『万延元年第一遣米使節日記』

 三三-三五頁
 小栗豐後守(後閣老と同名なるを避け上野介に改む)忠順略傳

 小栗上野介忠順初字剛太郎、後又一と改む

 父 忠高又一(中川氏)新潟奉行として令聞あり
 文政十年駿河臺の居邸に生る
 幼にして學問出精の聞あり、部屋住にて切米三百俵を賜はり書院番頭、小姓組、進物番出役を經て安政四年正月十一日使番に進む。
 同年新潟奉行たりし父の訃に逢ふて家督を相續す。
 同六年九月十二日定員外(定員十人の外にして過員と稱す)の目附を命ぜられ、諸大夫に任じ豐後守と稱す。
 外国奉行新見豐前守、村垣淡路守の二人本條約書交換の爲め北米合衆國に遣はさるゝに方り同時に監察を命ぜらる、萬延元年十月歸朝。
 幕府其功を賞して家祿二百石加増黄金十枚時服三を賜ふ、同年十一月外國奉行に任ず、文久元年二月魯人對州を占領せんとするあり四月六日對州へ差遣はさる、忠順苦心惨談判を中止して江戸政府の命を請ひて解決せんと魯使の強要を抑止せり(當時支那には英佛聯合軍の北京攻略纔にまり魯國は黒龍江一帶の割譲を得て意氣衝天の勢あり忠順の苦心察するに餘りあり、本件は英國公使の魯使を抑ふるによりて纔かに事なきを得たり)、次で函館に派遣を命ぜられしも病と稱して辭せり(幕閣と對魯方針を異にせるが爲なりと云ふ)。
 同二年六月勘定奉行に任じ勝手方たり爾來六年間同職(勘定奉行勝手方は幕府の大藏大臣にして當時財政窮乏國用多端、積弊纏綿の極に在りしが、忠順賦性剛毅此大任を拝してより情幣芟徐と金穀の節約に勉めし爲、大奥を始め下僚輩怨嗟の標的となり後斬に遭ひしも此任に忠なりしこと與つて大に力ありたりと云ふ)を以て町奉行、陸軍奉行或は軍艦奉行を兼任せり(横須賀にドツクを創設し今日の海軍工廠の基を開けしは此間に在り)、明治元年三月暇を乞ふて采地(上州群馬權田村)に退棲す、閏四月五日官軍の爲めに上州三倉の兵營に囚われ同月五日水沼村境の川原に於て斬に処せられる。

 一頁
 萬延元年第一遣米使節日記(原名航海日記)
               故村垣淡路守範正記述
 上の卷
 安政六年九月十三日 例の如く大城に登りしが俄に麻の上下きて芙蓉間に出よとありければ、同僚豐前守正興朝臣(新見此節神奈川在勤なれば左衛門尉範忠朝臣赤松名代を勤ける)をのれ、鑒察の小栗忠順又一と同じく出でれば、彦根中將はじめ執政の方々つらなりて、鯖江侍從このたび亜米利加國へ條約取かわせとして遣わさるゝ間用意せよとの仰せを傳らる。やがて新番所前の溜にて豐前守正興は正使、をのれは副使、小栗忠順は立合の心得にて勤よと書付もて龍野侍從傳らる、

 三頁-四頁
 〇十二月朔日 西城に(十月十七日本城炎上西城にまします)登べきよしの奉書、きのふ西尾侍從渡さるゝまゝ、とく登りて、帝鑑間の庇にに出れば、暇の賜ものかづけらるゝよし、龍野侍從つたえられる。やがて白木の書院の庇に、正興、をのれ、喜毅、豐後守忠順(小栗十一月廿一日叙爵)順々に出れば、奏者番大隈守親良朝臣名披露す。龍野侍從、亜米利加國へ御用として罷越により御暇、拝領物のかしこまりを聞へあげらるれば、御懇の上意を蒙りて御前をまかる。芙蓉間にて黄金呉服道服をかずけられる(正興をのれは金十枚代り二百兩時服三羽織喜毅忠順は金同上時服二羽織)下司の人々も、とりどり暇の賜もの下し賜ふ。

 〇十二月廿日 には米利堅のポーハタンと名ずくる蒸氣の軍艦、神奈川に來りけければ、同廿三日、正興、をのれ、喜毅、忠順と其他同行のの下司を伴ひて、蟠龍丸の御船に乘りて、神奈川港に至り、驛にやどる。次の日ポーハタン船に行て、水師提督のタツテナル(人名)船將カビテイン(官名)ピイソン(人名)等に面會して、迎として渡來の事をねぎらひ、船出のことヾも語合て、廿五日に歸りぬ。いつしか年も暮れて、安政七年の(庚申閏三月朔日萬延を改元ありしは歸朝して聞けり)元旦になりぬれば、送別とて龍野侍從、

 七-九、十一頁
 〇正月十三日 には龍野侍從の邸に、コモトール等を招かるれば、同僚はさらなり外國の事にあづかる、大小鑒察、其の他役々彼の邸に参りぬ。

 〇正月十四日 正興、をのれ、忠順一同に御座間に召出され、御懇の上意を蒙る。

 〇正月十六日 西城樓間におゐて、彦根中將執政の方々並居て、政與とをのれ出れば、御黑印御下知狀を岩城侍從渡され、忠順にも同じく渡される。又三人同じく出れば米利堅へ遣さるゝ御國書、(黑塗御函入)御條約書(同上)、執政より彼の國の外國事務ミニストル(官名)へ贈らるゝ書翰をも同じ侍從渡され、十八日に出立、十九日開帆の旨、政與申上れば、念入るべき旨、侍從傳へらる。かくて執政参政の方々へ、、親しく暇を告げるが、かゝる例しなき旅立なれば、殊更になぐさめらるゝも忝なし。同僚は更なるしたしき有司の人々何くれと、まめだちて名殘をしむさま、さすが御國内の旅立とはかはりて、むねくるしき事なり。

