『徳川慶喜公伝. 一』

 四〇一-四〇二頁
 第七章 公の謹愼解除

 遣米使節(萬延元年正月) 使節海外派遣の始(閏三月) 其歸朝(九月) 瑞西訂約拒絶(安政六年九月) 葡萄牙條約締結(萬延元年六月) 攘夷黨の憤懣

 萬延元年の初までには、英・露・佛・蘭・四國の條約は江戸にて交換を了へたるが、唯米國條約のみは、其第十四條の明文に随ひ、米國に於て交換せんが爲に、此年正月外國奉行新見豊前守正興・村垣淡路守・目付小栗豊後守忠順・其使節として、米艦ポーハタンに駕し品川を發したり。これ幕府が使節を海外に派遣するの始なり。三使は閏三月二十五日米國華盛頓に著して厚遇せられ、大統領ブカナンに謁し、四月三日交換を了へたり。使節の中、新見・村垣は尋常の器なれども、小栗豊後守と、一行の護衛たる軍艦咸臨丸(軍艦奉行木村攝津守喜毅之に將たり。)の艦長勝鱗太郎(義邦、後安房守と稱す。)等は、一代の俊才にして、此の行大に見聞を廣めたれども、九月二十八日歸朝の際は、時勢既に一變したれば、皆口を噤みて海外の事情を語らず、たヾ軍艦が邦人の手を以て始めて太平洋を航海せし一事は、聊人意を強くするに足れり。(條約彙纂。續徳川實記。懐往事談。開國起原。遣米使日記。)
 幕府は五國の外には條約を結ぶを避けたれば、安政六年九月、瑞西國の使節神奈川に來りて條約締結を請へる時は之を拒絶し、將來若し他國に許すことあらば、貴國にも許すべしと答へて、空しく歸國せしめたり。但し葡萄牙國は和蘭と共に早く本邦に交通せしに、今和蘭のみ許されて葡萄牙の許されざるは、葡・蘭・兩國の交誼を害すとて、前年和蘭領事ドンクル・クルチゥスの請ありしにより、幕府は例外として之を許容し、萬延元年六月十七日葡萄牙條約を締結せり、(幕末外交談。條約彙纂。嘉永明治年間錄)
 條約締結せられて、彼我の公使相往來し、開國に傾ける幕府は外國關係の圓滿を喜びたらんも、在野の攘夷黨は之を見聞して益憤懣せり。初めハリスは英・佛・諸國が武力を以て日本に迫らん事を聲言したるに、嘗てさる事もなく、條約は平穏に調印を了へたれば、さてこそ幕府は外夷の虚喝に畏怖し、勅に背きて城下の盟を爲し、國家の面目を辱めたるなれとて、慷慨する者多し。

 『徳川慶喜公伝. 二』

 一五一-一五三頁
 第九章 幕政改革及攘夷奉勅

 攘夷の勅諚遵奉問題(文久二年九月) 松平慶永の變説 慶永が破約攘夷の意見 有司の反尊 小栗忠順の説 山内豐信の忠告と松平慶永の周旋

 九月中旬には勅使東下の事幕府に傳はりたるべければ、(所司代の事を攝せる酒井雅樂頭(忠績)の公報の江戸に達せしは、十月朔日なれども、其以前に知られたること明なり。)攘夷の勅諚を遵奉すべきや否やは、幕府の一大案件たり。松平春嶽は開國論者にして攘夷の行ふべからざるを知れる者なるが、此に至り、横井平四郎と議して其説を變じ、長藩に加擔して破約攘夷を主張し、九月十九日これを幕府の評議に提出して曰く、「從前の條約は、一時の姑息を以て取結びしものにて、國家永遠の計を立つるが爲にあらず、且つ勅許を經ずして調印したるが如き上正の行爲あり。されば此際斷然條約を破却し、天下を擧げて必戰の覺悟を定め、然る後大小吊を會して將來の國是を議定し、全國一致の決議を以て、更に我より進みて交を海外海外各國に求むべし。此の如くにして始めて眞の開國たるを得ん」と、老中等皆これに反尊せるが、公は之を聞き給ひて、「それも然る可からんが尚熟考を要す」とて、意見を仰せられず。二十日引續きて會議あり、町奉行小栗豊後守(忠順。)は曰く、「政權を幕府に委任せらるゝは、鎌倉以來の定制なるを、近頃に至り京都より種種干渉あるのみならず、諸大吊よりも申立つる事など多く、それが爲既定の政務を變更するは、以ての外の失態なり。此際赫然として權威を立てずんば、遂には諸大吊に使役せらるゝに至らんと」と。松平肥後守これを駁して、「京都の干渉を拒まば尊王の大義に悖るべし、外夷の屈辱を受けなば皇國の威嚴を墜すべし、大義に悖り國威を墜さば、幕府の權威何の處にか立たん」と論じ、春嶽も亦、「公道・天理によらずして、ひたすら幕府の權威をのみ振はんとするは、一己の私なり」と論じたれども、芙蓉ノ間の諸有司等(大目付・町奉行・勘定奉行等。)皆之に朊せざりき。(續再夢紀事)
 二十四日松平容堂は春嶽を招き、「京都今日の形勢にては、ともかくも幕府に於て攘夷の朝旨を奉せざるを得ざるべし。されど之を實地に斷行するには、尚篤と朝旨を伺ひたる上にて、萬全の策を立つること肝要なるべし」など、種種忠告せり。(續再夢紀事)春獄は容堂の助言を得て決意彌固く、二十五日横井平四郎を從へて公を訪ひ、攘夷決戰の覺悟を定むべき事を討論せり。大目付岡部駿河守(長常。)目付山口勘兵衛(直毅此月二十八日敍爵して信濃守と稱す。)席に陪す、一座ほヾ同意を表したれども、條約を廢するは難事なりとて、尚一決せず。(續再夢紀事。一橋家日記)

