邪顯正の光明となり得るのを見るのである。小栗上野介以て瞑す可し矣。
 政爭の極は正義を蹂躙し、功臣をも罪人として梟首するの大過に陥らしむる、之れ國民の未来に向つて戒むべき點であり、小栗の死は、革命を口にし、政變に狂ふの徒に對し、好乎の警めでなくてはならぬ。

 後編

 維新前後の政爭と自由批判 (目次)

 175-176頁
 は し が き

 政爭を爲す人には、當然に利己心伴ふ、「君子は黨せず」と、其故に古人は喝破した。
 薩長人の天下となりし後には、薩長方に都合の好い一切の宣傅行はれ、徳川舊暮府方即ち、反對派の事は、總て不正親せられ、顕彰せらる可き事も總で埋没せられ、其儘に六十年の歳月を經來つた。明治以來小學中學の日本歴史本は、皆薩長本位にて作り上げられてある。  幕府の高官として幕府に事へたる小栗上野介の人物を正しく顕はす爲には、薩長本位の歴史を其儘に承認し置くわけには行かない、小栗の献身努力せる徳川方全般の事を正直に記述し、薩長方の宜傅に拘はらず、彼黨に術策陰謀の甚しかりしものありしを摘發し、斯くして始めて、小栗の國家國民の爲に墨盡せる事業の本質が判明する。
 余が此の後編を茲に掲ぐるは、唯だ之れが爲である、感情を以て薩長を誹るものに非ず、無論非を飾りて是となさんなぞは斷じて考へて居ない、事は六十年前の史實である。切に現代人の誤解なからんことを祈る。

         蜷 川 新

 177-183頁
  維新と其前後との區別 (目次)

 (一)

 維新とは何んぞや。
 「維新」とは「王政維新」の事を指して云ふこと、是れ普通の觀念である。
 然らば王政緋新は、何時を以て生じたのであつたらうか、此時期を明にすること蓋し肝要である。
 王政維新は、幕府の消滅したる時を以て、必然に且つ完全に生じたのであり、幕府の消滅は、徳川慶喜が、至誠報國の念を以て、自ら進んで大政を奉還したる其時を以て、絶對に生じたのである。然らば王政維新は、慶應三年十月十四日を以て成れりと云ふを論理上正しとする、「王政復古の大號令」は慶應三年十二月九日を以て發せられた。併し乍ら此の號令ありしが爲めに、王政維新成れるにあらずして、既に其以前に成つたのである。日本の「法令全書」にも、慶應三年十月十五日以後からが王政となりしを明記してある。

 (二)

 維新に關し、人或は之れを「封建制度の癈止の事也」と見るものがある。斯く解釋するならば、紺新は、明治四年を以て成れりと云ふことになる。之れは王政維新にあらずして維新以後の政洽改革上の一事態である、混同す可らず。
 人或は、明治元年、薩長二藩人を中心とする「新しき役所の成立せる」を目して、維新と見るものがある。之れは王政維新ではなく、維新後の政府の役人の新しくなりしことを云ふに過ぎない。
 人或は、鳥羽伏見の戰及之れに次で起れる内亂の鎮定せられたることを目して、維新の事業其者也と見るものがある、之れは維新以後の忌むべき事變であり、内亂であり、斷じて王政維新ではない。
 人或は江戸城の引渡を以て、維新の如くに云ふものがある、之れは幕府にあらざる一徳川氏の降服であつて、王政維新ではない。

 (三)

 王政維新を生ぜしめたる人は、然らば何人であるか、そは徳川慶喜其人である、一大決心を以て邦家の利福を念とし、幕府を自滅せしめたる最後の大將軍慶喜其人である。
 慶喜は武力の壓迫を現實に他より受けて已むを得ずして此の事を行つたのではない、其建白書に明記しあるが如くに、國家に盡すの至誠心を以て此の大事を爲したのである。非常の決心であつたに相違ない、而して慶喜をして之れを斷行せしむるに付ては、土佐の山内容堂の建言が與つて力がある、山内容堂は當時稀に見る公正の人であつた、其故に王政維新は、直接には、慶喜の至誠心を以て、間接には、容堂の公明心を以て、成れりと云ふを正しとする。
 幕府は、七百年間の久しきに亙りて適法に存在したる我國の國家制度であつた、徳川幕府は蓄来の國政の繼承であつて、適法に存在し政治を私したとか、不法に存在したとか見るべき何等の法理的理由はない。而して時勢の必要を考慮して徳川幕府は自ら消滅したのであること、史上爭なき事實である。

 (四)

 維新の成れるに付ては、種々の遠因がある、之れを精神的に考ふれば、徳川光圀の開ける水戸の學派の如きは、其の最たるものと云へる、又之れを政治的に見れば、幕府が鎖國政策を棄て、開國政策を行ひ、世界の各國と交通するに至りしことが、其最大最有力の原因と云へる、開國は世界の大勢上國家國民の爲めに必要なる政策であり、之れを行ひし以上は、幕府を中心とする封建の政治を以てしては、到底列國と對峙し能はざる情勢に當面した。
 其故に、幕府方に於て、封建制度の癈止を唱ふるもの先づ第一に生じたのであり、幕府の自滅は、幕府方自身の考慮として自ら生じ來つたものである、無理にも幕府を存續せしめんと主張したる悖理的の頑迷者流は、幕府當局の間には一人も無かりしものと見て不當でない。
 然らば、理論として、王政維新は、徳川方に於て、明に其の主要の原因ありしと云ふを正しとこすべし。
 薩長人や、公卿の一部が、其の力を以て、或は其策略を以て、幕府を仆したのでは斷じてなかつた、仆すことに努力した種々細末の事實はある、何人も之れを知る、併し乍ら、其の武力を以て幕府を仆し得たのでは斷じてないこと何の疑もなし。
 薩長及公卿の一部が、既に幕府亡びし後の徳川氏を壓迫し、終に一徳川慶襄に對して、一大武力を以て高壓的に臨めるは、慶應四年一月の事であり、事實に相違ない、併し這は王政維新の成れる後の出來事である、之れ明々白々の事實であるのを如何んせん。
 維新と、維新前後の事實とは、明白に之れを區別するを要する。然らざれば、理路錯亂すべし。科學的研究とならず。

 (五)

 萩野由之博士が、其の著「王政復古の歴史」の冒頭に、
 「王政復古とは、今より五十二年前、明治天皇の御即位の初に於て、武家政治を取拂つて、古の如く、天皇親政の御世に復されて遂に今日の如き聖代となつた其原因と經過とを述べるのである」
と書かれて居らるゝのは、文宇の上より見て終りの部分に明白を缺く。
 天皇親政の御世に復された事態を、「王政復古」と云ふべきである。其の原因と其の經過とは、王政復古に關係ある事柄たるに過ぎない、彼我混同を避けるを必要とする。然らざれば、科學的と云ふを得ない。

 (六)

 王政維新は。慶應三年の十月十四日を以て、絶對完全に生じた。明治に至りて王政維新が生じたのでは決してない。
 其故に、「明治維新」と云ふは、世俗に用ひらるゝ用語であるにせよ、史實を適當に云ひ 表はしたものと云ふを得ない、一種の形容的文辭也と見るのを至當とする。
 維新は、公明正大、日月の光輝を以て慶應三年十月に純平和的に生じた、此維新後に不幸にして紛糾生じ忌むべき内亂が續發した。此二大事實は、區別しで見るを要する。此の粉糾内亂に乘じて、勝利者の地位に立ち、功を建てし人も多くあつた、併し乍ら、此等の人は、維新以後に於て、功ある人と見るのを科學的見解とす可し。

 (引用者註)

 『法令全書. 慶応3年』の編纂例に、「本書ハ慶應三年十月十五(十月十四日幕府大政返上)ニ起シ明治十七年十二月(十八年一月法令全書創刊ノ前月)ニ迄ル其間」云々とある。
 また、同法令全書の第三百三十一 閏4月二十一日(太政官二十七日頒行)に、「去冬 皇政維新」云々とあり、慶應三年の冬を指し、“維新”の行われたのは明治ではなく、慶應年間のことである。

 183-187頁
  鎖国攘夷論の危険性 (目次)

 幕末に當り、「鎖國攘夷」の説を唱へ、「開國の説」を罵り國家の秩序を破壊せしものを目し、明治以後に至り、之れを「志士」と呼び、「勤王家」と賛し、今に至るも尚ほ然り、之れ果して正しい判斷であらうか。
 安政時代に於て、當時の某々藩士及浪士等が、支那流の文字を用ひて、「夷狄」と嘲りし歐米人は、其の物質的文明の度に於て確かに我日本人に優り、其數は我が三千萬人に比して五億を算へ、富強實に世界に冦たる國々の人であつた、彼等の科學、彼等の兵器。彼等の作戰方略は、古への元や明の其等の比にあらず、夫故に、過去に日本國民は元寇を排け得たるの事實ありたるにせよ、安政當時の日本人が、英佛米露其他の白人を敵として、開戰を叫び、「夷狄攘ふ可し」なぞと豪語せるは、甚だしき無謀の主張であつて.世界を知らざる暗愚者にして、初めて口にし得る大膽の暴言であつた。
 當初の攘夷論者中には、「神州を穢すに忍びず」として、憤激したる純真の人も幾分は居つたであらう、併し乍ら、之れ恰も洋鬼をして「中華を穢さしむ可らず」と稱して、猛然として外人を攻撃したりし彼の團匪事件を惹起したる支那の自稱愛國者と擇ぶなきの徒である、若しも當時の日本國政府にして、攘夷論者の策動に恐れ、其の言を聽き、外人と武力を用ひて爭つたならば、日本國は必然滅亡すべく、少くとも近海の各島嶼は外人に奪はれ、重要都市の占領をも敢てせられて居たこと確かであらう、日本人として顧みて戦慄なきを得ない、正論之れ也之れ虚飾なき批判である。
 皇國を亡ぼして「尊王」あるの理なし、攘夷論者を目して、國士と云ひ勤王家と云ふは、 理論としで正しき批判と云ひ能はずと、余は主張する。
 之れに反し、開國を主張したるものは、世界の大勢を理解したる人である、開國を實行したる人々は、日本民族を危地より救へる人々である、彼等こそ眞に國士と云ふべく、皇國の爲めに忠義なる人と讃すべきである、井伊の如き、安藤の如き、岩瀬の如き、小栗の如き、國家の救濟者として、永遠に國民より感謝せられざる可らざる人々と云へる、之れ嚴正なる批判である。
 當時外人を脅し、外人を斬りて、快となせし一味の如き、國家の名譽を傷け、國帑を空費したるの不心得漢として、今日の國民としては、其不明其狂愚を公正に責めて然る可きである、史論を爲すには阿諛の要ある無し。阿訣は卑屈である。
 當時攘夷の説を利用して、幕府を困しめんとしたる陰謀的策士も多くあつた。之れ「外交を政爭渦中に投げたる不心得漢」である。責め可くして賞すべきの理なし。政洽は常に公明を尊ぶ。
 當時攘夷を行ふを以て、[勤王也]と主張したるものあり、之れ累を皇室に及ぼしたるものであり、斷じて此等の人々に勤王家の讃辭を捧ぐ可きでない、史論は徹底的に嚴正なるを尊しとする。
 若しも攘夷が、尊王の趣意に合するものであるならば、幕府消滅したる後に於て、此種主張者は、直ちに此攘夷を斷行して、其正となせる主張を尊王の信念の爲めに實現せしむべきであつた。然るに彼等は、之れを爲さずして、反つて遽然英米の崇拜者と化し去つたのであつた。斯くして、「尊王」と「攘夷」とは相容れざることを、彼等が自ら證明し自白したのであつた。彼等は開園論者の忠験把對し。允きの非なりしを告白し、其罪を謝すべ倉であった、彼等果して此良心ありしや如何。
 日本に於て、攘夷論者を目して勤王の志士と云ふは理諭上不當である、六十年來小學兒童の教科書等にも、此誤多し、速かに訂正して、正判を國民に與ふるを急務となす可し。
 文久四年正月二十七日、將軍家茂は、京都の御所に参内し、左の如き御宸筆の勅を賜つた。
 「前略、各藩ニ武備充實ノ令ヲ傅ヘ、内ニハ設役ノ冗員ヲ省キ、冗費ヲ節シ、大ニ砲艦ノ備ヲ設ケシハ、實ニ朕ノ幸而已ニアラズ、宗廟生民ノ幸ナリ、且ツ云去春上洛ノ癈典ヲ再興セシコト最モ嘉賞スベシ、豈圖ンヤ、藤原實美等、鄙野匹夫ノ暴論ヲ信用シ宇内ノ形勢ヲ察セズ、國家ノ危殆ヲ思ハズ、朕ガ命ヲ矯メ、輕率ニ攘夷ノ令ヲ布告シ妄ニ倒幕ノ師ヲ起サントス、長門宰相ノ暴臣ノ如キ、其主ヲ愚弄シ、故ナキニ夷船ヲ砲撃シ、幕吏ヲ暗殺シ、私ニ實美等ヲ本國ニ誘引セリ、如此暴擧ノ輩必ズ罰セズンバアル可カラズ」下略(永岡清治氏著舊夢會津白虎隊第五五頁参照)
 攘夷の暴擧たることは、此明勅に依りて明白である、又何事をも附け加へるの要はない。三條實美の如きは、是れに由つて之れを觀れば、唯攘夷の圭張のみ固陋にして國家國民を深く考慮に置かざりし人であつたものゝ如くにも見へる、眞に之れ悲む可し。