 〇正月十八日 空晴わたり、西北の風はげしく、旅衣また寒し。
 軍艦操練所へ参りければ、正興、忠順、勘定組頭森田行(岡太郎布衣)、また下司の人々皆打揃ひ、夕八時頃小舟に乘りて、炮臺のあなたに出れば、風つよく波高く成りて、森田行は、はやゑひ心の様子なり、
 甲板上(船の上の板敷をいふ)艫の方にコモトール(總督)カビテイーン(船將)の部屋有。その續にある部屋を忠順の部屋となし、其下の段の左右を政興と、をのれの部屋とさだめ、森田行はその前にあり。甲板上大砲四挺取はづして、左右へあらたに部屋々々を設けて、成瀬正典以下、下司、家司、從僕まで、夫々部屋割を定めたり。

 十七-十八頁
 〇正月廿四日 陰朝西風晝東風五十度 北緯三十五度十七分四十秒東經百四十七度十八分四十五秒
 二百三里
 とかく食もすゝまねば蜜柑また久年母抔食しけるが、けふあまりに空腹に成ければ、粥を一二わん食したり、正興はをのれの部屋とむかひなれば、床にふしながら、いかにありしやなど折ふし、互に聲を掛しのみなり。忠順は上の段の部屋なれば、洲の岬を出し頃、部屋に入しまゝ、音信もなく、けふなん家司もてとひければ、いとむねくるしきこと甚しと聞ゆ。

 〇正月廿五日 晴西北風烈四十三度 北緯三十五度五十四分五十秒東經百五十一度一七分四五秒
 二百四里
 安房の海を出てより舟うごくこと彌甚しく、日毎に烈風高浪なれば、少しもしづまることもなく、ゆられゆられてつかれければ、いつしかねむりにつきけり。けふ忠順部屋より下り來りてとひかけるが、色青くやつれしさまなり。人々船暈にてふしてばかりあるを、コモドールは殊更にいたわり、かくしては甚あしゝ、つとめて甲板上に出て風に吹かれなば、心地も能成ものとしきりにすゝむれど、、起出んとすればむねくるしく、心地よからねば、兎角うちふしぬ。日々銘々の室をとひ、彼の食物など贈るも心ふかき事どもなり。

 三〇頁
 〇二月十五日 晴けるが折々村雲はしりて、雨ふる。とくに起出しが氣力をまして、誰も心地よしとていさみけり。午後二時の頃より、例のテーロル案内にて、正興、をのれ、忠順、森田行一同下司四五人連けり兩馬の車に乘り、客舎を距る事三四町にて、王の公舘に至る。爰は外國人接對所なり。案内の者出たり。

 三五-三七頁
 〇二月十八日 晴 此島の王、日本の使節に對面の事を乞けるよし、テイロル言出しが親しき國にもあらねば、程能く斷けれど、各國かゝる禮にて斷いふは禮を失ふよしなれば、領掌してけふ午後二時(八時前)と約しけるまゝ、テイロル案内にて先に一見せし公舘に至る國王とはいえど島の酋長も同じことなれば旅装のまゝにて行くこととす。此舘へ王の弟なる上將軍カメハメハ(人名)迎として來る此所より從者は先へ遣す。一禮して王の乘車をもてむかえけるよし懇に述けり。やがて、堂前より乘車例の兩馬左右飾有りて美麗也。正興、をのれ、カメハメハ、テーロル同車、忠順、森田行一車、名村五八郎、立石斧次郎一車、都合四車順々乘つれて、騎兵四人左右にしたがひ一走りに王城に至る凡そ三〇四町。やがて正興は米のミニストル、をのれはコモドール、忠順はケビテイン、森田行はテイロル,各手をとりて(都而歐羅巴米利堅の風習にて賓客を誘引ときは高官のもの一人づゝ附添手を組て出るを禮とするよし)右の耳房に入れば、正面に王西面して、いさゝかの臺の上に立たり。黑羅紗の筒袖にて米の風俗にかはらねど、金のたすきめきたるものを肩にかけり。側に通辯官(蘭話)一人侍立、左右衛士十二三人有。内四人奇麗なる花鎗のごとき飾せしものを持、北の方には士官と覺敷ものならびにミニストル等陪從、正興、をのれ、忠順王の前に進み默禮すれば、各々姓名を米のミニストル披露、王みずからこたびはからずも、日本使節に面會して忝よし、はた碇泊中何事も不自由成べしなと、いとこまやかに述ければ、名村五八郎通弁したり。正興答禮して順々元の席へ退去。彼の國の仕來りとて記錄帳一冊を出し、各姓名を直書せよとあるまゝ各しるしけり。しばしありて又最前の席に出る手續前の如し。王の立し所に妃立たり。名はエンマ、年頃二十四五、容顔色は黑しといへど、品格おのずからあり。

 三五-三七頁
 〇二月十五日 晴て折々雨ふる 朝十時(四時過也)正興、をのれ、忠順森田行とゝに陸にあがりて客舎に至り、テイロル案内して在留せし米のミニストルの家を訪ふ、二階造にして本堂めきたり、あるじ何くれともてなし妻も出て親しく挨拶などして後寢床までも案内して更に隔意なし、草花を好て堂の四面に花壇よふの所ありけるが、此地は熱帶中なれば奇花異草多し、中にもおもとの葉のごとくにして長さ七八尺ばかり有、百年に一度花咲といふ。米人ゆへ御國產の品など贈ける、かくて仏蘭西のミニストルの家もとひ、忠順、森田行は市店見巡りける、

 五五-五六頁
 〇三月十一日 曇、折々雨 朝とく昨夜面會せし統領はた高官の吏員ポーハタンに來れりコモドール、タツテナル引合せにて改て對面すれば、迎に來りしよしを述て歸る、やがて十一時にタツテナルはたテイロル等案内にて正興をのれ、忠順、喜毅各下司の人々伴ひて、小なる氣船アクテイウ(船名)に乘れば胡樂を奏し統領むかへて室に入てもてはやしける、
 午後二時(八時前なり)サンフランシスコの波止場に着、棧橋の長さ六十七間幅五六間もあるべし、蒸氣船直につきて船より馬車に移る、正興、をのれと統領、タツテナル四人同車、喜毅、忠順、テイロル同車、はた下司家司までも順々車に乘連れて出れば、男女群集して見物したり、街市縱横にはしりめぐりて(見物の爲無益の道を囲りたることなるべし)旅宿に至る、
階段をのぼる數多廊下有りて爰かしこへ通して部屋々々有、三階に至る、正興、をのれ、忠順の部屋をさだめけるが、正興の室に集まりけふの物語などしてふしぬ(部屋毎に寢床をもふける白き薄ものをかけたり、鏡と手水鉢よふのものまた奇麗なる陶器有りけるこはシビンなりけり)