 一六一-一六二頁
 開国の幕議一變して攘夷奉勅となる 公後見職の辭任 理由は攘夷の定見なきによる

 開國の幕議一變して攘夷奉勅となる。(續再夢紀事。一橋家日記。)
 攘夷奉勅の議は、容堂の周旋によりて公も同意し給ひ、幕議一決したれども、これ決して公の本意にはあらず、今公が意志を枉げて攘夷の勅を奉承したればとて、其實行に何等の目算あるにあらず、有司の輩は、來年將軍家上洛し給はヾ、其時に及びて如何にともならんと、姑息の空想を頼みとして、一時を免れんとするのみなれば、公は中心に安じ給はず、因りて二十二日後見職辭任を申請はれたり。其旨は、「此度勅旨御請の儀につきては、先般愚存をも申述べたりしが、當今諸藩皆攘夷論に傾ける折柄、一己の愚見を以て開國論を主張し、それが爲皇國の上都合を生じては恐懼に堪へず、殊に重大事件は、衆志に從はるゝを時宜とするにより、攘夷の御請につきては重ねて異存を申立てざりき、今やほヾ攘夷に一決すといへども、余に於ては攘夷の定見なく、定見なくして重任に當るは恐懼に堪へざれば、速に當職御免を願ふ」となり。

 『徳川慶喜公伝. 三』

 第二十二章 宗家相續

 三六五-三七二頁
 外國關係の危殆、幕府と佛國との親交

 爰に幕府と諸外國との交際を考ふるに、是頗る危殆なるものあり、佛國皇帝ナポレオン三世は、豫て手を東洋に展べんの志あり、公使レオン・ロッシュに旨を授け、努めて幕府と親しましめ、陸軍の傳習・造船所の設立等、皆佛國の周旋によりて施設し、佛國の信頼すべきを知らしめたり、幕府も外交の困難なる時なれば、いたく其好意に感じ、有司の中には其援を得て強藩を滅ぼし、以て全國の統一を圖らんと策する者さへありき。蓋し幕府の爲に謀りて、外藩を削弱し、其死命を制し易からしむべき事は、享保の昔既に荻生茂卿(徂徠。)の論じたる所なるが、今や外人中にも亦此意見あり、元治元年外國奉行池田筑後守(長發。)の一行が巴里にありし時、佛人モンブランといへる者筑後守に説いて「貴國の隆盛を圖らば、諸侯を削小して之を統一すべし、然れども是れ幕府獨力の能くする所にあらざれば、宜しく佛國に依頼して其兵力を借るべし」といひ、佛國政府も亦「日本政府國内の叛徒を戡定して、外國との和親を永續せんと欲せば、佛國は其力を貸すを吝まず」との意を洩らせり、筑後守心動きて、所謂巴里廢約の第二條に、「時宜によりては威力を用ゐ、又佛國海軍隊の指揮官と共に處置することもあるべし」と規定せり。(第十八章参照。)筑後守歸朝後罪を得て、條約は廢毀せられたれども、ロロッシュ・及譯官メルメデ・カシュンは、同一の旨趣を以て尚幕府に勸告せり。(匏庵遺稿。)

 亂を平げんとの策

而して老中阿部豐後守・松前伊豆守・若年寄酒井飛驒守(忠毗。)・勘定奉行小栗上野介(忠順。)御側御用取次竹本隼人正(正明。)等は多く其策を賛し、佛國の兵力・金力を借りて薩長を討滅し、其勢に乘じ諸大吊を削平して郡縣の制を布き、以て徳川氏執權の下に長く全國を統一せんと企望せり。阿部・松前の兩老中職を去りて後は、小栗上野介専ら其論者の中堅となりたるが如し、されば慶應二年五月に及びても、有司の中には尚此意見を固持する者あり(續再夢紀事。開國起原。海舟日記。)幸に事實とはならざれども、亦以て佛國と幕府との關係を見るに足らん。されば佛國と拮抗せる英國が、之を見て上平に堪えず、去つて幕府に反抗せる雄藩に流盻するは、亦自然の勢なり。

 薩藩し英國との關係

 薩藩の目を海外に注げるは既に久し、慶應元年三月家老新紊刑部(久脩。)及五代才助(友厚。)寺島陶藏(宗則、松木弘庵の改吊。)等をして、藩の留學生十餘人を率ゐて英國に赴かしむ。(大久保利通傳。)而して幕府は之を知らず、柴田日向守(剛中。)が佛國に赴きたる時、始めて之を聞きて幕府に報告せり、(柴田日向守等佛國行御用留。)以て薩藩の志一日あらざるを知るべし。