 187-191頁
  維新前後薩藩の權謀術策 (目次)

 維新前後に於て、薩藩は種々なる權略術數を弄した。總て事實は否認し得ず。事實は事實として之れを後世に傅へ、昭和の御代の定まれるれ人心をして、其正しき判斷を此等事實に對して與へしむる事、之れ歴史の純化と、國家正義作興の上に必要である。慶應三年年佛國博覧會ありし際、薩藩は、
「薩摩侯は、日本の大諸侯たると同時兼ねて琉球國王である、薩摩侯としでは、幕府の下にあるも、琉球國王たる島津氏は、幕府より獨立したる君主である。此度の博覧會に參同したる薩摩侯は、獨立したる琉球國王として使節を巴里に差遣したのである。」(尾佐竹氏著『幕末外交物語』に依る)
との事を佛國人に向つて唱へたのであつた。
 今日の日本國民は、此の内外的重大事實を何んと見るや、當時の薩摩藩主は二人格を有し、一面には、幕府に臣従して、皇國の一臣民であり、他面には、一國の獨立國王也と云ふのである、果して之れ日本の臣民道に叶へるものであつたらうか、當時の薩藩は、世界の文明國人に對して、身分詐稱を爲したのであつた、斯る事を爲して、果して日本國民の信用を海外に保ち得るであらうか、果して日本國家の尊嚴を維持し得るであらうか、餘り權謀術數を弄する甚しかりしを國民として悲まざるを得ない。
 以上の事實は、尾佐竹氏著「幕末外交物語」第四四頁に在りて、決しで小説ではない。
 薩州人は、初めには徳川方に屬し、會津を助け、長州を排斥し、長州と通謀せる三條等を壓迫し、此一味を武力を以て京都より逐ふたのであつた、長州人は之れに不服にして、一藩を擧げて策動し、其の一部は、猛然として京都に進撃し來り、不心得にも宮廷に向つて發砲するの暴擧を敢てした、薩人は之れを撃つた、至當の行爲であつた、然るに薩人は反覆し、此の謀反を爲せる長州に窃に手を伸べて、之れと結托し、反逆者にあらず最も勤王忠誠の藩と公認せられたる會津を討つに至つたのである。當時の薩人は大義名分心ありと云ひ得ようか、又友藩に對する信義ありと何人か敢で云ひ得るであらうか。當時長の高杉晋作は、
 「方今蔵賊何んの面目ありて我れに對する、彼や進退命なく、去就義なし、元來長薩宿怨もなきに、唯我聲望を妬み、會と結托し、我を死地に陥れ、而る後會の聲望亦己れの右に在るを嫉み、我が孤立援なきに乘じ、又我と結び、會を擯け且つ幕を呑まんと圖る。之と親むは、鷹を養ふと何ぞ分たん。飢れば人に附し、飽けば颺り去る、其心事の卑きこと、覆雨翻雲、商賈と雖も之を潔とせず、彼をして我が長防忠勇の策を瀆さしむべけんや」(長岡清治著「舊夢白虎隊」に依る)
と、喝破した、當時如何に長州人が孤立無援、窮地に陥れるかを示すと同時に、一々尤の説と云ふべきである。薩人に此反覆ありしに付ては、國民は六十年前の歴史上の事實として、之れを記憶より抹消し去るを得ぬを悲む。
 當時我慢に我慢を爲せる徳川慶喜も、亦堪へ兼ねて、左の如き上書を朝廷に提出したのであつた。

 「臣慶喜去る九日以來の御事態を奉恐察候へ共、一々朝廷の御眞意に無之、全く松平修理大夫奸臣共の陰謀より出候は天下共に知る所、殊に江戸野州總州其外所々に亂暴劫盗に及候者も、同家來の唱道に依り、東西響名し、皇國を亂し候所業、別紙の通にて、天人共に所憎御座候間、前文の奸臣共御引渡御座候樣、御沙汰被下度、萬一御採用不相成候者不得止誅戮を加へ可申、此段謹而奉奏聞候。

 薩藩奸黨の者罪状の事

 一、大事件盡衆議と被仰出候處、去月九日突然非常の變革を口實と致し、奉侮幼帝諸般の御所置私論を主張の事。
 一、主上御幼冲の折柄先帝御倚托被在候攝政殿下を癈止。止參内候事。
 一、私意を以て宮堂上を黜陟せしめ候事。
 一、九門其他警衛と唱へ、他藩の者を煽動し、兵仗を以て宮闕に廻り候條、不憚朝廷大不敬之事。
 一、家來共浮浪の徒を語合、屋敷へ屯集、江戸市内押入、強盗致し、酒井左衛門尉人數屯所へ發砲亂暴致し、其他野州總州焼打劫盗に及候證分明に有之候事。」

 余は幼時、舊幕府の[與力]たりし一人の漢學者より當時の事情を聞いたのであつたが薩人の江戸市中に行へる強盗は、組織的の恐るべきものあり、亂暴狼藉を極めたるものであり、富豪の家に押入り、千兩箱を盗み取り、之れをボートに積んで、靈岸島より品川沖に逃げ去るのであつたと云ふ。此事實に關しては次の項に詳述する。

 191-197頁
  維新後江戸及關東に於ける強盗放火と (目次)
   其の背後の人西郷

 慶應三年十月以後、即ち維新成れる後、江戸市中の各所に、組織的の恐る可き強盗が押入つた、數十人隊を爲し、各々種々の恐るべき武器を所持し、江戸市中に於ける何等の罪もなき市民の家に押入り、千兩箱を盗み取り行くのである、當時の警察官たりし「與力」「同心」は、此報告に接するや、刀剣や銃砲を手や肩にして、此等の強盗を捕縛するために活動したのであつた、當時「與力」であり後年漢學塾を麹町三番町に開き、多くの塾生を養成し「加除封錄」と題する著書をも爲せる清田默と云ふ先生があつたが、余は此先生より、屡々當時の事情を話されて、此強盗の恐怖すべく憎悪すべきものなるを未だ番町小學校の生徒たりし時代より聞かされたのであつた。無論、余一人のみならず、此先生は憤慨して當年の事を色々と生徒に説き聞かされるのであつた、此等の強盗は、「與力」に追はるれば屋根の上でさへも走り廻ると云つた風に、頗る慄悍な人間どもであり、終には靈岸島よりボートに乗り込みて、品川灣上の薩摩藩の軍艦に逃げると云ふことであつた、清田先生は與力仲間と共に發砲して彼等を撃ちしことも、屡々であつたと説明せられた、小學時代の事でもあり、彼我の死傷が幾干であつたかと云ふような細かいことは、余も詳しくは聞かなかつたが、此強盗と云ふのは、主として薩摩藩の人々であり、之れに其配下の浪人の附隨したものであつたことを聞かされたのであつた。(今の東京人は、小説としては讀みしことありとも、歴史としては未だ餘り知らないであらう)
 此等の強盗は、放火もなした、而して幕府方の人々に對して、發砲もなしたのであつた。
 此當時は慶應三年十月以後の事であり、薩摩藩と徳川方とは,戰を開いて居つたのではなかつた、「長州征伐」と云ふことは其の以前の事である、從つて長人としては、依然として徳川方の人に反抗し、幕府亡びて後も、徳川方を憎悪し、復仇を欲したのであつた、併し乍ら、薩藩は之れと異り初めには徳川方であり、會津と共に長人を京都より撃退した味方の藩であつた、此の強盗事件の當時にも、薩藩對徳川氏は、未だ敵味方の關係ではなかつた。
 戰を爲しゝある際ならば、作戰の必要上、放火も時としで非常手段として允され得る、 古へに此戰法あり、今日にても、各文明國共に認められて居る。併し乍ら、戰争の際と雖強盗は嚴禁である、戰に關係なき民の財物を掠奪するは、不法であり、何れの代にも允さる可からざる悪事である、文錄の昔し小西行長が、京城を占領したりし際にも、「私財の掠奪を禁止」した程の尊き古來よりの日本國民性を我等は有して居る、日本の武士道は、斷じて強盗を許さない筈である、然るに薩藩の陰謀家は、此強盗放火を敢てしたのであつた。
 徳川方を追窮又は激發するが爲めに、何等の罪もなき江戸市民の私財を奪ふ可しとの理由はあり得可らず、斯る事を爲すは、徒らに善良なる人民を困しむるものであり、政治の目的に反し、一般道徳に背き、武士道としては允さる可からざる悪事である、日本人としては何人にも此論斷には異議なかるべし。
 徳川慶喜は、此暴狀を見兼ねて、朝廷に上書した、其上書は、左の如きものである。重ねて其要所を此所に掲げる。
 「臣慶喜去ル九日以來ノ御事態を奉恐察候ヘ共、一々朝廷ノ御眞意ニ無之、全ク松平修理大夫(薩藩主)奸臣共ノ陰謀ヨリ出候ハ天下共ニ知ル所、殊ニ江戸野州總州其外所々ニ亂暴劫盗ニ及候者モ、同家來ノ唱道ニ依リ、東西響名シ、皇國ヲ亂シ候所業、別紙ノ通ニテ、天人共ニ所憎御座候間、前文ノ奸臣共御引渡御座候樣、御沙汰被下度、萬一御採用不相成候者不得止誅戮を加ヘ可申此段謹而奉奏聞候。