 五九、六一頁
 〇三月十三日 晴
 正面に統領、左右に正興、おのれ、忠順はた下司の人々、勝鱗太郎各の間タツテナル、ピーソン、テーロル和親の國々のコンシユル杯はさまり、夫より文武の官吏下輩まで凡百五十人も一同に飯臺につき、各コツプ大小五六を與へ各盃とす、皿を置て肉のあつもの數々引替出す、大なるコツプに氷を一くれ入て、サンパンといふ酒をつき、

 七四、八一頁
 〇閏三月六日 晴 今朝第六時(六時半過)川蒸氣船迎に來たり
 炮門を窓となして能き部屋也、忠順部屋、次に正興、をのれ合部屋にして、寢床二段に有、森田行下司まで三人四人づゝ合部屋にして、家司は對食所仕切て部屋とし、其余は大炮の間に幕張して部屋とすれば、船は奇麗なれど都合はあしく、ポーハタンのテイロル、使節の爲に、此船に在て、何くれとあつかひ、コモドール、メクロニーは威儀正しく、カヒテイン、カルテネルは實直にて氣の輕き人也、隔意なくもてなして、心易くぞ思はれけれ。

 中の卷

 一〇五-一一〇頁
 〇閏三月廿八日 陰 十二時に大統領の謁見なれば、けふをはれと、とりどり支度せしが、豊前守正興狩衣(鞘卷太刀)をのれ同じく(毛抜形太刀)、忠順(鞘卷太刀各烏帽子は萌黄の組掛糸鞋を用ゆ)、森田行布衣、成瀬正典も同じ(御用中、假布衣)調役徒目付素袍(徒目付兩人とも勘、定格なればかく)通詞(名村五八郎)は麻の上下きて、正興にはジユボンド、をのれにハリイ、忠順にはレツテヤールト、各附添て四馬の車に乘(車の覆を後へはねたり)、をのれ等も下司もけふは供を連たり(正副使鑒察は徒士三人、鎗一筋、侍三人、森田成瀬侍二人、鎗一筋、草履取、以下是に準ず)、客舎を出れば、先に鼠色の羅紗の筒袖きたるもの二十人ばかり立並び(町役人の類なるべし)次に樂人三十人、騎兵五六騎次に御國書入の長持、赤き革覆ひ掛たるを枠に入舁せ、定役、小人目付、通詞附添、次に正興、をのれ、忠順と下司まで順々車に乘つれ、左右ケール隊一行に足並して、樂を奏しつゝ行に、大路は所せきまで物見の車、はた歩行男女群集かぎりなし、をのれは狩衣を着せしまゝ、海外には見も馴れぬ服なれば、彼はいとあやしみて見るさまなれど、かゝる胡國に行て、皇國の光をかヾやかせし心地し、おろかなる身の程も忘れて、誇り貌に行くもおかし。やがて大統領の居所鐵の柵門有、入て七十間ばかりも行て、堂の前に至る、騎兵、歩兵、我供人もて此所に至る、車より下りて直に石の階段を登り、ひと間ふた間すぎて扣所に至る、正副鑒察の席にして、森田行以下各別席に有、をのれ等が席は楕圓の形にして、七間に四間もあるべし、花やか成藍もて文を出せし敷物、前に三口玻璃の障子にして内に戸張を掛、是も同じ色の織物なり、四方に大成玻璃鏡を掲、前に卓を置、我國の蒔繪の料紙硯其他さま〲餝りて有、こはペルリ渡來の時、遣はされし物と聞ゆ、此席にレウヰス、カス出て挨拶して退きぬ、やがてジユボンド、リイ左右に附添、謁見の席へ案内す、成瀬正典御國書を持たり(御國書は金泥花鳥を畫たる料紙、内箱は縞桐、内張大和錦、めん金粉イツカケ紅のひも純子を張りたる上覆に入、紫糸總付、其儘出す、上箱は黑塗り紅のひもなり、これはジユボンドへかねて渡し置たり)席の入口に至れば、兩開戸を明たり、むかふへ五六間横十二三間もあるべき席の正面に、大統領(フレシデントといふ名はブカナン)左右に文武の官人夥敷、後には婦人あまた、老たるも又姿色なるも美服を餝りて充滿したり、正興、をのれ、忠順一同に席に入れ、一禮して中央に至り、又一禮して、大統領の前に近く進み、正興御掟の趣たからかに述れば、名村五八郎通辯したり、成瀬正典御國書持出しければ、正興御書とり出し大統領へ手渡しにすれば、箱は正典よりカスえ渡す、最前の通り中央に退けば、森田行調役徒目付一同出る、此時自分の禮を述て扣所へ退去すれば、ジユホント來りて我國の禮は右にて濟しやととふ故、濟しと答ければ、又出よと云まゝ、一同に出れば、大統領手をとりて、日本鎖國以來はじめて和親を結び、第一合衆國へ使節を立られし事、大統領はさらなり、國中の人民歡喜限りなきよし、はた厚き御掟の趣、御國書賜はりし事ども、殊更に忝なきよしを述、口述の横文を渡しけり、高官の人々五六輩も手をとりて挨拶すれど、限りなければ余は一禮して席を出る、かくて最前の通り旅舎に歸る、夕第四時(八半時過なり)にジユホント、レツテヤールト案内にて、外國在留のミニストルはた自國のミニストルの家をとひけるは、普通の例なるとてすゝむれど、和親の國のミニストルは左もあるべし、和親にもなき國の人はとふまじと斷ければ、諾しけり、されば旅服に成りて馬車一二輛にうち乘り、いとゝく走りめぐりて、其家の前に至れば名札を御者にもたせて取次に渡すのみにて(我名札は國字にてしるし脇に横文の譯を添へける)車を下らず濟ぬ、こは輕便の事なり、數軒なれどとくはしり、誰の家なるやしらず過ぎける、中に英蘭のミニストルの家は、通りて面會せしが、いと美麗なる家にて、妻子と出て逢たり、かくて夕方歸る。うち寄りてけふの有さまを語るに、大統領は七十有餘の老翁、白髪穩和にして威權もあり、されど商人も同じく黑羅紗の筒袖、股引、何の餝もなく太刀もなし、高官の人々とても、文官は皆おなじ、武官はイポレツト(金にて造りたる總の如きもの兩肩つけて官の高下に寄りて長短有なり)を付、袖に金筋(是も三筋を第一とし二筋一筋と有り合衆國は此錺ばかり西洋各國はゑりに飾りもあり)有、太刀も佩たり、かゝる席に婦人あまた裝ひて出るも奇なり。能く考ふるに、歐羅巴の事はしらねど、サントウヰス島は國號なる故西洋の王國の風に習しや、大に體裁有て、婦人は別に面會せしなり、合衆國は宇内一二の大國なれども、大統領は總督にて、四年目毎に國中の入札にて定けるよしならば(今年十月一日に代るよし後の統領は必誰なりといえり、入札なるか前にしるべからずといへば、今の大統領の縁有ものといふ、されば此建國の法も永くは續く間敷をと思はる)國君にあらざれど、御國書も遣されければ、國王の禮を用けるが、上下の別もなく、禮儀は絶てなき事なれば、狩衣着せしも無益の事と思はれける、されど此度の御使は渠も殊更に悦び海外へほこりて、けふの狩衣のさまなど新聞紙にうつして出せしよしなり、初めて異域の御使、事ゆえなく仰ことを傳へけるは、實に男子に生得しかひ有て、うれしさかぎりなし。