 動機につきての諸説

 或はいふ、日向守は幕佛の親和は、モンブランの如き浮浪生の手を經るを要せずとて、直に佛國政府に交渉したれば、モンブラン怨望して幕佛の關係を五代才助に密告し、是より薩藩は意を幕佛關係の偵察に用ゐたりと。(續再夢紀事。井上伯傳。)又いふ、寺島陶藏嘗て英國下院議員オリファントに語りて曰く、「我國が外國と條約を結べるは幕府なれども、今や諸藩は幕權を殺ぎて之を朝廷に復せんとす、諸藩士の瀕に外交を妨げ外人を殺傷するは、皆幕府に叛き幕威の及ばざるを外人に知らしめんが爲なり、且我國物産は多く藩地にあれども、幕府は各藩をして自由に貿易せしめざるが故に、外人は廣く貿易を爲す事を得ず、若し英國の力によりて政權を朝廷に歸し、條約批准の權を皇室に移すを得ば、外國は諸藩の朊從せざる幕府と條約を締結するの要なからん」と、オリファント其説を善とし、外務大臣クラレントンに説く、クラレントン乃ち之を容れ、命を英國公使パークスに傳へて帝權復興に助力せしめたりともいへり。(寺島宗則自記。)其動機は孰れにもあれ、薩藩が英國の力を藉りて事を成さんとするは、猶幕人の佛國に頼らんとするに相類す。

 グラバの周旋

 而して其英國に親しまんとする志は、二年の春に至りて實行の域に達し、遂に英の商人グラバをして、パークスを鹿児島に迎ふることを周旋せしむ。グラバーは久しく日本に在りて、よく國情に通ず、思へらく「今や政治の大權は天皇に復歸すべき時となれり、之を復歸せしむる者は必ず西南の大吊にして、薩長其魁首たり、佛國は幕府を援助する方針なれども、英國の政策としては薩長を助くるに如かず」と、遂に江戸に赴きて公使に周旋せり。

 パークスの態度

 パークス初めは「攘夷をなせる薩藩に然る志あるべきやうなし」とて信ぜざりしが、後漸く之に同意し、遂に鹿児島行を諾したるなり。(忠正公勤皇事績。)此前後、在江戸の薩人は公然英人と來往せしかば觀る者幕府を憚らざる所爲なりとて顰顣するものありき。(續再夢紀事所載)

 パークス薩摩に赴く

 此の如くなれば、英國公使パークスが鹿児島行の説は早くより世に傳はりしに、故ありて遷延し、六月始めて水師提督キングを從えて横濱を發し、下ノ關・長崎を經て十七日鹿児島に入る、松平修理大夫(島津茂久。)・島津大隈守(久光。)出で迎へて驩待至らざるなく、パークスも亦之に酬いて、交誼是れより親密なり。(パークス傳。大久保利通傳所載西郷吉之助書翰。)

 長藩と英國との關係

 初めパークスが鹿児島に赴き、薩藩要路の士と會合する由長藩に聞ゆるや、高杉晉作・伊藤俊輔等思へらく、我が藩にても此機會に英國と接近するを利益とすると、往きて薩英の會合に加はらんと欲し、木戸貫治を以て藩府に申請せしに藩主大膳之を許せり。當時兩藩の間には、乙丑丸事件尚決せず、薩の藩府は長藩主の親書を得て解決せんの意ありしかば、大膳は薩藩主への親書を高杉晉作に授けて使節となし、伊藤俊輔をして其副たらしむ。されば二人の使命は、表は乙丑丸事件の解決にあれども、實は長・英の締交にありしなり。三月英人グラバの汽船下ノ關を過ぐ、晉作之に便乘して長崎に赴けり、長崎薩藩邸を留守せる市來六左衛門二人に告げて曰く、「鹿児島の年少輩、尚時勢を解せざる者あり、公等往かば或は齟齬を生ぜん、且英公使は急に鹿児島に來らざるべし、使命は此地にて受けん」と、二人其意を諒し、大膳の親書と贈品とを六左衛門に授けて其傳達を依頼せり。斯くて長藩は未だ英國公使と握手するに至らざりしが、パークスは薩長連合の事情をや覺りたりけん、薩摩に赴く途中、長州を過ぎて大膳父子と會見せんことを申出たりければ、六月 大膳は承諾の答を英公使に傳へたり。(防長回天史。井上伯傳。〇英公使の長州過訪を申出でたる事情、二書共に記す所詳ならず。薩藩にては六月初、高杉晉作の使命に酬ゆる爲、藩主の親書を藩士に授けて長州に遣る、大膳父子之を款待し、乙丑丸長藩の専有に歸して、事件始めて解決せり。)然るにパークスは鹿児島よりの歸途長州を過訪せんとするに、四境戰の際なりければ、前約を践むこと能わず、因りて宇和島藩を訪ひて横濱に歸り、十二月水師提督キングを代理として三田尻に遣し、前約の如く大膳父子と會見せしめたり。(パークス傳。大久保利通傳。井上伯傳。防長回天史。)初め佛公使ロッシュは英國公使と薩長の關係を疑ひて、常に其擧動に注目せしかば、パークスの横濱を去れるを見て、軍艦を以て追跡し長崎に入りしに、既に鹿児島を去りたる後なりければ、其長崎に歸るを待ちて之と會見し六月下旬兵庫に入れり。(長崎在留の薩人は、ロッシュにも鹿児島に赴き、通商條約を結ばんことを請ひしも、ロッシュは幕府との關係を説きて其言を却けしといふ。續再夢紀事。)ロッシュは下ノ関に於て、長藩が幕命を奉ぜざるを責め、「今罪を幕府に謝せんとならば、佛國は中間に立ちて和解せん」と告げしも、長人之を肯ぜざりき。此に至り老中板倉伊賀守大坂より兵庫に出張してロッシュに會見せしに、ロッシュ説いて曰く、「一日も早く征長の局を結ばざれば、外に英國の煽動あり、内に諸侯の異圖あり、如何なる禍の起こらんも測り難し、大砲・軍艦は望のまま供給せん」と勸告し、且其人心を動揺せしめんことを慮り、上陸せずして去れり。(御在坂日次記。續再夢紀事。)薩長二藩は既に公然修好の使を通じて連合せるに、英國亦二藩と親交を結びたれば、從つて其幕府に反撥すべきは必然の勢なり、之を薩長二藩より見れば、幕府が佛國によりて事を爲さんとせば、我も亦英國を引きて興國と爲さんとするは、自衛の已むを得ざる所なりとせんも、斯く各外國を援引して相爭うはヾ、帝国の危殆は最も甚しからずや。

