『近世数奇伝』

 1-2頁
 自 序

 人間を人間として傅へるのは、平凡な事である。併し正しい事である。
 但だ尠くとも傳へるに足るべき人物、若しくは事蹟として記述する以上、そこに何等かの意義がなくてはならぬ。此れに強いて意義をつけやうとすれば、牽強附會となり、荒誕無稽となり、遂に超人間的のものが出來上つて了ふ。平凡ではない代り、正しい事でもなくなる。
 併し、既に何等かの意義を必要とし、また現に意義のあるものを、強いて意義のない樣に、英雄も豪傑も名人も畸人も、一列一體に平凡人として取扱はうとすると、所謂人間味は出るかも知れぬ代り、餘りに人間臭くなり過ぎて、人間以上に進まんとする人間の、向上心を減退せしめんとする虞れがある。藝術にはなるかも知らぬが、社會的には傳ふべき人物、事蹟としての意義が、稀薄になりはせぬか。
 超人間過ぎても困るが、餘りに平凡人化され過ぎても面白くない。乃で人間を人間として傳ふるに、人間的の常識を基とするといふ、平凡な方法を選んのが、編者の態度であつた事を、豫め諒として頂かねばならぬ。
 それは新聞の續き物として、連日の紙上に掲載する性質上、通俗を主とする事と、常識的である事とか、必要條件であつたのにも囚るが、大體は常識を重しとする、編者の性癖に基ついた事は爭はれぬ。併しそれを、正しくない事とは思はぬ。
 其常識から判断して、氣の毒だと思ふ上遇人、一生を轗軻に終つた人.或は終りを完うしなかつた人、或ひは誤り傅へられて、死後迄悪名を負ふてゐる人、それ等數奇の運命に、弄ばれた人々の、成べく正しい事蹟を傅へて、冤ある者冤を雪ぎ、過てる者は過ちを正して、後車の誡めとすると同時に、時代の推移と、世態の變遷と、人物の消長と、時と處と人間との葛藤が如何なる現象と、如何なる結果とを齎らすかを、讀者と共に研究し度いのが趣旨で、若しこれに依つて現時の社會に、多少でも献替することができたら.編者としては望外の光榮である。
 曩に『名人畸人』の姉妹編として、報知斯閑に連載中、屡、懇篤なる書狀を寄せられ、また同情ある注意を加へられた諸君に、此機會を以て敬意を表します。
 大正辛酉孟夏        編  者

 114-152頁
 小栗上野介

  

 慶應元年も押詰まつた師走二十二日、勘定奉行小栗上野介は、一年の總勘定に、疲れた頭を叩きながら、偶と長廊下へ出ると、恰度來懸つた外國奉行、栗本安藝守と顔を合せた。
 『瀬兵衛殿、好い處で逢ひ申した、一寸貴殿の顔を拝借致し度い』、『これは上野介殿、斯様な顔で宜しかつたら、御遠慮なくお使い下され度い』と、安藝守も笑ひながら、導かるゝ儘に唯ある一室へ入つた。『外の事でもござらぬが、いかう年も押詰まると同時に、公儀のお手許も押詰まつた、何れでか金五十萬兩程、引出す工夫はござるまいか』、『手前へ金子の算段とは、珍しい御相談でござりますな』、『實の處、當暮の仕拂を濟ましたる後に、殘つたは文久錢二十四萬兩ばかり、それも來春に至り、値上げを觸出したる後に賣出せば、尠くとも五十萬兩にはなる故、それ迄の處を、何とか致し方はないものか、差詰當暮に於て、外國人へ渡すべき五十萬兩、御承知の下關償金第一回の仕拂期限ぢや、此儀に頓と當惑致し居るが、さりとて見す見す搊をして、今錢を賣る心にはなれぬでな』、『是迄如何なる場合に於ても、ついぞ困つたといふ言葉を、聞いた事のない貴殿から、初めて承はる今のお話、果してそれは眞實の事か、又は一時の戯言ではござらぬか』、『これはしたり、年内餘日もない今日、何で戯言抔いふて居らるゝ暇があらうか』と、上野介の言葉には、思ひ入つた力が籠つてゐた。
 昵と考へてゐた安藝守は、軽く默頭いて『何さま、承はれば御尤もの次第、手前とても別に工夫はござらねど、其道に於ては御堪能の貴殿が、左程迄に仰られるは、よくよくの事とお察し申すに依り、唯下關償金のみのお差支とあらば、これは來年三月迄に云延べ、又三月に相成つたら、再び六月に繰延べる腹案はないでもござらぬ、公儀お手許逼迫の爲、寔貴殿がお困りとならば、手前屹度引受て、早速其手配に懸り申さうか』、『忝ない瀬兵衛殿、其手筈さへ首尾よく参るなら、拙者は大手を振つて、春を迎へる事が能る』と、上野介は初めて莞爾と微笑みながら、直に御用部屋へ安藝守を伴ひ、老中水野和泉守に其旨言上して、償金延期の談判を、安藝守へ任せる事にした。
 上野介介は忠順(ちぅじゅん)、通稱又一、幕府の旗本として、家祿二千五百石を喰んだ。又一は代々の通り名で、先祖は徳川家康に仕へ、常に一番槍の功名を缺かさなかつた。家康之を愛して、『又一か又一か』と云はれたのが、遂に通り名になつたのだといふ。上野介は常に此祖先の遺風を慕ふて、恪勤精勵、酒を飲まず、聲色を近づけず、奉公大事に一身を委ねたので、當時俊耄の淵藪と云はれた、芙蓉間詰の有司中、夙に聲望第一に推された。

  

 上州が初めて其名を、世に知られる様になつたのは、萬延元年正月、我國最初の遣米使節として、外國奉行新見豐前守正興、村垣淡路守範正と共に、目付として之に加はつた時からであつた。
 是より先、英、露、蘭、佛四國との條約は、江戸で交換を了へたが、唯亜米利加との條約だけは、彼地に於て交換する事に、明文が定まつてゐたので、三使は米艦ポーハタンに便乘し、別に護衛として、軍艦奉行木村攝津守喜毅の指揮する、軍艦咸臨丸と共に品川を發し、海路恙なく閏三月廿五日、華盛頓に着して厚遇せられ、四月三日、大統領ブカナンに謁して、無事交換を了へたが、使節の内、豐前守、淡路守の兩人は、尋常の器であつたけれど、當時の豐後守と名乘つた上州と、咸臨丸の艦長勝鱗太郎義邦(後安房守)とは、一代の俊才として、大いに見聞を廣め、殊に上野介は、滞留中竊に彼地の金相場を研究し、歸朝の後我小判の爲替相場を、一躍三倊に引揚たので、行を共にした者も、舌を捲いて其機敏に驚いた。――上州が勘定奉行として、幕末窮乏の財政を、見事に處理した手腕は、既に此時から涵養されてゐたのだつた。
 而も其年九月廿八日、一行の歸朝した時は、當春櫻田門外の事變以來、天下の形勢また一變して、攘夷黨の勢力最も盛ん頃であつたから、新歸朝の諸役人は、孰も堅く口を噤んで、唯一身の安きを冀ふた中に、一人敢然として、泰西文明の實情を説き、政事、國防、産業等、總て異國を模範として、我改善を図らねばならぬと論じ、幕閣を聳動せしめた者は、やはり上野介であつた。
 文久二年十月、豫て島津三郎(久光)等に依つて策された、公武合體派の勢力漸く振はず、長土兩藩の建策に基く、攘夷督促の勅使が、十二日京を發して、東下の途に就くとの内報が早打として江戸に達したのは、九月中旬の事であつた。一旦諸外國と結んだ條約を、今更破毀せよとある勅諚に尊し、幕府がこれを遵奉すべきや否やは、由々敷大問題である事いふ迄もない。
 十九日から二十日に亙る、營中の大會議に於て、幕權擁護と開國策との爲に、論戰最も努めた者は、例の芙蓉間詰の諸役人であつた。――芙蓉間は大目付、町奉行、勘定奉行等、幕府の中堅とたるべき諸役人の詰所で、これが牛耳を執つてゐたのは、當時町奉行たる小栗豐後守であつた。
 將軍後見職一橋慶喜、政治總裁松平慶永(春嶽)、會津藩主松平肥後守容保を始め、老中若年寄其他の顯官、綺羅星の如く並んだ席上に、上州は臆する色もなく、膝を進めて熱辯を揮つた。