     ゑみしらもあふぎてぞ見よ東なる
      我 日 本 の 國 の 光 を
   おろかなる身をも忘てけふのかく
      ほ こ り か ほ な る 日 本 の 臣

 一一一-一一四頁
 〇閏三月廿九日 薄曇

 大統領へ遣はさるゝ品々客舎に飾付て、目録をジユホントへ渡す、其品々は眞の太刀一振、馬具一揃(蒔繪鞍鐙紅厚ふさ)掛物十幅(絹大竪物畫樣各種極彩色狩野佳吉の畫家の筆なり)翠簾、屏風十雙、純子竪幕一對、ミニストル、レウヰス、カスへ下されの品々、鞍鐙(桐に鳳凰蒔繪)に目録を添へ、はた正興、をのれ、忠順より大統領へ贈る蒔繪火鉢三、同食籠一對ともに渡しける、とみに持行もせず、三四日其儘餝置て、士官男女日毎に來りていと珍しがりて見物し、新聞紙屋は其品を寫眞鏡にかけ、新聞紙に出し抔して後に大統領のかたへ送りしなり、かゝる品々大統領の所持にはならず、その事どもを記録して、百物舘に納る事のよし都て吏人へ贈りし品とても、大統領出して彼の舘に納る事とて、己がものにはならず、されば如何成品もワイフ(妻女のとなり)へとて贈れば、我ものとなるよしなり、かくてけふレウヰス、カフの招請なるが、兼て夜出行はせぬ國風なるよしを言けるが、とかく彼は夜陰をよしとし、今宵第九時(五ッ時なり)の招なれど、カスの事なれば斷もなりかねて、夜に入て、例のジュホント等の案内にまかせて、馬車に乗りて(夜はじめて出しが、車の前の方に硝子の燈籠二ッ有、往來は兩側五間置位にガスランプの燈籠有て、提灯を用ゆるをなし)カスの家に至る、さすが宰相の招なれば、いかなる禮かと思ひけるに、堂の入り口より、廊下も間毎に男女數百人たヾおし合い充滿して、ガスランプは天井に夥敷掲げ、金銀もて餝たる玻璃器はり鏡にかゞやきて白晝の如く、いとまばゆきばかりなり、こはいかなることかとあやしみけり。人をおしわけおしわけ一間に入ればカス出迎殊更に懇志の挨拶あり、孫女子供もとり〲出て手をとりたり、椅子にかゝりけれど、席中男女おし合いかはるがはる來りて手をとりて挨拶すれど、通辯も届かね、何か更にわからず、雑沓極りたり、ジユボンド手をとりてかなたへ案内するに、奥の一間に至れば、饗應の席と見へて大なる食盤に金銀もて餝たる中に旭章と花旗を建て和親を表する事とぞ、爰にて酒肉をすゝめけり。やがてまたあなたへ案内にて、行ば一席板敷をいと清らかにして、かたわらに「ミシユツキ」とて胡樂に胡弓よふのものを添へてはやしけるが、男は「イポレツト」付け太刀佩、女は兩肩を顯し多くは白き薄ものを纒ひ、腰には例の袴のひろがりたるものをまとひ、男女組合て足をそばたて、調子につれてめぐることこま鼠の廻るが如く、何の風情手品もなく、幾組もまはり、女のすそには風をふくみいよいよひろがりてめぐるさまいとおかし、是をダンスとて踊の事なるよし。高官の人も、老婦も、若きも、皆此事好でするよし、數百人の男女彼の食盤に行て酒肉用ひては、この席に來りかわりかわり踊る事とて、終夜かく興ずるよしなれど、をのれは實に夢か現か分ぬばかりあきれたるまでなり、ジユホントをそゝのかして、主に暇を告て客舎に歸る、凡禮なき國とはいへど、外國の使節を宰相の招聘せしには不禮ととがむれば、限なし、禮もなく義もなく、唯親の一字を表すると見て免るし置ぬ。女子は色白く艶にして美服に金銀を餝り、ことなる姿も見馴しが、髪の毛赤きは犬の目の如くにて興さめけり、稀に髪黑く目もまた黑きものあり、亜細亜の人種なるべし、そはおのづから艶に見ゆ。

 一二七、一三〇頁
 〇四月四日 晴
 江都在留のミニストルへ政府より便有とて告けるまゝ、此程御使の任はてゝ御條約も取かわせし事ども同僚に達する書翰認め、各萬里外に在りて恙なき事どもの家書も添へてジユボンドへ渡しけり(歸國の後今に此便届かずふしんなり)

 一四一-一四二頁
 〇四月四日 晴 ジユボンド、レツテヤルト金方の吏人等來りて、公事の談判有り、夕方第五時(七半時也)より故のコモドル、ペルリの聟なるセナート(官名)のものゝ家に招しといふ、けふは斷けれど、ペルリはめて我國へ來りしよしみも有、殊に大統領の縁家なれば、せちにすゝめけるまゝ正興、忠順ゆきたり。をのれは小恙にてゆかず、けふもダンスの催にて例の雑踏なるよしなり。