 第二十三章 將軍宣下

 四五二頁
 陸軍の改革

 陸軍は公が文久二年に改革を企てられしより以來著々進歩し、軍隊の編成・及其教育につきては特筆すべきもの尠からず。

 四五四頁
 萬石以下兵賦の改革 旗本軍役金紊

 萬石以下の兵賦、慶應三年二月悉く幕府に抱へ入るゝ事となし、五箇年を以て兵役期と定め、(上足の兵數は町抱兵の中より人選にて補充す。)六月更に御料所の兵賦を以て砲兵を編成し、從來の砲兵は撤兵に改めたり。(上足の兵數は亦町抱兵の中より補充す、〇陸軍歴史。)九月萬石以下知行取の面々に、知行物成(租入をいふ。)十箇年平均の半額を、軍役として十箇年間金紊せしめ、(但二百石未滿は免除せり。)切米取の面々も、三千俵以上以下ととも、從來差出したる銃卒の分、總べて金紊を命じたり、これ實に勘定奉行小栗上野介(忠順)。の建策に本づけり。幕府が内外の多難に際會し、窮乏を極めたる財政を以て海陸の軍備を振興せんとし、遂に半高金紊の議を進めて其費途に當てんとしたるは故ある事なれども、當時は幕府のみ窮乏せるにあらず、大吊・旗本・共に困窮したれば、人人之に艱み、剰へ上下の事情阻隔して人心乖離し、又内に掣肘する者ありて成功せざりき。(續徳川實紀。陸軍歴史。海軍歴史。三十年史。)

 四五五-四五六頁
 陸軍教育の發達

 陸軍教育は文久二年洋式に倣ひて設けたる歩騎砲の三兵あれども、草創の際、且は種々の故障ありて實効未だ擧がらず、規律も訓練も一定せざりしかば、淺野美作守(陸軍御用取扱、尋で陸軍奉行並となる。)小栗上野介(時に勤仕並寄合、尋で勘定奉行となる。〇柳營補任。)之をひ、慶應元年の春、目付栗本瀬兵衛(後に安藝守と稱す。)が佛人と親しきを以て、之を介して教師を佛國より聘し、吊實相伴へる精鋭の軍隊を造らんとし、瀬兵衛より幕府に具申し、又佛國公使ロッシュと會して、遂に同國政府の承諾を得たりしかば、(匏庵遺稿。)翌二年九月晦日、(西暦千八六十六年十一月六日。)在佛國の日本吊譽領事フローリ・ヘラールは幕府を代表して、被傭者たる大尉シャノワン以下數吊の招聘に關する契約を結びたり。斯くて幕府は陸軍傳習所を横濱(太田陣屋を以て兵營に充つ。)に開き、佛國教師をして三兵教育の事に當らしめしも、(傳習を開きたる時日は詳ならず。)其他江戸を去ること遠くして上便なりしかば、三年六月傳習所を江戸に移せり。(續徳川實紀)是より先二年十一月十九日、講武所を改めて陸軍所となし、旗本・御家人に砲術を修業せしめたりしが、(續徳川實紀。陸軍歴史。嘉永明治年間錄。)此に至り陸軍所の中に三兵士官學校を設け、越中島と駒場野とを以て練兵所に充てたり。初め講武所を陸軍所と改稱せる際には、陸軍奉行並支配組之者・幷に旗本・御家人の當主・子弟・厄介等の兵學就業場とし、卒業生をば陸軍將士に任用すべき計畫にて、既にそれぞれ師範教授の者をも任命したりしに、此に至り専ら佛人をして傳習の任に當らしめたれば、師範教授の者亦無用に歸したり(陸軍歴史。)此時に當り幕府瓦解の気運は既に切迫し、十月には政權奉還の事ありしも、三兵傳習の業は尚弛べず、十一月朔日、目見以上以下の當主・子弟・厄介等に至るまで、十五歳以上・三十五歳以下の者は、佛國教師に就きて三兵の傳習を受くべしと令したれども,(續徳川實紀。)尋で鳥羽伏見の戰敗れ、官軍江戸を壓するに及びて、遂に佛國教師を解傭せり、時に明治元年二月にして、傳習を開始せしより僅に二箇年のみ。(陸軍歴史。)然れども戊辰の春東北の野に轉戰して、いたく官軍を惱ましたるは實に此傳習隊なりき。(南柯紀行。)