 薩藩奸黨ノ者罪状之事

 一、大事件盡衆議ト被仰出候處、去月九日突然非常ノ變革ヲ口實ト致シ、奉侮幼帝諸般ノ御所置私論ヲ主張ノ事。
 一、省略
 一、省略
 一、省略
 一、家來共、浮浪ノ徒ヲ語合、屋敷ヘ屯集、江戸市内押入、強盗致シ、酒井左衛門尉人數屯所ヘ發砲亂暴致シ、其他野州總州焼打劫盗ニ及候證分明ニ有之候事。(永岡清治氏著「舊夢白虎隊」一三五頁)」
 右の如くに、薩人中の陰謀家は、平和時に市中関東其他に強盗放火したのであつた恐怖す可し。
 此恐るべき組織的強盗放火は、然らば何人が指揮し、命令して敢行したものであつたらうか。日本國の文化史の研究としては、之れを明かになし置かざる可らざる一の事件である、唯單に江戸市に於ける盗難と稱する一小事でははないことを今日の國民として注意せねばならぬ。
 之れに關しては、維新史の權威と呼ばるゝ文學博士萩野由之著『王政復古の歴史』に依るのが、最も適當なりと思はるゝ、之れに依れば、左の如く記してある。(同書第一八五頁)
 「西郷隆盛の如きは、幕府に早く兵を起させんが爲めに、密かに多數の浪人を江戸の藩邸に募集しておいて、之を諸方に放つて亂暴狼藉をさせ、関東及び江戸を騒がせ、頗る挑戰的の態度を取つた」
即ち江戸の恐るべき強盗放火事件は、薩の代表人物たる西郷の指揮して、爲さしめしところなることが、此權威者の書物に依りて國民に知らしめられたのである。
 然り、西郷は初めより恐るべき大權略家であつた。凡そ東洋式の政治家は、一般に權略陰謀を好むものである、政治家としての西郷は此種の優なるものであつた。大人格者又は文明政治家的の行動とは、如何に最負目に見ても、此の放火強盗の事實は云ひ得まい。史上の人物を國民として後世に批判するには、斷じて阿諛あるを許さず、極めて嚴正なるを絶對的必要とすること何人も異議なかるべし。

 197-205頁
  慶應三年十二月九日の所謂小御所會議と山内容堂の正論、
   岩倉及西郷の權謀
(目次)

 慶應三年十二月九日の小御所會議は、大政奉還直後の重要なる會議であつた。此會議をして、公明正大に終始せしめ、以て眞に王政復古を重んじ、皇國の幸福の爲めに圖るのと陰謀權略を之れ事とし、一部の公卿や一部の薩長人の爲めに、權力を完全に其一派の手中に握らんと努むるのとは、其の結果に於て、非常なる差違が生ずるのは當然であつた。
 此會議に於て、岩倉と大久保と西郷とは、史實の示す所によれば、中心の策謀人物となりて、公明正大よりも寧ろ陰謀權略を之れ擇んだ實がある。之れに反して、土佐侯山内容堂は、唯獨り堂々の陣を張つて、正論公議を主張した、而して陰謀を擇める者は、正論を唱へたる者を壓倒し盡して、不公明たる決議を爲し、徳川方の總てを憤激せしめ、次で強て挑戰して鳥羽伏見の戰を惹起せしめ、薩長方をして豫定通りの秘策を成就せしめた、博士萩野由之著「王政復古の歴史」第一八六頁にも、左の言がある。
 「薩長二藩はかねての計畫の如く、兵力に訴へて、幕府三百年の勢力を根底から破壊する好機會を捉へ得たのである、其愉快共得意は想像の外であらう」と。
 薩長等の豫定の計略は、思ふ通りに進んだ、若し夫れ幕府を仆すと云ふ一事が、世の所謂勤王家本来の目的であつたと云ふならば、慶喜が自ら大政を返上し、幕府は茲に全く亡び、必然に絶對に平和に、王政は美事に復古したる以上は、其れにて目的は到達せられたる筈であり、其以後は、虚心坦懐、公卿も藩主も幕臣も、全國民と心を合せ、直ちに封建制度の全癈と、文明式政洽の開始とを志すべき筈であつた、幕府亡びたる後に於て、兵力 を以て國家の秩序を故更に破壊し、多数の人民を殺し、莫大の國財を浪費し、以て國民に禍し、以て國家を疲弊せしむべきものでは、臣民道徳上、斷じてなかつた。
 慶喜が大政を奉還したる以上は、幕府としで有したる其封土を返上せしむること、或は之れを大に削減することは、勿論理として正しい事である、何人も之れに反對する筈はないのである。
 併し乍ら、慶喜は、國家の爲めに、非常の勇斷を以て大政を自ら進んで奉還した人であるが故に、此人のみを獨り虐壓し、其臣下のみを艱苦に陥らしめ、其一味のみを窮地に逐ふが如き非道不公正を爲す可きにあらざるは、云ふ迄もなし、慶喜の封錄は、八百萬石を算し、其内には、國家の認めたる公人としでの數萬の旗本以下數十萬人の日本人を養へる四百萬石の封錄がある、旗本以下は大名と同じく國家の公人であり、三百年間、總て正當の權限を以て、同家の爲めに、其れ其れ其力を盡したものである、大名のみは之れを優遇し、同じ公人たる旗本以下の數萬の人々を虐壓すべき理なきは、之れ亦云ふ迄もなし。
 夫故に、慶喜の封錄を奪ふならば、同時に各藩主の封錄を同じように奪ふて、國家として人民に向つて公正なる處置を爲し。互に私心私利を去つて、天皇の御親政の爲めに、藎瘁すべきであつた、此忠誠心なくして、自ら勤王なぞと誇唱するは、許されない筈である。
 然るに、四五の公卿と薩長の巨頭二三の人々とは、此正しき道理情義を排斥し。不公正の方法を擇み、故更に人心を激發し、故更に内亂を挑發せしめたのであつた、彼等の爲せる所は、今日の國民より之れを冷静に論評すれば、責むべくして、賞むべきの理は、一點だになしと云ふを正觀とすべし。
 慶喜の政權奉還の上書にも、
 「政權を朝廷に奉歸、廣く天下之公議を盡し、聖斷を仰ぎ、同心協力共に皇國を保護仕候得ば、必ず海外萬國と可並立候、臣慶喜國家に所盡、是に不過と奉存候。」
とある。同心協力、以て國家の爲めに盡すこと、世界の大勢上より觀て絶對に必要事であつた。
 當時朝廷は、左の如く全國に諭示せられたのであつた。洵に公明正大であつた。
 「徳川内府宇内之形勢ヲ察シ、政權ヲ奉歸候ニ付、朝廷ニ於テ萬機御裁決被遊候ニ付テハ、博ク天下之公議ヲトリ、偏黨ノ私ナキヲ以テ、衆心卜休戚ヲ同フシ、徳川祖先ノ制度美事良法ハ其儘被差置、御變更無之候間、列藩此聖意ヲ體シ、心附候儀ハ不忌憚、極言高論シテ、救繩補正ニ力ヲ盡シ、上勤王ノ實效ヲ顯シ、下民人ノ心ヲ失ナハズ、皇國ヲシテ、一地球中ニ冠超セシムル樣淬勵可致旨、御沙汰候事」
 然るに、九月の會議には、國家に功勞ある慶喜、容保等を省き、會議に列せしめなかつた、之れ甚しき偏黨であり不公正であつた、御論示の蹂躙であつた、何んの名分あって、斯る不公正の事が、許容せらるゝのであるか。
 會議開かるゝや、薩州藩侯島津は、先づ自ら進んで、慶喜の封錄を奪ふ可きを主張し、岩倉は、直ちに之れに和した、之れ恰も故更になせる缺席裁判であり、之れ無論豫め仕組める一大芝居であつた、斯の如きは、餘りに慶喜と其一派とを侮辱したる方法であつた、物平を得ざれば即ち鳴る、一部の薩人と岩倉との通謀して爲せる此術策に對しては、慶喜容保等他徳川方數十百萬人の人々の憤怒せるは、當然のことであつた。公正の史家は當然に斯く論ずる(萩野博士著「王政復古の歴史第一八四頁」参照)。
 此時山内容堂は、確かに尊敬すべき正論者であつた、山内は決然としで之れに反對した、起つて曰く。
 「幕府素より其任に堪へずと雖、其今日に至るものは、獨り幕府の責にあらず、薩土尾越も亦其責に任ずべきものなり、而して今獨り徳川氏のみに課するは、公明正大のものにあらず、諸侯も亦國の大小に從ひ.高割を以て、土地人民を朝廷に奉還すべし、且會津は事を處するに當り、議論の餘地もあれども、固より悪意の認むるもの更になし、宜しく國に就かしむるを可とす」(永岡清治著舊夢會津百虎隊第一二八頁)。
 山内の堂々言ふところ、理義確かに分明、斯くあつてこそ、時代に適應したる至公の政治と云ふべきである。幕府とは封建時代の政府である、此の下に諸藩がある、封建時代の政洽に非難すべきもの著しとせば、幕府のみ獨り責任ありて、諸藩は責任なしと云ふ道理なし。
 山内は更に日く、(永岡清治著右回書同頁)
 「此暴擧を企てたる三四卿は、幼帝を擁し奉り、横柄を窃まんとするにあらざるか」と、
 之れ亦大膽に、彼等陰謀權略家の心事を摘發したものである。卒直痛烈、眞に武士の言である。
 王政は、既に前々月を以て天下萬民の前に復古したのである、皇國の萬民は、新に輝ける太平の照代を謳歌するや正理である。此時に當つて唯單に岩倉と薩長一味の天下を新に創造せんとするは、偏黨の私心である。既に幕府としての權力なき徳川氏を一撃して、兼ての怨をはらさんとするは、之れ又小人的私心である、山内容堂の言の如くに、當時の會議が、公正無私に進行したならば、當時の天下は、泰平無事であつたに相違ない、而して若しも、此正論に反對し、諸侯にして其封土を朝廷に返し奉ることを拒むものがあつたならば、「王政復古の賊」として、國民の總掛を以て、亡ぼさるべきであつた。
 然るに何事ぞ、山内容堂の言に對して、岩倉は大いに抗爭した、此正々堂々の道理に反抗するに岩倉等は不公正と無理を以てした、岩倉の立場は頗る危地に陥つた、岩倉の顔色は青ざめた、暫く會議は休憩と云ふことになつた、(大正公論昭和三年二月號七一頁上段参照)
 此日西郷は、外部に在りて主として軍備の方面を引き受けて居つた、休憩中.薩の岩下方平は、西郷を招いて「如何にすべきか」を諮議した、西郷は曰く「我れに何等0意見なし」但し、岩倉に向つて「貴殿の懐剣は利れるものなるや否やと問ひ見よ」と答へた、西郷は恐るべき一大權略家であること之れを以でも窺はれる、正論者を天皇の御前にてさへも刺し殺すも可と風刺するのであつた、西郷の此の大膽不敵たる所、鬼神も定めし恐怖することでゐらう、岩倉は岩下より之れを聞いて、思ひを定め再び顔色に生氣を生じたとの事である、岩倉も一大權略家であつた、而して再會の後には、其隻手を以て懐剣を握りつゝあつたと傅へられ、此様子を見て、後藤象次郎は、山内容堂に之れを注意し、山内終に岩倉等の權略的主張に屈服したのであつた、(「大正公諭」第八十三號第七十一頁参照)  會議は斯くの如くに、權謀を以て始り、權略を以て終つた。
 斯る不公正の權略的處置を爲すにあらざれば、當時の事態は解決し得ずと云ふならば、此の處置も宜し、併し乍ら、斯る事情は、如何なる方面より見るも、有り得なかつたのである、
 凡そ東洋式政治家とは「常に権略を好むの徒也」と云ふならば、之れも亦一の見方である、併し乍ら、斯る機略を弄せる人々を目して、當時の日本國家の唯一の救濟者の如くに賞賛するならば、それは權謀術數を好む人の言であつて、妥當公正の批判者也と云ふを得まい。若しも斯る機略の人々に對して、之れを大人格者の如くに崇め賞め立てるものありとせば、其等の人は、人物を正觀直議するを欲せざる人也と云ふて然るべし。
 余は國民本位に立ちて、當時の實事を批判する、今日の國民としては之れ當然の態度であると信ずる、此大會議に於ける此大不公正は、鳥羽伏見の私闘を惹起し、東北の戰役となり、薩長二藩の専横となり、佐賀及西郷の内亂をも惹起するに至つたのである、國民の之れより受けたる禍害は實に莫大であつたと云へる。此不公正ありしが爲めに、有爲の人物は多く死し、國財は一億の多きを費消せられ、明治の初頭に暗影を殘した、國民として遺憾無限であると云はざるを得ない。