 一四八頁
 〇四月十五日 陰夕雨 正興、忠順馬を借りて我馬具を懸、野外に遠馬せんとて、リイ、ポルトル抔皆打連て、三里ばかり南なる別園に行てとく歸りたり、馬は大にして良馬多しと云。をのれは頃日齒痛に悩みければ行かず、學校、病院、幼園、獄屋までも見よといへど斷て、下司はた醫官を遣しける、話しを聞くに病院、男女席を分ち、男子には男子、女子には女子の看病人を添、數百人有といふ、

 一四九-一五〇頁
 〇四月十七日 陰 午後暇乞とて大統領の舘に行(何れも旅装也)、堂の正面より例の席に通れば、大統領はたレウヰス、カス外に高官の人四五輩出來せり、大統領、こたび御使の御禮懇切に述て横文を渡し、かくて滯留中待遇の厚き事共を謝しけるが、渠も念頃に挨拶し、歸航は合衆國第一の大艦ナイヤガラにて送るゆへ安心せよ、恙なく歸國を祝すとぞ。大君へ捧し品々はまだ整はぬとて、花鳥草木を畫し本を五册美事成る函に入たるを出して見せ、こは舶に送るといふ、正興、をのれ、忠順に金のメダイム(大統領の像を鋳出したる金錢よふのもの、經二寸五分、厚二分、目方百目にたらず、純金にて鑄たるものなり、)を美麗の二重箱に入たるを一づゝ贈りたり。かくて堂を出、國事館に至り、例の局にてカスに謝辭を述て暇乞すれば、森田行はじめ下司の人々へ銀のメダイム(金と、同じ)、家司從僕まで銅のメダイム(同上)一づゝ贈り、はた御國書の御返翰の寫とて見せけるまゝ、本書ををのれ等に渡されてしかるべしといへば、御返翰は必在留のミニストルをもて呈する國風といふ、されば御禮の使節をたてし心にやあらんと推はかりて諾したり(此御返翰は歸朝の後大城の造営成りて次の年二月十三日、在留のミニストル、とうせんと、ハルリス登城拜謁して、御禮を申上御返翰を呈したり)

 一六〇-一六一頁
 〇四月廿三日 晴 この頃齒の痛てなやみければ外へも出ず。正興、忠順は水車に物を制する所に行たり、けふの新聞紙とて通辯者の見せしが、聊我都府の事を記して有ければ、譯を聞けるに、心にかゝる事なれど、とふべき人もなく、打寄ては案事けれど、素より街説をしるして信ずるにもたらぬものと打捨ても、早春に我國をはなれてより、風の便りにだになければ、かゝる風説を聞ては、寝覺にかゝりぬ(こは推量てしるべを彌生のはじめの事也)。

(注)
 *
ウィキペディア「桜田門外の変」参照 安政七年三月三日五ツ半 - グレゴリオ暦1860年3月24日午前9時頃

NEWS BY TELEGRAPH.; THE CALIFORNIA OVERLAND MAIL. THREE DAYS LATER NEWS. HIGHLY IMPORTANT INTELLIGENCE. Settlement of the Chinese Difficulty with France and England. Assassination of the Tycoon of Japan.

SPRINGFIELD, Mo., Sunday, June 10
ASSASSINATION OF THE EMPEROR OF JAPAN.

引用・参照

https://www.nytimes.com/1860/06/11/archives/news-by-telegraph-the-california-overland-mail-three-days-later.html:https://timesmachine.nytimes.com/timesmachine/1860/06/11/78625821.pdf)

FROM WASHINGTON.; The Abuses in the Public Printing Department. Passage of the Post-office Appropriation Bill. THE POST-OFFICE AT LOUISVILLE. ASSASSINATION OF THE TYCOON--WILL THE JAPANESE DISEMBOWEL THEMSELVES? MAJOR BOWMAN AND THE NEW-ORLEANS CUSTOMHOUSE. THE RAILROAD THROUGH WASHINGTON. THE INSULT TO MR. SUMMER COL. FORNEY BEFORE THE COVODE COMMITTEE. PROBABLE SPEEDY ADJOURNMENT OF CONGRESS. THE COMPAIGN AGAINST THE INDIANS. DEATH OF GEN. JESSUE THE VISIT OF THE PRINCE OF WALES. THE FRENCH MINISTER. THE MEXICAN TREATY. MR. FAULENEE HOMESICK. AFFAIRS IN THE LAND OFFICE. THE POSTMASTER-GENERAL AND THE BUTTERFIELD MAIL COMPANY

WASHINGTON, Monday, June 11.
The rumored assassination of the Tycoon of Japan

引用・参照

https://www.nytimes.com/1860/06/12/archives/from-washington-the-abuses-in-the-public-printing-department.html
 *

 一六一頁
 〇四月廿六日 晴 金貨を造る官舎へ正興、忠順行たり

 一六六頁
 〇五月朔日(彼六月十九日) 快晴 午後一時此部落の公使へ正興、忠順下司を伴ひて行けるが、統領はた吏人等面會せしよし也、けふも一秡隊龍警衛を出したり、をのれは小恙にてゆかず。

 一八十二-一八三頁
 〇五月十三日 快晴八十三度 ジュボンド、リー、ポルトル等暇乞に來たり、さすが日數重し懇志なれば名残おしみつゝ別ぬ。午後一時に紐育港出船(蒸氣計りにて出る)炮臺にて御國旗を掲て祝炮打たり、やがて沖に出て

 あみりかの浦山遠くかえり見て
    御國にむかふ船出嬉しさ

 一九三-一九四頁
 〇六月十三日 晴南風七六度(北緯零度十七分三十秒東經一度十五分)百九十里
 今朝東半球に入る、紐育を出てはや三十日に成りけるが、ポルトガラン港は水さえなければ舟よせしかひもなく出帆せしことなれば、食物は乏しく我國より貯し味噌も醤油もとく盡て、いさゝかつゝ用ひし酒さへもなし、日毎にかつをぶしを削り、忠順の用意せし切干の大根に、いさゝかひめ置し醤油を點じて用ゆるまでなり、水も乏しくなれば從者などは茶さへ十分には用ひかねたる事なり、されば打寄ては食物の噺に成り、古郷に歸りての樂しみは味噌汁と香物にて心地能食せんとことをといへり。かゝる辛苦もあるに都下に美食して物好いふはつゝしむべき事になんありける、湯あみも三十日せねばそれ等はうしとも思はず成りぬ。