  

 『天朝の尊さ、それは固よりいふ迄もござらぬ、なれど信を海外に失ひ、皇國を孤立の殆さに置く事は、憚りながら畏き叡慮とは存じ申されぬ、皆これ中間に策する者あつて、公儀を輕しめらるゝ事は、火を睹るよりも明かでござる、既に政權を幕府に委任せらるゝは、鎌倉以來の定制なるに拘はらず、近頃に至つて京都より、斯く種々の御干渉あるに依り、諸大名も亦之に倣ふて、何かと容喙する者多く、それが爲既定の政務まで、變更されんとするに至るは、以ての外の失態と申さねばならぬ。此際嚇然として權威を相立てずば、遂に諸大名の爲に、使役せらるゝに至るでござらう』といふのが、上野介の論旨であつた。
 老中板倉周防守勝靜、大目付岡部駿河守長常等、孰も條約廢棄の上可能を説いて、開國意見を支持したが、松平春嶽、松平容保等は、朝命の二字に壓へられて、容易に此説を容れなかつた。開國論者の慶喜も、時の勢ひに尊しては、如何ともする事が能なかつた。區々の評定に幾多の曲折を經て、愈々勅使を迎へたのは、十月二十八日であつた。勅使は三條中紊言実美、副使節姉小路少將公知であつた。――上州は此間に於て、勅諚奉行の成算がない爲、將軍後見役の辭任を申出て、一橋の舘へ引籠つた慶喜の許へ、涙を揮つて登城懇請の、諫言に向つた事もあつた。
 勘定奉行、町奉行、外國奉行、陸海軍奉行と、諸職を歴任して、財政に、外交に、軍事に、三面六臂の敏腕を揮つた上野介の精勵は、殆ど常人の企て及ぶ處でなく、盛夏三伏の炎暑にも、役所から退れば大抵な者は、涼しい座敷に晝寝でもしやうといふ時分、上州は獨り机に向つて、相變らず公文書に眼を曝し、意見を附したり朱書を加へて、日も足らぬ程努めたが、爲人精悍敏捷智慧も多ければ、辯も多く、俗吏を罵倒する時は、痛烈骨補を刺す樣な舌鋒で、閣老参政と雖も憚らぬので、動もすれば上司の忌憚を受け、それが爲め斥けられことも屡々だつたが、幕末人材缺乏の折柄、幾くもなく又再勤すること、孜々として骨身を惜まず、幕府の經綸を以て己れの任とし、後進がが續々自分を越えて、樞要の地に就くのを見ても、毫も上平がましい顔をせず、與へらるゝ地位に甘んじて、終身節を變へなかつた。
 栗本安藝守と懇親になつたのは、元治元年安藝守が目付として、横濱詰になつた頃からの事であつた。

  

 公務を帶て横濱に出張した上州は、途に栗本瀬兵衛の後姿を見た。
 『瀬兵衛殿、巧くやられたな、感朊々々』と、馬上から呼懸けられて、偶と振返つた瀬兵衛は、『おゝ、誰方かと存じたら、これはお珍しい、而て何を巧くやりましたな』、『いふ迄もない、翔鶴丸の修覆ぢや』、『最早それを見られたか』、『見たとも見たとも、而も大見ぢや、實今日、英吉利の商館へ交渉事があつて、支配向の者でも濟む事ながら、埒の明かぬを虞れたのと、此方に相談し度い事もあつたので、旁自身に罷り越し、用事を忽ち相濟んだ故、早速翔鶴へ参つて見ると、此方は最早立歸られた後との事に、船底迄入つて、盡く検分致したが、遖れ見事の出來榮え、僅かの日子で、よくあれ迄に運びましたな』、『お褒めに預かつて恐縮仕るが、一體該國の注文品は、總て貴殿お係の、許可を得べき筈でござれど、永引いては時機を失ふ虞がござるゆゑ、此度は請負普請の仕上勘定と極め、一切武斷に取計らひ申した段、悪からずお含みを願ひ度い』、『いや、其計らひ頗る結構、就ては最前も申す通り、是非共此方に相談して、一骨折頼まねばならぬ儀がござるぢやが、お聞入れ下されやうか』、『何事かは存じませぬが、往來の立話もなりますまい、兎も角も邸迄御案内仕らう』、『では御同道申さう』と、兩人は打連れて反り目に在る、瀬兵衛の官邸へ入つた。
 瀬兵衛はもと喜多村氏、家は奥詰醫師として仕ふる中、洋方崇拝の疑ひを以て、お匙法印岡櫟川院の弾劾をを受け、間もなく蝦夷地移住を命ぜられて、函館に在る事六年、其間に異例を以て、醫籍士籍に列せられたので、名も瀬兵衛と改め、匏庵又は鋤雲と號した。
 文久三年江戸に還つて、昌平黌頭取を命ぜられ、翌元治元年には目付役に進んで、該國奉行竹本淡路守正雅と共に、横濱鎖港談判の委員を命ぜられた。此談判は無論成功しなかつたけれど、函館在住中佛人に學んだ、佛蘭語が役に立つて、以來我外交界に、なくてはならぬ人物となり、横濱詰を命ぜられて、親しく外人と往復する中、其關係から佛國公使に頼み、在泊中の同國軍艦から、技術者職工を借受て、幕府の汽船翔鶴丸の、損所修理を託されたのだつた。――當時勘定奉行たる上野介との交渉は、其頃から始まつたので、瀬兵衛が安藝守と名乘つたのは、更にそれからの後の事であつた。

  