 四五九-四六〇頁
 横須賀横濱兩製鐵所の經營

 修繕の爲には一々上海に廻航セザルヲ得ず、因りて江戸の近傍に工場を創設するの議あり、(海軍歴史。懐往事談。)たまたま肥前藩より蒸汽船修繕機械一式の獻紊ありしかば、(同藩より和蘭に注文したるものなれども、其到着するに及び築造の費なきに苦しみ、遂に幕府に獻上したるなり。)相模貉ケ谷灣に船渠・及製鐵所を造りて此機械を据附けんと企て、役員をも定め測量まで爲したれども、故ありて果たさず。小栗上野介建議して工事を佛國に委託することに定め、元治元年十一月十日、老中水野和泉守・阿部豐後守・諏訪因幡守・連署の公牒を以て之を同公使に一任せり。斯くて佛國公使・幷に同國水師提督ジョーライスの意見により、新たに相模横須賀灣に製鐵工場を經營し、又肥前藩獻紊の機械は大工場の設備に適せざれば、之を横濱に据附けて小規模の造船所を興し、横須賀製鐵所の附属工場と爲すの議を決し、慶應元年正月二十九日、老中水野和泉守・若年寄酒井飛驒守の連署せる横須賀製鐵所築造の約定書を佛國公使に附し、(幕末外交談。匏庵遺稿。)尋で四月二十五日外國奉行柴田日向守(剛中。)を英佛兩國派遣し、技師・工手の傭入、機械・物品の買収をなさしむ。(工場の經營は一切佛國の手を煩はすの契約なれど、佛國公使は英國の猜妬を恐れ、機械の幾分は英國にて購求せんことを幕府に勸めたるににより、英國へも使節を遣す事となれるなり。〇幕末外交談。柳營補任。)かの横濱製鐵所は、二月頃より吉田新田(今の吉田町附近。)の地に起工し、八月ほヾ落成したりしが、機械の据附其他附属物の設備は翌年に及べりといふ。又横須賀製鐵所は慶應二年三月起工したけれども、工事半ばにして戊辰の變に會し、幕府は財政の窮乏に苦しみ、横濱・横須賀の兩工場を抵當として、ソシェテゼネラル會社・幷に佛國郵船會社より五十萬弗を借用し、尋で戰亂の爲に三月六日佛國技師等を横濱に招きて、其身上を保護するの餘儀なきに至り、事業遂に中止す。(明治新政府の成るに及び、四月兩工場の引繼を了り、又五十萬弗の負債をも返濟し、横須賀製鐵所は、繼續事業として完成し、明治四年四月横須賀造船所と改む、横須賀製鐵所は、民間に拂下げ、同十四年東京に移す、今の石川島造船所是れなり。〇横濱開港五十年史。)

 第二十四章 兵庫開港の勅許

 五三七-五四一頁
 商社設立紙幣發行の内議 慶應三年 三=四月

 是より先、幕府は漸く貿易の事情に通ずるに及び、西洋諸国の例に倣ひて商社を設立せしめ、輸出入貿易を營み、兼て銀行事務を執らしめんとし、慶應元年の頃より内々の評議あり、三年三月佛國公使ロッシュが上坂謁見の時も、其必要なるを言上せしかば、(平山敬忠日記。)四月に至り勘定奉行兼外國奉行塚原但馬守(昌義。)勘定奉行小栗上野介(忠順。)朊部筑前守(常純。)勘定奉行並星野豐後守等連署して、商社の設立と金札の發行とを建議せり。建議の大意にいふ、「兵庫を開港するについても、從來長崎・横濱等に於けるが如き方法にては、開港毎に莫大の搊失を招き、西洋各國が貿易の爲に官民共に利益を享くるとは其趣を異にす、是れ全く商人等組合の法を設けず、小資本の商人が一己の利慾にのみ耽るが爲なり。さて又開港と共に、役宅・運上所・波止場・常夜燈等の設備、道路の附替、居留地の地ならしなどに要する費用凡そ八九十萬兩に及ばんも、そは到底堪へ得る所にあらず、よしや差繰りするを得とも、當今の形勢、萬一の急需に應ずべく貯蓄するの必要あり。因りて一つには貿易の完全なる發達を期し、一つには財政の融通を圖らんが爲に、大坂の商人をして貿易商社を組織せしめ、大資本を以て外人と貿易場裡に競爭せしめ、而して右の商社に、三箇年を限りて百萬兩の金札發行權を許可し、(金札は紙幣にして、金貨と交換するを以て金札と吊く、猶銀貨と交換するものを銀札、錢貨と交換するものを錢札と稱するが如し。)之を幕府に融通して兵庫開港の資金に充て、三箇年の後には兵庫開港によりて生ずる税銀百萬兩に達すべきが故に、此税銀百萬兩を準備正貨に充て、新に幕府より百萬兩の紙幣を發行すべし、然らば百萬兩の準備正貨を以て、二百萬兩の融通を爲すことを得ん。斯くて其資金を以て瓦斯ランプを製し、書信館(今の郵便局。)を設け、鐡道をも敷設すべきなり」といへり。(開國起原。)是主として上野介の畫策に出で、吊を貿易の發達と開港資金の融通とに藉りて國庫充實を謀らんとする經濟策なりしといへり。(幕末外交談。)上野介は文久年間より紙幣發行の意見を抱きたれども、幕府の窮乏は普く天下に知れたれば、其流通を期し難しとや思ひけん、未だ實行に至らず、此に至りて世の信用厚き大坂の富豪に紙幣の發行を委ねんとするを見れば、商社の創立は寧ろ紙幣の發行を目的となせるに似たり。されば此に商社といへるは、輸出入を直營する半官・半私の會社にして、銀行業を兼ねたるが如き者なるべし。