 二〇一頁
 〇六月廿四日 陰七十五度
 尾の長き猿の面色黑く奇獣なればとて、正興、忠順一疋つゝ買得て。舟中の慰に成しけり、をのれは青いんこの雛を一羽求たり。

 二四〇-二四一頁
 〇九月廿八日則廿七也 東をさして地球を一周すれば一日を増し、西をさして一周すれば一日を減ずと聞しが、今日御国に歸りて聞は廿七日也、されば一歳のうちに一日を得しは一生のとくなり、委しき事は航海者に尋ぬべし、けふは晴わたり不二は朝日にかヾやき、米人は珍らしき山とて望遠鏡もて詠めり、かくて五半時頃(是より我時を用ゆ)出帆して浦港の前を過ぎ、猿島の邊より風景いはんかたなし、此の春出航の心地とは大にかはり、心もうき立てかゝるうれしき事はふた度あらじと人々云いあへり。四半時頃横濱の沖にはし舟をおろし、下司を運上所へ遣し(定役一人御小人目附一人)所用を辯じ、家司も一人づゝ家にかえす、やがて御軍艦の當番の人々着の悦に來りて、はじめて江都の御静謐の事をはじめ、さまざまの事ども承りぬ、九半時横濱を出帆して八半時品川の沖に碇泊、四十里、香港より千七百十七里、惣里程二萬九千八百三十六里(我里法にして一萬四千九百十八里なり)。田町の波戸場に詰合ける下司來りて悦を述べ、またさまざま承り、安着せし事を同僚に達しける、神奈川へ遣せし下司來り、我國の食物携來り人々集りて食すれば、いずれも美味也、病後の渇の如し、今晩は皆うち寄さまざまの咄しにて心もうき立眠りにつくものなし、あくる間遅しとまちかねけり。

 二四一-二四二頁
 〇九月廿八日 晴 今朝品川より來り荷物など揚て後、御軍艦操練所より押送り形の御舟迎ひに來りければ、船將始士官等まで暇乞せしに、水夫等抔には涙こぼして名殘おしむもあり、さすが數月辛苦をともに航海せし人情はおなじ事也、けふは殊更に禮を整、胡樂にて送り、四半時御舟に乘移れば、水夫等は不殘帆桁に登り、船將始船上に出て冠物をとり、三度聲を發して別を告、祝炮十七發打たり、かくて八半時操練所に上陸して出帆以來畳の上に平座して再生の心地也。爰より供を揃へて九時家に歸れば、とりどり悦あへり、人々數多とひ來りてかゝる目出度事は世に稀なりとて祝しけり。

 二四二-二四三頁
 〇九月廿九日 今朝執政参政の方々をめぐりてとく西城に登り、櫻の間に閣老方列座、正興、をのれ、忠順一同にすゝみ出て御黑印御下知狀を返上、御狀約書差上、御諚の趣大統領へ申達し、御狀約爲取替相濟ける旨、正興言上して一同退座、かくて磐城侍從ひたしく航海の事ども聞れけるが、やがて御用部屋に出よとありて、三人一同出ければ、閣老参政の方々つらなりて、航海の辛苦をはじめ彼の國の風土人情憲法の事どもたずねられけるが、中々一朝に盡しがたければ、その要を摘で逃ければ、なを他日ゆるゆる聞れんとてしりぞきぬ、營中の人々とりどり珍ら敷事を聞かんととわれ、家に歸りても人々とひ來たり、おなじ事のみ數日かたりける。

 二四二-二四三頁
 〇十月朔日 九半時亜國ミニストル、ハルリスの宿寺麻布善福寺へ、正興、をのれ、忠順、森田行一同こ度使節の任さはりなく濟て歸國し、彼の國滯在中をはじめ、送迎船の厚き事まで謝辭を述ければ、いと悦たり、ナイヤガラの船將も來りて面會、數日の好意を謝しける。

 二四三頁
 〇十月四日 九半時ハルリスはたナイヤガラの船將コロネル士官十四人磐城侍從の邸に被招饗膳給はり、こたび送迎船の厚意を謝せられ、此春ポーハタンのコモドール始へ賜りし如く、大和錦などそのほとほどにかづけ給ふ。

 二四四頁
 〇十月五日 米利堅の政府より献貢の品々大森の町役場に陸揚げして、正興、忠順受取たり、をのれは西城に登りて、こ度彼の國にて旅宿を始め、惣じて賄送迎船の事は更なり、サンフランシスコにて咸臨丸修復せし入費も、渠より出しければ、都ての御謝儀として大統領へ遣わされ品々を取揃へ、大廣間にて上覽あり、かくて荷造して船に送る事どもをあつかひたり、

 二四五頁
 〇十月七日 閣老方より彼の國外國事務ミニストル(官名)レウヰス、カスへ御謝辭の御書翰幷大統領へ遣わされ品の目錄、成瀬正典(組頭)曉よりナイヤガラ船に持行て船將に渡し、はた海氣二疋船將へ、同一疋づゝ士官十三人へ、正興、をのれ、忠順より贈り、をのれ等も船に行て謝するはづなれど、公務しげくして暇なければ、心ならねど正典もて謝辭を述させける、かくて九半時ナイヤガラ船は品川沖を出帆したり。

 二四五-二四六頁
 〇十月十五日 殊更に西城にのぼり、正興、をのれ、忠順順々に御白書院の庇にはひ出れば、越中守貞明朝臣(奏者番牧野)名披露あれば、關宿侍從亜米利加國より罷歸りしよし言上ありて御懇の上意を蒙りありがたき旨御取合つて、退り出ぬ。