 席が定まると、先づ上野介から、『御相談と申すは餘の儀でもない、先年佐賀から公儀へ紊められた、蒸汽修繕器械が一式ある、御承知かも知れぬが、これは鍋島の隠居が、其國に取建る心組で、和蘭から購入た物ぢやが、愈々目論見を立て見ると、莫大な費用が要るのと、一つには之を掌どるに、然るべき人が得られぬ爲、寧そ公儀へ上紊して、天下のお役に立てられやうとの志しからぢや、其器械約三分の二は、最早運んで當横濱港の、石炭庫に藏めてある、残り一分はまだ長崎にある筈ぢやが、公儀に於ても既に去年、相州貉ケ谷灣に此器械を据ゐ付けて、船渠及び製鐵所を取建んと、係役人も相定め、測量に迄及んだなれど、矢張物馴た人のない爲、つい其儘になつて居る仕儀、さりながら許多の器械を錆に腐らして、閑叟侯が切角の芳志を、空しうするに忍びぬ故、此方に相談といふは茲ぢや、今度翔鶴丸の修復で、最早手並は解つて居る、其仏蘭西の職人共を召し連れ、一つ貉ケ谷へ参つて、再度の骨折を頼まれては下されぬか』と、無造作に云いした言葉から、今の横須賀海軍工廠が生れやうとは、恐らく當人達も知らなかつたであらう。
 畑違ひの瀬兵衛は一寸目を睜つたが、、『何さま、身に叶ふた御用なら、如何なる骨折りも厭ひは申さぬが、手前まだ、船渠の名さえ初て聞いた程の仕儀、況して製鐵所抔とは、如何なる者か見も知らぬ事を、輕々しくお引受もなりますまい、殊に佛蘭の技師職工を傭ふには、假令當人は承知するも共、水師提督や公使の意中を、先づ確めるが肝要と存ずる故、斯樣致したら如何でござらう、手前貴殿と御一緒に、佛蘭の公使館へ参つて、共々篤と協議を遂げ、其上の御思案になされては』。上野介もそれを有理として、連て來た家來には、一足先に神奈川へ歸つて、旅宿を定める事を命令け、自分は瀬兵衛と唯二人、佛蘭公使館を訪れた。――元治元年師走の中旬、乾風の寒い夕方だつた。
 公使も提督も承知したが、大工事を起す適任者としては、當時私用で上海に往てゐる、一等蒸汽士官があるから、其歸艦するを待つ、器械、地理等をも精査の上、確とした返事をするとの事で、其夜は物別れとなり、上州は次の日江戸に歸つて、瀬兵衛からの吉左右を待つてゐた。
 佛蘭の蒸汽士官は間もなく歸つて、佐賀藩上紊の器械を點檢したが、一體それは小規模のもので、馬力も隨つて強くないから、局部の小修理には敵するけれど、迚も船渠を設けて、艦船を建造するといふ樣な、大仕事の能るものではないとの鑑定だつた。

  

 『尚其士官の申すには、製鐵造船の大事業は、我等程度の學門では、到底成就覺束ないに依りそれには別に人を選んで、雇入る事になさらねばならぬ、又在合す彼の器械は、横濱近邊に据ゑ付けて、時々の小修理に備へられたなら、旁便利と存ずる故、それならば我等にも、お引受が能ると申すのでござるが、如何なされまするな』と、これが報告の爲、瀬兵衛は態々出府したのだつた。
 『それは何かと御苦勞でござつた、既に軍艦を有する以上、破搊はありがちの事でござれば、これを修復する處もなうては叶ふまい、況して今迄の如く、彼の國の餘分の古船を買ひ、又は新に造らせるにしても、當方に修船所のなき時は、一度故障のあつた場合、忽ち物の役にも立たぬ事になる、此際斷然人を選び、場所を選んで取建る事に致さう』、『では矢張彼器械を以て』、『それもそれと致し、尚別に、大仕事の能る物を取寄せる必要もござらう』、『されば雇入れる技師は、何れの國を選んだら宜しからう』、『何處彼處と申さうより、今迄の行懸り、又他の諸國に比べると、最も信を置けるかと思はれる、矢張佛國へ頼むが順でござらう』と、上野介の裁斷は、水の流るゝ如くであつた。瀬兵衛は併しまだ、考へてゐた。
 『お説一々御尤もではござるが、愈々事業お取建と決れば、費用の莫大は申す迄もござらぬ。只今の處では、爲すも爲さざるも我勝手ではござるが、一旦外國へ頼んだ以上、中途の變替はなりませぬでな』。上野介笑ひながら,『瀬兵衛殿、金子の事の御心配か、其儀ならば氣遣ひには及ばぬよ』、『大丈夫でござりますか』、『はて、當時の經濟は、何れにしても、遣繰身上、假令此事を起さずとも、其入用を他に移して、何か出來るといふのではない、、それよりも是非無くて叶はぬ、船渠修船所を取建ると申せば、却て他の冗費を、儉約させる口實が出來るといふもの、恁うした無理算段の、遣繰世帶が何時迄續くか、それは自分にも判らぬが、愈々出來の曉は、旗印に熨斗を染出す法もあれ、土藏附の賣家と云はれたら、世間の聞こえも好いではないか』と、口に串戯の如く云つたけれど、聲は無限の哀愁を裏む、沈痛な響に顫へてゐた。瀬兵衛は最う、何にもいふ事が能なかつた。

  

 老中水野和泉守(忠精)、若年寄酒井飛驒守(忠毗)の名を以て、船渠並に製鐵取建の約定書を、佛蘭公使ロセツに渡し、水師提督ジヨウライスの推薦で、蒸汽學士ウエルニーを、上海から呼寄せる事になつたのは、翌元治二年(慶應と改元の年)正月廿九日であつたが、此時既に上野介は、失脚して勘定奉行ではなかつた。――攝河泉播四カ國の地を割いて、一橋家を増封し、以て京畿の守護職に當らせよとの内諭が、前年の極月押迫つて、上意に京都から下つた時、利害を陳て幕府の爲に、死を以て上諭を拒むの責めに、自ら當る事を請ふたのは、やはり此の上野介であつた。それが幕議を動かして、事は遂に沙汰止となつたが、京都へ尊する遠慮の爲、樞要の地に居る事が能ず、貶せられて陸軍奉行並といふ事に、轉補されてゐたのだつた。
 最初船渠の取建地として、卜せられた貉ケ谷灣は、佛人が測量の結果、海底の遠淺な爲、上適當といふ事になつたので、更に同じ灣内の尊岸、横須賀の地を相して、大小の船渠二ケ所、製鐵所一ケ所、造船所三ケ所、外に武器彈藥庫を併せて、總經費二百四十萬弗、四年計畫として、既に外國と契約濟であつたのと、老中水野和泉守等が、鋭意鞭撻に努めたので、さしもの大事業も、漸く緒に就く事を得たのだつた。――和泉守は有名な越前守忠邦の子で、仁厚大度の名相であつた。
 當時横須賀の地勢は、佛國ツーロン軍港に似て、景勝要害兼備はつてゐるといふので、總て同所の式に則り、唯其規模を縮小して、三分の二定めたのだつたが、今では尊岸の貉ケ谷をも取籠て、灣内一帶の大軍港になつた。――同時に佐賀藩から獻紊の器械は、横濱尾太田新田に据ゑ付けて、小製鐵所を設けたが、これは後年民間に拂下、更に東京に移されて、今の石川島造船所になつた。
 職を貶され、權を失ふても、上州の幕府に盡す志しは、地位に依つて毫も渝らなかつた。陸軍奉行並になつてからは、専ら軍制の改革に留意し、由來名實の伴はなかつた、洋式に則る歩騎砲の三兵を、組織的に教練する爲、同僚淺野美作守(氏祐)と共に、態々横濱へ出張して、佛國教師招聘の議を進め、陸軍傳習所創設の基礎を定めた。――美作守は生麥事件の當時、神奈川奉行として折衝の任に當り、償金交附の求めに應じたとて、朝廷の嚴譴を蒙り、暫く蟄居してゐたのが、去年漸く赦されて、再び世に出たけれど、尚京都を憚つて、公然官に就く事が能ず、僅に陸軍御用取扱ひといふ名義で、諸役人の下に屈してゐた人、上州とは同じ運命にあるだけ、相許す事も深かつたと見える。――それは元治二年の春で、佛國公使への斡旋者は、例の栗本瀬兵衛であつた。