 205-214頁
  鳥羽伏見の變と開戰の責任者たる薩長 (目次)

 鳥羽伏見の變は、如何生じたのであらうか、薩長本位より論ずるるものは、慶喜及其一味の不平の徒が、不心得にも、兵を率いて京都に迫りしに由り、之れを征伐するが爲めに薩長の藩軍が機先を制しで開戰したる也と説くのである。
 併し乍ら、斯ることは、爲めにするものの勝手な宜傅である。事實でないのを如何んせむ。
 當時會津藩の家老の名を以て、上野法親王竝に加賀尾眼張紀伊等二十餘藩に依り、朝廷に謝罪せし歎願書に曰く、(井上中將著「鶴ヶ城の血戦」第八七頁に依る)
 「伏見戰爭の儀は、徳川内府上洛、先供一同登京の途中、發砲被致、武門の習不得止應兵一戰候儀にて」云々と、
 此當時の此文書は、會津武士の至誠を以て、正直に事實を認めたのである、開戰の責任者は薩長方に在ること明白疑いなし。
 慶應三年十二月九日の所爾小御所會議は、山内容堂の堂々力説したる正論を揉躊して、不公正の決議となつた。不平は富然生ぜざるを得なかつた、薩長方の人々は、徳川方の人々をして、不平あらしめんと計畫したのであつた、萩野由之博士著『王政復古の歴史』第一八四頁に曰く、
 「岩倉具視や薩藩が、此度の政變に全く徳川氏を疎外し、剰へ辭官納地を慶喜に命じたのは、いふまでもなく、慶喜主從を激せしめる手段であつた、其手段は圖に當つた」云々と、
 故更に時局を紛糾せしめ、平和を破らんとして彼等は權謀術数を弄したのであつた、斯くも術策を弄せざれば、常時の世の中が治まりつかずと云ふ理由は毫もなく、唯單に、斯くせざれば、岩倉及薩の巨頭連の自由に爲し得る天下が産れ來らずと云ふに過ぎなかつった。
 徳川方は果然憤激し、慶喜は事件の激發を恐れて大阪に去つた。萩野博士著書を再び茲に借用する。(同博士著同書第一八四頁)
 「徳川氏の臣屬は、之を聞いて皆憤つた、前將軍は政體返上の功こそあれ、何の罪もない、闕下を犯した長州さへ赦免の御沙汰を拜したではないか。然るに罪もない徳川家 に、辭官納地の御沙汰とは何事ぞ云ふのである、眞に無理もな言分である」と、
 慶喜は戰を好む人でなかつた、闕下に騒擾の起らんことを憂ひ、慶應三年十二月十二日、會桑二藩の人々及旗本大名等を率いて、京都を去り、大阪城に引上げた、若しも慶喜が戰亂を好む底の人であるならば、此時直ちに開戰し、長州兵の未だ大いに加はらざるに乘じて、薩人及公卿の一味を討減し盡したに相建ない、併し乍ら慶喜には、斯る爭闘心なく、斯る權謀を弄するの野心は毫頭もなかつた。
 岩倉、西郷、大久保等は、慶喜が大兵を擁して、大阪に在るを自己等の爲めに危険視した、若しも大阪を根據として、京都に在る薩軍に反抗せられたならば、交通路は斷たれ、京都の薩軍は甚だ危しと心配した、彼等は一大權略家であるが故に、自己の心を以て、徳川方を猜疑したのである。
 岩倉等は流石に智者である、即ち一策を案じ、慶喜に輕騎上京を命じ、會桑に向つては、其の本國に歸還すべきを命じた、此命は、天皇の大命として傳へられた。
 慶喜としては、此大命に反くを得ない、慶喜の立揚は困難に陥つた。上京せざれぱ、反逆者の如くに取扱はるべく、輕卒に上京すれば、危険身に迫る可きは當然であつた、慶喜を擁護する者より見れば、武士の習として、其の主と仰げる慶喜を見殺にするを得ざるは當時の武士的道徳であつた、親藩たる會桑は、慶喜を守護して上京す可しと云ふことに一決した、之れ武士としで正しい考慮であつた、薩長を討伐するが爲めではなく、。唯だ警護者としで随伴するに過ぎなかつた、岩倉等一味の權略陰謀甚しきに對しては、之れより以外に取るべきの途はなかつたであらう。
 慶喜は命に依り上洛した、慶喜は戰闘隊形を以て、上洛したのでは決してなかつた、勿論武士であるが放に、武器は各人何れも携帯しで行つた、然るに薩長の兵は、此の上洛者を鳥羽伏見に阻止した、而して附近の高地を豫め占領し、發砲を以て徳川方に挑戦した。之れ天人共に怒らざるを得ない暴状ではないか、彼等は此機會を利用して、慶喜以下を全滅せしめんと策動したのであつたらう。
 徳川氏が豊臣氏を亡ぼしたる事情に比しても、豊臣氏が織田氏を亡ぼしたる本情に比しても、鳥羽伏見の開戰は、此等の事情に比して更らに甚だしき露骨なる權略的暴擧であつた。
 徳川方は發砲せられて降服す可らず、逃走す可らざるは勿論のことであつた、是に於て應戰となり、悲むべき私闘は生じた、無論其の初めには薩長方に錦旗なし、朝廷の軍にあらずして薩長二藩の兵であつた、當時山内容堂も部下に對して「之れ私闘也」と云つた、(長岡清治著舊夢白虎隊第一三二頁に依る)
 當時西郷は曰く、
 「此度の創業幸に我れ勝たば、主として統一を圖るべし、彼勝たば、徳川氏の中興正に成り、天下靡然として一に歸せん、皇國の獨立は期して待つべし、故を以て、我れ勝つも好し、彼れ勝つも好し、其勝敗の如きは論ぜずして可也、兎も角も一戰を賭して、日本の統一を圖るにあり」と
 此の言は如何にも亂世的英雄らしく聞へる、正さに是れ「戰爭を以で天下取りをやらう」と云ふに歸着する、人民の死生は問ふに及ばず、國費の浪費なぞは憂るに及ばず、無事太平の解決なぞは擇む可らすと云ふを其結論とする、勝てば、自分等の勝手に天下を處理し、負ければ「徳川氏の天下となりて可也」と云ふにあつた、之れ果して西郷の云ふ「敬天愛人」の大義に合するものであらうか。
 慶應三年十二月九日の諭告に曰く、
 「諸事神武創業の始めに原つき、縉紳武辨堂上地下の別なく、至當の公議を竭し、天下と休戚を同く可被遊叡慮に付、各勉勵、舊來驕惰の汚習を洗ひ、盡忠報國の誠を以て可致奉公候事」
 岩倉・西郷等は此の「至當の公議を竭し」と云ふ尊き御諭告に對して、如何に考慮したのであらうか、當時若しも至當の公議さへ竭されたたらば、九日の小御所會議も至誠奉公に終わり.慶喜等謹んで之れを奉じ、天下は泰平であり.王政復古は、美事に進行したのであつた、斯くせば、人民の幸福は如何ばかりであつたらう、斯くありてこそ、「敬天愛人」の大義は生くべきではないか。
 大政奉還は、既に前年十月を以て成就したのであり、幕府は其の時に消滅したのである。「徳川の中興」なぞ斷じてあらしむべきものではなかつた、然るに西郷は、戰の勝敗によりて徳川の中興生じて可也と言明したのである、之れ果して忠誠の言と云ふを得ようか、王政の復古は、既に成つたのである。進んで爲すべきは、各藩何れも其權力を朝廷に奉還すべき一事であつた、慶喜は既に之れが範を示したのである、然るに、他の藩主藩臣に一人として此の精神なし、島津も毛利も其の藩臣も、其の儘大藩としで引續き存在し、依然として地方の權力を握り、地方に君主の威を以て存在せんとしたのであつた。斯くして、天下の統一の成らう筈なし、然らば西郷には「統一」の言のみあつて、統一の實を完ふする誠意なかりしものと言ふべきではないか、統一を欲するならば封建の癈止でなければならなかつた。幕府既に亡びたる後に於て、唯だ一家の徳川氏のみを追窮することが、當時の緊急事業では斷じてなかつた、伏見鳥羽の戰なぞは國家國民の爲めに、避く可りしものであり.斯る無益の流血なくして至當の公議を竭し.諸侯を癈し、王政復古を至誠を以て進行す可きであつた.國民として顧みて返す返すも遺憾である。
 若しも徳川方にして、執拗に封建の存續を圖り、日本國をして世界の大勢に順應せしむるを阻止する所爲もありしとせば、薩長及び公卿等が唯一に武力を以て、徳川方を討滅するは、當然執るべきの處置であつた。併し乍ら、徳川幕府は國家の爲めに自ら消滅し去つたのである。幕府方に確に此の正しき行道あり、然るに、薩長の人々が、幕府亡びし後ちの徳川方を壓迫し、故更に戰亂を起さしめたるが如きは、何等是認すべき理由はないのである。今の國民は斯く判斷せざるを得ない。
 人若し自ら放火し、火焔大いに擧れるを見て、聲を大にして警報を傅へ、之れが消火に努力し、而して後ちに「鎮火は我が功勞也」と云ふものあらば、何人も其の弄策を不正視せざるものは無いであらう。
 自ら權略陰諜之れ事とし、王政復古成れる後に於て、内亂を煽動挑發し、然る後ちに、兵力を以て之れを平げ「王政復古の功勞者は我等也」と宜傅するものありとせば、國民は其等の徒の弄策を正しからすとして裁判せざるを得ないであらう、之れ國民的公判である。
 伏見開戰の責任者は、薩長方にある、而して其初めは私闘であつた、夫故に若しも「喧嘩は兩成敗也」と云ふならば、徳川方も薩長方も同し樣に罪せらる可き筈であつた。然るに輪王寺宮の御令旨にもある如く、第三日目よりして、錦旗は即妙的に薩長方に掲げられた、而して徳川方の敗北にあらざりしも「形勢不利也」として徳川方は其兵を引揚ぐるや、此の總退却者を以て「逆賊也」と公然宜布せらるゝに至つた、國民よりして此の史實を今日に於て科學的に判斷せしむれば、何れが正、何れが非也と爲すであらうか。
 應戰者には逆賊たる意思もなく、逆賊たるの行爲もなし、唯だ武士の習いとして應戰せるの一事あるのみ、今日よりして公正に裁判すれば、徳川方は、唯だ單に、正當防衛の行動を取れるに過ぎないものと判決して然る可きであらう。