 二四六-二四六頁
 〇十月廿日 正興、をのれ、忠順一同に御座間へ召出され、彼の國の事をはじめ、海外の事情を聞し召され、御懇の上意を蒙りて、御前をまかりければ、御次にて丹波守道弘朝臣(平岡御側御用御取次)こたびは格別骨折けるゆへ、思召をもつて御小刀柄賜りけるよし傳られて、御品をかづけらるれば、御前を拜して退き、やがて折紙をも賜りける、正興へは金三疋馬御小刀柄(金裏哺壽乘作四郎兵衛折紙代金二枚三兩)をのれへは金這龍御小刀柄(金裏哺延乘作折紙同上代金二枚)忠順へは色繪三疋馬御小刀(金裏哺作折紙同上代金一枚五兩)丹波守道弘朝臣に御禮を申上、關宿岩城の兩侍從へも申上げたり、かゝる恩賜は表方の有司には例しなき事なれば、いとかしこき事になんありける、されば函など造りてそのよしを記し永く子孫に傳へて家の重寶とはなしけり。

 二四七頁
 〇十月廿四日 岩城侍從の邸へハルリス参上、大統領より献貢の品小銃一挺を出し(外品々は席へ出さず)目錄の譯左の如し、

 二五二-二五四頁
 〇十二月朔日 おもひきや大城にぼるべきの奉書賜りけるまゝ朝とくもうのぼりければ、正興、をのれ、一同に御座間の庇にはい出れば、亜米利加國へ御使として遣はされけるが、格別骨折り相勤むるに依て、三百石づゝ御加増賜るよし。
上意を蒙る、次に忠順出れば、同じ御使の立會として遣はされけるが、格別骨折相勤けるによつて二百石御加増賜りける
上意を蒙りしとぞ、月次御禮も濟て、芙蓉間にて同じ御用骨折勤るによつて黄金時服賜はりけるよし、執政の方々並居て關宿侍從傳へらる(正興、をのれ金十五枚、時服四づゝ、喜毅、忠順十枚、時服三づゝを賜る)また新番所前なる溜にて、をのれ取來る歳俸二百苞を地方に直し賜はるよし、同じ侍從傳へらる、はた喜毅には殊更に月俸二十口を賜はり、森田行下司の人々そのほどほどに月俸を一生之内賜り、黄金時服など賜はりける、けふかゝる御惠を蒙りしは夢にやあらぬかと、つらつらかへり見れば我祖父君、歳俸百苞の家督をつぎ給ひ大司農にまで進みて希なる君寵を得給ひ、千二百石までの恩波に浴し給ひ、其時をのれまで新に召出されて月俸二十口を賜はりしが、僅か三十年の間四方に奔走すれど、何の寸効もなく、終に例なき使命を蒙り、神と君との御惠にて恙なく歸國せしは僥倖といふべし、しかるに新に五百石の采地を賜りけるは、積善の餘慶なるべしと、かしこさは筆にも詞にも盡しがたし、素よりをのれは不肖短才なれば、かゝる御高恩を報すべき事もならねば、子孫のうちに心あるものは忠勤して報ぜよかしとおもふのみ、

   異國の灘のりこへて五百重波
      かゝる惠を代々にあふがん

 淡路守源範正

 257-264頁
 蔓延元年第一遣米使節日記補遺

           芝 間 㟢 吉 編述

 第一章 使節派遣の次第及一行姓名行裝

 人文未だ普及せず、僅かに長崎長崎の一港によりて海外の消息を聞くの外なかりし幕府は、姑息なる鎻國の迷夢深うして先覺の志士高野長英を殺し渡邊崋山を自盡せしめてより幾何ならずして、黑船來の聲に驚かされ上下錯愕殆んど策の出づる所を知らず、海内鼎沸物情恟然、當時の志士若しくば識者と稱する者皆敢て消極的なる野郎自大の態度を取り、濫りに剣を按じて鎻國攘夷を唱ふる際、米使の強要に餘儀なくせられ止むことを得ずして條約の締結を諾し、之が談判を遂行する時に方り突如として日本より特使を派遣し、對手國に於て條約本書交換の提議を敢行す、當時局に當れるハルリスならざるも誰か一驚吃二驚吃なからざらん、今日より当時を想望すれば實に非常の英斷として嘆賞措く能はざるものあり、事は如何にして行はれたるか、左に談判會議祿に就いて關係條目を抄出す。

 安政四丁巳年十二月二十三日於蕃書取調所井上信濃守、岩瀬肥後守亜國公使ハルリス應接書中談判最後の箇條、
 一、條約之儀に付其國より使節差越候事此節共都合三度に有之、就ては此度取極候條約之本書は當方より使節被差出華盛頓府に於て爲取替候而は如何可有之候哉。
 一、至極宜御座候、彌御治定に候得は其段條約書へも認加申度、得と御勘考之上尚可被仰下候、右様相成候得は私之洪福無此上、國を御覽に入候丈も難有儀に御座候。
 一、何れ勘考之上治定之儀尚可申入候。
    十二月二十五日 同上末尾

 一、過日申入置候條約本書爲取替之儀は彌當方より使節被差遣、於華盛頓府取替候事と治定致し候。
 一、左候はヾ拾六ケ條之文書左之通取直可申候、此條約は我主の年千八百五十九年年七月四日より取行ふべく其日若しくは其日之前に其條約は華盛頓に於て取替すべし若ある不越次第に而本條約其時前に取替す能はずとも此條は吃度上に掲げたる日より用意すべし。

 即ち見る。阿部正弘逝いて殆んど統率者なかりし幕閣の下に於て此事ある、更に一段の珍奇を添ふ、是實に當時開國論者中錚々の目ありし井伊直弼の上書に基くものにして、前年ペルリに随行を求めて刑せられし吉田松陰の事に刺激せられたるを必とせざるも、當時に在りては實に破天荒の提議とは言はざるを得ず、殊に其上書中任務の重大なるを述べて、使節の人選を有司の投票に依らしめ將軍之を任ずべしとなせるが如き、今日に於ては他の奇なきも、専制服從を金科玉條となせる幕府の末年に於て此事ある更に珍とべし。
 右の如く條約談判に於て使節派遣の議を決し、次で護送軍艦其の他のことに就き種々評議を擬せる間に、翌安政五年四月に入りて建白書の井伊侯大老の印綬を帶ぶることゝなり、次で其異見に從ひ、諸有司をして投票せつめしに衆望多く外國奉行水野筑後守に集まり、永井玄蕃頭は長大なる意見書を附して自撰投票を行ひ、次で其の任命を見たり、古記に左の辭令案を載す。

  安政五年七月六日
  御條約爲取替之爲亜墨利加國江被差遣

       外國奉行
          水 野 筑 後 守
          永 井 玄 蕃 頭
       御目付
          津 田 半 三 郎
          加 藤 正 三 郎
  同年八月二十五日同人等に對し出發の用意を申付けたり
  井伊大老及上總守列座