  

 若年寄酒井飛驒守、外國奉行竹本淡路守に依つて、英佛米蘭四國公使との間に結ばれた、下關償金條約は、さなきだに幕末窮乏の財政に、更に思い桎梏を加へたものであつた。
 四國の聯合艦隊が、商船砲撃の罪を鳴らして、大擧下關に迫つたのは、元治元年八月であつた。戰ひは三日に亙つて、互に勝敗はあつたけれど、結局長藩の屈朊に畢り、藩主から厚く款を紊れて、一先づ和談落着の後、横濱に於て償金談判が開かれた結果、四國の軍艦費並に、下關を燒 拂はなかつた報謝として、三百萬兩を六ケ年賦に、年々五十萬兩宛紊める事、尤もそれ迄の内に幕府から手を下して、長藩を處分するに於ては、必ずしも償却を求めないといふ條文が作られた。――才を恃んで、策を弄する淡路守は、初め四國公使から下關攻撃の内報を聞いた時も、彼等の手を借て仇を報ずる事は、他の褌で角力を取れる、巧妙な謀と考へ、陽にはまアまアと宥めながら、陰へ廻つては其尻を突つついて、長州窘めに加擔した位であつたから、今度の條約を結ぶに際しても、特に長藩處分の事を書加へて、征長の背景を飾らうとしたのであつたが、焉んぞ知らん其時は、既に長藩と聯合艦隊との間に、屡使者の往復む、饗宴などあつて、雨降つて地固まる諺の通り、却て互に親交を結んだ後だつたのだ。――若年寄の飛驒守は、正義の人であつたけれど、餘りに思慮は深くなかつた爲、淡路守の傀儡に使はれたのだつた。
 文久三年以來、將軍家茂兩度の上洛に、費された總經費は、大判五百七十三枚、小判百七萬六千二百兩、銀一萬三千五百兩の巨額に上り、尋で慶應元年五月長州親政の事が起るに及んで、計上された軍費豫算は、三百十五萬七千餘兩と註せられるのに、天領八百萬石と稱せられる、幕府直轄の知行高は、其實四百餘萬石で、歳入凡そ米五十萬石、金三百餘萬兩に過ぬのだ。平常無事の日にあつても、決して樂な財政でない、窮餘の策としては貨幣を改鑄したり、富豪に課金を命じたりして、漸く其時々を弥縫して來たのが、打續く内外の多事に、自然膨張する經常費の外、斯くもまた巨額の臨時費を要するに至つては、此間に處して兎も角も、難關を切抜ける手腕のある者、唯一人の上州を除いて外にはなかつた。
 一旦貶せられた陸軍奉行並から、再び舊の勘定奉行に復せられたのは、幾くも經たぬ後の事であつた。――而して其年の暮に及び、下之關償金の尻拭ひに、礑と又當惑したのだつた。

  

 時に外國奉行に進んでゐた栗本安藝守は、町奉行山口駿河守(直毅)と同道して、即日横濱に赴き、先づ米國の代理公使を訪ふて、償金延期の談判を始めた。
 淡路守が四國公使と、此條約を結んだ時、瀬兵衛は老中阿部豐後守が、鎖港上能實情を、奏聞の爲上洛するに際し、顧問としてこれに隨ふた(が)上在だつた。京都で此報を聞いた時、豐後守は遉がに淡路の腹中を看破し、外國の力を借りて幕府を強要し、征長の事を迫らしめんとする、小策を激怒したけれど、既に調印濟の上は、如何ともする事が能ないので、間もなく江戸に歸つた上、淡路守から私財二千兩を、征長費の内へ上紊し度いと願出たのに尊し、斷然これを斥けると同時に、外國關係の職を解いて、留守居役の閑職に遷した、此間の事情は、無論瀬兵衛も知つてゐた。上野介も知らぬ筈はなかつた。――食祿五千石を食んで、幕府瓦解の後迄も、裕福に暮してゐた淡路守が、本所の別墅に隠居の後、一夜何者にとも知れず、五體を寸斷に斬り苛まれて、非業の最期を遂げたのも、身に清くない處あつた爲として、餘り世間から同情されなかつた。
 上州と瀬兵衛と、隠約の裡に延期の交渉が、成る事を思はせたのも、恁うした事情があつたからで、當時下關砲撃に加はつた聯合艦隊は、英艦九隻、仏艦三隻、蘭艦四隻、米艦一隻の、都合十七隻であつたが、中にも米國の如きは、在泊の軍艦がなかつたので、居合せた商船を傭ひ、これに一二の砲を備へて、假に軍艦と名づけたに過ぎぬ位だつたから、三百萬兩といふ樣な巨額のの償金を課する事は、協同國の間にさへ、躊躇する者があつたと傳へられる。――そこに目をつけた瀬兵衛が、先づ米國から交渉を始めたのも、理由のある事であつた。
 犠牲を拂ふ事の最も少く、最初から他國への附合に過なかつた米國は、果して快よく承諾した。これと反尊の立場にある英吉利は、最も頑強に固執して、容易に紊れさうもなかつたが、米國公使の口添で、漸くこれも紊得すると、餘の二國に異議をいふ處はなかつた。延期の理由としては、當時既に長州處分の爲、將軍自ら京都迄、進發してゐるといふのが主眼で、四國公使の方でも、實は償金を受取るより、之を枷にして開港を促す事が本旨であつたから、瀬兵衛は使命を全うして、意氣揚々と江戸に歸り、上野介も大手を振て、春を迎へる事が出來た。――
 併し幕府の傾いた夕陽は、到底再び回るべくもなかつた。

  一〇

 上野介等に依つて畫せられた、軍制改革の事業は、其後着々緒に就て、慶應三年二月には、萬石以下の旗本の兵賦を、悉く幕府に召抱へて、五か年を兵役期と定め、更に其六月には、それ迄横濱太田陣屋にあつた、陸軍傳習所を江戸に移して、講武所改め陸軍所内に、三兵士官學校を設け、専ら佛國教官に依つて、洋式の操典を學ばしめる事になつたが、之に要する費用は又、上野介の才畫に基き、二百石以上の旗本から、實収高に應じて十カ年間、軍役の金紊を命じ、其他冗費を省き、、冗員を淘汰して、専ら財政整理に努めたので、一部からは非常に憎まれもした。
 熨斗をつけても土藏附と云つた、上野介の意氣は、總ての施設の上に現はれて、如何に財政の困難な時でも、其故を以て必要な時業(事業)を、躊躇する樣な事は決してなかつた。『親の病氣が重くなつて、迚も回復は覺束ないと知つても、それが爲にI醫藥を怠つては、子としての務めが濟むものでない、假令國は滅るとも、其身に息のある間は、忠勤を勵むのが武士の道だ』といふのが口癖で、其の年の秋には瀧野川に、火藥製造所を設けた。今の板橋火藥製造所は、維新後こゝの器械を移して、創始されたのが濫觴だつた。
 長らく行悩んでゐた兵庫の開港が、其年漸く勅許になると同時に、西洋諸國の例に倣ふて、貿易並に銀行の事務を執るべき、半官半民の商社を設立して、百萬兩の金札を發行せしめ、之を幕府に融通して、開港の資金に充て、更に三か年の後に及べば、税關の収入が百萬兩に達するから、之れを準備正貨として、新に幕府から百萬兩の紙幣を發行すれば、百萬兩の準備正貨で、二百万兩の融通が能るから、それを以て瓦斯ランプを製し、書信館(郵便局)を設け、鐡道をも敷設すべきであるとの、勘定奉行連署の建議も、發案者は矢張上野介であつた。
 商社は大阪の富豪、鴻池善右衛門、加島屋久右衛門、同作兵衛三人を頭取とし、肝煎六人、世話役十一人を以て設立されたが、金札の發行は十万兩に過ぎす、それさへ世の信用が薄く、直に正貨と引換へられるので、上野介の妙策も、遂に行ふ事が出來なかつた。――幕府の紙幣も、既に製造されてあつたけれど、此體を見た上州が、其時機でないと抗議して、發行を承諾しなかつたので、瓦解の後に上換紙幣の、禍を見る事がなくて済んだ。
 十五代將軍慶喜が、諸藩の重役を二條城に會して、政權奉還の發表をしたのは、此年十月十三日であつた。翌十四日奏聞、十五日には早くも、勅許の御沙汰書を賜はつた。