 214-221頁
  江戸城引渡の眞相と英公使の干渉 (目次)

 (一)

 江戸城の引渡と云ふ歴史上の一大事件に付ては、六十年の久しきに亙り、小説的の解説が世に傅つて居つたが、近來に至り、其眞相が學者の間に明かにせらるゝ至つた、歴史をして小説たらしめざるが爲めに此事洵に結構のことである。
 由來此事件に關しては、西郷と稱し、勝と呼べる二大人物の明智明徳照應の結果として圓満無事に行はれたものゝ如くに宣傅やられたものである、併し乍ら、左の史實の前には樅來の傅説は雲の如くに消へ去るのである。
 「官軍方から、あの當時を見ますと、西郷は箱根の峠を踰ゆるのを己に危險に思つたが箱根の峠も案外無難に通れた、そこで三月十三日に愈焦江戸へ進軍するといふ時分に、明日はどうしても一戰爭しなければならぬ、何と言つても江戸の城だから大分の怪我人が出やうから、横濱へ病院を設けやうという考で、横濱で其時分幅を利かしで居る英国公使パークスは、以前から、薩摩並に長州に關係があるから、之をうまく説き込めば、江戸戰爭が出来ると思つて、參謀木梨精一郎、大村藩渡邊清をば、パークスの處へやつて「戰爭の事に付援助してくれ」と申込んだ處が、是が一言に拒絶された、英吉利をば、我が味方の叔父さんと思つて居る官軍、それは丁度幕府の人が、佛蘭西人を味方と思つて居たと同じ寸法だ、所が横濱には、仏蘭西の軍艦も英吉利の軍艦も並んで居て、列國環視珊祗である、(中略)パークス曰く「こちらは局外中立だ、病院所の話でない 薩長の考が惡い」と意見する。恰も親父が自分の子息に意見をする樣に、「既に徳川慶喜が恭順して居ると聞く、さういふ者を窘め7どうする、もし進んで戰爭するならば、こつちも考があります」と云つて多少の抗議を申込んだ、西郷も之を聞いて「さうであつたか」と流石は平然として居つたが、其の時西郷の心機は忽然變て仕舞つた、全く戰爭は出来ない、即ち勝の云ふ通りに江戸城を無條件で明渡す事に同意したのである云々」(吉田東伍博士著「維新史八講」第二二八-二三〇頁及尾佐竹猛氏著「幕末外交物語」第二八一乃至二八二頁)
 江戸城は、既に恭順者のみの謹慎しつゝあるに拘はらず、西郷の率ひたる官軍より砲撃せられんとし、從つて三月十三日には無益なる兵火は、江戸市を焼き盡し、三條等の兼て希望せる如くに、江戸は「焦土と化せん」とした、幸にして英公使の干渉あり、西郷をして兵火を用ゆるを思止らしめたのであつた、之れ史家の公表する史實であり、決して小説にあらず。
 凡そ人道を重んずるものは、降服者に對して、攻撃を加ふべきにあらざるを理解する、然るに西郷派は此の正しき道を擇むを欲しなかつたものと見へる、國民は公正に、此の權變的心事を批判して然るべし。
 昭和二年十二月中東京に於て江戸六十年祭の行はれし折、某文學博士は、右の史實を、公衆に向つて講演せられたのであつたが、明治の初年には、斯る史實は、世上に現はれ得なかつたのであつた、併し乍ら、今や昭和の輝ける時代となり、時勢は變化し、過去歴史上の事實は昭かに事實として、世に示さるゝの時代となつたのである、歴史は斯くして初めて輝があり得る。

 (二)

 慶應四午三月十三日、江戸城引渡に先き立つて、勝が西郷に送つた書面と云ふものあり、左の如きものである。

 「昨年以來、上下公平、一致の旨あれども各々其中に私あり。終に今日の變に及ぶものは、皇國人物缺乏に依る。
 就中伏見の一擧、一二の藩士を目して失錯あるは、我が最も耻る所、堂々たる天下終に同胞相食む。何ぞ其陋なるや。
 我輩忠諫、一死を以で報ずべきも、既に其失前日にあり、今日何の面目あつて口を開 かむ。然りと雖も、不日にして一戰數萬の生靈を損せんとす。其戰や、名節條理の正數にあらず。各々私憤を抱藏して、丈夫の爲すべき所にあらず。吾人是を知れども、官軍猛勢、白刄飛彈を以て、漫りに虚勢を假り、尫怯之士民を劫せば、我も亦一兵を以て是に應ぜすんば、無辜の死益々々多く、生靈の塗炭益々甚しからんか。軍門實に皇國に忠するの志あらば、よろしく其情理を詳かにし、後一戰を試るも可也。
 我輩も亦能く其正不正を顧み、敢て漫に輕卒すべからず、嗚呼、我が主家滅亡に當りて、一之名節大條理を持し、從容死に就く者無きは、千載の憾にして、海外の一笑を招くのみ、我輩之を知れども力支ふる能はず、共に魚肉せらるゝものは、深怨銘肝、日夜焦思し、殆んど憤死せんとす。憐れ其心理を詳察あらば、軍門に臨み、一言を談ぜむ。  幸いに熟考せらるれば、公私の大公、死後猶生くるが如くならむ。謹言
   辰三月                        勝 義 邦

 從來世人は、此の書面に關し、官軍の總參謀西郷は之れに敬服し、其攻撃決心を變更したものと説いて居たのである、併し乍らそは右の史實によれば此の宜傳は謬りである。
 此の書面は、之れを仔細に研究するを要する、此書は意義明白を缺ける點多し、「各々私憤を抱藏して」とある點は、私心を包藏せる薩長への面ら當であり、頗る可也と見る。併し乍ら、薩長の術策と非道とを攻め立てる丈けの正義に立脚せる大勇氣を見せて居ない失がある、「漫りに虚勢を仮り尫怯之士民を劫せば我も亦一兵を以て是に應ぜずんば云々」は、「徳川方にも戰の準備あり」と云つた風の脅し文句に見へる、併し乍ら、小栗等の主戰論者は、既に江戸を去り居らす、慶喜は固く恭順と決意して居り、佛人シヤノーアンの進言は排けられ、用ゆ可きの兵は既に絶無である。夫故に斯る脅し文句は、一大權略家たる西郷に何んの脅威力をも與へ得ぬ事疑ふ可くもない。
 「軍門實に皇國に忠するの志あらば、よろしく其情理を詳かにし後一戰を試むるも可也」云々は、平和か戰爭か、何れを擇まむと云ふのであるか、主張明確を缺き、恭順とも見へず、脅し文句ともならざろを如何んせん、斯る事を西郷に向つで云はんと欲するならば、慶憲三年の末頃に於て、モット早く條理を正して云ひ送るのが勝としては至當であつた。初めから、壓迫一點張りにて押し寄せ來れる西郷に對して、急迫せる此時機に、初めて斯る事を述べたからとて、何んの役にも立ち得ざる説法也と云ふべきである、「主家の滅亡に當りて一之名節大條理を持し、從容死に就く者なきは、千載の遺憾」云々との文句は、何んの事を云ふのかサッパリ分らない點である。勝に此從容死に就くの志あらば、川路の如くに、先づ自盡す可きではないか、勝の云ふが如く「私憤の爲めに白刄飛彈を以て漫りに虚勢を假り士民を劫し來れる西郷の軍」に對して、城を開いて降服することは「名節」にも「條理」にも合するものにあらざる可し、以て如何となす。幾多忠節の友を賣り、事後薩長政府に白々しく事へて、世渡りを巧妙になし、友を罵りて己れ獨り優れりと嘯き、一生を放言漫罵して気樂に世を送りし勝海舟には、「智あれども義なし」と云ふで然る可きものであらう。賢明なる西郷素より之れを觀破せしならん。
 要するに、彼の文書の爲めに、西郷が江戸城攻撃を中止したりと云ふが如きことは有り得可くもない。

 221-224頁
  徳川方脱走者の飛檄 (目次)

 慶應三年の終り頃には、徳川方の人々は、遽かに薩藩人を「奸黨」と目するに至り、長州藩への以前の討伐心は一轉した風があつた、幕府が長藩を討ちしは事素と私怨に出でたるにはあらずして、長藩が宮廷に發砲したる不臣の行爲を處罰するが爲めであつた、併し乍ら薩藩に對する反感は之れと全く其趣を異にする。
 薩藩は、慶應二年以来長藩と結ぶに至つた、併し乍ら、露骨に徳川方を憤怒せしむるの策を弄したるは、慶應三年十二月九日の小御所會議以後にある、此時以来徳川方は、萩野博士の批評するが如く「眞に尤もなる憤怒」を發したのであり、生ける人間として不平うつ結し、憤激せざるを得なかつたのである、其の事情は、慶喜の上奏文に依つても明かに知らるゝのであるが、徳川方から脱走したる連中の檄文にも、亦好く其れが顯はれて居る、
 曰く、