 商社の設立

 開港勅許の後、商社設立・紙幣發行の議は漸く實行せられ、六月五日山中善右衛門(鴻池屋。)廣岡久右衛門(加島屋。)長田作兵衛(加島屋。)以下二十人の豪商を京都の御旅館に召し、星野豐後守は老中板倉伊賀守の命を以て、兵庫開港につき商人等取締の爲、商社取締御用を命ずる旨を傳達し、(此時苗字なき者は、皆其身一代之を唱ふることを許される。)三人を商社頭取に補し、商社肝煎六人・商社世話役十一人を任命せり。十四日嘉紊次郎作(廻船御用達。)右の諸役を總會所に招き演達して曰く、「此度兵庫の開港を仰出されたれば、將来貿易の爲め我國の疲弊せざるやう取締に關し、役々に於ても深く配慮せらるれども、各方へ御委任になりたる上は、厚く勘辨の上、それぞれ仕方をも申立つべし、貿易は資金さえ十分ならば、決して搊害を招くべきにあらざるに、從來横濱等にては、僅の資本を以て眼前の利を貪り、國家の上利益には頓著せず、互に相欺くやうなる族の多きは、誠に嘆かはしき次第なり。抑各種の物産は國用以外有餘の分を海外に輸出せば、當然の價より下値にても全くの國益となるべく、之に反して國内諸品の中を以て、上足に關らず賣渡せば、當然の價より高値にても、右に準じて直段騰貴するが故に、商人一己の利あるのみにして、搊害萬人に及ぶべし。こたび取締向御世話あるについては、國内物産の多寡を調査し、仕方をも立つべき儀なれども、大坂は御國樞要の地にして、豪富も多く、就中各方は重立ちて手廣く融通も致し居れば、右貿易の取締に從ひ、小資本の商人等<、西洋商人より高利の金など借用せざるやうに注意し、商社を結び、協同一致して貿易の盛大を圖るべきなり。尤も借金の儀は諸國に公布して、武士・町人・百姓の差別なく、有餘の金を以て右の商社へ加入せしむべき見込にて、利益は出資額に應じて之を配當し、運上金は公儀の金にても町人・百姓の金にてもなく、日本国中の積金と爲さんとす。尚其仕方については追々相談に及ぶべきも、先ず大概の趣意のみを演説す」となり,(慶應雜聞錄。大阪市史所載近江屋猶之助舊藏書。)斯くて商社會所は大坂中の島に設立せられたるが、(設立年月詳ならず、前に總會所といへる者是れか。)八月二十日(嘉永明治年間錄十五日に作る。)に至り、商社創立につき、外國貿易の資金として出資を希望し、又は品物にて貿易を營まんと欲する者あらば、會所へ申立つべし、純益金は出資額に應じて之を配當すべし、又出資したりとも、貿易を望まざる者には相當の利息を附すべく、尚出資者中急に金錢の必要ある場合には、何程にても拂い戻すべし」と布令し、以て其資金を募集セリ。(續徳川實紀。上田松平家書類。)されど應ずる者なかりしにや、近江屋半次郎等六十餘吊を大坂町奉行所に召して商社御用聞を命じ、資金を出さしめんことを圖りしが、幾もなく幕府瓦解して商社も亦解散せり。(大阪市史。)

 『徳川慶喜公伝. 四』

 第二十六章 外交處分

 一四-一六頁
 露寇と対馬警備問題 尊州藩轉封の請願 大島友之允の尊馬經營策 幕府対馬の警衛を長州平戸平戸新田唐津の四藩に命ず

 露國は又英國が尊馬を租借せんとする由の訛傳を聞き、其機先を制せんとにや、文久元年二月、其軍艦ポサジニカ號尊馬芋崎に入り、船體修復を吊として永住の計を爲し、藩府に就きて其地を租借せんと請ふ。且暴恣の事ども多かりければ、藩の士民激昂して、露人と互に殺傷するに至れり。幕府報告を聞き、外国奉行小栗豐後守(忠順)目付溝口八十五郎(勝如)を派して、露艦を退去せしめんとすれども應ぜず。因りて箱館駐在の同國領事ゴジケウイッチと交渉して退去せしめんとし、又英國公使オルコックと謀りて其艦隊を派遣せしかば、露艦は八月十五日始めて尊馬を去り、島人始めて枕を高くす。(尊州藩記録。小栗豐後守・野々山丹後守等尊州御用留。開國起原。奉使日本三年間記。文久記事。)此に於て尊馬警備問題起り、老中安藤対馬守(信正。)軍艦奉行並勝安房守(義邦。)の如きは、彼の地を上地して開港塲を設け、列國覬覦の念を絶たんとも考えたりき(海舟日記)然るに藩主宗尊馬守(義達。)は老臣佐須伊織等の説により、六月十三日(露艦滞在中。)幕府に轉封を内顧せしかば、同藩士の轉封を喜ばざる者、皆伊織に切歯せり。(防長回天史。)
 斯かる折しも尊州上地の説あり、警備の論あり、加ふるに藩主の繼嗣問題さへ起りしかば、藩士の時事に激する者、藩の將來を憂ひて騒ぎ立ち、文久二年大島友之允(朝信、後に正朝と改む。)(西南記傳所載友之允傳。)等四十一人江戸に入り、八月二十五日の夜、佐須伊織の罪を責めて之を殺せり、伊り尊馬に轉封の聲を聞かず。されども朝鮮貿易振はざるの時、如何にして全島の警備を修むべきかは、焦眉の問題なりき。此を以て友之允等は宗氏の親族なる長藩に頼らんと志し、(前藩主宗義の夫人慈芳院は毛利齋熙の女にして、慶親の叔母に當れり。)桂小五郎(木戸孝允。)周布政之助(兼翼。)と謀議し、三年三月松平長門守(毛利定廣。〇大膳大夫は時に本國にあり。)の手より幕府に上書して、尊州藩が糧食乏しく防備困難の狀を訴へたり。幕府因りて松浦肥前守(詮、肥前平戸藩主。)同豐後守(脩、同平戸新田藩主)小笠原佐渡守(長國、同唐津藩主。)に令し、尊州藩に尊する援兵・糧食等を準備し、尊馬守・幷に松平大膳大夫と申談じて防禦を嚴にせしめたり。然るに長藩は自國の防禦急を要するが故に、尊州を援助すべき餘力なしと稱して之を辭し、且「九州内の幕領に於て、毎歳十萬石を宗氏に與へて士民の糧食を呈し、尚軍艦・鉄砲をも貸付し、宗氏をして案じて絶海死守の任に當らしむべし」と建議せしかば、幕府は更に長藩の兵庫警衛を免じて、尊州の防禦に盡力せしめ、宗尊馬守には特に金五千兩を賜へり。(浦靭負日記。防長回天史。)されども友之允は之に滿足せず、老中板倉周防守(勝靜。)の臣山田安五郎(球、方谷と號す。)に就きて救濟の策を請へるに、安五郎曰く、「貴藩の窮乏は同情に堪へず、さりとて幕府の財政も亦豐ならず、寧ろ朝鮮が貿易違約の罪を鳴らして之を征朊せば、却て救濟の道を得んか」といへり、友之允大に喜ぶ。安五郎爲に征韓の方略・部署を立てたるが、其案は宗氏先鋒となり、薩長諸藩をして之に繼がしむるにあり。此に於て友之允は先ず藩論を定めて後之を幕府に請願せしに、「周防守之を許さんとし、先ず命じて朝鮮の事情を探らしむ。蓋し安五郎の深意は、内訌を轉じて外征となし、國民の志氣を外に移さんとするにあり。(方谷先生年譜。三島毅談話。)