 一一

 十月十七日、江戸城中に於ける、老中以下諸有司大評定の席上に、芙蓉間詰を代表して、上野介の述べた意見は、最も悲愴を極めたものであつた。
 『此期に及んで、申上ぐべき言葉とても厶らぬが、臣たる道の本文として、一日社稷を存する事は、一日の忠義と申さねばならぬ、這回政權を御奉還遊ばされしは、上樣至誠の御英断より出でさせらしものとは申しながら、抑權現樣御威勢を以て、天下を定め給ひてより以降、外樣譜代の區別なく、大名旗本に至る迄、皆御當家御家人として、君臣の義を守り來られこと、今に及んで三百年、然るに近年に至つて、草莽上逞の徒輩、兎角の論を觸れ廻して、禍を蕭牆の裡に醸し、遂に今日の形勢を致せしこと、歎きても餘りありと申さねばならぬ、歳寒うして松柏の後凋を知る、願はくは公儀君臣の大義を明かにして、寧ろ忘恩の王臣とならんより、全義の陪臣に甘んじて、時運の挽回に勵むべしとは、御親藩御譜代を始め、在府諸侯方一致の御意見と承はり申す、斯くて我等の執るべき道は、第一に旗本の兵を進めて、速かに都へ馳せ上し、首鼠兩端の輩を掃ふて、闕下を淨むると同時に、更に其機に乘じて薩長土藝を始め、台命に抗ふ諸藩の根據を覆し、第二は上樣に申上げて、關東鎭撫の名の下に、直に御東歸をお勸め申すが、差當つての急要と、憚りながら存じ申す』と、傍目も振らず主張するのであつた。――將軍の東歸を希望したのは、江戸城に據つて關東を固め、以て關西の諸藩に尊抗しやうとの、計畫であつた事いふ迄もない。
 幕議も略これに決し、諸藩の意嚮も、多く佐幕に傾いたけれど、大勢はまた如何ともする事が能なかつた。西郷吉之助の蜜策を受けた薩摩の浪士が、三田の藩邸に投じて同士を糾合し、府の内外に跳梁して、劫掠、殺傷、あらゆる狼藉を恣にしたのは、十月下旬から始まつて、十二月に入り、益甚だしくなつた。新教育を受た海陸兩軍の士官が先づ激昂して、薩邸攻撃論を唱へ、上州を始め芙蓉間詰の諸役人が之に和して、『薩藩は奸賊の張本、速かに討つて懲さねばならぬ、上方の諸役人が因循して、徒らに時機を失ふは、孰れも臆病未練の爲じや、先づ關東から戰端を開いて、味方の目を覺さねばならぬ』と、遂にこれを燒討して、僅に鬱憤を晴らしたのは、師走二十五日であつた。――次いで京地に於ても、鳥羽伏見の一戰に、幕府が賊名を負ふに至つたのは、翌明治元年正月三日の事であつた。

 一二

 江戸城内は、鼎の沸くが如き騒ぎになつた。
 鳥羽伏見の敗報、朝敵の汚名、慶喜以下の官位削除と、櫛の歯を挽くが如き注進に次で、正月十二日には、軍艦開陽で大阪を發した慶喜が、品川沖からお浜御殿へ上陸し、直に西丸へ入つて、恭順謹愼するといふ次第に、城内悲憤の涙に暮て、守戰論の火の手は一層加はつた。
 『毛利大膳父子の朝敵さへ、寛大の思召しを以て、官位封土を復せられたのに、我主君に限り、政權奉還の大功ありながら、却つて降官削封を命ぜらるゝとは何事ぞ』と、切歯扼腕するもあれば、『鳥羽伏見の事、固より露聊かも、朝廷に敵尊申す心ではない、唯君側の奸を除かうとしたに過ぎぬ、上幸にして戰ひは敗れたけれども、其誠心は天地に俯仰して、毫も愧る處はない、誓つて挽回の策を樹て、日月をして光明あらしめねばならぬ』と激語するもあり、扨は『名を官軍といふけれども、實は錦の旗蔭に隠れた、薩長勢に外ならぬ、何でう首をさし延べて、討たるゝ儘に任されやう』といふ樣な、宣言、檄文が府の内外に、翼を生じて飛ぶと同時に、薩藩の罪を數へた文書が、町の辻々に貼出されて、士民の激昂一方ならず、海軍副總裁榎本和泉守(武楊)、歩兵奉行大鳥圭介を始め、陸海軍人、新選組の面々、孰れも此論の中心であつた中に、急先鋒として最も熱心に、これを唱道したものは、勘定奉行として陸軍奉行並を兼てゐた、小栗上野介であつた。
 將軍東歸の後三日、正月十五日登城して、親しく慶喜に謁見し、熱辯を揮つてこれを説いた。
 『上樣天朝に尊し奉り、御二心あらせられぬ事は、天下萬民の存ずる處、然るにも拘らず、此度征討の師を下され、殊に御兄弟たる、因州(池田慶徳)、備州(池田茂政)の兩殿、さては井伊掃部頭(直憲)殿を始め、御譜代の諸大名を、其中に加へさせらるゝ事、名分の廢滅、これより甚だしきは厶りませぬ、斯かる御沙汰を蒙りまするも、今上未だ御幼冲にましまし、姦臣其間に在りて、權を盗み、詔を矯むるが故とは、火を睹るより明かに厶りまする、忠順上肖ながら先祖の又一より以來累代の御厚恩を忘れませぬ身には、唯御馬前の一死こそ、豫ての本懐、御譜代恩顧の面々は、孰れも左樣に存じ居ります、上樣此度の御東歸も、必ず再擧の思召しとは、憚りながらI推察罷在りまするなれど、先んずれば人を制するの讐(『近世数奇伝. 上巻』博文館文庫では「譬」)、義兵は一日も速かにお擧げ遊ばされいでは、理あつて非分に陥るのみならず、却てまた天朝の、光を蔽ひ参らせる、基かと存じ上げまする』、『上野控へい』と慶喜の言葉は凛と響いた。