 檄  文

戊辰四月薩賊奸謀ヲ逞ウシ徳川ヲ朝敵ニ陥レ、封土城郭兵器悉ク奪ヒ、以テ君父ヲ討シム、決 而公明正大之王政ニ非ス、況ヤ今上幼冲叡慮ニ出サル事、天下衆人ノ識ル所、畢竟彼カ所爲ニシテ朝廷ヲ欺キ奉ル所ナリ、薩賊前日尊攘ヲ主張シナカラ、今日既ニ皇國ヲ輕侮シ奉リ、朝憲ヲ亂シ人倫ノ大義ヲ破リ、外夷ニ媚ヲ献スルニ至ル、其反覆表裏、賣國ノ賊タル事明ナリ、諸藩主一ノ諫爭スルモノ無而己カ、却而悪ヲ助クルハ、抑何事ソヤ、嗚呼悲哉。
皇國ノ正氣泯滅シ、外國ニ呑併セラルルノ期遠カラザル也、夫レ大君一己ノ私ヲ去リ、皇國百萬生靈ノ爲ニ、社稷ヲ惜マス、三百年之其業一朝ニ抛チ、水戸ノ僻邑ニ退隠ス、大君ハ眞ニ仁者卜謂ヘシ、僕等譜代恩顧ノ臣トシテ、泣而奉命主家ノ轉覆ヲ救ハス、賊徒ニ一矢ヲモ投セス、ヲメヲメト脱走スルコト士道ノ耻辱、先朝光明天皇大皇帝、及徳川氏祖神へ對シ、地下ニ謝スル詞ナケン、然ルヲ今僕等忍ンテー命ヲ全シ。暫ク浮浪ノ徒トナルト雖モ皇國ノ人民タリ、安ンソ賣國不義ノ賊卜倶ニ天ヲ戴クニ忍ンヤ、唯節に死シテ後已ンノミ、待ヘシ、不日ニ薩賊ヲ屠リ、且是ヲ助タル藩士ノ不義ヲ問ントス、是全ク僕等カ私ニ非ス、報國盡忠鋤奸ノ義擧ナカル可ラス、此時ニ當リ、錦旗天地ニ飄翔スルモ必蹈躪スヘシ、錦旗素ヨリ人之手ニアリ、賊手ニ在テハ賊手ニ動ク、賊旗何ソ恐ルルニ足ランヤ、大公至正忠膽義烈、徳川浪士、皇國之爲ニ賣國不義ノ賊ヲ誅鋤ス、則チ天兵ナリ、天兵起ルノ日、兼而同盟全義ノ諸藩、君臣四方ニ應援協カスヘシ、過テ機會ヲ失ヒ汚名ヲ千載ノ下ニ殘スナカレ、因テ檄ス
         戊辰四月                 徳川脱藩浪士共

 右の檄文中「薩賊前日尊攘を主張し乍ら、今日は外夷に媚を献するに至る、其反覆表裏、賣國の賊たる事明也」の文句は、當時の事實に立脚して述べたものである、薩長人等一味の唱へし「攘夷」と云ふは、蓋し是れ社會革命的一種の手段であり、彼等は其實行を確信して此の主義を爲したるものにあらざりしを喝破したものと見ることが出來る、是れ今日の政治家の非難する所謂「外交を政爭に利用したもの」と云ふ可きである。之れに反し開國諭者には斯る譎詐なし、其故に攘夷論者の心實は、當時政府たる徳川幕府方より危険思想視せられ、憎悪せられ、壓迫せられしは、至常也と云ふ可きである。若しも一部公卿及薩長人にして、確信を以て攘夷を主唱したるものであるならば、彼等が權力を握るに至りしや否や、直に其所信を斷行すべきであつた、脱藩士が此點に於て薩人を攻撃せしは道理正しと評して不當にあらざるべし。

 224-233頁
  東北二十餘藩奮起と輪王寺宮の令旨 (目次)

 六十年前を囘顧するに、當時に於ける東北諸藩の士分の奮起せる其の眞の志は、國家正義にあつたのであり、其基く所は、輪王寺官の御令旨と御諭告とに感奮したのであつたのを見る、御令旨は左の如きものであつた。
 「教化而理萬國者、明君之徳也、撥亂而鎮四海者、武臣之節也、是昔大塔宮護良親王之令旨也、方今君側之奸臣等、謀議廟堂、濫造朝典、以殺伐擾亂海内之所業、雖託朝命、其實不出于新天子之至誠、列聖神靈之所鑒、天下億兆之所見、萬々無可疑、特被惑僞命、脅從威權之諸侯不少、孤者今上之叔父也、非孤誰明白批奸歟、故今冒萬死一言之」
 以上の令旨を奥羽諸藩に布告せられ、天下の大小諸侯に向つて掃蕩の功を奏せんことを御依頼あらせられた。之れ慶應四年七月、宮が仙臺の城側仙岳院に入らせ給へる直後の事である。
 之れより少しく前きに、中將父子と、列藩重臣に謁を賜ひ、論告書を下し給はれた其の文に曰く、
 嗟呼薩賊之懷兇悪、漸恣殘暴、以至客冬、欺罔幼主、威脅廷臣、悖先帝遺訓、而攝關幕府、背列聖垂範、而毀神祠備閣、陽唱王政復古、陰逞私慾、百六搆架、以負冤於故幕府及忠良十館藩、遂至脅狹鸞輿駐驛於浪華、矯令諸侯、而興六帥、虐使百姓、而奪恒産、四海鼎沸、五倫將墜、大逆無道千古莫之比、今以匡正之任囑之、其藩宣明大義、諭之遠近、克盡龍虎之力、速殄兇逆之魁、以上解幼主憂惱下濟百姓塗炭矣、勉哉、天下所望雲既久、四民所迎、食栔維新、勝算固不寄疑者。
輪王寺一品大王鈞命如件
其副書に曰く、
「此度奧羽越列藩天下匡正奸賊掃攘之義擧有之段、於宮御方厚御依頼之御事に候、就ては
諸事列藩會議之上取計候儀は、可有之候得共、自然管轄之任無之侯ては、行届兼候儀も可有哉と思召侯間、富分之内仙遊中将殿米原中将殿所所にて別鈍斟酌施行被有之可然由御事に候」
   辰七月              執    事
是に於て奧羽越同盟公議所は、右御令旨に從ひ、左の如く布告したのであつた。
「薩賊之兇暴古今其比を聞かず、恐多くも日光の宮を禍に陥れ奉り、徳川慶喜に冤枉の嚴譴を負はしめ、其不直を雪白するに途なく、涙を呑み手を束ねて、殆んど屠戮に就んとせり、宮は累年の厚誼を思召て、深く御憂憫ましまし、慶喜公の冤枉を明白にせんと、法輿を馳せて、二月下旬駿府城に至り給ひ、大總督の官に御對顏あり、伏見の事の起源より具に仰られければ、藩賊勅命を矯めで云、慶喜恭順實效相立候へば必ず寛典處せられ、家系禄家皆憂することなしと、宮は其誣罔詭詐を洞察し給ふと雖も、勅命の稱至嚴なれば、江戸に歸り慶喜公に告給ふ、已にして、慶喜公祖宗創業の地を開き、水戸に退隠し、兵器軍艦等を朝廷に奉り、實效殘るなく立られけれども、朝廷の嚴譴終に御赦免なく、徒に他郷荒陬に孤囚の身となし給ふ、宮は万益々御哀愍ましまし、屡御書を大總督の宮に遣りて寛典に處せられ候樣、仰進められけれども、藩賊擁蔽して之を通ぜず、剩へ宮の御英明を忌て、除き奉らん事を謀り、屡上京を促しける、江戸の市民之を知つて市中及近郷數萬の人々、各歎訴狀を捧げ、御發輿を留め奉りしかば、其至情深く御不憫に思召され、御延引遊ばされけるに、藩賊亦總督府の命と稱し、御登城を促し、城中に留め奉らんとせしに、宮は御所勞にて御斷り遊ばされ、其外種々の奸計を運らし、除き奉らんと謀れども皆々相違しければ、終に三條茂美等と相謀り、五月十五日未明東叡山を暴襲し、勅額の掛りし中堂諸社、官の御殿に至るまで砲彈を以て燒打し、僧徒を殺戮し、財物を掠奪し、殘刻貪婪を極め、宮を捜索すること甚嚴密なり、日光山も已に賊軍の據となり、途方を失ひ給ひしが、奥羽列藩義會盟の由遥に聞し召し、勿體なくも皇胤御身を以て、下賎の徴装をも着し給ひ、兇賊を平定し、朝廷を清明にせん事を諸侯に托し給ふ、素より宮には先帝の勅命にて、出家入道し給ひ、確固たる御道心にて、慈悲忍辱佛法の本旨を以て、萬民の塗炭に苦しむを救はせられんとの思召なり、萬民の塗炭に苦しむは、畢竟薩賊の爲す所なれば、此賊を討滅し、國家太平安樂に歸するは、即ち佛法の本旨、宮の御深意なり、嗚呼誰か皇國の民ならざらん、誰か皇胤を尊ばざらん、薩賊の兇暴奸詐、既に此の如くなれば、假令天日地に落ち、海水涸る事有とも、誓て此賊と世を同じくせず、庶幾は遠近の衆庶、宮の尊意を感戴し、雲霧を開晴し、東叡山に歸し奉らん事を、天下の士民其事實を審にせず、宮の御深意を辨ぜず、南北兩朝故事を附會して、誣罔の説をなさん事を恐るゝ故に、其大略を記して遠近に布告する者也、」
東北の諸藩士が、當時如何に薩藩の詐略を憎みしかは、之れを以つて窺はるゝ、「薩奸」とは、蓋し藩主の事ではなくして、主としで藩人を率ひたる薩藩の巨頭西郷等の事を指せしこと云ふ迄もなし。
 當時宮は、順逆を明白にせらるゝの思召により、左の如く事實を天下に宣明せられた。
 一、徳川慶喜政權を奉復天朝は、去年十月十四日也、伏見砲撃の一擧は、今年正月三日也、錦旗を出す其第三日也、奸臣等此事變に僥倖し、慶喜に無謂叛逆之罪を爲負、及其恭順謝罪俄に滅死一等、剰へ以一己之私等、七十萬石之名跡を許す、實に濫賜濫罪、蔑如幼帝、獨擅朝權之蹤跡顯然、不可掩、使先帝在、其謂之何、其罪一、
一、其廳使諸侯也、猛王命を以て逼之、既爲王朝之臣、舊主之存亡は越人之肥瘠と申惑し、使弟伐兄臣伐主、人情固有之、倫理を亂る、聖教の罪人不可容天地、其罪二、
一、五月十日賊徒等勅願も之有寛永寺へ砲發之一條、惨毒之至、孤不忍言之、其殺戮之甚に至つては、暴戻恣睢肝人之肉、盗跖にも難比、實に人皇二十二代之今天子に當り、奉穢聖徳而巳ならず、彼世史業三大書恐るゝも尚餘りあり、其無知強暴、不畏天威之致方、神人共怒、言語道斷、其罪三、」(永岡清治著「舊夢白虎隊」)(註)
 正義を重んずる正直の東北人をして、怒髪冠を衝き、血涙を絞つて、宮の御令旨に適ひ奉らんとせる事情、今日にも有り有りと見らるる。
 慶應三年十二月九日の小御所會議に於て、岩倉及薩藩の西郷以下某々等にして、若しも至誠を以て君國の爲めに計り、純忠公正、天地乃公道を重んぜしならば、又伏見に於て、上京君命を奉じて上洛せる慶喜を突如として襲撃するが如き不正の策動なかりしならば、宮の御憤慨もなく、東北人の憤怒も生ずるなく、日本國民は、世を擧っで泰平無事に、聖天子の御恩徳を謳ひ奉り得たのであつた、當時の正義奢が、權略を擇びたる薩藩の頭目西郷等を奸黨として憤慨せしは、確かに道理に叶へる涙であり怒りであつたと云へる。
 當時既に幕府なし、「佐幕」と云ふことあり得可くもない、佐幕の爲めに、東北人が戰つたのではなかりしこと云ふ迄もない、彼等は正義の爲めに起つたのであつた。
 今日にても、東北例ば二本松の士族の子孫なぞは、其の當時を談れば、先づ感憤して落涙するのである、筆者の知れる某名士の賢夫人の如きは、其の子に論して、「後來爾は當時の暴戻の事情を記しで正義を國民に訴へよ」と云はるゝを常とする程である、二本松の士人は正義の爲めに身命を捧げて勇戰したのであつたが、世人多く此事を知らざるは、餘りに同情心に缺けたりと云ふ可きである、否な世人多くは一方の爲めの歴史のみを讀まされて、他の正しき歴史を知らないのである、庄内は最後に戰つた、最後の戰でありしが故に、官軍としては、恐怖政策を行ふの必要なく、從つて西郷は庄内人を非常に寛大に取扱ふて、恩義を施し、抜目なく此の地方人士の懐柔を努めた、流石に西郷は群小と異なる政治家らしき大權略家であつた、此事案の通り成功して、庄内人は西郷を徳とし、今日にても、舊藩主の家にては西郷を祭るとの事である、蓋し此の頌徳は、自己の利益より打算せられたるものか否か、何んの爲めに東北人は西軍と戰ひしなるかを一考し見ること必要であらう、庄内追討は薩人大山と長人世良との仕事でありと稱せらる、何故に東北戰爭なるものは抑も起りしなるかの原因を考慮し來ること庄内人としで肝要であらう。
 薩藩政他東北侵入の兵士の亂暴狼籍を爲せる事に付では、永岡清治氏著「白虎隊」(大正十五年九月十日印刷)の中に左の記事がある、氏は會津の人であると聞く、好い參考書である。
 「西師の長岡二本松其他の東師の領地に入るや、無辜を殘害し民舎を燒毀し家財を侵掠する報告頻りに來り、會藩をして益々王師民を吊ふの意に非ざるを信ぜしむ、而して其長驅して會津に入るや、過ぐる所殺傷焚掠愈甚しく且つ急なり、先鋒相爭つて農商の家を問はず、其赤壁堊倉標識するに足るべきものには、「某藩某州分捕」と大書して後入者をして之を占領せしめず、十里の間鶏犬の聲なく滿目赤地に化し、所謂春燕歸りて林木に巣ふと云ふも愚なり、其武を涜すの最たる者は、酒に酗み色を濫する者も是あり、苟も其心に合はざれば、之を殺傷して奔逃するの類にして、商人の婦女最も薄命なり、偶ま其悪虐、士流の婦女に及ぶ時は、其無禮漢は、却て害に逢遭するなり、蓋し士流の婦女は、皆一に從つて終るの訓を守り、且常に和歌に親み書を誦し、敢て身の不幸を以て二に從はざるなり、云々」(同著一八〇頁參照)
 彼等の兇暴なりしこと人をして戰慄を催さしめる。
 奥羽二十餘藩家老連名の大政官に呈せる建白書中にも左の如き言辭がある。(井上一次中將の近著「鶴ヶ城の血戰」八七頁以下に依る)
 「如此奉矯王命、一己の私怨を恣に仕候者を其儘被差置、掠財貪色殘忍狂暴、無不至、萬民塗炭の苦に陥り候ては云々、實に王政復古大業の妨害と相成候は目前に御座候云々」  日本人にて有り乍ら、罪もなき日本人を苦しめ、辱しめ、泣かしめたることは、拭ふ可ざるの大罪惡であつた、世界の大勢に從ひ、幕府は其前年に既に亡んだのである、幕府亡びし後に於て、薩長人は日本人同士の爭闘を國内に敢てすべき何等正しき理由を有する筈はないのである。自己の思ふ通りに新しき世の中を作らんとして自分の爲めに不利なる人々を極度に壓迫せんとしたのが、即ち國内戰爭の原因である。
 政爭とか革命とか云ふものは、何れの國に於ても害のみありて利なし、斯る惡事は再び世に生ぜしめてはなるまい、過去は未来への鑑みである、明治以後、日本人は擧つて藩閥政府を有害として罵つた、併し乍ら此の種の政府の成立したのは、彼等の權策暴横を、遠く慶應三四年に於て是認し、之れに呵附し、之れを幇助し、之れを救民的一大功績者の如くに賞めたゝヘた事に原因する、凡そ物の成るや必す其の因あり、世人は此の點に於て、後來に過なきことを警むべきである。國民は一致すべし、私を去つて公に奉ず可し、我等は「日木民族の安榮」と云ふ事に向つて、國民の総力を捧げねばならぬ。