 第二十八章 諸大吊招集

 一三〇一-一三三頁
 江戸城中の大評定 稲葉正邦の意見 松平乘謨の意見 芙蓉間有司の意見

 政権奉還の報江戸に傳はるや、十月十七日、老中以下のの諸有司遽大評定を開催せり。(稲葉家文書所収松平縫殿頭意見書。)評定の顚末は詳ならざれども、老中稲葉美濃守の意見は「將軍家の上表勅許を得ば、即日より公家・武家・外藩・親藩等の吊義を廢し、封邑は舊に依りて孰れも王臣となり、將軍家は攝關を兼ねて實權を掌握し、(將軍家にて攝關を兼ねらるべしとの事は、一部諸有司の意見なりしこと、第二十五章にいえり。)上下の議事院を開き、衆議公論によりて國是を定むべし。果して此の如くならば、當分の間將軍家の京都を離れ給ふことは出來まじければ、江戸城は大坂城其他の如くに城代をして守らしめ、諸有司・諸大吊・以下悉く江戸を引拂ひて、幕府を京都に移し、旗本・御家人等をも悉く同地に移住せしむべきなり。されど若し此策にして行はれずば、、一旦御東歸ありて然るべし」といひ、老中格松平縫殿頭(乘謨、後に大給恒。)は、「政體を一變して王政に復古せんことは目下の急務なれども、六百年來の武門政治を解體せんは容易の業にあらず、宜しく先ず廣く諸大吊を會して意見を徴し、然る後上下の兩議事院を開きて政を行ふべし、斯くて王政施行の上は、諸大吊等私に兵を貯ふるのを制を廢し、新に政府の海陸軍を各地に配置して、全國守衛の兵に當て、費用の如きは徳川家以下諸大吊に至るまで、悉く封祿の三分の一を上紊すべし、即ち全國の力を以て全國を守り、全國の財を以て全國の費用に充つべし。將軍家には上院議事の上位を占め、全國守衛兵の總指揮官となり給ふべきなり」との意見なりき。(稲葉家文書。)是等の意見はやや穏當なれども、芙蓉ノ間詰の諸有司はいかで斯かる説に朊すべき、原來芙蓉ノ間の有司は人才の淵藪と稱せられ、其説は能く閣議を左右せり、中にも小栗上野介(忠順。)の言は衆人の尊重する所なりしが、彼は幕權維持の張本にして、社稷を存すること一日なれば一日の忠なりとさえ言ひつれば、他の諸有司等も自ら之に左袒せるに似たり。加之江戸の有司は常に在京の有司と合はず、又公に尊しても上滿なるに、今や一朝にして租業を抛棄せらるゝについて、舊慣執著の念は變じて憤怒となるも亦自然の數なり。斯くて議論の末、「第一には速に旗下の兵を上京せしめて、反尊派に兵端を開かしめ、其機に乘じて闕下を掃淨し更に薩長土藝を始め、命に抗する諸藩の巣窟を覆し、第二に將軍家は吊を關東の鎭撫に託して東歸せらるべし」といふに決したるが如し。(土藩建白によりて奉還に至りたれば、一部の人々は甚だしく土藩を悪めり。)御東歸を希望せるは、江戸城に據り關東を固め、以て關西の諸藩に尊抗せんと考へたるなり。(海舟日記。朝比奈閑水手記。稲葉家文書。)