 一三

 『譜代の面々、我家を思ひ予を思ふて、左樣に申し呉るゝ志は過分に思ふぞ、さりながら天下の形勢、まつた大義名分をも辨へよ、鳥羽伏見の事、固より予の志でない、全く一時供先の爭闘に過ぎねど、それが爲朝敵の悪名を蒙るに至りしは、皆予が上徳の致す處、今更申すべき樣もない。此上は偏に天裁を仰ぎて、從來の落度をお詫び申すばかりじや、錦旗に御手向ひ申す抔とは思ひも寄らぬ事、予の覺悟は最早定まつて居るぞ』、『すりや折角の御歸城も、再擧の思召しではなく』、『無論の事じや、恭順謹愼の外に途はないと、覺悟を定めたればこそ、大阪の金城をも棄て、斷然江戸へ歸つたのじや、當城にとても、長く留まる心はない』、『こはお情なき御心、姦臣朝に蔓る時は、假令死を決する迄も、百諫千爭してこれを除かるゝこそ、誠の大義名分では厶りませぬか、罪無うして罪に朊せらるゝは、自ら其罪を認むるが故と、世上に取沙汰せらるゝに於ては、後世迄の御耻辱とは思召ませぬか』、『日月誠を照らす限りは、假令一時雲が遮らうとも、いつか冤󠄀の晴れる日はあらうよ』、『お言葉返し申しては、恐れ入り奉りますれど、其思召しは憚りながら、餘りに御因循かと存じまする、斷じて行へば鬼神もさ避くる道理、多寡が一時の浮雲を拂ふに、何の御思案が要りませうや、既に陸軍の方では、函根、笛吹に出陣して、薩長勢を邀へんと申し、又海軍は軍艦を以て、直に大阪へ馳せ上り、西國中國の海路を絶つて、後詰の勢を遮らば、捷は掌を返すよりも容易と申し居りまする、兎にも角にも關八州 を守つて、新組織の精英を養う事は、目前の急務かと存じ上げまする』、『それは誰が申付けけるのじや』、『固より上樣御心に任せて』、『予の決心は既に動かぬと申したではないか、此上尚も錦旗に尊して、悪名の上塗りを致せと申すか』、『相手は薩長の賊徒で厶りまする、それを憚りありと思召すなら、上野輪王寺宮樣を戴き、正義の旗を揚まするに、何者の刃向ふ者がござりませうや』、『黙れ、既に朝敵の汚名を蒙れる者が、畏れ多くも御門主に、累を及ぼし奉つて、相濟まうと思ふか、假令又兵を擧ぐるにせよ、戰ひ結んで解けざれば、唐土、印度は前車の誡め、御國の瓦解、萬民の塗炭を、見るに忍びると存じ居るか、此上の諫言は無益ぢや、退れ』と、温厚の慶喜が例になく、氣色ばんだ體で席を立つた。
 上野介は尚も進んで、『暫く、今一言申上げ度うござりまする』と、塵を拂つた袴の裾を、確と捉へて放さなかつた。

 一四

 『えゝ、主に尊して無體の振舞、予を捉へて何と到さうとぢや』、『君それ程迄に思召す上は、最早強てお勸めは仕りませぬ、唯せめて一期の思ひ出、上樣唯御一騎にて、御上洛遊ばしませ』、『何と申す』、『さすれば御恭順の道も相立ち、天下の動亂とも相成りませず、冤の罪の御申開き、必ず相立たうかと存じまする、路次の御警固はよそながら、譜代の面々相勤めますれば、決してお氣遣ひには及びませぬ』、『痴氣た事を申すな、それは予を計らう爲の手段ではないか、兎にも角にも謹愼中の身、何事も朝廷の御沙汰次第、當方より押して参らう抔とは、思ひも寄らぬ事ぢや』、『すりやこれ程迄に申上げましても』、『冗い放せ』。――それでも上州はいつかな放さなかつたので、慶喜は遂に赫然として怒つた。
 『汝飽く迄主を要して、無謀の擧を強ふるに於ては、其儘には差し置かれぬ、朝廷への申譯、此場に於て役目を取上げ、屹度謹愼申し付ける、退れ』といふと其儘、振切つてつかつかと、奥の間深く入つてしまつた。――徳川氏の治世二百六十年間、將軍直々に職を免じたのは、後にも前にも上州が唯一人であつた。霜柱の崩れる樣に、へたへたと坐つた上州の膝頭には、悲憤の涙が潛々と零れた。  悄然として駿河台の屋敷に歸つた上野介は、即日上書して采地を返紊し、上州群馬郡權田村に土着して、農兵を教養し、再び事ある時の御用に立ち度いと願ひ出た。日を經て幕府からの指令には、采地は返紊するに及ばぬが、土着は勝手たるべしとあつた。
 權田村の名主佐藤藤七は、豫て小栗家に出入りして、殆ど譜代の家來の如く、既に先年上州が、米國に渡航した時も、從者として同船した程で、最も上州の信任を得てゐた。其他村の有力者譽田三左衛門、池田傳三郎、中澤兼五郎等恩顧の面々、打連れて出府し、交々權田村土着を勸説したので、小栗家の采邑は、寧ろ野州の方に多かつたのだけれど、遂に其村を選ぶに至つたのだつた。――村は榛名の山の西麓、烏川上流の山間にあつて、また要塞堅固の地であつた。
 二月十二日には、遂に江戸城を出た慶喜が、上野大慈院に屏居したので、大機既に去つたと見た上州は、愈權田村に退隠すべく、一家を擧げて引拂の準備に着手した。
 『殿様、彰義隊の澁澤樣がお越しになりました』、『左樣か、こちらへお通し申せ』。案内に連れて座敷へ通つたのは、彰義隊の領袖澁澤成一朗であつた。

 一五

 『成一朗殿、好い處へお訪ね下された、我等も、愈上州の山中に引つ込む積でな』、『左樣承はりました故、態とお訪ね申したのでござるが、固より貴殿の事でござれば、其儘歸農なさるゝ思召しではござるまい、殊に權田村は要害の地と承はる、必ず深い御思慮があつての事でござりませうな』、『はゝゝ左樣に相見えるかな、それは其許の買冠りぢやよ』、『何と仰せられます』、『天下の大事は既に去つた、我等も初めは見る處があつて、守戰論を唱へたけれど、議は行はれずして、身は重譴を蒙つた、況して今では御主君に於ても、東叡山に御謹愼遊ばされて、世の人心も悉く挫けた、假令奥羽の各藩が、一致して官軍に抗ふとも、上樣御恭順の上は、全く無名の戰と云はねばならぬ、半年經たぬ中に平ぐであらう、さすれば何を目的に、要害を守る必要がござらう、買冠りと申したのは茲の事ぢや』、『すりや三百年のお家を、見す見す見殺しになさると仰せられるか』、『はて左樣ではない、海山にも代え難き御鴻恩、それを忘れて何と致さう、唯一時天下は平定するとも、強藩互に功を爭ひ、今日の味方が再び明日の敵となつて、群雄割拠する樣の事もあらば、三百年の御徳澤は、悉く人心に潤ふてゐる、中興の再擧、必ずしも難しい事ではない、我等今日の思案と申すは、鋭を養ひ氣を練つて、徐に時勢の變遷を見るばかりぢや、這回土着の覺悟を定めたも、それが爲に他ならぬが、一朝事ある時の用意に、農兵を練り、百姓を懐けて、變に應ずる備へだけは、怠らぬ積りぢや、若し又天下儘に治まつて、士民太平を謳歌する世ともならば、其節は前朝の一頑民となつて、空し山中に朽ち果つる迄ぢや』と、憮然として語る上野介の述懐を聞いて成一朗も其上いふべき言葉もなく、名殘を惜しみつゝ別れて往つた。
 成一朗は、一橋家から、慶喜随従した家臣で、當時は奥祐筆格であつたが、二月十二日、慶喜退城の日を以て、天野八郎等の同志十七人と共に、雑司ケ谷の茗荷屋に會して誓紙を造り、彰義隊の基礎を作つた人で、結社と同時に、最初頭取に擧げられたが、後要害の地に據る爲、同志と共に江戸を脱して、武州田無に振武軍を組織し、飯能の一戰に敗れて後は、函館五稜郭の戰ひに迄参加した。
 二月二十八日は、上野介が養嗣又一、母國子、妻道子等の家族を携へて、住馴れた駿河臺の屋敷を後に、江戸を發した日であつた。