(註)

『舊夢會津白虎隊』七ノ補-九ノ補

『舊夢會津白虎隊』180頁

「西師ノ長岡二本松裏他ノ東師ノ領地ニ入ルヤ無辜ヲ残害シ民舎ヲ燒毀シ家財ヲ侵掠スル報告頻リニ來リ會藩ヲシテ々益々王師民ヲ弔フノ意ニ非ラサルヲ信セシム而シテ其長驅シテ會津ニ入ルヤ過クル所殺傷焚掠愈甚シク且ツ急ナリ先鋒相爭テ農商ノ家ヲ問ハス其赤壁堊倉標識スルニ足ルヘキモノニハ其藩某州分捕卜大書シ後入者ヲシテ之ヲ占傾セシメス十里ノ間鶏犬ノ聲ナク滿目赤地ニ化シ所謂春燕歸リテ林木ニ巣フト云フモ愚ナリ其武ヲ涜スノ最タル者ハ酒ニ酗ミ色ヲ漁スル者モ是アリ苟モ其心ニ合ハサレハ之ヲ殺傷シテ奔逃スルノ類ニシテ商人ノ婦女最モ薄命ナリ偶マ其ノ惡逆士流ノ婦女ニ及フ時ハ其無禮漢ハ却テ害ニ逢遭スルナリ 蓋シ士流ノ婦女ハ皆一ニ從ツテ終ルノ訓ヲ守リ且ツ常ニ和歌ニ親ミ書ヲ誦シ敢テ身ノ不孝ヲ以テ二ニ從ハサルナリ是レ國子教ノ致ス所ナリ」

 233-243頁
  會津藩の忠誠と其正當防衛 (目次)

 會津の藩は、勤王の藩であつた。京都守護職として、好く其の任務を盡したる所より、孝明天皇の御宸翰を賜はりし事實が、印ち勤王の藩たる立派な證據である。會津藩は國家の功臣であつた。
 會津藩が、「新選組」を使用して、當時國家の秩序を紊さんとしたる浪士藩士等を、極度に壓迫せることは、反對派の深怨を買ひ、彼等反對派が、權力を握るに至るや否や、俄然として會津藩は反逆人でもあるかの如くに勅命をさへ布告せられて無殘至極に取扱はるゝに至つたのである。之れ理にあらずして權謀者の仕組める悪辣である。
 會津藩が、慶應四年正月慶喜の上京を護衛したるは、親藩の情としで至當である。會津を敵視したる岩倉等が、一時の權策として、會津藩に向ひ、本國への歸還を命じたりしに對し、會津藩が直ちに之れに應ぜずして、徳川慶喜を護衛して上洛するの途を取りたるは、反對派の爲めに、會津排斥の好個の一口實を與たるものである。併し乍ら、此事ありしが爲めに、直ちに薩長二藩の兵力を以て突如として會津は制裁せらるべき理由はないのである。會津は、薩長の配属にあらざること勿論である。
 鳥羽伏見の戰は、前述の如く、薩長方に開戦の責任がある。當時會津の家老の名を以て、 上野法親王並に加賀尾張紀井等二十餘藩に由り、謝罪せし歎願書には、左の如く記述せられてある。(井上一次中將著「會津鶴ヶ城血戰」第八十六頁以下參照)
 「謹て言上仕候、老寡君容保儀、去戊年京都守護職被命候處、弊邑の儀は、東奥の藩鎭且帝郡を離間の事二百餘里、應援達響の道も無覺束、力を計り其任に勝へさらん事を恐れ、辭 退申候得共、其節の御事體艱難、皇國の安危に拘り候御場合故、強て可相勤旨被命候に付、數百年来の隆恩に奉報度、闔國決議、京都を以て、墳墓の地と心得、罷登り、大樹、尊王の趣意致遵奉、周施奉職仕候、然る所不圖も、蒙先帝無限之寵眷、御賞譽の宸翰を下し賜り、其外度々御宸筆被下置、恩賜の品々も幾度となく拜戴仕候、元来容保儀、誠實一片勵精致、毛髪も私意無御座候に付、先朝以來格別の御依頼を蒙り、大病の折柄は、無勿體も、至尊の身を以て、於内侍所、御祈祷被遊下、君臣水魚の情態、宸翰の表にも御顯し被下、當朝に至ても、先帝以來叡感思召被下、参議被任、前後天恩の難有、主從感戴泣謝罷在候、隨て大樹よりも、度々の褒賞有之、彼是重々の隆恩、闔國肝胆に銘し、冥加至極、難有奉存候、前件の通、兩朝歴然たる厚眷、容保の誠實、前後相替候儀、分寸も無之侯、伏見戰爭の儀は、徳川内府上洛、先供一同登京の途中、發砲被致、武門の習、不得止應兵、及一戰候儀にて、敢て闕下犯候儀、毛頭無之は、萬人共に知る處に御座候。
右に付今日に於て、不料も不慮の汚名を蒙候處、臣子の至情、日夜慟哭、不雪君冤、死すとも不止と、闔國決心仕候、頑固の習風、何共撫諭の道無之、於私共極々警苦心仕候間、此上は寸時も早く、雲霧快晴、一藩の人民安堵仕候樣、幾重にも奉懇願候、別紙宸翰の儀は、先帝御深意被爲入、被下置候儀故、深筺底に藏置候へ共、國事危急の今日に差迫儀に付、御内々奉入御覽候間、此段御垂憐被成下、乍恐御奉答聞の儀、伏て奉歎願候、恐惶謹言」
 之れ僞らざる事實の闡明である。理非は明白であり、權略は反對派方にあり、會津より見ては、伏見の戰は、正當防衛の行爲に出しこと明白である。決して犯行にあらず。然るに薩長方は、正當防衛者に對して、不法の行爲を敢て爲せるものとなし、之れに逆賊の汚名をさへ與へた。
 會津の老臣等は之れを憂ひ、「藩の人民安堵仕候樣幾重にも奉懇願候」と上書した。此の上書を容れて、公正の處置を爲せしならば、會津藩臣は感謝心服し、日本人民は無事泰平を樂むを得たのであつた。然るに、薩長の政府は、之れを容れず、武力を以て極力會津藩を壓するに邁進した、之れ果たして、五カ條の御誓文に示し賜へる「天地の公道」に合せる處置であらうか、御誓文は尊し。
 會津藩は、更に米澤藩に由り、謝罪の歎願書を上つた。薩長の權力者は、之れを一蹴した、次で奥羽列藩の連名歎願書となつた。薩長政府下の有司は一顧だに與へなかつた。
 次で奥羽列藩家老連名を以て、大政官宛の建白書となつた。此の書を携へ行きし使節は、宇和島藩に拘禁せられた。會津藩の謝罪書は、前後合計二十餘通に及んだ。然も東征大總督に達したるものは、唯だ僅に一通のみにして、他は「中間者の阻止する所となりし」ことを、井上中將の最近の著書に記してある。(同中將著「會津鶴ケ城血戰」第十五頁參照)今日の國民は、以上の事實を何んと見るや、當時の薩長軍は、極端に好戦者であり、平和を欲せず、人民の利福を念とせず、唯單に所謂「恐怖政策」を以て、人民を威壓し、私怨を霽し、天下を取らんとせしものなることを看取すべきである。然らぱ當時の薩長軍は、五ケ條の御誓文を尊奉せず、「天地の公道」を蔑視したるものと判斷せられても辯解の辭勿る可し。
 會津は一大雄藩である。一箇人ではない。恭謙之れ事とし、如何に謝罪し、如何に辯明すとも、反對派の人々は、武力を以て會津藩に臨み、數千の藩士を屠らんとさへした。斯る場合に於ては、人は「生の權利」を主張し、理非を武力に訴へるより、他に途はないのである、縦令官の名を以てするにせよ、人民の奉ずる理非の辯明を無視し、武力腕力を以て、強いて人民に臨むに於ては、人民としては其の生を保護し、其の理非を正ふせざるを得ないのである。會津の一大雄藩が、當時無理槍に攻め寄せ來れる薩長其他の藩士の大軍に向つて、其の首を伸べて、思ふが儘に委することは、到底爲し得可くもない。去らばとて自害して一藩絶滅せざる可らさる道理もない。會津藩が、武士の習として應戰し、理非を決せんとしたるは、武士道として不正なりと云ふを得ない。
 會津藩の行爲は、不正にあらず不法にあらす、從つて彼の白虎隊の行動も亦、千古に光輝放たれるのである。若しも會津藩の行動にして、不正のものでありしならば、白虎隊の行爲は、不正の幇助者として、排斥せられざるを得ないと云ふ結論になる。
 慶應四年九月二十二日を以て、松平容保は戰を中止して、降伏した。蓋し容保は、假令降服するとも、必ず死を免れ得ないものと信じて此事を爲したのであつたと云ふことである。
容保獨り死し、其の藩士と其人民とを救はんとの人道心より出でたる降服であつたと云ふことである。(但し降伏謝罪狀には「臣父子並に家來共生死、奉仰天朝之聖斷」とある)其情や悲し、併し乍ら、若しも容保にして藩士と共に、最後迄も戰ふて、花々しく戰死せらるゝか、或は切腹せられたたらば、眞に無上の美しい行爲であつたらうと余には思へる。斯くして初めて最初に戰死せし忠誠なる人々の英靈は、眞に滿足す可きもの也と余には感ぜられる。
 小栗上野介の云へりしが如く、慶喜既に恭順したる後に於ての會津の戰は、敗北者たるべきこと明に豫想せらるゝところである。即ち一藩の士は、皆な死を好んで義の爲めに戰つた筈である。其故に臣下の人命を救ふが爲めに降服すると云ふことは最初の開戰と趣意合せず、一藩全滅し、其最初の目的に向つて絶對的に忠實であつたならば、如何に美しい最後であつたであらうと余には思へる。