 當時正使は十萬石の諸侯の格式を以て一切の行裝を整え、安政六年初春出發の豫定にして、随員多きにより米國の軍艦に坐乘せず、別に汽船を仕立つるの考案なりしが、翌六年二月に入り副使永井玄蕃頭は繼嗣問題に依り、貶されて軍艦奉行となり、加藤壹岐守之に代はれるも、次で外國奉行兼神奈川奉行水野筑後守は浪士の横濱に於て米人を殺せる際に於ける體度によりて米使の激怒を買ひ、同人の派遣を中止するの止むなきに至り、終に其の八月を以て水野は軍艦奉行に加藤は小普請に左遷せられ、茲に全く顔觸を新たにして新見村垣一行の任命を見たり。
 此任命の由來を繹ぬべき文献に接せざるも、直弼の特に人物に重きを置きたる前例に徴し、渠が十分の考覈を經たる後に於てなされたるを疑はず、新見正使の温厚にして堂々たる風丰有し、細節に拘々たらずして統御の才を具ふる。村垣の細心綿密にして世故に達せるに配するに、機略縦横剛愎自ら恃む小栗忠順を以てす、其膽識に至りては蓋し甲乙なからん、懐徃事談記す處の如きは其風丰の大體を窺ふに足るも、惟ふに其好む處に偏したらん歟、之を要するに其人選克く幕府の末年を錺るに足るものあり、實に前代未聞の事に任じて敵とも味方とも思ひ煩はるゝ外國に到る、條約書の交換是のみと言はヾ一言に貶し去り得んも、國威の重きはその双肩にあり、若し一擧止を過らんか其の影響決して一身に止まるべからずして誠に凡庸の能くする處ならず、而かも克く其任務を遂行して次章の覺書を大統領に得何等拘束せらるゝ處なき自由の天地に住む米國人をして推服賞賛の辭を惜しましめざりし事實に顧りみ、米國人の寛厚克く我を容れしを喜ぶと共に、使節の行動に何等議すべきものなく、爾後米國人の我を視る一片輕侮の意なかりしに鑑み、兩者の誠意茲に合致し敦厚なる國交の基礎此時に築かれたるを慶賀し、一行の勞を多とせざらんと欲するも能わず、之を米國人の志那人に對して取り來れる態度其他に参照せば蓋し思半ばに過ぐるものあらん。
 一行の行裝は總て十萬石の格式を以てせんと決し居たること前に記す處の如くなるが米使の切に其軍艦を以て送迎せしめんとするの勸告點止難きと、我に多數の一行を搭乗せしむべき滊船なきを以て一行の人員を減じ行裝を簡にして、安政七年正月十八日迎の爲に特派せられたる米國軍艦ポーハタン(安政六年九月十三日横濱着)に乗込めり。

 左に使節一行の姓名及乗込の行列順序を擧ぐ
 一、使節一行姓名(日記によりて姓名に多少の相違あるも諸書を参酌して左に錄す)
 (以下、正使、副使と続くが小栗豊後守忠順他は略す)

 266頁
 監察 小栗豊後守忠順 三十二才
            用人  吉 田 好 三 信成 三十五才
            給人  塚 本 眞 彦 勉  二十九才
                江 幡 祐 造 尚賢 二十九才
                三 好 權 三 義路 二十四才
                福 島 惠 三 郎 義言 十九 才
    (熊本)         木 村 鐵 太 郎 敬直 三十一才
                三 村 廣 次 郎 秀清 十七 才

    (上州權田)       佐 藤 藤 七 信有 五十四才
    (攝津)         木 村 淺 藏 正義 二十六才
 270-271頁
 總人數七拾七人

 軍艦乗組順序

 (新見豊前守の行列、村上淡路守の行列、次に小栗豊後守行列と続く、小栗豊後守の行列を挙げる。)

 小栗豊後守行列
  先徒三人
  鎗 貮本
  具  足
  馬上に而、侍六人

 278-279頁
 四、御黒印蘭文譯(御用留原文の儘)

       定 書
 本條約書を華盛頓に持行かん爲め汝義彼地に送り其條約書を取換ん事を汝に命ず、且萬事念を入れ國體大切に勘考して兩國の和親永く連綿する様取計ふべし。
 汝連行く處の役人並下々のもの共船中及び陸にても不取締の事を爲ば急度戒しむべし故に汝平常夫等の事無きよふに心附くべし
 若し日本漂民ありて日本に歸る事をわば合衆國の政事役人に告知して連歸るべし
 安政七年正月十六日  御印
               新見豊前守
               村垣淡路守 江
               小栗豊後守

 371頁
 第五章 序を以て取調の事項

 一行の任務は本條約書交換を主とせるは勿論なるも、特使派遣の他の眼目は邦人をして親しく外國の一般文物制度に接觸して視察調査せしむるにありたるは井伊の上書に明可なり、就中最も重要視したるは金銀比價の問題、及税關制度の調査に在りたるが左に本文所々散見する金銀問題の關係を村垣の私乘より採錄して参考に供す。(關税問題に關しては調査書の交付を受け多くの交渉なきを以て略之)

 375-377頁
 四月二十三日快晴
 一、レウヰスカスより金貨之儀に付返書並金座調書とも來るジユポンドより受取る。

 四月二十五日快晴
 一、金座役人來る品々談し有之。

 四月二十六日快晴
 一、金座江新見小栗行、金貨分析有之委細別に記す。

 四月二十七日晴
 一、夕刻金座頭役來る新小面談、
   小判の純金
     五百七十分
     五百七十一分 平均して同七十一分三二二二
     五百七十三分

 右者凡三トル六十セン一分判九十セント之比較に該決 致す。右之趣彼の方よりもカス江申遺し候趣に付き此方よりも申遺す積り。

 五月五日晴
 一、ヒルトルヒヤ金座役人よりワシントンに申立之金藏方ミニストル書翰ジユポンドへ向來る別に仕譯書付は此方へ向來る。
 右に而小判三トル六十セント、一分九十セントに極まる。

引用・参照・底本

『万延元年第一遣米使節日記』 日米協会 編 (日米協会, 1918)
(国立国会図書館デジタルコレクション)