 一六

 失意の旅であつたけれど、意氣の壯な上野介は、些しの屈託した色もなく、馬上ゆたかに打たせ行く後には、二門の大砲、數十挺の小銃、弓槍彈を始め、大小の行李、漬物樽迄、業々しい行列が續くので、沿道の者は目を攲てゝ、軍旅の如くに噂し合つた。
 長く勘定奉行を勤めて、多くの金銀を自由にしたから、行李の裡は悉く、軍用金であらうといふ憶測、甚だしきは澤庵漬けを見て、金の伸べ棒が入つてゐると、實しやかに觸れ廻る者さへある位だつた。――而も上州の清廉であつた事は、死後其手凾を改めた時、僅かに拜領の黄金が、二枚あつたに過ぎなかつたのが、明らかに證據立てゝゐる。
 併し道中恙なく、三月朔日權田村に着いた一行は、取敢ず村の曹洞宗東善寺に仮寓した。藤七等の肝煎で、近在の若者は、風を望んで來り會し、寺は忽ち一種の私學校となつて、上州は自らこれに、洋算、外國語等を教授した。農兵組織の計畫は、先づこゝから着手されたのだつた。
 『殿様、大變でござります、野州から打毀しが押寄せて参ります』と、一人の若者が息を切らして、急を告げに來たのは、まだ行李を解くに暇もない、上巳の節句の夕方だつた。『打毀しとは一揆の類か』、『左樣でござります、何でも金井庄助とか申す者が棟梁で、總勢約そ七千人餘り、最う三の倉迄参つて居りまする』、『それが當所へも参ると申すのか』、『参る段ではござりませぬ、目指すは殿様御一人と申して、近在へ助勢を頼み廻つて居りまする』、『はゝゝゝ、多寡の知れた烏合の暴民共、何程の事もあるまいが、さう聞く上は打棄ても置かれまい、防戰の用意を致せ』と、一令の下に二門の大砲は、門前の街路に引出された。村民は手に手に獲物を携へて馳参じた。
 維新變革の過渡期に當つて、俗に打毀しと稱する暴徒が、随所に蜂起した例は、敢て珍しい事でもなかつた。野州に起つた一隊は、前橋高崎附近を劫掠して、上州群馬郡室田に迫り、武州秩父に起つた一隊は多野郡藤岡、來甘樂郡富岡附近を荒して、三月二日兩隊室田に落合ひ、尚も附近の農民を語らひつゝ、翌三月三の倉に集屯した時は、其勢七千餘人と稱せられた。――上州が多くの軍用金を携へて、權田村に來たとの風説を聞き、これを掠奪する目的で、押寄せた事はいふ迄もない。
 三の倉と權田とは隣村、今は合併して倉田村といふ。其權田村の四方から、一時に火の手が揚がつたのは、翌四日の早朝だつた。

 一七

 暴徒は村の五ケ所に放火し、勢ひに乘じて包圊攻撃を始めたのだつた。
 上州主從は權田村の壯丁を率ゐて、茲を先途と防戰した。農兵の基礎となるべき若者は、百姓しながら恩に懐き、容易に退く樣な事はなかつた。寄手の内には直近村から、脅迫に依つて狩出された。多數の農民も交つてゐた。暴徒は道々村落に就いて、徒黨さへ随へば、何の害も加へぬけれど、若し反抗するに於ては、村々を燒拂つた上、容赦なく斬つて棄てると威嚇したので、老幼婦女は悉く、附近の山林に難を避け、達者なものばかり留守ををしていゐたのが、加擔の振をして附いて來たのだから、豫て見識越の隣村民に尊して、初から戰ふ心はなく、銃砲を放つにも、筒先を空中に向けてゐる者が多い有樣だから、頑強な相手に尊しては固より敵する筈がなく、殊に二門の大砲を、盛んに打かけられるので、忽ち敗色が見えて來ると、やがて總崩れになつて、僅か半日も支え得ず、其日の午後頃迄には、蜘蛛の子散らすが如く、八方に潰走してしまつた。
 勝に乘じて追撃した、上州方の手にかゝつた者の中には、自分に戰ふ心がない爲、別に逃げやうともしなかつた、隣村の者も二三人あつた。更に又其手に依つて、燒拂はれた村落もあつた。――上州は勝戰を祝して、東善寺の門前に、これ等の首級を實検した。
 固より假の住居であるから、永住の地と定めた以上、新に住宅を造らねばならぬ。それには暴徒の再擧に備ふる爲、要害の地を選ぶ必要もあつた。榛名山の峰續き、一筋谷川の流れが、烏川に落合ふ處、數十丈の絶壁の上に、稊廣い平地のあるのを發見して、早速地形に取懸り、木組を促して柱迄建てた。麓の岩窟に觀音堂があるので、俗に觀音山といふ。崖下には官道が通じて、便利も好ければ眺望も佳い、一朝事有る時には、優に城砦を置くに足るべき形勝の地、上野介は先づ其風致に垂涎した。
 暴徒の撃退は上州に取つて、無論當然の行動、住宅の建築地に、形勝を選んだのも、敢て上思議はない筈だけれど、禍は怎麼處から、湧いて出るか知れなかつた。暴徒に加はつた近在の部落からは、直ぐに和睦を申込んで來たので、表面は無事に紊まつたけれど、家を燒かれたり肉親を殺されて、内心の紊まらぬ者はあつた。