 「附」

 奮會津藩出身某先輩の會津開城に付ての辯明 (目次)

 左記は著者の師事する某長老博士が、著者の原稿を一讀せられたる際に、附せられたる意見である。

 舊會津藩の一士辯じて云く會津開城に際し本書の著者は、松平客保の切腹せなんだのを非難せられるが、切腹も確に容保の取るべき道であつたが、降服しても決して容保の武士たる面目に疵がつかぬと思ふ。開城の議が傅るや、藩士の大多数(或は全部であつたかも知れん)は大反對であつた。併し藩祖の『主を重んじ法を懼る可し』とありし遺訓が藩士の心中に沁み込むことが深く、『御意』とだにあると水火の中にも飛び込むと云ふ藩風であつたので、此の反對を押へつけたが、開城の前後に是を憤慨して自盡したものもあつた位である。斯く大反對があつたにも係らず、容保が降服したのは、藩民の塗炭の苦を緩和するのと、多数の家臣の生命を助けることが、月的であつた。籠城し切れず、勝利の望が全くなくなつた時に、容保の取る可き道が三つある。第一は本書の著者の説の如く切腹するか、第二は最後迄戰つて城を枕にして討死するか、第三は降服するかである。第一の切腹は藩士等の斷じて同意しなかつたであつたらうと云ふことは、當時の藩の事情を知つて居る人の首肯するところであらう。然し群臣の不同意にも係らす容保にして切腹せば、結局殘徒は城を枕にして討死したであらう。するから第一と第二とは同じ結果となる。斯くなれば數千の軍隊は勿論、籠城した婦女子數百も命を落すに至る可く、(籠城の婦人等は落絨の際燒き草に火を掛け、又火藥を爆發せしめ、自殺後の屍を匿す役割迄用意した位決心して居つた)。又城外に居た婦人も、自盡する者、叉虐殺せられる者(戰闘力のない婦人の殺されたものゝ例は自分も知つで居るが、長州人にて自自せるものもある。長州人の編集した『維新戰役實歴談』中鳥藤太郎氏談を見よ)も多數あつたであらう、するから此の多數納人命を救ふのには、降服より外に道はない。而して近藤勇の死刑、小栗上州の虐殺などが、速くも會津へ傳つて居つたから、容保は自分父子並に重臣將長は、降服しても死刑は必然と覺悟した。(元來薩長並に公家の一部は反對派を甚しく憎悪したのは、近藤、小栗の場合が證明して居るのみでなく、中川宮朝彦親王に御生害をさへ迫つた位であるから、元兇と見倣されて居る容保は、降つても死は免れないと信じで居つた)。併し死刑は、自分父子並に重臣將長に止まり、士卒は助命されることゝ、是又容保は信じたが、『臣父子並東臣將長之死生奉仰天朝之聖断』とも書かれぬので、單に『臣父手並家來共』と書いたが、是は所謂辭令であると見て貰ひたい。右の次第であるから、容保の取るべき行爲の三つの中、何れを取つても、死は免れないと思つた。されぽ容保は、武士道の正道を辿つて死し、藩民の苦痛に關せず、數千の人を死せしむるか、又は武士道の權道を辿つて死し、藩民の苦痛を緩和し、數千の人命を助くるか、二つ一つであつたが、容保は第二の權道を辿つたのであつた。天正の昔に、籠城の主將が切腹して、士卒の命を助けた例もあるが、容保の行爲は、心術に於て是と少しも變りはない、只死するのに、少し遅い早いの差があるだけで、士卒の身代りに爲つた點は同じである如し、容保が死刑に處せられたら、本書の著者の議論も起らなかつたであらうが、意外にも容保が死を免ぜられたので、本書の著者の如き、嚴密なる武士道論者に罪を得るも、容保は生を貪つて降服したものでなく、從つて武士としての面目に疵がつかぬと思ふ。

(註)『維新戰役實歴談』(国立国会図書館デジタルコレクション)では、中鳥藤太郎氏の談は見当たらない。

 243-247頁
 十一 維新以後の内乱と國民の犠牲 (目次)

 維新の成れる後に、一部権謀家の策動に因る、無益なる紛糾生じて之れより忌むべき内亂起り、必然に一部少數者の専横となり、紛糾は、終に明治十年迄も繼續したりしこと、世上何人も周く之れを知る。
 此の内乱の爲めに蒙りたる國民的犠牲は、實に空前的、甚大なるものであつた。
 之れを財政経済的の見地より見るに、維新直後の紛糾の經費は、實に大約三千萬圓であり、鹿児島の亂の経費は、實に四千二百萬圓である。其他にも佐賀や萩の内亂もあり、數十萬圓を費消して居る。(此計算は、假りに之れを渡邉修次郎著「明治開化史」(第一四五頁)に依つて掲げたものである)明治初年の數千萬圓は、今日の數億にも當るであらう。日本國民の蒙りたる被害の甚大なりしこと、之れを以て明白である。此以外に日本全國に於ける財産の掠奪、土地家屋の荒癈を加算すれば、實に容易ならぬ財産的犠牲なりしことが知らるゝのである。
 更らに之れを人命の上より並に一家の離散及失業等の上より眺れば、悲しむべき大事件なりしを知るのである。鳥羽伏見に於ては、兩軍の死者三百人であり、其中には、眞に修養あり意氣の優れたる人物が多くあつたに相異ない。會津は前後の戰争に於て、敷千人の犠牲を出したのであり、昭和二年十一月發行の「戊辰殉難名簿」(山川健次郎男編輯)には、會津方の戰死者の姓名詳記しありて、其合計數なきも、概算するに戰死者三千名以上はある。此中には、眞に國民中の中堅たるべき人物が無數に居つたことであらう。此以外に、會津の白虎隊がある。大正十五年五月發行の「會津白虎隊十九士傅」(宗川虎次著、山川健次郎補修)
を一讀すれば、此の十九名の少年が、如何に純良の人物なりしかが判明するのである。國家の上より見て眞に悲しむべきことである。
 岩代、二本松の藩としても、野津等をして戰慄せしめたる程に、奮闘勇戰せるものであり、數百人の戰死者を出して居る。世上此事を知らざるもの多き如し、史としで知らしむべき事である。
 其他仙臺や米澤や莊内やに於て、戰死せる有為の人物も亦多いのである。
 越後に於ては、柏崎に桑名藩の忠勇なる藩士は多數戰死し、長岡に於では、有名なる河井繼之助及其の配下に多數の戰死者がある。
 榎本や大鳥等の配下にも、多くの有爲なる戰死者がある。
 此等事件に關聯し、一家の離散、人民の失業等、其禍害の甚大なりし事眞に云ふに堪へざるものがある。
 鹿児島の亂に於ても、忠勇なる官軍即ち日本良民の戰沒せるも甚だ多く、賊軍中にも有爲の青年が居つたであらう。
 斯る犠牲は、必然に生じたるにあらす、蓋し慶喜の一大勇斷を以て、犠牲なくして、泰平無事、美事に維新は成りしものであり、此維新以後の國家の政治は全民一致し同心協力の上に行はる可かりしものであつたに拘はらず、此の公明行はれずして内亂は生じたのである。顧みて歎息なきを得ない。凡そ政爭に偏黨の私心を挾むことは、國民の爲めに甚大なる禍である。永遠に國民は深く戒む可きである。
 若し夫れ「一將功成り萬骨枯る」と云ふ如きことが、唯單に支那人式の文學的形容詞として讀まるゝのみでなくして、事實に於て、我國にも生じたることも若しもあつたとせば、國民としては、大いに後來に向つて警めざる可らざる事である。過去は将來への指針である。
 維新以後に生じたる内亂は、右述べたるが如く失ふ所甚大にして、而して其得たる重なる収穫は、鞏固なる[藩閥の政府]其者であつた。
 維新前に於ける攘夷黨たりし藩士及攘夷を唱へたる一部浪人等の拂へる犠牲と、維新以後に於ける右の國民的甚大の犠牲とを對比せば、其差異や雲泥である。前者は、國家の秩序を紊し、世界の大勢に背馳し、皇國に禍する不穏の分子に對し、當時の幕府は、已むを得ざるの勇斷に出でたるより生じ、後者は天下を其掌中に収めんとの偏黨的權謀術數より主として打算せられ、故更に激生せしめられたる内亂より出でたる結果であつた、國民とし此史實を正觀する時、浩歎なきを得ぬ。

 維新前後の政爭と小栗上野の死(終)

(註)『明治開化史』第五章 經濟 軍費 一四五頁

引用・参照・底本

『維新前後の政爭と小栗上野の死』 蜷川新 著 (日本書院, 1928)
『旧夢会津白虎隊』永岡清治 著 (永岡清治, 1926)
(国立国会図書館デジタルコレクション)