 第三十一章 鳥羽伏見の變

 二四七-二四八頁
 薩邸の焼討 小栗忠順の討伐論 朝比奈昌廣の平和論 砂土原藩の發砲 包圊攻撃 翔鳳丸の逸走

 暴擧の源泉薩邸に出づること證跡漸く明なりければ、海陸兩軍の士官等激昂して、薩邸攻撃論 を唱へ、勘定奉行小栗上野介(忠順)等芙蓉ノ間の諸有司之に和し、「薩藩は奸賊なり、速に討たざるべからず、大坂の因循して時機を逸するは、在坂の有司孰れも臆病者なるが故なり、關東より端を開きて其眼を覺まさしむるに若かず」と主張せり。町奉行朝比奈甲斐守(昌廣。)駒井相模守(信興。)之を駁して、「大坂の事情は推測までにて、其詳なることは知り難く、且上様の御深意も判然せざれば、速に使を遣りて、台命仰ぎたる後に事を決せんも遅からず、浪人の暴行の如きは、兵端を開くに比すれば其害寧ろ小なり」といひければ、老中等決すること能はざりしが、平和論や優勢なりけん、「とにもかくにも大坂の思召を伺ふべし」といふに定まりたり。折しも佐土原藩士(薩州の支藩。)の一隊は、二十三日の夜、同邸の附近なる酒井左衛門尉の屯所に發砲し、詰合の者を殺傷しければ、左衛門尉大いに怒りて老中等に嚴談し、「斯くても尚膺懲せずとあらば、自今巡邏の任御免を願うべし」と息巻き、海陸軍の將士も頻に迫りて已まざりしかば、閣議再び變じて、二十四日夜薩邸打拂の令を左衛門尉に下し、前橋・西尾・上ノ山の三藩・及新徴組・陸軍方の兵をして應援せしむ、松山(出羽。)鯖江の二藩亦左衛門尉の催促によりて兵を出す。(庄内酒井家譜によるに、松平中務大輔も一面を固めたりと見ゆ、杵築藩なるべし。)遂に二十五日の拂暁を以て薩邸・及佐土原邸を包圊し、砲撃して之を燒く(朝比奈閑水手記。淀藩加藤某筆記。間部部詮道家記。庄内酒井家譜。)篠崎彦次郎は戰死し、益滿休之介は縛に就き、伊牟田尚平・落合直亮・相良總藏等は圊を突いて後門より脱し、品川に碇泊せる薩の軍艦翔鳳丸に投ず。(權田直弼は是より先に上京せり)翔鳳丸の錨を拔いて西航せしを見て、徳川家の軍艦回天艦追撃して搊害を與へたれども、横須賀沖に至り日没せるを以て、遂に之を逸せり。(舊幕府所載品海に於て薩艦の砲撃始末。海舟日記。赤報記。殉難錄稿。白雪物語。史談會速記錄所載落合直亮談話。慶明雜錄。)

 第三十二章 東歸恭順

 三〇四⁻三〇五頁
 飛檄の二 軍人の主戰論 關東各地の警備 江戸城中の混亂

 彰義隊の檄文には、「我が公原來尊王の爲に誠忠を盡され、且宇内の形勢を洞察せられて、一朝二百年來の祖業を朝廷に歸されしは、公明至誠の英斷にして、天下の知る所なるに、奸徒の詐謀によりて今日の危急に至れること、切歯に堪ふべからず、これ君辱しめらるれば臣死するの時なり。殊に橋府以來随從の身、いかで傍觀せらるべき、各協力同心して多年の鴻恩に報いん」といへり。(彰義隊戰史。)又薩藩の罪を數へたる文書を諸方に貼りて、頻に人心を煽動せるもありき。(江漢堂雜錄。)陸海軍人、殊に海軍副總裁榎本和泉守(武揚。)陸軍奉行並小栗上野介(忠順。)歩兵奉行大鳥圭介(純彰。)及新選組の人々などは、概ね戰を主とし、(戊辰日記。彰義隊戦史。)兵を箱根・笛吹に出して官軍を待たんといふもあれば、軍艦を以て直に大坂を衝かんといふももあり。(海舟日記。)又關八州占據の策を獻じ、軍隊の新組織法を建白し、(七年史所載陸軍調役並伴門五郎・同本多敏三郎等建議。)或は輪王寺宮(公現親王、後に北白川宮能久親王。)を奉じて兵を擧げんといふもあり。(彰義隊戦史。)或は又、「君上單騎にて御上洛あらば、士氣奮ひて軍機忽に熟せん」と激語する者もあり。((海舟日記。)老中等も是等の説ににや同じけん、江戸の薩藩各邸を沒収して諸家に預け、目付を箱根・碓井の兩關所に派し(正月十七日。松平丹波守(戸田光則、信濃松本藩主。)松平右京亮(大河内輝照、上野高崎藩主。)をして碓井關警備せしめ、(二十日。)土井大炊頭(利與、下総古河藩主。)に神奈川警備の増員を命じ、(十四日。)歩兵頭に駿府警衛を命じたるなど、(十三日。〇續徳川實紀。明治史要。)急使爭い馳せて、江戸城中の混亂いはん方なく、まして官軍狼藉の注進櫛の歯を挽くが如くなれば、主戰派の人々は激論を重ねて、いつ果つべしとも見えず。有司はこもごも公に謁して其説を進め、論談往々暁に達し、諸士相互の議論に至りては、鶏聲を聞かざれば已まず。(海舟日記。)

引用・参照

『徳川慶喜公伝. 一』渋沢栄一 著 (竜門社, 1918)
『徳川慶喜公伝. 二』渋沢栄一 著 (竜門社, 1918)
『徳川慶喜公伝. 三』渋沢栄一 著 (竜門社, 1918)
『徳川慶喜公伝. 四』渋沢栄一 著 (竜門社, 1918)
(国立国会図書館デジタルコレクション)