 一八

 東山道總督岩倉具定、同具經、薩長以下の兵を率ゐて、東下し來る途次、上州敵尊の謀計がある事を、其陣營へ訴え出たのは、隣村の某々名主であつた。
 采邑に土着すると稱して、多くの軍用金と共に、大砲其他の武器を備え、険阻に臨んで陣屋を構へ、農兵を養成してゐるといふ事は、官軍の密偵に尊して、好い心證を與へる筈はなかつた。即檄を高崎、小幡、安中の三藩に傳へて、上州追討の令を下されたのは、四月末の事であつた。――此頃江戸にあつては、三月十五日に、幕府の役人が江戸城を引拂ひ、四月四日には勅使入城、十一日を以て、滯りなく受渡を了つた後だつた。
 三藩の兵は總督府から、原保太郎、豐永寛一郎の兩人が、監軍としてこれに臨み、早くも三の倉迄進んで、曹洞宗全透院を本營とした。追討の令は受けたけれど、三藩はもと徳川氏恩顧譜代の臣であつたから、本統に上州を敵として討つ心なく、閏四月朔日、先づ使者を東善寺に遣つて、上審の條々を問詰させた。上州は無論其冤である事を陳じて、恭順の意を表する爲、一門の大砲と、二十挺の小銃とを引渡し、翌二日には嗣子又一に、三人の從者を附して、人質代わりに高崎の官軍出張所へ出頭せしめたので、三藩は其異心なき事を諒として、直に兵を撤したが、監軍の兩人は肯かなかつた。
 濫に督府の命を矯めて、恣に軍を旋す時は、三藩をも同罪として、討伐の指令を乞ひ受けるとと脅迫したので、重役の者共驚き畏れて、百方陳謝した結果、兩監軍に高崎藩の二小隊を附随せしめて、再び東善寺へ向つた處、上州は既にゐなかつたので、監軍の二人は大いに怒つた。  上野介は是より先、危急の身に迫るを見ると、空しく冤に死するより、一旦難を會津に避けて、時節を待つに如かずとし、三日東善寺を立退き、譽田三左衛門以下五人の從者を随へて、村内 龜澤の百姓家、大井秋次郎方に憩んでゐる處へ、息せき切つて馳付けたのは、又一に附いて高崎へ往つた。名主の佐藤藤七であつた。
 『殿様、これは一大事にござりまする』、『何と申す、又一の身に異變でもあつたか』、『いえ、左様ではござりませぬが、殿様此處にお在なされましては、左様な事にならぬとも限りませぬ』、『如何なる事じゃ、早く申せ』

 一九

 『官軍方よりの仰せ付けでござりまする、殿樣東善寺をお立退きなされて、何れへかお越なされまするに於ては、權田村方一同の難儀と相成り、且は高崎陣所へ御出頭の、若殿樣御身の上にも關はるとの事でござりまする故、此塲は早々御歸館遊ばされて、異心なき事を官軍方へ、お申開き下さらば、第一には若殿樣御為、随ひまして村方の爲にも、此上の喜びはござりませぬ』と、藤七の諫言を聞いて、上野介も仕方なく、『固より予に於て、異心のある道理はないが、東善寺を立退いた爲、村方の難儀になるとあらば、如何にも此儘立歸つ、官軍に申譯を致すであらう』、『有難う存じまする、それで若殿樣御一命も、御安泰でござりませう、では早速お供仕りませう』といふので、再び寺に入つたのは、三日夜中の事であつた。
 『母上、道、最早今生のお別れかと存じまする、其方も天命と諦めよ、村方大勢の難儀を振棄て、又義理ある倅を見殺しにして、一身の安全を求める事は能ぬ、假令冤の刃に伏して、一命を召し上らるゝとも、拙者一人は此所に踏留まつて、官軍の沙汰を待たねばならぬ、其方は母上の御供申して、一先づ會津へ落るが可からう、夜が明けては人目が面倒、今宵の中に早々出立の用意を致せ』と、覺悟を定めた上野介は、名殘を惜む
母や妻と、別れの盃を交しつゝ旅装を促して夜の中に落とした。――道子は當時、妊娠七月の身重であつた。
 數十名の官兵が、上意に起つて東善寺を包圊したのは、一日隔て五日の日だつた。門内に踏み込んで見ると、一山寂として人の氣さへないので、上審に思ひつゝ客殿へ通ると、そこには上野介主從、僅か四人居殘つて、静かに官兵を迎へ入れた。
 『東山道先鋒總督府よりの上意、小栗上野介御上審の廉取調べの爲、三の倉陣營迄引立てる、神妙に繩を受けられよ』、『委細承知致した。併し我等二心のなき事は、誓書血判に相認め、權田村名主佐藤藤七を使として、一昨夜高崎御陣所迄、差立遣はした譯でござるが、其者の安否は御存じあるまいか』、『名主藤七なら、やはり途中より引つ立てられ、三の倉の陣所へお留置に相成つて居る』、『左樣か、此上は是非に及ばぬ、いざ立ち寄つて繩打たれよ』上州は静かに目を閉ぢて、自ら兩手を後に廻した。三人の從者も同じ縛に就いた。
 一夜三の倉の陣所に留られた主從は、唯一回の訊問をも受けず、翌れば六日の早朝、村の西境なる烏川の涯、俗に水沼河原と稱する刑塲へ引出された。

 二〇

 大井磯十郎、荒川祐藏、渡邊多三郎と、三人の從者は縛の儘、上州の見る前で瓜の如くに斬られた。――併し上州は自若として、色をも動かさなかつた。
 監軍の一人原保太郎、遉に以前の身分を思ふて、先づ縄目を解かせた上、禮を厚うして斬罪の趣を傳へ、『尚申し殘され度い事もあらば、承はり申さう』と告げた。上野介は莞爾として微笑みながら、『此期に及んで、また何の申し置く事がござらう、但だ先達て放ちやりし、婦女に尊しては、幸ひに寛大のお取扱ひを願い申す、其他に遺言とてござらぬ、早々と首を刎ねられよ』と、從容として刑に就いた。享年四十二、美事な最期を見聞く者、孰れも其心情を思ふて、暗涙を催さぬはなかつた。
 首級は其儘磧に梟されたが、舊領地群馬郡下齊田村の者が竊に盗み去つて、同村東の堂の墓地に埋め、又遺骸は東善寺に葬つて墓を築いた。法名『陽壽院法岳淨居士』。――高崎に往た嗣子の又一も、三人の從者と共に、父の刑せられた翌七日、同じく斬に處せられた。享年僅か二十一、又一實は大目付駒井甲斐守(朝温)の二子で、上州に養はるゝに及び、祖先の通稱を襲ぎ、又養父の諱の一字を承けて、忠道と名づけられた。上遇の養父子は死後に至る迄、東善寺の庭上に、墓となつて相並んでゐる。
 譽田三左衛門以下數人の從者と、二人の下女とに護られて、夜陰竊に權田村を落た、上州の母鏡壽院と、妻道子との兩人は、途中追つ手を避ける爲、信濃、越後の二路に別れて、山を越え、野に臥し、あらゆる辛酸を嘗めて、漸く新潟に逃れ、更に轉じて會津に潜行した。六月十四日會津の隠家で、道子の生落した女子が、今の小栗貞雄氏夫人國子であつた。――先祖傳來の通稱又一の名は、現に其國子の胎に生れた。上州の孫に依つて傳へられてゐる。
 高崎への使者の途中、捕へられた名主の藤七も、同じく斬首に行はれんとしたが、近村の名主連署の命乞に依つて、漸く赦さるゝ事を得た。――同時に上州の冤死も、總督府の諒知する處となつた歟、間もなく特使を東善寺に立てゝ、弔祀金二十五兩を奉紊された。
 上州と最も關係の深かつた栗本鋤雲は、當時幕命を帶て佛京巴里にゐたが、故國の政變を聞くと、取るものも取敢ず歸朝した時は、既に明治元年五月、上州を始め幕閣に在つて、事を共にした人々は、或は變に死し、或は冠を挂けて、一人の留る者もなく、國家の事また如何ともする事が能なかつたので、歸農して小石川大塚に隠棲し、更に本所二葉町に移つて、再び新政府に仕へず、文筆の傍ら花卉の培養に餘生を委ねて、逊遥自適、明治三十年六十七歳を以て、その借紅園に永眠した。

引用・参照

『近世数奇伝』 本山荻舟 著 (金桜堂書店[ほか], 1921
(国立国会図書館デジタルコレクション)